1908年、ベルリンにて

霧立昇


 私は今、庭で飼っている鶏に餌をやっている。これをしないと母さんに気が利かないと嫌味を言われるというのもあるのだが、これが唯一何も考えずに過ごせる時間だから普段から率先してやっているのだ。
「ハンナ! ちょっと来ておくれ、ハンナ!」
 だがこの平和な時間はたいてい長くは続かない。私はため息をついて、家の中に入った。
「どうしたの」
「お酒を買いに行ってちょうだい。今度の客達は大酒呑みばっかりだからどうせすぐ足りなくなるわ」
「分かった」
「安いのでいいんだからね、ついでにバターも買ってきて。まったく、近頃は物価がどんどん上がって...」
 母さんはお皿を洗う手を休めないまましゃべり続ける。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ、そうそう。戻ってきたらね...」母さんがこっちを振り返った。
「三階のあんたが贔屓してる客、まだ下宿代を払ってないから、それも言いに行ってちょうだい。あんたの態度が甘いから向こうもつけあがるんだわ」
 私は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「そんなのじゃないわ」
「あんな優男はろくなもんじゃないよ。下宿代だって、自分の金じゃなくって母親からの仕送りじゃないか。いい歳した男が働きもしないなんて...」
「もういい」
 私は最後まで聞かずに財布を持って家を出た。市場に着いてからもしばらくは頬が火照ったままだった。

 買い物から帰って、お風呂とトイレの掃除を済ませた頃には日が傾いていた。私は浮かない気持ちでぎしぎしと軋む階段を上り、三〇二とプレートの貼られた扉をノックした。
「すみません、ハンナです」
「はい、開いていますよ。どうぞ」
 この頃はいつも友人とオペラに出かけているから、この時間にいるのは珍しい。扉を開けると、彼は書き物机の前に座っていて、手紙らしいものを握っていた。心なしか顔色が少し悪いような気がした。しかし彼はいつものように私に少し微笑みかけて手紙を机の上に置き、もう一つの椅子を私の方へ勧めてくれた。
「下宿代のことでしょう。すみません、すぐに払う気でいるんですが...」
 私は思わず顔を伏せた。きっと母さんの声が聞こえていたのだ。彼にあんな会話を聞かせてしまったことが、とても恥ずかしかった。
「ごめんなさい、一生懸命勉強なさっている方にお金を急かすようなことはあまり言いたくないですけど...」
「いえ、あなたが謝ることじゃありません。実際僕が馬鹿なんですよ、才能もないのに画家なんか目指して...」
「そんな...とてもお上手だと思いますわ」
 彼は少し黙っていたが、机の横に立てかけさせていたキャンバスを私のほうに差し出した。ウィーンの街並みと河川をスケッチしたものだった。
「美術アカデミーの試験に提出したけど、駄目でした。描写は正しいが独創性にかける、と」
 私は咄嗟に言葉が出なかった。たまに母さんが家を出ているときに、私に自分の絵を見せて芸術について熱っぽく語っていた彼の黒曜石みたいに輝く目を思い出していた。あんなに真剣だったのに、彼の努力は実らなかったのだ。
「今の評論家たちがもてはやすのは、キュビズムだのシュールレアリスムだの、馬鹿げたものばかりですよ。あの絵の何がいいのかちゃんと説明できる奴なんかいないじゃないか...」
 彼の紅潮した顔を、私は黙って見つめていた。自分でもどうしてそんな風に思ったのかは分からないけれど、珍しく興奮している彼の姿からは、妙な美しさを感じた。苛立ちを吐き出し続けるその低い声にも何か惹かれるものがあった。ここに泊まっている他の男の人たちとは、まるで何もかもが違う。私の知っている男の人たちは身なりのことにはほとんど構わないで、酔っぱらっては自分の給料や上司の不平を大きな声でわめき続けるような人ばかりだった。だから普段は貴族的で静かで、それでいて胸の中に熱い理想を持っている彼のような人が、一層際立って立派に見えたのだ。
「私も今の芸術は、よく分かりません。やっぱりすぐに綺麗だと思える絵が、一番いいと思うんです。その、あなたが描くみたいに」
 彼を元気づけたくて、ついこんなことを口走った。下手な慰めだとは思ったけど、本心だった。
 彼は少し驚いたようにこちらを見つめ、少ししてから微笑んだ。さっきの興奮は過ぎ去ったようだった。
「すみません、みっともないところを見せてしまって。こんなこと女性に向かってする話じゃなかったですね」
「いいえ、いいんです。あなたの気が晴れたならそれで」
「ありがとう。正直、今はあまり冷静でいられないんです。色んなことが重なって...」
「その...もしかしてさっき見ていらっしゃった手紙ですか?」
「...ええ、母が病気なのです。しかも重いらしい」
 私は軽々しく聞いてしまったことを後悔した。彼が母親をとても大切に思っていることは知っていた。自分の夢を頭ごなしに否定した父とは違い、自分を信じてウィーンへ送り出してくれたのだと芸術を語るときによく言っていたのだ。父が亡くなってからは母が年金と遺産の一部を送ってくれている、だからこそ早く画家として名を売りたいとも。下宿代を滞納していたのも、彼の母が病に倒れて余裕がなくなっていたからだったのか。どんな言葉をかけるのがいいのか、私には分からなかった。

「来月、一度実家に戻ろうと思います。面倒を見るのが妹だけでは心細いでしょうから」
「ええ、それが良いと思います。きっとお母様も喜ぶと思いますわ」
「はい、母の具合がよくなればまた戻ってきます。でも、そうでなければ...」彼はためらいがちに続けた。
「ここはもう引き払うことになると思います」
 私は一瞬息を呑んだ。当然のことだ。母親がそのまま息をひきとるようなことになれば、画家を目指してはいられないだろう。それでも、急にこんな日が来るだなんて。
「画家の夢自体を諦めるつもりはありません。でも今は
それどころじゃない。この時世だから、僕も徴兵に取られるかもしれないし」
 徴兵。その言葉が心に重くのしかかった。分かっていたことなのに耐えがたく思う。もうこうやって彼と話すのは本当に最後になるかもしれない。黙り込んだ私を気遣うように彼は明るい調子で続けた。
「今度の戦争に行けるのはドイツ人にとって名誉なことですよ。国威を示す戦いだ。きっと我が国が勝利します」
 私も彼の気遣いに応えるために微笑み返した。ああ、この人は本当に立派な人なのだ。教養人で、気高い愛国者だ。悲しんではいけない。彼の覚悟を曇らせるようなことを言ってはいけない。これ以上彼の不安を増やすようなことをしてはいけない。
「あなたは本当に立派な方ですわ」
 悲しみを悟られないように、精一杯の笑顔を作った。


「故郷に戻られたら手紙をくださいますか、ヒトラーさん」
「ええ、もちろん」
 彼は少しはにかんだ。
「それに、アドルフと。ありふれた名前ですが」


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