ある文学青年の煩悶

霧立昇


 僕は、しかめっ面をしてパソコン画面を睨んでいた。僕は文芸同好会に所属しており、同好会に提出する小説の締め切りがいよいよ三日後に迫っているのだが、まだたったの一文字も浮かんではいないからだ。
 さて、どうしよう。僕はしかめっ面のまま呟いた。
 今さらこんなことを言っても仕方がないのだが、今度の小説は冬休み中に書こう、時間もたっぷりあるのだからなんとかなるだろうなどと考えていたのがそもそもの間違いだった。クリスマスに高速バスに乗って実家に帰省し、そのまま正月までだらだらと過ごし、正月が来ると今度は実家の近所にある和食料理店に注文した美味しいお節料理を食べ、日本酒を少し舐めて寝転がって、正月特有の毒にも薬にもならない、芸人たちが笑っているだけの番組を眺めながら文字通りの寝正月を送り、正気に戻った頃にはもう新学期が始まる日が近づいていて、慌てて荷物をまとめて高速バスに飛び乗って下宿に戻ったのだった。
 そんなとろけきった脳味噌のままで小説など書けるわけがないのである。
 
 一応、こういうものを書いてみようか、という案があることにはあった。僕は腐っても文学部生であり、古典文学を好んでいた。その中でも中国の漢詩や聊斎志異などの怪奇文学が気に入っていた。なので、今回の小説は李白と杜甫を主人公に据え、唐の王朝末期の時代背景も踏まえながら二人の友情を中心にした物語を書いてみたいと思い、わざわざ図書館から李白と杜甫の研究書まで借りてきたのだが、そもそもこの漢詩の大家とも言うべき二人の交流を描くなど、並大抵の文章力でできることではないということに気づかされ、結局断念したのだった。
 もう少し書きやすいテーマがいい、最近見た映画で何か使えそうなネタはないだろうか。
 
 そうだ。行き詰っていた思考に一閃の光が差し込んだ。
 ある映画で落ち目の俳優を主人公にした、在りし日のハリウッドを舞台にした映画があった。映画オタクでもある僕はそれを見て自分の好きな俳優を主人公にあてはめ、彼にもこの主人公のような葛藤があったのだろうか、自分の見てきた映画の裏側ではこの映画のような役者たちの悲喜交々があったのだろうか、などと妄想し胸を熱くしていたことを思い出した。
 かつての映画スターを主人公にして、彼の栄光と挫折を彼の視点で語らせるというのはどうだろう。いや、さすがに俳優のままでは芸がない。女優に変えてみようか。そのほうがいい。女優だと役者としての悩みに加え、美貌の翳りへの不安や仕事と家庭の悩みなど、付け加えられる要素が多くなる。
 そう考えて僕はすぐに、ある女優が記者の質問に答えているシーンを書き始めた。

 およそ一時間後、僕はこのネタもボツにすることに決めた。冒頭の女優と記者のやり取りまでは良かったのだ。しかしそこからの彼女の女優人生の回想を書こうとして躓いた。そもそも映画俳優や女優の内面や映画の舞台裏を描いた作品など、この世にはもう既にごまんとある。書いているうちに、これは昔読んだことのある小説の二番煎じでしかないではないかという考えが頭を支配し始め、その途端にこれももう書く気を失くした。

 本当にどうしよう。僕は呻いた。
 このままでは本当に何も書けない。
 いっそ今回は小説の投稿を見送ろうか、そんなことまで頭をよぎったが、それはできるだけ避けたい。僕は自分が怠惰な人間であるという自覚がある。そんな人間が一度でもサボってしまえば、サボり癖が身に染みつくことは目に見えている。しかし何も思い浮かばない。
 頭を抱えているとLINEの通知音が鳴った。スマホ画面を見ると、高校時代の友人からで、同級生の皆がスーツやドレスを着て笑顔で映っている写真が送られてきた。実は今日高校で成人式の前に同窓会を開こうということになっており、自分にも参加するかどうかの問い合わせが来ていたのだった。しかし僕は不参加という返事を返した。同窓会の日は休日とはいえとっくに大学が始まっているし、そのためだけに実家にまた戻るのは大変だというのが一番の理由だったのだが、かつての同級生たちが楽しそうに写真に写っているのを見ると、やはり大変でも参加しておけばよかった、という後悔がじわりと胸に湧き上がってきたので、慌てて首を振った。ただでさえ憂鬱な時にさらに落ち込むようなことを考え出してはどうにもならない。何人かの本当に親しかった友人には春休みに会おうという約束を取り付けている。それでよしとしよう。
 ふと、中央に髪の毛を銀色に染めたいかにもガラの悪そうな男が目に入った。こんな男がいただろうか。しかしこの目つきの悪さには見覚えがある。しばらく画面を見つめて、ハッとした。心の底から死んでほしいと願っていたKに違いない。性格も見た目も仕草も声も、いっそ面白いぐらいに憎たらしかったあの男がよりにもよって集合写真の中央に陣取っている。
 やはり出席しないでよかった。こいつが居てはせっかく友人と再会しても心から楽しむことなどできなかったに違いない。それにしても日頃学校への不平不満しか言わなかった男が今さら同窓会に顔を出すとはどういう料簡なのか。図々しいにも程があるだろう。そもそもこいつは...。
 甘いノスタルジーから自分の青春時代の暗黒面に直面しそうになり、僕は椅子から立ち上がった。普段ならもう寝る時間だ。今日はもうだめだ。シャワーを浴びて寝てしまおう。
 
 シャワーを浴びていると、雑念まで流されていくような気になる。いい気分だ。
 すると、いきなりこんな考えが湧いてきた。
 何も書くことがないことを書いてしまえばいいのではないか。
 これだ。
 
 僕はすぐに風呂場から飛び出し、大急ぎで全身を拭きパジャマに着替えてまたパソコンに向かった。
『僕は、しかめっ面をしてパソコン画面を睨んでいた...』
 この一行から、一気に書いていく。今までの憂鬱が嘘のようだ。
 まったく小説のネタの浮かばない僕が、部屋で一人頭を抱えている。とうとう僕は自分の飼い猫との日々を綴り、そこに多少の脚色を加えることでお茶を濁すことにする。書き始めてしばらくして、飼い猫のユキのたてる物音が全くしないことに気づく。嫌な予感がして部屋を出て見ると、リビングの窓が開けっぱなしのままになっている。恐らくユキはそこから出てしまったのである。大慌てで家を飛び出し、絶望的な気持ちで辺りを歩き回った。やがて家の裏にある公園にたどり着くと、ユキはベンチに座った女性に抱き抱えられていた。僕はその女性には見覚えがあった。
 女性に思い切って声をかけると...。

 気が付くと朝になっていた。こんな長編を書くつもりはなかったのに。僕は疲労と眠気で重くなった体を投げ出すようにして、布団に倒れこんだのだった。
 
 
 
 
                      
                                



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