雨上がりに走れ

東西南北美宏



 笛が鳴る。
 それを合図にして一斉に走り出す。
 全力で走ることが出来るのは十二秒と少しだけ。だけどこの短い時間が、私が一人になれる大好きな時間だ。
「十二・八。良いタイムだ」
 コーチは私の後ろでゴールしている人たちを置いてそう告げる。
「これなら来月の大会でもいい結果が残せるだろう」
「......ありがとうございます」
 別に私は勝ちたくて百メートルを走っているんじゃないけれど、だけど、どうやら私には短距離走の才能があったらしくて、周りの大人や友だちは結果に期待している。
「はぁ、はぁ、やっぱ涼、速いねぇ」
 二番目にゴールした那美は肩で息をしながら話しかけてくる。
「那美こそ、また速くなったんじゃないの? このままだとすぐに私を抜くでしょ」
「いっつもそう言うけど私が涼より速かったことないじゃない。いつになったら一番になれるのかな」
 那美は私と一緒に短距離を始めた。
 中学のとき一緒に陸上部に入ってから、常に競い合ってきた。お互い初めから結構いい線いってるなんて褒められて、意識してはいた。高校でも、短距離の大会出場権を競い合っている。一番の仲良しで、一番のライバル。
 だけど、最近私は誰かと走ることに飽きてきたのかもしれない。いや、競争に疲れたのか。
「ま、私の目標がそう簡単な位置にいられても困るからいいんだけどね」
 そう言うと那美は笑ってスタートの白線に戻る。
 笛が鳴る。
 那美は風の様に一瞬で私の横を駆け抜けていった。
 私は一人で走っているんじゃない。
 でも走っているときは一人なんじゃないか。
「涼! 早く位置に着けよ!」
 コーチの声が後ろから聞こえてくる。
 練習の疲れとは違う、足の重さを無視して私はスタート位置に小走りで戻った。

 クールダウンにトラックを軽く走っていると、那美が隣に追いついてきた。
「ねえ、あの噂知ってる?」
「噂?」
「二組の花谷なんだけどさ」
 走りながら喋っているのでなんだか少し呂律が怪しいことになっている那美。
「涼のこと好きらしいよ」
「はい?」
 思わず足を止めそうになったがコーチが見ているので何とか走る。おしゃべりに関しては練習後のクールダウンなので黙認されているが、さすがに途中で止まってしまうのは叱られる。
「だから、花谷が涼のこと、好きなんだって」
「え、でも花谷って女子だよね」
「うん。ちょっと気持ち悪いよね」
「......」
 花谷は二組にいるおとなしい女の子だ。
 私と那美は一組。
 正直あまり目立たない、地味な感じの人で、名前以上のことは知らない。
「なんで」
「なんでって?」
「どうしてそんな噂が流れてるの?」
「なんかさ、涼が走ってるとき、教室からじっと見てたんだって」
「聞いただけ?」
「でも見た人いるって」
 くだらない噂だ。
 別に放課後、教室から外を眺めること位あるだろう。たったそれだけで私を見ていたことにされて私が好きだなんて噂を流されて花谷もかわいそうだ。
 大体、花谷も私も女だぞ。女同士で好きとか恋とかそういう感情になんかならないだろうに。
「そういうことだから、気を付けなよ~」
 那美はそう言ってスピードを上げる。
 走り去る那美の後ろ姿を追いかけながら、私は花谷のことを考えていた。だけど、やっぱり彼女のことを好きになった自分が想像できない。
 気になって教室の方を見たけれど、こっちからは教室に誰がいてこっちを見ているかなんて分からなかった。

「ただいま」
 家に帰ると、すでに夕食の用意ができていて、まさに今食べ始めようとしているところだった。
「おかえり、お姉ちゃん」
 妹の朱夏が、早く早くというように手招きする。ちょうど食べ始めるところだったから、私が席に着くのを待ってくれるようだ。急いで荷物を二階の自室に置いてリビングに戻る。
 私が席に着くと、いただきます、と言ってみんな食べ始めた。お母さんはなんだか嬉しそうだ。
「どうしたの、お母さん」
「んー。ご飯見て気付かない?」
「ちょっと、お母さん!」
 朱夏が少し声を荒げて止める。
 お父さんは黙々とご飯を口に運ぶ。
 そのご飯は、いつもの白米ではなく、赤く着色されたものだった。
「ああ......なるほどね」
 どうやら、今日は妹の初めての女の子の日だったらしい。朱夏は中一。日本の女子の平均的初潮年齢からそれほど外れていないようで安心した。
 なにせ、私がまだ生理が来ていないのである。
 体の発育に関しては遺伝によるところも大きいし、私と同じように生理が遅いことも心配していたのだ。
 それにしても、それならなんで私はこんなに初潮が遅いのだろう。
 でもまあ、特別、他に体調が悪いところもないし、個人差の大きいところだ。学校だって忙しいし、そんなことで病院になんて行っていられない。
 陸上選手なんかは結構生理が止まる事があると聞く。私もそれで生理が遅れているのかもしれないし、だったら来年、三年生になって引退すれば自然に来るようになるかもしれない。
 それに、生理って大変そうだ。友だちにも毎月真っ青な顔で学校に来る子もいる。正直、そんなことになるくらいなら生理なんて来ない方がましだ。
「お姉ちゃんのときは赤飯なんてしてなかったのに......。お父さんもいるのに恥ずかしいな」
「まだ私初潮迎えてないもん」
「え、遅くない?」
 そういえば、わざわざ言ったこともなかった。朱夏はとっくに私に生理が来ていると思っていたようだ。
「気付かなかったの~? 涼の生理用品見たことないでしょ? 子どもの生理用品買うのなんて初めてだったから、緊張しちゃったわよ」
「なんでお姉ちゃんもお母さんもそんなに呑気なの? 高校生にもなって生理も来てないなんて普通(・・)じゃ(・・)ない(・・)よ」
「朱夏、普通じゃないなんて言わないのよ。初潮が遅い人だっているわ。保健で習わなかった?」
「でも、友だちだってもう八割くらいは来てて......。私、いつ来るんだろうって不安で仕方なかったのに。お姉ちゃんは不安じゃないの? 病気かもしれないんだよ」
「病気ってそんな大げさな......」
「お母さんは黙ってて!」
 ああ、なんでこんなことになってしまったんだ。
 さっきまでみんなで楽しくご飯を食べていたのに。
 私のせいで、こんな空気になってしまった。
 私の初潮が遅いから。
 私が心配してないから。
 妹に心配させた。
 
 私が普通じゃないから。

「ごちそうさま」
 どうしてもその場にいるのが辛くなって、私は自分が食べていた食器もそのままに階段を駆け上がった。
「お姉ちゃん! ちょっと!」
 朱夏が大声で私を呼び止めたが、その声で止まるには私の目は潤みすぎていた。
 あんまり勢いよくドアを閉めてしまったので、きっと
リビングにも音が響いてしまっただろうけど、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
 今日まで、深く考えてこないようにしていたけど、本当はなんとなくヤバいんじゃないか、そう思っていた。
 生理が来ない理由を調べてみて、自分もそうなだけかもしれないと思って安心しようとしていた。
 生理なんて大変なだけだと考えようとしていた。
 でも、やっぱり、心のどこかで。
 不安が渦を生み出していたんだ。
 今日まで上手に避けていたその渦に、今日とうとう捕まってしまった。
「普通じゃない」
 その言葉は、高校生である私の体をきつく縛って身動きできなくするには十分だった。

「おはよう」
 次の日、目覚まし時計もセットせず、いつの間にか眠ってしまっていた私を起こしてくれたのは、なんとお父さんだった。
 お父さんが私の部屋をノックすることなんてめったにないことで、なんなら朝、朝私より早く起きた姿はここ数年見たことがない。
 そういう異常事態の原因に私があることが、また気がかりであったけれど、今はその状況に甘えることにした。
「起きないのかい?」
 お父さんはいつも口数が少なく、喋っても、とても静かで優しい声をしていた。
 声を掛けられても寝たふりをしたままの私。
「朝ごはん、食べられそうにないか?」
 何を言ったらいいのか分からないのか、当たり障りないことを言うお父さん。でも、私を心配していることは分かる。
「お父さんはさ、男だから、涼とか朱夏の悩みについてよく分からないんだ。いや、本当は親になった時にきちんと勉強しておくべきだったんだけど」
 背後でベッドが沈んだ。お父さんが座ったみたいだ。
「でも、詳しくは分からないけど、お父さんは朱夏が普通で、涼が普通じゃないなんて思わない。確かに一般的な時期とは違うのかもしれない。でも、それは涼が変、ってことじゃない。ただ、何か問題があるだけなんだよ。問題は解決すれば良いだけだ」
 お父さんは、私を傷つけないように必死で言葉を選んでいる。
「きっと病院に行った方が良いんだろう。お父さんが連れて行っても良いし、恥ずかしかったらお母さんが連れて行ってくれる。病院に行くのは涼が普通じゃないからじゃない。ただ、問題を確認して、解決するためなんだ」
 正直お父さんの言葉が十分配慮できていたとは言えそうにない。でも、それがお父さんにできる最大限の配慮であったことは感じ取れたし、言っていることは理解できた。
「おはよう、お父さん」
「おや、涼、今まで寝ていたのかい。これじゃ独り言をずっと言っていただけだな」
 なんて、笑ってごまかしながら、ベッドから立ち上がるお父さんを見たら、私もついクスリと笑いが漏れてしまった。
「今日、学校休むよ」
「そうすると良い。学校は君たちが健やかに育つために行くところだからね」
 気付くと、雨が窓をたたいていた。

「これは......。落ち着いて聞いてくださいね」
 結局お母さんと産婦人科にやってきた私に、医者は静かに告げる。
 想像以上に深刻な顔をしている医者にお母さんも緊張しているようだ。ひざの上に握りしめられた手が置いてある。
「娘さん......涼さんは性分化疾患という病気です」
 何やら聞いたことのない病名を言われキョトンとした顔をお母さんはした。
「性分化疾患というのは、男女の性に関する体の状態が一般的なものと違っている状態のことを指します。涼さんの場合は、簡潔に言ってしまうと、体の中に卵巣と精巣の両方を持っているんです」
 なかなか意味が分からない。私は女で、つまり卵巣があって、精巣はない。それが普通だし、私もそういう体のはずで。でも実際にはそうじゃないらしい。
「その性ぶん......疾患? というので涼は入院しないといけないような、そういう困ったことになったりは......?」
「今すぐ死んでしまうようなことはありません」
 隣で、ふっと息をつく音が聞こえた。
「しかし、できるだけ早いうちに性腺......卵巣か精巣のどちらかを摘出しないといけないですね。ホルモンバランスが崩れてしまい体調を崩すことが多くなりますから。大体二十歳までには手術した方が良いでしょう」
 手術、という言葉はお母さんの体を固めるのに十分だった。しかし、次の言葉が決定的だった。私が〝かわいそうな子〟になるのに。
「ただ、その、言いづらいのですが、卵巣の正常な発達は見込めないので......妊娠は一生できないと思います」
 本人に直接、はっきり言う医者もどうかと思うが、最近はインフォームドコンセント、とかいうのが大事的なことを現社で習ったばかりなのでヨシとしよう。
 そうはいってもお母さんはやはり手で目をこすっていて、私が悪いわけでもないのに、なんだか私がいたたまれなくなった。いや、私が悪いのか?
 ともかく、どうやら私は子どもを産めない体になったらしい。訳の分かんない病気のせいで。
 お母さんはハンカチを持ってきていなかったのか、目から流れ出る雨しずくを必死に手で拭っている。一方の私はというと窓を眺めて、ワイパー付けたいな、とか考えていて、有体に言うと現実逃避をしていた。
 別に私は子どもが欲しかったわけではないが、しかし、要らないと思っていたのでもなく、ただ漠然と、いつか私も子どもができるものだと、両親の様に旦那と子どもを育てるものだと考えていたので、突然の宣告は信じられるものではなかった。
 私は泣きじゃくる母を連れて病室を後にした。
 次、いつ来るかは後で電話することにした。

 お母さんの車で病院まで来ていたので、当然帰りも車なわけで、そして運転できるのもお母さんなので、つまり、お母さんが落ち着くまで病院で過ごさなければならなかった。待合室の椅子にお母さんを座らせて、その横に私も腰を降ろす。
「お母さん、見て、外。さっきより小降りになってるよ」
 線が少し細くなっていた。
「あ、私お茶買ってきたいんだけど、小銭くれない?」
 大きな病院だ。自動販売機はどこにでもある。
「返事しないんだったら勝手にお財布盗りますよ~。コンビニ行っちゃおうかな」
 いよいよお母さんのカバンから財布を抜こうとした瞬間、普段聞かない、お母さんの声が聞こえた。
「何のんきなこと言ってんのよ! あんた病気なのよ!」
 うちのお母さんは滅多に怒らない。なにせのんびりした人だ。お父さんも柔和な人なので私たち姉妹はかなり自由に育てられたほうだろう。多分、お母さんのこんな声色を聞いたのはうまれて初めてだと思う。
「そんな病気って......。別に死ぬような病気じゃないじゃない」
「それでも手術しないといけないって」
「それも今すぐじゃないし」
「それに、それに......」
 お母さんは何か言葉を詰まらせているようだった。
 それはどう考えても、私が妊娠できないことに関してだ。十七年近くも育ててきた娘が、子どもを産めないと知った母親の顔をしていた。そんな顔、初めて見たけど。
「子どもが産めないくらい、なんだって言うのよ。私が産めなくたって、朱夏が産んで......」
「私が孫が欲しいわけじゃないわよ! 涼は子ども欲しくなかったの? いつの日か幸せな家庭を、旦那と子どもと一緒に築きたくなかったってわけ?」
 その言葉は、私にとって、なんだか変な感じを、違和感を与えるものだった。
 結婚して子どもがいて、私が家を守る。そういう生活が幸せじゃないとは思わない。我が家はそうやって幸せを得てきた。
 でも、それ以外を不幸であると決めつけたような言い方がおかしいと思った。
「子どもがいなくたって幸せな夫婦はいるよ! 私の幸せを勝手に決めないでよ!」
 自然に口をついた言葉だった。
 妊娠できない現実を全然受け入れていないのに、つい叫んでしまったのだ。ああ、人って不幸だねって言われると悲鳴をあげるんだな。
「そういうこと言ってるわけじゃない......ただ」
 お母さんは泣きながら言葉になっていない声をだす。
 雨は小降りになってもまだしばらく振り続けるようだった。まだ帰れなさそうだし、このまま雨宿りを続けよう。
 お母さんの財布を持って私は立ち上がった。

 結局、日付が変わって、学校に行ってもまだ雨は降り続けていた。細いけれど、どうも粘っこい雨だった。
 二日連続で休むのも嫌だったし、家にいてお母さんと顔を合わせるのも気まずかったので、少し気は重かったが、学校には行っておくことにした。
 とはいえ、あまり教室に行って勉強したい気分ではなかったので、私は朝のホームルームで出席だけ取ると教室を出た。人生で初めてのサボタージュだ。これでは二日連続で休んだも同然だ。ちなみに教室で勉強したい気分なんてものはもともとない。
 初めてのサボりということで少し気分が高揚したが、いざ人のいない学校内を歩いていると、何をしたらいいのは分からず、正直暇だった。
 結局、先生に見つかって怒られるのも嫌なので、保健室で仮病を使うことにした。
「失礼します。頭痛いんで寝かしてください」
「いらっしゃい。頭痛いのね。まあ、まず座りなさいな」
 そこにいたのは養護教諭の西山先生だ。
「頭打ったんじゃないのよね?」
 どうも問診が始まるようだった。仮病なので適当にウンウン頷いておくことにする。
「いつから痛いの? どんなふうに痛い? 熱は? 測ってないないならこれ脇に挟んで」
 さすがにこなれたように問診を進める。渡された体温計を脇に挟んでじっとする。
「昨日何時に寝たの? あんまり寝てないのねえ」
 服の中で、無機質な音が聞こえる。体温計を渡す。
「熱はないのね。いや、それだけで仮病扱いしたりしないわよ。あなためったに保健室に来ないし、頭痛いって判断難しいからね。ま、とりあえず寝ておきなさい。あなた何年何組かしら?」
 当然ながら担任に連絡がいくようだ。まあ、養護教諭からの連絡なのだから、仮病でのサボりだとは思われないだろう。正当な休みだ。
「なにか話したいことがあれば、何でも聞くからね」
 ベッドで横になった私に毛布を掛けながら、先生は言う。別に、話したいわけじゃないけれど、学校の誰も私の体の事情を知らないのもまずいのかもしれない。
 そう思って私は、昨日あったことを話してみることにした。
「じつは、昨日、私学校休んで、病院行ってたんです
「なかなか生理が来ないってだけだったんですけれど、妹がそれはおかしいって言って
「そしたら、なんか、性分化疾患っていう病気らしくって
「どうやら、私の体の中には男の部分もあるみたいなんです。
「それで、手術とかもしないといけないらしいし、子どもができないらしくって
「それでお母さんが泣いて、怒ってるみたいで、私も怒ってしまって」
 先生は黙ってうなずきながら、私の話を聞いていた。
 一通り、私の話が終わった時、先生はようやく口を開いた。
「なるほどね、それはあなたも大変だったわね。でも、心配しなくていいわよ。先生は、私だけじゃなくて、この学校の先生たちはみんなあなたの味方だわ」
 それは疑っていない。この学校で過ごした期間は、私と先生たちの間にそれくらいの絆は築いていた。全員とは言わないが。
 友だちに話をしたところで、みんな私のことを心配してくれるだろうとは思っている。
「それは良かった。私たちもそう言ってもらえると助かるわ」
 先生は聞くとときに浮かべていた緊張の表情を緩めて、そういった。
「大丈夫よ、世の中には体の性と心の性が一致していない人も珍しくないわ。あなたが男性でも女性でも関係なく、あなたはあなたとして受け入れられるわよ」
 そう言うと、先生は、おやすみなさい、と私を一人にしてくれた。
 それで、私は一人、今の言葉のモヤモヤを考えながら寝るのだ。

 結局、午前中の授業は全部寝た。本来、保健室で寝られるのは一時間と決まっているのだが、そこは融通を聞かせてくれたようだ。
 私は先生に礼を言って、教室に戻りお昼ご飯を食べることにした。いつも私は学食を利用する。財布を取りに戻らねばならない。
「涼!」
 教室に入ると、那美が声をかけてきた。
「心配したんだからね! 昨日は学校休むし、今朝だってギリギリに来たと思ったらすぐにどこか行くし、どうしたの? 体調悪いんだったら今日の部活は休むって言っておこうか? 今日雨だから多分室内で筋トレだけど」
「いや、行くよ......あー、筋トレか......やっぱ休むって言っといて。それよりご飯行こう」
「了解。じゃあお弁当持ってくるから待ってて」
 那美が自分の机に向かって走る。走ると言っても小走りだ。教室内で部活のごとく走ったりはしない。さすがに。
 那美には話してもいいかもな。病気の話。
 那美とは小さい時からずっと一緒だったんだから。
「おまたせ。食堂行こうか!」
「うん。今日は何食べようかな~」
「いつもそうやって迷いながらいっつもわかめうどんじゃん!」
「違うのが食べたいかもしれないでしょ」
 結局、いつも通りわかめうどんを持って那美の待つ席に向かう。
 席に着くと、二人でいただきますをしてから食べ始める。いつものことだ。
「あのね、私が休んでたことについてなんだけどさ」
「あ、それ気になってるんだって。どうしたの、カゼかい?」
「えっとね、実はなんだか少し難しい病気で」
「ええ! 大丈夫なの、それ。大会だって近いのに、走れないってなったら私も嫌だよ」
「大会は大丈夫、そんなすぐに死ぬような病気じゃなくて。大会終わった後に手術はしないといけないけど」
「手術だって?」
「そんな大手術じゃないよ」
「ほんとに? なんの病気なの?」
「性分化疾患って名前なんだけど」
 やっぱり、なんの病気か分からないらしい。まあ、確かに聞きなじみのない病名だよね。
「ざっくり説明すると、体の中に男の部分があるってことなんだけど」
「なるほど?」
「どうも精巣が体の中にあるみたい」
 笑いながら言ってみる。そんな重い空間にしたくなかった。絶対に「子どもができない」とかは言わない。
「もしかして涼が走るの速かったのってその性なのかもね。男性ホルモンの量だって変わってくるでしょ。精巣があるって」
「確かにそうかもね」
 私は決して笑顔を崩さない。
 那美は笑っていなかった。
「それって少し、その、なんだ。ずるいよね」
 那美は一人、先にごちそうさまと言って立ち去ってしまった。
「私のせいじゃないじゃん」
 美味しくもないうどんをすすり続ける気にもならず、うどんを残して私は午後の授業も休むことに決めた。
 那美が私を目標に頑張っていたのは知っている。
 それが、性別の違うやつを相手にしていたと思ったなら、それは確かにずるいと思うのかもしれない。私だって、大会に男が出てたら、ずるいと思うだろう。
 私は女なのか、男なのか。

 屋上に行ってみることにした。
 雨が降り続けているので、お昼ごはん時には人であふれかえっている屋上も、今は人がいなかった。
 屋上の中でちょっとだけ屋根になっているところに行って座ってみた。微妙にお尻が濡れてしまったが、それはもう仕方ない。
 しばらくそのサークル内でのんびりすることにした。サークルって言ってもまるで円くはないけれど。
 雨は一向に止む気配を見せない。徐々に小降りになっている気もするが、お尻を濡らす水は雪解け水かと思うくらい冷たい。
 うどんを半分くらいしか食べていないのでお腹が空いている。私が私のことではっきりわかることは、今、それくらいしかなかった。
 保健室で話をしてから、ずっと心の中で続くモヤモヤとした霧は、私の想いの何を覆い隠しているのだろう。
 なんでその霧は、那美との会話で、より濃くなったのだろう。分からない。
 子どものことなんか、どうでもよくなってきていた。そんなことは、私のずっと先にいる私が何とかする問題だ。そんなことより、私は今の私の問題について考えなければならないと感じ始めていた。
 今の私の問題とは、つまり、私は何を思っているのかということだ。
 でも、一人で考えたいときほど、考える時間は与えられない。
 屋上の扉が開く。音がする。
 屋上に出てきたのは、私のことが好きだと噂の花谷だった。花谷は息切れを起こしながら屋上をぐるっと見渡し、私を見つけると、安堵の表情を浮かべて私の方に近づいてきた。
 猫背で、とぼとぼと歩くその姿は、みすぼらしさを感じた。
 それでも図々しく私のサークルに入ろうとしてきたし、私もそれを止めなかったので、花谷はサークルの中に入ってきた。隣には座ろうとして、それをやめて私の前に立った。
「花谷さんじゃん。どうしたの? 珍しいね」
 私と話をするなんて。まだ、そうとは決まっていないけど。
「あ、あの、棚田さん」
 棚田とは私の苗字だ。
 どうやら本当に私に話があるらしい。
「どうしたの? わざわざ屋上まで探しに来てくれるなんて。しかも今授業中だよね」
「棚田さん、今日ずっと授業出てないから。心配して。サボりだったらいいんだけど......いや、ダメかな」
「サボりだよ。だから大丈夫。早く教室戻りな」
 花谷はうつむいて動こうとしない。
 わずかに見える口元は、何かを吐き出そうと開いては閉じを繰り返している。
「何か、言いたいことでもあった?」
 できるだけ深く聞かないように、そっけなく、そっけなく。
「あの、その......」
 なんだろう。いやな予感がする。もはやこれは予感ではなく、予想、推理、なんというかある程度根拠のありそうな虫の知らせだ。
 それは的中する。
「私と、付き合ってほしいんだよ」
 その言葉は、正直予想通りだった。
 なんでこういう暗めの人って、仲良くなろうとする前に唐突に告白しちゃうんだろう。
「なんで、そんな急に? それに私、女なんだけど」
「あっ、あの、棚田さんが、病気らしいって聞いて、その......男でもあるって。それで、私にもチャンスがあるかもって。女同士だったら無理かもしれないけど、棚田さ......」
「ごめんね。付き合うのはできないわ」
「え、でも......」
「話を聞けない、帰ってくれる?」
 花谷はそれ以上言葉を続けなかった。ただ、さっきよりもっと猫背になってサークルから出ていった。
 よく、怒鳴らなかったと思う。
 花谷が泣きながら屋上から出ていくのをみて、それでも悪いことしたなぁってならなかったのは、よほど腹が立ったからか。
 それより、今の会話で、私の心のモヤモヤはどうやら晴れた。
 
 私は、女だ。そう、女なのに、みんな、私の体の中に精巣があるってだけで、女でも男でもあるようなことを言ってくる。体にそういう部分があるってだけで、心までそうだと思われる。問題があるのは体だけだというのに、私は女じゃないみたいに言われる。それが私の言いたいことだ。
「私は女だ!」
 
 放課後、私は部活に顔を出さずに帰ることにした。
 大枠の問題は何も解決していない。
 帰ってもお母さんとは気まずいままだろう。
 先生に考えを伝えに行くこともしてないし、話をする前より信頼感は減っている気がする。
 那美とは仲直りしていない。
 大会の出場権はもう那美にあげようかな。部活はやめようかと思う。
 もともと仲良くはなかった花谷さんのことは決定的に嫌いになった。
 とにかく。
 私は走りたかった。
 そのことに男も女も関係なかった。
 大会とか記録とか関係なく、ただ走りたくなった。
 ようやく雲間が見えるようになった空の向こうには虹がかかっていた。
 走れ、走れ。
 私はその七色の端を目掛けて走り出した。

                 	End.




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