現実逃避

蒔原通流



 ただ付き合っただけの男と映画を見に行った。大して話題にもならなかった薄っぺらい恋愛映画。見た傍から溜息となって、内容が宙に飛んでいく。エンドロールを見ることなく、ほとんどの客が立ち去っていく。
 私と彼だけが溜息で埋め尽くされた空間に取り残される。長い沈黙の後に、彼はほとんど独り言みたいにぶつぶつと喋った。
「あれ、知ってる? 脳の90%は使ってないって話。あれ、実際は行動に合わせてそれぞれ違う10%を使ってるだけらしいよ。」
 何とかそれだけ言った彼は、沈黙に押しつぶされたみたいに委縮していて、返事をする気にはならなかった。

 彼とはそれ以来、連絡を取っていない。お互いのイメージに、あの沈黙がこびりついていて、私と彼の間に円満なコミュニケーションを想像することが出来なくなっていたことが大きいだろう。
 それでも彼の何にも繋がらなかった一言は、私の中で何故か、しこりとなって残っていた。


 それ以来、私のイメージする脳は、いつも小さな球だった。
 脳の容量のわずか10%しか満たさない小球。行動に合わせて小球が位置を変え、そこで機能する。走るのに合わせて、空っぽのランドセルの中を筆箱が跳ね回るように、がらんどうの頭蓋の中をぐるんぐるん転がっていく。それに合わせて、現実の私は、走り、歩き、飛び跳ね、くしゃみをする。
 頭蓋の中では小球の転がる音が重なり、反響していた。




 鼻の奥がくすぐったくなるような臭いの充満した空間。間接照明が、部屋の奥は見えない程度に明かりを灯す。ゆったりとしたピアノの音がごく小さな音量、気を付けていないと忘れてしまうような音量で流れている。意識をぼんやりさせようとしていると感じた。
 男女入り混じった集団の真ん中で、教祖は言った。
 イメージこそが全てだと。
 強くイメージすれば望んだ現実を手に入れられると。
 イメージによって現実を支配できると。
 より強くイメージするには、イメージを強い欲求に結び付けることが重要だと。
 教祖は下卑た顔で実践して見せようと続けた。
私は今日もまた始まるのか、そう思った。
 教祖は再び言った。
 強い欲求と結び付けてイメージすることが重要だと。
 
 現実から逃避する方法。
ここからここではないどこかへ行く方法。
ここにはいないことをイメージする方法。
どこかにいることをイメージする方法。
奴が言うほど容易ではない。

 奴の頭の内から、とんとんとんと、音が聞こえる。素早く、短く、規則正しく、音は聞こえる。壁に脳の小球が叩き付けられている音だ。とんとんとん。男が腰を振るリズムに合わせて、音は聞こえる。
 頭蓋骨の内側でテニスボールみたいにラリーされている小球。小球のラリーに合わせて、頭蓋内に溜まった空気が鼻息となって押し出される。
 ラリーがより速く、より短く、そしてより強くなっていく。吹き出す鼻息もより荒く、より早くなっていく。
 奴は、大声で周囲に聞こえるように、この瞬間に強くイメージすることを訴える。まるでただ呼吸しているときと変わらないかのようにイメージしろと。ごく自然なことをしている精神状態で、ひたすらにイメージすることが重要だと。自分がこの行為を性的なものとして、一切とらえていないのだと。
 だが、私だけは知っている。奴はそのような高尚なことを何一つ考えてなどいないことを知っている。
 奴の小球は最初から全く変わらず、全く同じ場所で激しく振り子運動している。ごく小さな空間を高速で反復。脳の中の快楽という空間で、小球は一心不乱に壁に打ち付けられている。ただひたすらに快楽という機能を働かせ続け、享受し続ける。性的な快楽、人をだます快楽、支配する快楽。それらが混じり合った汚い蜜を奴は啜っている。
 小球はより一層激しく壁に打ち付けられる。フルスイングされたゴルフボールみたいに小球の形が歪む。奴は泡を吹かんばかりの興奮度合いで、引きちぎろうとするかのような力の入れ方で私の肉体を握りしめる。

 奴はいつもイメージしてみろと私に言う。こうなる前に誰かが助けてくれることをイメージしろと。だが、誰よりも奴がそれに意味がないことを知っている。それすらも奴にとっては興奮材料で、小球の動きは加速する。

 そして、性欲という空間の壁に最も強く打ち付けられたとき、小球は耐え切れず弾けた。粘性の高いどろどろとした醜悪な脳みそが汚らしく飛び散る。その液体は性欲という空間から零れ落ち、頭蓋の底にびちゃびちゃと落ちて溜まっていく。液体は隙間から口蓋へと溢れ出し、血の入り混じった泡となって、奴の食いしばった歯の間から漏れ出ていった。
 奴は左腕を痙攣させ、張り付いたような下卑た笑顔のまま、ばったりと倒れていく。その他の部位はぴくりともさせることなく、床に転がった。
 
 現状、奴が死んだことに気付いているのは私だけだった。他の連中は軒並み、自己暗示のトランス状態に陥って、思い思いの現実にこもりきっている。
 結局のところ、奴が言う通りだった。どれだけ、奴に襲われる前に警察が飛び込んできてくれて、私を救ってくれるところをイメージしても、まったく変化はなかった。

 現実は私が認識していたようにしかならなかった。
 認識の外へ出ることはついぞなかった。
 イメージとはこんなものか。
 現実とはこんなものか。

 冷え切った認識という海が、私の頭蓋の内を満たし、たかだか10%に満たない脳の小球はそこをぷかぷかと漂っていた。


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