黒の森と雪の精

じれ



 しゃりっ、しゃりっ、しゃりっ
 
 踏みしめる足に霜がまとわりつく。
 誰もいない冬の森で私の足音だけが耳に入り、私の孤独さをより際立たせる。薄く青白い地面と濃紺の夜空はどこまでも続き、枯れ木は私の祖母の手を彷彿させるほどに細く、痛々しかった。黒の森にも死は訪れるのだ、と祖母はよく言っていたものである。
 
 赤い頭巾の尾を今一度強く結びなおしても、冷気は私の頭巾の中に入ってくる。母の編んだ毛糸の手袋はもはや用をほとんど為しておらず、祖母が私のためにと編んでくれた赤い外套と祖父がなめしてくれた革靴が今の私を守ってくれる最後の砦だ。


 月が出ない冬の夜に雪の精は現れると祖母は言った。今住んでいるここではなく、祖母の生まれた場所の言い伝えらしい。
 とても寒い夜に人も狼も立ち入ろうとは思わない場所で彼らは踊る。彼らの足元には霜が降り、そこを彼らは舞台とする。彼らを見た者は幸運になるそうだ。
 この話は私にとってあまりにも幻想的で、妄言的で、憧れはしたが信じはしなかった。
 
 
 しゃりっ、しゃりっ、しゃりっ
 
 日の入り前に出発したはずなのにまだ家が見えない。外套をもう一度私の前にグイっと寄せ、寒さを堪える。歩みを止めてはいけない。ここで座り込めば間違いなく凍え死んでしまう。

 体が飢えていることをひしひしと感じる。出発してから一滴も水分を口に含んでいない。しかし、家から持ってきていたお湯も薄氷の膜が出来ていて飲めたものじゃなかった。家を出る前に手に持ったパンはもう手元になく、こぼれそうな涙を飲むことさえ考えるほどだった。
 
 
 顔はうつむき、歩幅は詰まる。歩き続けることに限界を感じ、ついに木の根に腰を下ろす。足を投げ出し、顔を上げ、夜空を見る。濃紺だった夜空はいつの間にか薄白くなっていて、間もなく雪が降り始めた。口を開けても雪は入ってこない。思わず自嘲じみた笑みがこぼれる。
 
 ああ、ここで死ぬのだろうか。そう思わずにはいられなかった。
 
 
 鈴の音がする。幼い子供が走り回るかのように軽やかで、氷のように澄みきった音だ。周りを見渡すとほんのり明るくなっている場所があった。その明るみにつられて私は歩いた。不意に祖母の言葉がよぎる。冬の新月の森の中、少しの期待と疑念を抱えて雪を踏む。鈴の音はだんだん大きくなり、いよいよ期待は高まる。
 
 
 急に開けた場所に出た。そこはあえて木を植えなかったのかと思うほどにぽっかりと空いていて、小さな花が群生しやすそうな場所だ。しかし、ここはあまりにも見覚えがある場所と一致していて、思わず戦慄する。
 
 ここは、忘れもしないあの場所。
 奴に、男に、野郎に、私は。
 
 「あああああああああああああああ!!!」
 
 自分でも驚くほどに大きな声が出た。まさに絶叫ともいえる声は反響することなく空に呑まれる。これほどの大声を出したのはいつ以来だろうか。自分の肩を抱き、その場に膝を突く。
 
 膝が刺すように痛い。しかし、それを上回るほどの痛みを私は知っている。そして、金縛りにあったかのように動けなくなる。また奴がいるのではないかと思うとすぐにでも卒倒しそうだ。
 
 「あ、あ、ああ・・・」
 
 逃げたいのに立ち上がれない。叫びすぎて立ち上がる力も失くしてしまったのだろうか。肩を抱いていた両腕をだらりと下ろし、脱力する。さっきまで聞こえていたはずの鈴の音はもう聞こえなくなっており、ここまで鈴の音を追いかけてきたことが徒労に感じる。
 体が鉛のように重い。まぶたも上がらなくなってきている。まどろみに身を任せ、後ろの樹に身を預ける。
 
 今度こそ死ぬのか。寒い、冷たい、痛い・・・
 
 
 ここは天国なのだろうか。楽園にしては、先ほどよりも寒くなっているように感じる。軽やかな鈴の音が耳をなでる。凍てついたように重いまぶたを開けると、目の前は霜の広場だった。
 
 私の膝ぐらいの背丈の子供たちが広場に集まって踊っている。フォークダンスからポップダンスまで幅広い演目が次々と披露され、私はただ見ていることだけしかできなかった。幻想的ともいえるその光景は天国そのものか、死ぬ前に見ることができる幸せな夢のようだった。
 ある子供が両手に何かを載せて、私に差し出してきた。私が両手でそれを受け取った後、言葉一つかけずにその子供は踵を返して踊りの輪に戻っていった。両手の中の小さくて硬い粒を空にかざすと、その白さがより際立つ。試しに口に含むと砂糖菓子のように甘かった。そして雪のように溶けていく。
 
 いつしか私はここにいることが苦ではなくなっていた。思い出すだけで吐き気がするような地で過ごす真冬の夜であるはずなのに、なぜかこの場所と寒さを憎めない。彼らの踊りは寒さを忘れるほどに私を魅了し、空腹を感じる暇を与えないほど私を虜にする。幻想的な踊りから徐々に幻惑的な調子に変わっていき、私は再び眠りについてしまった。
 
 
 
 次に私を目覚めさせたのは暁の光だった。結局、私は夜明けまでに帰ることは出来なかったらしい。周りを見てもただ霜柱が林立しているだけで、子供たちの足跡さえどこにも見えなかった。
 
 しゃりっ
 
 いくつもの霜柱を踏みつぶして私は立ち上がる。明るくなれば、この森は分かりやすい。家の方角を確認して、私は歩きだした。右手に砂糖菓子のお土産をもって。


さわらび121へ戻る
さわらびへ戻る
戻る