「私」を見つけて

アリス



 胸がドクンと高鳴るのを感じた。もう、その名前を聞くことはないと思ってたのに。
「今回のイラスト宇(う)尾(お)野(の)咲(さく)さんにお願いすることになった」
 課長は自慢げにその名前を告げる。その名前に周りも次々と歓声が上げ、盛り上がる。
「佐藤(さとう)。お前、同じ高校で宇尾野さんと知り合いらしいな?」
 課長がニヤッとした顔で僕を見る。それにつられて周りの視線も僕へと集中する。この先に何を言われるのか大体想像がついてしまった。
「今回の仕事は先方の希望もあり、佐藤に任せたいと思っている。どうだ、やってくれるか?」
 大きな仕事を奪われて悔しそうな人、逆に自分じゃなくて安心している人などの様々な表情が見える。だけど、このようにみんなの前で周知することで、断わりにくいようにするのは一種のパワハラではないだろうか。まぁ、仕事と割り切って引き受けるしかないか......。
「僕でよければ喜んで引き受けさせていただきます。精一杯頑張りますので、みなさん何卒よろしくお願いします」
 課長は自分が望んだ返答を得られたようで満足していた。
「みんな! 佐藤のサポートをしてやってくれ。佐藤、よろしく頼んだぞ?」
 課長の返答を皮切りに拍手の音がだんだんと大きくなる。課長は僕の方へゆっくりと向かってきて僕の肩をパンパンと2回叩く。体がぐらっとするぐらいに強く叩かれるが、なんとか笑ってやりすごす。そして、課長は僕に向かって言い放った。
「今、宇尾野さんはこちらにいらしているみたいだから、あとで会社を案内してやれ。まぁ、積もる話もあるみたいだろうしな。これは今回の企画書だ。宇尾野さんが来るまでには目を通しといてくれ」
 あまりにも性急すぎる。だけど、そんな僕の心なんて誰も理解してくれるはずもなく、その場はその報告を以って解散となった。
 
 
 
 宇尾野咲 新進気鋭のイラストレーターである。本名は王(おう)野(の)咲(さく)。僕が高校の頃に所属していた美術部の同級生である。
 僕は言われたとおりに企画書に目を通し、会議室で待機している。咲との関係性は正直、あんまりよくはない。そりゃ、最後にあんな別れ方をして以来会ってないからな......。
 だから、待っている最中にも落ち着かない心を鎮めようと、企画書に目を通そうとするがどうにも集中できない。そんなことを何度も繰り返していると、急にノックの音が響き渡った。
「はい、どうぞ」
 できるだけ平静を装って返事をする。ドアが開く。そこから見える顔は僕が知っている顔と変わりなく、あの頃のままだった。まるで別人のようになってくれていれば、平気だっただろうに。鳴りやんでくれない鼓動に諦めをつけて、頭を下げる。
「今回は、お忙しい中ご足労頂きありがとうございます。どうぞ、座ってください」
「いえ、こちらこそ今回はご依頼いただきありがとうございます。お力になれるように精一杯努力させていただきます」
 咲を席に座らせて、会議室のドアを閉める。
「それでは、宇尾野さん。早速ですが  」
「さーく」
「?」
「咲でいいよ。あの頃はそう言ってたじゃん? 私も優って呼ぶから」
「いえ、そういうわけには」
「......」
「分かったよ、咲」
「よし」
 仕事としてやらせてくれたらどれだけ楽だっただろうか。あぁ、お前はそういうやつだよな。心模様がぐちゃぐちゃになるのはもはやどうしようもない。大きく息を吐いて、ゆっくりと話し始める。
「じゃあ、今回の仕事の話をしていいかな?」
「はい、どうぞ」
「今回の依頼は化粧品とかで有名なマホロバ。新しいシャンプーを販売するにあたって販売促進のポスターを咲にお願いしたいらしい。これがイラスト案だよ。期間は今から三ヶ月後。お金の件については向こうがお前を雇えるなら、相場よりも高く払うと言ってるから、希望を言ってくれればこっちで交渉するよ。どう? 依頼内容は問題なさそうかな?」
「うん、これなら三ヵ月もあればできると思う。ぜひ、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。もし何か連絡があれば、この会社の連絡先にお願い。もし、言いにくいことがあればラインでもいいよ」
 話すべき必要最低限の事務的な連絡が終わってしまうと、特に話したいこともないので僕も咲もそのまま黙り込んでしまう。何か話さなきゃいけないとは思うけど、言葉がうまく出てこない。じれったく感じたのか咲が切り出してくる。
「なんか優は変わっちゃったね......」
「社会人だからね......」
「ううん、そういうんじゃないよ」
「そういう咲は変わらないね」
 僕の勘違いか分からないが、咲は少し嬉しそうな顔をして笑う。これ以上そこに立ち入ってはいけない気がして話を逸らす。
「咲。今からこの会社を案内するよ」
「本当に? ありがとう」
 それからはお互いに当たり障りのない話をして別れたのだった。
 
 
 
「ただいまー」
 返事なんてあるはずがないのに、ついつい口から出てしまう。すぐに荷物を床に置き、浴槽に湯を貯めるために蛇口を捻る。いつもは簡単にシャワーで済ますところだが、今日は湯船につかってゆっくりしたくなった。
 風呂から出たら荷物を再び拾い、ソファに勢い良く腰掛ける。すぐにチャンネルでテレビをつけて、一息つく。別にテレビが見たいわけじゃない。ただ一人暮らしをしてから、無音が嫌で何となくつけてしまうのだ。
 スマホをポケットから取り出すと、咲からの連絡に気付く。基本的には会社の連絡先に送ってほしいと言ったのに、ラインに送ってきている。
「これからよろしくね、か」
 本当ならもう一生関わらないままの方がよかった。僕も当たり障りなく返信し、スマホを机の上に置く。これからどうなるんだろうか?
 そのままうだうだしてても仕方がないので、コンビニで買ってきた晩ご飯に手を伸ばす。一人暮らしを始める前は自炊しようなどと意気込んでいたが、今じゃそんな気は起きない。笑い声がする。芸人が漫才をしてお客を笑わせているみたいだ。
 そんな風に味気ない食事が終わったころに浴槽にお湯を貯めていたことを思い出す。急いで風呂場へと向かうとすでにお湯が溢れ出ていた。
「あちゃー、もったいな......」
 すぐに蛇口を閉めて、少しお湯を減らす。そして風呂の準備をして、ゆっくりと湯船につかる。
「あぁ  」
 自分から出た情けない声に驚く。単に久しぶりの風呂が気持ちよくて出たのか、それとも仕事を引き受けてしまった後悔からかは分からない。なぁ、咲。お前はどんな気持ちでこの依頼を引き受けたんだ? ゆっくりと目を閉じる。

咲には才能があった。
少なくとも僕よりは絵を描く才能が。

 僕は小さい頃から絵を描くのが好きだった。裏が白いチラシを見つけてはいつもお絵かきしていた。出来た絵を母に見せては褒めてもらうのが好きだった。
 そんな僕だったから中学校に入ったら、美術部に入部した。今まではただ自分の好きな絵を描いていただけだったが、先生や先輩に様々な技術を教えてもらい、新しい世界がどんどん広がっていった。描くのがただ楽しかった。僕自身も学びたい気持ちが強かったため、積極的に質問した。そのおかげかどんどん上達して、賞までもらえるようなった。
 高校は普通科に進学した。美術部の先生には美術家の高校に進学を進められたが、自分が何をしたいのか決まっていなかったから、選択肢を狭めたくなかったのである。
 だが、高校でももちろん美術部に入部した。だけど僕の通っている高校は勉学に力を入れている高校であり、部活動に所属している人は少なかった。美術部もその例にもれず部員は僕だけだった。
 中学までとは違い、顧問の先生も部にはあまりに顔を出さず、基本的には一人で黙々と描くことになった。しかし僕自身まだまだ質よりも描く量が足りてないと感じていたので、集中して描ける環境を用意してくれただけで感謝している。
 僕は自分で様々な絵を描いては研究し、成長の糧としていた。咲と出会ったのはそんなころだった。高校の美術部では初めての部員だったから、嬉しかったのをよく覚えている。今でも鮮明に思い出せるくらいだ。



「すいませーん」
 こんなところには誰も来ないと思っていたので、いきなり声をかけられてびっくりした。絵を描くのに集中していてドアを開ける音さえ気付かなかった。
「あ、え、はい。えっと、どうしたん......ですか?」
「あ、すいません。私、美術部に入りたいんですけど」
「え?」
 僕が驚くのも無理もない。今は一年生の冬で入部希望の人なんていないと思っていたからだ。ましてやうちの学校では、美術部なんてあんまり目立つような部活でもないのに。
「だめ......ですかね?」
「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃなくてですね。今、冬だから少し驚いちゃって......。入部自体は全然歓迎です」
「あ、よかったです。私、王野咲って言います。これからよろしくお願いしますね」
「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします。えっと、僕は佐藤優也(さとうゆうや)って言います。よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
 僕は話すのが苦手ってわけではないが、得意ってわけでもない。だからこんな風に沈黙ができてしまったら、どうしたらいいか分からない。そのため、当たり障りない話で誤魔化すことにした。
「えっと、王野さんは......何年生ですか?」
「あ、私は一年生です」
「あ、そうなん......ですね。じゃあ一緒ですね」
「そうですよ。だから敬語は使わなくても大丈夫ですよ?」
「あ、そうなんですか? はい......分かりました」
「いや、敬語のままですよ?」
「いや、それは王野さんも一緒ですよ......」
「あ、はい。そうですね」
「じゃあ、いっそのこと僕のことは優って呼んでください。仲のいい友達はそうやって呼ぶので。そうしてもらえれば、タメ口で喋れるかもしれないです」
「はい......えっと、優さん」
 そう言って、微かに笑う。そういうのに耐性のない僕はドキッとさせられてしまった。僕が黙っていると恥ずかしがって、矢継ぎ早に言葉を重ねてくるか。
「えっと、じゃ、じゃあ! 私のことは咲って呼んでください」
「う、うん。咲ちゃん」
 なんか恥ずかしいことをしている気になって話を逸らす。
「えっと、宇尾......咲ちゃんはどうして美術部に入ろうと思ったの?」
「職員室の前に絵が展示してあるじゃないですか。私、あの絵が好きで......。私もああいう絵を描きたいなと思って......」
 確か......。今、職員室の前に展示してるのは僕がコンクールで受賞した絵だ。わざわざ学校で飾らせてほしいとお願いされたのだ。わざわざ自慢はしないが、自分の絵が誰かに影響を与えたのが普通に嬉しい。
「そうなんだ」
「はい! 私、そんなに絵を描いたことがないんですけどできますかね?」
「きっと、できるよ。咲ちゃんが絵を好きって気持ちは十分に伝わってきたから」
「はい......ありがとうございます。あの、ごめんなさい......。私が突然来たから優さんの作業を途中にさせちゃって」
 そう言ってさっきまで描いていた絵を見る。
「気にしないで。あの絵はもう完成したから」
「そうなんですか?」
「うん。逆さ絵って知ってる?」
「あの歴史の教科書で載ってた逆さにしても絵になってるやつ......かな?」
「そうそう! それを描いてみたくて書いてたんだ」
「そうなんですね! わぁ、本当だ! ひっくり返してもきちんと絵になってる」
「まぁ、まだまだだけどね」
「いや、すごいですよ、これ! この花、アネモネだよね? ひっくり返すまで気付けなかったけど! すごく絵にぴったりでいいと思う!」
「すごいね......花とか見たら一発でわかるんだ」
「あ、はい......。花言葉が好きで調べてるうちに詳しくなって」
「なるほどね」
「アネモネの花言葉には『期待』って意味があります。なんか逆さにしても絵が出てくるって期待を裏切る感じでいいですね」
「もし気にいったなら、いる?」
「え、いいの?」
「うん、僕も描いた絵が誰かに好きって言ってもらえるの嬉しいし。ぜひ、良ければだけど」
「ありがとう、嬉しい......」
 それから咲は入部し、正式な部員となった。
 
 
 
 それから僕は咲にどんどんいろんな技術や知識を教えた。僕は絵のジャンルとかは特に決まってなかったので、いろんな技術や知識を持っていた。だからそれを余すことなく、咲くに教えた。咲もそれに応えるようにどんどんと上達した。
 いつしか咲もコンクールでたびたび受賞するようになり、二年生の秋ごろにはお互いに切磋琢磨するようになった。
 この頃になると周りでもちらほらと進路の話題が出てくる。僕は芸大に進学するか、普通の大学に進学するか迷っていた。
 自分がどのくらい他の人と比べて描けるのかに自信がなかった。また将来的に絵を描いていくことが生活していけるビジョンが明確に湧かなかったというのもある。
 今思えば、ただ怖かったのだ。自分の好きな絵を否定されるのが。自分の才能のなさに気付かされるのが。
「私、芸大に行くよ」
 だから咲からそう言われたときは驚いた。自分がまだ迷っていることをそうも簡単に決められるなんて。絵に関しては咲の前を歩いていたと思ったのに。いつの間にか自分と同じくらい成長してる咲を嬉しく思うと同時に怖く思った。
「優も絶対、芸大に行った方がいいよ」
 絶対ってどういうことだよ? 咲は絵描きでやっていくことの難しさを分かっているのだろうか? そもそも、いい芸大に進学しようとすれば倍率は三倍を超えてくる。しかも絵描きになれるのは、その中でもさらに一握りだ。こんな狭き門だと分かっているのだろうか。
 もちろん、自分の才能を信じて挑戦してみたい気持ちはある。だけど、もし失敗したらという感情がどうしても拭いきれない。その時は僕はまだ絵を好きだって言えるのだろうか? 僕はずっと煙のような掴みようのない不安に駆られて、咲に生返事しかできなかった。



 その日はいつも通りに絵を描いて、家に帰るとやけに静かだった。僕が帰ると居間からおかえりと一声かけてくれるのに。今日はお買い物にでも行ったのだろうか。それともいつもより少し帰りが遅くなってしまったので、母さんも父さんも寝てしまったのだろうか。
 そんなことを考えながら、居間に向かうと食事が置かれてあった。なら、きっと買い物にでも行ったのだろう。置かれている食事を温めることにする。レンジで出来上がるのを待ってる途中で携帯を開くと、父さんからの着信があった。
「もしもし?」
「優也! 今までどこに!! いや、そんなことはどうでもいい。今すぐ病院まで来い! 母さんが倒れた」
 父さんは用件だけ言って、すぐ電話を切った。そのままスマホを見ると、多くの着信が入っていたことに気付く。マナーモードにしていたせいで気付けなかった。さっきまでは言われたことに実感が湧かなかったが、じわじわと不安がにじり寄ってくる。レンジに入っているご飯をそのままに僕は自転車で病院まで急いだ。
 病院に着いて、名前を言うと受付の人がすぐに案内してくれた。父さんは落ち着かないようで立ったり座ったり歩き回ったりを繰り返していた。僕は母さんが扉の向こうで手術を受けているというドラマみたいな現実が嘘みたいに思えて、ただ座って呆気にとられていた。こうしていれば誰かが嘘だよって言ってくれる気がして。だけど、目の前の手術中のライトを見るたびに何度も現実に引き戻された。
 しばらくすると、ライトはぱっと消えた。母さんが手術室から運ばれて出てきて、手術は成功したと聞いた。とりあえず一安心だ。その後は今日はもう遅いから寝なさいと父さんが家まで送ってくれた。冷めたご飯はカチカチになって食べれそうになかった。
 次の日、僕は学校を休んで父さんと車で病院へと足を運んだ。病院に着くや否や、父さんはお医者さんと話があるらしく、席を外していった。母さんは昨日からまだ起きてない。僕は家から持ってきた着替えなどを棚にしまうことにした。
「う......ぁう」
 微かに声が聞こえるので、ベッドへと振り向くと母さんが目を開いてこちらを見ていた。その瞳には涙が浮かんでいた。
「母さん、大丈夫?」
「だい、じょうぶ」
 手術後なので声がかすれているが、意識ははっきりしているみたいだった。
「母さん、お医者さんを呼んでくるから待ってて」
 すると、僕の手を握る母さん。
「あ、あー、あー。ちょっと待って」
「いや、そんなこと言ってる場合じゃ」
「いいから」
 母さんの剣幕に僕は圧倒されて頷くことしかできなかった。
「優也、よく聞いてね?」
「うん、どうしたの?」
「お母さんね、もうダメみたい」
「は?」
 母さんは僕の目を見てゆっくりと語りかけてきた。だけど決意してた覚悟も長くは続かなかったみたいで、すぐに手で顔を覆い泣き出した。
「だって、手術は成功したって言ってたよ? まだ、どっか痛むの? やっぱり、お医者さんを呼んでくるから待ってて」
「違う......違うの」
「じゃあ。じゃあ......なんだっていうの?」
「お母さんね、病気なのよ。心臓の。次、手術するようなことがあれば覚悟しておいてくださいってずっと言われててね」
「だって、そんなこと一度も......」
「ずっと隠してたからね。優也が大学に行くまでは内緒にしとこうってお父さんと二人で決めたの」
「............」
「今回はたまたま上手くいったけど、たぶん次はない。分からないけどそんな気がするの。もっと一緒にいてあげられなくてごめんね。こんなお母さんでごめんね」
 そんなことはない。次もきっと上手くいくよ。そう笑い飛ばしてあげたかった。だけど、まるで口が縫い付けられたみたいに動かない。
「お母さん不安なの。朝、ちゃんと起きれるかしら。健康的な食事をしてるかしら。不安を一人で抱え込まないかしら。お父さんと上手くやって行けるかしら。他にもいっぱいいっぱい、いっぱい」
 ほら、言えよ。そんなこと心配する必要はないって。だって母さんは治るんだからって。だから、もう泣かないでって。
 母さんは僕を見て、笑顔とは到底いえない顔で笑ってくれる。母さんは近くにいる僕をゆっくりと抱きしめる。母さんが一番苦しいのに。僕が慰めなきゃいけないのに。
「ねぇ、優也? 優也は将来何がしたいの?」
「ぇ?」
「うん、将来何したいの?」
「分からない......分からないよ」
「お母さんね? 優也の絵が好きだよ」
「......うん」
「ねぇ、芸大に行かないの? 優也は絵を描くのが好きなんでしょ?」
「でも......」
「優也が何で迷ってるかは知ってる。大丈夫、私はいつでも優也の味方だよ? お父さんは反対してるけど、お母さんが説得してあげるから? ね? だから、優也がどうしたいか教えて?」
「うん、僕は......もっと絵を描きたい」
「うん、知ってたよ? 優也ならいけるよ! 精一杯頑張りなさい?」
「うん。ありがと、母さん」
 母さんがゆっくりと僕の肩を押す。僕もそれに逆らわずに立ち上がる。少し心を落ち着けてから、お医者さんを呼びに行く。ドアを開けて出ていく前に僕は母さんに言う。
「僕は芸大に行くから、ちゃんとそれを見ててね!」
 母さんは少し呆気にとられた顔をしたが、すぐに笑って見送ってくれた。もう迷わない。母さんが背中を押してくれたんだ。僕は芸大を目指すんだ。
 
 
 
 僕は今までの迷いの分、精一杯絵を描いた。僕は芸大を目指すことにしたが、咲とはあれから進路の話はできないままでいた。咲も途中から僕が進路の話をするのが嫌っていると理解し、しなくなってしまった。とはいえ、自分から話を振るのはなんか気まずくて言えないままだった。
 あれから時は流れて、三年生の九月になった。母さんの体調は今のところ安定しており、大丈夫そうだ。うちの学校では九月に学園祭がある。美術部は毎年、今まで描いた作品の何点かを展示させてもらっていた。だけど、今年は最後の学園祭だから、何か新しい絵を描こうと咲が提案してきたのだ。僕もその提案が面白そうだと思ったので参加し、今に至る。その展示物の提出が今日までなのである。
「咲? 学祭に出す展示の作品できた?」
「うん、できたよ! 優も......聞くまでもなさそうだね」
「うん、上手くできたかな! 最後の学祭だから思い出に残るようなものにしたかったしね」
「だよね?。私も結構、まじめに構成を考えたし」
「やっぱり何か描くってなったら本気になっちゃうよね」
「だね?」
 コンクールに応募するわけじゃないから、本気で描かなくてもいいって頭では理解しているが、描き出したら楽しくてついつい本気になってしまった。それはどうも咲も同じみたいだ。
 お互いの絵が完成していることが分かったので、提出先である生徒会室に持っていくことにした。
「咲は今回、どんな感じの絵を描いたの?」
「えっーとね......」
「あ、咲と佐藤」
 その途中でクラスメイトの女子と遭遇した。えっーと、名前は確か......。
「心!」
  そう、夢見心さん! あんまり喋らないのですぐには思い出せなかったが、記憶の片隅には存在していたようだ。
「二人で何してんの?」
「学園祭で出す展示物の提出に行ってるの」
「あぁ、咲。美術部だもんね?。ということは佐藤も美術部だっけ?」
 僕はそれに頷く。僕に聞きたかったのはそれだけのようで、すぐに咲の方に向き直る。
「え。咲の描いた絵見てみたいんだけど」
「いいよ? 見る?」
「うん、見る見る?」
「え、すご!! 私、絵とかよく分からんけどめっちゃ上手なのは分かるよ! へぇー、咲。すごいね」
「いやいや......別にそんなことないよ」
「そんな謙遜しなくてもいいでしょ?」
 女三人寄れば姦しいというが二人でも十分だと思うのは僕だけだろうか。まるで僕はいないもののように話が勝手に進んでいく。まぁ、慣れてるからいいんだけどね。
「で、佐藤はどんな絵を描いたの?」
「ん、僕?」
 完全に気を抜いていた。二人だけで完結してくれるものだと思っていた。まぁ、どうせ見ようと思えば、学園祭で見れるわけなので、隠す必要もないかと思い、見せることにする。
「へぇ?、佐藤もすごいね? 絵、上手いんだね」
「あぁ、ありがと」
 それから咲と夢見さんはしばらく話していた。ただ、その間僕の心中は穏やかではなかった。僕の勝手な思い過ごしかもしれないが、自分の書いた絵よりも咲の絵のほうが上手いのではないか? という不安が襲いかかってきた。
 今まで明確に比較されたことがないので、なぁなぁになっていた。だが今回、夢見さんの目線では明らかに咲の方が感触が良さそうだった。素人だからと自分に何度も言い聞かせた。だけど、その日のうちに僕の中のモヤッとしたものは消えてくれなかった。


 
「優、最近調子よさそうだね」
「うん、最近筆がいい感じなんだよね」
「......そっか!」
「あ、ごめんね? もう、お見舞いの時間だ」
「あ、もうそんな時間か。じゃあ、またね」
「うん、バイバイ」
 放課後は絵を描いてから、母さんのお見舞いに行くのが最近の日課となっていた。そうして、絵が上手に描けたときはそれを持って行って母さんの病室に飾ってもらった。
 今日もいつものように自転車で病院に向かう。今日の絵はここ最近では一番の出来なので飾ってもらおう。そう思って、持ってきた絵を籠から取り出そうとすると、看護師さんの会話が聞こえてきた。
 僕は荷物さえ持たずに駆け出した。そんなの嘘だよな。病室に行ったら、いつもみたいに笑ってるよな? きっといつもみたいに絵を褒めて  
「佐藤君? お母さんが!」
受付の看護師さんに止められる。
「落ち着いて聞いてね? お母さんが倒れたの。今すぐ手術室に行ってきて」
 僕は病室から手術室に行き先を切り替える。手術室に着くと、この前みたいに緑のライトが点いている。あの時はすぐには受け入れられなかったのに、今回はなぜか手術中ということがすんなりと腑に落ちてしまった。あぁ、どうか無事でいてくれ。
 少しすると父さんが息を切らしてやってきた。
「優也、母さんは?」
 僕は手術中のライトを一瞥するだけで何も言わなかった。父さんはそれですべてを理解して、ゆっくりと隣に腰かけた。
「優也。これは父さんと母さんで秘密にしてたことなんだが、母さんは心臓に重い病気を患ってるんだ。だから、いずれはこうなることは分かってたんだ......。黙っててすまん......」
「そっか......」
 父さんには母さんの会話のことを話してなかったので、知ってたとも言えず曖昧に相槌を打つ。それからは二人で何も言わずに座って待っていた。無事を願ってるはずなのに、どうしても母さんの言った「次はない」という言葉で最悪のケースが頭にちらついてしまう。
 ライトが消える。父さんが扉の前に駆け寄る。手術室の扉が開かれる。そこから歩いてくるお医者さんの表情ですべてを察してしまった。
 あぁ、僕はまだ何も......。
 
 
 
 それからはさらに絵にのめり込んでいった。描いて描いて、それで日を越したこともあった。どれだけ描いても自分が望んだものには届かなくって。それでも、ただ描き続けることでしかこの気持ちを落ち着けることができなかった。せめて、母さんが見たかった景色を叶えるために。母さんが言ってくれた「優也の絵が好きだよ」って言葉を糧にして多くの絵を描いた。
 だけど、努力なんて必ず報われるわけじゃなくて。僕の頑張りなんてなかったかのように、咲の描いた作品ばかりが評価されていく。咲が努力してるのは近くで見てきた僕が知ってる。でも、僕だって同じように、いやそれ以上に努力しているのに。自分で絵を見たって遜色ないものが描けていると思う。それでも評価されるのは咲の作品なのだ。
 僕が咲を少しずつ避け始めたのはこの時期だ。僕が咲に絵を教えたから、咲の作品はきっと僕の作品に似ているんだ。自分の作品と似たようなものがあれば、評価も分散されてしまう。自分にそんな言い訳をしてまで離れたかったのだ。だって、咲といると僕が今まで時間をかけて積み上げたものがなかったことにされるみたいで怖かったのだ。
 一度離れてしまえば、自分の作品と関わる機会も減って、それぞれの作品に違いが出て正当な評価をされると思った。それに咲に対して、少し苛立っている心を落ち着かせることができると思った。
 芸大の受験までは心を落ち着けて、絵を集中して描きたいと思っていたからちょうどよかったのである。それに話すよりも絵を一枚でも描くべきだと思った。また、咲も自分の受験で手一杯なので自然と会う回数は減っていった。



 なんとなくだけど、自分には才能があるとどっかで信じていた。描き続けてさえいれば、いつか評価されるはずだと。
「優! 私、受かったよ!!」
 咲のそんな言葉を聞いて、やり場のない怒りを感じた。お前はどうしてそんな無邪気に笑うんだ?これがからかいならどんなによかっただろうか。
「そうか、おめでとう」
 この言葉を一語捻り出すたびに僕の大事なものが瓦解していく。あぁ、やめてくれ。認めたくなかった。
「ねぇ、一緒に受付に行こう?」
 きっと、言わないと分からないんだろうな。どうして咲なんだ。どうして僕じゃないんだ。言いたくない......。重い口をこじ開けるようにゆっくりと開く。
「......僕は受かってないから、一人で行ってこいよ」
 咲が驚いた顔をする。僕が落ちるなんて微塵も思ってなかった顔だ。お前はそういう奴だよな。だけど、そんな優しさは欲しくなかった。いっそ、蹴落としてくれた方がどれだけ楽だっただろう。
「そんな......。そんなの、おかしいよ! だって優は、優は私より絵を描くのが上手いのに!!」
「咲、お前の方がうまかった。ただ。それだけのことじゃないか......」
 僕は咲が何か言ってるのを無視して、飛び出した。これ以上聞きたくなくて、ひたすらに走った。この心音を消してしまいたくて。あてもないのにただひたすらに走った。
 簡単に言えば僕の美大受験は失敗した。そして咲は合格した。ただそれだけの話だ。
 決して描くことに手を抜いたことはなかった。咲より美大受験を意識してスタートをするのが遅かったから、咲よりも一枚でも多くの絵を描けるように努力をした。小さい頃から今までで積み上げたものがあるとか考えないで、ひたすらに努力をした。
 だけど、そんなものは才能の前には全て無意味だった。結局、最後に勝つのは才能があるやつだ。僕はこの時、はじめて思い知らされたのだ。好きなものに好きっていうのさえ才能が必要だって。
 それでも僕には絵しかなかったから、絵を描こうとした。だけど、もう何も描けなくて。
 
どうして絵を描いていたんだろう。
それすらも分からなくなってしまった。
ねぇ、母さん? 苦しいよ?
もうあの声は聞こえなくなってしまった。
だから僕は絵を描くのをやめた。



ピチャっと額に当たる水滴で目を覚ます。どうも、うとうとしてたみたいだ。咲と会ったせいで昔のことをつい思い出してしまった。いつもより長い間、風呂に入ってしまった。さっと体を洗って、風呂を出た。こんなことに時間を使ってられないしな。
 社会人になって分かったが、自分で時間を生み出さなければ自分のしたいことはできない。今は特にしたいことはないが、ただ風呂に浸かり続けるのは時間の無駄なので早く出ることにした。
 風呂から出て、ソファに腰掛ける。さっき机に置いたスマホを見るとまた咲から連絡がきていた。さっき嫌なことを思い出してしまった手前、あんまり返信したくないのだが、仕事である以上はそうは言ってられない。
「仕方ない、返信するか」
 こういう風に言葉にしないとやる気にならないのである。嫌な思い出っていうのは難儀なものだ。
 ラインを立ち上げて見ると、どうやら作業場を貸りたらしいから見に来て欲しいとのことだった。僕が行く必要なんてあるだろうかと思うけども、課長に相談してみる。すると、行ってこいという内容の返信がすぐにあったので、咲の作業場に行かなきゃいけないようになった。咲にそのことを伝えると、純粋に喜んでいた。きっと咲はあの時のことなんて、なんとも思っていないんだろう。少しの胸のモヤモヤを抱えながら、明日の準備をするのだった。
 
 
 
 咲の作業場は僕の家から近かった。そのため今日は直接会社に向かわず、そのまま外回りをしていることになっている。作業場の前まで行くと、咲が出迎えてくれた。
「優、来てくれたんだね」
「いや昨日言ったでしょ? まぁ、仕事だからね」
「うん、どうぞ! 中に入って」
 招かれるがままに部屋の中へと足を入れる。あぁ、絵から遠ざかっている自分からしたら懐かしい。絵の具独特の匂いは今でも嗅覚が覚えていた。
 少し目を泳がすと、絵が飛び込んでくる。よく見ると今回の依頼の絵といくつか整合するところがある。まさか、もう描いたのか? 相変わらず描くのが好きでたまらないんだろう。
「咲、あの絵は?」
「あ、依頼されたやつをさっと書いてみただけだよ」
「見てもいい?」
「いいよ、全然」
「ありがとう」
 僕はそう言って絵に近づいてじっくりと見てみる。とても一日とは思えないクオリティだ。こちらが依頼した内容は全て反映されているし、これで提出してもほとんど問題ないレベルだ。
「咲、これすごい上手だよ」
「......そっか」
「あぁ、さすがプロのイラストレーターは違うね」
「......ありがと」
「これなら依頼も全く問題なさそうだね」
 どうも咲の元気がなさそうだ。さっと適当に描いた絵を褒められて、機嫌を悪くしたのだろうか?それとも、お世辞で褒めたと思われただろうのか? どちらにせよ、機嫌を悪くされても困るのでここは励ましとかないと。
「咲、僕はこの絵本当にうまいと思う。とてもじゃないけど、一日でこの仕上がりはすごいよ」
「あはは、ありがと! うん。じゃあ、この絵からもう少し調整しようかな」
「うん、期待してる」
「はい、了解」
 話すことがなくて沈黙する。こんな気まずいままでは今後の仕事にも関わるので適当に話を振る。
「そういえばどうして宇尾野咲の名義で活動してるの?」
「んー、どうしてだと思う?」
「本名がバレるのが嫌だった?」
「そうかもね?」
「自分で言っといてなんだけど、芸大時代にあれだけ顔出しして作品を出してるのに。絶対違うでしょ?」
「まぁ、そうだよね」
「じゃあなんでよ?」
「秘密だよ」
「ここまで問題形式にしておいて?」
「乙女には秘密がいっぱいあるもんなんだよー」
「いや、ずるいね」
「まぁまぁ、知ってる人は私以外いないから」
「そういう問題じゃないんだけどなぁ......」
「はいはい、この話終わり」
「じゃあ、せめてヒントを頂戴?」
「えー、ヒントかぁ......」
「お願い!」
「まぁ、優だからね。特別だよ。今考えるからちょっと待ってて」
 そう言って咲は後ろでゴソゴソしだす。僕はその間、スマホを触って待つ。こっちでの仕事が落ち着いたら会社に行くか。
「できた?」
「思ったよりも早いね」
「じゃあ、これあげるね?」
「c・o・t・o・e・t。何これ? ちゃんとヒントになってる?」
 渡された紙にはアルファベットでcotoetの六文字が書かれていた。スマホで調べてみても、こんなスペル存在しないし、本当に意味が分からない。
「うん、ちゃんとヒントになってるよ。すぐにバレても癪だから分かりにくくしたけど」
「えぇ、なんで? アナグラムとかかなぁ......」
「まぁまぁ、悩むがいいよ」
「なんか掌の上なのが嫌だけどちょっと考えてみるよ」
「うんうん、頑張って!」
「というか咲、しゃべり方とかは結構変わったね」
「そうかな? まぁ、仕事柄いろんな人としゃべらなきゃいけないしね」
 咲のいう仕事柄というセリフに少し胸がチクッとした。だけど、次の瞬間には切り替えて笑って見せた。
 そんな僕の姿を見て、咲は唇を強くかみしめる。
「あのさ、優」
「ん、どうしたの?」
 咲は言いにくそうに躊躇い、そして意を決し僕の目を見て告げる。
「あの時はごめんなさい」
「あの時って?」
「大学受験の時、優が合格してるって確認もせずに声をかけて優を落ち込ませた。きっと優はすごい傷ついたと思う。すごい無責任だったって思う。本当にごめんなさい。ラインでは謝ったけど、やっぱり直接謝りたくて......」
「......」
 なんで、今さら......。咲......。お前が謝るなよ。惨めなのは僕だ。僕は上手く笑えてるかな? 分からない、それでも今の関係を崩すわけにはいかない。
「まぁ、気にするなよ。あの時はやっぱり凹んだけど、今となってはいい思い出だよ。だから、謝るなよ? な? 咲がそれで心を痛めてたのはよく分かったから」
 嘘をつくコツはすべてを嘘で仕立てあげないことだ。こうすることで信憑性が高くなる。そもそも、全く気にしてないよと言われても信用ができないだろう。
「それでも優を傷つけた。ごめんなさい」
 咲が再び頭を下げる。フツフツと胸にこみ上げてきたものを押さえ込む。お前が謝ったからって何も変わらないんだ。だから、せめて僕のことは踏み台にして輝いてくれ。それがお前のあるべき姿だ。僕なんて有象無象に振り回されるな。
 もちろん、こんなことを言うわけにはいかない。僕は社会人になって上っ面だけで人付き合いをすることを学んだ。
「気にしないでいいって言ったでしょ? じゃあ、お詫びとしてさ? 僕に絵を描いてよ? 宇尾野咲先生の絵が欲しいな? 今の咲の絵好きだしね。それじゃダメかな?」
 咲はさらに唇を強く噛みしめる。これ以上強く噛んだら血でも出てしまいそうだ。
「優がそれでいいなら......」
「うん、ありがと! じゃあ、それで手打ちって事でいい?」
「うん......分かった」
 咲の顔を見ると少し落ち着いたみたいだった。僕も今日は仕事があるので、長居するわけにはいかないので会社に行くことにした。
「じゃあ、僕は会社に行ってくるね」
「うん、今日は来てくれてありがと! また、作業がある程度進んだら呼ぶね?」
「うん、こちらこそありがとう。またね」
 咲が大きく手を振る。僕もそれに肩の横ぐらいで小さく振ることで答える。気を揉んで疲れてるかと思っていたが、想像よりも楽しかったと感じた。



  前に咲の作業場に行ってから、二ヶ月が経った。またすぐに連絡がくるかと思っていたが、咲から連絡を送ってくることはなかった。送るのは僕から業務連絡だけ。そして咲がそれに返信するといった感じだ。
 二ヶ月が過ぎて、作業の連絡が全く来ないと心配になる。作業の進捗度合いが気になるので課長に許可をもらって、咲の様子を見に行くことにする。課長は今日はそのまま直帰してもいいと言ってくれた。咲に今から向かうという旨のメールを送って、会社を出発した。
 会社から咲の家までは少し距離がある。どうせだったら何か差し入れを持って行こうと思い、途中でドーナツを買う。
 咲の作業場に着いたのでインターフォンを鳴らす。
「咲、来たけどいる?」
 ついでに外からそう呼びかけてみる。すると、すぐにドタバタという音が聞こえてチェーンの隙間から咲が出てきた。
「優? どうしたの?」
「いや、作業がどうなってるかなって思って......」
「あぁ、うん! 大丈夫だよ」
「うん......あがっても大丈夫?」
 差し入れを掲げる。すると、咲は恨めしそうな顔で僕を見た。
「来るなら来るって言って欲しかったな......」
「いや、申し訳ない......。今日の朝、気になってね。一応、さっきメールはしたんだけどね......」
「はぁ、まぁ仕方ないね......あがってもいいけど、汚いよ? それでもいい?」
「全然気にしない」
「そっか......」
 咲は少しだけ嬉しそうにしてチェーンを外してくれた。僕は部屋に上がると同時に咲にドーナツを渡す。
 異常な匂いがした。この前よりも遥かに強い絵の具の匂い。あれから、一体どれだけ描いたのだろうか。その答えは目の前にあった。
「咲、お前......。すごい描いたな......」
 床には大量の絵が散らばっていた。ひっくり返すとどれも依頼と同じような絵が描かれていた。
「あは......ちょっと納得いかなくって......」
「そう......なのか?」
 ただ、納得いかないだけにしては異常である。まだ、二ヶ月目でこんなに大量の絵を描くほど自分を追い詰める必要はないはずだ。
「いや、でもこれとか上手に書けてるぞ?」
 僕は床に散らばっている絵の何枚かを拾い、咲に見せる。
「そう......かな?」
「うん、そうだよ。上手だよ」
「うん、ありがと......」
 僕には咲が何に追い詰められてるか分からない。だけど、こんなに自分を追い詰めるのは良くないはずだ。だから、少しでも元気が出るように励ます。
「これとかすごいいいじゃん」
「うん......」
「この絵のタッチがいいね」
「......」
「この絵はーー」
 ドンッと音が鳴る。急に音が鳴るので、絵が手から零れ落ちてしまった。絵を集めながら褒めてたせいで下に視線を集中させてしまっていた。一体、なんの音か分からなかった。でも音のする方は分かる。僕は恐る恐る、咲へと視線の標準を合わせる。
 やはりというか案の定というか音を出したのは咲みたいだ。左手で壁を強く叩いたみたいだ。
「咲、一体どうしたの?」
「......」
「どうしたのってば? 僕で良ければ話を聞くよ? だから、そんなに自分を追い詰めないで?」
「上手って何が?」
「え、何がって? ......そんなの咲が描いた絵じゃん」
「そんなのは私の描いた絵じゃない!!」
 もう一度、壁が強く叩かれる。僕は頭の整理が追いつかない。どうして怒ってるんだ? どういうことだ? ゴーストライターみたいに別の誰かが描いてるのか? いや、そんなことはない。これは咲の絵だ。僕は咲の言ってることを分かりやすくするため、もう一度同じようなことを聞く。
「いや、これは咲が描いた絵でしょ?」
「そうだけど違うの!!」
「えぇ......、ごめん。咲の言ってること分からないよ」
「その絵に『私』はいないんだよ!」
 あぁ、なんで僕がこんなに当たられなければいけないんだろう。少しずつムッとしてきて、口が強くなってしまう。
「どういうこと? ちゃんと説明してくれなきゃ分かんないよ」
「優なら、優なら分かってくれると思ったのに」
 勝手に期待されて、勝手に失望される。これほどに嫌なことがあるだろうか。何が分かってくれるだ。僕に咲のことが理解できるわけないじゃないか......。なんで僕が、僕がこんなに言われなきゃいけないんだ!
「だから、この仕事を引き受けたのに! もうやだよ......」
 今度はへたり込んで泣き出してしまった。咲は一体どうしてしまったのか? 僕には全く分からない。
「やだよ......。なんで、なんで? 優ならなんか違うねって言ってくれると思ったのに......」
「......」
「優......絵を描くのが楽しくないよ......。私、もう描きたくないよ......」
 上目遣いでそんな風に言われたらほとんどの男が許してしまうだろう。だけど、その時僕を支配した感情は怒りだった。この一言だけはどうしても許せなかった。一瞬で頭に血を上るのを感じた。僕から......僕から......。
「僕から絵を奪ったお前が......。お前が、甘えるなよ!」
 怒鳴られると思ってなかったのか、咲の背筋がピンと伸びる。僕はそんなことも気に留めずに捲し立てる。
「お前はそれを覚悟して芸大に入ったんだろうが! お前は俺を蹴落としてんだよ! 甘えるな! お前がしていることにどれだけの人が夢を見たか、才能があるやつが甘えんな!」
 普段、喋らない声量で強く言い切ったので呼吸が荒い。咲は未だに下を向いている。だからお前がーー。
「才能って何なの!!
依頼主の通りに絵を描く才能? そんなのが私が目指したものなの? それとも絵を上手く描く才能? 私より絵なんて上手な人はいっぱいいるよ! 一番じゃないといけないの? ねぇ、上手くないと絵を描いちゃいけないの? 逃げたのは優でしょ!
私はそんな絵なんて描きたくなかった。優とならあの頃の感情で『私』らしく描けると思った。でも、無理だった。もう私には依頼通りにしか描けない。描けないんだよ!」
 咲は床を強く叩き、走って出て行ってしまった。僕は追いかける気力さえ湧かず、何もできなかった。逃げたのは......僕、なのか。



 それから、まともな判断ができるようになったのは夜になってからだった。あの後、ちょっとしてからこの前の時に一応ともらった合鍵で鍵を閉めて、家に帰った。あぁ、やってしまった。やっぱりこの仕事は受けるべきではなかったんだ。咲に謝らないと......。正直に言うとあまり謝る気は起きないが、それでも謝らない限り仕事が上手くいかなくなってしまう。怒った自分が悪いんだと自分に言い聞かせて、スマホを開く。
 すると通知音がする。嫌な予感しかしない。心を落ち着けるために一回深呼吸をして、ラインを開く。すると、仕事をキャンセルしたいという連絡があった。今の自分では納得するような絵が描けないと書かれてあった。僕はそれに何て返信していいか分からないので、既読だけつけて返信はしなかった。
 仕事を成功させなければいけないという気持ちはもちろんある。だけど、今の僕には何よりもあの時の咲の悲しそうな表情が頭から離れなかった。仕事よりも咲のことでいっぱいだった。咲があんなことで迷ってたなんて......。誰だって迷うんだ、人だから。そんな簡単なことなのに見落としてた。僕は君に一体、何ができるだろうか?



 カツ、カツと音が鳴る。次にそしてガチャリと錠が外される音が。だんだんと足音が近くなる。
「優? どうしてここにいるの?」
 僕は今、咲の作業場にいる。それは僕が咲に出来ることを考えた時にこれしかないと思ったからだ。
「咲に会いたいって思ったからね」
「でも、あれから一週間も経って......」
「うん、絶対に会いたいって思ったから」
 咲が少し後ずさる。ストーカーみたいだなと自分で少しだけ思ってたが、やっぱりそう見えるか。課長に仕事が厳しいからって無理言って一ヶ月の間、咲の作業場にいることを許可してもらったんだからな......。まあ、これ以上勘違いされないうちに、本題入ろう。
「それにここならさ、絶対に咲に会えると思って......」
「なんで?」
 僕はそこに置いてあった筆を持ち上げ笑う。
「だって僕らにはこれは捨てられないでしょ?」
 そう。そんな簡単だったんだ。いつからだろうか? 絵を描くことに意味が必要になったのは? いつから悔しいとか楽しいとか、そういう感情が必要だったのか? そうじゃなかったはずだ。あの頃は絵を描いてさえいれば幸せだったはずだ。
「確かにね......」
 咲は静かに微笑む。
「ねぇ、見て欲しいものがあるんだ」
「うん?」
 あぁ、この感覚も久しぶりだ。もう二度と味わうことはないと思ってたのに。
「あれからさ、僕に何が出来るか考えたんだ」
「うん」
「でも考えれば考えるほど、これしかなかった。僕にはこれで伝えるしかなかったんだ」
「......」
「ねぇ、咲? 咲はさ? 自分が分からないって言ってたよね?」
「うん......依頼通りの絵を描いてたら、自分の絵を描けてない気がして......」
「咲。咲はさ、ここにいるよ?」
 僕は咲に絵を渡す。久しぶりに描いた絵は不格好だったけど悪くない。不思議と悪くないと思えるんだ。
「僕は自分が描かなくなってからも咲の絵だけは見てた。そして自分で絵を描いてみて改めて分かったんだ。咲の絵と僕の絵は似てるところがある。僕の描いた絵の中に咲がいた」
 咲は絵をじっくりと眺める。目線が上から下へと忙しなく動くのが分かる。
「確かにね、咲の絵は依頼主の要望に沿ってのものだったかもしれない。でもね、そこに僕がいる。もちろん咲も。結局、新しいものが積み重なってるだけだよ? それでだんだんといろんな咲が増えてるだけ。昔の咲も、今の咲も、ここにあるのが全てだよ」
 咲は絵を伏せて地面に置く。きっと、絵を汚したくないから。僕は咲にそっと背を向ける。咲は静かに僕に抱きついた。
 才能なんて関係なかったんだ。後ろから感じる小さな温もりが咲だったのに。僕は咲の才能を見て、咲を見ようとしなかった。
 この姿勢のまま、どれくらい経っただろうか? 咲が落ち着いてきたので、また話を続ける。
「ねぇ、咲? そのままでいいから聞いて? 今回の仕事が終わったら、僕はまた絵を描いてみようと思うんだ。自分で描いてみて改めて絵が好きだと思った」
「うん」
「あの時はごめん。咲のことを知らずに傷つけた」
「私も......ごめん」
「咲のことを勝手に期待して、勝手に失望してた。自分が一番されたくないことなのに。咲だって同じだったのに」
 咲は頭を持ち上げて、後ろから僕の頭を撫でる。少し恥ずかしい。
「そんなの、当たり前だよ。人間だから期待するし、失望したりもするよ。でもさ、そこで終わらないから友情とか愛情なんじゃない? 私は優に何度失望したとしても、何度でも期待するよ。私は優にはそれが出来ると思うから」
 なんて厳しい言葉なんだろうか。それでも何でだろうか。こんなにも心が救われているのは。自分をこんなにも信じてくれる人がいる。ただ、それだけで起き上がれそうな気がするんだ。
「そう......だね......。ありがとう」
「私の方こそごめん......」
「ううん、お陰で大切なことに気付けたから」
 きっと、回り道をしなかったら見つからなかっただろう。近道が出来てたら、咲みたいに挫折していただろう。
「はは。じゃあ私達、お互い様だね」
「じゃあ、もう恨みっこなしだね」
「そうだね、優」
「ねー、咲」
 それから目も合わさずに笑い出した。久しぶりに心から笑えた気がした。それからは本当に今まで思ってたことや言いたかったことを腹を割って話した。



「はぁ、あの時は驚いたよ?」
「ん? どの時?」
「優がまだ仕事キャンセルしてないよって言った時!」
「あぁ、だって咲に引き受けて貰わなきゃ会社的にも困るしね」
「そんな理由だったの?」
「まぁ、それに咲ならやってくれるって期待してたし」
「本当に言ってくれるね......」
 咲は疲れた顔で笑う。まぁ、そういう僕も同じ顔をしていると思うが。僕は咲から来た仕事のキャンセルの連絡を会社にしなかった。その結果、ギリギリまで描くことになったのだ。
「まぁまぁ、完成したんだから」
「そうだね......」
「でも、久々に書いたらやっぱりすごく楽しいね」
「私も久々に描くのが楽しかった」
「じゃあ、宇尾野咲先生! 最後に仕上げを」
「うん、任せて!」
 描いた作品の裏には作者名を描く。それは自分が描いた作品だと証明するためである。
「よし、できた」
「あのー、咲さん?」
「なーに?」
 咲がクスクスと笑う。いや、どういう意味なんだ? これ?
「あ、そういえば! 優に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「え、今になって? え、何? 仕事関係? え、待って待って。本当に何?」
「宇尾野先生はいなくなったから、あの時の宇尾野先生の絵はあげられなくなっちゃった。ごめんね?」
「宇尾野先生は咲でしょ? 何言ってるの」
「分からないんだったらいいよ、それで」
「名前を本名で書いたのとなんか関係があるの? それ?」
「さぁね??」
「え、教えてよ?」

僕はこれからも何回も挫折するだろう。
だけど、もう大丈夫だ。
僕らなら大丈夫だ。



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