君にささげる悪夢

亀村紫


亀村紫
?

 まばゆい夜だった。
 夢に夢中な彼の顔を後ろに、私はベッドを抜け出した。
 お茶を入れよう。そう思った。紅茶の葉が積もっている幾つかのブリキ缶は、彼が宝箱みたいに大切にしていたものだった。ティーポットでお茶がにじみ出るまでの3分。彼はよく目を閉じたまま、何かに耳を傾けたりしていた。まるでこの世で一番偉大な演奏会の最中みたいに。
 「起きて。」
 魔法の注文のように唱えてみた。魔法はありえないことを叶えてしまう邪悪な力。正に私に必要なものだった。
 もちろん、彼は平穏な呼吸で眠ったままだ。
 私は汚れ一つない窓を開けてテラスに出た。夜の優雅(ゆうが)さに交われない、不憫(ふびん)な月がいた。青白い肌のせいで今にも夭折(ようせつ)しそうな、空っぽの望月(もちづき)だった。
 月に住んでいるウサギは願いを叶えてくれる。
 誰かに聞いたその噂を、私は信じることにした。神さまよりは、ウサギさまの方がいそうだから。月で餅をつくのにうんざりして、遊び半分で祈りを聞いてくれるかも知れない。

 ウサギさま、夢の中でもいいから、私の願いを叶えて。

 そして、私は彼のとなりに戻った。

①

 赤い信号が青へと変わった。僕が踏切を出くわし、渡ろうと思ったその瞬間だった。
 「運がいい」と思ってもいいのかは分からない。物事にはすべて理由があると聞いたから。「運がいい」と思われることにも実はあるきっかけや理由があって、何らかの経緯で偶然、こんな結果になったのではないだろうか。
 もちろん、こんな偶然に恵まれなかった人もこの世にはいて、振り向くと赤信号に道をふさがれた生徒の群れが見えた。ここの信号はやけに時間を食うということで名高く、生徒たちは全員それを知っている表情だった。「ついてないな」、そんなことを考えているにちがいない。彼らには今日、遅刻してはならない理由があるのだから。
 ある女の子が真剣に左右を見ていた。焦り気味の生徒の中でも、抜群の焦り。僕と同じ色の制服に、僕はしばらく視線を奪われた。
 そして、その視線をそらすにも前に、彼女は車道に飛び込んだ。僕はすっかり見とれていた。赤い信号、走る女の子、無表情の人々、走る車。そんなのはこの街でいつでも見られる、日常の一コマだった。しかし、彼女が横断歩道を半分ぐらい渡って、全てが変わった。止まった車、仰天した人々、横になってる女の子、青い信号。
 そして、目をぎゅっとつぶらせるクラクションの音。
 顔が丸い老婦人が車から降りた。彼女は小走りで女の子に近づき、かがんだ。
「危なっかしいね...大丈夫?」
 人々は道を進んで行く途中にちらっと二人を見るだけだった。長居する人はいない。
 女の子は転んで尻餅をついただけで、車にひかれてはなかったようだ。老婦人が女の子の手を引っ張り、立たせた。制服のスカートがとても震えていた。
「歩けるかしら。私が連れて行ってあげたいけど、ね......」
 老婦人は困った顔をした。彼女の職業は知らないが、恐らく出勤途中だっただろう。ここは朝からドライブを楽しめるほどいい街でもないのだ。道をふさがれた車たちが、罪のない老婦人に向かってぶうぶうと脅しかけていた。
 きょろきょろする老婦人と目が合った。
「君、この子と同じ学校よね。」 
 僕は左右を一回ずつ振り向いて、「僕ですか?」と言わんばかりの鈍い顔をした。僕の横を通りすがる人々が足を速めた。僕も逃げようとしたら逃げられたものの、思わず、前に一歩踏んでしまった。
「そうよ、あなた。この子と学校まで一緒に行ってあげてくれないかしら。この子、歩けないみたいよ。」
 こっちを向いた老婦人の目には信用というものがまるでなかった。助け手を見つけたのはいいものの、ひょろっとしてどこか陰気な男の子ではどうにも気にかかるのだろう。しかし、老婦人には他の選択肢がなかった。
 それは僕も同じだった。僕は砂粒みたいに流される人だったから。率先して善を行う勇気がない上、悪を行ってののしられる勇気もなかった。
 もし勇気がある人だったら、女の子が尻餅をつく前に身を投げて守ってあげたのだろう。あるいは「いけない、遅刻するぞ」とつぶやきながら、とっくにこの場を去ったのかも知れない。僕はどっちでもなく、ただ「はい......」と答えるしかなかった。
「よかったわね... 頼むわよ。」
 老婦人の手から「相光(あいみつ)」を渡された。鞄のストラップに書いてある、はじめて見る名前。相光は何かを欲しがるようにこっちを見たが、僕は目をそらしてしまった。老婦人の車が僕と相光を通り過ぎ、歩行者の信号はまた赤になっていた。
「とりあえず、渡ろう。」
 一番手っ取り早い方法は、文字通り、彼女の手を取って走るのだったが...... 僕にはそのような決断力がなかった。代わりに彼女の後ろに回って鞄を奪い取った。
 運転者たちがガラス越しに威嚇のまなざしを送ってきた。
「何してるの?」
 相光が言った。いいながらも僕が鞄を軽く引っ張ると、腕を伸ばして取りやすくしてくれた。何が入っているのか、思ったよりもはるかに重かった。
「重いと歩きにくいから。ちゃんと歩けないんだろう?」
 彼女は納得がいかない顔だったが、何も言わなかった。
 横断歩道を抜け出す間、相光は何度もふらついた。僕は伸ばそうとした手を何度も収めた。僕と相光は、学校に着くまで一言も交わさなかった。

「さて、今日はせっかくだし... 少し早めにおしまいとするか。あ、遅刻した人は残れよ。」
 先生の言葉が歓喜と絶望を巻き起こした。慌ただしく机を片付ける音で、教室はいっぱいになった。絶望したのは僕を含んだ三人だけだったが、三人の絶望は収まる気配もなく続いた。
「先生、今日は、」
「いかん、いかん。こういう日だからこそ、遅刻しちゃいけないだろう? 教員室片付けて、廊下掃除して、7組の先生に確認もらったら帰えっていいぞ。」
 そう言いつつ、先生は上着を羽織った。終礼が終わったらすぐ帰れるよう、万全の準備をしてきたのだった。先生すら放課後を待つ一学生にしてしまう、今日はそういう日だった。

 「カシアライム」は再臨したビートルズ、生まれ変わったクィーン、平和を取り戻したオアシスと呼ばれロックバンドだった。新しい音楽性に混じった、懐かしい熱気。かのオールドバンドとはまったく違う魅力で、かのオールドバンドのように世界を魅了させた。そんなロックスターがライブで世界中を回ることはそれほどおかしいことでもないが、なぜ日本の、こんなロックの気配が一切れもない街まで来るのかは、誰にも分らなかった。お金がたくさん稼げるわけでも、バンドのメンバーがここの出身なわけでもない。(同然、彼らは全員イギリス生まれだった。)ともあれこの街は時ならぬお祭り騒ぎだった。
 先生は軽快なステップで教室を去った。彼は先生ゆえに廊下を走るわけにはいかないが、そこは早歩きで妥協するだろう。それで正門を出て、車の運転席で少し息抜きをする。目的地はこの街で雄一、二万を超えるファンを受け入れることが出来る場所、市立のスタジアムだ。
「先生になればよかったな。好きな時に学校を出れるからよ。」
 僕と同じ悲劇にさらされた遅刻者がつぶやいた。先生になるためにはまず卒業するべきだということを、忘れているのだろう。
 そう言いつつ、床を掃除する手を急がせた。
 「せっかく空いたから、チケットを買ったというのに......」
 「まったくだ。あのアホの尊い犠牲も無駄になったぞ。」
  七日前まで、我々がカシアライムのライブに行くのは夢でしかできない話だった。よりによってライブの次の日が期末テストだったのだ。チケットを買う人はテストによほどな自信があるか、それともテストそのものを気にしていないかのどっちだった。その他の学生にライブチケットは、甘い毒リンゴのようなものだった。
 しかし、音楽の神様が哀れに思ったのだろうか。五日前、テストの内容が丸ごと漏洩した。おかげで全先生がパソコンの前に戻り問題を作り直さないといけなかったし、それは五日で終わらせる仕事ではなかった。結局テストは十日後に延期され、漏洩事件の犯人である生徒は、学生たちの間で「偉大なるアホ」と呼ばれるようになった。もちろん、そのアホはもうこの学校にいられなくなったのだが。
「って、お前は何があったんだ? 普段は一時間も早くきて自習なんかするやつが。」
 もう一人の遅刻者が僕に聞いた。とくに本当のことを言う理由もなかったので、僕は適当にごまかすことにした。
「遅刻に訳なんてもんはない。寝坊だよ、寝坊。」
 みんなが頷いた。 
 本当のことを言う。その案も考えてみなかったわけではない。
 先生に「事故に遭いそうだった我が校の生徒を連れてきて遅れました」と、「だから掃除を免除してください」と、言ってみてもよかったかも知れない。しかし彼女は事故に「遭いそう」だっただけだし、僕は彼女の鞄を持ってあげただけだった。善を行ったっていうには、あまりにもしょぼい膳だった。
 そういえば、相光も遅刻したはずだ。
 彼女は僕となんの関係もない人だった。例えば空と地のように、すれ違うことはあっても目を見合わせることはない間柄。廊下では異常なくらいよく見かけたけど、それだけだった。僕は今彼女が遅刻したのかどうかよりも、モップにくっついたホコリをどうやって取り除くかについて考えるべきだった。
 しかし、だ。考えれば考えるほど残念な出来事だった。彼女、相光が車にひかれかけてまで遅刻を避けたがっていた理由は、今日に限って、大体の予想がつく。彼女もまた「カシアライム」のライブチケットを持ってたのだろう。だから掃除で帰宅が遅れ、ライブに間に合わなくなるのだけは死んでも避けたかったのだ。だというのに、結果はこの通りだった......
 僕の予想を証明でもしてくれるように、相光の姿が目に入った。彼女はひどく顔をしかめて掃除をしていた。やる気がないようで、ほうきの毛はかろうじて地面をなでおろすので精一杯だった。相光はほうきが似合っていた。掃除屋としてではない。そのほうきに斜めにまたがって、足を組み、魔女のように飛んでいきそうだった。......そんな顔をしていた。
 相光の横顔を見ていた視線が、本人にバレてしまった。彼女は嬉し気にほうきを落として、僕に近き、こう言った。
「ごめん。遅刻したよね? 私のせいで。」
 僕は冗談で返すつもりだったが、後で考えてみると、少しウザい人のように見えたかも知れない。やりすぎた。
「まあ、そうだね。よりによってこんな日に、人生最初の遅刻なんて。不思議なもんだ。」
 幸い、彼女は笑った。
 笑ってくれた。
「君もライブを見に行くんだね。そりゃそうよね。新しいアルバムはもう聞いてみた? 前とはスタイルがぜんぜん違って......」
「いや、そこまでファンではないから...」
「そう...... そうなんだ。」
 彼女の表情を見て、僕は後悔した。それぐらい酷い表情をしていた。しかし、彼女は表情を改めることもなく続けた。
「私はカシアライムが好き。彼らみたいになるのが夢だから。正確には、夢の一つ、かな。」
 相光は目を光らせたり、遠くを見ながら希望を抱いたりはしなかった。その落ち着いた目を見ると、彼女が本気なのかすら疑わしいかった。だが、今日はじめて話し合う人に嘘の夢を言う理由もない。
 僕が慌てて、目をそらして先生の監視を気にしていると、相光は呼び戻すみたいに言った。
「君は、なんでライブを見に行こうとしたの?」
 それについては、情けない返事が用意されていた。彼女みたいな人の前では言いたくない返事。それでも、向こうが本気で話してる以上、こっちもそうするしかない。
「有名人だからさ。一生に一回見れるかどうかの。」
 なぜか、彼女は喜んだ。よく変なことに喜ぶ子なのだろうかと、僕は思った。
 彼女は僕の反応など気にもせずに続けた。
「好きなものは?」
「ゲームと映画。本も嫌いじゃないけど、すすんでは読まない。多くても月に一冊ぐらい。」
「よし。じゃあ、例えば、直接映画を作りたいって思ったことは?」
「......ないね。」
「そう......」
 相光は変わらず笑っていた。そして急に右手の人差し指を挙げ、他の手ではスカートのポケットから(僕はそこにポケットがついてることをはじめて知った)くしゃくしゃになった紙切れを出した。
「指定席のチケットよ。これがあれば列に並ばなくても、一番前でライブが観れる。」
 相光栞奈(かんな)、という名前がチケットに書いていた。
「身分証の確認とかはたぶんしないよ。人が山ほどいて忙しいはずだから。」
 平然とチケットをもらう、みたいな真似はできなかった。朝のことで彼女に貸しを作ったのかもしれないが、遅刻の言い訳にも使えない些細な貸しだった。その報酬に一万円を軽く超える指定席のチケットは、さすがに分に過ぎる。
「チケットを僕にくれてしまったら、相光は?」
「君の一般チケットをもらうよ? 並ばなきゃいけなくなるけど、その方が面白いはずだから。ファンじゃない君には列並びなんて退屈でしょうが...... 私は違うからね。」
 きれいな笑顔だった。
 僕は結構な時間を悩んでいたらしく、相光の腕が小さく震えていた。僕を待っていたのだ。わざわざ腕を挙げていなくてもよかったのに。僕は片手をポケットに入れ財布に触った。いざというとき掃除をさぼって売店に行くためのものだった。
「分かった。相光の言う通りだよ。でも... お金は払わないと。指定席なら、僕のチケットよりずっと高いだろう。」
 彼女は待っていたように、もう一度きれいに笑った。
「九千円よ。」
 高い。予想はしていたが......
 もちろん、世界的なロックバンドのライブチケットにしては安いどころか、タダも同然の値段だが、高校生のお小遣いはライブチケットを買うのに適していない。もともとそういう用途ではないのだ。
 指でお札を数えていると、七組の先生が階段を上ってくるのが見えた。
「まって。お金は後でいいよ。」
 相光は僕の腕を持ち、腕ごとポケットに入れたがるようにぎゅうぎゅうと押した。そして素早く自分のホウキが落ちているところに戻る。どうも先生としては、神聖なる学びの場で大金9千円が行き来する様を見逃せないのだ。そういう名分で相光のチケットを没収する可能性もあった。
 ホコリの臭いの中から、相光の声が香織のように聞こえる。
「ライブ、楽しめるといいね。」
 僕はモップを、彼女はホウキを手に取った。先生がこっちに近づいてくる。
「大体終わったでしょ? もう帰っていいよ。私も帰りたいから...... うん? そんなにうれしいの?」
 僕はどうやら笑っていたようだ。先生はそれが「掃除が終わったから」だと思ったかも知れないが、違う。僕にはもう指定席のチケットがあるから、急ぐ理由はどこにもなかった。なら一体、なにがそれほど嬉しかったのだろう。未だによく分からない。
 理由はともあれ、嬉しかったのは確かだった。僕は嬉しすぎて、あの時は疑う気にもならなかったから。
 指定席のチケットを持っていたのなら、相光はなぜそんなに焦って赤信号を渡ったのだろうか。

②

結局、って簡単に言ってしまっていいのかは兎も角、僕は相光栞奈と付き合うことになった。誰かが先に告白したわけではなかったし、学校の誰にも知らせたりしなかった。だからといって隠したりもしなかった。そんな地味で静かな、高校生らしい恋愛だった。
 付き合った理由と呼べるものは、一応あった。一番前の席で観た「カシアライム」のライブが思ったよりも胸に響いたこと。次の日、学校で見た栞奈の顔が普段とは 違く、つまり美しく見えたこと。その割には彼女の、車にひかれかけた時の驚いた表情を思い出して笑いを堪えなくてはいけなかったこと。
 実はそういうものも、誰かに聞かれた時を備えて作った言い訳にすぎない。もしその誰かが三回以上しつこく追及し始めたら、僕は「なんとなく」と答えるしかなかった。

 栞奈は何らかの事情で一人暮らしをしていた。我が校はこう見えてもそれなりの由緒を持つ学校であり、近くのアパートを借りてまで通おうとする生徒も多々あった。栞奈もその一人だろうと、僕は勝手に思った。それ以外に、学校から徒歩で十分弱というワンルームで暮らす理由はないから。
「この距離、遅刻する方が難しそうだけどね。」
 僕はフライパンを揺さぶりながら言った。
 栞奈はノートパソコンの画面を見ている。わざと皮肉っぽく言ったつもりだったが、彼女はただただキーボードを叩いていた。時々手が止まったときだけ返事をした。
「ちゃんと早起きしたんだよ。時間が浮いて練習を始めたら、そうなっただけ。」
 栞奈の部屋の隅にはギター一台が近衛兵にでもなったつもりで、ぼうっと立っていた。海色か空色か見分けがつかない、きらきらした青いギター。しかし栞奈が練習を休んでいるときは真っ暗なギター鞄に隠れていた。僕が外出から戻ってギターの頭に上着を掛けておくと、栞奈は硬い表情で怒り出す。
 野菜炒飯を二人分に分け、テーブルに持って行った。栞奈がそれを見てパソコンをどかした。
「いただきます。」
「珍しいね。練習もせずにネットサーフィンなんて。」
「作曲だよ、作曲。練習の一環でしょ。」
 やっぱり。栞奈は学校が終わったらよそ見もせず家に帰ってきて、宿題もほっといて練習から始める子だった。そのために生きていると言ってももいいほどに。僕は彼女の視野から逃れ、彼女のことを見守るのが楽しかった。
「ちょっと聞いてみるね。」
 僕は栞奈の足元にあったパソコンを持ち上げ、開けた。
「ちょっと、まだ完成してないのに。」
「大丈夫。食事のときに流れる音楽は素晴らしい。それがどういう音楽であっても。そう決まってるんだよ。」
 僕は音楽を人並み以上に好きだったが、できることは拍子に合わせてリコーダーを吹くことぐらいだった。もちろん、その音色が際立っていいわけでもない。並みの高校生なら誰でもできるレベルだった。
 それでも、一つだけは知っていた。音楽は作曲した人の性格とそっくりになるということ。カシアライムと似ているるけど全く新しい、その音楽は明らかに栞奈のものだった。
「バンド部でも入ればいいのに。楽しいはずだし......」
 彼女にすまなくなって、思わず言ってしまった。テンポがどうとか、オリジナリティがどうとか、ここはこうした方がいいよね、と言ってあげれないことが、なんだか悲しくなったのだ。彼女は好きな人と好きなことについて語りたいはずなのに。
「あそことは合わないから。」
「合わない、か。」
「音楽的に違うし...」
 栞奈が目をそらして、僕は女の子を泣かした悪ガキみたいな気分になった。いや、実際にそのままかも知れないが。
 僕は人々と円満にやっていける人だったが、積極性はなかった。来るもの拒まず、去るもの追わず。そういうスタンスだった。しかし、もともと来るものの数自体が平均に及ばなかったうえ、その少ない人たちすら平然と、追わずに去らせてしまった。傍から見ると、それは人間関係を大切に思わない、冷血漢の姿に見えたようだ。実際に、そこまで間違った表現でもなかった。
 しかし、それはいいことでもある。少なくとも去らずに残ってくれた人たちは、本当にいい人ばかりだったから。
「音楽のことなら、バンド部なんかより、君と話した方がまし。」
 栞奈は僕と似ていた。似ているスタンスをとっていた。だから僕はそれ以上、バンド部について聞かないことにした。

「それはそうとして、」
 空いている栞奈の皿が見えた。僕がやっと半分を食べたときのことだった。彼女はもともと食べるのが早いけど、それでも二倍の差というものはなかなかない。いったい何が彼女をそんなに焦らせたのだろう。
 栞奈は奪うようにパソコンを取った。少し触った後にはペンのようにくるりと回して、また僕に画面を見せた。
「今日、月が一番大きく見える日だって。科学館の大型望遠鏡で見られるらしい。」
 うちの街にある科学館のホームページだった。歩きで三十分。近くはなかったが、行けなくもない距離だった。
「スーパームーン、って言うんだっけ。」
「うん。それ。」
 そういえば、
「中学校のころは、天文部だったって言ったよね。」
 恐らく、それは栞奈が青いギターに出会う前のこと。今でも天文部の何人かとは連絡しているみたいだった。
 栞奈の皿は空いたままで、彼女は一手に頬杖をついて僕を待っていた。片手ではマウスを動かしていた。
「うん。それが、なに?」
「月は、大きくなったらどれぐらい大きくなるのかな。」
 僕が質問すると、彼女はテストで難問を出くわしたような顔をした。頬杖を維持する余裕もなさそうだった。
「どれぐらいって...... 大きくても君の頭ぐらいじゃないかな。地球から見えるのは......」
 僕は自分の頭を手加減で測ってみてから答えた。
「そうか、それならスーパームーンって言っても大したことはないのか......」
「いや、違う。スーパームーンは違うはず。私は普通の月しか見たことがないんだから。そう、きっとこのテーブルぐらいにはなるはず......」
 僕が黙っていたのは決して脅かすためではなかったが、彼女はなぜか自白をし始めた。
「ごめん、実は天文部って言っても、放課後に集まってカードゲームをする部だったの。周りにここみたいな科学館もなかったし...... 月なんてまともに見たことない...... かも。」
 大人っぽい水玉が満ちて、栞奈の目がつるんと光った。たかが月見に、そこまで悲しい涙をかけるのか......
 僕は悪いことをしていないはずだったが、それでも、だ。泣いている子を前にして黙っているわけにはいかない。
 ご飯を口の中に含んだまま、僕は言った。
「よし、行こう。科学館。」
 栞奈が呆然と目を合わせてきた。
「本当に?」
「うん。本当に。」
「いや、もう一回聞く。ほんとうに?」
 ......彼女がはっきりしたいのも無理ではなかった。僕が確答を出すなど、そうそういないことだったから。自らも優柔不断を座右の銘として考慮しているくらいだった。だが、優柔不断でも何の問題もなく生きてきたし、決断を下さないといけないのはほんの何瞬間だけだ。例えば、今のような瞬間。
 もう一度答える代わりに、首を縦に振った。栞奈は笑う時間も惜しがるように、パソコンを閉じて上着を取りに行った。
「あ、待って。明日まで数学の宿題があったね。それだけやって出ようか。時間は充分あるはずだし。」
 栞奈の動きが止まった。裏切られたようなその表情を見るのが苦しかったが、高校生の一日はこんな風に流れ、こんな風に維持されるものだった。こんな手でも打って栞奈を教科書の前に座らせないと、どこかに離れて住んでいる彼女の両親に合わせる顔がない。
 栞奈はまだ上着の裾をぎゅうっと握っていた。
「じゃあ、科学館に行かなければ、宿題もしなくていいってこと?」
「それは違う。宿題はしないといけないだろう。」
「......」
 泣くほど行きたい月見も、宿題免除の下に過ぎないか。やはりよく分からない。
 栞奈は何分か僕をにらみ続け、やっと上着を諦めたかと思うと、今度はギターがある端っこに向かった。  
「なら、君が食べ終わるまで練習してる。それぐらいは許してくれるよね?」
 僕は笑顔を隠すため、ご飯を口に押し込んだ。
「もちろん、許すよ。」
 栞奈が黒いギター鞄を脱がせた。
 彼女の曲はさっきも聞いたが、やはり音楽鑑賞はライブバージョンに限る。お隣さんに音が漏れるかも知れないけど、そのくらいの危険は背負ってあげたかった。僕にできることはそれぐらいだったから。
 栞奈の顔がいつにもましてまじめだった。僕は箸を持った、よく鈍(のろ)いって怒られる手をさらに遅らせた。「食べ終わるまで」その音楽を聴いていたかった。 
  
 栞奈の目が望遠鏡から離れ、僕の方を見る。悲しい目立った。
 先にその望遠鏡をのぞいた僕としては、彼女の複雑な心情をはかり知ることができた。
 スーパームーンは僕の顔どころか、片目よりも小さく見えた。
「スーパーなんて偉そうな名前してるけど、実はただ月と地球が一番近くなる現象を指してるだけらしい...... 年に十二回も起きるし、大きく見えても、肉眼では普段との違いが分らないぐらい......らしいです。」
「よくそんなもので客を引くわね、科学館は」
「だね。無料だからいいけど。」
「よくない。」
 僕は科学館のガイドさんに聞いた話をそのまま伝えた。栞奈は科学館だろうが動物園だろうがそういうガイドさんの話を聞かないタイプであって、そっちに耳を傾けるのはいつも僕の役目だった。
 しかしそんな説明では、夢を壊された子供を慰められない。
「いっそ、月を見たことがなかったのなら...... もう少し嬉しかったのかな。」
 悲しいことを言う......
 栞奈が望遠鏡から離れると、お母さんにくっついていた男の子が交代するように走っていった。その後ろに、背が同じぐらいの子供たちが何人か並んでいる。ただ黒い背景に描かれた黄色い丸を、不思議がって見つめることができるだろう。
「まあ、いいわ。」
 さよならでも言わんばかりに、懐かしく望遠鏡を見つめる栞奈。そして突然、僕の手を引いて観測室を抜け出して階段を上り始めた。
「栞奈? どこいくんだよ。」
「月と一番近いとこ。」
 この街の住民たちは科学館のことを「小学校の体験活動の日になると込む場所」ぐらいにしか思っていないようだったが、ここは名実ともにこの国一番の科学館であった。それはプラネタリウムみたいな大層な施設を見ても、建物自体の横幅と高さを見ても、紛れもない事実だった。
 つまり、とっても高い。その何階なのかも数えきれない建物を、栞奈は一瞬で上った。

 屋上では、風がどこからどこへと吹いているのかすら分からない。四方が壁もなく打ち開いていて、どこにでも落ちることが出来そうだった。空にかかっている月は望遠鏡のなかよりずっと大きくて、いたいけに光っていた。それでも期待していた大きさには及ばなかったが。 
「せめて近くで観ておかないと。さんざん歩いたから。」
「そうだね。お疲れ。」
 コーヒー、よりはココアだ。栞奈は苦いものが嫌いだから。僕が苦いものを食べる場面すら、彼女は顔をひそめて見る。
 僕は暖かく甘い飲み物を自動販売機から取り、栞奈に渡した。
「ありがとう。」
 そういえば、僕はあの時、お礼を言うのを忘れてしまった。もちろん、お代も渡していない。
「こちらこそ、ありがとう。」
 栞奈が変な顔をしたが、僕は話を止めたくなかった。大分可笑しく、陳腐な話ではあったが、せっかく月明かりがこっちに降りていたから。
「僕は運がいいのかも知れない。赤信号にかかることもあまりないし、やまをかけても大体あたるし...... あと、栞奈と会えたから。」
「私と? あぁ、あの時チケットをタダでもらったからでしょ。確かに運がいいわね。」
「そんなのじゃなくて...... いや、それもなくはないけど。」
 ココア缶を手に持った栞奈は、首をふって月を見つめた。まるで僕の目を避け、そっちに逃げようとしているかのようだった。そのまま彼女が言った。
「幸運、なんかじゃない。」
 今、自分は間抜けた顔をしているかも知れない。そう思った。しかし彼女はこっちに、僕の顔にはまるで興味がなさそうだった。
「神さまはサイコロなんて振らないの。知ってる? そもそも、サイコロを発明したのは人間、私みたいな普通の人間なんだから。」
 幸運なんてない......? そんなこと言っても、僕は今まで自分の運を疑ってみたことがない。アラビアの大富豪に生まれることはできなかったけど、買いたいものは大体買ってきた。病院に入院したことすらなく、健康な体で健康な学校生活を送り、その学校にはいい友達といい恋人が隠れていた。そして運よく彼らを見つけた。
 もし幸運のおかげではないとしても、こういう幸せは一人の力で手に入ったものではない。それぐらいは知っていた。
 
「栞奈に感謝しているんだよ。神さまやサイコロじゃなくて。栞奈が僕と出会ってくれてありがとう、ってね。」
 栞奈は白いウサギのような目をしてうつむいた。
「......寒いからあっち行こう。」

*

 私は、信号を待っている。どこかでクラクションの音がした。信号は変わりそうにない。

 いつからかって?
 そんなこと、知らなくていい。「いつまでか」が大事なんだから。

 大人になった私は、よく散歩に出るようになった。散歩は「仕事」や「未来」みたいに重要なものからゆっくりと逃げて、無駄なことへ向かって歩く行為。とってもいい気分になる。例え歩いてたどり着いた先が、向かいたくなかったところだとしても。

 彼を好きになったのは、多分、高校に入学してからだった。それよりずっと昔からだったのかも知れないけど、そこまでは分からない。そんな古い記憶は残っていないんだから。
 それで、彼のどこが好きっかって聞かれると、言えることがない。彼が聞いたら怒る話だろうけど...... 本当にいない。おおよそに当ててみると~若干若い顔、私が抱きしめると置き場に困り宙に舞う両手、あまりにも優しそうな歩き方~そんなところだろうか。その中のとっておきは、これも恐らくだけど、彼の言葉だった。私が傷つくのを恐れ、一言も聞き流さず掴んで答えてくれる。おしゃれな言葉ではなかったのかも知れないけど、好きだった。
 どうしても正確には思い出せない。けど、好きなところはいっぱいあったと思う。間違いない。なぜなら、彼を「一生」好きでいるって決めたんだから。あと、長い間そうしてきたから。

 しかし誰かが言っていた。恋は、恋するだけでは叶わないんだと。
 そんなこと、百も承知だった。何回も失敗を繰り返し、その言葉を深く覚えた。覚えたのに、また何回も失敗した。私には夜空から月を引き落とすよりも難しいことだった。月は、私が近づいても遠ざかったりしないから。
 月は、いつも私を見ているんだから。
 
 恋は散歩なんかと違って、前に進むだけでは進展することができなかった。

*

 栞奈は屋上の隅っこ、空に触れているベンチに座った。僕もついていった。携帯用の暖炉が置いてあったが、風を防ぐには力不足だった。
 ぶら下がっている月はさっきよりも近くなり、もうテーブルみたいな大きさになっていた。しかし、栞奈は喜ぶどころか、月明かりを拒むようなかたくなな顔をしていた。
 白くすべすべな、何かが抜けているような月は、どれだけ見つめても動こうとしなかった。月を動かすにはあまりにも時間が短かったのだ。風の隙から栞奈の声が聞こえた。
「好きなものがないって、そんな話をしたよね。」
「したっけ。」
「したよ。」
「よく覚えてないな。」
「うそでしょ? したんだから......」
「いや、そんなはずがない。ほら、例えば...... そう。カシアライムのギターソロとか、屋上の月、あとは、栞奈の音楽。好きなものならこんなにもあるから。」
 もちろん、覚えていないわけがなかった。廊下で会った相光栞奈の素直な言葉は、一瞬も僕の頭から離れたことがなかった。僕だけ好きなものがいない、それがどれだけ心細かったのか。だから今日まで好きなものをたくさん作ってきた。栞奈も含んで、栞奈と一緒に。
 栞奈は作曲を済ませたときよりも幸せそうな笑顔で言った。
「でも、屋上の月はなしね。今日はそこまできれいなわけでもないから。」
 なぜか、そこだけが冷たかった。
「そう? さっき見た月より明るいし、大きいのに?」
「今日はウサギも見えないんだもの。
「ウサギ?」
 僕がぼやけた目で見ると突然、栞奈の瞳が星のない夜空みたいに変わった。
「なんでも...... ない。」
 栞奈が口を閉じた。「はじめて」あった日、横断歩道から彼女を連れだすときみたいに。僕もしばらく何も話さなかった。ただ一つ、今日はお互いの手を、恥じることもなくぎゅっと握っていた。
 月さえもうるさく聞こえる沈黙。
 その中ではなんでもできる気がして、僕は数日前から用意していたことを言った。すこし遅れた告白だった。
「僕の夢は、この国で一番の大学に入ることだよ。」
 相光栞奈になりきったように、いきなり言い出した。科学館の屋上は真っ暗で、僕のその無謀さもふんわり包んでくれる。勇気とは違うそれは、巨大な画用紙の上 から感じる無限な可能性のようだった。
 彼女は何を思っているのだろう。
「いや、学閥を欲しがってるわけじゃないよ。学者になりたくもないし。」
「うん。知ってる。」
 慌てた僕と違って、彼女は瞬きもせずに目を合わせている。
「栞奈は、すごい人だと思う。ギターを弾きたいからっていって本当に弾いてるんだから...... 僕にはできなかったことだよ。僕は今が幸せすぎるし、それを壊すのが怖くて、何もしようとしなかった。今まで通りに学校に通い、勉強をやらされただけ。でも......」
 僕はどこまで言っていいのかわからなかった。ただ、まだ言いたいことを言えなかったのに気が付いた。
「でも、これからも幸せでいるためには...... 栞奈と一緒にいるためには、僕は栞奈に釣り合う人にならねなきゃいけない。栞奈みたいに、やりたいことは何でもやれる人に...... だから一番いい大学に入って、夢ができたときそれを自分で叶えたい。今はまだないけど......」
 理解してもらったのだろうか。
「そっか。」
 栞奈はギターの弦を弾くみたいに、僕の手を触っていた。彼女の暖かさと震えが手の甲から伝わり、僕を揺さぶった。
 彼女の手とは違って、片手のココアはもう冷めるだけ冷めて、まるで見てない間に誰かが氷を入れて逃げたようだった。
 栞奈が僕の手を強く推した。
「じゃあ、私もついていく。一番いい大学。」
「...うん?」
「勉強する。君と一緒にね。」
 喜ぶべきだったと思うけど、何か知らない感情がそれを圧倒した。
「栞奈、音楽大学はどうするんだよ。そこ行きたかったんじゃなかった?」
 栞奈が希望していた大学は、音楽大学に限って言えば、全国五位以内に入る名門だった。栞奈が憧れる教授が在籍しているし、入試で筆記試験の点数がほぼ要らなかった。数学と国語が苦手な彼女には好条件だった。つまり、栞奈には正に「運命の相手」といっても過言ではないところだった。
 それを諦めさせるなんて、どうしても気が向かない。
 それに、
 夢をほっといて付いてくる彼女に、僕は同じぐらいの愛情を返してあげられるのか。それを一生維持することは? だいたい、栞奈は本気で言っているのだろうか。本気だと言っても、それは一生続くのだろうか。僕に対する愛情が一時の勘違いではないと、僕や彼女に断言できるのか......
 栞奈が僕の考えを読めないわけがない。彼女はいつも、なんでも知っている。
「諦めるってわけじゃないよ。音楽大学なんて、勉強が嫌いだから行こうとしただけだし。勉強すればもっといい大学に、君と一緒に行けるかも知れない...... そう思ったの。」
 そりゃ、言うのは簡単だが。音楽大学よりは「一番いい」総合大学に行った方が、将来により役に立つかもしれない。しかし、入学条件はその分難しい。
「心配ないよ。私、頭が悪い子ではないから。そうだよね?」
 栞奈と僕に残っている時間はあと一年。栞奈は今まで勉強どころか、模擬試験の日になると学校をさぼってきた子だ。今日から頑張ったところで、どこまでできるのだろうか。
 僕は自分で見ても慌てていた。そんなはずはなかったが、まるで僕についてくるという栞奈の決心を阻止したがるように見えた。
「しかし、運よく二人とも合格するとは限らない。僕も合格が確実なわけでは......
「運がいいんでしょ? 君は。」
 一瞬、風がやんだ気がした。気のせいだったかも知れないが、栞奈のまつ毛が一本も触れることなく静かに伸びていた。
「でも、私は君を信じるから。君の運ではなく、君を。」
 何か返事をするべきだとは分かっていた。しかし、結局口を閉じて笑うことしかできなかった。僕はやっぱり、勇気がない人なのだ。善と悪、どっちも行えない。
 恥ずかしくて時々月を見たり、また栞奈の目を見たり。そんな時間がしばらく続いた。栞奈の赤く光っていた瞳は、僕の記憶の中に飾られた星のように、何年が経っても暗くならなかった。

③

 月が上りはじめると、栞奈が家にやって来た。彼女が学校で居残り勉強を始めて一年、その結果である成績表が彼女の手にあった。僕の両親はオープンな方たちで、高校生の息子の彼女が家にやって来るぐらいは見て見ぬふりをしてくれた。
 その日は、それが栞奈との初対面だった。僕が携帯電話をオフにしておいたから。

 僕はベットの中で息をひそめていた。世界に存在するということがすごく苦しかった。上を向いても空や星は見えなかったし、見えるのはホコリ一つなくきれいな天井のみ。
 部屋に入った栞奈が殺人現場でも見たように突っ立っていた。無視で一貫する僕に、彼女が言った。
「私、合格したみたい。」
 栞奈は数日前、ギターを背負って実技試験を受けてきた。「普段通り」って言っていたから、多分うまくやったのだろう。だから今日もらった筆記試験の成績表を見ると、合格できるかどうかおおよそわかるはずだった。 この国で一番いい大学に......
 栞奈は空気を読めない子ではなかった。僕の結果がどうなのかなど、電話がつながらないときからとっくに察したはずだった。
 なのに、あえて、彼女は僕の部屋までやってきた。そして僕の目の前に成績表を押っ付けている。

「どうするかは、決めた?」
 答えをせがんでいるわけではなかった。彼女はただ、優しいのだった。もうひと苦労して彼女に「ついてくる」必要はないと、他の大学でもいいよと、そう言っていた。
「......分からない」
 僕は入学する時から、大学なんてどうでもいいと思ってきた。運がいい僕はどの大学に入っても何とかなるだろうから。しかし、栞奈は夢を持っていた。「運なんて存在しない」と、彼女は言った。慌てた僕が急造した夢は空っぽで、やがてはその空っぽな夢に栞奈を巻き込んだ。
 彼女ははたから見ても気の毒に思うほど頑張ってきた。勉強を休む時間にはギターを弾き、ギターを休む時間は勉強に使った。音楽大学を選べば楽していられたのに...... そんな彼女が合格するのは当然のことだった。
 栞奈が二十分以上立っていたことに気が付き、僕はベットから起き上がった。二人で丸いテーブルを挟んで座ったが、急に息が詰まって窓を開けに行った。この部屋に窓とは、北に向けて出ている一個しかなかった。
「栞奈は...... どうしたらいいと思う?」
「それは君が選ぶべきよ。」
 栞奈は逃げることを許さなかった。話題を変えることはできなさそうだった。できたとしても、何も浮かばなかったのだろうけど。
「私にできることは、君を信じること。どの大学に入っても、それとも入らなくても、君はいい人になれるって信じてるから、私は。」
 僕は目に迫る、ぴりっとした痛みを払うために何度も両手でこすった。
まっすぐな、そして怯えている栞奈の眼差し。それを前にした僕に違う道はなかった。

 浪人。
 その不幸の固まりみたいな表現が、とても嫌いだった。それが大勢集まっている予備校には死んでも行きたくなかった。幸いに、両親の考えも同じだった。代わりに僕は朝日を見ながら図書館に入り、月が顔をだすまで閉じこもっていた。お昼や夕食の時間には、短かったけど、栞奈とも会えた。一歩先に大学生になった栞奈は変わったか、変わっていないかのような姿をして、一日も欠かさず図書館に通いつめた。お姫様と召使のあいびきのようだった。
 あいびきの場所は主に図書館前の東屋(あずまや)で、よこには空が見える池があった。ほぼ散歩するお年寄りたちが占めていたが、不思議なことに、栞奈がくる時間になると必ず空いていた。雨が降って困ることもほとんどなかった。
「話があるんだけと......」
 僕は怪しく思われないよう、慎重に言い出した。
「うん。」
 しかし顔を合わせると、溢れていた勇気も沈むようになくなってしまう。'今日こそ'と思っていたが、結局は'今日も'だった。
「いや、なんでもない。」
 栞奈はモザイクの絵でも見るように僕を見たが、すぐにやめた。諦めが早いのだ。そして平然に袋からお弁当を二つ出した。料理が苦手な彼女が、図書館周辺のお弁当屋から買ってきたものだった。
「肉が入ったやつでしょ?」
「うん、ありがとう。」
 池が揺れる音が時々聞こえる。
 何もなかったかのように。
「同じグループになった子、エミカっていう子だけど、優しくていい子よ。いつもおやつを持っていて......」
「よかったね。」
...
「大学は宿題とかないと思ったのに、高校よりもたちが悪いわ。教授なんて、学生たちが自分の授業しか聞かないとでも思ってるみたい。」
「忙しいだろうね...... どういう課題?」
「作曲。でも一人でやっていた時とは比べものにならない。何度もやり直しをされて......」
...
 栞奈は以前より口数が増えていた。大学生活の影響もあったし、僕の代わりに話題作りをしていたのもあった。一日中図書館にこもっていた僕は、特に言うことも答えることもなかった。長く断続的に沈黙が生まれるのは紛れもなく僕のせいだった。
 そう、言いたいことがなくはなかった。「その件」についてなら、ノリノリといくらでも話せる。しかし、それを口にしていいのかまだ確信がなかった。

「でも、こんなに雨が降らないなんて...... 不吉な兆しだね。」
 池に写されたのは、六月らしくない乾いた空だった。東屋の奥まで日差しが入ってきた。
 栞奈は正しいことを言っていた。なのに。
「そういうこと言うんじゃないよ。試験まであと何日残ってると思ってるんだよ。」
彼女は叱られる子供みたいな、悔しくて怯えてる顔をした。
「百......と数日。」
「そう、たった百と数日。不吉だのそういうの言うんじゃないよ。縁起が悪いから。」
 僕は抑えることが出来なかった。
 いいわけだが、この暑くて乾燥した天気が耐えられなかった。こんな日にシーソーをして遊ぶ子供たちを見ると、それもまたイライラした。一体どこからあんな力が漲るんだろう。僕もあの頃は、ああだったんだろうか。
 本当に、言い訳以上にはなれない話。 。
 落ち込んだ声で栞奈が言った。
「ただの冗談だったよ。いや、半分は冗談だった......」
 喉が乾いてきて、凍ったようみ冷たいアイスコーヒーを飲み込んだ。
「でも、百日は充分な時間だから...... まだ大丈夫よ。君ならきっと、」
「分かった。」
 あいびき、などとロマンティックな言葉を使ったが、実際はこんなものだった。逃げるようにその場から立つのはいつも僕であって、彼女は僕が図書館に入るまで立ち尽くしていた。
 やんちゃな空は、やっとすがすがしい雨を降らしはじめた。

 僕は図書館一階の掲示板の前に止まった。数日前から僕を見逃してくれない、その広告文が今日も張られていた。
「「第二十期イギリス大学奨学生選抜案内」」
 真っ先に浮かんだのは栞奈のことだった。そもそも彼女のせいでその広告に目が行ったというべきだろう。彼女がイギリスロックバンドの魅力を教えてくれなかったのなら、僕にとってイギリスなんて、紅茶とシェイクスピアの国に過ぎなかったのだろうから。
 選抜は二十期で最後らしく、挑戦するなら今年しかなかった。奨学金をもらいながらの留学で、しかも留学先はカシアライムを生んだロックバンドの王国。今でもこの案内文を剥がして、栞奈に持っていきたかった。二度と来ない絶好の機会だから。 
 しかし...... いっしょに留学試験を受けようなんて、そんな図々しいことは言えない。
 彼女が泣いてるところを、一回だけ見たことがある。 ある日の教室、机の前だった。栞奈は「ギターなんて見たくもない」と言った。親と離れていた彼女が双子の妹みたいにかわいがっていたギターだった。ギターの練習をしていると勉強の方が気になって、勉強をしているとギターが邪魔をしたらしい。結局、栞奈は僕が知らないうちに、ギターを古楽器屋に売ってしまった。僕が取り戻しに行ったときは既に売られていて、購入した人に事情を説明して詫びるしかなかった。
 ......エミカという大学の友達とおやつを分け合う、幸せな栞奈の姿が目に浮かんだ。やっとそれが出来るようになったのに。
 留学試験の受付期間はあと二ヶ月ほど残っていた。一見長く見えるその時間を盾に、僕は今日も決断を後回しにした。パソコンの画面が消えて僕の表情が浮かんだ。

 机で、さっき投げておいた数学の問題が待っていた。見るだけで息が詰まる、赤い丸とバツの標識。あと点数。僕は椅子に腰を下ろしたが、五分も過ごせずに勢いよく立ち上がった。横の人が目で注意をしたので、首で謝った。
 図書館は神秘に満ちたところだった。本を読むこと以外はすべて禁止されているかのように、教科書にも問題集にもまるで集中ができない。そういうのは本じゃないと、本の神さまは思っているのだろう。だから勉強の休憩時間になると、僕は本棚に避難した。自分から進んでは読まなかったはずなのに。
 どこにどの本が置いてあるか、そんなことは知らなかった。ただ気が向くままに歩いて行って、表紙が気に入る本を選ぶだけ。例えばこんな本、カール・ワゴンの『夢の宮殿』。僕は奇妙な絵が描かれているその本を手に取って席に戻った。

 「夢の役目とは、崩れていく我々の精神的均衡を正しく立て直すことである。
 しかし、均衡が既に崩れ過ぎている場合、夢は自らもう一つの現実になることもある。

 一九九九年、アメリカのある町で、特発性過眠症の罹患者である少女が診察を受けた。少女の平均睡眠時間は二十一時から七時であって、異常のない睡眠パターンを維持していたが、日常生活の中では、一日平均三回の嗜眠症状(高熱を伴い咄嗟の睡眠状態に陥る症状)が見られた。特異事項として、少女は嗜眠状態の間に見た夢の内容を完全に覚えているように見えた。彼女は自分の名前を「ガブリエル」と称し、家族から本来の名前を教えられると酷い拒否反応を見せることがあった。医者は少女が不規則に反復される睡眠状態に影響され、現実と夢を区分することに困難を伴っていると判断し、他機関に精密診断を要請した。
 この症状の後続の研究として......」

 大体そういう内容だった。内心ミステリアスな推理小説を期待したのに、大外れだった。
 壁の時計が勉強はしないのかと脅迫するような気がして、僕は本を戻しに席から立ちあがった。一時間も経っていた。いちいち注意をしていた横の人はもう帰ってしまったようだった。空っぽになっていく図書館......
 突然、何の前兆もなく後悔が舞い込んだ。栞奈がお昼ご飯を食べ終わるよりも前に、彼女を置き去りにしてしまったことへの後悔。栞奈は食べるのが早い方だっていうのに...... さっきもそうだったし、今も、僕の感情は子供の気まぐれみたいに幼いもので、自分すら呆れるほどだった。
 僕は携帯を出した。勉強が終わったら、市内に行って一杯どうかな、と。出会ったころみたいに慎重に文字を打った。

**

 車のクラクションみたいな音に目が覚めた。

 嫌な夢だった。白い壁に囲まれた、天使の部屋みたいな場所。窓から赤い月が見えるそこに、二人っきりで閉じ込められていた。それがどこなのか、私にはわからない。

 水が落ちる音がした。心臓が鼓動する音もした。しかし、目を閉じているあの子は何も言わなかった。あの子の目を見たくて添い寝をしたけど、結局見れなかった。
 目はこころを写す鏡。写されていない彼のこころは、多分、もうとっくに遠いところに去ってしまったのだ。

**

「......今日だけね」
 十分ほどが経って、栞奈から返事がきた。受験生の飲酒はやっぱり望ましいことではないが、今日だけ。もちろん、飲みすぎはしない。明日もあの東屋で、栞奈とあいびきをしないといけないから。そして、'明日こそ'言うから。
 僕は携帯をしまった。
 考えてみると、栞奈から返事が返ってこないという心配はしたことがない。一度も。
 
④
 
 九十番の方、どうぞ。
 僕を呼んでいた。
 待ち時間中読んでいた本を閉じ、案内の人についていった。すれ違う他の受験者たちの目がちらちらとこっちを向く。無視しきったつもりで雑談を交わす群れも見えたが、彼らこそ一番緊張しているに違いない。
 まさか僕が、独りだけ受かるとは。
 僕は、うざく聞こえるかも知れないが、堂々と言える。緊張なんてしていないと。面接などに対して緊張している余裕はないのだ。僕は、寒さに怯えて火のなかに飛び込むガみたいなものだった。直に燃え尽きるかも知れないが、火の中は暖かくほっとする。
 そういう気分だった。

 まず、選抜試験、お疲れさまでした。
 うわべの挨拶。そして一つ目の質問。
「イギリスに行きたい理由は何ですか。」
「産業革命の発祥地であるイギリスは、私が勉強したい産業デザインのアイディアを得られるところだと思いました。現代でもイギリスはヨーロッパの経済と文化をリードしている国の一つとして......」
 我ながら教科書的な答案だった。退屈で堅苦しいが、それでいい。面接とは減点されなければ勝ちなシステムなのだ。

二つ目の質問。
「好きなイギリスの文化などはありますか。」
「小さいころからイギリスのロックバンドを聴くのが趣味でした 。クイーン、ローリングストーンズ、オアシスなどで代表される大衆的なロックを中心として、最近のメインストリームであるカシアライムもまた、音楽的に素晴らしいと思います。私が住むところに、カシアライムがライブをしに来たことがありますが......」
 最後の思い出話はどうも蛇足としか思えなかったが、時間は稼げたはずだ。それに、僕は九十二番受験者だった。そろそろ疲れてくるに違いない面接官たちに、すこし息抜きできる話をしてあげるのも悪くないだろう。
 しかし、考えてみると面接で嘘はよくない。
 ロックバンドに興味を持ったのが「小さいころから」だなんて、栞奈が聞いたらあきれる話だ。ロックに対して、栞奈は僕の親みたいなものだったから。彼女とものすごい数のロックを一緒に聴いて、話した。短い間だったが。
 今すぐ電話をかけると、栞奈は何もなかったかのように「もしもし」と答えるはずだ。違いない。なのに、すごく懐かしい感じがした。戻れない過去のような......
 いや、今は面接の途中だ。僕は首を何回か横に振った。

 三つ目の質問。
「あなたの夢は何ですか。」
「......」
「ゆっくり答えてもいいですよ。」
 未来の夢...... そんなものはいない。持ったことすらなかった。
 夢があるというのは、なにかが叶うように望んでいるということ。僕が今まで望んできたことはすべて叶った。楽しい学校生活、いい成績、栞奈との出会い。入試には一度失敗したけど、そのおかげでイギリス留学のポスターが目に入った。こうやって面接まで受けているから、結果的にはいいことだったのだろう。つまり、夢はいらなかった。今「見ている」これが夢同然のものだから。何もかもが何とかうまく行く、いい夢だった。そして、まだいい夢は終わっていないようだった。
 三つ目の質問に適当に、減点されない程度に答えれば合格は決まったようなものだった。そうすれば僕はイギリスに行く。実にすごいことだった。競争率が三十倍だったとのことで、僕が面接まで来れたのは奇跡、あるいは、正に夢のような話だった。
 栞奈も一緒だったらよかったけど...... すべては僕のせいだった。
 僕は受付期間を一か月残してやっと、彼女に留学試験のことを話した。彼女は迷いもせずにいいよと答えた。そして高校のときみたいに、音楽大学と留学試験の勉強を並行した。どれだけありがたいことだったか、あとすまないことだったか。今も彼女は近くのカフェで僕の面接が終わるのを待っている。
 しかし、僕はなぜ面接なんかに来ているのだろうか。なぜ諦めなかった? 僕はそこまでしてイギリスに行きたかったのか。それとも...... もう彼女と一緒にいたくないのだろうか。一緒にいなくても大丈夫だと? 彼女は僕といっしょにいるために、大学の志望まで変えたのに。いや、それは違う。向こうが何かをしてくれたからといって、こっちが何かをしなくてはならないというのは...... 義務で結ばれた関係は破滅に向かうのみだ。しかし、好意をもらったのならそれ相応のものを返すか、少なくとも返す工夫をするべきなのでは?
 ......面接中に何がしたいのだろう。頭が痛くなった。
「私の夢は......」
 悩んでいても仕方がなかったので、僕は賭けてみることにした。前に座っている三人の面接官に、
 いや、僕のいい夢に。
 僕は自分がどうしたいのかわかっていない。しかし、これが本当に、僕が望む通りになるいい夢の中なら、僕が何を望んでいるのかは結果が教えてくれるはずだ。
 合格だったら、僕はイギリスに行きたかったのだ。
 不合格だったら、栞奈と一緒にいたかったのだろう。
 鬼が出ても蛇が出てもいい。それこそが僕が望んだ「いい」結果なのだ。そんな気がした。夢の役目は崩れた現実の立て直し。どんな問題もなんとか解決できるのが夢の中の世界だ。

⑤

 結果が発表されてすぐに、僕は栞奈に電話をかけた。栞奈は出る前から何の用か知っていた気配だった。声に元気がなく、時々悲しく笑ったから。しかし電話を切る瞬間まで泣かなかった。三分程度の短い会話だったが、栞奈はわかったのだ。留学試験の結果がどうなのか、僕が何を考えているのか、あと、なぜそんな考えをするのかまでも......
 いつか彼女が言っていたように、栞奈は決して頭が悪い子ではないから。

⑥

「先輩......? 聞いてます?」
 僕の目の前で、彼女が手のひらを振る。おそらく、僕は寝起きの子供みたいに間抜けた顔をしているのだろう。どっちが夢でどっちが現実なのか、目をこすっても未だにわからないそんな顔を。
 アンティークなカフェに来ている。彼女と一緒にだ。すべてのテーブル、すべての椅子に白いレースがついていて、二十世紀の映画で見そうな執事が、絶対割ってはいけなさそうなティーカップに紅茶を注いでくれる。
 夢ではないと言い切れない、何度来ても慣れない風景だ。
「いや、なんでもない。」
「ふーん...... そんな空っぽな嘘を信じる人はだれもいないんですけどね。そういうことにしておきしょう。」
 僕は目を隠すために、ティーカップを取って一気飲みした。いけない行為なんだろう。こんなカフェで一気飲みをするのも、デート相手の彼女を前にして「高校のころ付き合っていた元カノ」のことを思い出すのも。しかし、彼女にも非がある。はにかんだ顔で2枚のカシアライムのチケットを差し出したのは、彼女だったから。 
「ポップやロックはうるさいから嫌いなんじゃなかったっけ。しかもライブともなれば、ただの"うるさい"じゃすまないだろうに。」
 読んでいる本から目を離さず、彼女は小さくて細い口を開ける。彼女には会話中にも本を読む奇妙な癖があった。
「興味はあるんです。うるさいけど、彼らが"生きている伝説"と呼ばれているのは事実なんですから...... 生きているうちに見ておかないと損ですよ。」
 視覚と聴覚、そして適切な会話能力を同時に発揮するのは大した才能だ。
 「いっしょに行きますよね、先輩?」
 それに、顔の片隅にわざとらしく浮かべる、余裕のある笑顔。僕はそんな彼女がとても印象的だと思っていた。飛行機から降りたその瞬間から。
 
 イギリスに来た留学生たちは基本的に英語を得意とする。試験紙に書いてある問題が解けるだけでなく、英会話も自在にできる。そうでなきゃイギリス行きの飛行機なんて乗れなかったのだろうから。
 しかし、イギリスで友達を作れるかどうかは別の問題だ。イギリス人には大概十年以上の仲のイギリス人友達がいて、その隙間を攻略するのは、相当心が強い人でないと難しい戦いだった。留学に来た人たちは多くが戦嫌いの平和主義者だったので、結局日本人同士で群れを成すようになったのはごく自然な流れだった。
 彼女、アイリはその群れに誠実に出席した。僕もそうだった。僕がアイリに会うために出席したというのは飛躍が過ぎるが、アイリがいなかったら僕も出なかっただろう。留学生たちはある日は三~四人、またある日は二十人も集まって、食事に行ったり、飲みに行ったり、たまには中世のお城や世界で六番目に大きいスタジアムを見にも行った。まるで離れる瞬間水にでも長されそうにくっついて歩いた。
 しかし、あの日は違った。誰もいない図書館で、なにもない週末だったから。そのときも彼女は本を読んでいた。目の前を通っても動きがなかったのでよほど集中しているのだと思っていたが、僕が本棚に手を伸ばした瞬間、幽霊みたいな声で言った。当時まで僕はアイリのことをそのように、どこか透明で怖い子だと思っていた。
「その本はやめた方がいいですよ。面白くも悲しくもない、かたっ苦しい専門書籍ですから。」
 その声に驚き、手に取った本をひっくり返し表紙を見た。なるほどデジャブを感じていたところだった。表紙には「夢の宮殿」と、もちろん英語で書いていた。
「ありがとう。でも、ちょっと遅かったのかもね。もう読んでしまったから......」
「あら、珍しい...... あまり読まれてる本じゃない気がしますけど。」
 彼女は自分の本を閉じた。それがどれだけ異常な行動だったのか、当時の僕には分からなかった。
「死ぬ気で願えば、夢の中では願いが叶うらしいですね。」
 電気が切られたのか、あるいは、もともとそうだったのか。図書館にしてはとてつもなく暗かった。窓から入る日差しのおかげで、なんとか文字を読むことはできたが。
「手に取ったそれ...... それよりおもしろい本があるんですけど...... 読んでみません?」
 空の色が変わり始める日の暮れ、僕はそのおもしろい本を読みに彼女のひとり部屋に向かった。

 好意をもって近づいてくる人は怖い。
 その好意は世界の誰でもなく、私一人を的にした矢みたいなもので
 ちゃんと立ち向かわなかったら、体に刺さって痛みになるだろうから。
 しかし、好意をもって近づいてくる人がうらやましいときがある。
 その人はすごい人だ。きっといっぱい頑張ったはずだし、これからもいっぱい頑張るはずだ。
 愛されるより愛する方が難しいのだから。
 矢に撃たれるより、矢を撃つ方が難しいみたいに。

 ......そう書いていた。
 僕がその本を読んだのは、翌日の朝になってからだった。どうでもいい話だが。

 その日からは留学生の集団とはあまり合わなくなった。その時間を、二人きりで分け合ったのだ。
 今日は珍しくもう一人が来る予定だったが......
 僕は金色の記章を全身にまとっている、時間が分かりにくい時計を見る。
「そろそろ来るんじゃないかな。」
 そう言った僕を、アイリは本越しにじっと睨む。恥ずかしいほど長い間、僕は身動きをとれなかった。アイリのその目線は「そろそろ」などの安直な言葉に対して送る警告であり、僕をからかうための意地悪であり、他の表現を使うと愛嬌であった。
「分かった。僕の気が早かったよ...... ブルスさんはまだみたいだね。」
 僕の話が終わるや否や、ちりんと鈴が鳴る。窓がついている白いドアが開いて、またすぐに閉まったのだった。ドアの前には男が突っ立っている。低い背丈にフェルト・ハットを被った彼は、きょろきょろと誰かを探している。僕が手を挙げて「連れです」と、行儀よく頭を下げる執事に伝える。

「元気だったかい?」
 彼、ブルスさんが日本語で聞く。流暢ではないが、彼が伝えたがる意味と好意を知り取るにはまるで問題ない。僕が笑いながら答えると今度は違う方向を見て、やはり日本語で言う。
「はじめまして。」
 アイリのまつ毛が震えていた。彼女は本を閉じる瞬間、誰よりも内気な性格に変わる。だからといって初対面の人、それもビジネス関係を築きあうかも知れない人と目も合わせないのは、さすがに行儀が悪い。そう思っているようだった。
 彼女はまず笑顔を作る。それだけでも結構奮発したのだろう。そして「こんにちは」と「ハロー」のなかで少し悩んだのか、こっちを見る。僕は首を縦にも横にも振らず彼女を見返す。アイリならどっちでもうまく言えるはずだ。
「こんにちは、日本から来た西本アイリ、です。」
 若いイギリスの紳士は天使のような笑みで彼女を迎える。
 ブルスさんとはあるパブで出会った。あの日はアイリが家族のことで帰国していて、時間があり余った僕はとりとめもなく窓の外を見物していた。ちょうど地元サッカーチームのホームゲームがあったのか、同じ色のユニフォームを着た人たちが同じ方向に歩いていた。普段はアイリも僕もスポーツに興味を持たなかったため、観戦などには行こうとしなかった。しかし、そのユニフォームの群れには妙な魅力があった。そうしてあの群れの後ろにつきスタジアムに向かったのはよかったものの、入場料が想像を超える額だった。日本の田舎チームとは違う種目のスポーツをやっているかのような値段。結局しょんぼり財布を閉じてからの帰り道、薄暗い酒場を見つけた。外からも見えるほどデカいテレビに、サッカーの中継を流しているところだった。
 酒場の片隅を占領していたブルスさんは既に出来上がっていた。彼と僕は同じチームを応援していたし、また、そのチームがその日のゲームを勝利した。つまり、雰囲気は申し分なかった。しかも、ありえないほど都合のいい話ではあるが、彼は日本語を話すことが出できた。最初は目の前のアジアンが中国人なのか韓国人なのか迷っていたように見えたが、僕が思わず「くっそー」と叫んだあとからは、まるで古い友人のように接してくれた。最後に僕がトイレに行って来たら、僕の分までの勘定が全部終わっていた。だから言っているわけではないが、兎に角いい人なのだ。
 両方がいい感じに出来上がると、話題はどこにでも飛ぶものだ。そこまで至った経緯は覚えていないが、ブルスさんが編集者として働いているという話を聞かせてもらった。僕はさっそく、正気であるうちにブルスさんから名刺をもらった。この人をアイリと合わせるべきだと思ったからだった。

 アイリと図書館で出会った日の夜、彼女が見せてくれたおもしろい本。それは彼女が直接書いた小説だった。なるほど、自分でおもしろいと言うだけのことはあった。その小説は彼女が小説家になれると、いや、なるべきだと、僕に思わせたのだから。
「アイリさんの小説、読ませてもらいました。私の考えでは......」
 ブルスさんが間を置くと、アイリは切実に僕の方を見る。それが僕の役目だった。彼女の視線をもらってあげること。
 ブルスさんは笑顔で一貫する。
「すぐに翻訳を始めてみたいと思います。出版社にもすでに、話をしておきました。」
 アイリが喜んでいるということは、多分僕にしかわからなかったのだろう。膝の上に乗せておいた本を抱きしめるように握っていたから。
 ブルスさんはヨーロッパ人特有の、おどけた顔をして加えた。
「この小説は、きっと大人気になりますよ。」
 そのあとからは続々といい話が繋がる。契約金がいくらだとか、初版は何冊だとか、後続の作品は考えているのかとか...... 最初はぎこちなかったアイリも、笑みを浮かべて冗談を言えるようになった。ほぼ日本語が、時々英語が、幸せに午後を飾る。

「いい人でしたね。」
 アイリが言った。もちろん、さっそく本を読んでいる。
 ブルスさんは次の仕事で先に帰った。席から立つ瞬間までも「アイリさんの小説がつぶれない限り、また会いましょう」などと危なっかしい冗談を言う、実に愉快な人だった。
「いい人だよ。うらやましいほどにすがすがしいあの性格がまた......」
僕が窓のついたドアを見ながらつぶやくと、彼女があざ笑うように言った。
「そうですか? 私は先輩の性格のほうも好きなんですけど。」
「なに、慰めてくれなくていいよ。」
「本当ですよ。先輩は、人間関係を大切に思わない人に見えるかも知れないけど、それは先輩が優しいからでしょう。誰にでも心を開いて...... 誰かが誤解すると、その誤解にも付き合ってくれるような人。」
 僕は彼女の、本に向かっている目を見つめた。もしかして本の一節を間違って読んだのではないのだろうか。僕は優しい人などではなかった。
 僕は、本当に優しい人を知っていたから。
 アイリはページを一つめくった。
「あと、あれですよ。人の好意をなかなか気づいてくれない鈍感な人。」
「それは、ほめてるのか?」
「さあ...... 一つ言っておきますけど、図書館で先輩に声かけるために、私が何時間立っていたと思います?」
 そりゃ......
 顔に熱気が走ったが、いまさらカップで顔を隠しても余計怪しいだけだった。ティーカップは空だったから。
 アイリがこういう攻め時を見逃すはずがなかった。
「もちろん、褒めてますよ。先輩に出会えて、本当によかったと思ってますから。この上ない幸運だと。」
 幸運。
 ゾッと、懐かしくなる言葉だった。僕はその懐かしさを抑えることもできず、短く答えるので精いっぱいだった。
「僕も...... そう思う。」

 席を立つ前に、何かを思い出した。
「ところで、アイリさん。」
 僕はせっかくの彼女のご機嫌に水を注さないよう、丁寧に言った。ブルスさんがテーブルに置いて行った原稿を指しながら。
「今回の小説、本当に見せてくれない......んですか?」
 彼女はしゃれた、一層明るい笑顔になった。
「先輩はあとで...... ちゃんと本に出版されたら見てくれません? そうしたほうが売り上げが伸びるんですから。」
 彼女がブルスさんに送った原稿は何週間か前出来上がったもので、僕はまだ読ませてもらっていない。今回の小説は、アイリの言葉によると、僕が彼女の部屋で読んだあれよりも「精神的な成長」を遂げた小説だと。ちなみにあの「幼い」小説は、恥ずかしくて僕以外の人には見せられないらしい。
「編集者まで紹介してあげたのに、酷いな。」
「そういうのがビジネスなんです。」
 アイリは偉そうに後ろ手を組んで、一足先に白いドアを開けた。新しい原稿はもう彼女のハンドバックの中に消えた後だった。

⑦

 月は私たちに、いつも正面だけを見せてくれる。そう、餅をついている、白いウサギが住んでいる面よ。つまりね、月のウサギはどんなときでも私たちを見ているの。
 私はウサギになりたい。
 ウサギになる夢を見たい。
 そこでは、夜空の月が空っぽになっているはず。
 そこでは、ウサギになった私が、君のそばを守っているはず。
 そこでは、私の祈りが月に届くはず。
 
 私の夢では、せめてここではね、君が幸せでいられるように。
 君がどこにいても、私がどこにいても、それが叶うように。

 葉っぱのように二人の服が散らかっている。本は一冊もないのに本の香りがする、魔法使いの書斎みたいな部屋。そして、ホコリ一つないきれいな机の上。ここでアイリは小説を書くのだ。
 僕はアイリの言葉を読んだ。彼女の発する言葉は、それが音であっても文字であっても美しい。憂鬱に近い美しさだ。
 僕はマグカップを取って、テラスの窓を開ける。冷たい風が邪魔をしたのか、アイリが寝言みたいに言う。
「心配しなくても...... いいのですよ。ぜんぶ、うまく行きますから......」
 ぜんぶ、何もかも、僕がそうなってほしくないものまで、うまくいく......
 とてもやさしい呪いだった。

 まったく、アイリはとんでもない小説家だった。未完成の原稿だけで、こんなにもおかしい気分にさせてくれるのだから。もともと今日一日中こういう気分だったのではあるが。そう、あのカフェでもそうだった。
 大人しく咲いた霧の向こうに満月が見えた。科学館の屋上で見たときより酷くゆがんでいて、像の揺れが止まらない。その上柄も色もなくてどこか貧弱に見える、空っぽの月だ。今更にして思うと、彼女はあの月のこういうところが嫌いだったのか。
 アイリの小説は間違いなくベストセラーになる。彼女は一瞬でお金持ちになるだろうけど、そのお金を全部本と本棚を買うのに使ってしまう。会話するとき使う本のストックが必要だろうから。あるいは僕を連れてロシア、アメリカ、スペインを含んだ世界図書館巡りを行うかも知れない。いや、僕を連れて行かないかも知れない。しかし心配することはない。恐らく、それが僕の幸運なのだろうから。
 下を見ると、霧で何も見えやしない。ここは六階建ての六階。家賃が倍になろうとも天辺がいいって言うアイリが、街中の不動産屋を回り回って見つけた部屋だった。僕は月を目にするのが嫌で下を見続けた。
 ホコリみたいに残っている栞奈の電話番号。電話をかけてみても出ることはない。何度かけなおしても。
 手すりを飛び越えて、霧の中に身をゆだねる...... そういう想像をしてみた。六階は死ぬに申し分ない高さなのだろう。しかし、僕はまだ死を望んでいない、はずだ。まだ確認していないものがあるから。それでは月のウサギというやらは、今までそうしてきたみたいに、僕の望む通りにしてくれるのだろうか。六階で落ちても死なないように? それより悲惨なことはない。
 降り注ぐ月の明かりが苦しかった。
 そう、面接のときもそうだったのではないか。僕は自分がどっちを願っていたのか判らなかったけど、僕の「幸運」はイギリスに行く方を選んだ。アイリやブルスさんと出会ったから、結局それは、今までは、いいことだったと思う。
 また賭けてみようじゃないか。どっちが僕のためになるのか、そんなのは月のウサギ、つまりは、僕の幸運が判断することだった。「彼女」に選択を投げつけるのだ。
 僕は死にたいのか? 死ぬのは簡単だ。そうしてこの茶番みたいな夢を終わらせるのなら。
 死にたくないのか? なら、ここで落ちてもケガで済むだろう。それはこの世が夢だという証拠だ。しかし、その後はどうするか...... それもまた賭けてみればいいことだ。
 どっちみち、次に彼女を見たらどうしても言いたいことがある。
 あまりにもまばゆい夜。
 僕は最後に月を見上げ、靴を脱いだ。
 
  

 


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