十字架を光に翳せども

あみの酸



 ヒカルくんは私にだけ吸血鬼みたいなことをする。
 もちろん吸血鬼でないことはわかっているけど。

 例えば図書館の学術書が入った本棚の陰、最終下校時間が近い教室、クモの巣が張った非常階段の踊り場。そんな人目につかない場所で私とヒカルくんは時々逢う。恋人と共有する秘密に、中学生の私はいつも少し浮き足立ってしまう。


 思春期まっただ中の生徒が詰め込まれた教室に恋愛の話題は尽きない。何々ちゃんが部活の先輩と付き合ってるんだって、この前カレシと遊んだ時にね、隣のクラスの誰々さんと誰それくんが別れたらしいよ、と桃色に染まった話が飛び交う。
 私は友だちの噂話やら自慢話やらに適当にあいづちを打つ。友だちからは、ルリもせっかく可愛いんだから彼氏作ればいいのに、なんてよく言われる。だけど、みんなが二年生で一番イケメンだって評価しているヒカルくんと付き合っているんだよ、とは言えないから、恋愛とかキョーミないんだよね、と取りあえずクールぶっている。彼女らの噂話に消費されたくなくて、ヒカルくんとはただの図書委員として通しているのだ。
 彼女らは何もわかっていない。ヒカルくんを「イケメン」という軽い言葉で表すなんてセンスを疑う。男子にしては低めの身長に、華奢で薄っぺらな体。肌や髪の色も他の人より淡くて、主張は強くないが整った目鼻立ちをした、儚げな美少年。その中身が私への執着で満たされていることは私しか知らない。
 そんなヒカルくんも、私と同じように教室の片隅で愛想笑いを見せている。話題を振られても、別に、どっちでもいい、言うわけないじゃん、とまともに答えない彼の声が時折聞こえる。男子たちの下品な会話の輪にいながらも一歩引いた様子で曖昧な態度をとっている。ひとりぼっちじゃ不便だけど、バカ騒ぎする男子と同類に見られるのも嫌なんだよね。私と一緒だね。

 ヒカルくんは小学校からの同級生だけど、いわゆる恋バナに食いつく所は見た覚えがない。だから私はてっきり恋愛自体に関心がないのかと思っていた。がっつかない態度はすてきだけど、それが恋愛へ繋がることはないのだろうと勝手に考えていた。
 だから一年生の頃にヒカルくんから告白された時は、それはもう驚いた。
 ずっと前から好きでした。僕と付き合ってください。
 何の飾り気もないありふれた告白が、少し震えた声で私に届いた。ヒカルくんは緊張した様子だったが、私を見つめるその瞳は真っ直ぐで、切実で、陽の光のように強く澄んでいる。いつも涼しげな佇まいの彼が、急き立てられたような表情をしていて、しかもそれが自分に向けられているのだ。
 私も好き。よろしくお願いします。
 本当はヒカルくんと釣り合うような熱量で彼を好きだと思ったことはなかったけど、私はそう答えた。必ず同じぐらいの強さで好きになれる。ヒカルくんの瞳を見てそう確信したから。

 私の予感は的中した。
 私とヒカルくんは深く惹かれ合っている。
 愛の形は全くの予想外だったけど。
 

 昼休み、ヒカルくんと図書室で委員会の仕事を手際よくこなす。必要以上のことは話さない。けれど二人ともお互いの存在を意識しているのがわかる。二人きりの図書室、無言の恋心が空気を震わせる。
 やるべき事はすべて済んだ。午後の予鈴まではまだ時間がある。私とヒカルくんは目線を絡めた。いいよね? いいよ。口に出さずに伝え合う。もう何度目かわからない、始まりもうやむやになってしまった、私たちだけの時間が始まる。
 私はヒカルくんを追って受付カウンターの中に潜り込み、向かい合ってしゃがんだ。普段は大人びたヒカルくんの瞳が無邪気にらんらんと輝いているのが可愛らしくて思わず笑みを零す。
 今度は小さく声にして、ルリちゃん、いい? と聞いて来たヒカルくんに、いいよと私も声にした。すると彼はカウンターの引き出しからハサミを取り出した。学校の使っても大丈夫なのかなと思いつつも私は素直に左手を差し出す。彼は優しく私の手を取って指先をなで、ハサミを開き、片方の刃を私の人差し指の爪の付け根にあてて、すっと傷を入れた。痛みがじわり。血がじゅわり。私からにじみ出てきた赤色の照りを、ヒカルくんは凝視する。伏し目の彼はとても絵になる。
 長いまつげが持ち上がって彼が私にカチリと目を合わせる。その瞳がキラリとして私を私と認識すると、再びまつげがうつむいた。
 
 そしてヒカルくんは傷に口づけて血を吸った。
 
 ざわ  。
 うなじに生える産毛がいっせいにうごめく。毛の一本一本が私を後ろへ引き戻そうとしたり前へ押し進めようとしたりと騒がしい。だめだよ、こんなこと。いいでしょ、あいされてて。何度繰り返しても色あせない、刺激的で鮮烈な感覚。
 こんな小さな傷口から血が吸えるとは思えないのに、全身の血をヒカルくんに飲み干されるようにめまいがする。しゃがんだままの足がしびれる。ぐるぐる、びりびり、ぞくぞく、どくり。
 
 ヒカルくんの唇が私の指先から離れる。また私と目を合わせた彼の頬は興奮で紅くなり、ふう、と一息つくその表情は少女のような清さが香る。こんな純粋な顔、私にはもうできないや。こんな変なことをしているのに、なんでそんな顔ができるのかな。
 
 人の血を吸って喜ぶなんて吸血鬼みたいだ。ヒカルくんは日光を浴びても灰にはならないし、私がクロスのペンダントを付けていても気にしないし、鏡にもちゃんと映る。この前のデートではペペロンチーノを食べていた。だから吸血鬼ではない。だけど私の血を吸う。
 私はヒカルくんがどうして私の血を吸うのか知らない。吸血鬼だからという理由でないこと以外は何も知らない。他人の血が好きすぎて飲みたいのか、それとも私への好きをこじらせているのか。毎回傷口を凝視する必要はあるのか、血の味を味わえればそれでいいのか。私には到底理解できないけど、人の血なら何でもいいなんて言われたら辛くなるから本人には聞けないでいる。わからないものは気味が悪くて、それに付き合い続けている私も訳がわからない。
 だけど嫌だとは思えないのだ。
 そんなに血を見るのが楽しいならもっと大胆に皮膚を切っても怒らないし、そんなに血が飲みたいなら彼専用のウォーターサーバーよろしく私の血で喉を潤したってかまわない。こんな頭のおかしい考えが、いつしか私の常識になってしまった。少し痛いのを我慢して血を与えさえすれば、ヒカルくんが視界を柔らかく包んで感覚を極彩色に塗りつぶして非日常へ連れて行ってくれるのだから。
 
 ヒカルくんは上の空な私の顔を覗き込んで、ごめん、大丈夫? と私に聞く。うん、平気だから、と私は答えた。これが終わると必ず彼は律儀に私に謝る。謝られても許さないようなことは初めからさせないのに。
 キーンコーンカーンコーンと予鈴が鳴る。午後の授業まであと五分。
 ヒカルくんは握った手をそのままに腰を上げ、足がしびれた私を立ち上がらせてくれる。カウンターから出るとともに手はほどかれ、彼はハサミを置いて自分の荷物を持ち上げた。私たちは図書室を出る。
 
 教室までの道のり。私が、次の授業なんだっけ? と聞くと、国語だよ、と彼は答える。会話はそれだけ。聞こえて来るのは廊下を歩く音と、他の生徒の話し声。
 廊下の窓から昼間の陽の光が射し込む。ヒカルくんは眩しそうに目を細めているけど、灰になって消えはしない。同じクラスで同じ委員会の特別仲がいい訳でもない男子として、無言で私の隣を歩いている。私もまるで彼に関心がないようなふりをして歩く。
 
 ただ、赤い傷と彼の温もりを絶やさない私の指先が、二人は愛し合っているのだと叫んでいた。


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