ミズワタリの伝説

居待月



    
 ――ミズワタリ
 オレ――椿(つばき)佑司(ゆうじ)がその名を聞いたのは、人生の中で二回だけ。
 一度目は六年前。オレがまだ小学生の頃。東京から遠く離れた場所で行われた、サマーキャンプに参加した時にその言葉を耳にした。でも、その記憶はつい最近まで頭の中の隅の隅に置かれていて、二回目にその言葉を目にした時、昔その言葉を聞いたことがあるってことを思い出した。
 二度目は、数日前。親父が全国各地で買った名産品の骨董品を整理していた時だ。買ったくせに、押し入れの奥に仕舞いっぱなしになっている焼物なんかを、珍しくリビングで並べて悦に浸っている親父の横でオレは勉強をしていたのだが、その時ふと焼物が包まれていた新聞紙の文字が目に入った。三年前の日付が記されたそれは、しわくちゃで茶色っぽく変色していたが、その記事自体は問題なく読むことができた。
『ふるさとを訪ねて 第八回~ミズワタリの伝説~(N県渡利(わたり)村(むら))』
 縁取りされた白抜きの見出しは、釘を打ち付けたかのようにオレの興味を掴んで離さなかった。
 渡利村。六年前のキャンプで訪れたのと同じ地名だった。
 シャーペンを置いて、焼物の抜け殻のようなしわくちゃの新聞を手に取り、机の上で丁寧に広げて読んだ。
 それは、地方の伝承や伝統を扱った連載形式の記事で、その回は、潮(しお)瀬源(せげん)という人の書いた寄稿文だった。
 ミズワタリはN県の渡利村に伝わる伝説の存在。誰もその存在を証明することはできないけど、渡利村にはミズワタリに関するたくさんの伝説が残されているという。
 その記事を見つけてから、オレが渡利村に行こうと決心するまで、そう長くはかからなかった。渡利村の名前と、アクセス、筆者の潮瀬源という名前に蛍光ペンでラインを引いて、その新聞記事を折りたたんでポケットに滑り込ませた。
 ミズワタリ――幼い頃に聞いたことのあるその名に、妙なシンパシーを感じたこともあるが、決心した一番の理由は、記事に書かれているこの一言。
『......ミズワタリは、迷える者の前にその姿を現し、進むべき道を示すという』
 オレには、どうしてもミズワタリに会いたい理由があったんだ。


    1

 金曜日の放課後、授業が終わった瞬間に掃除当番も部活も放り投げて、オレは電車に飛び乗った。都心から電車を乗り継いで二時間。降り立ったのは、ICカードも使えないような無人駅だった。オレ以外に降りた客もおらず、ひび割れて薄汚れたコンクリートの駅舎が寂しくたたずんでいた。この駅から渡利村に行くには、さらにバスに乗らなければいけないと、例の新聞記事には書いてあった。
 駅前のバス停の時間を見ると、次のバスは三十分後だった。現在の時刻は午後五時ごろ。驚いたことに渡利村に行くには次のバスが最終便だった。乗り逃す訳にも行かないけれど、ずっとバス停で時間をつぶすにも退屈だ。辺りを見回してみると、道を挟んだ駅の向かいの建物に橙の光が灯っているのが見えた。近づいてみると、どうやら喫茶店のようだった。「営業中」のプレートが、入口に掲げられている。
「すみませーん......」
 ゆっくりと扉を開けて、覗き込むようにして店内の様子を窺うと、マスターらしき初老の男性が「いらっしゃいませ」と優しく迎え入れてくれた。
 入口近くの机席に腰かけると、マスターがお冷を持ってやってきた。マスターは壁にかけられた時計を見て、「あなたも、バス待ちで?」と尋ねてきた。
「はい、そうですけど......あなたも、って?」
 マスターは、目線でカウンターに座っている少女を示した。オレと同い年くらいのその少女は、オレにはまるで興味がないように、カウンターの奥を見つめて何かを飲んでいる。
「......あの子も?」
「バスに乗られるのでしたら、渡利村の方に行かれるのでしょう? 何もない場所ですから、よそから来た若者が平日に二人も訪れるのは少し奇妙に思っただけですよ。......それで何になさいましょう?」
 マスターが、オレの注文を待っているのだと気づき、慌ててメニュー表を見る。
「じゃあ......ココアで」
 昭和の風情を残したレトロな喫茶店。本当ならカッコよく、「コーヒー一つ」とか言ってみたかったのだが、まだブラックコーヒーは苦くて、飲めなかった。
 ココアを待ちながらカウンター席に座った少女を見やる。あの子も渡利村に行こうとしているという、店員の言葉が気になった。背中まで伸ばした黒髪の少女の姿は、お淑やかで大人っぽく、田舎とは不釣り合いな気がした。

 注文したココアを飲みながら、オレは窓の外をぼんやりと見つめた。初夏の日差しは徐々に傾き、建物や木々に深い影を落としていた。
 これでよかったのかな。
 渡利村に行きたい。その思い付きはあまりにも唐突で、家族や友達の誰にも言わず、街を飛び出してきてしまった。でも、親に言うことはどうしてもできなかった。
 中学三年生。
 受験生のオレは、今から一年間、勉強漬けの毎日を送ることが決まっていた。一刻も早く部活をやめさせて、受験勉強に取り組ませたい両親が、オレの「東京から遠く離れた田舎町に行きたい」なんて戯言を受け入れてくれないであろうことが簡単に想像できたからだ。
 そう、目下の悩みは、勉強のために部活を辞めるべきか否か。引退よりも前に、部活を辞めることができれば、両親も納得するのかもしれないけれど、オレにはどうしてもその決断をすることができなかった。今、部内はちょうど全国大会出場の可否の間にいた。オレがここで辞めてしまうと、手を伸ばせば届くところにあった全国が遠くに離れて行ってしまう。どちらの選択をしても、誰かに大きな迷惑が掛かってしまう。それでオレは逃げ出した。
 そう。最初から分かってる。ミズワタリに会いたいなんて言い訳だ。これは「逃げ」の選択だ。みんなに迷惑をかける、「最悪」の選択。
 何してんだろう、オレ。
 橙に染まる見慣れない町が、オレの心を責めたてるように一層影を落としていく。後悔の念に襲われ「やっぱり帰ろう」そう思って立ち上がる寸前のことだった。
「お会計、お願いします」
 カウンターに座った少女の言葉はまるで、テストの終了を告げるチャイムのようだった。――もう手遅れ
 焦りの汗が全身から噴き出した。少女が動き出したということは、もうバスの時間が迫っているということだ。
「お嬢ちゃん、まだ中学生くらいでしょ? ブラックコーヒー飲めるなんてオトナだねぇ」
「恐れ入ります」
 会計をしながら、話す二人の声が頭の奥で響く。
 歳に見合わない気取った口調の少女は、チラリとこちらを見て、薄く笑みを浮かべた。
 その顔にどんな意図があったのかは分からない。でも、「私は、このまま行くよ? あなたは帰るの? コーヒーも飲めない子供だものね」そんな風に言っている気がして、オレは覚悟を決めた。少女が店を出たのを追って、「おじさん、オレも会計!」と叫んだ。

    *

 運転手の真後ろの席に座る少女と、対角線上にある左奥の席に座るオレ。バスには、オレとその少女以外に乗客はいなかった。
 バスに乗ってしまった以上、もう後戻りはできない。自分の選択を信じて、オレは今からのことを考える。
 渡利村を訪れるのは六年ぶりだ。あの時は、キャンプに参加しただけだったから、集落の方には降りていないが、あのキャンプの参加者の多くは渡利村の出身者だった。

「東京から来ました、椿佑司です。これから三日間よろしくお願いします!」
「佑司くん、東京出身なんだっ! すっごーい!」
「俺この村出たことねーよ! 俺も佑司に東京連れてってもらおっかなー」
「ダメだよ、清水くん! 渡辺先生に言うからね!!」
「やめろよ! 渡辺先生こえーじゃん!」
 小学四年生の夏。母さんがどこからか募集を見つけてきて参加したそのキャンプは、参加したはいいもののメンバーのほとんどがすでに顔見知りだった。だから一人東京から参加したオレは、最初疎外感を抱いていたんだけど、なじむのはあっという間だった。
 それは初日の昼ご飯のことで、昼ご飯はキャンプ場の近くの芝生で施設側の用意したお弁当を食べたのだ。
 メンバーの一人が、「ぼく、梅干し嫌いなんだ......」と言い、それに続く形で数人が好き嫌いを訴えた。
「そーなの? じゃあオレにくれよ。オレ、梅干しとか漬物大好きなんだ」
 今思えば、小学生の友情は驚くほど単純なもので、嫌いな人の多い梅干しや漬物を食べられたオレは、一瞬でその場のヒーローになった。あっという間に、輪の中心に担ぎ上げられ、なぜかみんなに尊敬されるようになっていた。
 ご飯のあとで、グループに分かれ、キャンプネームというニックネームを決めることになった時、オレのニックネームは一瞬で「ウメボシ」になった。それほどに梅干しのインパクトが強かったのだ。
 キャンプのグループメンバーは五人だった。ウメボシことオレと、梅干しが食べられなくて泣いていたマンゲツという少年。気が強くてガキ大将のようなミヤ。何かって言うとすぐに「すごい、すごい」と褒めてくれる、無邪気な女の子、ナシ。そして唯一の大人で、グループリーダーのカマクラだ。マンゲツとミヤは渡利村出身の友達同士、ナシはオレと同じく数少ない村外からの参加者だ。カマクラは、オレたちと歳は全然違うのに、オレたちのことをよく分かってくれる、頼りになるおっさんだった。
 そのうちマンゲツとは、キャンプを通じてすっかり仲よくなり、東京に帰った後も、数年に渡って手紙のやり取りもした。
 だからきっと、マンゲツならこのオレを助けてくれるだろう。そんな確信があった。渡利村に着いたらマンゲツの家を探して、事情を話す。それから、あいつにいろいろ聞いてみよう。あいつ、びっくりするかな? 旧友との再会を想像して、オレの心は知らず踊っていた。

『次はー役場前ー、役場前ー。お降りの方はボタンでお知らせください』
 渡利村に着いたことを知らせるアナウンスに、オレは唇を噛みしめ降車ボタンを押した。六年前訪れたきりのこの村で手掛かりは、この村にいるであろうマンゲツという少年と
潮瀬さんという人の書いた数年前の新聞記事。たったそれだけ。それでも、何としてでも
ミズワタリに会うんだ......!
 『役場前』は県道沿いに建てられた小さなバス停で、田園を背景に停留所名の書かれたポールと傍に公衆電話があるだけで、特に待合所のようなものはない。『役場前』では乗車する客がいた。緑のジャージを着て、エナメルバッグを提げた中学生くらいの男の子。見るからに学校の部活帰りって感じだ。
「じゃあ先輩、バス来たんで。送ってくださってありがとうございました」
 地元の中学生だろうか。バスの乗車口で、同じ学校の先輩と別れの挨拶をしている。「先輩」と呼ばれた少年は「うん。気を付けて」とバス停で軽く手を振った。それを横目で見ながら、オレはバスを降りる。
「はい。小野田先輩も気を付けて。また月曜に」
 オレが降りたのと同時に、少年もバスに乗り込む。
 小野田先輩......。小野田......小野田。なぜか聞き覚えのある名前を頭の中で何度か繰り返す。バス停に立つ、「先輩」の顔にはなぜか見覚えがあって、ハッとした。
「小野田マンゲツ!!」
 少年をビシッと指さしてオレがそう叫ぶと、「先輩」はビクッと肩を震わせた。
「な、なんですか......?」
 バスを見送りながら、少年は不審な目をこちらに投げかけてくる。
「オレだよ、オレ! 憶えてない!?」
「新手のオレオレ詐欺ですか?」
「ちげえよ。オレ! ウメボシだよ! 憶えてるだろ、マンゲツ!」
 なんかオレが不審者みたいじゃん。でも、手紙で何度も書いたその名前と、六年前の面影を残した顔には確信があった。
「ウメボシ......?」
 瞬間、少年はハッと顔を上げた。
「ウメボシ......佑司くん!?」
 オレが大きく頷くと、マンゲツは一瞬嬉しそうに顔を緩めたが、すぐに不審そうな顔をして、
「なんで、佑司くんがここに?」
「あー......えぇーっと」
 どうやって説明をしたらいいんだろう。真面目なマンゲツに、家出してきたなんて言えない......。
「いろいろと事情があってさ......。何日かお前の家、泊めてくんない?」
「え」
「頼むマンゲツ! 何も訊かず泊めてくれ! 絶対お前の家に迷惑はかけないから」
 マンゲツが顔を少ししかめたのが分かった。
「えっと、佑司くん。キミ、今かなり無茶なお願いしてるのは、分かってる?」
「いや、それは......」
「六年前、一度だけ会っただけの人の村に押しかけて、事情は言えないけどお前んち泊めてって、怪しいにも程があるからね?」
 正論過ぎてぐうの音もでない。
「......ミズワタリに会いに来たんだ。お前ならこの意味、分かるんじゃないのか? なあ頼むよ、お前には迷惑かけないから」
 マンゲツは険しい表情をしていたが、やがて観念したように溜め息をついた。
「......分かった、分かったよ。キミの言葉を信じる。ただし、この週末だけだからね! 約束は守ってよ」
「ああ、もちろん! 助かるぜ、マンゲツ!」
「ああ、あとそのマンゲツっていう呼び方やめて。そんな小さい頃のあだ名。ぼくはもうマンゲツじゃない」
「なんでだよ、お前はマンゲツだろ?」
「ミヅキだ。満月って書いてミヅキ。佑司くん、キミだっていつまでもウメボシなんて呼ばれたくないだろ?」
 オレは別に嫌なんて思ってなかったんだけど。六年ぶりの再会。楽しみにしてたのは、オレの方だけだったのかな。オレの方を見向きもせずに、バス停を後にする満月(みづき)の背中を見て、少し寂しい気持ちになった。

「それにしても助かったよ。満月にこんなに簡単に会えて。バス停にいたの、あれお前の後輩なの?」
「そう。あのバスの終点が、渡利村キャンプ場前なんだけど、あいつはキャンプ場の近くに家があるんだ。下校からバスが来るまで大分時間があったから、話し相手になってた」
「役場前の次がキャンプ場前?」
「そうだけど、どうかした?」
「いや、なんでもない」
 同じバスに乗っていたあの少女。オレが降りた時にはバス降りなかったみたいだけど......ということはあいつ、キャンプ場に向かったのか?
「満月は、部活なんか入ってんの?」
「テニス部。って言っても人数少ないし、弱小だけどね。佑司くんは?」
「オレは......陸上部」
「へえ、似合うね」
「......そう?」
 あまり自分の部活のことを語りたくなくて、曖昧に相槌を打つ。
「......み、満月の学校の部活のジャージも緑なのな。オレのとこと同じ」
 慌てて話題を変えたが、満月はオレの様子には気づかなかったようで、自分の着ている緑のジャージに目を落とした。
「佑司くんのところもなんだ。結構この色派手だよね」
 満月の着ているジャージは、緑色だが少し水色を混ぜたような明るい青緑色をしていた。
「もうちょっと着る側のことも考えてくれてもいいのに。なんでこんなに明るい緑なんだろうな」
「言えてる。もっとあったはずなのにね、深緑色とか」
 満月はそう言って顔をほころばせた。
 なんだ、こいつも普通に笑うんじゃん。素っ気ない態度ばかり見せられていたが、少し安心した。
「お前の家って、学校から遠いのか?」
「歩いて二十分くらいかな。チャリ通じゃないだけ近いと思うよ」
 バス停を過ぎてすぐに、道を横切る川に出た。その川沿いをずっと上流に歩いて帰るらしい。
 満月が簡単にこの集落の地理を説明してくれた。
 バス停を出て真っすぐ川の方へ歩き、川を渡る手前に小中学校、渡った先に役場がある。川を上流へ登っていくと、川沿いに道路があって、その通りに面するように集落が広がっている。つまりこの川――水神川と言うらしい――を中心にこの集落は形成されているのだ。川を登った先の集落の一番高い場所に神社があり、ここの手前の十字路を左に行って森へ入るとキャンプ場があり、右へ行くと田んぼが続き、さらにその先に満月の家があるのだそうだ。
「ゲーセンも本屋もない村だけど、自然だけは溢れてるからね」
そう、満月は言った。
 潮瀬源という人の書いた例の新聞記事にも書いてあった。渡利村はこの川によって発展した集落なんだって。集落のどこにいても川のせせらぎが聞こえてくる。だからミズワタリなんていう不思議な存在の伝説なんかが生まれるんだろうか。水辺に住まう伝説の存在。まさしく水神。夕日に照り輝く水面の揺らめきを見ていると、本当にこの村にはミズワタリという水神がいるような気がしてくる。
 川の上流に行くと例の四辻に出た。正面には水渡神社と書かれた鳥居がある。
「ミズ......ワタリ?」
「スイト神社って読むの。水神様を祀る神社らしいよ」
 満月は鳥居を一瞥して、そのまま橋を渡って右へ行こうとする。満月に続こうと、鳥居から目を離した刹那、オレの心臓が大きくドクンと脈打った。オレの眼の端は、鳥居の傍の小さな木造ボロ屋を捉えていた。
「――佑司くん?」
 道の真ん中で立ち尽くすオレの様子を、満月は不思議そうに見つめる。
「その家、空き家だよ。数年前から誰も住んでない。......その家がどうかした?」
「い、いや。なんでもない」
 慌てて取り繕って、満月に駆け寄る。
「すまん、満月。待たせた」
 神社と廃墟に背を向けて、歩き出したものの、内心先ほどの廃墟が気になって仕方がなかった。割れた窓のガラス、雑草がぼうぼうに生え、荒れ果てた玄関、はげ落ちた瓦。空しくなるほどに荒れた廃墟の玄関に掲げられた表札の名前。
『潮瀬』
 潮瀬源――あの新聞記事の筆者と同じ苗字だ。

「ただいまー」
 満月は玄関で待っているよう言った後に、家の奥に入っていった。
 オレはぐるりと辺りを見回してみる。
 満月の家は、田園に囲まれた高台にポツンと建っていた。典型的な黒瓦の木造平屋建て。田舎の家によくあるように、塀のない庭があって、外から丸見えの物干し竿と縁側が特徴的だった。贅沢な土地の使い方をした家で、家の前には車が余裕で三台は停められそうだった。
 おばあちゃんちに来たような、古い木の香りは心が落ち着く。東京を飛び出してから、ドキドキしっぱなしだったから、少しほっとした。いや、違うな。もうずいぶん前からこんな穏やかな気持ちを忘れていたような気がする。毎日塾や部活に追われて、灰色のビルと大勢の人に囲まれてうんざりするほどで、家にいても、どこにいてもずっと気を張っていた。......もしかしたら、オレは無意識に都会の喧騒から逃れられる場所を探していたのかもしれない。
「佑司くん」
 満月が家の奥からやってくる。
「東京から友達が来る予定だったの伝え忘れてたってことで、ばあちゃんに言い訳しといたから、話合わせてよ」
「恩に着るぜ、満月」
「どうぞ。あがって」
 満月に言われるまま、靴を脱いで家の中に入る。ミシミシと音のする廊下を抜けて、八畳の畳部屋に通された。
「ここ、空き部屋だから自由に使っていいよ」
 満月は吊り下げ型の照明からぶら下がっている紐を引いて、明かりを点ける。
「荷物置いたら、居間に来て――玄関から向かって右のとこ。すぐ晩御飯だから」
 そう言って、満月は部屋を出て行った。
 オレは背負っていたリュックサックを置き、部屋を見回す。一人で寝るには広い部屋。客間か何かだろうか。部屋の隅に文机が雑に寄せてある以外には特に家具らしいものは見当たらない。畳は、年月を経て少し黄ばんでいてザラザラとしていた。
 部屋の奥の障子を開けると、縁側に面していた。縁側は、ガラス戸で庭とは隔てられている。日が長い季節とはいえ、もう辺りは真っ暗になっていた。畳部屋の明かりが、庭に四角形の光を落としている。
 畳の上にごろりと寝転んでみた。遠くで小さく水のせせらぎが聞こえる。小野田家は水神川からは少し離れたところにあるが、周りの田園に用水路が張り巡らされているのだ。
 古い木造家屋にいると心穏やかになるとよく言うけれど、オレは違うと思う。穏やかというよりも騒ぐ心を無理やり上から押さえつけて静かにさせる感じ。でもそれは悪い意味じゃない。何かに追われるように過ごす毎日を、「何をそんなに急いでいるんだい」って引き留めているような、そんな気がする。
「遅いよ、何してんの」
 寝ころんだまま声がした方に頭を動かすと、廊下に呆れた顔をした満月が立っていた。
「あ、満月。わりい」
「ご飯できてるよ。――って」
 開け放たれた障子を見て、満月の顔色が変わった。
「ちょっと何やってんの!」
「何が?」
「カーテンないんだから、窓に虫が寄ってくるじゃん。電気点けてるときに障子開けっ放しにしないでよ」
 満月の言う通り、縁側のガラス戸には小さな羽虫や、蛾なんかが集まっていて、ぎょっとする。
「気づかなかった......」
「東京とは勝手が違うんだから、気を付けてよ」
 そう言い残して、満月は居間の方へと姿を消した。
 オレも立ち上がって、障子閉めて電気を消した後、満月の後を追った。

「突然お邪魔してすみません。椿佑司です」
 居間では満月と小学生くらいの小さな男の子が茶碗を並べており、その横で温和そうな老婆が台所と居間を行ったり来たりしていた。
「はいはいはい。ご丁寧にどうも。満月の祖母です。何もないところですけど、ゆっくりしていってくださいね」
 老婆は、足を止めて柔らかく微笑んだ。
「佑司くん。こっちが、ぼくの弟の清(きよし)。小学四年生」
 満月が、ちゃぶ台に座る小学生を目で示して言う。
「ユージ? 兄ちゃんそんな友達いたっけ?」
「清......。あ! お前キヨじゃね? お前も、六年前のキャンプに参加してただろ」
 そうだ、思い出した。満月には弟がいるんだ。あの時はまだ、小学校にも上がってなかったけど、確かあの時のキャンプに参加してた。グループは違ったけど、満月にべったりでよくこっちのグループに来てたから、何となく憶えている。
「なんでおれの名前知ってんだよ」
「ウメボシだよ。小さかったから憶えてねぇかな? 満月と同じグループだったんだけど」
「ウメボシ!? 憶えてる! 兄ちゃんの嫌いだった梅干しをバクバク食べてたやつだ!」
「清、お前だって梅干し嫌いだろ。......余計な事だけ思い出しやがって」
 満月は少し怒ったように清に声をかける。
「ユージはウメボシなのかー! 久しぶりじゃん! トーキョーに住んでるんだろ? いいなー、トーキョーってどんなとこ?」
 清は目をキラキラさせてオレに問いかけてくる。
「え、えっと」
「きーよーしー、あんまり佑司くんを困らせるなよ。......ごめんね、佑司くん。ぼくの弟が」
「いいって、いいって」
 キヨの純粋な反応に、内心ほっとしていた。キヨの反応は、オレが満月に期待していたそれとまったく同じだったからだ。満月もこうやって再会を喜んでくれると思ったんだけどな......。
「さあ、満月、清、佑司さん。ご飯の支度ができましたよ」
エプロンで手を拭きながら、満月のおばあちゃんがキッチンと居間を隔てる暖簾から顔を出す。
 夕飯は、筍と茸の炊き込みご飯と、煮魚、きんぴらごぼうだった。
 共働きのオレの家では、両親共に帰りが遅く、家族そろって一緒にご飯を食べることがあまりなかった。疲れた顔で帰ってきた母が作るのはいっつも、スーパーで買った半額のお惣菜か冷凍食品。父は週末に家族を置いて飲みに行くし、かく言うオレも塾のある日は適当にコンビニで買って食べてしまう。家族そろってご飯をたべるのなんて、一週間に一回あるかないかだ。
 ご飯を作って帰りを待ってくれるおばあちゃんと、少し生意気な弟と毎日一緒に暮らせる満月を少し羨ましく思った。と、オレは気になったことを口に出す。
「満月、お前の親父とおふくろは?」
 その問いに、清の顔がふっと曇ったのが分かった。
 しまった。もしかして訊いちゃいけないことだったか?
 そんな清の様子をちらりと見て、満月は口を開いた。
「ぼくの両親は、二人とも仕事で東京に住んでるんだよ」
 満月の両親は、仕事が忙しくて子供の面倒を見きれないからと、母方の祖母の家に兄弟二人を残し東京に働きに出ているらしい。
「昔は、母さんはこっちに住んでたんだけどね。清が小学校に上がってから、父さんと一緒に住むようになったんだ」
 寂しそうに微笑む満月を見て思わず「ごめん」と、言葉が漏れる。
 つい先ほど、満月を羨ましいと思ったことを激しく後悔した。
「別に謝るようなことじゃない。月に一度は必ずどちらかが帰って来てくれるし、村の人たちみんなが家族みたいなもんだから。......別に寂しくないよ」
 オレが何か言おうと口を開くと、満月はそれを遮るように「ほら清、手が止まってる。せっかくのご飯が冷めちゃうよ。食べよ、食べよ。佑司くんも」と急かした。
「あ、ああ」
 これ以上何も聞いてはいけない気がして、オレは黙って食事を口に運んだ。

 食事が終わると、満月は「勉強するから」と言って、とっとと自分の部屋に籠ってしまった。しばらく清に東京の話を聞かせていたのだが、おばあちゃんに言われて風呂に入った。風呂からあがると、まだ九時くらいなのに清はもう布団に入ってしまっていた。
「佑司さん。部屋に布団を敷きましたので、どうぞ好きな時にお休みくださいね」
 おばあちゃんも、それだけ言って自分の部屋に入ってしまう。
 居間に一人でいてもすることがないため、オレも大人しく自分の部屋に引き上げることにした。

「満月も薄情だよなー」
 縁側に座って独りごちた。
 部屋の電気を消したので、ガラス戸を開けても虫は入ってこない。夜風を額に受けながら、田んぼの方から聞こえるカエルの大合唱と水のせせらぎに耳を傾ける。
「せっかく会いに来たんだから、もうちょっと構ってくれたっていいのに」
 満月に連絡も取らず勝手に来たオレも悪いんだけど。
 昔の満月は、少し頼りなくて。だから、満月に頼られるのが嬉しかったんだ。でも今日の満月は、なんていうか他人の距離感みたいな感じ。自分から話しかけることはあんまりないし、返事も必要最低限。できれば関わりたくないって言われているような気がする。
 はぁ、と小さく溜め息をつく。
「まだ、眠くないんだけどな......」
 時刻は午後九時半前。東京ではは部活帰りに十時まで塾に籠ることも日常茶飯事だったから、こんな時間に布団に入れと言われても困る。
 ふと、今日の夕方、満月の家に行く途中のことを思い出した。神社の下の空き家。表札に『潮瀬』って書いてあった。
「――行ってみようか」
 どうせ家にいてもすることはないんだし。
 
 縁側からそのまま外に出た。服は明日着る予定だったもの。縁側においてあったサンダルは、きっとおばあちゃんが洗濯物を干すときに使うのだろう。
 物音を立てないように、縁側のガラス戸を閉めて、小野田家の建っている高台を降りる。
田舎の夜空は星が綺麗だった。田植え後間もない田んぼは真っ暗な海の様で、月の白い光
を映して、水面が優しく揺らめいている。街灯がない道は足許が真っ暗で、まるで海の真ん中を綱渡りするような気持ちで、畦道を歩いた。
 水神川沿いの通りには、人の姿は見えなかった。数件の家にはまだ明かりがついていて、少しほっとする。川には無数の蛍が、悠々と舞っていた。
 四辻を右に入り、例の空き家へ行く。人の住んでいない家に明かりなど点いているはずもなく(点いていたら逆に怖いんだけど)、家の様子を窺うことはできなかった。明かりの類を持ってこなかったことを後悔しながら家の前で立ちつくしていると、不意に背後から懐中電灯を照らされた。
「その家は、もうずいぶん前に空き家になったところよ。そんなところに、こんな時間に何の用かしら」
 女の人の声がして、反射的に振り向くと懐中電灯の光に思わず目が眩む。
「だ、誰......!?」
 その「誰か」は、自分の方に懐中電灯を向けて薄く笑みを浮かべた。
 オレと同い年くらいの女の子。まるでいいところのお嬢様のような、背中まである長い黒髪と透き通るような白い肌、すましたような表情にはどこか見覚えがあって......
「お、お前、喫茶店のブラックコーヒー!!」
 ここに来る前、オレと一緒で、喫茶店でバスを待っていた少女の姿と結びつく。
「失礼ね。人とコーヒーの見分けもつかないのかしら? おこちゃまのココアくん?」
「人のこと、ココア呼ばわりするなよ。オレにはちゃんと椿佑司って名前があんだよ」
「それはこっちのセリフなんですけど。私の名前は......黒井さつき。ちゃんと名前で呼んでくれるかしら」
「黒......やっぱりブラックなんじゃねーか」
 オレの言葉に、黒井さつきは呆れたように、分かりやすく溜め息をついた。
 人を小馬鹿にしたようなこの態度、なんか気に食わないんだよな......。
「それで? 私の問いに答えてくれるかしら。あなたはこんな時間にここで何をしてたの?」
「その言葉そっくりそのまま返すぜ。こんな場所に何の用だよ。この家のこと知ってんのかよ?」
 さつきは大げさに目を丸くして驚いた素振りをみせた。
「まさか、知らないで来てたの? ここは民俗学者の潮瀬源先生のお宅だった場所よ」
「潮瀬源! やっぱりここは潮瀬さんの家なんだな!?」
 あの新聞記事を書いた張本人。この村に住んでたんだ。
「あなた潮瀬先生と会ったことあるの?」
「いや、会ったことはないけど......。潮瀬さんが書いた新聞記事を見たんだ、渡瀬村の伝承に関する。その言い伝えを追って、この村に来た。......そういうお前こそなんで潮瀬さんのこと知ってんだよ」
「私は、潮瀬先生の後継者だもの。先生が解明していない渡利村の伝説を解き明かすためにここに来たのよ」
 渡瀬さんの後継者......?
「お前、オレと大して歳が変わらないように見えるけど?」
「中学三年生だけど。悪い? 後継者を名乗るのは勝手でしょ? 私は潮瀬先生に会ったこともあるのよ」
 本当にオレと同級生じゃん。
「でも、そうね。あなたがこの村の伝説を調べたいというのなら、協力できるかもしれないわ。だって私とあなた、目的が同じだもの」
「お前が調べてるこの村の伝説って、つまりミズワタリのことか?」
 ミズワタリという名前が出た瞬間、さつきは身体をピクリと動かして反応する。
「ミズワタリの名前は認識してるのね......。ええ、そうよ。潮瀬先生のまとめた情報はある程度目を通したから教えてあげられることもきっとあると思うわ」
 えらそうに言ってるけど、それってつまり、潮瀬さんが調べた情報しか持ってないってことじゃないか......。
「じゃあさ、潮瀬さんが今どこにいるか知らね? 会ったことあるんだろ? 自分で調べるよりも、お前に訊くよりも、潮瀬さんに会った方が早いってことがよく分かった」
 その言葉にさつきは眉間にしわを寄せたが、すぐにコホンと一つ咳払いする。
「残念だけど、それは無理ね」
「なんでだよ。もしかしてすごく遠くに引っ越しちゃったとか?」
 さつきはふるふると首を横に動かす。
「潮瀬先生は二年前から、行方不明なの」
「嘘だろ......?」
 人が亡くなったとか、行方不明になったとかいう話というのはいつ聞いても決して気分のいいものではない。まして今のオレは、潮瀬さんの記事に一縷の望みを見出して、ここまで来たのだ。あの記事がなければ、こんなところまで来なかっただろうし、ここまで来たのも潮瀬さんに会うことを期待してのことだ。頼みの糸が途中でプツンと切れてしまった。それほどにその事実はオレにはショックだった。
 さつきは顔を隠すように俯きがちに口を開く。
「......事実よ。私もそれを知った時驚いたわ。だからそれを知った時、私は潮瀬先生の研究の跡を継ぐことを決めたの」
「潮瀬さんの研究は完結してないのか?」
 さつきは黙って首を横に振った。
「『研究』というと、少し堅苦しく聞こえるかもしれないわね。簡単に言うとね、先生はミズワタリに会いたかったの。この村に数々のミズワタリに関する伝説が残っているのだから、ミズワタリは絶対にいるはずだ、って」
 さつきはそこで言葉を切った。
 オレとさつきのあいだを冷たい夜風が吹き抜ける。
「潮瀬先生はミズワタリに会えなかった。二年前このあたりの山に入ってそれきり行方不明。二年も経てばとても生きてはいられないだろうし、この辺の山は険しい崖なんかも多いから捜査は早々に切り上げられたそうよ」
「じゃあ、潮瀬さんの研究の跡を継ぐっていうのは......」
 さつきは無言で大きく頷いた。
「ミズワタリに会うこと!」
 ミズワタリに会う。......何という偶然だろう。オレと全く同じ目的を持ってこの村にやってきた子がいるなんて。
「さつき、協力しよう。オレもミズワタリに会いたい!」
 さつきは、オレの瞳をじっと見て「ええ。偶然にしてはできすぎているけれど、これも何かの縁だものね」と微笑んだ。
 その時だった。
 シャン、シャン、シャンと遠くで鈴の鳴るような奇妙な音がした。
 さつきは反射的に、懐中電灯を道の方へ向ける。
「この音――もしかして、川の方から!?」
 そう呟いて、さつきは神社の前に架かる橋の方へ駆け出した。
 慌ててその後ろを追いかけて、橋の欄干に寄りかかり身を乗り出すようにして下を見ているさつきの傍へ行く。
「何が......どうしたの?」
 さつきは黙って川下の方を指さす。
「何だ、あれ......」
 思わず言葉を失った。
 川の真ん中に、何かが、いる。
 何かは、分からない。
 水が光を反射するように「それ」も、辺りを飛ぶ蛍の光を受けて輝いていた。その輪郭は、人というよりも四つ足の獣のように見える。
「まさか......」
 言い終わらないうちに、その獣の輪郭はキラリと七色に光って弾け散った。水しぶきが水面をたたいたかと思うと、川上――オレたちのいる橋の方――に向かって、川の上を何かが走ってきた。
 シャンシャンシャンシャ――!!
 オレたちのいる橋の下を、駆け抜けた音が聞こえて、やがてそれは遠くに走り去ってしまった。
 しん、とした静寂。やがて世界が再び動き始めたかのように、川のせせらぎが耳に届き、オレは我を取りも出した。
「何かが、走った......」
 さつきも口をパクパクさせながら頷いた。
「今のが、ミズワタリ......?」
 さつきは手を震わせながら、絞り出すように「分からない」と呟いた。
「でも、きっとそうなんだと思う。まさかこんなに早く会えるなんて......」

 夢でも見ているような気分だった。
 さつきもきっと同じだったんだと思う。それからお互いあまり話すこともなく、今日はもう別れることになった。今の光景を下手に言葉に出したら、まるで口に入れた綿飴みたいに溶けてなくなってしまいそうだったから。
 さつきは、「また会いましょう」と丁寧にお辞儀をして帰っていった。神社の前の十字路を、満月の家とは反対方向に。
 やはり彼女はきっとあそこのキャンプ場に泊まっているのだろう。
 オレは、その背中を見送って駆け出した。満月の家の方ではない。川を下って、集落の南の方へ向かう。黄緑の光の舞う川沿いの道を駆け抜け、役場と学校がある交差点のところまで下りてきた。
 交差点からバス停の方を見ると、真っ暗な田園の中にポツンと光る電話ボックスを見つけた。
 真夜中の人気のない公衆電話、都市伝説にありがちな雰囲気だな、なんてことを思いながら、電話ボックスの中に入る。壁面には蛾や小さな虫がたくさんいたから、ぴっちりと戸を閉めた。
 ポケットの中から財布を取り出し、百円玉と、折りたたんだメモ用紙と取り出す。公衆電話なんて普段かけないから、余計に緊張する。電話に書かれた説明を読んで受話器を手に取る。メモに書いた電話番号を一字一字確認しながら、ボタンを押した。
 ルルル......ルルル......
『もしもし』
 呼び出し音の後に続いて相手の声が聞こえた。
「ああ、高橋? オレ。椿だよ」
『椿!?』
 電話の向こうで、相手が驚く声が聞こえた。
「ちょ、声が大きい! オレの名前を出すな!」
『何言ってんだお前! お前がいなくなったって、こっちは大騒ぎなんだぞ!? なんで呑気に電話なんかしてんだよ。大体お前今どこに......!』
「悪い。それはお前にも言えない......」
 高橋はオレの小学校の頃からの親友だ。中学は違うけれど、今でも頻繁に連絡を取り合っている。
『お前なぁ......』
 高橋は諦めたように溜め息をつく。
『で? なんでお前がわざわざオレに電話してきたんだよ』
「少し調べて欲しいことがあるんだ」
 高橋はうちよりもずっと親が緩くて、羨ましいことに個人でスマホやパソコンを買ってもらっている。
 友人の家に直接かけるよりも、高橋のスマホに直接かけたほうがバレないだろうし、オレの欲しい情報もすぐ手に入れられるだろうと思ったんだ。
『何を?』
「『潮瀬源』。この人についてネットで調べてみてくれないか?」 
『誰だそれ?』
「いいから」
 催促すると、高橋はふう、と息を吐いた。その後に、ゴソゴソとパソコンを手前に引き寄せる音がする。カタカタとキーボードを叩いた後、間もなく「調べたぜ」と受話器から声が聞こえた。
『潮瀬源、民俗学者だな。N大学の非常勤講師もしてる。小さいけどフリー百科事典の記事もあるぞ。読み上げようか?』
「頼む」
 高橋は、潮瀬さんに関する小さな記事を読み上げた。
 潮瀬源。民俗学者として、日本各地を訪れ、伝承や伝統文化について研究している。中でも自身の地元である、N県渡利村について詳しく研究しており、いくつかの論文も発表している。
 二年前の六月、N県渡利山にフィールドワークに出かけた際、行方不明となった。付近の住民からの通報を受け、警察は捜索を行ったが、山に崖が多いことと、流れのはやい川の多いことから、半年で捜索は打ち切られている。
『この人の書いた論文もいくつかネットに載ってるけど、それは難しくてちょっとよく分かんね』
「ああ、それは読まなくていいよ」
 きっとさつきが知っているだろう。
『この人が、何なわけ?』
「いや、なんでもない......」
『あのなぁお前、いい加減にしろよ』
 高橋は呆れたように言う。
「ほんとうに悪いと思ってる。親は、どんな感じ......?」
『まだ捜索願は出してないっぽいぞ。今夜中に帰ってこなかったら、警察に相談するって。多分、お前の友達や同級生の家に片っ端から電話かけてる』
 自分の部屋に『少し家を出ます。探さないでください』と書置きを残してきた。塾が閉まるこの時間になってもまだ帰ってこなかったら、そろそろ不審に思う頃だろう。
「お願いだ。この電話をかけたことは黙っててくれ......」
 電話で息を呑む音が、そして観念したように溜め息をつく音が聞こえた。
『訊かれない限りは黙っててやる。お前がいろいろ悩んでるの知ってるからな......。ただし、お前は安全な場所にいるんだな? 勝手に自殺したりしないよな』
「絶対にしない......!」
『よし、分かった。早めに帰って来いよ。あんまり家族を心配させるな』
「ああ、努力する。ありがとな、高橋」
 自分に言い聞かせるように答える。満月にも高橋にも迷惑をかけてばっかりだ。
 もう、後には引けない。
 東京と渡利村を繋いでいた受話器を置いて電話ボックスを出ると、夜の田舎の空気が身を包んだ。山の中にあるこの集落は、初夏だというのに夜は随分冷える。
 棚田を横切る県道にポツンと置かれた電話ボックスは、まるで異世界の光景のように不自然で、ここは東京ではないのだとしみじみと実感する。
 高橋に電話をかけたのは、やはり家族のことが少し気になっていたからだ。満月やさつきというつてを得ても、やはり自分の身を一部分でも東京につなぎ留めておきたいという気持ちがどこかにあったのだろうと思う。
 家族、と言えば。さつきはどこから来たのだろう。
 なぜ、このタイミングで......? 家族は......? 
 分からないことだらけだ。
 でも、高橋との電話で、さつきが嘘を言っていないことは分かった。明日、キャンプ場に行ってみようか。
 小さい頃の鮮やかな思い出を閉じ込めたあの場所に行くのは、懐かしいような、少し怖いような不思議な気持ちがした。
 オレは再び、川沿いを通って、誰もいない道を一人歩いて帰った。
 帰りながら思索にふける。
 さつきは、潮瀬さんの後継者と言った。彼に会ったことがある、とも。
 でも、こうも言っていた。
――私もそれを知った時驚いたわ。だからそれを知った時、私は潮瀬先生の研究の跡を継ぐことを決めたの
――二年前このあたりの山に入ってそれきり行方不明。二年も経てばとても生きてはいられないだろうし、この辺の山は険しい崖なんかも多いから捜査は早々に切り上げられたそうよ
 知り合いにしては、二人の間に少し距離を感じる。
 潮瀬さんがいなくなったことも、捜査のことも、まるでネットかニュースかで知ったみたいだ。きっとオレが、明日誰かに潮瀬さんについて語ることになっても、多分同じ言い方をすると思う。
 もし本当に知り合いなら多分こう言うんじゃないかな。
 「私も○○さんからそれを聞かされた時は驚いたわ」、もしくは「私もそれを聞いた時は驚いたわ」って。
 潮瀬さんと、さつきは一体どういう関係なんだろう。中学生が研究者の話を聴く機会がそうあるとは思えないし。
 答えの出ない問いを考えるのはやめて、川を覗き込んでみる。
 川を舞う蛍の数は、来た時よりもぐっと少なくなっていた。
(続く) 










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