ミズワタリの伝説2 居待月 ◆あらすじ 受験と部活の板挟みで苦悩していた少年、椿佑司は偶然とある新聞記事を見つける。記事の内容を頼りに、佑司は街を飛び出し、遠く離れた渡利村を訪れた。そこは幼い頃、佑司がキャンプで訪れた村だった。 友人、小野田満月に再会し、佑司は村に伝わる伝説の存在、ミズワタリを探し始める。 村に来た最初の夜、佑司は謎の少女、黒井さつきに出会う。佑司と同様ミズワタリを探すさつきは、記事の筆者である潮瀬が二年前行方不明になったことを告げる。目的の一致から協力することになったさつきと佑司は、潮瀬の家の前で川を走る不思議な生き物を目撃したのだった。 ◆登場人物 椿佑司(つばき ゆうじ) 東京に住む中学三年生。家出してミズワタリを探している。 小野田満月(おのだ みづき) 渡利村の中学三年生。佑司の友人だが、再会した彼に冷たい態度を取る。清という弟がいる。 黒井さつき(くろい さつき) 潮瀬源の後継者を名乗る謎の少女。ミズワタリを探している。 潮瀬源(しおせ げん) 渡利村の民俗学者で、佑司が見つけた新聞記事の筆者。 二年前ミズワタリを探して行方不明になった。 (六年前:渡利村のキャンプ) ・ウメボシ 佑司のキャンプネーム ・マンゲツ 満月のキャンプネーム ・カマクラ チームリーダーで唯一の大人 ・ミヤ、ナシ 六年前のキャンプの参加者 渡利村...ミズワタリの伝説の残る山間の村。水神川を中心に集落が形成されている。 ミズワタリ...渡利村に伝わる伝説の存在。迷える者の前に姿を現し、進むべき道を示すと言われている。 2 「ウメボシィー! マンゲツー!!」 暑い夏の日差しはとうに山の奥へ隠れ、肌寒さを感じる、そんな時間帯。真っ暗な森の中をオレとマンゲツは歩いていた。そんな中、突然聞こえた声だったから、オレたちは驚きの余り、持っていた懐中電灯を落としそうになった。 「だ、誰だ!?」 オレたちは懐中電灯を、四方に向け声の主を探す。 茂みの中から、飛び出してきたのは、キャンプメンバーの一人、ミヤだった。 「ミヤ!? どうしてこんなところから」 マンゲツの言葉に、木の葉と泥でぐちゃぐちゃになったミヤが泣きそうな顔で訴えた。 「ナシと......ナシとはぐれたんだ!」 驚いて、オレとマンゲツは顔を見合わせる。 渡利村でのサマーキャンプ二日目。オレたちはキャンプの目玉イベントの一つ、肝試しの真っ最中だった。 ミヤとナシのペアは、オレとマンゲツの前に森に入ったはずだけど...... 不安そうなミヤの肩に手を置いて、オレは笑顔を作ってみせる。 「わかった。オレたちは、ナシを探してくる! お前は、カマクラにそれを伝えてきてくれ!」 「大丈夫か? ウメボシ......」 「二人で探すから大丈夫だ! 行こう、マンゲツ!」 マンゲツは頷き、オレたちは茂みの中に飛び込んだ。 ナシはなかなか見つからなかった。 「おーい! ナシー! ナーシー!! いたら返事してくれー」 しばらく森の中を探していると、少し遅れてついてきたマンゲツが困ったように口を開いた。 「ねえ、ウメボシ。ここはどこかな......?」 「そんなの知らねぇよ。オレ、この森に詳しくねぇもん。マンゲツ、知ってんだろ?」 マンゲツはふるふると首を横に振った。 「だいぶめちゃくちゃに歩いたもん。ぼく、ここがどこかよく分からないよ」 背筋に何か冷たいものが通り抜けた。 「それって、まさかオレたちも――」 「迷った、みたい......」 「ナーシー! ミーヤー! カマクラー! 誰でもいいから返事してくれー!」 真っ暗な森の中を歩いていく。後ろでマンゲツがぐすぐすと泣いていた。 「もー! 泣くなよ、マンゲツ!」 「このまま誰も見つけてくれなかったらどうなるのかな......? ぼくたち死んじゃうのかな」 オレがわざと考えないようにしていた不安を、マンゲツが次々に言葉にするから、こちらまでくじけそうになる。 「大丈夫だって! カマクラがいるだろ? カマクラ、めっちゃこの山のことに詳しいって、マンゲツもミヤも言ってたじゃん。オレたちが迷っても、きっとカマクラが見つけてくれるよ。だからもう泣くんじゃねえよ」 オレたちのグループの唯一の大人、カマクラはものすごく頼りになる。ほかのグループが苦戦してる薪割りや火起こしだって、あっという間に終わらせちゃうし、森で出会った動物や虫の名前を一つ残らず全部答えてみせる。きっと今回だって、あっという間に見つけてくれるはずだ。 「そうだね。きっとカマクラが見つけてくれるよね......」 マンゲツはぐいっと、涙を拭って笑った。 そしてまたしばらく歩いていると、またどこかで、ぐすん、ぐすんとすすり泣く声が聞こえた。 「また、泣いてんのかよ、マンゲツ。泣き虫だなぁ」 「それ、ぼくじゃないよ?」 「え?」 振り向くとマンゲツはきょとんとした顔でこちらを見ていた。その顔に涙は浮かんでいない。 「じゃあ、この泣き声はまさか......」 声のする方に、茂みを掻き分けると、倒れた木の上に座って女の子が泣いていた。 「ナシ!」 オレの声に、泣き声がピタリと止む。 「だ、誰......?」 少女は、不安そうにあたりをきょろきょろと見回す。 「オレたちだよ。ウメボシとマンゲツ!」 オレたちの姿を見て、ナシの顔がぱっと輝いた。 「二人とも! 助けに来てくれたの!?」 笑顔で駆け寄ってきたナシに、オレたちは曖昧に笑ってみせる。 「それが、さ」 「?」 「オレたちも迷っちゃったみたいで」 暗い森の中で、ナシの笑顔が引きつったのが分かった。 「ナシは大丈夫か、怪我とかしてないか?」 ナシは、「大丈夫だよ。歩き疲れて座ってただけ」と笑ったが、その白い肌には細かい傷や汚れがたくさんついていた。 「......私ね、ミヤといっしょにいたんだけど、おばけにびっくりしちゃって、ミヤをおいて走り出しちゃった。気づいたら、周りにミヤもおばけ役の人もいないし、そこがどこだか分からなくなっちゃって......」 ナシの瞳にまた涙が浮かぶ。 「ミヤは無事かなぁ」 「きっと大丈夫だと思うよ。オレが、カマクラのところに行けって伝えておいたから」 ナシは「そっか」と安堵したように目を細めた。 「ミヤの心配より、ぼくたちの心配をしよう。このまま森から出られなかったら、折角ナシを見つけたのに、笑えないよ」 マンゲツの言葉にオレたちは頷く。 「――ねえ、何か聞こえない?」 そう言ったのはナシだった。 オレたちは、口を閉じ、夜の森に耳を澄ませた。 「ほんとだ......」 マンゲツが呟く。 オレにも聞こえた。木々がざわめく音に混じって、とても小さいけれど、これは...... 「水だ、水の音が聞こえる!」 オレたちは顔を見合わせる。 「川が近くにある!」 川を下れば山を下りることができる! オレたちはそう確信して、音のする方へと駆け出した。 随分歩いたような気がする。オレたちがその音の出所を見つけ出したのは、音を聞いてからかなりの時間が経った頃だった。 木々の隙間から、岩場が見え、やがて沢を見つけた。 沢へ駆け出すオレの後ろで、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、ナシが口を開いたのが分かった。 「森に一人でいた時ね、すごく、すっごく怖かったの。でも、二人が来てくれたからね、すっごく嬉しかったんだ。ありがとう」 胸の奥が何だかとてもくすぐったい気持ちになった。 「行こう、二人とも。きっともうすぐ帰れるよ」 沢にたどり着いたオレたちはそこで不思議な何かを目にしたのだった。 それからのことはあまりよく憶えていない。ただ、オレたちが川を下って神社の裏にたどり着いたころには、もう夜が明けようとしていた。 キャンプに参加していた面々は、安堵と喜びでオレたちを強く抱きしめ、ミヤは何度も何度もナシに謝っていて、キヨも大泣きしながらマンゲツに抱きついていた。 ただ当のオレたちは何だか、夢でも見ているような気分で、ただぼんやりとその光景を見つめていた。 「もしかしたら、お前たちはミズワタリに会ったのかもしれんなぁ......」 カマクラは顎髭を何度も触りながらそう言った。 「ミズワタリ?」 騒ぎが落ちつき、キャンプ最終日の昼ご飯。車座になって村の大人が作ってくれたカレーライスを食べていると、カマクラが聞き慣れない言葉を発した。 「あ、それ俺聞いたことある」 「ぼくも!」 そう言ったのは、渡利麓の村出身のミヤとマンゲツ。 「私はないよー。それって何なの?」 ナシも首を傾げた。 「この村じゃ有名な言い伝えさ。『ミズワタリ 求める者には現れぬ 迷える者に現れる――』。お前たち神様みたいなのに会ったんじゃないのか?」 オレとマンゲツとナシはそろって首を傾げる。 「会ったような気もするし、会ってないような気もする」 カマクラは「何じゃそりゃ」と大げさにコケた。 「でも、川なんか全然近くない場所で水の音を聞いたって言ったろ? それはやっぱり普通じゃあり得ないことなんじゃないか?」 マンゲツがあまり自信のなさそうな顔で答える。 「歩いた時間が長く感じてただけで、ほんとはそんなに遠くなかったのかもしれないよ」 「なんでそこ、異様にネガティブなんだよ」 でも、マンゲツの言いたいことなんとなくオレにも分かるんだ。三人一緒に同じ体験をしてるはずなのに、なぜだか思い出せない。もやがかかったみたいに、自分の記憶に自信がない。 「ま、三人とも助かったんだから結果オーライってことよ。お前たちよく頑張ったな」 そう言って、カマクラは大きくてごつごつした手で、オレたちの頭をぐりぐり撫でた。 「もちろん、ミヤも。一晩中心配してたもんな。よく頑張った」 撫でられたミヤは感極まったような顔をしていて、 「ミヤはいつもぼくのこと弱虫だってバカにしてんのに、案外泣き虫なんだねぇ」 「うるせぇ、マンゲツ!」 あまり冗談を言わないマンゲツに、珍しくからかわれていた。 「どんなに怖い経験だって、乗り越えれば貴重な財産だ。四人とも、今日のことは忘れるんじゃねえぞ」 そう言って、カマクラは空を見上げ、太陽に目を細めた。 「ミズワタリに会えた、なんていう唯一無二の経験は、な――」 * 「ユージー、起っきろー!!」 襖を勢いよく開ける音がして、何かがオレの上に飛び乗ってきた。 「う、ううん......」 寝ぼけ眼で布団に潜り込もうとすると、「清、どいて」と声がした。 オレの上にかかる重みがふっと軽くなったと思ったら、次の瞬間布団をめくり取られた。 「寒いっ!」 そう言って飛び起きたオレの視界に入ったのは、無邪気に笑う清の顔と、布団を持って呆れたように立つ満月の姿だった。満月はオレの方を見て、何事もなかったかのように言う。 「おはよう、佑司くん。朝ごはんだよ」 なかなかアグレッシブな起こし方をしてきた割には、なんてドライなんだ。 小野田兄弟は、そのまま居間へと姿を消してしまう。 オレはキョロキョロとあたりを見回した。 そうだ、オレ渡利村に来たんだっけ......。 ミズワタリを探すために、小野田家に泊めてもらったことを思い出す。 山奥の朝は、夏が近いというのに随分と冷える。靴下を履いて、障子を開いた。 久しぶりにこの地を訪れたからだろうか。随分懐かしい夢を見ていた気がする。 六年前のキャンプの時の夢。 夢で見て思い出した。オレ小さい頃にミズワタリに会ったことがあったんだ―― そしてあの場には満月と、ナシという少女もいた。 もしかして、満月もミズワタリについて、オレの忘れたことを覚えてるんじゃ......。ミヤやカマクラが今どこにいるかも、満月なら知っているかもしれない。 ナシは――村の外から来たあの少女は、キャンプのあとどうなったのか。オレは全くその後のことは知らなかった。 顔を洗って居間に行くと、炊き立てのご飯の香りが鼻を包んだ。 ちゃぶ台にはすでに朝ごはんが配膳されていて、三人がオレの到着を待っていた。 オレが座ったのを確認して、合掌してそれぞれが朝ごはんを食べだした。 家族全員でご飯を食べるスタイルは未だに慣れない。休日の朝なんて、オレいつも昼までベッドの中なのに。 小野田家は白ご飯と、味噌汁、焼き魚にお豆腐という典型的な日本の和食スタイルだ。 昨夜の晩御飯が早かったせいもあって、お腹がすいていた。オレは、掻き込むように朝ごはんを口に入れる。 夢中で食べるオレの横で、不意に満月が「ねぇ」、と口を開いた。 「佑司くん、昨日の夜どこかに出かけなかった?」 思わず、ご飯が喉に詰まりそうになる。 激しくせき込みながら「ど、どこにも行ってないけど!?」と咄嗟に下手なウソをつくが、なおも訝しげな目を向ける満月。絶体絶命のオレに助け船を出してくれたのは、意外なことに清だった。 「夜中に外出たらなんかまずいことでもあんの? 別にドロボーとかフシンシャとかいないじゃん。この村」 「そうだけど......」 ナイスだ清、満月が黙った! 心の中でオレはガッツポーズをする。 「別に出かけてもいいけど、うちの近く用水路とか田んぼが多いから気を付けてね。真っ暗だから、溝とかに落ちると危ないし」 「はい......」 仰る通りで。 昨晩、電話ボックスから帰る途中に、田んぼに片足を突っ込んで泥まみれになっのだ。もしかして、もう泥のこびりついた物干し用サンダルを見られてしまったのだろうか。後で洗おうと思ってたのに......。 「そ、そんなことよりさ、満月! お前、梅干しとか漬物とか食べられるようになったんだな! この前まで全然食べれなかったのに」 話題を逸らそうと、満月の茶碗にのった梅干しを示す。 「この前って......」 怪訝な顔をして、満月は梅干しを口に運ぶ。 「もう六年も昔の話でしょ? ぼくだっていつまでも子供じゃないんだから、梅干しくらい食べられるようになるよ」 「そっか......。そうだよな」 そう言って笑おうとしたが、内心なんだかとても寂しい気持ちになって、すぐに笑いは止まってしまった。 昨夜の夢で見た満月。弱虫で、それでいて冷静で、オレの無茶に付き合ってくれた。そんな満月はもうここにはいないんだろうか。 「あ、あのさ、満月。ちょっと訊きたいんだけどさ」 顔色を窺うように満月に声をかけると「ん?」と表情を変えず、満月は返事をした。 「ミズワタリって憶えてるだろ? ほらキャンプの時にカマクラが話してた......」 「ミズワタリなら――いないよ」 オレの声を遮った満月の言葉は、押し殺したように低い声だった。そこに宿る感情が怒りか、動揺か、それとももっと別の感情なのか、オレには分からない。 「いないって......。だってお前もあの時......」 「幻でも見たんじゃない? ミズワタリは存在しない。ただの幻想だよ」 「満月、やっぱお前なんか変だよ! オレたちは確かにあの時......!」 「約束したよね、ぼくに迷惑かけないって。......ごちそうさまっ!」 満月は力強く、机をたたいて立ち上がった。 「もういいのかい。まだ残ってるよ......?」 おばあちゃんの心配そうな声に、満月はぶっきらぼうに答える。 「もう、お腹いっぱいだから。......図書館、行ってくる」 そう言って、満月は部屋から姿を消した。 豹変した満月に、何と声をかけていいか分からず、オレたちはただ見送ることしかできなかった。 居間に気まずい沈黙が流れる。 「なんか、すみません。オレ、あいつを怒らせちゃったみたいで......」 オレの言葉に満月のおばあちゃんは優しく首を横に振った。 「気にしないでください。あの子ももうすぐ高校受験ですから、いろいろと微妙な時期なんでしょう」 「あいつは、一体何にあんなに怒っていたんでしょうか?」 おばあちゃんは少し寂しそうに微笑んだが、答えてはくれなかった。 「佑司さん。もしもミズワタリのことについて知りたいのでしたら、ばあさんの昔話に少し付き合ってくれませんか?」 「ミズワタリについて知ってるんですか?」 おばあちゃんは柔らかく頷いた。 「もう何十年も昔の話になります。わたしが今の清と同じくらいの歳の頃だったでしょうか」 「おれと?」 「ええ。あれはある年のお正月。年が明けてすぐの真夜中のことでした。わたしが幼い頃は、村人のほとんどが山に登り、初日の出を拝むという風習がありました。わたしたち家族も、除夜の鐘が鳴り終わった頃から家を出て、水渡神社の裏から山に登り始めたんです。しかし、まともな明かりなんてない時代ですから、山を登っている途中に家族とはぐれてしまったんですね」 山で迷子になる......オレたちと、同じだ。 「夜の森は真っ暗で、おまけに真冬でしたから凍えるように寒くて。普段よりは山にたくさんの人がいたはずなんですが、どこをどう歩いたのか、まったく人と会わないんですよね。そうして、一人冬の森の中を彷徨っていたら、突然蛍を見つけたんです」 「蛍?」 「ええ。もちろんなこんな季節に蛍なんているわけはありませんし、今思えば、誰かの持っていた明かりと勘違いしていたのかもしれません。でもその光は、点いたり消えたりしながらわたしをどこかへ導いているんです。それを追いかけて、山を登っていったら、ついに森が開けて家族たちのいる、頂上へとたどり着いたんです」 オレの体験とよく似ている。まるで夢のような話。 「オレも山で迷っていた時に、不思議な体験をして山から出れた経験があるんです。......今の話ととても似ていました」 「そうですか」 「おばあちゃんは、ミズワタリに会ったことはないんでしょうか?」 おばあちゃんは少し困ったように笑う。 「そうですね。もしかしたら、あの時会っていたのかもしれませんが、よく憶えていないのですよ」 同じだ、オレと。 「『ミズワタリ 求める者には現れぬ 迷える者に現れる――』。ばあちゃんは、迷ってたんだから、やっぱりミズワタリに会ったんじゃねぇの?」 「そのフレーズ......」 清の言葉にオレはハッとする。確か同じ言葉を、カマクラが言ってたような。 「これはよくお村の祭りなんかで聴く言葉だよ。多分村の人なら誰でも知ってるぜ」 「そうなんだ」 おばあちゃんがオレの様子をみて口を開く。 「佑司さん。もし、ミズワタリの伝説について詳しく知りたいのでしたら、役場に行くといいでしょう」 「役場?」 「図書館も併設されてますし、きっと詳しいお話が聞けると思いますよ」 おばあちゃんはそう言って、役場への行き方を簡単に説明してくれた。 「わざわざ遠くから来てまでミズワタリについて知りたいと思っているのなら、きっとあなたにはどうしても会いたいという理由があるのでしょうね」 おばあちゃんは、その理由を深く聞いてこようとはしなかった。 「ばあさんは、佑司さんが自分自身の答えをワタルことができるよう祈っていますよ」 「ワタル」......? 不思議な響きだった。もしかしたら「ワカル」と言い間違えたのかもしれない。オレは深く考えず、おばあちゃんに向かって大きく頷いた。 満月のこと、潮瀬さんのこと、さつきのこと、もちろん東京のことも。考えなければならないことはたくさんあるけれど、おばあちゃんの優しい言葉にほんの少しだけ安心感を覚えた。 役場は、学校の川を挟んだ向かい側。この村の中心部を通るのも四回目なので、さすがに慣れてきた。川を下って役場へ向かう間、オレの心配事はただ一つ。 「満月も図書館に行くって言ってたよなぁ......」 満月に会いに行くのではないとはいえ、あのやり取りの後で、一人で会いに行くというのもなかなかに気まずい。 だけど迷っていても仕方がない。腹をくくって役場への道を急いだ。 役場は、土曜日なので閉まっていたが、併設された図書館には入ることができた。 図書館といっても規模はあまり大きくない。学校の図書室の数倍ほどの広さしかなかった。 休日だというのに、図書館にあまり人気はない。絵本コーナーにいる一組の親子と、カウンターに若い男性の職員が一人。そして窓際の閲覧用の机に、 「――満月」 満月は、どうやら一人で勉強しているようで、こちらには気づいていなかった。 「見ない顔ですね」 不意にオレに声をかけて来たのは、男性の職員だった。二十代後半くらいの痩せた男性は、眼鏡とエプロンを付けた真面目そうな感じの人だった。 「えっと......」 オレが、男性と目を合わせると、彼は少し戸惑ったように、 「いえ、この村の人の顔は大体知っていると思ったので......。もしかして村外からの方?」 「あ、はい。東京から来ました。椿と言います」 「これはご丁寧に。渡利村図書館の渡邊です。こんな小さな図書館に何か御用ですか? なにかお探しの本でも?」 渡邊さんが親切そうな人でほっとする。 「えっと、渡邊さんは『ミズワタリ』についてご存知ですか? オレ、ミズワタリについて調べているんです」 彼は眼鏡のブリッジをくいと上げ、口を開いた。 「そうですね。私からお教えできるのは、この村の誰もが知っているような昔話だけですが」 「昔話?」 渡邊さんは「少し待っていてください」行って、役場の玄関に行って、案内のようなものを持って戻って来た。それは、渡利村の観光パンフレットだった。 「この村では有名な話ですからね。パンフレットにも乗っているんですよ」 そう言って開かれたパンフレットには、『渡利村の歴史 ~渡利村とミズワタリ伝説~』と書かれた欄があった。 昔々、まだこの村に渡利村という名前の付いていなかったくらい昔のこと。その小さな村で大飢饉が起きた。夏の間続いた猛暑による干ばつで、村の小川は枯れ果て、作物はすべて死んだ。村では赤子が死に、老人が死に、やがて大人も死んでいった。 ある日のことだ。死を覚悟した村人たちの前に、突然小さな水たまりが現れた。不思議に思った村人たちがその水たまりの周りに集まると、少し離れたところに再び水たまりができた。村人たちが新たな水たまりに近づくと、またその先に一つ、さらに一つと、山の方に向かって一直線に水たまりができていった。 見えない何かを追って、村人たちが山の奥へ入るとやがてあたりは深い霧に包まれた。見えない何かは、その霧を纏い、一匹の獣の姿になった。その獣を追っていくと村人たちは湧き水にたどり着いた。 その湧き水のお陰で村は救われた。湧き水はやがて大きな川となり、人々はその川を囲むように集落を築いた。それが今の水神川と渡利村だ。村人たちは、村を救ってくれた不思議な獣をミズワタリと呼び、神社を作って祀り上げましたとさ。 「これがこの村に伝わる昔話。ホームページに載ってるくらいには有名な話ですが、ご 存知でしたか?」 「......いえ」 もしかしたらキャンプの時に聞いていたのかもしれないけど、昔のことなので憶えてはいなかった。 「ミズワタリに関する伝説はこれだけなんですか?」 「そうですね。村民全体に共有されているようなお話はこれくらいだと思いますよ。ただ、集落の中で不思議なことがあったとき、『あれはミズワタリが出たからかもしれない』と話す人は結構いますね。ただ全部噂話の域をでませんが。それっぽいものから、冗談みたいなものまで、挙げたらキリがないですね」 満月のおばあちゃんの話を思い出した。あの話も、あれは確かにミズワタリに会ったんだということもできるけど、それと同時に『ただの偶然だ』、『自力で森から出られたんだ』と突き放すことも簡単だ。六年前のオレたちの経験だってそう。体験が曖昧で、証拠なんてないから、否定することは難しくない。――今朝の満月のように。 「あの、渡邊さん」 「......? はい」 「渡邊さん自身は、ミズワタリはいると思われますか?」 渡邊さんは少し驚いたように目を丸くした。 「どうかしたんですか?」 少し困ったように彼は頭を掻く。 「いや、ね。少し前に同じ質問をされたことがあったので。――キミと同じ、この村では見慣れない子に」 それってまさか...... 「もしかしてそれ、女の子じゃないですか? オレと同じ歳くらいの。少しすました感じの」 「知り合いの子でした?」 やっぱり、さつきだ......! あいつも、ここに調べに来てたんだ。 「い、いえ。そんな知り合いってほど、知り合いじゃないんですけど」 オレは適当に笑ってごまかす。実際さつきについて話せることが全くないのも事実なんだよな。 「それで、渡邊さんはミズワタリについてどう思われてるんですか?」 渡邊さんは考える素振りをして、言葉を選ぶように口を開いた。 「うーん、そうですね。私はミズワタリに会ったことはないですし、そういう体験をしたこともありません。ただいないとも言い切れないんですよね」 「それは、どういう......」 「先ほど、村民全体に共有されているのは、あの昔話だけといいましたよね。ただ、伝説自体は他にもあるんです。噂話の域を出ないとは言いましたが、それにしても数が多いんです。多分、いろんな家に尋ねたら、尋ねた数だけ別の伝説が出てきますよ」 「そんなに?」 渡邊さんは「はい」と頷く。 「おそらく各家庭の祖先が、この集落近辺で体験したことが、伝承として下の世代に受け継がれているのでしょうね。こんなに小さな集落なのに、家ごとに伝わる伝説が違う。それこそミズワタリがいる証拠なんじゃないかって、私なんかは思いますね」 この村に来たのが二回目のオレでさえ、あれはミズワタリだったんじゃないかって経験を既に二回もしている。伝承の多さが、いるっていう証拠、か。そうかもしれないな。 渡邊さんはそこまで言って、思い出したように口を開いた。 「そうだ。村民に共有される伝説と言えば、もう一つ、『ミズワタリ 求める者には現れぬ 迷える者に現れる――』この言葉をご存知ですか?」 「それ、聞いたことあります!」 清やカマクラが言ってた言葉だ。 「この言葉にどれほど深い意味が込められているのかは分かりませんが、言葉通りの意味なんでしょうね。ミズワタリを求める者には現れない。だからいつまでも、伝説の域を出ないのかもしれません」 求める者には現れない。オレは今、ミズワタリに会いたいと思っている。じゃあオレやさつきの前にミズワタリは現れないのだろうか。だとしたら、昨夜オレたちが見たものは一体......。 「もし、ミズワタリについて他の情報を得たいなら、もちろん集落の方々に訊くのもいいですが、一度水渡神社に行ってみるといいかもしれません」 「水渡神社って、あの川の上流の?」 潮瀬さんの家のわきをさらに登ったところだ。 「はい。あそこは、ミズワタリを祀っている神社なので、もっといろんなことを教えてもらえるでしょう。それに、明日は年に一度の水神祭ですし」 「水神祭?」 「ご存知なかったですか? ミズワタリの伝説を調べているのなら、てっきり祭りに合わせて来られたのかと思ったんですが」 「初めて聞きました!」 「それはよかった。先ほど言った昔話、あの伝承に基づいてミズワタリに村を救ってくれた感謝を伝える祭り、それが水神祭です。まあ数年前にちょっと問題が起こって以来、今は下火気味ではありますが」 「なんかあったんですか?」 「二年くらい前だったかな、確か......」 「あの」 渡邊さんの声を遮って、背後から誰かが話しかけてきた。 カウンターに身を乗り出すようにして話していたオレは慌てて、身を引きながら振り返ると、そこには、 「少し、うるさいんですが」 「満月――」 不機嫌そうな満月が立っていた。 「や、やあ、満月くん。ごめんね、ちょっとこっちで話が盛り上がっちゃって。勉強の邪魔しちゃったかな」 申し訳なさそうに、渡邊さんは満月に声をかける。 「ごめん満月。朝のことも、今も......」 蚊の鳴くような声で謝ったオレを見て、満月は一つ大きな溜め息をついた。 「別にもう怒ってないよ。朝は、ぼくもちょっと感情的になった。ごめん」 満月の言葉にほっと胸をなでおろすと、渡邊さんが背中越しに「二人は知り合いなんですか?」と尋ねてきた。 「オレ、今満月の家にお邪魔してるんです」 「そうだったんですね。......あ、満月くん。私たち今ミズワタリの伝説について話をしてたんだ。満月くんも確か興味あったよね?」 「渡邊さん! ちょ、その話は――」 今朝のこと思い出して、オレは慌てて渡邊さんを止めようとする。 しかし、満月はさして意に介さないように、 「そうですね。小さい頃は結構興味ありましたけど、今はそれほど」 「そうだったんだ。......ああ、そうだ今年の水神祭って明日だったよね? 私はこっちの仕事が忙しくて全然手伝えてないんだけど、役場のお偉いさん方が今週は結構忙しくしてたから」 「明日ですね。清はなんか楽しみにしてるみたいでした。ぼくは別に行く予定とかはないです」 「お前知ってんたら教えてくれよ」 満月はなおも表情を変えず、 「訊かれなかったし......。それに、突然理由も言わず押しかけて来たのは佑司くんの方だろ?」 「それはそうだけど......」 オレと満月の微妙な距離感を知ってか知らずか、渡邊さんはさらに一言、 「水神祭もすっかり勢いがなくなっちゃったからね。満月くんも憶えてるだろ? ほら、潮瀬さんのこと――」 オレと、満月の肩がびくっと震える。 「その反応......満月、お前潮瀬さんのこと知ってんのか?」 オレの言葉に口を開いたのは、渡邊さんの方だった。 「椿くんも潮瀬さんのこと知ってるんですか?」 「オレ、潮瀬さんのことも調べているんです。お祭りの時、潮瀬さんが何を......」 そこまで言って、昨日の高橋との電話を思い出した。潮瀬さんが行方不明になったのは確か、二年前の六月だって―― 「もしかして......」 渡邊さんは無言でうなずいた。 「二年前の、水神祭の日。潮瀬さんは山に入って、そのまま行方不明になったんだ」 重い沈黙。 まるで散らばっていたピースが、あるべきところにはまるようだった。 さつきがこの時期に、ミズワタリに会いに来た理由。それは、オレみたいに衝動的な理由じゃない。きっと、水神祭だから――潮瀬さんの消えた日だから――この村にやってきたんだ。 「ねえ、佑司くん」 長い沈黙を破ったのは、満月だった。 「キミは、それを知ってどうするの?」 「え――」 「潮瀬さんのことを――ミズワタリのことを知ってどうしたいの?」 「オレは――」 一瞬、言葉を切った。また、もう子供じゃないんだからって言われるかもしれない。でも、もう迷うのはやめた。オレはオレのやりたいようにやる。 「オレは、ミズワタリに会いたい。そうしたい理由があるんだ」 「――そう」 満月が答えるその目は空を見つめていた。 「だから、もし満月がなにか潮瀬さんについて知っているのなら教えて欲しい」 満月は、ふっと目を細める。その表情が何を意味しているのかは分からなかった。 「佑司くんは憶えてないようだけど、潮瀬さんはキミの知っている人だよ」 「え」 それって、一体どういう――。 「カマクラ――六年前のキャンプでは、潮瀬さんはそう名乗っていたね」 「カマクラが......潮瀬さん!?」 大きく口を開けて笑う、無精髭の顔が脳裏を掠める。 「でも、潮瀬さんはもういないって......」 恐ろしい事実を突きつけられた。キャンプで迷ったあの日、オレたちを優しく迎えてくれたあの大きな手の持ち主は、もうどこにもいないのだと。 「ぼくたちのグループのキャンプネームね、名付けたのは全部潮瀬さんなんだよ」 あの時のキャンプネーム......。 ウメボシ、マンゲツ、ミヤ、ナシ、カマクラ―― 渡利村には暗黙の了解があってね、と満月は口を開いた。 「この村を救ってくれた水神様に感謝して、この村で生まれた子供には『さんずい』や水にまつわる漢字をつけるっていうものなんだけど」 満月、清そして源。ほんとだ、全員名前に「さんずい」が入っている。それだけじゃない。渡邊さんや潮瀬さんは苗字にも「さんずい」がある。 「潮瀬さんは、それがあんまりいいと思ってなかったみたいで。ただでさえ小さい村なのに、名前が似通ってしまうから。......だから、キャンプネームを付けたんだ。みんな名前の意味から離れることができるようにって」 「だから、お前はミヅキじゃなくて、マンゲツだったのか」 満月は頷く。 水というイメージの付く名前じゃなくて、空に浮かぶ星をキャンプネームに採用した。 「潮瀬源。この人の苗字から、「さんずい」を取って、逆から読んでごらん」 まるで重大な秘密を打ち明けるように、満月はそう言った。 「潮瀬源の苗字から『さんずい』を消すと、朝頼源。それを逆から読むと――」 オレはハッと息を呑んだ。 「源頼朝! カマクラって鎌倉幕府のことだったのか!」 満月は薄く笑みを浮かべながら、頷く。 「くだらないダジャレ、でしょ?」 確かにくだらないダジャレだ。でも、カマクラらしい。潮瀬さんがカマクラだっていう何よりの証拠だ。 「ほんとに潮瀬さんが、カマクラだったのか......」 「潮瀬さん、面白い人でしたよね。いい歳した大人なのに、まるで子供みたいで。私も小さい頃よく遊んでもらいました」 渡邊さんは昔を懐かしむようにそう呟いた。 「――彼が山で行方不明になった時は、それだけにみんなショックだったんですよ」 オレは図書館を出て、集落の中心部へ向かった。 日は高く昇り、すぐに額に汗が浮かんだ。もう、夏も近い。 満月は昼から部活があるから一度家に帰ると言っていたけれど、オレは自分で昼ご飯を調達するからと言って満月と別れた。少し一人でこの村について調べてみたいと思っていたし、あまり満月の家に迷惑をかける訳にもいかなかったから。 コンビニか何かあるかと思ったのに、満月が帰り際に紹介してくれたのが『清水商店』という小さな個人商店だった。集落にあるお店はここだけなのだという。 民家の一階部分にある商店は、野菜や、お米、ちょっとした日用品までいろいろなものが売ってあった。お弁当は売ってなかったので、ビスケット型の栄養調整食品と、スポーツドリンクを手に取って、レジに向かう。 白髪を薄い紫色に染めた、腰の曲がった老婆がこちらをじっと見て、「見ない顔だね」と掠れた声で言った。 「えっと、東京から満月の家に遊びに来てて......」 「小野田の家にかい?」 「は、はい」 老婆は、しわくちゃな手で、商品の値札を探しながら、手元の古びた電卓に、値段を打ち込んでいく。 「そうかい、東京から。明日は祭りだからねぇ」 納得したように頷きながら、無地のビニール袋に商品を入れて手渡してくる。 「あまり、よそ者が変なところに行くんじゃないよ。土地勘がないのに、迷われたらこっちも大変だからねぇ」 「はい、気を付けます」 お礼を言って、店を出る。もしかしてそれはカマクラのことを言っていたのだろうか。地元の大人でも迷うのだから、よそ者ならなおさらだ、と。 川沿いの柵に寄りかかり、買ったビスケットを口に放り込んだ。人影の見えない、白い道。風が吹いて、濃い土と水の香りがした。昨夜同じ道を通ったはずなのに、受ける印象が全く違う。水面に太陽光がきらめき、川はゆっくりと流れていく。 カマクラには、もう会えないのか......。 スポーツドリンクを渇いた喉に流し込みながら、そんなことをぼんやりと考えた。 * 「えー、マンゲツさぁ『魔獣王 クラウン』知らねーの?」 「何それ?」 マンゲツは、ピーラーでジャガイモの皮むきをしながら首を傾げる。 「もしかして、ここじゃ映らねーんじゃねーの? ここ田舎だから結構映らないテレビとかあるんだよなー」 そう言ったのは、手にピーマンを持ったミヤだった。 「俺なんかさ、千葉に従兄弟いんのに、アイツらの話まじで全然分かんねぇの。『ゲーセン行ったらカードの機械あるだろ?』って、そもそもゲーセンがないんだっつの」 ミヤはそう言って大きな口を開けて笑った。 「じゃあ、マンゲツもミヤも見たことないんだ。もったいねぇな、おもしろいのに」 「別に知らなかったら、面白くても面白くなくても同じことだよ。......でもそっか、東京行ったら、そんなテレビ番組があるんだ」 マンゲツは、顔をキラキラさせた。 「そうだ、ナシは? お前、ここの出身じゃないんだろ? お前『クラウン』知ってる?」 オレが向こうで野菜を切っているナシに声をかける。振り向いたナシの顔を見て、オレたちがぎょっとする。 ナシの眼には大粒の涙が浮かんでいたのだ。 「し、知ってるよ~」 震えた声でそう答えるナシを見て、オレたちは慌てふためく。 「どうした、ナシ!? もしかしてオレたちがお前をのけ者にして話してたからか? 悪い、そんなつもりじゃなかったんだが」 ナシはふるふると首を横に振って「そうじゃないの~」となおも泣きそうな声で言う。 どうしていいか分からず、オレたちが顔を見合わせると、背後から 「おーい野菜切れてるかー?」 と、緊張感のない声でやってきたのはカマクラ。 「カマクラー......」 オレたちがカマクラに助けを求める顔で見つめると、カマクラはきょとんとした顔で、 「どうしたお前ら?」 状況を飲み込めてないカマクラが、泣きそうなナシに気付いて一瞬驚いたような表情を見せる。しかし、すぐに笑みを浮かべて、「ナシ。お前、口で呼吸してみ?」と一言。 すると少しして、涙目のナシの顔がパッと晴れた。 「涙止まった!! すごいカマクラ!」 「だろ~」 得意気なカマクラをよそに理解が追い付いていないのは、オレたち三人で...... 「どうしたの? 今の一体何!?」 カマクラに詰め寄ると、カマクラは再びきょとんとした顔をして、 「何って、玉ねぎだろ?」 「え?」 「いやだから、ナシは玉ねぎ切ってて、涙が止まらなくなってたんだろ? だからお前ら俺に助けを求めてたんじゃねーの? ナシを助けたいけど、自分たちも玉ねぎ切りたくないから。それで涙を止めるコツを言ったんだが......」 「そういうこと!?」 オレたちはほっと胸をなでおろした。 「よかったー。なんかナシを泣かせるようなこと言っちゃったのかと思って不安だったんだよ」 ナシは、涙をぬぐって「ごめんね」と笑った。 「そうだ、ナシお前『魔獣王 クラウン』知ってるって言ってたよな!? 見たことある?」 「クラスのみんなが好きなのは知ってるけど、見たことはないんだ。......おもしろい?」 ナシは申し訳なさそうに口を開く。 「おっもしろいぜー。こんど見てみなよ」 「すごいねぇ、ウメボシ。さすが、物知りだなぁ」 「ほめても何もでねぇぞ?」 得意気に胸を張るオレを覗き込むようにしてカマクラは口を開く。 「『魔獣王 クラウン』ってあれか? ペンが変形して変身するやつ」 「カマクラ知ってんの!?」 興奮気味に顔を上げると、目が合ったカマクラは嬉しそうに「ああ」と笑った。 「仕事で東京に行った時に、友達の息子が好きでなぁ。ずっと話聞かされてた。ちょっとだけどアニメも見たぞ」 「ほんとに? じゃあ、クラウンごっこしようぜ! オレ、クラウン役するから、カマクラは怪人ジョーカー伯爵な」 「おいおい、野菜切るの忘れるなよ」 「ええー!」 不満そうなオレに「仕方ないやつだな」とカマクラは笑う。 「今日のバーベキュー、俺たちのグループだけ食べられなくなっても知らないぞ」 「分かったよ......。いくぜ、クラウンボルケーノクラーッシュ!!」 張り切ってなすびを切り始めたオレを見て、カマクラは豪快に笑った。 「本当に面白い奴だな、お前は」 * この村に来て、満月たちに会ったからだろうか。忘れていたはずの昔のことが頭をよぎる。 どんなに懐かしんでも、あの思い出にはもう、届かない。届かないと分かっているから、思い出はあんなにも輝いて見えるのかもしれない。 ビスケットの最後の一欠片を口の中に放り込んで、袖で口を雑に拭う。 腕時計を見ると、時刻は十二時を回っていた。 図書館の渡邊さんが、神社に行くといいと言っていたことを思い出す。 川沿いの白い道。相変わらず人影のないその道を、オレは川上の水渡神社に向かって走り出した。 (続く)
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