テセウスの船

登校中



「始め!」
 先生の合図で、生徒全員が一斉にプリントをひっくり返した。
 五限目、英語の時間。
 昼食を終え、ぽやんとした頭のまま、私は問題に取りかかる。すぐに何行目の英文を読んでいるのか分からなくなり、そのまままぶたが下りようとしてくる。テスト開始数秒で、今日はダメな日だと諦めた。
 揺らぐ視界を前に向けると、私と同じように潔く諦め机に突っ伏す生徒や、こくりこくりと睡魔に抗う様子で首を揺らしている者たちがいた。先生もこの光景に若干の呆れを見せている。
 そしてそんな生徒の中には、ユミもいた。かく、かくと船を漕ぐたびに、彼女のポニーテールが左右に振れる。五限目の魔力に加えて彼女の席は窓際、暖かい午後の日差しが、真面目な彼女にも心地よい眠りを与えようといらぬお節介をしているようだ。
 かく、かく。彼女の傾きは一層大きなものになっていく。必死に耐えているみたいだが、限界はもうすぐそこまで来ているらしい。
 このままだと。
 そう思った時、彼女がひと際大きく揺れた。そして。
 ごどんっ
 彼女の頭が体から外れ、床に落ちた。
 周辺の席の生徒がびくりと肩を跳ね上げる。突っ伏していた生徒でさえも、頭と床が激突した鈍い音にハッと顔を上げる。しかし、音の原因が分かると、興味なしという風にまた睡眠に戻った。
「わ、わわわ」
 彼女が声をあげながら、ごろごろと机の合間を転がる。その途中で見た彼女の顔は、ぶつかった痛みと頭が取れた恥ずかしさが混ざっていた。



「もー、またやっちゃったよ」
 音楽室への移動の際、床で打った右後頭部をなでながら、ユミが恥ずかしそうに言う。私はその隣に立ち、歩みを進めながら返答する。
「まあ、あれでちょうど目覚ませたでしょ」
「いやたしかに起きたけどさ。うーん、ほんと体が取れやすいの困るなあ」
 そう、ユミは少し特殊な体をしている。人よりほんのちょっと、体がばらばらになりやすいらしい。初めて見た時、クラスでの自己紹介で頭を下げた瞬間に頭が転げ落ちた時は教室内が悲鳴で満たされたが、子ども特有の柔軟性により、今ではみんな個性として受け入れている。
「なんかこう、つなぎ目のとこテープ貼っとくとかは?」
「うーん。毎回ここで取れる、とかはなくて、その時々によるんだよね」
「へえ、そうなんだ。じゃあけっこう不便だね」
「うん。とっても強い衝撃を受けた時なんか  」
 会話に気を取られていたのか、階段を降りようとするユミの足が何かに引っかかり、彼女はバランスを崩した。しかも運の悪いことに、それは一番上の段だった。
 がっしゃあん、と彼女の教材が散らばる音と、ごどんっ、と先ほど教室できいたばかりの重いものが落ちる音。
「......うわあ」
 一言で言えば、地獄絵図。胴体や足先などは服や上履きで覆われていたおかげか、あまり飛び散ってはいなかった。ただ、落ちた時に手をついたからだろう、二の腕や肘、手首や指一本ずつが細かくばらばらになり、かなり廊下の遠くの方にまで転がってしまっていた。
「キャー!」
 ユミの事情を知らないこの階の他学年が、血相を変えて逃げた。正しい反応だと思った。
「ユミ、けがしてない?」
 落ちた階段を真っ直ぐ、ごろごろと勢いのまま転がって壁にぶつかり止まったユミの頭を覗き込む。
「ううん......けがはしてないっぽいけど、拾ってえ......」
 若干涙目になっているが、ばらばらになっただけで体そのものにはダメージがないみたいだ。つくづく不思議な体だと感じる。
 後からやってきた同じクラスの子たちは、散らばっているユミを見て即座に状況を理解したようで、すでにパーツを拾い集め始めていた。このままでは遅刻確定だけど、まあ、みんなで遅れていくならなんとかなるだろう。
 私は廊下の奥、誰も手をつけていないとこで拾うことにした。ユミのパーツはまさに肉片と呼ぶのに相応しい形をしていたが、手に持つと温かく、確かに生きているという感触が存在する。きっと私たちの肉片では、べしょべしょになってしまうだろう。
 そんなこんなで、散り散りになった彼女を数人で拾い集め、一旦彼女の頭の所へ集合した。
「えっと、これでいいのかな?」
 まずはクラスの子の一人がユミの頭を抱え、いつも彼女が自分で直しているように、胴体の首部分と切断面をくっつけた。すると、たちまち切れ目がきれいにふさがり、今までぴくりともしなかった胴体がくねりと動いた。
「ごめんね、迷惑かけちゃって。助かるよ」
「ううん、大丈夫だよ。さ、チャイム鳴っちゃったし、全部早くくっつけちゃお」
 そうして私たちは、ユミの指導を受けながらも人体立体パズルを組み立てていった。特にばらばらだった手は難しかったが、全ての拾い集めたパーツをくっつけることができた。......のだけれど。
「一本足りないなあ」
 右手の小指部分だけがどうしても見つからず、まるで指詰めした後のようになってしまっていた。
「どこらへんにあるとか、感覚はないの?」
「けがはしてないみたいだけど......体の末端だし、はっきりとは分かんないなあ」
 私の問いに困った表情で答える。この後、あまりにも遅かったために音楽教師がやって来て、ユミの小指探しは一時中断となった。しかし、音楽の授業が終わった後の休み時間も放課後も、くまなく廊下や階段を探したが、彼女の指は見つからなかった。
「これだけないと、誰かに持ってかれたのかなあ......。持っていってどうするのかは分かんないけど」
 とりあえず担任の先生に指をなくしたことを報告し、明日の朝、各クラスできいてもらうよう頼んで、捜索は終わった。みんながユミちゃん見つかるよ、と彼女を励ました。私も、ポケットの中のユミの小指をきゅっと握りしめながら、みんなと同じように励ましの言葉をかけた。



 退屈な塾を終えて外に出た頃には、もう8時を回っていた。いつもは一緒に帰る友人に、今日は一人で帰ることを告げ、帰り道途中にぽつんとある公園のブランコに腰掛けた。なんとなくだが、普段より自分の心拍数があがっているような気がした。
 学校の鞄をブランコの脇に置き、そっとポケットから彼女の小指を取り出す。本体と離れてからもう何時間と経過しているはずなのに、それは未だぬくぬくと生を帯びていた。
 指の断面をじっと見つめる。私以外誰もいない公園は全体的に薄暗かったが、このブランコ周辺だけ街灯のおかげで明るいため、見やすかった。
 赤黒くて真ん中に骨らしき白い輪っかがある。出血は全くしておらず、おそらく階段から落ちた時と変わらない、清潔そのものだった。
「案外バレないもんなんだなあ」
 階段でユミが足を引っかけたもの、それは突き出した私の足だった。
 きっかけは単に好奇心、どれくらいばらばらになるのか見てみたかっただけだ。そして、パーツ拾いで小指を見つけた時、こっそり持っていたらユミは気付くのか、そんな疑問が私にそれを隠すという行動につなげた。
 結果、思ったより細かくばらばらになることが分かったし、ついでに隠し持っていても感覚とかで分かるわけではないことも知れた。大収穫だ。
 ところで、問題はこの指の後処理だ。明日こっそりあの廊下付近に落としておこうか。普通に考えればそれが無難だが、なんだかもったいない気もする。
「そうだ、血って出るのかな」
 どうせ返すなら、色々試してからでもいいだろう。とりあえずシャーペンを刺してみようと思い、足元の鞄を引き寄せる。
『♪』
 と、その時、鞄に入れっぱなしだった携帯に着信が入る。誰からだろうと派手な携帯の画面を見ると、ユミの名が表示されていた。急にこの公園の人気のなさを感じた。
 ひとつ大きく深呼吸をしてから、電話に出る。
「はい、もしもし」
『......ミオ、返して』
 心なしか、いつもよりユミの声が低く感じる。ここで、ごめんなさいとすぐに謝っておけばよかったのだが、それは私にはできなかった。
「......なんのこと?」
『分かってるんだから。明日直接言おうかと思ってたけど、なんだか今から傷つけそうで、慌てて電話したの』
「な、んで......」
 もしかしてどこかから覗かれているのかと、思わずキョロキョロと辺りを見回す。
『うん、そうだよ。見てるし聞いてる。鞄の中調べてみて』
 少し呆れたような口調でユミが行動を促す。私にはそれに抗う術がなかった。
 鞄の一番大きな口の所をがさごそと探る。特に変わったものはないように思えた。次に、鞄の横の小さな口に手を入れる。突っ込んだ瞬間、もにゅっとした生温かい感触のものを掴んだ。
『もしかして、って思って帰り際に仕込んでおいたの』
 手を引き抜くと、耳と目玉がどくどくと動いていた。
「ひっ」
 反射的に、私はそれを地面に叩きつけた。耳は空気抵抗のおかげか、ぼとんと落ちたが、目玉は自身より一回り大きな石をめがけ、飛んで行ってしまった。
 パリンッ
『あっ』
 目玉が弾け散ったのと同時に、携帯の向こう側からユミの、悲鳴ではないが驚きの声が聞こえた。
 ユミの目玉は、肉片などではなく、まるでガラス玉が砕け散ったような硬さと美しさで粉々に宙を舞った。地面に撒かれたその破片は、誰が見ても修復不可能というだろう。
『今、壊したよね? 私の左目。あーあ、指を返してくれたらそれで終わろうとしてたのに』
「ご、ごめ......」
『もう遅いよ』
 明らかな殺意のこもったユミの声。それと刃物がきんっと鳴る音と、ぼとぼとぼと、と何かを大量に床にまき散らすような音もした。
「な、何を」
『今からミオのとこ、向かうから』
 電話越しに聞こえる、ばたばたと家の階段を降りる音に、ぎいっと玄関らしき重い扉を開ける音。少しだけ風の吹く音も拾った。
『塾の帰り道で××公園にいるんでしょ、あそこの周り、民家なかったよね。友だちにも今日は一人で帰るって断ってたし』
「ごめんなさいユミ! 壊すつもりはなかったの! なんでもするから殺さないで!」
 私は携帯にすがりつき、泣きじゃくっていた。それでも、辺りに何もないこの公園での叫びは、ユミの電話越しの耳と、地面に落ちたもう片方の耳にしか届かなかった。
『? 別に殺すつもりないよ、ただ代わりの左目をくりぬきに行くだけ。まあ、その過程で死んじゃうかもだけど』
 平然とした返しに身の毛がよだつ。彼女は過去に何度も、こうやって欠けたパーツを誰かから奪ってきたのだろうか。
『あ、逃げようとかしてもムダだから。私今、皮膚とか左腕とか内臓とか、必要ない部分置いてきてるから、めちゃくちゃ速いよ』
「ば、化け物......」
『ちがうよ、ひどいなあ。人よりほんのちょっと、ばらばらになりやすいだけだよ』
 びゅうびゅうと唸る向こう側の風の音から、いかに彼女が速いスピードで走っているかが伝わる。
 もうダメだと悟った瞬間、私はその場に座り込んでしまった。携帯が手から滑り落ち、がちゃんと地面とぶつかった。彼女の声は相変わらず聞こえる。
『あ、ミオいた』
 私の目の前に、片腕で刃物を持つ異形な彼女が現れた。



 次の日。
 指が見つかったと笑顔なユミちゃんの瞳の色は、左右異なっているように見えた。


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