人間らしい

沢井畔


 
 
 
 「あ、解けた」
「『あ、解けた』じゃねえ!」
 バシッと小気味いい音が頭上に降ってくる。そこそこの痛みを伴って。
「何度も言ってるだろ、やり方が合っていても、途中式がぐちゃぐちゃだと凡ミスするぞって。字が汚いんだから丁寧に書け」
 シャープペンシルの先が、私のノートを雑に突いている。上部には、自分で書いた数字を勘違いしたことにより計算が狂った式と答え。下部には、やり直した結果出せた、正答が書いてある。
 じんじん痛む頭を擦り、私は隣に座る彼を睨みつけた。
「叩く必要性なかったと思うんだけど」
 は、と鼻で笑う彼に苛立ちが募る。
「馬鹿は体で、痛覚で覚えろ。言うの何度目だと思ってる」 
 危うく舌打ちするところだった。
 彼は言い終わると、既に彼は次に私に解かせる問題を吟味しているらしい。丸っこい瞳が、問題集の文字列を追っている。
 じっと見つめながら、私は彼に問うた。
「青人」
 ちら、と寄越した視線だけで、彼は私に続きを促してが、結局口を開く。
「ああ、休憩はまだだぞ」
 そんなことを言おうとしているわけじゃない。決めつけられて、私は少しムキになって言った。
「違う。最近は足りてるの、血」
 半ば予想していたことだけれど、彼は私の言葉に目元を険しくさせた。
「ああ」
 素っ気ない返答は、私がこれ以上その話題を続けてももう反応しない、とでも伝えているようだ。
 
 少しの沈黙の後、彼は私に冊子を手渡し、見開きのページの内、何問かに丸をつけた。それらを解いてみろ、ということだ。
 互いに無言のまま、私は問題文に目を通し、ノートに黒鉛を走らせ始めた。



 ところまでは良かったのだが、途中で制止が入る。
「おいおいおい待て」
 あともう少しで答えが出せそうなのに。私は今度こそ本当に舌打ちをすると、尖った声を出す。
「何で真面目にやってるのに、教える側が止めるわけ」
 先程の態度を根に持っていることもあり、刺々しい私に怯んだらしい青人は一瞬、気まずそうに視線を逸らす。
 けれど、すぐにまた口を開いた。
「その、数列の問題。何で公式を使わずに力尽くで、全部書き出して解こうとしてるんだ」
 彼の口から出てきたのは正論だった。私は高校二年生なのだから。
 合わない瞳は、窓枠に捕らわれた月を見つめている。
 今日は半月に近い。これが綺麗な円になったら、彼はまた不安定になるのだ。一月に一度、彼は私を遠ざけ拒み、また元に戻る。その繰り返し。
 そんな状態を疎ましく思う気持ちが湧いて出てきて、私は彼に言葉を返すことを忘れていた。
「......林檎?」
 どれだけ強気を、毅然さを取り繕っても、彼の本質は結局そこに落ち着く。察しが良く、気遣い屋。
「いいじゃない。実際の試験で忘れてたら、そうせざるを得ないでしょ」
 肩を竦め、淡々と言ってのける私に、彼は呆れて言い返す。
「今は実際の試験どころか模試でもなく、自習だと思うんだが」
 分かっている。でも、私はいつだって私だ。どうしようもなく頑固で、考えるくらいならさっさと動く。そうしないと、いつまで経っても私は決断できないから。
 一度足を止めたらもう歩き出すのを恐れる人がいるけれど、私は踏み出すタイミングを早々に見つけられなければ何もできない人間なのだ。
 そして、行動を起こせたらその後で口上をつける。彼はそんな私を嫌というほど知っている。この状況も、その産物と言えるだろう。
「押して駄目なら押し通したいの」
 そして微笑を浮かべて見せる私に、彼は嘆息して立ち上がった。
「休憩だ、茶でも淹れる。その後で公式の再暗記」
 はあい、とおどけて答えた私は、勝手知ったる家の中、彼の後に続いてキッチンへ向かった。



 マグカップに注がれるのは、コーヒーでも紅茶でもなく焙じ茶だ。いつも通り。カフェインの多いものを夜に摂るな、というのが彼のお言葉だ。
 彼が二つのマグカップを手に、テーブルに戻ると、私は鞄から蜜柑を二つ取り出した。
 一つを手渡すと、彼がどーも、だかなんだか言った。
 立派な洋館の中にある一室で、黙々と私たちは手の中の果実の皮を剥く。
 そして、一切れを口に放り込んだところで、私は彼にもう一度質問をした。
「血、足りてるの? 最後に献血やったの、だいぶ前じゃなかった」
 そろ、と顔色を窺う。今度は跳ね除けられなかった。
「まあ、またその内やる。準備も要るしな」
 私は窓に目を遣り、庭を見下ろした。彼の献血カーが停まっているガレージは、その一角にある。
「私じゃやっぱり駄目なの」
 聞いてから、また怒られるだろうことを覚悟する。
 けれど、今夜の彼はただ目を細め、微笑んでいた。
「ああ。駄目だよ。頼子に申し訳が立たないし、やりたくない」
 ここで凹むには、少し同じ質問をしてきすぎた。
「チッ」
 また舌打ちをする私に、彼はすぐさま浮かべていた笑みを崩し、何か注意したそうに口元を歪めた。けれど、何も言わない。
 会話が途切れる。ず、と焙じ茶を啜る音も終わると、夜という時間帯独特の沈黙が漂う。
 そろそろ再開するか、という彼の言葉に頷きを返し、私はノートを再び開く。彼が向かいから、もう一度先刻と同じように、隣に座る。
 この権利が永久的に欲しいと願うのは、我が儘だろうか。



 夜の勉強会を終え、私は徒歩五分の自宅まで帰ってきた。
 いつも通り送ってくれた彼に礼を言い、手を振っていると、喉から込み上げてくるものがあった。そのままこんこんと咳き込んでしまう。
 心配そうに、少し怒ったように彼が私の背に手を遣った。風邪か、と尋ねた彼に私は首を振る。
「当分、俺の家に来るのは控えたらどうだ。最近冷えてきたしな」
 その言葉に、さらに勢いよく首を横に振る。冗談じゃない。
 呼吸を落ち着け、私は言った。
「絶対に、嫌」
 もう少し可愛らしい仕草で言うべきなのかもしれない。肩を縮こまらせ、胸に拳を置いて、眉を下げる、とか。
 まあしようものなら気持ち悪、と一蹴されそうなのでやめておく。
 呆れ顔で私を見つめると、彼は、
「なら体調崩すなよ」
 とだけ言って、元来た道を戻っていく。
 もう一度こほこほと咳をして、私はその背中を見送った。



 携帯電話でさ行の連絡先を表示させる。
「せいと、せいと......」
 ベッドに寝転がったままでも、この程度は造作もない。コールしてすぐに聞こえてきた声に、私は安堵を与えられた。
「もしもし、どうした」
「やっほー、青人」
 実はね、と言おうとしたところで、私は叱られることになった。
「だから言っただろうが少しは反省しろ」
 何が、と聞き返せば、間髪入れずにまた怒られる。
「風邪引いたんだろ、その鼻声」
 その言葉に、思わず笑ってしまう。優しいのも、よく気が付くのも知っているけれど、何度だってその性質に触れるたびに幸せだ。
「話が早いなー。うん、ごめん。だから、明日は勉強しに行けないと思う」
 当たり前だ、と少し和らいだ声が耳元で響く。
「まあ、しっかり看病してもらえよ、親に」
 その言葉に、うん、となんてことなく返すべきだった。彼の性格を理解しているのなら、心配を掛けたくないのなら。
 迂闊だった。まあ、仕方ない。
「おい、林檎?」
「母さんも父さんも今日明日はいないよ、泊まりで劇見に行った」
 平坦な声で言うと、彼がはあ? という声を出した。
「二人とも休み合わせて、ずっと楽しみにしてたの。チケットの倍率もすごかったらしいし」
 そもそも、朝に二人を見送った時の私は元気だったのだ。それが今更こうなるとは。人間の体は案外、丈夫なのに、存外脆い。
「タイミング悪いな......」
「私が風邪引いたのが、ね」
 ふー、と息を吐き、天井を見つめる。誰も悪くないのは当たり前に分かっている。
 そして、寂しさは状況への理解と関係なく、湧き起こるものだということも。
「もう夜の九時だけど、お前今日ずっと寝込んでたのか」
 一つ、二つ咳き込んでから、漸く答える。
 大丈夫か、と問い掛ける声は、あまりにも柔らかかった。
「ううん、風呂上りにぐらっと来て。最初はのぼせたかと思ったんだけど、熱だった」
 きちんと時間を置いてから体温計を使ったというのに、平熱よりも明らかに高い数字で、驚いたものだ。
 まあ、夕飯も入浴も済ませたということで、さっさとベッドに入れたし、今日のところは特に困らない。
 薬も既に飲んだので、後は本当に眠るだけだ。
「とにかく大丈夫だから。明日は行けないってだけ」
 何かを思案しているような息遣いが聞こえる。私は彼の言葉を待った。
「分かった。暖かくして寝ろ。おやすみ」
 相手に見えなくても、こくんと頷く。
「ん、おやすみ」
 通話が切れた。電話を枕元に置き、リモコンで明かりを消す。
 そして私は布団の中に潜り込み、目を閉じた。



 懐かしい回想を、夢に見た。
 おばあちゃんと、青人と、私の夢。私は多分まだ、五歳くらいの頃だろう。祖母が存命していることと、自分の背格好からそう判断する。
『りんごちゃん。彼は青人だよ。おばあちゃんの昔からの友達なんだ』
 そう。十五歳くらいの、少年としか呼びようのない見目をしている彼を見て、祖母が友人だと私に紹介した時。 
 私は酷く困惑した。
『この、お兄ちゃんが?』
 祖母の家の近くに越してきたばかりの頃、私は不安だった。
 それを素直に、彼女に伝えると、後日彼女は私に、彼と会わせたのだ。
『ああ、そうだよ。彼はね』
『おい頼子、待て』
 私はその時初めて、彼女を名前で、それも呼び捨てにするのを聞いた。
 その後、私と距離を取って、彼と祖母は何かを話し合い、再度私に向き合った。
『林檎。俺は青人、お前のばあさんの友人だ。因みに数百年ほど生きている。もう詳しくは数えていないけどな』
 更に戸惑う私。
 どうにでもなれとでも言いたそうに溜息を吐く彼。
 いたずらっこみたいに笑うおばあちゃん。
『そう、彼はね――』



 そこで目が覚めた。
 そよそよと、私の部屋でカーテンが風に揺らされている。
 施錠した筈の窓が開いていて、夜空に彼が浮いていた。
「青人......」
 すう、と旋回し、彼は私の部屋に降り立つ。ひとりでに窓が閉まるのを、寝ぼけ眼で見ていた。
「......悪い。起こした」
申し訳なさそうな彼に、ふるふると首を振る。
「私のこと、襲いに来てくれたの?」
 毎度毎度、私は彼を困らせては溜息を吐かせている気がする。けれど、観念してくれない彼が悪いのだ。
「見舞いに決まってる」
 澄んだ瞳が私を射抜いている。そう、私はずっとずっと、この瞳に見つめられていたいし、見つめ返し続けたい。ただそれだけを欲し続けている。
「私のこと、同胞にしてくれる気になったんじゃないの」
 そんな訳ない、と吐き捨て、彼は私の側に膝をついた。するりと前髪があげられ、冷たい手が私の額に触れる。
「高いな。薬は飲んだんだよな」
 頷くと、彼はどこからか冷却ジェルシートを取り出して、張り付けてくれた。
 全く、気が利く。用意がいい。
 人外の癖に。

「ありがと。ところでさっきの続きだけど」
 横になったまま、彼を間近に見下ろすなんて、不思議な気持ちだ。
「病人は黙って寝ろ」
 それには答えず、私は話を先程の続きに持っていく。
「別に細君とか家内とか女房とか配偶者にしてくれなんて言ってないよ、私」
 ぎょっとした顔を彼が勢い良く、私の方に上げる。そうやって、決して鬱陶しそうな顔をしないから、ただ驚いたり困ったりするだけだから、私はいつまでも諦められない。
「関係性はひとまず置いておいていいんだ。友人でもいいし、使用人でもいい。蝙蝠の形をとって使い魔みたいになれたら、それもいいよね」
 布団の上に置いた、自分の手を見つめる。我ながらびっくりするほど、私は落ち着いていて、するする言葉を続けていけた。
「一生隣にいて、同じ時間の流れの中で死にたいだけ。あと一緒に献血カー乗り回したい」
 くすくすと笑ってみせる。彼は歯を食いしばって、黙り込んでいた。
 どれだけ願っても、請うても、彼は私の首筋に牙を立ててはくれない。同じ種族にしてくれない。



 彼は、気の遠くなるような永い命を持つ、血がご飯の生き物。
 けれど彼は無理に人から血液を奪いたくないと言って、献血を装って血を得ていた。
 わざわざ献血カーまで所持して、本来行われているものと同様に。彼は空を飛べるだけでなく、色々と力を持っているらしく、それで上手くやっているらしく。
 本当の献血と違うのは、人命救助ではなく彼の生命維持の為に血液が使われるということだけ。
 献血がまだ開始されていなかった頃はどうだか知らないけれど、どうせ略奪と言えるような真似はしたことがないんじゃないだろうか。
 彼は優しい生き物だ。私はそれを知っている。

 例えば、私が成長するにつれ、勉強を教えられるように学年を先回りして猛勉強していることもそう。
 そして今、ここに来てくれたことも、そう。
 他にもたくさん、たくさん。



「御免だ、そんなの」
 私は本心を軽い口調で言ったけれど、彼は唇を噛み締め、辛そうな表情でそう吐き出した。
「お前には人として、幸せになって死んでほしい」
「私は青人と幸せになって死にたい」
 即座に言い返せばまた彼が傷ついた顔をする。それでも引けないし、譲れない。
 平行線だ。
 交差して互いの落としどころを見つけ、同じ着地点に辿り着くことが出来ない。かといってそのままぴったり、重なることもできない。
 十年以上、ずっと。
 互いに譲れなくて、気付けばなかなかの時間が経過している。彼にとっては大した長さではないのかもしれないけれど。
 額に手を遣った彼が、目線をこちらに寄越さず呻いた。
「頼むからとりあえず、今は寝てくれ」
 まるで錯乱でもしているかのような反応だ。何度目の会話だと思っているのか。
「話、終わってないよ」
 ぎろ、と暗い視線がこちらに向いた。
「気絶させてやろうか」
 これは少し、想定外の言葉だった。気になって質問する。
「え、どうやって?」
 彼は手を振り下ろすような仕草をしながら言った。それが、何だか可愛い、なんて思う。
「手刀」
 頭が痛くて、正直響くから堪えたかったのだけど、かなわなかった。結局私は笑ってしまう。
 彼自身にできるはずのないことを言わないでほしい。反応に困る。
 ベッドで半身を起こした姿勢で、にっこり笑う。そして私は、何度も言ってきたことを今夜も口にした。
「ほんと優しいね。そういう青人が誰より、大好き」
 直後、ぱちん、と彼が指を鳴らす音がした。私の意識が、彼の力で堕ちていく。
 いつになったら、陥落してくれるのかなあ。






 やっと寝静まってくれた。
 本当に困ったものだ。なりふり構わず、人の苦悩も知らないで。いや、理解した上での、あの振る舞い。
「『押して駄目なら押し通したいの』、ね」
 知ってるよ。そんなの。
 窓枠に腰掛け、膝の上で頬杖を突く。彼女の顔を見つめ、呟いた。
「ばか」


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