口紅を落とせば

あみの酸



 ルリちゃんの唇に口紅が施されている。
 僕は似合っていないと思った。


 おじゃまします、と控えめな声で言いながらルリちゃんはクーラーの効いた僕の部屋に足を踏み入れた。彼女がこの部屋を訪れるのは三度目だが、楚々とした澄まし顔が自室に現れることに高校二年生の僕はまだ慣れない。
 僕が適当に座って、と言うとルリちゃんは床に腰を下ろす。黒いキャミソールのようなワンピースの裾が、彼女の陽に当たっても白いままの脚を包む。今日は暑いね、と話す彼女の表情は涼やかだが、確かにワンピースの下に着た白のTシャツは汗ばんでいて、酷暑の中を歩かせたことに僕は申し訳なさを感じる。
 僕は、飲み物持ってくるね、とルリちゃんに伝えて部屋を出る。誰もいない階下のキッチンに向かいながら僕は玄関を開けて気づいた普段と少し異なる彼女の姿を思い起こす。
 ルリちゃんは今日、赤い口紅をつけていた。
 彼女が化粧をしている所は、学校の時はもちろんデートの時でも見たことがなかった。だから、画質の悪いカメラ越しでは気づかなかったが、淡い桜色をしているはずの唇が赤く染まっていることに強烈な違和感を覚えた。僕の部屋に着いてもなお、その赤さは拭いきれない存在感を放っていた。

 僕は二階で涼んでいるのであろう顔に想いを馳せながら冷えたカルピスを注いだグラスを二つ持って自室へ戻り、中央にある小さなテーブルに置いた。すっかり汗も引いた様子のルリちゃんは、ありがとう、いただきますと律儀にも手を合わせてからグラスに口を付ける。彼女はクラスで常に行動を共にしている女子の愚痴を悪びれもせず話す節があるが、いつでも礼儀はしっかりしているのだ。
 彼女の腹黒さに目を瞑り、些細な言動の好ましさに向き合いながら、彼女が僕の恋人になって五年目を迎えた。初めて彼女の美しさを知った時から彼女を慕う気持ちは変わらず、彼女への愛しさを発見する喜びと、その度に感じる心臓を撫でられたようなくすぐったさは繰り返される。
 この五年間で、彼女は僕に鼻の奥がつんとする慈しみを覚えさせたと同時に、骨の髄から熱く沸き立つ熱狂ももたらした。
 彼女の小さく華奢な指先に傷を付け、口を寄せ、傷から滲み出た彼女の血液を吸う。普通の恋人たちはおおよそしないと想われる行為は、二人の交際が始まって一ヶ月と少し経った頃に始まった。
 中学時代、彼女と務めていた図書委員の仕事中、彼女が資料の紙で指を切った。その左手の人差し指に現れた赤色が幼い日の記憶を呼び覚ました。ルリちゃんは宝石でできているという子どもの幻想を破壊し、陳腐な妄想よりも赤い血という鮮烈な現実を投げかけたあの瞬間の記憶。僕が彼女に執着する始まりがフラッシュバックした。我を失った僕は思わず彼女の手を取って、その血舐めてもいい? ととんでもない質問をしてしまうのだが、彼女は怪訝な顔をしながら気圧された様子で頷いた。後になって彼女から何かの小説や漫画の真似かと思ったと聞かされるのだが、兎に角その日から、僕は焦がれ続けた彼女の血の赤を少しだけ僕のものにする権利を得てしまった。
 二人だけの秘密は、学校の片隅で、ほとんど僕の気まぐれで、それでも彼女も浮ついた様子で、今まで途切れることなく続いている。血を吸われた後のルリちゃんの呆然とした表情は、成長してもずっと無垢な少女の愛らしさを漂わせる。彼女の焦点が甘くなった瞳を見る度に僕は心臓に血液が雪崩れ込む感覚を味わうのだった。

 今日も僕はその感覚に襲われたいのだ。
 グラスの中のカルピスを半分程に減らしたルリちゃんに僕は目線を送る。ねえ、今日もいい? と何がいいのかも言わずに問いかけた僕に、彼女はくすりと笑って、いきなり言うんだね、いいよ、と承諾してくれた。断られたこともないのだけど。
 勉強机にあるペン立てからカッターを取り出す。この用途でしか使われたことのないその刃を繰り出し、僕はルリちゃんに向かい合う。いつの間にか刃を当てられることに恐怖を見せなくなった彼女の指に新たな傷を一筋。カッターを机に置いた手で折れそうに細い指に口づけると、口内のほんのわずかな鉄の味にルリちゃんの血を生々しく感じる。つるりとした皮膚から唇を離し、あどけない彼女を見つけると、今度は自分の体内に満ちた血の激流を知覚する。
 しかし、彼女の中に幼さを見出す喜びに歪な赤色が差して僕の幸せを邪魔した。
 少女であるはずのルリちゃんの唇に乗せられた口紅が嫌に目に付いた。彼女の白い肌とのコントラストを生み出すそれは、窓から入る昼の日差しを受けててらてらと光っている。自分は大人の女性だと主張したがる眼前の赤色は、血肉の赤色よりずっとグロテスクに見える。
 ルリちゃんは僕が唇を見つめていることに気づいた様子で目の焦点を僕にカチリと合わせ、今日は口紅をしてみたの、似合う? と小首を傾げた。似合わない、今すぐ落としてくれ、と彼女に告げる勇気を持ち合わせていない僕は嘘をつくこともできずに、えっと......と答えをうやむやにしようと試みる。けれど彼女は逃がしてくれず、ねえ、どう? と再び聞いてくる。僕は誤魔化すことを諦めて、いつもの方が好きかな、と白状した。すると彼女は俯いて唇を内へ巻き込んで切なげな表情をした。そして、暫く黙った後に再び顔を上げて口を開く。

 あのさ、私はヒカルくんのこと好きだよ。ヒカルくんは私のこと好き?

 ルリちゃんの言葉の意図が解らなかった。四年以上付き合って何故今それを聞くのか。目を丸くした僕に向かって彼女は揺らぐ声色で更に続ける。

 ヒカルくんはこういうことがしたいだけなの? 私じゃなくてもいいなら私は嫌だよ。

 好きだよ。僕もルリちゃんのことが好きだ。好きじゃなきゃこんなことしないよ。

 誰でもいいはずがない。僕は慌てて答える。ルリちゃんだから好きで、ルリちゃんの血だから欲しいのだ。そんなことも伝わっていなかったことに僕は唖然とする。こんなにも僕は彼女のことで頭がいっぱいだというのに。
 するとルリちゃんは一瞬だけ照れた後、また不安げになって、堰を切ったように赤い口から言葉を吐き出した。

 じゃあヒカルくんはいつまでこのままでいるつもりなの? 四年も付き合ってるのに何も変わってないじゃない。私たちはもう子どもじゃないの。大人になっていくんだよ? 私ね、友だちの話を聞く度に不安になって、私たちは私たちだって思えない。普通の関係だったことなんてないのに普通の恋人ならって考える。だけどヒカルくんのことを好きなのは止められないし、だから私ばっか好きなんじゃないかって怖くなるんだよ、こんな気持ちはもう嫌なの、わかってよ、ねえ。

 彼女は癇癪を起こした子どものように大人になりたいと僕を責め立てる。今まで一切の疑問を持たずに交際を続けていた僕に、彼女にとって何が足りないのかまるで分からなかった。

 ルリちゃんばっかじゃないよ。僕は本当に君のことが好きなんだ。それだけじゃだめ?

 僕が必死になだめようとしても、彼女は一向に不機嫌で、怒気を含んだ声色を変えてはくれない。

 だめ。行動にしてくれなきゃやだ。

 行動と言われても何をするべきか思いつかず戸惑う僕に、ルリちゃんは呆れ顔で溜息を一つ。それからヒカルくんのばか、と呟いた瞳は冴え渡る黒色で僕を貫く。
 そして、彼女は腰を浮かせて膝立ちで僕に近づき、僕の頬に細微な生傷の浮かぶ手を添え、その小さな頭を僕の頭に寄せる。
 ルリちゃんは僕の唇に、自分の唇を触れ合わせた。
 自分の唇に合わさったルリちゃんの艶やかな赤に塗られた唇は、触れた瞬間には滑らかで、僕には上手く捉えられない。だけど離れる間際には微かな粘度と弾力。その僕の唇を離さまいとするような感触が脊髄を通って脳へと駆け上がってくる。

 そのかつてない刺激で芽生えたのは、高揚ではなく恐怖だった。
 人工的に作られた赤色は、彼女の中に脈々と流れる赤色を覆い隠す。彼女が僕とは違う存在なのだと触覚に訴えかける。幼い日に覚えた、人形のように美しい彼女も生きているという喜ばしい事実を今にも打ち砕かんとする。
 頬に添えられたままの手から伸びる白の細腕が、僕の視線を捉えて離してくれない黒の瞳が、こういうことなんだけど、と発する赤の唇が、祖母の家にある彼女に似た顔立ちのフランス人形を思い出させた。ドレスから生えた白い細腕は、何も映さない青い瞳は、塗装された桜色の唇は、今にも動き出しそうに精巧だが生気がなく、幼い頃の僕はその人形が怖かった。ルリちゃんの身体に血が流れていると知らず人形のようだと思っていた僕が現れる。
 目の前にいる世界で一番愛しいはずの彼女が、得体の知れない思考を宿したあの人形に見えて、背筋に悪寒が走った。
 
 反射的に僕は彼女の手を振り払い、肩を押して突き放した。
  彼女はバランスを崩して尻餅をつき、目を丸くしている。数度の瞬き。床に着いた手でカーペットを握り締める仕草とともに、みるみる彼女の顔が紅潮する。
 やっぱ好きじゃないでしょ!
 
 上擦る声で僕を非難する彼女は僕の愛情も嫌悪感も理解してくれない。キスを拒絶したことで何故好きだという気持ちを嘘にされなければならないのか。彼女の不安や怒りに無知な自分を棚に上げて僕は憤慨した。
 
 好きだからって何でもできると思うなよ。
 
 僕が彼女に対しては出したことのない低い声を乱暴に投げかけても彼女は怯まず反論する。
 
 私は好きだから何でもやったの! ヒカルくんと同じ高校に行きたくて必死に勉強したし、オシャレしてメイク覚えてヒカルくんに褒めてもらいたかったし、指が傷まみれでも我慢した。全部ヒカルくんが好きだから。それをちょっと求めちゃいけないの?
 
 そう言って涙を堪えながら怒る彼女は、再び上体を僕の方へ傾けて僕に抱きついた。普段は冷静で知的な彼女の媚びるような仕草に余計苛立ち、僕は華奢で頼りない身体を無理矢理剥がした。その拍子に彼女の腕がテーブルにぶつかった。二つのグラスが倒れ、天板に半透明の白い水たまりが広がる。その中でカッターとともに横たわるグラスの片方の淵にぺたりと付着している口紅の赤にすら嫌悪感を抱く。
 もはや彼女のことを、その中に血が流れていることまで愛しいルリちゃんだと思えなくなってきた。ただの煩わしい動きをする人形になってしまった彼女は、それでも僕にしがみつこうとする。今の彼女に何を言っても伝わらないだろうから、いっそ部屋から追い出してしまおうと僕は彼女の両腕を掴んで立ち上がろうとした。すると彼女は、きゃっ、と小さな悲鳴をあげ、僕を怯えた目で見上げた。
 
 嫌だ、殴らないで!
 
 僕が暴力を振るうと思ったのだろう。自分は被害者だと信じて疑わない態度が腹立たしい。これが暴力だと言うのならさっきのキスも僕にとっては暴力だ。
 彼女が無茶苦茶に腕を動かして僕の手を振りほどいたから、今度は片手の手首を掴んで引っ張り上げる。僕の手のひらに収まる折れそうな手首に愛情はもう感じない。僕は立ち上がり、手を後ろに大きく振って彼女の身体を引きつける。
 カチカチカチカチ......。
 僕の動きに合わせて彼女の背中に少しかかる真っ直ぐな黒髪がさらりと揺れる。生糸のように艶やかな髪に覆われて表情は見えない。その小さな頭が僕の意志から離れて動くと、
 
 ぐさり。
 
 鳩尾がみるみる熱くなる。彼女を掴んでいた手から力が抜け、膝が床に着く。自分の上体を支えきれず、視界には自室の天井が現れる。
 長く繰り出された刃が真っ赤に染まったカッターを手に持って、彼女が憔悴しきった表情で僕を見ていた。
 
 僕はそこで初めて自分が彼女に刺されたことを理解した。
 彼女の右手には血が垂れ、服や腕にも毒々しい斑点が浮かび上がっている。口紅より遙かに美しく鮮やかに彼女の白い肌に映える赤。僕の中でさっきまで流れていた血が彼女の生命を彩って際立たせる。
 
 だけど、やはり、彼女には彼女自身の血が似合う。
 
 彼女の血が見たい。
 この物騒な考えも、刺された箇所が持った熱に煮立てられ徐々に輪郭が溶けてゆく。視界の端で震えている彼女の姿も揺らいでゆく。ぐつぐつ、がくがく、じくじく、どろり。
 
 ごめん、大丈夫?
 
 うん、平気だから。
 
 大丈夫でも平気でもないことはお互い気づいているが、自然に言葉が出た。
 
 たぶん傷は深くない。彼女が自ら通報すれば僕が死ぬことはないだろう。彼女が本当は真面目で律儀なことを僕は知っている。血とともに流れ出す意識の中で、僕は彼女のことを考えている。
 僕が次に目を覚ましても、きっともう二度とルリちゃんと会うことはないだろう。

 僕の血を浴びて戦慄く少女に脈動を感じながら僕は眠りに落ちた。


さわらび121へ戻る
さわらびへ戻る
戻る