メルトブルー

レーゴ







〈her: 溶ける場所まで連れて行って。私も、あの人たちみたいに、綺麗に溶けて、消えてしまいたいから〉




 空も地面も白い景色の中で、黒っぽい塊がぽつんと転がっていた。

〈人間?〉

 人がうつ伏せに倒れていた。宙を舞う白いものが、背中に着々と白い層を形成している。いつから、そこにいたのだろうか。
 周りに他の人影はない。近づいて、肩を揺さぶってみる。......反応無し。俺はそれを抱き起した。ガスマスクとゴーグルをつけていた。ゴーグルのレンズの部分は白く汚れている。付着している塵を拭っても、倒れた時の衝撃でついたらしい細かい傷のせいで、人相はよく分からない。身体のサイズに合っていない分厚いコートのせいで、歳も性別も判断できない。
 抱き上げ、出てきたばかりのバラックに戻り、ベッドに横たえる。マスクを外そうと手を伸ばした時、不明瞭なレンズの向こうで瞼が動いた。
 ゆっくり後ずさった。危害を加えるつもりはないと、示したつもりだった。しかし上半身を起こした人物は、怯える様子は見せず、ゴーグルを外した。
 どこか懐かしいような、青い虹彩。完全な青ではないが、白みがかっているわけでもない、芯の通った淡い青。ひどく緩慢に、瞬きをしたそれは、俺をじっと見た。
 寒い。初めて発した言葉はそれだった。ガスマスク越しの籠った声でも、それが少女のものだということは分かった。支給品の粗悪なインスタントコーヒーを淹れ、渡した。彼女はガスマスクを外すと素直に口をつけ、そして顔をしかめた。
「おいしくない」
「味がついたものを飲めるだけましだろう」
 砂糖が欲しい、と言われる。
「そんなもの、今の時代には滅多に手に入らない」
 そうだね、と彼女は笑った。

〈砂糖〉

 約五十年前、何度目かの、そして最後の世界大戦があった。各国が数々の化学兵器と核爆弾を地上に投下した。結果、地上に死の雨が降り注いだ。空から降る白濁した雨に一体何が混ざっているのか、誰にも分からなかった。
 仕方がないから、何もかもひっくるめて「有害物質」と呼んだ。空を覆う灰色の靄も、地面に積もる粉も、空気中に漂う塵も、全てが有害。あっという間に人類滅亡、なんてことは起こらなかったが、それでもじわじわと、明らかに、人口は減っている。
 今では金なんてただの紙切れと金属の塊にすぎないが、終戦直後はまだそれなりに価値があった。旧世界において裕福だった人間は地下へ、そうでない者は汚染された地上に取り残された。汚染された、といっても程度の差はある。比較的軽度な場所に人は住み着いた。
 俺は、街――バラックが身を寄せ合うように建ち並んだ雑多なものでも、今の状況では立派な街――から少し離れた場所に住んでいた。いつ測っても基準値を超える水質調査を繰り返し、変異して凶暴化した動物を街に入れないように追い払い、数十キロ離れた場所にある小規模な街との物資のやり取りなど、頼まれたことは何でもこなした。そうやって自分の存在意義を証明し、数少ない支給品を手に入れていた。地上に取り残された者は、そうやって生きていくことになる。
 では、早々に地下に潜ったものは?
 地下でのみ、生きていくのだ。備蓄してあった物資で命を繋ぎ、全て消費してしまう前にプラントを完成させ、自給自足をできるようにする。これで、地上よりも安全で、清潔なものに囲まれて生活していける。穏やかに、選ばれし人間は地下で暮らしていくはずだった。はずだったのだ。
「人を看取るのはうんざりなの」
 彼女は唐突に、そう吐き出した。
「もう、人が溶けるのを見たくなかったの」
 ――逃げだしたの、人が溶けるあの場所から。

〈溶ける〉
〈施設〉

 この有害物質が降り積もった、崩壊した世界に耐えられなかった人たち。ガスマスク無しで深呼吸ができた旧世界を知っているからこそ絶望した人たち。あの頃の、穏やかな日々はどこに行ったのか。どうにかして、あの生活を再興できないのか。この地下から解放されることは今後ないのだろうか。あの生活は、あの日々は......。せめて、内臓を毒に侵されて苦しんで死ぬなんて、そんなことは避けたい。そんな人々が造り出したのが、人を溶かす液体だった。もうこの世からおさらばしよう。そう決心して、風呂に浸かるように全身をその液体に委ねたら、眠るように意識を手放し、夢をみているうちに全身が溶けて、身体も命も消失させることができる。
 この技術が発明された初期には、まだ貨幣の価値はかろうじて保たれていた。だから、金さえ積めば、地下深くに造られた巨大な施設の中で、穏やかに死ぬことができた。崩壊した世界で唯一栄えた産業。今では、貨幣は価値を無くし、施設を作った会社も存在しないものになっているはずだ。この世界で、最後の会社。
 会社が消えても施設は動く。液体の量の調整や容器、周辺機器はAIが制御する。電力の供給がある限りは、動き続ける。発電所は、施設とともに地下にあった。今も、動いているのだろうか。
「今も、まだ動いているのか」
 彼女は驚いたような表情で、俺を見上げる。
「何が」
「その、施設全体が」
「うん......。私が出てきた時には、問題なく」
「何故、地下の人間がこんなところに?」
「だから、逃げてきたって」
 苛ついたように彼女は言った。
「私は、あそこで働いてた......と言っていいのかわからないけど、あそこで生まれたから、あそこで生きる以外は選択肢になかった。私が小さい頃は、母さんも父さんも生きてたから......。もう、何年も前に、溶けたけど」
 彼女は表情を変えなかったが、マグカップを包む手は微かに震えていた。
「身体が完全に溶ける前に、意識が先に無くなるの。私は、意識がなくなるまで、そばに付き添って、看取る係だった。私が、あの施設の中で一番若かったから」
 一人、また一人、溶けていく。それをただ、見送るだけ。
「最後の一人が溶けてしまったから、私はあそこから出たの」
 ちゃんと役目は果たしたんだ、と言うと、そうかもね、と無感情に応える。
「でも、もう、人を看取るのは嫌なの。寂しい。置いて行かれるってことが分かってても、手を握ってるだけで追いかけることもできないなんて」
 寂しかったの、と彼女は俺を見詰めて、微笑を漏らす。

〈寂しい?〉





 そして、出会って数日たった頃、彼女は突然言った。溶ける場所まで連れて行って。私も、あの人たちみたいに、綺麗に溶けて、消えてしまいたいから。





 背中では、確かに体温を持った何かが絶えず呼吸を続けていた。間隔の短い呼吸に合わせて、耳元で息の抜ける音がする。首筋に押し付けられた鼻から流れ出た液体は、瞬間細い温かさを感じさせたが、すぐに冷たくなった。
 最後に雪を見たのは何十年前のことだろうか。凍てつく空気を舞うものは今も白いが、それは雪ではなく、有害物質の混じった塵だ。二人分の体重を乗せた一歩を進める度に、足元から粉塵が撒き上がる。ずり下がっていくマフラーになんとか鼻を埋める。自分の肺に、どれほどこの有害物質が溜まっているのだろう。

〈死にはしない〉

 重度の汚染地域の地下に、例の施設は作られた。誰も近寄れない、誰にも邪魔されない場所に。地上の者に干渉されないように。特に汚染された地域に最新で最後の技術をつぎ込んだ施設が各地に造られていった。はじめの頃は警備の兵が地上にも地下にも配備されていたらしいが、今では雇う側の会社が存在しないのだから、いるわけがない。警備が薄い施設の高価で最新の機械や武器を、危険を冒してでも奪うために、怪しい者が徘徊している。彼女からの情報だった。
 その情報は正しかった。あの施設に向かうため、彼女の記憶を頼りに、ひたすら歩いていた。彼女曰く、感覚的には歩いたのは二日ほどだったらしい。思ったより近くに、あの施設があったのだ。
 一日歩き、建物の残骸がある場所で休憩しようとした時、彼女が悲鳴を上げた。陰から何者かが彼女に殴りかかったのだった。ほぼ同時に、俺も後頭部を殴られた。
 一瞬意識が消えて、気が付いた時には彼女も俺も、ガスマスクとゴーグルが外れていた。目の前で、ブーツがマスクを踏ん付けていた。
 襲撃者は二人だった。二人ともすでに毒素に相当侵されていたのか、眼球は白く濁り、ぜえぜえと掠れた呼吸が口から漏れていた。動きは鈍く、構えた拳銃の照準は定まらず、弾丸は急所には当たらなかった。それでも、彼女は右脚と左腕を撃たれた。俺は脇腹を。俺は護身用に持っていた拳銃で、彼らを撃った。
 襲撃者はガスマスクもゴーグルも着けていなかった。奪って自分たちで着けようとはしなかった。自分たちがもう長くないことを分かっていて、俺たちを道連れにでもしようとしたのだろうか。

〈寂しい?〉

 俺は彼女をおぶって、どこにあるのか分からない施設を探して歩くしかなかった。
「痛くないの?」
 上ずった声が耳元でする。
「俺は、大丈夫」
 そう、と彼女は長く息を吐いた。
「落ち着いてるのね」
「慣れてる、こういうことには」
「どうして? 地上って、いつもこんなに物騒なの?」
「そういうわけでは、ないけど......。ただ、俺は大戦の兵士だったから」
 そう、とまた彼女は長く息を吐き、しばらく黙っていた。
「大戦の兵士だったって言ったよね」
 首に、暖かい息があたる。
「ああ」
「でも、あの大戦って、終わったのが五十年くらい前だったよね」
「......そうだ」
「あなた、自分の今の顔、見たことある?」
「......」
「こんな状況なのに髭は伸びてないし」
「......」
「どう上に見積もっても三十歳くらいにしか見えないし」

〈疑い?〉

「......あのね、私が最後に看取った人も、兵士だったの。もう七十歳を超えたおじいちゃんだった。五年くらいは、二人きりだった。いっぱい話を聞いたの。旧世界のこと。すごく高い建物が世界中にあって、朝も夜も、ずっと明るくて」
「喋ると、塵を吸い込むぞ」
「いい、どうせ今から溶けるんだし」
 何度か咳き込み、また彼女は話し出す。
「空が、晴れた空が、何よりも綺麗だったって」

〈空〉

「ねえ、どうして、施設のこと知ってたの? あなた、ずっと地上にいたんだよね? 私たちしか、地下の人間しか知らないはずのことよ......人間、は」

〈疑い〉

「どうして、私をここまで連れてきてくれたの。出会ったばかりなのに」
「......頼まれたから」
「頼めば、何でもしてくれるの?」
「......あぁ」
「どうして?」

〈program: にんげんのためにはたらきましょう〉

 急に、立ち止まればずぶずぶと埋まってしまいそうなほど振り積もっていた塵の感触が変わった。ブーツの底が僅かに沈んだだけで、硬い地面がある。足先で塵を払うと、所々錆びた銀色の地面が現れた。
「ここ」
 背中で彼女が安心したように言う。
「ここ、私が出てきた場所」
 一旦彼女を降ろし、手袋をはめた手でさらに塵を払った。マンホールの蓋を少し大きくしたようなものが、そこにあった。二か所にくぼみがあり、手をかけたら持ち上げることができそうだ。
「大丈夫、セキュリティは全部解除して出てきたから、鍵もかかってないはず」
 彼女の言った通り、蓋は簡単に持ち上がった。
 中から白い光が漏れだした。もう長い間見ていなかった、光度の高い明かり。思わず目を閉じた。
 腕を彼女がつつく。
「梯子で降りるの」
 指された先、白の中に銀色のものがある。壁に直接取り付けられた梯子。
 彼女を背負い直し、左手だけで支える。しがみついてくる力がさっきまでよりも強い。
「行こう」
 彼女は、自分に言い聞かせるように呟いた。



 バスタブのような形の透明な容器が広い空間に無数に、しかし気味が悪いほど整然と並んでいた。荒らされた様子はなく、全てのセキュリティが解除された状態でも、侵入者はいなかったらしい。一番の防壁は地上の塵、ということだろうか。
 ここも、地上と同様に床も壁も天井も、一面が白い。しかし、並んだ容器には、遥か昔に見たような青色をした液体が満ちていた。原色の青ほど鮮やかではなく、白みがかっているわけでもない、透明感のある淡い青。

〈青空〉
〈彼女〉
〈虹彩〉

 端のほうに、液体が透明の容器がいくつか並んでいた。彼女があそこ、と掠れた声を発する。
 容器の間を進む。ずっと動いていなかったであろう水面が、微かな振動から波紋を生み出す。容器には、番号が書かれたタグが浮いて、揺れていた。
 ああ、と背中で彼女が溜息のような声を出した。突然彼女は身をよじり、背中から下りようとする。バランスを崩して尻餅をついた。
 彼女は血まみれの右脚を引きずり、床に赤い線を描きながら一つの容器に寄りかかった。M一八五。タグにはそう刻まれていた。
「ただいま」
 安心したように、彼女は言った。――最後の人。きっと、あの空色の液体が、彼なのだろう。
 彼女を抱き上げ、透明な液体のもとに運ぶ。一番端の容器の前で立ち止まり、そっと彼女を入れた。顔だけは、浮かぶように。鼻から流れた血が、水面に広がってく。
 ふ、と彼女は笑う。
「躊躇しないのね」
「だって、君がそう望んだから」
「そうね」
 彼女の身体から流れ出た血液が、透明な液体をピンクに染める。俺は自分の傷口に手をやったが、僅かに湿っているだけだった。
「彼は、戦闘機のパイロットだった」
 彼女は濁った目で天井を見詰めていた。綺麗な青色だった虹彩も白くなりかけている。空に、有害物質の靄がかかるように。
「彼の乗った戦闘機が地上に有害物質を振り撒いたの」
 いつの間にか出血は見られなくなり、液体は透明になっている。
「家族が空色になるのを見られて、最後に見る光景が私の眼で、意識がなくなってやっと空色に溶けられて......やっと、空で死ねるって」

〈空〉

「本当は、戦闘機の中で死ぬべきで、本当の空に溶けてしまえば良かったのにって」

〈罪悪感?〉

「そんなに、あの人が空に執着するならどんなに綺麗なものなんだろうって。もしかしたら、あの人が最後に地上に出たのは何十年も前だから、もう、空が見えるんじゃないかって、思ったけど」
 液体が、微かに青味を帯びている。
「何日歩いても、ずっと靄ばっかり。あなたのいた街でも、汚染が軽いって場所でも、靄ばっかり」
 水面に、小さな貝殻のようなものが浮かんでいる。爪だ。
「もう、いいかなって。本物の空が見られないんだったら、偽物でも、いいかなって」
 彼女はもう目を閉じていた。
「ありがとう、ここまで連れてきてくれて」
 彼女は液体から右手を出す。爪が剥がれた手。しかし、血は出ていない。
「私も、一人じゃ寂しかったの」

〈寂しい〉
〈握る?〉
〈看取る〉

 彼女の手を握った。じゅ、という音とともに、彼女と接した部分から白い煙が上がる。
「あなたは、いつまで動くのか分からないけど、いつか、本物の空を見られたらいいね」
「......ああ」
「みんな、こうやって手を握ってあげてると、喜んでくれた。どうしてそんなに嬉しいのか分からなかったけど、うん、今は、分かるかな」
 彼女は笑った。

〈嬉しそう〉

 彼女はそれきり、口を開かなかった。微かに聞こえていた呼吸の気配も消え、俺の手を握る力もなくなった。そっと、手を液体の中に戻す。彼女と触れた部分を見ると、表皮が剥げて銀色の中身がのぞいていた。
 徐々に、液体は青さを増していく。彼女の身体は、末端から糸でも解けるように、消えていく。じわじわじわじわ、青になっていく。空に、溶けていく。

〈空〉
〈青空〉
〈溶ける〉
〈青空〉
〈彼女〉
〈虹彩〉
〈青〉
〈溶ける〉
〈青空〉
〈青空〉
〈青空〉
〈青空〉




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