ハートフル=ストーリー

登校中


                作者  登校中

 表の賑やかな通りから少し狭い道に入った所にある、ひっそりとした小さなバー。そこが、最近俺が通い詰めている店だった。
 ギィ、という扉の古さを物語る音を立てて、俺は店内に足を踏み入れる。家の一部を改造して経営しているため、バー自体はかなり狭く、カウンターと数席のテーブルしかない。それでも、シンプルかつセンスのいい内装が、落ち着いた居心地のよい空間を作り出していた。
「いらっしゃい、リエスさん」
 黒髪の女性従業員が、掃除をしていた手を止め、親しげに声をかけてくる。そして俺の定位置、カウンターの奥側の端の席が空いていることを指し示す。
「こんばんは、シエムちゃん」
 席へと移動しながら、俺も言葉を返す。シエムと呼ばれた彼女は、ふへ、と人懐っこい笑みを浮かべた。
「お酒、いつものでいいです?」
「ああ、お願い」
「はあい、かしこまりました」
 俺に向かって軽く礼をする。肩までに切り揃えられた髪が、さらりと揺れた。それから彼女は、視線をカウンター内への扉の方へと向け、少し声を張り上げた。
「エルカさーん、リエスさんいつものです!」
 はいはーい、と女の声がかすかに聞こえ、十秒ほど奥で物音がしてから、キィと軽めの音と共に扉が開く。中から出てきた、長い赤髪を後ろで綺麗に束ねた女性が、俺を見て上品に微笑む。
「ゆっくりしていってくださいね、リエスさん」
 細めた碧色の眼が、薄暗い店内でも静かに煌めいている。この女主人エルカを殺すことこそ、俺がこのバーに通う目的だった。


 どの国にもよくあるお話だ。
 天使の住む上界、悪魔の住む下界、そして人の住む現界。天使は人を幸せにし、悪魔は人を不幸にする。人はそれらに運命を左右されながら生きていく。ここはそんなありふれた世界だった。
 もちろん、人も操られっぱなしという訳ではなく、中には悪魔に対抗する特異な素質、魔力や武力を持つ者もいる。一応俺はその部類に入るのだが、所詮抗えるのは低級の相手のみ、何人力を持った人が集まろうと上級の悪魔には敵わないことを、自分の左腕と仲間の命という重すぎる対価により、十分理解していた。
 それでも。


「はい、どうぞ」
 コトリ、と女主人がグラスを置く。透明に近い液体が振動で波を立てた。
「ありがとうございます」
「今日はお早いんですね。一番目のお客さんですよ」
 俺の注文をつくり終えて暇になった彼女は、俺とカウンター越しで他愛もない話を始める。シエムは、途中だった店内の掃除に戻っていった。
「ええ、早く仕事が終わったので。それにここはすぐに人で埋まってしまいますしね」
 あまり恵まれている訳ではない立地の個人経営バーにしては、ここは上々の売り上げであるように見えた。それは、酒の美味しさや店の雰囲気ももちろんあるだろうが、たぶんこの女主人と唯一の従業員の容姿、人柄が、リピーター率の主要因だろう。
「ふふ、ありがたいことです」
 俺を見つめたまま、女主人がうっすらと微笑む。気品漂う美しい笑みに心奪われる男も多いに違いない。だが俺は、彼女の透き通った眼に見つめられるたびに、彼女が悪魔であることを確信する。
 似ているのだ、悪魔の眼はどれも。
 彼女のように人と大差ない奴や、獣の姿、化け物としか呼ぶに値しない異形な奴など、今まで様々な姿形の悪魔を見てきた。その対峙した悪魔全ての眼が、時折不規則に煌めいていたことだけは、強く覚えている。
 容姿だけでなく、眼の色も関係ない。これが経験から感じ取れるのか、はたまた俺が特異だからかは分からないが、彼女の眼が怪しく煌めく時、傷痕が疼き、自分の使命を思い出す。
 たとえ僅かばかりの力だとしても、抗う術を持つ以上、俺は悪魔を殺すべきだ。そのためには、彼女の隙を窺うしかない。
 そんなことを頭の隅に置きながらも、俺は客と店員のありふれた会話を楽しんでいた。


 夜もとっぷりと更け、子供たちが次々と夢の中へと誘われていく頃には、予想通り狭い店内は人で埋め尽くされていた。
 そろそろ出ていった方がいいだろう。情報収集はいくらしても足りないが、あまり粘って悪いイメージを持たれる方がよくない。
 自分が出ていく時、ちょうど女主人は別の客の相手をしていたため、挨拶をすることは出来なかった。まあ、今日は一番の客だったのもあり、いつもよりは話せたので良しとしよう。
 店を出ると、俺を待ち構えていたようなタイミングで冷たい風が体を刺す。長年愛用しているボロボロの黒いコートを、右手でぐっと押さえながら路地を歩く。裏の通りは人どころか猫さえもいない、それは静かな夜であり、月明かりだけが帰路の頼りだった。
 歩きながら、今後のことについて考える。現界に潜む悪魔を殺してきた方法は、大抵が近づいて情報を集め、油断した所を狙う、というものだ。今回もそのつもりだった。
 通い詰めていることもあり、向こうも俺を認識し、名前で呼んでくれ、多少の好みも知っている。もちろん、自分を殺すために来ているなどとは知らないだろうが。ただ、もっとだ。これではまだ、他の客と同じラインだ。なかなか縮まらない距離に、俺は少し焦っていた。
「  スさーん、リエスさーん!」
 静かな路地のムードを払いのけるように、後ろから俺を呼ぶ声が聞こえた。つい固くなってしまっていた表情を緩めるよう努力しながら、振り向く。案の定、その声の主はシエムだった。
「リエスさんっ、はあっ、忘れ物、ですよっ」
 息も絶え絶えに、俺に銀の懐中時計を差し出す。確かに俺のだった。忘れ物とは、思ったよりも酔いが回っているのだろうか。
「ああ、ありがとう。わざわざすまないね、今度行ったときでもよかったのに」
「だって、大事なものだったら、て思っちゃって」
 真夜中でも明るく見えるような眩しい笑顔を浮かべる。店からそんなに離れていたわけではないが、長い前髪が乱れて上がっていることや、紅潮した頬から推測するに、全力で走って届けに来てくれたのだろう。
 実を言うと、今回の件に関して、この従業員シエムの存在が気にかかっていた。
 大抵、現界で人の振りをしている悪魔は、一人でひっそりと暮らしているか、取り憑いた人とともに暮らすものだ。そのため、彼女と女主人があそこに二人で暮らしていると聞いたとき、はじめ彼女を悪魔憑きだと思っていた。
 しかし彼女は、悪魔憑きの最大の特徴である、大きな不幸に見舞われていないのだ。彼女は数年前に唯一の肉親だった父親を亡くしているが、女主人と知り合ったのはその後だと聞いている。なんでも父親の知り合いだった女主人が、可哀想にと自分の下に居候させているらしい。
 将来的に取り憑くつもりなのかとも疑ったが、何年も手を出さない理由がないし、衣食住のみならず彼女の大学費用までも手助けしているという、溺愛っぷりだそうだ。以前シエムが、バーの従業員の給料なんてレベルじゃなくて申し訳ないんですよねえ、と困った顔でぼやいているのを聞いたことがある。取り憑くために、そこまでする必要があるのだろうか。
 まさかこの子も悪魔なのかと、前髪が上がってよく見えるようになった彼女の眼を見つめる。しかし、そこには悪魔に共通する例の光は見当たらなかった。
「あ、あの......リエスさん?」
 シエムが少し、戸惑った声を出す。他に誰もいない路地にて、男性に無言で眼を見つめられる少女。そりゃ身の危険を案じてもおかしくはないだろう。
「あ、いや済まないっ。綺麗な眼をしているなと思って」
 はっとして、彼女から数歩退く。そして、先程口走った自分の言葉の気持ち悪さに気付き、ひどく悔やんだ。しかし、彼女は気にしていないようだ。
「ふふっ、今日はずいぶん酔っぱらってるみたいですね」
 バーの客は皆、最低限の常識と品格を持ち合わせているレベルの者ばかりだったが、そうは言ってもアルコールの出回る場だ。髪を整えながら、軽く受け流してくれた。
 ほっとする俺を、少し面白そうに見つめながら彼女が言葉を続ける。
「ま、リエスさんのお目当てはエルカさんですもんね」
「......は?」
 どくん、と心臓が跳ね上がる。まさか、どこかで勘づかれたのか?
 動揺を隠せない俺を、また彼女はふふっと笑う。
「リエスさんも好きなんでしょ? エルカさんのこと」
 ......。
 強張っていた全身から力が抜けそうになる。たしかに、足繁く通っていたし、ずっと女主人のことを目で追っていたし、彼女が目的ではあった。なるほど......なんというか、彼女の若さをひしひしと感じる。
「エルカさん美しいですもんねー。それに、とっても分かりやすいんですもん、リエスさん。目が釘付けになってるんですから」
 俺の間抜け面が見えていないのか、楽しそうにすらすらと喋り出す。バーの影響もあってか少し大人っぽく見えていたが、こうしているとただの学生だ。
 いや、別に俺は、と彼女の妄想を止めようと口を開いたが、ふと思いつき、別のことを口にしてみた。
「恥ずかしながら、実はそうなんだ。......知られてしまった上で、君にお願いがあるんだが」
「お願い?」
 わさわさと動いていた彼女の動きが止まる。俺は一呼吸おいて言った。
「僕とエルカさんの仲に、協力してくれないかな?」
 好きだとか恋だとか、そう言った直接的な表現は避けたのだが、それでも自分の耳が熱くなっていくのを感じる。
「......そういうお願いは時々、というかかなり、いろんなお客さんから受けるんですけどねえ」
 彼女は腕を組み、値踏みするように俺を見回す。そうだろうとは思っていた。あんな器量の良い独身の美人を一般の男は放っておかないはずだ。悪魔、というのを除けば。
 じーっと俺を見つめ、何かを思案する彼女を、ただ俺はじっと待った。しばし後、彼女の中で結論が出たようで、にっこりと微笑むと。
「分かりました。リエスさんなら誠実そうで、エルカさんを幸せにできるかもしれません。お手伝いしますよ」
「......本当かい?」
「はい、本当です」
 天使のような笑顔で頷く彼女に、誠実でない俺の良心がちくりと痛んだ。しかし、これはきっと彼女のためにもなることだ、と自分に言い聞かせて痛みを誤魔化した。
「と言っても、エルカさんの気持ち第一なので、エルカさんが拒否するとか、別の方を選ばれたら、手を引きますからね」
「ああ、分かっているよ。ありがとう」
 赤の他人とは言え、天涯孤独になった自分に手を差し伸べてくれた女主人にとても信頼を寄せているのだろう。かつての仲間を思い出し、無意識に左肩を押さえていた。
「あ、お店! エルカさんに心配されちゃうや」
 つい忘れていたようで、彼女が目を丸くして戻ろうとする。今頃女主人一人で、満席のバーを捌いているはずだ。
「ともかく、ちゃんと協力しますから、またバーに来てくださいね」
「もちろん。よろしく頼むよ」
「あ、それと」
 俺を追ってきた時と同じように走って帰る寸前で、くるりともう一度俺の方を振り向く。
「万一、エルカさんを傷つけたら......」
 その先は運悪く聞き取れなかったが、彼女の表情から、彼女に協力を要請するべきでなかったかもしれないと後悔してしまった。

 *****

 一人になってからの休日の過ごし方と言えば、悪魔についての資料を読んだり、自分の腕を磨くため特訓をしたりとまあそんなことの繰り返しだった。
 だから、このように人でごったがえした街の中心部に足を運ぶのはずいぶん久しいことだった。
「はあ......」
 俺は本日何度目かの溜め息をつく。普段は着ない少し綺麗めな服を身にまとっているため、なんとなく体に違和感があるのだ。
「日曜の十時くらいに、××街の広場にいてください」
 例の協力をシエムに頼んでから一週間後、バーでそう彼女に耳元で囁かれたのを思い出す。
 彼女に言われた通り、広場のベンチに座って、目の前の噴水をぼーっと眺め続け、かれこれ四十分以上経っていた。本当にあっているのか、彼女の言葉に少し疑問を抱き始めた頃。
「リエスさん?」
 横から聞き覚えのある声がした。俺は彼女を疑ったことを心の中で詫びつつ、声の方向に顔を向ける。
「あ、やっぱり。服がいつもと違うから自信なかったですけど」
 嬉しそうに近づいて来るシエムと、彼女を追うような女主人がいた。仕事着でない彼女達を見るのはそういえば初めてで、若者らしいゆったりとした服装のシエムと、髪を下ろしてより女性っぽさを感じさせる印象の女主人は、新鮮だった。
「あら、こんにちは。買い物ですか?」
 俺が待ち伏せしていたとも露知らず、偶然と思った女主人も声をかけてくる。俺も驚いた演技をしてみせる。
「エルカさんにシエムちゃん。こんにちは、偶然ですね。僕は特に用もなく、ふらっと散歩をしていただけなのですが......お二人は?」
「ええ、シエムの担当教授がもうすぐ誕生日で、仲のいい学生たちで贈り物をするらしいんです。それで、シエムが選ぶ役目だそうで、こうして探しに来たんです」
「へえ、それは喜びそうですね」
 今時の教授と学生はそんな距離が近いものなのか、と興味を持ちながらも、この後、どう話を進めていけばいいのか、女性経験の少ない俺は焦っていた。なんせ、この広場にいて欲しいとしか指示がないからだ。
 と、一人そんな心配をしていると、シエムが会話の間に入るように提案をする。
「そうだ、リエスさん。もし迷惑でなければ、買い物に付き合ってもらえませんか? 男の先生なので、男性目線での意見が欲しいな、と思って」
「シエム、自分に関係ない買い物に付き合ってだなんて、少し図々しいでしょう」
 女主人がシエムを軽くたしなめる。それを俺は慌てて止める。
「いえ、そんなことありませんよ。僕は暇ですし、いい贈り物を一緒に選びましょう」
 シエムはおそらく、店内で俺に協力すると、他の客にバレてしまうことを危惧したのだろう。若干強引ではあるが、これで店の外という普段と違う環境で一緒に過ごすことが出来る。彼女の賢さに、つい感心してしまう。
「本当ですか! ありがとうございます、助かりますっ」
 先手必勝という風に、シエムが少し大げさに喜ぶ。その様子を見て、女主人も折れたようだ。
「......では、都合がよければ一緒に探すのを手伝ってもらってもいいですか?」
「はい、お役に立てるのなら」
 ベンチから腰を上げて彼女たちに近づくと、香水でもつけているのだろうか、女主人の方からふわりといい匂いがした。
「じゃあ、行きましょー」
 自分の作戦がすんなり上手くいったことにとても満足なのか、テンション高くシエムが店へと先導する。
 これは、自分の使命を果たすための行動だ。
 そう頭の中で戒めてはみたが、休日に親しい者達と街へ出かけるという久々の感覚に、心が躍っていることを自覚していた。


「リエスさんのおかげで、いい物が選べましたよ」
 シエムが先程購入したばかりのプレゼントを胸に抱き、ほくほくとしている。
 本当に俺が役に立ったかは定かではないが、無事に担当教授とやらへのプレゼントは決まった。そして、せっかくだからと三人でカフェに入り休憩をしているところだった。思った以上にとんとん拍子に事が進んでいるのは、まぎれもなくシエムのおかげである。
「すみませんね。結局、一日付き合わせてしまって」
「いえとんでもない。楽しかったですよ、二人のいろんな面を知れて」
「えー、そんなに普段と違いました?」
「そうだね、バーで働いている時はなんだか大人っぽく見えてたけど、こうしていると学生なんだなあって思ったかな」
 シエムの問いにそう答えると、彼女はミルフィーユを崩しながらもぷくっとふくれっ面を作った。
「どうせ、リエスさんからしたらまだ子どもですもん。じゃあ、私じゃなくてエルカさんはどうでした?」
「え......、いつもより、き、綺麗だと思ったよ」
「そういうのは私じゃなくて、本人を見ながら言ってくださいよ」
 そうだった、これは表向きでは俺の恋路を実らせるというものだったんだ。慣れていない俺にはどうも気恥ずかしさが出てしまう。俺の言葉とシエムの突っ込みをきいて、エルカも恥ずかしそうに笑っていた。
「あ、そうだ。プレゼントちゃんと買えたよ、ってみんなに連絡してきますね」
 エルカの反応にそこそこ満足した様子を見せながら、シエムは携帯片手に店の外へ出ていった。これもきっと、彼女の作戦の一つなのだろう。本当に、彼女には頭が上がらない。
 テーブルが少し静かになる。そういえば、買い物中はずっとシエムが傍で喋り続けていて、こうして今日二人きりになるのは初めてだった。
「ふふ。今日のシエム、本当に楽しそう」
 コーヒーのカップを両手で挟みつつ、エルカが呟く。その愛おしげなセリフから、シエムの幸せがエルカの幸せなのだろうと、感じ取ることが出来た。
「エルカさんとシエムちゃんは、とても仲がいいんですね」
「あら、そう見えましたか? それは嬉しいです」
 今日一日、行動を共にして思ったことを率直に口に出してみると、本当に嬉しそうに口元をほころばせた。しかし、不意に表情を暗くして。
「本当、うちに来た時はどうなるかと」
 俺に聞かせるつもり、というのではなく、過去を思い出しつい口からこぼれてしまったような印象だった。実際、すぐにはっとした顔になり、誤魔化すようにコーヒーを口に含んだ。
「......エルカさんは、どうして彼女に尽くすんですか?」
 俺は躊躇したが、ずっと抱いていた疑問をぶつけることにした。今日観察していて気付いたのだ。悪魔である彼女のシエムに向ける眼差しが、娘を見守る母のような慈愛だけではなく、別の念が混じっていることに。
「......唯一の肉親だったシエムの父親が、私の知り合いで。その父親が亡くなって、可哀想と思ったからです」
 俺の無礼な質問に、警戒心を見せつつ、慎重に答えてくれる。眼の中に特有の煌めきを見せながら、俺の意図を読み取ろうと見つめてくる。
 なるほど、可哀想。悲惨な目に遭った者への憐れみは、一般的に抱く感情だろう。だが、俺が彼女の眼に見つけたものは、そんな程度の感情ではない。もっと、彼女自身が悲痛な。
 俺は一呼吸おいて、訊いた。
「何を、後悔しているんですか?」
 その瞬間、ガクッと体が重くなった。空気が変わったのだ。その原因は明らかに、目の前の怒りに満ちた彼女だった。
「どうして、教えなければ、ならないんですか?」
 幼い子どもに話すように、一つずつ言葉を発する。彼女の手は震えていないのに、その手で支えるカップの中身が、小刻みな波を立てていた。
 それをテーブルへと置き、ゆっくりとした動作で席から立ちあがる。威圧されて動けない俺を、見下す形になった。
 爛々と煌めく彼女の眼。怒りの感情で覆われたその眼の奥底に、やはり後悔を滲ませながら。
「すみません。シエムには具合が悪くなって帰ったと伝えてください」
 そう言うと、財布から自分とシエムの分を賄うだけの金額を出し、それを置き去りにして店を出ていった。その後ろ姿を、彼女の威圧が消え去った後も、俺は追うことが出来なかった。ただ茫然とそちらを見つめていると。
「何しているんですか?」
 聞いたことのある声、しかし聞いたことのないくらい恐ろしい響きの声が背後からした。振り向こうとしても、体が言うことをきかない。俺は再び、動けなくなる。
「好きな相手が傷つくことも分からなかったんですか?」
 背中に軽蔑の言葉を吐かれ、そのままシエムは振り向きもせずに、エルカと同じ足取りで去っていった。また俺は、一人取り残されてしまった。
 彼女を傷つけたら。そう脅されていたのに、直接何もされることはなかった。ただ、鋭い言葉を投げただけだ。しかし、それは俺をぐさりと貫通し、氷のような冷たさで俺の全身を蝕んでいった。
 深呼吸を数回して、気持ちを落ち着ける。そして、空っぽの椅子二つを眺めながら、自分の先ほどの言動を振り返る。
 好きな相手が傷つくことも分からなかったんですか。
 分かっていた。彼女が傷つくことくらい。これからの接触が難しくなることくらい。そうだ。そもそも俺の目的は、彼女の油断を促し殺し易くすることだ。あんな深入りせず、上辺だけの言葉で着飾ればよかったのに、なぜ。
 好きな相手が傷つくことも分からなかったんですか。
 好きな、相手。まさか、悪魔に仲間を殺された俺が、悪魔を? そんなはずがない。馬鹿げた発想をしてしまったと、鼻で笑う。
 しかし、その可能性に気づいた瞬間から俺の頭の中に、バーでの世間話や今日三人で楽しく過ごした時が再生される。たしかに悪魔を殺すため、俺は女主人に近づいた。だが、あの楽しく接していた時間は、俺はエルカという一女性と一緒にいたのだ。
 堪え切れなくなり、顔を手で覆った。助けてくれ神様、と思った。この想いを神様が救ってくれるとは、全く思わなかったが、とにかくすがりたい気持ちだった。

 *****

 子供だけでなく、大人も今日に別れの挨拶をするような時間、バーはやっと最後の客が帰ったところだった。
「もうすぐ満月みたいですね」
 窓から差し込む、丸々太った月の光を眺めながらシエムがエルカに話しかける。
「あら、そうなの」
 エルカは聞いているのか分からないような返事をしつつ、ぼんやりとグラスを磨いている。三人で買い物に行った後、ずっとこんな調子が続いている。常連客達は、何かあったのかと何度も尋ねたが、エルカもシエムも何も話さなかった。
 話し相手にならないエルカにシエムは軽く溜め息をつき、リエスのことを思い出す。彼に協力すると言った時がいつだったかは忘れたが、やけに月が丸く明るかったことを彼女は覚えていた。おそらく、たった一月ほど前のことだったのだろう。
 あれから一度も来ていない。彼もダメか。少しだけ期待して自分も支援した分、より彼女は失望していた。
「先に上がってますね」
 片付けも明日の準備も一通り終わり、あとは主人であるエルカが、入り口の鍵を閉めるだけだった。シエムは一足先に、店の奥に消えていった。
 グラスを全て磨き終えたエルカは、足取り重く扉へと向かう。彼女自身、こういった態度は周りによくないと承知だったが、どうも気分が沈んで引き締まらなかった。
 ギィ
 彼女が扉数歩手前の時、丁度誰かが扉に手をかけたようで、軋んだ音がする。
「あらすみません。もううちは閉店  」
 続きの言葉と営業スマイルが、こぼれていく。
「......こんばんは、ケリをつけに来ました」
 扉の向こうには厳しい表情をしたリエスが立っており、その手に握る大きな剣の切っ先を、エルカの喉元にピタリと当てていた。
「あまり騒がないでください。シエムさんに聞こえます」
 脅すような低い声と、皮膚に軽く食い込む刃。エルカは、剣がこれ以上食い込まないようにゆっくりと首を縦に振った。
「改めて、自己紹介をします。俺はリエス、悪魔を殺しています。仲間や左腕を失いつつも使命を果たし続け、次のターゲットを狙いにこのバーへ通っていました」
 悪魔、とリエスが口にした瞬間、エルカの眼がギラリと煌めいた。そのまま襲ってくるか、と彼は身を固くしたが、眼以外の彼女はただ大人しくしていた。
「ですが、単刀直入に言いましょう。私はあなたが......好きです。自分の使命か、それとも自分の感情か、どちらを優先すべきか決めかねているところなのです」
 好きと伝える時だけ、彼の表情が崩れた。彼自身も、その自分の想いに戸惑っているのが見て分かる。それでもすぐに真剣な顔つきに戻し、彼女の眼を見つめる。
「......どうか、こないだの俺の問いに答えてください。その答えを知ることで、結論が出せる気がするんです」
 開きっぱなしの入り口からは、絶えず冷たい空気が流れ込んできていた。彼女の視界に、月の一部が入る。白く美しく輝いていて、綺麗だと彼女は思った。
「単純な話です。以前、私とシエムの父親は愛し合っていました」
 リエスの背後の月を眺めながら、彼女はぽつりと話し始めた。その声に彼は、黙って耳を傾ける。
「けれどもそれは、人を不幸にするという悪魔の宿命に反した行為でした。そして、裁きを与える上級の悪魔が手を下すのは、その悪魔自身ではありません。被害を受けるのはいつも......人」
 きゅ、と彼女は唇を強くかみしめた。彼女の脳裏には、自分の娘に会ってみないか、と嬉しそうに告げる男と、事故死として処理された血塗れの男の姿が映し出されていた。
「あとはまあ、想像通りでしょう。要するに、もしあなたが感情を選択しても、あなたを不幸にしてしまうので、私はあなたを選ばない、ということです。......二の舞はもう、嫌なんです」
 これで話は終わり、というように彼に眼を向け、気丈に微笑む。さあこれで判断がつくのでしょう、と。
「......剣を向けられているとはいえ、純粋な強さではあなたの方が上です。抵抗はしないんですか?」
「それはこないだの問いではないでしょ?」
 リエスの時間稼ぎな質問を、上手に笑顔で躱す。もしかしたら彼女は、どこかで終わりを望んでいたのかもしれない。エルカの態度から、そう彼は予想した。
「......」
 しばし静止していたリエスだったが、スッと剣を彼女の喉元から離し、慣れた手つきで腰の鞘に納めた。そのまま何も言わず、踵を返す。
「殺さないんですか?」
 彼女の問いかけにも答えないまま、月明かりの下へと遠ざかっていく。
「......これからどうするんですか?」
 聞こえているのかいないのか。どちらにせよ、やはり何も答えることはなく、彼は消えていった。

 *****

 またしばらく、時間が過ぎた。
 エルカはというと、相変わらずぼーっと物憂げに店の外を気にし、まるで誰かを待っているようだと客達の中で噂されていた。終わりに扉の鍵を閉めるその瞬間まで、もしかしたらまた現れるのではないか。口には出さないが、エルカが待ち焦がれているのをシエムは察していた。


 それが叶ったのは、月の無いある晩のこと。
 毎夜の如く、エルカが扉の鍵をかける。そして、今日も彼は来なかったなとぼんやり考えていた時、コツンと外から扉の表面に物が当たる音がした。普通だったら聞き逃すその音を、神経を尖らせていた彼女の耳が拾う。
 少しの希望を込めて、今さっきかけたばかりの鍵を開け、扉を引く。
 そこには彼女の期待通りの、しかしある種期待を裏切るものが待ち受けていた。
「リエスさん......!」
 冷たい石畳の上に寝転がる、腹に風穴の空いたリエスを見て、シエムの父親の死体とシンクロしてしまい、エルカは愕然とした。それでもすぐに気を取り戻すと、彼の体を慎重に起こす。
「......汚れてしまいますよ」
 瀕死の状態でも、自分の血が彼女の綺麗な服に付着してしまうことをリエスは申し訳なく思った。だからと言って自分の力で立つことなど到底不可能で、彼女に店内へと運ばれ、ひとまず床に寝かせられた。
「今すぐ医者と応急処置を  !」
「いいんです、もう遅い」
 走り出そうとする彼女の腕を、リエスが弱々しい力できゅっと掴み、制す。その指は、元あった本数よりも数本減っていた。
 口から血を垂れ流しながら、静かに話す。
「あなたの言っていた、裁きの悪魔とやらと対峙してきたんです。......まあ返り討ちにあいましたが、ね」
「そんな、無謀な......」
 ただでさえ、人と人ならざる者との力の差は歴然と存在するのに、いくら隙をつき、かつ強くとも、その上級に勝てる見込みは皆無に等しかった。
「分かってましたよ。でも、奴を倒すしか、あなたとは幸せになれなかったんです」
 ごほっ、とせき込み、血を吐く。彼女が涙を流しながら、ハンカチで顔の血を拭い、綺麗にしてあげた。
「お願い、死なないで......」
 どうしようもなく、ただ悲痛に彼女は願った。涙でより一層ゆらゆらと煌めく彼女の眼を、彼はじっと哀しそうに、愛おしそうに見つめていた。
 すると、そこに。
「やっぱり負けちゃったんですね」
 いつのまにいたのか、シエムが二人を背後から見下ろすように立っていた。エルカが振り向くと、前髪の隙間から覗く、彼女の澄んだ蒼い眼と視線が合わさった。
「リエスさんならもしかして、と思ったんですが。さすがに差がありすぎますよね」
 血みどろの彼を見ても、まるで予想していたかのように平然としている。その顔に表情はない。
「シエムちゃん......君は」
 絞るような声で問う彼に、彼女はぺこりと頭を下げて言った。
「ごめんなさいリエスさん、そしてエルカさん。私、全て気づいていました。二人の正体も、過去に父の身に何があったのかも。知っていた上で、利用したんです。特別な人間であるリエスさんなら、幸せにできるかもと思って」
「嘘......!」
「ごめんなさい」
 エルカにも頭を下げるが、当の本人は放心状態だった。必死に自分の正体と過去を隠してきたのに、それをシエムはとっくに知っていたのだ。彼女の頭はパニックを起こしていた。
「君は......何者なんだ?」
 リエスも、話の衝撃と混乱で傷の痛みも忘れ、シエムを見つめる。
「まだ分からないんですか? 逆に考えてみてくださいよ。どうして、私は悪魔に殺されなかったのか。少なくとも、私はエルカさんと暮らしていて、幸せを感じていたというのに」
 不思議そうにそう言い、答えでなくヒントを与えるシエム。まるで一人だけ別の世界を見ているのかと思うほど、二人との空気が異なる。
「被害が出るのは、人、のみ......」
「お、いいですねーリエスさん」
 血の足りない頭で必死に真実へたどり着こうとするリエスに、シエムは嬉しそうに笑いかける。
「人のほかって言えば、いくつか種がありますよね。そして、私のお父さんは紛れもない人間でしたが、私のお母さんの話、エルカさんは聞いたことがありますか?」
 エルカは驚きのため言葉を発せない様子で、ただ首を横に振り続けた。
 リエスは、先が欠けた震える人差し指で、彼女を差して告げた。
「天使......だね」
「正・解」
 バレたかーという風に、にぱっと笑顔を作る彼女。その眩しい笑顔は、ここが暗く血生臭い店内でなければ、見る者を癒す効果を持つのだろう。
「まあ、正確に言えば天使と人間のハーフなんですけど。それでもある程度の力やご加護はあるんですよ」
 そう言って、エルカの座る反対側、リエスの空いている方の側面へ跪き、頭を撫でる。血を浴びた髪が、べとべとと彼女の指に絡みつく。
「リエスさん。倒すことは無理でしたが、実はあと一つだけ、一緒になれる手段があるんです」
 先ほどのテンションとは打って変わって、静かに、自分でも確かめるかのように語りかける。
「......どんな方法なの?」
 理解が追い付かないながらも、エルカが彼女に問いかける。しかし、彼女はそれを無視するように、ただじっとリエスの頭を撫で、彼の眼を見つめていた。
「......」
 死の疲労感に襲われながらも、彼も眼だけはしっかりと開け、彼女を見つめた。彼女が、他人を利用してまでもエルカを幸せにしたかった熱意が、そして愛情が、彼にはまるで自分の気持ちの如く感じること出来た。
 彼は覚悟を決めると、最後の力を振り絞って、ゆっくりと頷いた。
「俺を悪魔に、してくれ」
 彼の力強い意志を言葉と眼の中に確認したシエムは、エルカが事態を把握する前に、彼の頭に添えた自分の手へ力を貯めた。
 そして。

   。

 リエスは、悪魔を倒すべく、悪魔についての様々な文献や研究資料を読み漁ってきた。だから、悪魔にも色々な種が存在するのも知っていた。純正の悪魔に、裏切り行為をした元天使、力を授かり意図的に成り変わった元人間、など。大切な存在の傍にいられるのなら、彼は構わないと思っていた。
 シエムは、はじめこそ自分の父親を殺した憎き悪魔として、エルカを敵視していた。しかし、自分で過去を調べたり一緒に暮らしたりするうちに、孤独に苦しむエルカを救いたいと強く願うほどになった。たとえ、自分が同族を裏切ったとしても。
 エルカは、何も知らず、何も分からなかった。ただ、左腕が生え、先程までの怪我が無くなったリエスを見て、そして二人の眼に宿る煌めきを見つけて、どうなったかを悟った。
「ああ......」
 言葉にならない声を出し、彼女は泣き出した。自分のせいで。どうして。どうして。どうして。同じ考えをぐるぐると巡らせながら、眼から涙を溢れさせ続けた。
 そんな泣きじゃくる悪魔を、二人の悪魔はそっと抱きしめた。そして、宥めるように話しかける。
「種なんて気にしない、それがエルカさんの本当の考えなんでしょう。だって、お父さんが何よりの証拠だもの」
「俺たちは、自分の意思で選んだんです。あなたと一緒に、なりたいから」
 彼女は泣き止まなかった。二人の言葉が届いているかさえも怪しかった。それでも二人はよかった。泣き止むまで、いつまでも抱きしめているつもりでいたからだ。
 リエスは、両腕で抱く、という二度と出来ないと思っていた所作を愛しい相手達にしながら、考えていた。
 泣き止む頃にはきっと、お腹が空いているに違いない。そうしたら、何処かに三人で食事に出掛けよう。
 新しい家族として、と。


さわらび121へ戻る
さわらびへ戻る
戻る