大宇宙と壁の話

あいかわあいか



第一章

 読者諸賢は「壁ドン」という言葉をご存じだろうか。
 春昼、日本国某県某所にある某中高一貫校。当時中等部三年の女学生だったわたしは、四限の歴史の授業が終わると、いつものように旧友の席へと向かった。彼女の机の上に風呂敷包みの弁当箱を広げて、昼餉とするためである。
 昼休みに旧友とお弁当のおかずを交換しながら、先週の土曜ロードショーがすごかった、とか。貸してもらった『ヤシ酒飲み』面白かったよ、とか。そんなとりとめのない話に花を咲かせる代り映えしない日常。窓際族たる彼女の席はカーテンをすり抜ける日差しによってぽかぽかと温かい。わたしは朗らかな春の陽気と相まってうつらうつら、自然、唐揚げを掴む箸先もふらふらとしてきた。旧友はそんなわたしの様子を見てくすりと笑う。まったくもっていつも通りだった。
 不意に旧友は「そうだ」、と何か思い出したように、少し冗談めかして口を切った。
「壁ドンって、知ってる?」
わたしは大して興味ないを装って(実はかなり興味があるが、それを表にするのは気恥ずかしいので)、やる気なく「はあ」と相槌を打った。旧友はそんなわたしの態度など、まるで気にする様子もなく言葉をつづけた。
「あの男子が女子を壁際に追い詰めドンとやって、女子はキャアと歓喜するやつ」
「はあ、それが」
「女の子同士で壁ドンするやつに需要があると思うの」
「はあ」
「ちょっと放課後、私にやってみてくれない?」
「ええ......」
あんまりに突拍子もない話だったので、わたしは言葉を失った。旧友、実はそういう趣味があるのだろうか。......しかし、わたしはあくまでもクールな文学少女であるため「何を言い出すのかと思えば......面倒くさい」、と軽くあしらうことにした。しかし、旧友も引き下がらない「そこを何とか」、と両手を合せて頼み込む。
「やだ」
「おねがい。帰り奢るから」
「......うーん」
 ......以上こそが、何だかんだ言って付き合いのいいわたしが拝み倒されてしまい、帰り道にある中華料理屋で中華粥をおごることを条件として、わたしが旧友を壁ドンすることとなった顛末である。

 旧友は長く伸ばした髪を校則ガン無視の金色に染め、授業中は必ず何かを食べており、制服のスカートの長さなどはまるで気にも留めない不良少女であった。学校にピザや蕎麦の出前が届くこともしょっちゅうだった。しかし、教師は旧友に対してはとても甘かった。授業中に電気ケトルで紅茶を淹れて飲んでいたとしても「一杯貰っていいかい」「いいですよ、お菓子もどうぞ」、と共犯するくらいには。教師たちには「言ってもしょうがないから」という諦念も勿論あっただろうが、人懐っこく愛嬌があり、自由奔放で諧謔心に溢れ、才能豊かで要領もいい、そんな旧友が可愛かったのだと思う。......わたしもそんな彼女のことが好きなのだから。
 旧友はとても頭がいい。わたしは勉強している暇があるのなら本を読むので、自分の成績が常に赤点スレスレの超低空飛行であることは道理だと認めるけれど、同じくわたしと一緒に夜の町(もちろんいかがわしくない店)を遊び惚けているはずの彼女は(宿題だけは絶対に提出しないので平常点がないくせに)、テストの点だけは異様に良くて、ずっと中の上の成績だった。世の中不公平である。

 終業のチャイムが鳴り、ホームルームを終えてさようなら、とクラスメイトに別れを告げると、旧友と二人並んで別棟にある文芸部の部室を目指した。どういうわけか、この本なんてまるで読まなさそうなナリの不良少女も、文芸部の一員なのだった。彼女は歩きながらスマートフォンを弄り、わたしはその隣で河上肇の『獄中日記』を二宮金次郎スタイルで読んでいる。いつもの放課後であった。
 ガラリと部室の引き戸を開け、換気のために窓を開放する。文芸部のそこまで広くない部室は古本のかびたようなにおいに満ちていた。彼女は椅子の上に広げた鞄を漁り、ビデオカメラを取り出した「こういう機会は滅多にないしね」と、慣れた調子でカメラを三脚に固定していく。
「え、撮るんだ」
「駄目?」
 わたしは逡巡する、しかしまあ、逆説的にカメラがあった方が、堂々と演技する言い訳となって気楽かもしれない。折角の機会だし、七百円の中華粥分くらいの演技はしてやろう。と、何だかんだ言って付き合いの良いわたしは「まあいいよ」とそっけなく答えた。
 旧友は嬉しそうに「ありがとう」、とわたしの手を握り、それじゃあかくかくしかじか、まるまるうまうま、といった台本でと簡単に説明した。廊下を走って逃げる旧友をわたしが手斧片手に追いかけて、そのまま壁際に追い詰めて壁ドンということだった。
「どういう風に演技しよう、稚く照れたほうが可愛げがあっていい? それとも白馬の騎士チックな男役?」
わたしが尋ねると、旧友は揶揄うようににやりと笑った。
「ノリノリじゃん」
「茶化さない」
「うーん、ヤンデレチックにぐいぐい迫ってくる感じで。ほら、私いかにもモテそうで、カースト高そうじゃん。そういうキャラが受けに回る方が倒錯感あってわくわくするっしょ」
「そういうもの?」
「若干は私の趣味」
「はあ、マゾなの?」
「さあね」
 旧友はくるりと回り、スカートをはためかせると、小悪魔めいた表情で婀娜に笑った。色々と言いたいところはあったが、しかしまあ、気にしてもしゃーないだろう、という気持ちのほうが強かった。ため息一つつくと「それじゃあカメラ回すね」という旧友の声がした。

 わたしは放課後の廊下を手斧片手に、逃げる旧友を追いかける。カメラは一点透視図法を採用して奥行きを演出している、というのは彼女の弁であった。部室に逃げ込んだ旧友に(ここで一旦シーンを切り、カメラを廊下から回収して部室内に再設置してから)、わたしはじりじりとにじり寄る。
 部室に逃げ込んだばっかりに、袋の鼠となった旧友、きょろきょろと周囲を見回したところを、お客さんだよ! (Here's Johnny!) と、わたしが手斧片手にゆっくりと入ってくる。

【わたし】「はは、もう逃げられないぞ」
【旧友】「やだ、こないで......来ないで!」
【わたし】「酷いな。恋人同士だろ」

 ひっ、と喉を鳴らし、恐怖から後ずさりする旧友。しかし背中が壁にぶつかり、逃げ場がないということを悟ると、絶望に顔が曇った。わたしは狂気に包まれたような笑顔で、旧友に斧をずるずると引きずりながらにじり寄っていく。

【わたし】「もう君のことを逃がさな..................へ?」

 わたしは確かに旧友を壁ドンした。壁にドンと腕先を叩きつけ、旧友のことを瞳孔の開ききった狂気の表情で恫喝した。わたしはジャック・ニコルソン並に上手い演技ができているという奇妙な自信があった。
 しかし、壁に腕を叩きつけたその刹那、パキンと硝子の割れるような音が響き渡り、文芸部と鉄道研究会を隔てる壁が消滅したのだった。「へ?」と、わたしは間抜けな声をあげると、壁の支えを失い、そのまま床に旧友を押し倒してしまった。
 旧友の持ち込んだビデオカメラは三脚の上で、何事もなかったかのように録画中の赤ランプを光らせていた。しかし、カメラのすぐ前では、金髪の不良女子を根暗文学少女が斧を片手に、迫真の表情でメンヘラめいた言葉を吐きながら押し倒していた。
 壁がなくなったことで、鉄道研究会の部室に充満するシンナーが流れ込み、文芸部の古本のカビの匂いと混じり合った。恐る恐る顔をあげると、わたしの瞳には模型の箱を手に持った鉄道オタクたちの唖然とした表情が映った。

 それから何がどうなったのかはよく覚えていない。わたしが錯乱してしどろもどろになっているうちに、日本人特有の事なかれ主義でなあなあになったらしかった。撮影したビデオを見返すと、赤面を禁じえないわたしの怪演と、能力による壁の消滅がしっかりと記録されていた。鉄道研究会の面々には緘口を頼み(まあ言いふらされたところで誰も信じないだろうけれど)、消失した壁については「何者かが夜の間に壁を破壊して持ち去ったらしい」と学校に報告されて一週間後には新品になった......らしい。
 覚醒したところで「壁を壊す能力」の使い道なんてまるでなく、いつも通りの日常がはじまった。変わったことといえば、たまに旧友にこの出来事をからかわれることくらいである。


第二章

 あの珍事件より一年とすこしがたって、わたしは高校生になった。......とはいっても中高一貫校なのだからあんまり感動とかそういったものはなかった。授業そこそこに本を読み、放課後は旧友と街をぶらつく日々、しかし気がつけば世間は夏休みに入ろうとしていた。授業も期末考査も終わり、浮かれる学生諸君はやれ旅行だの、彼氏と海に行くだのといった話題で盛り上がっていた。もっとも、わたしにそういった面白い話はなく、文芸部の部室でいつものようにだらだらと本を読んでいた。
 期末考査中に読み始めた内田百閒の『阿房列車』シリーズは、『第二阿房列車』の「春光山陽特別阿房列車」に差し掛かり、「わたしも夏休みは寝台列車に乗って阿房列車したいなぁ」、などと静かに思い始めていた。できればそこに旧友君がいれば楽しい旅になるだろう。......、不意に部室の引き戸が開けられ、ずかずかと入り込んできた旧友は嬉しそうな表情でわたしにまくし立てた。
「わが探偵事務所に依頼人だ。しかも恋愛相談だ」
「はあ恋愛相談」
 旧友は高校生になったばかりの頃、シャーロック・ホームズを一気読みしたせいで、厨二病を発症してしまい、ホームズ帽を被り、パイプ片手に自らを探偵と名乗りはじめたのである。もちろん今日までは誰も依頼になんて来なかったが、まさかこんなアホウに依頼するバカがいたとは......。
 旧友に手を引かれ、おずおずと部室に入ってきたのは黒髪の乙女、金髪の不良少女である旧友とはまるで違って、伸ばした黒髪で目元を隠した、大人し気な窈窕であった。「あれ、まさかあなたなの?」わたしは驚いて声をあげた。
 彼女はわたしの友人で、たまにおすすめの本を交換したりする仲であった。いつも真面目、品行方正、学業も運動もよし、しかし超まじめな性格と臆病とが相まって、いかんせん覇気がない。そんな少女だった。彼女は「うん......」と小さく頷いた。

「......なるほど、好きな人ができたから告白したい。けれど振られるのが怖い、ねえ」
 わたしの言葉に、真剣な表情で「そう......です」と。気がつけば、わたしはまじめに彼女の相談に乗り始めていた。......しかしわたしには、自分が何かを述べてしまうことは間違いであるように思えた。だってわたしは人を好きになったことなんてないし、だからもちろん恋人とかもできたことないし、くそ陰キャだから告白もされない。むしろ自分こそ恋愛相談に乗ってほしいくらいである(ただし、どうすれば恋人ができるのかではなく、どうすれば好きな人ができるのかという相談になるが)。......わたしはぐい、ぐいと旧友の袖を引っ張った、どう考えてもわたしでは彼女の相談に乗るには役不足(誤用)なのでヘルプを求めたのである。
 ......もちろんわたしだって恋愛感情くらいはある。『嘔吐』に描写された、セックスが駄賃替わりの生活に言いようのないロマンを感じたこともあれば、『時計仕掛けのオレンジ』の主人公アレックスのように暴力衝動に身を任せることに魅力を感じたこともある、谷崎潤一郎の『春琴抄』のヒロイン鵙屋琴のように、ヤンデレ主人公の狂愛を一心に受ける妄想にぞくぞくとしたこともある。......では普通の恋愛とはどのようにして始まるのだろうか、とりあえず漱石翁の言葉を引用し「月がきれいですね」とかいうべきなのか(なおこの言葉に二葉亭四迷から「死んでもいいわ」と冗談めかし返してくれる人間はわが旧友くらいである)、それとも「つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来ん物ならなくに(和泉式部)」とでも和歌で詠うべきなのだろうか? 
「はぁ。まーた、阿房なこと考えてるよ」
旧友はわたしを一瞥すると、馬鹿にしたように、くすくすと笑いはじめた。むっとして。
「あほうとはなんだ、あほうとは!」
「いやだって、ねぇ。どうせ根暗オタクみたいな妄想してたんでしょ」
「へぇ、なら君は彼氏の一人や二人くらいいるのかな?」
「いるよ」
旧友はあっさり答えた。ずっと彼女と一緒にいるはずの私ですら知らなかった。誰だよ、旧友ちゃんはわたしのだぞ、ぶちころがしてやる。
「普通に告白されて、まあ悪くなさそうな奴だったからいいよって......どうしたんだい?」
旧友は悪戯っぽく目を細めた。わたしが嫉妬するのをわかってて言ったようだった。わたしが気まずくなって目線を逸らすと、旧友は少女の方に向き直り、ようやくまじめに相談に答え始めた。
「とりあえずさ、折角夏休みになるんだから食事に誘うところから始めてみたらどう? これ最近見つけたおすすめの喫茶店」
「うう......はい。ありがとうございます......」
 ――そんな具合で旧友があと二、三のアドヴァイスを与えて、恋愛相談はわたし抜きでいい具合に、それはもうあっさりと解決していった。若干の疎外感を感じつつも、まあ自分にできることはこれくらいだと思って、彼女の肩をポンポンしてから、心臓のところを右手でトンと叩き「がんばって」、と応援した。
 刹那、文芸部の部室にパキリという破裂音が響いた。わたしの壁を壊す能力が発動した時に鳴る、硝子が割れるような音そのものだった。全身から冷汗が噴き出す。もしかするとわたしの能力は、彼女のことを壁と認識して壊してしまったのではないだろうか。最悪の想像が脳裏を横切る......眼前の少女はきょとんとした表情を浮かべていた。
「ああ、よかった......」
どっと力が抜けて、ほっと一息つくと同時に、ではあの音が彼女を破壊したものでないとすれば、何を破壊してしまったのだろうか、とわたしは首を捻った。
「やります。絶対に」
目の前から少女の声がした。覚悟の籠った声だった。......わたしにはそれが、先まで両手を身体の前で組んで、緊張から陰鬱な表情をしていた、か弱く儚げなわたしの友人の声だとはすぐにはわからなかった。「ありがとうございましたー!」と、礼を述べると、少女は力強い足取りで部室を飛び出していった。わたしは呆然とその後姿を見ていた。
 同じくきょとんとしていた旧友と顔を見合わせる。――どうやらこの能力は、心理的な障壁も壊すことができるらしい。

 少女の去った部室に、旧友と二人きりとなった。「それじゃあ、やってみるよ」、とわたしは宣言すると、自分の胸をポンと叩いた。その瞬間、パキンと音が響く、......何も起こらなかった。しかしわたしにはその瞬間、やらなければいけないことがわかった――「殺すべし」旧友君を寝取った奴を斧でバラバラにしてやるのだ!

 その後はっと気がつくと、旧友がわたしに馬乗りになって暴走を止めようとしていた。わたしの右手には例の撮影のときに使った手斧が、手が真っ赤になるくらい力強く握られていた。わたしはあわてて、斧を手放すと力を抜いて「ごめん!」と、とっさに謝った。旧友は「はぁ」と深い溜息をついた。
「バカじゃないの。マジでバカじゃないの」
「うぅ......」
 正気に返ったわたしは、旧友にそれはもうぼろくそに言われた。しかし、いきなり斧を持ち出して、凶行に走ろうとしたらしいから、叱られるのは当然だった。いきなり凶器を片手にふらふらと歩きだしたのだ。旧友はさぞ恐ろしかったことだろう。わたしは彼女の前に正座して小さくなるしかなかった。
 一通り言い終えると、旧友はもう一度大きなため息をつき、小さな声でわたしに囁いた。
「ねぇ」
その声はどこか蠱惑的で、先ほどまでの彼女とは何かが決定的に異なっているように感じた。わたしはその声に呆然と頷いた。
「......はい」
「その能力は心の壁を壊すのよね」
「たぶん......そう」
その言葉を聞いて、旧友はわたしの手をとると、躊躇することなく自らの胸元へと押し当てた。旧友の胸は柔らかく、ほんわりと温かかった。次の瞬間パキン、と部室に彼女の心の壁が壊れる音が響く。
「ふーん、大したことないじゃん」
しかし旧友の態度は相変わらず、まったく心の壁が壊される前と変わらなかった。そして、まるで気にもする様子もなく、莞爾と微笑んだ。
「ささ、お説教は終わり。もう日も暮れてきたし、そういえば今日がテスト最終日だったよね。夏休み突入記念に一緒に食べに行こう」
 そうしてわたしたちは帰り道、いつもの中華料理屋へと立ち寄った。わたしは中華粥、旧友は天津飯を注文して舌鼓を打った。今日のお代は、全部わたしが出すことになった。そして、夕餉を食べながら、夏休みに一緒に旅行に行く約束をした。東京へ行って山手線を利用してから、兵庫県にある城崎温泉でゆっくりしようという計画である。わたしは手帳にその日付をしっかりと書き込んだ。

 さてその夜、ニュースを見ていると、アメリカが日本車への関税を上乗せすると発表していた。わたしには経済がわからぬ。けれど冗談から、「せいやっ」と右手で宙を掻いてみた。その瞬間、パキリと硝子の割れるような破砕音が全世界に響き渡ると、テロリンと臨時ニュースがスタジオに入り、日本車の関税障壁がすべて即時撤廃されたことを報道官が大慌てで伝えた。それから数か月、世界経済はたいへんなことになり、わたしは自分の心の壁と、関税の障壁だけは二度と壊さないと心に誓ったのだった。
第三章

 わたしは物理的な壁でも、心理的な壁でも、関税障壁でさえも壊すことができる。なら、「時空の壁」だって壊すことができるはずだ。――という馬鹿げた仮説に従って、わたしと旧友は二人、冒険の準備をしていた。

 九月一日の始業式、夏休みに東京ディスティニーラントと、城崎温泉を(山手線に後ろから轢かれることもなく)しっかりと楽しんだわたしと旧友は、およそ三日ぶりに再開した。夏休みはずっと一緒にいたのであんまり感慨とかはなかった。他の友人たちも相変わらずのようだった。しかし、わたしがうっかり心の壁を壊してしまったあの黒髪の乙女は、無事に告白に成功したようだった。心なしか、以前よりも快活になって笑顔も増えたように思える。もしこれが、能力がいい具合に働いた結果ならいいな、なんて思ったりした。もちろん、夏休みの宿題はわたしも旧友も白紙だった。

 さらにカレンダーは進み、段々と日が落ちるのも早くなっていった。その間も、授業をぼんやりと聞き、放課後は部室で遊んだり、街をぶらぶらと歩く日常が続いていった。近頃旧友はウィキペディアの記事をいくつも開き「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」とか「シミュレーション仮説」などの話題を投げてくるようになった。対するわたしは開高健の『夏の闇』を読んでいた。......まったくもって夏休み前と変わらない日常だった。
 或る秋の日、わたしたちは冒険に飛び出すことに決めた。下校時間を迎えた教室のスピーカーからノイズの混じったドヴォルザークの「新世界より」が響き、あわてて生徒たちが門へ向かってかけていく。やがてチャイムが鳴り、わたしと旧友の二人だけが残った教室に傾いた西日が影をつくり、ひどく寂しげだった。
「それじゃあ開けるよ」
わたしは振り向くと、旧友に最後の確認をとった。彼女はこくりと首肯する。わたしはすう、と息を吸って覚悟を固めると、リノリウムの張られた床を殴りつけた。パキンという小気味いい音が響き、教室の床に人が通れるほどの亀裂が生まれた。裂けた空間の向こうには美しい蒼天が広がっており、新鮮な土の、夏のにおいが教室へと吹き込んできた。
「本当にできちゃった......」
わたしの呟きに旧友は静かにうなずいた。
 しばらく呆然とその青空を見つめてから、ごくりと息を飲むと、わたしは、おそるおそる亀裂へと一歩踏み込んだ。ぐにゃりと空間が歪んだかと思うと、視界がにわかに明るくなり、ザッという土の感触が足に伝わった。時空の壁を破壊した先に広がっていたのは、真っ青な空と、見渡す限り広がるヒマワリの畑だった。
「へー、ここが異世界か」
わたしの後ろをついてきた旧友はきょろきょろと物珍しそうにあたりを見回す。わたしたちはとうとう、別の世界に来てしまったのである。

 勇敢たる旧友はヒマワリの間を縫うようにして、ちっとも臆する様子を見せずに、ザッザと進んでいく。その後姿を見ながら、わたしはおずおずと彼女の服の裾を掴んでついて行った。歩けど歩けどそこにあるのはヒマワリ、ヒマワリ、ヒマワリ......どうしてこの世界はこんなにもヒマワリなのだろう。――ふとそんなことを考えた瞬間、わたしの第六感は、ぞわり、と纏わりつくような殺意を感じて取った。
「危ない!」
叫ぶ声と同時に、大地一面、見渡す限り広がっているヒマワリがそのこうべを回し、ぎょろりと旧友の方を向いた。わたしは彼女の腕を掴むと、勢いよく引っ張った。次の瞬間、地面が盛り上がったかと思うと、地中より緑色の杭が突き出し、旧友が一秒前にいた場所を串刺しにした。ヒマワリの根であった。「ひっ......」旧友は腰が抜けたようにへたり込んでしまう。わたしは旧友の手を掴んだまま、もときた亀裂へと走り逃げ込もうとした。しかし何本もの触手が地面から生えて、わたしたちの退路を塞ぐ。完璧に囲まれ、万事休すの状態となって............ようやく理解した。この世界は異常発達したヒマワリにそれ以外の生命をすべて駆逐されてしまったのだ。何者もいなくなった土地で、ヒマワリだけが夏の日光を独り占めに、永遠にゆらゆらと風に揺らめいている、そんな世界なのだ。
 わたしは逃げるため、力強く地面を殴りつけた。次元の壁が破壊され、亀裂が生じる。わたしたちは後先考えずに穴の中へと飛び込んだ。間一髪で大量の触手がわたしたちのいた空間を横薙ぎし、破砕が巻き起こり土煙が舞い上がった。

 ......ってて。わたしはお尻をさすりながら、よろよろと起き上がった。旧友は少し気恥しそうに「ありがと」、と小声で言った。尻餅はついたが、なんとかヒマワリの世界からは逃げのびたようであった。
 わたしたちがヒマワリから逃げて這う這うの体でたどり着いた世界は夕闇の砂漠だった。砂漠と言っても砂の沙漠ではなく礫砂漠、ごろごろとした岩がそこかしこに散らばっていた。今は日も落ちているのだから気温も高くない(もしくは寒いくらいである)が、しかしやがて日が昇ればこの地は灼熱の地獄と化し、肌を焼かれて、水を、水をとのたうち回りながら発狂死することになることは目に見えていた。もしかしたら死ぬのではないか。背筋に嫌な汗が流れた。旧友はごくりと息を飲んで、とりあえず状況を整理しようと提案した。
「元の世界に戻るためには、あのヒマワリの世界を超えていかなきゃならない。けれどヒマワリは滅茶苦茶強い」
わたしはうん、と頷いた。
「つまり、異世界から伝説のひまわりハンターを連れてこなければ。もしくはわたしたちが伝説のひまわりハンターにならなくては、元の世界に帰ることはできない。そういうことだよね?」
わたしはもう一度頷いた。わたしの心は、これから旧友と二人で何があるかまったくわからない異世界を冒険するのだという期待と、死ぬかもしれないという恐怖の二律背反の思いでいっぱいだった。

 ――――しかし、冒険がはじまることはなかった。わたしが物は試し、と元の世界を想像してポンと地面を叩けばそこは旧友の家の前に繋がっていた。そのまま穴をすり抜けて、呼び鈴を鳴らすと「あらいらっしゃい」と旧友の母、そのまま旧友の部屋にあげられると麦茶とお菓子を持ってきてくれた。こうして、わたしたちの最初の冒険は終わった。

「はぁ............」
麦茶をこくこくと飲みながら旧友は深いため息をついた。彼女の部屋は不良っぽい見た目のくせしてぬいぐるみとか結構多く、全体的にピンクでメルヒェンチックなのだが、そのことを揶揄うと怒り出すからあえて追求しない。わたしは寝台の上にあった遮光器土偶の人形を、両手で掴んでいじくりながら旧友の話を聞いていた。
「興ざめすぎ。マジであさまし。ただのチートじゃん」
「いやごめんね......けれど元の世界に戻れてよかったでしょ」
「そうなんだけどさ、帰れたのは嬉しいけどさ。普通ならこっから平行世界を旅して、剣と魔法の世界でひまわりハンターの助けを借りて、たくさんのおつかいクエストをこなしてからの結末がもとの世界への帰還でしょ。キャンベル先生だってそう言うに決まってるって」
言い終えると、旧友は寝台の上からサメのぬいぐるみをひったくり抱え込み、むーっと押し黙ってしまった。わたしはこういう時になんて声をかければいいのかよくわからなかった。
「えっと、でもわたし悪くないよね?」
「......君絶対モテないよ」
わたしの言葉に旧友はじとっとした目でこたえた。しかし彼女はそれから、はぁ、ともう一度ため息をつくと、目を逸らしながら「ごめん。理不尽言った」と謝った。
 結局その日は旧友の家に泊まることとなり、一緒に夕食を作ったり、たくさんおしゃべりをしたりして、次の日は一緒に登校した。教室に開けた筈の穴は影も形もなくなっていた。

 それからわたしと旧友は何度も学校が終わると夜遊びに出かけた。次元の穴を開けて、開けて、開けまくって、そのたびに異なる世界へと冒険に出かけた。たとえば、伝説のひまわりハンターを見つけて、あのひまわりワールドでの最終決戦を見届けたり(ひまわりハンター曰く、あのヒマワリは人間が生み出したナノマシンの集合体らしい。すべてをヒマワリに飲み込まれた世界は、所謂グレイ・グーという無限増殖するナノマシンにすべてを覆いつくされて滅亡する末路を迎えたようだった)。そのほかにも、小人国の宮殿の火事を小便で消したり。江戸時代の日本(のような異世界)でわたしが喜多八、旧友が弥次郎兵衛の真似をして東海道中を膝栗毛したり。フウイヌム国へと旅して人間嫌いを発症しかかったり。奇抜な格好をして人前に降臨した痴愚神の演説に心うたれたり。米ソ間で全面核戦争が起き、皆殺し装置が発動した後の終末世界を旅したり。
 どの冒険でも役に立ったものは、金銀財宝ではなく、わたしと旧友がそれぞれの家からくすねてきた国産の高級ウヰスキーだった。どんな場面でも酒は交渉材料として凶悪な能力を発揮するということは、コンキスタドールたちの所業――たとえばインディアンたちに一杯の酒のために大量の食料や毛皮を差し出すように命じたりだとか、土地の権利をすべて奪ってしまったといったことからも容易に論証することができる。美しいガラス瓶や印刷されたラベルは工業文明の証であり、純度の高さは蒸留技術を物語っている。酒は七百万年の人類史の結晶なのだ。
 そうして冒険を終えるとわたしはきまって旧友の家へと戻って、一緒にお泊りするのだった。料理を作り、冒険を寝物語にして、次の日は一緒に登校する。しばらく日常に戻って、一緒に中華料理屋に行ったり、夜の街で遊んだり。そしてふと旅情に駆られたら、たくさんのお酒を鞄に詰めて冒険に出かける。......こんな不思議な生活がいつまでも続いていけばいいな、とわたしは漠然と思っていた。


第四章

 世界は虚構、万物は虚仮――白痴のデミウルゴスは濁った眼球でわたしを俯瞰した。

 物理的な壁も、心の壁も、次元の壁も壊すことができる――それが「壁」であるならどのようなものでも壊す力。ならばどうして、現実と虚構の境界線たる「第四の壁」を壊せないということがあるだろう。

 ............わたしは壁を壊した。

 この瞬間、現実と虚構の境界は失われた。高校の屋上、雪がはらはらと舞う夕方、能力により引き裂かれた第四の壁、その亀裂の向こうにはキーボードを叩く中年男の神経質な瞳があった。彼は小説家なのだろうか、薄暗い部屋に独り、カタカタとキーを叩きバックスペース、書いては消して、書いては消してを繰り返していた。時折上手くいかない様子で頭を掻きむしり、深いため息をつく。眼の下には深いクマが刻まれており、髭がだらしなく伸びていた。
 わたしは逡巡してから、息を吸って、開かれた亀裂へと飛び込んだ。わたしの身体は次元を越境し、中年男の世界のパソコンモニターへと繋がった。虚構より現実へと生まれ落ちた一人の娘、中年男は驚愕の表情でわたしを見ると「君は......」、と尋ねた。わたしは彼に莞爾と一礼すると「はじめまして、お父さま」と微笑んだ「あなたの娘です」。と。

 彼の部屋の本棚には、河上肇、サルトル、ソール・ベロウ、開高健、内田百閒、アンソニー・バージェス、谷崎潤一郎、安部公房......わたしがこれまでに読んできた本たちがずらりと並んでいた。
 わたしは促されるままにソファーに腰掛けた。彼はどう接したらいいかわからない様子でこちらを見ていたが「ち、ちょっと待っててくれ......」、と何かを思い出したように部屋の奥に姿を消した。しばらくすると、ガラス製のティーポットと砂糖入れを手にもどってくる。それらを机の上に置き、戸棚からカップとソーサーを二つ取り出した。
 彼はティーポットに茶葉を入れると、部屋に備え付けてある電気ケトルでお湯を注いだ。わたしは何故だか懐かしいような気分がして、茶葉が花のように美しく開く様子をうっとりと眺めていた。男は手慣れた様子でカップにティーポットを傾けると、それをわたしに手渡した。
「いただきます」と一言かけてから、わたしは渡された紅茶を口に近づける。柔らかく、美しい香りが鼻腔をくすぐった。......美味しい。どうやらいい茶葉のようだ、わたしはちらりと男の方を向くと「ダージリンね」と微笑んだ。男は嬉しそうに頷き、砂糖瓶を手渡した。わたしはそれを匙でサッと注ぎ、ゆっくりとまぜて溶かした。そうしてもう一度口に運ぶと、わたしがいつも飲んでいるお気に入りの味になった。
 茶菓子として渡されたのは、医者をしている兄からのお裾分けという、箱入りのバームクーヘンだった。それをナイフで切り分けて白い皿に盛って渡してくれた。流石はわたしの生みの親だけのことはあって、よく好みを了解ってらっしゃる。わたしを創作した親なのだから多少の行儀の悪さはいいでしょう、ということで渡されたバームクーヘンを一枚づつ、ちまちまと食べることにした。彼はそんなわたしを見て、嬉しそうに眼を細めると、自分のカップに紅茶を注ぎ、皿にのせたバームクーヘンを紅茶の友として間食に参加した。
 わたしは、人見知りであったはずの自分が彼に対してよくなついていることに驚いていた。少なくとも、人前でバームクーヘンを一枚づつ食べていくなんて子供っぽいことをする柄ではなかったと思う。――ではどうして、わたしはこの男にこんなにも懐いているのだろう。そのように設定されていたからなのだろうか......? だとしたらド変態だと思うけれど、たぶんきっと、そうだったとしてもわたしは受け入れてしまうのだろうなぁ。

 紅茶もバームクーヘンも一通り片付いたところで、わたしは彼に尋ねた。
「あなたは小説家なの?」
「ああ......そうだ」
「どんなものを書いていたのか、見せてもらってもいいかしら」
「......勿論、だよ。何せ、......君にはその権利がある」
 男は緊張したように頷いた。わたしは彼の書きさしの小説を――――もしくは、わたしが生まれた世界を読み始めた。
 わたしは執筆中の小説『滄海の帝国』の登場人物一覧にて主人公として、「窈窕たる淑女、文芸に親しみ諧謔心に溢れる」、と簡潔に紹介されていた。なお旧友のことは「天才少女、愛嬌のある人気者。孤独であった主人公も彼女には心を開く。空襲により学校にて焼死」、とある。――あらすじによると、窈窕たる淑女である(らしい)わたしは、これから勃発することになる合衆国と日本との戦争の中で家族や友人を失い、合衆国への復讐に燃えて諜報官となり、しかしスパイ対象である陸軍将校に恋をしてしまうらしい。......へえ、そう。
 本文を読んでも、この物語は間違いなくわたしのことだ。中高一貫校に通っているというのも、文芸部に旧友がいるということも、ダージリンが好きというのも、文芸に親しむというのも、バームクーヘンに目がないということもすべて(あと超絶美少女の傾国であるということも)、彼の物語の設定どおりではある。しかし、この物語の中には「壁を壊す能力」という記述はおろか「壁」の一文字さえも登場しなかった。中三の春の珍事件も、友人との悩み相談も、異世界へ飛び出しての冒険譚も。これらはすべて、まったく描かれていなかった。
 わたしは本文を一通り読み終えると、男に「ありがとう」と告げた。彼はわたしから視線を逸らして頷いた。......それも仕方がないだろう、丁寧な言葉を使わなければこの小説はわたしにとって「君はこれから何よりも愛した親友も家族も失って、アメリカで陸軍将校のことが好きになって、セックスして逃避行してセックスして子供たくさんできるけど未亡人になるよ」、という内容の予言書でもあるのだ。かつ、それを書いたのは間違いなく彼本人なのだから。......うーむ、やはり変態ではないだろうか、とわたしは訝しんだ。予言書において、自分ですら知らない、マゾヒズムや性感帯をはっきりと、赤裸々に描かれるわたしの気持ちにもなってほしい。しかもそれがこの世界で出版されて読みまわされるなど、赤面どころの話ではない。
 ......しかし、この現実の中年男はわたしに対して意外にも紳士的であった、わたしのことをあれほどまでに物語中ではひどい目に合わせるくせに。何なら性的なことの一つや二つくらいは求められたのかと思ったが、まるでその兆候もなかったのはびっくりである(まあ求められたところで応じるつもりなんてこれぽっちもないが)。
 さて、紅茶のおかわりも飲み干し、スタンリー・キューブリックや開高健で話に花を咲かせたわたしたち。気がつけば、この世界も夜になろうとしていた。わたしは彼に「もし物語の中で旧友を殺したのなら、わたしはお前を殺す」ということだけははっきりと告げてから、それでは御機嫌よう、と挨拶してパソコンのモニター中へと戻ろうとした。

 しかし、ふと魔が差した。本当にこの世界こそが真の現実なのだろうか? もしかするとこの世界さえも、物語の中なのではないだろうか? わたしはすっと天に指を伸ばした、中年男はその様子を不思議そうに見つめている――――指先を振り下ろす。パキンと音が響き、虚構と現実の境界が破壊された。

 亀裂の先には、真鍮でできた剥き出しの蒸気配管があった。......この中年男の世界もまたわたしたちのもといた世界と同じく創作上の世界であったということだった。わたしは薄暗い地下隧道に立っていた。闇の中、ゴウンゴウンと轟く大歯車の音。時折蒸気管より排熱が勢いよく噴き出す。チャールズ・バベッジの階差機関――もしかしたらあり得たかもしれない、ディファレンス・エンジンによる文明の結晶、蒸気コンピュータであった。
 二一九八年地球、煤煙に覆われた灰色の空、蒸気文明による繁栄を続ける大英帝国の首都ロンドン、ホワイトホール地下にある大隧道にそれはあった。解析機関「バイロン卿」、蒸気機関の最終形態であるそれは、複雑に絡み合った歯車とスチームのアルゴリズムによって世界を演算する終末機械であった。これこそがあの男の住んでいた世界を、わたしたちの現実を計算する蒸気の「脳」であった。
 ......では、これが本当に真の世界なのだろうか? わたしは壁を壊した。

 二九八〇年、荒廃し尽くした地球、一台の壊れたピアノが丘の上に佇んでいた。人家の灯りは消え、廃墟と化した摩天楼が月光に照らされて朧な輪郭を見せる、煌めく満天の星空、竜が踊る――――集合意識が彼らの言語である七色の光を明滅させながら空を飛んでいた。人類は宇宙時代を経て、神の智に触れ、オーバーマインドへと進化した。あのロンドン、ホワイトホールの大隧道にて轟く歯車の音は、肉の身体を捨て精神体となった未来人たちの集合精神の見せる過去への追憶、望郷の念であったのだろうか。オーロラの如き混合意識の明滅は悠然と空を浮かび、旧人類たるわたしには一瞥もくれなかった。
 わたしは壁を壊した。

 二一三八年、宇宙船ディスカバリー号。真空崩壊という、あらゆるものを破壊しつくす世界の終焉から逃げ続ける人類は、未来の見えない航海に船出したばかりであった。地球に残されたほかの人類は気がつく間もなく宇宙の塵と化し、箱舟に乗せられた八百人の科学者のうち七五〇人は脳のみを摘出され肉体は焼却され、培養液の中、脳だけの状態で生きていた。七五〇人の科学者たちの並行接続された脳は人類のもつ唯一かつ最大のコンピュータ、演算装置として機能していた。彼らの脳はいつか見つかるかもしれない真空崩壊から逃げ延びる方法を検討していた。彼らは夢を見た。かつてあったかもしれない未来、宇宙へと進出した人類が一つの集合精神へと進化するというアーサー・C・クラークの幻想を。オーバーマインドの煌めきはかつての昔に真空崩壊によって分子レベルに分解され喪われた大地への望歌であった。
 巨大コンピュータを前に、五人の男女が乱交に耽っていた。人間の身体で生きることを決めた五〇人には、切り捨てられた百億人の人類の願いがかかっていた。彼らには計画されたセックスにより子孫を必要な数だけ確保し、箱舟を運航し続ける義務があった。
 わたしは壁を壊した。

 わたしは壁を壊した。
 わたしは壁を壊した。
 わたしは壁を壊した。

 次世代コンピュータは世界を再現する。
 二三八九年、量子レベルで世界を再現することのできるスーパーコンピュータ「ハル」の前にわたしは立っていた。わたしの学園生活も、作家の世界も、蒸気文明の発展も、混合意識も、箱舟の人類も、すべてはこの機械の見せる計算式に過ぎなかった。未来人科学者がプログラムを行い、演算開始のスイッチを押しただけの単なる多元宇宙を観測するためのアルゴリズムだったのだ。
 わたしは壁を壊した。

 どことも知れない、いつだかもわからない世界。そこにはただ、肉腫の海が広がっていた。万物の王である盲目にして白痴の神。ただそれだけが寂寞たる世界に横たわっていた。スーパーコンピュータにより世界を創り出せる未来人たち、しかしそれでさえも「存在」のみる邯鄲の夢に過ぎなかった。
 わたしは壁を壊した。

 わたしは壁を壊した。
 わたしは壁を壊した。
 わたしは壁を壊した。
 わたしは壁を壊した。
 わたしは壁を壊した。
 壁を。壁を。壁を。
 壁を。壁を。壁を。
 壁を。壁を。壁を。

 いくつ壁を壊しただろうか。マトリョシカのように続く多元世界をいくつも超えて、超えて、超えまくってようやく到達したのは、岡山大学法学部に通う冴えない大学生であった。彼は文芸部に所属しているらしい。わたしがノートパソコンの画面から飛び出しても、驚く様子を見せなかった。
「わたしのことを知っているのですか?」
「それは勿論、だって君とこの入れ子構造の世界を創り出したのは、僕なのだから」
「はあ。そうですか」
「反応薄いね」
「だってそのセリフ、もう五百回は聞きましたもん」
 わたしは彼が何か叫んでいる声を無視して、また壁を壊した。

 そこは宇宙船だった。人類史のはじまりより、単位が意味をなさなくなるほどに長い時間を経るまで、幸運にも人類は生存してしまった。しかし、あらゆる科学技術が爛熟し尽くしたとしても、宇宙の終焉であるビッグクランチに対処する方法を見つけることはかなわなかった。しかし、人類はこの世界を永遠に存続させるための、たったひとつの冴えたやりかたを発見した。終焉世界のコンピュータによる仮想現実は現実世界の一秒を主観時間の10←←4秒にまで引き延ばす。やがてビッグクランチを克服する方法が見つかることを夢見て。
 彼らはコンピュータの中、やがて終わる、しかし宇宙の誕生から終焉を......回繰り返したとしても終わることのない時間を生きていた。宇宙の誕生から終焉までを幾度となくシミュレートし、彼らが小宇宙の終焉に対処できないまま消えていく様子を見続けていた。しかしまだ時間はいくらでもあった。彼らはやがて小宇宙の終焉から逃げ延びる方法を見つけ出すだろう。彼らの世界もまた、一人のSF作家による妄想だったとしてもである。わたしは壁を壊した。

 わたしは壁を壊した。
 わたしは壁を壊した。
 わたしは壁を壊した。

 ......壁を壊し続けてどれほどの時間が過ぎただろうか。ようやくにたどり着いた世界の果ては、白く殺風景な部屋であった。部屋にはベッドがあり、朝ごはんがあり............そして、まっしろな髪のわたしが待っていた。わたしはわたしを見て一言「おかえり」と囁いた。
 わたしは白い髪のわたしとなり、わたしのすべてを思い出した。

 わたしは白い部屋にいた。わたしは生まれたことがなく、成長したことも死ぬこともなかった。いつから部屋にいるのかもわからない。ただ、わたしはずっと独りでこの部屋にいた。

 白い部屋には出口も入り口もない。はじまりもなく、おわりもない。わたしにできることといえば、おきて、あさごはんをたべて、おひるごはんをたべて、ゆうごはんをたべて、ねることだけ。他は何にもならない妄想をして、ひたすら自慰に耽るくらい。わたしはこの温度もにおいも色もない白い部屋で、死ぬことも生まれることもできないまま永遠の独りぼっちだった。

 ――――わたしは今朝、夢を見た。すべてを忘れて、赤子として生まれ落ちた。やさしいお母さん、ちょっと厳しいけれど愛してくれるお父さんがいた。小学生になって、心を開ける友達ができた。中学校になって、一緒に色々なところに遊びに行った。高校になってからは冒険に出かけてもっとなかよくなった。ずっと友達だって約束した。――――でも、すべては夢だった。
 わたしは目頭を押さえてベッドに倒れこむと、枕に顔を押し付けた。おかしいな......眠って、ちょっといい夢をみて、ちょっといい気持になっただけなのに。どうしてわたしはこんな夢にしがみついているのだろう。ただの夢なのに、どうして涙が止まらないのだろう。どうして............。

「......髪白く染めた? それに随分と伸びたね」
声に振り返ると、そこに旧友の姿があった。彼女は校則ガン無視の、スカートを短くしたセーラー服を身にまとい、いつも身に着けている洒落乙なバッグには父親からくすねたウヰスキーが詰め込まれていた。金色に染めた髪は不良少女としての才覚のあらわれだった。白の部屋にかえたばかりだというシャンプーの、柔らかい花の香が満ちた。旧友は少し照れ臭そうに頬をかきながら言った。
「まあ、久しぶり」


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