ナツノカ

藩荷原課



「は? 自転車旅? マジで?」
「馬鹿おまえ声がでけえよ」
 教室の一角でそんな声が上がったのは、夏休みも目前の昼休みだった。教室の注目が集まり、私もそっちの方に目を向ける。
 叫んだのは高橋(たかはし)くんと米原(よねはら)くん。空手部のグループだ。
 高橋くんはバツが悪そうにチラッと周りを見て、トーンを落として加久田(かくた)くんの方に向き直った。
「あ、悪い、え、けど聡樹(そうき)。おまえ部活どうすんだよ」
「そうだ。来年こそは全国にって気合入ってるのに、エースが休んだらダメだろ」
「いやいや自転車旅っつってもただの旅じゃねえよ。武者修行すんだ武者修行」
「は? 武者修行?」
「えーなにそれー。聞きたーい」
 興味を持ったのか、水田(みずた)さんが間延びした声で話しかけた。
「加久田武者修行すんのー? ウケるー。なに時代だよー」
「おー、顧問のゴリ武の紹介でいろんな道場を回ってみるんだよ。そこで練習させてもらってさ。国道一号に沿って名古屋まで行くの」
「ガチじゃん。いつまでやんのー?」
「夏休み中に終わらせっから、だいたい三週間前後くらいだな。土産には期待すんなよ?」
「ういろう買ってきてー。駅に売ってるのでいいからさー」
「期待すんなっつてんだろーが」
 話し聞いてんのかよと加久田くんはケラケラ笑った。
 だけど高橋くんは難しい顔をしていた。米原くんはそんな高橋くんを心配そうに見ている。
「......なあ、聡樹。それはどうしても行かなきゃ駄目なのか? 先輩の分まで勝つって言ったのはおまえじゃねえか」
「別に遊びに行くわけじゃねえよ。親にもゴリ武にも相談してあるから心配すんな」
「一年の指導どうすんだよ」
「おまえらなら問題ねえだろ」
「あのなあ......!」
「高橋、いったん落ち着け」
 米原くんは声を荒げそうになった高橋くんを制し、加久田くんに落ち着いた声で尋ねた。
「加久田、どうして旅に出ようだなんて思ったんだ」
「どうしてって......」
 その問いに加久田くんは頭を掻きながら、言葉を探すように押し黙った。視線を左右になに往復かさせた後、ポツリと口を開く。
「......環境を変えたかった、からだな」
「ふーん」
 米原くんの言葉には静かで、あくまでも平静だった。
 教室が静まり返り、高橋くんも口を閉じて加久田くんたちの会話を見守る。
「それでおまえは強くなれるのか? 移動に時間を当てる分練習時間は減るんだぞ」
「それも、ちゃんと考えた上で決めてる」
「おまえがいなくなったら部にどういう影響があるかも考えてるのか? 一年の手本になる奴が一人減るんだぞ」
「それはまあ、分かってるよ。でも」
「でも?」
「それでも、だ」
 まっすぐに米原くんを見据えて断言した。申し訳なさそうに笑いながら、それでも声色に迷いは見受けられない。
 短い沈黙の後、米原くんは一つ溜め息を吐いた。
 そしてポケットから財布を取り出した。紙幣を数枚抜き、加久田くんに手渡す。
「ん、土産代。ゆかりせんべい買って来てくれ。お釣りは旅費にでも使え」
「おい巧(たくみ)!」
 高橋くんが詰め寄るけど、米原くんは諦めたように首を振った
「どうせこいつはなにを言っても聞かない」
「けどよ」
「加久田はバカだけど考えなしじゃない」
 米原くんの言葉に、高橋くんはそれ以上の言及をしなかった。そして彼も財布を取り出してお金を加久田くんに押し付けた。
「土産代。部員分買ってこいバカ」
「高橋......」
「時間を無駄にしたらぶっ殺すからな」
 そういうと高橋くんはそっぽを向いた。
 加久田くんは渡されたお土産代を大事にしまって言った。
「千円で二十人の土産って駄菓子になるぞ」
「最低でも手羽先な」
「無茶言えバカ!」
「加久田ー、ういろうー。これお金―」
「水田ぁ! あっち行けえ!」
「あっ、じゃあ俺も」
「私も」
「加久田よろしくー」
「お前ら自分で注文しろ!」
 クラスメイト達にお金を押し付けられながら、加久田くんは笑っていた。


 加久田聡樹くん。
 空手部のエースで、明るく気さくなのでクラスの人気者。ちょっと言葉遣いが荒いのにいじられキャラ。
 会話をしたことはあまりないけど、それだけで彼がいい人だというのは私にもわかった。
 加久田くんの自転車旅の噂は広まり、たくさんの人が加久田くんを応援していた。先輩から激励されたり、後輩から応援されたり。
 そのたびに加久田くんは嬉しそうにお礼を言っていた。
 皆に期待されて、それを苦にもせず見る人に期待させるような笑顔を返していた。キラキラと眩しい、いかにも青春といったシーンだった。
 出発するのは終業式の翌日、早朝に東京駅を発って神奈川県の大磯から東海道に入る。後は顧問の武内先生から紹介された道場を訪れながら、ゴールの名古屋を目指す。名古屋からは新幹線で帰ってくるらしい。
 聞き耳を立てて得られた情報はそれくらいだった。どうして行くのかという質問には、空手の鍛錬のためとしか答えられなかった。
 七月三十一日、終業式の日、式典が午前中に終わったのをいいことに私は学校の図書館で夏休みの宿題に少し手を付け、夏休みの間に読む本を見繕った。
 時間をかけてゆっくりと本棚を見て回った。少しでも気になった本があれば手に取ってみる。何度も何度も本棚を周回し、夏休みの間の膨大な時間をかけるのに相応しいと思える本を探した。仲のいい司書の先生にもオススメの本を聞き、人気の本を物色する。
 閉館時間ギリギリまで悩み、後ろ髪を引かれながらもこれだと思えるような本を限度冊数まで借りる。
 宇宙の始まりについて書かれた本。お気に入りのミステリ作家の新刊。シェイクスピアの詩集。怪談。有名なデザイナーの自伝。ハプスブルク家の歴史の本。ボルネオ島の動物たち。手塚治虫のマンガ。続きが気になっていたファンタジー小説。寺山修司のエッセイ。
 有り余った私の夏休みを豊かにしてくれるに違いない作品たちをリュックサックに丁寧に入れ、私は図書館を出た。
 夕日で西の空は真っ赤になり、なぜか胸が締め付けられる。こういう感覚をノスタルジーと言うのだろうか。
 なにかが終わり、そして始まる気がする。物語が始まるのに相応しいような夕日だ。優れた作家たちが描く夕日を思い出し、心地よい陶酔が胸に満ちた。
 そう感じるのは、きっと明日から夏休みだから浮かれているのだろう。
 さてなにから読もうかと胸を躍らせながら、下駄箱にさしかかった時、ふと清涼剤の香りがした。
 見ると細身の男子が立っていて、
「お、吉澤か」
 噂の人、加久田くんがいた。薄っすらと額に汗を浮かせ、下履きを手にしている。
 加久田くんはニッコリとして話しかけてきた。
「よう。こんな遅くまでどうしたんだよ。ベンキョー?」
「う、うん。それと図書館で夏休みの本を」
「すっげ。さすが学年読書王」
 読書王とは、我が校で各学年に一人、一年間で一番多く図書館の本を読んだ人に贈られる賞の事だ。私は一年生の時に二百冊近く読み、年度末の学年集会で表彰された。
「加久田くんは? 明日の朝出発するんでしょ?」
「あれ、なんで知ってんの?」
「それは」
 一瞬言葉に詰まるが、ただ事実をそのまま言えばいいことにすぐに気づく。
「噂になってるよ。いろんな人が話してるから」
「ふーん......」
 そう言うと加久田くんは以外なものを見たように顎をさすった。その視線に少し居心地が悪くなる。
「なに?」
「あ、悪い。吉澤ってこういうことに興味ないと思っててさ。俗っつーの?」
 そう言われた瞬間、かっと頬が熱くなるのを感じた。違うと主張したかったが、熱くなった頭ではなにがどう違うのかを整理できなかった。
 顔が赤くなっているのに気づかれなかったのは夕日のおかげだろうか。加久田くんは言葉を続けた。
「部で練習してたんだよ。『しばらくサボりやがるバカに気合を入れてやれ』っつってめっちゃ組手してさ。いつの時代だよって話だよな」
「な、なんというか、体育会系だね」
「バカなんだよ。俺もだけどな」
 憎まれ口を叩きながらも、どこか親しみを感じさせる口調でケラケラと笑う。
 きっと分かっているのだ。加久田くんも空手部の人達も、言葉にしない、する必要のない温かい思いを。
 何度か物語の中で目にしたようなそれは、現実に目の前にあると酷く眩しく見えた。
 きっと、皆がそう感じているのだろう。
 十七歳の少年のひと夏の挑戦。それを明るく見送る仲間たち。
 ぞんざいな言い方をすれば、いかにもな青春ものだ。
 加久田くんは主人公で、これからたくさんの苦難と挫折を経験するがそれら全てを乗り越え、最後には成長を遂げて帰ってくる。そんなストーリーを幻視させるには十分な人柄だ。
 そんな美しい物語が目の前で演じられ、しかもちょっと関わることができる。興奮するのも無理からぬことだろう。
 そこまで考え、自分のひねくれ具合に冷笑を覚える。
 応援の気持ちより先に斜に構えた分析もどきをしているのだから嫌な人間だ。盛り上がる生徒たちを馬鹿にする資格などない。自分とは無縁の輝きを見せられて嫉妬でもしているに違いない。
 小賢しく見下すよりも素直に応援する方がずっと上等だと思い直し、私は笑顔を作った。
「がんばってね。応援してるよ」
「ありがとよ。クラスにも土産物買ってくるから期待してくれよ。あ、みんなには内緒な」
 私のとってつけたようなエールにも加久田くんは笑顔を返してくれた。それが少し良心に痛む。
 加久田くんはスニーカーの靴紐を結んで帰ろうとしていた。それなのに、私はオチがついたはずの会話を接いでしまった。
「それにしても、一人で自転車旅なんてドラマみたい。すごく、楽しそうだね」
 言ってから、言わなくてもいい事だと気づいた。
 空気を読む、というか会話の流れを掴むことすら苦手だった。なにも考えずに喋るとひたすら私のペースを相手に強要してしまう。これもその類のミスだ。
 脳内で一人反省会が始まろうとしたその時、加久田くんは立ち上がって、ポツリと言った。
「そんな良いもんでもねえけどな」
「へ?」
「や、なんでもねー。じゃあな」
 駆けていく加久田くんを私は呆然と見送る。
 ポツリと呟いた加久田くんの表情は、
 ──そんな良いもんでもないけどな──
 遠くを見据えているような、不安が滲み出ているような表情だった。
 茜色に霞む表情を何度も反芻する。
「あ──」
 私の中で、加久田くんの噂の表面が剥がれていく。青春だとか冒険だとか、薄っぺらい妄想の下に、なにか根本的なものがあるような。
 私は、ほとんど衝動のままに駆け出した。
 加久田くんはまさに校門を潜ろうとしていたところだった。
 慣れない大声で呼び止める。
「か、加久田くん加久田くん! 待って!」
「え、うおおお? ど、どした?」
 自分でもどうしてそうしたかわからない。
「吉澤、なんか用か?」
「あの、その、お願いが、あって」
 私はリュックサックにぶら下げていた、キーホルダーのぬいぐるみをむしった。
 なぜそんなことを言ったのか、
「これを、これも旅に連れていってくれないかな?」
 ───強いていうなら、物語が始まりそうな夕焼けのせいだった。


 八月一日。
 意識がふっと覚醒した時、時刻は午前九時だった。
 目覚まし時計は夏季休暇を謳歌し、だんまりを決め込んでいる。
 枕元に置いてあるはずの眼鏡を探し、それがスマホと共にコンセント近くに放り投げられていたことを思い出す。
 それらを拾い、まずスマホに届いている通知を確認した。
 これは一般的に見れば普通の行為かもしれないが、私にとっては珍しい行動であった。
 私はスマホ世代にも関わらずラインやツイッターといったSNSに疎かった。まず連絡を取り合うような友達が少ないし、その少ない友達もSNSを活用しているような人種ではなかった。類は友を呼ぶということだ。
 来る通知と言えば、活用している通販サイトからのものくらいだ。急いで確認しなければいけないものはほとんど受け取ったことがない。
 ならばなぜ私が滅多にしないことをしたのか。
 スマホには二通のメッセージが届いていた。一つは写真で、加久田くんがライオンのぬいぐるみと一緒に写っている。
 もう一つは文章。
Souki『これから出発。 相棒のコウキくんとがんばるぞ』
 早朝だというのに人でごった返しになっている東京駅を背景に笑っている。
「あああああああ~~」
 私は悶えを押しつぶすようにベッドに顔を埋めた。

 私の突飛な依頼は、最初は断られた。
 お守りの類は一々受け取っているとキリがないから全て断っていると加久田くんは言った。そう言えば誰それが旅のお守りを渡したという噂を何度か聞いたことがあったが、どうもデマだったらしい。
 だから、と申し訳なさそうにする加久田くんに私は食い下がった。これはお守りじゃない。だから受け取って欲しい、と。
 我ながら訳がわからないと思う。お守りでないならそれはただのお荷物でしかない。あるだけ邪魔だ。
 少なくとも善意や思いやりから発露した提案ではなかった。もっと利己的で自分本位なお願いだ。断られて当然だというのに、なぜかしつこく迫ってしまった。
 加久田くんはジッと私を観察した後、私の手からぬいぐるみをとり、名前はあるのかと尋ねてきた。
 受け取ってもらえたことも予想外だというのに、さらに予想外の質問を重ねられた結果私は混乱し、咄嗟に弟の名前を口にした。
 加久田くんはあの人に期待を抱かせる笑顔で、ぬいぐるみを持っていってくれると約束してくれた。
 この事は誰にも言わないこと、定期的に旅の様子を連絡すると決めて今度こそ別れた。
 手を振る加久田くんを私は呆然と見送った。
 うわの空で帰宅し、自室に入った途端私はベッドに飛び込んだ。そのままロックバンドよろしく何度も枕に頭突きをした。自分のとんでもない行動を振り返り、湧き上がる衝動を散らそうと必死だったのだ。
 別段仲良くもないクラスメイトに、図々しく変な頼み事をしてしまった。
 後悔と恥ずかしさと自己批判が胸中でミキサーにかけられてできた破壊衝動を何度も何度も枕にぶつける。
 私の立てる騒音に文句を言いに来た弟は、ゴミを見るような目で私を見た。実姉が汗だくになって奇声を上げながらヘッドバンキングをする様子を見ればそうなるだろう。私なら家族会議を開く。
 食事中も入浴中も思い出しては悶絶した。家族はそんな私の様子に小声で相談していた。
 気を紛らわそうと本を開いても、視線は文字列の上を滑るばかりで頭になにも入ってこない。初見の感動を無為に消費するくらいならいっそ寝てしまおうともしたが、眠気はちっともやってこなかった。不要な時はうっとうしいくらいに襲ってくるのに、本当に必要な時には影も見せないのだから役に立たない存在だ。
 時計の針が九時半を指す頃、スマホから軽快な通知音が響いた。
 見ると、一通の連絡が入っていた。差出人はSoukiとあり、一瞬悩んだあと件の彼だと気づき急いでパスコードを入力した。
 送られてきた写真には、丈夫そうな黒いバックパックとそれにぶら下がるライオンのぬいぐるみ。
Souki『付けるのはこんな所でよかったかな。大事なものなら別の場所にするけど』
と、メッセージが続いた。
 状況を飲み込んだのが一分後。既読をつけたから返信しないといけないと思い立ったのが三分後。悩んだ挙句簡素なメッセージを送ったのが十分後だった。
 内容は、
吉澤まゆか『大丈夫。邪魔だったら捨てていいから』
というものだった。支離滅裂を通り越して失礼な文面だったと今は思う。捨てていいものを渡すとはゴミを押し付けたのと同じだからだ。
 残念なことにそれに気づいたのは送信ボタンを押した後のことだった。すぐに既読がつき、返信が返ってきた。
Souki『捨てねーよ笑 ちゃんと名古屋まで連れていくから。おやすみ』
 加久田くんを怒らせていないことに安堵したのもつかの間、放課後のあのやり取りが私の白昼夢でないことが証明され、私は再び枕に頭突きを喰らわせた。

 遅めの朝食はトーストとサラダだった。
 チョコソースをたっぷりと塗ったそれを齧りながら、頭の中で今朝来たメッセージに対するメッセージを考える。
 既読をつけたのはもう三十分も前、今さら焦っても仕方がない。どうせならじっくりと考えて、昨日のようなアレな返信をしないようにしよう。
 諸々の朝の準備を終え、冷房の効いた自室のベッドに寝転がる。まだ文面は完成していなかった。
 とりあえずアウトプットするためにはまずインプットしようと、積まれている本に手を取る。
 昨日図書館で借りたファンタジー小説。無実の罪で故郷を追われた主人公が、子供の頃物語で聞いた理想郷を目指すという内容だった。
 シリーズの三冊目であり、主人公はいよいよ理想郷への道しるべを手に入れるのだが、それは故郷に残した家族との絆を代償にするものだった。
 豊かな自然の描写と細緻な心理の動きに呑まれ、私はあたかもその場面に立ち会っているような気分になった。実際には冷房の効いた部屋でごろ寝しているだけだというのに。
 主人公の葛藤は凄まじいものだった。濡れ衣を悲しく思えど、それまで主人公は故郷を愛していたし、旅に出てからも度々故郷の大切な人々を思い出して心の支えとし、あまつさえ戻ることを夢見ることさえあったのだ。
 選択を迫られる主人公は苦悩し、案内人が激しい口調で決断を迫る場面で話は終わった。
 私は水面に浮かび上がったように大きく深呼吸をし、目を閉じて物語の続きを空想した。故郷を選んだ場合、理想郷を選んだ場合、家族の気持ち、案内人の意図、まだ隠された謎。
 頭の中でまだ見ぬ続きを組み立てている途中、ふっと加久田くんに送るメッセージを思いついた。
 何度か検証と推敲を行い、これという文面を組み上げて入力する。送信ボタンを押そうとして一瞬指が止まったが、加久田くんの人柄を思い出すと迷いはなくなった。
吉澤まゆか『旅の始まりですね。こちらはとても暑いですがそちらはどうですか? 熱中症には気をつけてください』
 文面を見直していると、私が今日夏の暑さというものに一度も触れていないことを思い出した。
 これは検証せねばなるまいとベランダの扉を開けた瞬間熱気が流れてきた。
 日差しは痛いほど強く、色も影も鮮明にしているため視界がやたらとビビットだ。近くに公園があるため、蝉の大合唱が響いている。
 どうやら文面は嘘にならないようだったが、加久田くんがこの気温の中自転車をこいでいると想像すると、嘘であった方が良かった気がしてくる。
「夏なんだなあ」
 夏休みを読書に費やしていた私は、数年ぶりに夏を認識したような気がした。
 こりゃたまらんと部屋に避難すると加久田くんからメッセージが来ていた。
Souki『めっちゃ硬い笑笑』
Souki『心配ご無用。水分も塩分もバッチリ補給してる』
Souki『今は大磯で早めの昼飯。午後からは海沿いを走るからちょっと楽になりそう』
 ざる蕎麦の隣にチョコンと座らされたぬいぐるみのコウキの姿に、私は少し顔がほころんだ。
 そういえば、ちょうど今日の昼食は私が当番だった。
 メニューは、悩むことなく決まった。


 加久田くんのメッセージは主に朝昼晩の一日三回ほど届いた。その時間がちょうど移動も練習もない時間なので返信しやすいらしい。
 私もそれと同じタイミングで返事を送った。いや、厳密に言うと、朝起きて昨日の晩に届いていたメッセージの返信をするといったように、一つずれたタイミングで返信していた。
 内容も今日読んだ本や旅路で撮影した風景など、会話というよりも文通と言った方がいいようなペースだった。
 リアルタイムでやり取りすることはたまにしかなかったが、正直に言うとその方が気楽だった。
 加久田くんと会話をするのが嫌というわけではなかったが、どうも照れてしまうのだ。それに、フリック入力が不慣れで返信に時間がかかるからやり取りの濃度も薄い。
 だから、文通じみたスローペースな今の状態は私に合っていた。
 加久田くんは日々新鮮な話を聞かせてくれて、私は小説でも読んでいるような心地だった。
 ──立ち寄ったカレー屋さんで大食いチャレンジをして、食べきったは良いが腹を壊してしまいしばらく休憩させてもらったとか。
 ──旅費のために一日だけ農家でバイトをしたところ、旅の話が農場の人達にウケて昼食を食べさせてもらった上にお土産までもらったとか。
 ──同じように自転車旅をしている人に出会い、しばらく一緒に走って道中にある美味しいお店を教えてもらったりしたとか。
 それだけでなく、この旅の本筋である〝武者修行〟の話も聞かせてくれた。
 武道には詳しくないが、加久田くんは高校生としてはそれなりの選手らしく尋ねた道場でも筋がいいと褒められているそうだ。誇らしいのか、そのことを話す時は少し、いやかなり浮かれているように見えた。
 順風満帆というか、日程のズレを除けばトラブルらしいトラブルもなく道中は進んでいるらしかった。
 しかし、愉快な日報を聞くたびに私の胸中にはある疑問が沈殿していった。
 私がコウキを押し付けたあの日の、加久田くんの寂しげな表情。珍しく後ろ向きな発言。
 あれの真意を、私は未だに量りかねていた。もしかして私の気のせいだったのだろうかと思うが、それはあまり考えないようにした。
 もしそうなら、私はなぜ加久田くんにあんなお願いをしたのか、解明の糸口が本当に消えてしまう。
 
 
 八月十日
 私は雨月物語をモチーフにした短編集を読み終えた所だった。窓の外は真っ暗な夜であり、雨が降っていたため湿気が酷かった。
 加久田くんのメッセージを確認してから寝ようかとスマホを手に取ったその時、ちょうど加久田くんからメッセージが届いた。
 いつもなら私の返信を読んでから送ってくれるのに珍しいなと思って見ると、私は思わず目を疑った。
Souki『今話せるか?』
 話そうと誘われたのはこれが初めてだった。今まではスマホに向かっている時間が偶然重なった時くらいしか会話をしなかったのに、どういうつもりなのだろうか。
 明日は、と言うか明日も私に急ぎの用事はない。自堕落に読書をして過ごすつもりだったから、夜更かしをすることに問題はなかった。夜中に男子とやり取りをするのはいささか気恥ずかしい物があったが、どうもそういう雰囲気の話でもなさそうだ。
 もし大事な話なら無視する訳にもいかない。
 勢いに任せ、私は了承した。
吉澤まゆか『大丈夫。どうしたの』
Souki『すまん。誰かと話がしたくて』
Souki『迷惑じゃなかったら付き合ってくれないか』
 やっぱり、なにかがあったのだろうか。
 苦労話やトラブルのエピソードは聞いたことがあるけど、加久田くんがこうして縋るような弱音を吐くのは初めてだ。彼はいつも明るく、どんなことも笑い話にしていた。
 それが、教室で見えていた加久田くんの像だった。
 突き放したらどうなるだろうと、考えが頭を過ぎった。
 もし迷惑だと言っても加久田くんは気分を害したりはしないはずだ。そして明日からも今まで通りに連絡を送ってくれるだろう。そうして私は面白おかしい『加久田日報』を読み続けることができる。
 時間は午後十一時半近く。メッセージを送るにはやや非常識な時間だ。
 顔の広い彼のことだ、私が断ったって別の誰かに相談できるだろう。私一人にそっぽを向かれた所でなにの問題もないはずだ。
 だって、私と加久田くんは、ただのクラスメイトなんだから。
 既読を付けてからもう何分も経った。彼からはなにも言ってこない。私の返事を待っているのか、それとも諦めて一人寝てしまったのだろうか。
 相談をされても良いアドバイスはできないだろうしやはり断ってしまおうとした時、凄まじい雷鳴が鳴り響いた。
 驚いて頭が真っ白になり、近所に雷が落ちたと気づいたのはその後だった。
 いつの間にか雨は激しい豪雨に変わり、雨粒がうるさいくらいに窓を叩いている。カーテンを開けると、雨粒の跳ね返りで地面に薄い膜ができているように見えた。 
 台風が近づいているから、今日は全国的に雨のはずだ。
 ふと、あの日下駄箱で見た、あの不安そうな顔を思い出した。
 加久田くんは、今あんな表情をしているのだろうか。
 誰も知らない土地で、雷雨の音を聞きながら。
「......」
 こういう時、大好きな本の登場人物たちはどうするかな。受け入れたり、突き放したりするけど、私はどういう行動に感動するかな。
 パシリと頬を叩いて、私は通話ボタンをプッシュした。
 コール音が鳴る度に、耳の奥でドクンドクンと脈打つ音が聞こえる。
『......もしもし』
「あっ、もしもし。加久田くん? その今、お電話しても大丈夫かな......?」
『大丈夫だけど......。はは、正直ダメかと思ってた』
 加久田くんの声にはいつも教室に響いていたような溌剌さはなかった。
「ごめんね。直接声を聞いた方がうまく話せるかなと思ったんだけど、ちょっと怖気づいちゃって」
『そっか。ありがとな、嬉しいよ』
「ど、どういたしまして。それで、なにかあったの......?」
『あー、うん......』
 一呼吸をおいて加久田くんは語り始めた。私は自然と姿勢を正す。
『今日着いた道場でさ、ボロ負けしたんだ。ボッコボコ。同じ高校生にさ』
「負けたの?」
『ああ。しかもただ負けただけじゃなくて、手も足も出なかった。実力も努力も才能も、なにもかも劣ってた』
「それは......」
 なにと声をかければいいか分からなかった。
 空元気だとすぐにわかる声で、加久田くんは続ける。
『なにやってんだろーなーって気分だよ。俺が自転車でキコキコしてる間にもよ、皆必死で、地味な筋トレとか基本の稽古とか、確実に力になることをしてんのに、俺ときたらまあなんかやってる感出しといてこの様だ。バカみてーっつーか、バカだよ』
 ケラケラと笑う加久田くんに、私はなにも言えなかった。
 そんなことないよとか、次は大丈夫だよとか、鉄板の励ましを口にしたって、言うのが私だったらそれはなにの説得力も持たない。
 彼が今いるのは勝敗で全てが決まる、残酷なほど厳密な世界だ。十七年間本とばかり向き合っていた私がなにを言ったってそれは死んだ言葉だ。心を奮い立たせるような力はない。
『いや悪い、コメントし辛いよな。言葉が欲しかったわけじゃねえんだ。本当に誰かに話を聞いてもらいたかっただけで』
 私が黙っていると、加久田くんは話を切り上げ始めた。
 引き止めたいと思ったけど、そのための言葉すら思い浮かばない。
『......ごめんな、愚痴っちゃって。吉澤が聞いてくれたからスッキリしたわ。明日っからは通常運転の、元気百倍加久田マンに戻るからよ、このことは──』
「きょ、今日って! 夜更かしできる?」
 私は、強引に加久田くんの言葉を遮った。
 このまま彼が引き下がるのを、黙って見送るのが我慢できなかった。
『......お、おう。大丈夫だけど......。どした?』
「その、スマホ、容量に余裕はあるかな」
『あるけど......』
「読んでほしい本があるの」
『本?』
 怪訝そうな加久田くんに、私は言った。
「電子書籍化されてるから、買って読んでみて。短くて、読みやすい、本当に面白い本だから。お金は加久田くんが帰ってきた時に払うから」
『いやでも本って』
「お願い」
 遠く離れた所にいる加久田くんに向かって頭を下げる。今これが、私にできる精一杯の誠実だった。
『......なんて本?』
「あ、ありがとう......!」
 私はその本のタイトルを伝えた。幸いにもちょうどセールをやっていたらしく、安く買えたらしい。
 ダウンロードは一瞬で終わったが、私には長く感じられた。
『じゃあ、これから読むな。読み終わったら言うわ』
「うん。あの、私、今日はずっと起きてるからね」
『おう』
 そう言って、通話を切った。気が抜けて、私はどっとベッドに寝転がった。
 深呼吸を繰り返し、今夜起こったことを噛み砕く。
 反省すべきことはいくつもあったけど、私はそれを後悔はしていなかった。できる限りのことだったと思うし、後はそれが独りよがりの偽善でないことを祈るだけだ。
 ベッドから起き上がり、私ほ本棚から一冊の本を手に取った。
 それは加久田くんに紹介したのと同じ本、お気に入りの本の中の一冊だった。
 タイトルは、『栄光キック』。サッカーを題材とした、ベタなスポーツものだ。
 主人公はプロサッカーの世界に入るが、そこに待っていたのは全国から集められた選りすぐりの天才たち。主人公は中々活躍できずに苦悩する。
 周囲からも期待されなくなるが、それでも主人公は諦めなかった。たった一人応援してくれた恩師の言葉を胸に、ついに初試合に臨む、といった所だ。
 中学時代に出会い、それから何度も読み返した。
 人々は主人公に何度も諦めるように勧めた。それはとても常識的で主人公を思ってすらいて、それは主人公にもよく分かっていた。
 それでも、それでも諦めたくないと自分を信じて前進し続ける主人公の姿に、胸が熱くなった
 読んだ後は爽快感で胸が満ちて、なにかができるような気がした。
 結局私はそれでなにかをがんばったということは無いけど、今の加久田くんに必要なメッセージを届けてくれるんじゃないだろうか。
 もちろん、現実と物語は違う。仮に物語が現実だったとしても、加久田くんと主人公は違う人間だ。完全に参考になるわけじゃない。
 落ち込んでいる人にこれを読めと言って本を押し付けるのは、いっそ不誠実だろう。
 それでも、私の薄っぺらな、誰にでも言えそうな励ましよりはずっとマシだろう。
 なにより、私は物語に人を動かす力があると信じている。
 手に取った本を開き、もう一度最初から読み返した。
 一文字一文字を丁寧に拾って物語を追う。加久田くんを立ち上がらせるに相応しいかを確かめる。
 最後の一行を読み終え、再び最初の一行に戻る。さっきとは違う場面に注目し、さっきとは違う登場人物に感情移入して、読み、読み、読み込む。
 たった今加久田くんが追っている物語を、一緒に追いかける。なにもできない私の、せめてもの応援だ。
 スマホが鳴ったのは午前一時半。私が丁度四周目を終えた所だった。
 コール音が鳴り終わらないうちに手に取る。
「もしもし?」
『......読んだよ』
 加久田くんの声は静かに落ち着いていた。もう空元気や落ち込みは感じられない。
 一瞬ほっとするが、すぐに別の事が気になり始めた。
 本は、『栄光キック』は、加久田くんになにかいいものをもたらしただろうか。
 私は、ちゃんと加久田くんを励ませただろうか。
「どう、だった?」
『............おもしろかった。吉澤がなにを伝えたかったのか、わかった気がする』
 その言葉に胸が、得も言われぬ思いでいっぱいになる。
『俺は物語の主人公じゃねえし、いっつもこんな風にはできねえけどさ。憧れるし、『やってみよう』って思えた』
「うん......うん......」
『なにより、吉澤が俺を励まそうとしてるのがよくわかった。それだけで元気が出るよ。ありがとう』
「ううん......本当によかった。ごめんね、いきなり変なこと言って」
 よかった。ちゃんと伝わってた。伝えられた。
 うっかりすると涙が零れそうになるのを、それは違うだろうと必死で堪える。
『まあ二百二十七ページは長かったけどな! 夜中に文庫本一冊読み切ったのは初めてだわ』
「あれ、そんなに長かった? 文庫本一冊分しかないけど」
『どんだけ読んでんだよ。スナック感覚かよ』
 ケラケラと笑う加久田くんに、私もつられて笑ってしまった。
 いつもの笑い声が戻って、私は心底安心する。誇らしさと言うのだろうか、無闇に動きたくなり左手をぶんぶんと振った。
『......明後日、いやもう明日か、明日の朝に出発するんだ』
「そうなんだ」
『もう一回試合のチャンスがある。そこで絶対に勝って勝利報告するからな。待っててくれよ』
 加久田くんの声は力強く、私に期待を抱かせるには十分だった。
 今度は淀みなく、背中を押す言葉が出た。
「うん。待ってるね。そうしたら、お祝いするね」
『離れてるのに? どうやって?』
「えーと、ケーキ買ってお仏壇に供えます」
『ババアか!』
「うふふふふふふふふふふ」
『......なんか吉澤の爆笑って初めて聞いた気がするな』
「ふふふ。恥ずかしい」
『まあありがとうな。もう寝るわ』
「うん。おやすみ」
 大きく伸びをすると、急に眠気が襲ってきた。普段ならとっくに夢の中にいる時間だ。
 いつの間にか雨は止み、平和な静けさが耳に届いた。


 あの夜以来、加久田くんとのやり取りは目に見えて多くなった。
 私が話すのに緊張しなくなったのが大きかった。余裕ができて会話が楽しいと思えるようになった。
 加久田くんもだいぶ砕けてきたように感じる。今まではこっちに必要以上に踏み込んでこないフレンドリーさといった感じだったが、くだらない冗談やくすぐったくなるようなイジりを言ってくるようになった。
 昼食の時や夜の寝るに、いろんな事を話した。
 ──図書館に行ったら中学時代の友達と偶然会っったが、とてもオシャレになっていて驚いたとか。
 ──お世話になっている道場の門下生の方たちに連れられて心霊スポットに行ったら、ヤンキーが『よからぬ』ことをしようとしていたので追い払ったとか。
 ──弟のオープンスクールに付き添って私立高校を見学に行ったら、女子の比率が高くて弟が挙動不審になっていたとか。
 ──たまたま立ち寄った祭りで腕相撲大会が開かれていたので飛び入り参加した所、準優勝して地ビールを二ダース獲得したとか。(飲めないし持ち運べないので、家とこれまでお世話になった道場に配送してもらったらしい)
 他にも宿泊先や美味しいレストランを探すのを手伝ったり、本から得たちょっと便利な豆知識を教えたり。
 本当にいろんなことを、お互いの時間の許す限り話した。
 加久田くんが目にし、感じ、味わったものが私の目の前にあるように感じ、まるで私も旅をしているようだった。


Souki『それで問い詰めたら、スイカ食ってる写真送って煽ってきやがった。ほんとあいつら腹たつわ』
吉澤まゆか『そっか。関係ないけど今日友達とアイスクリームを食べに行ったよ。すごく美味しかった』
Souki『なんで今言った???』
 してやったりという喜びでくっくっくと喉が鳴った。
 最近スマホを見ながらニヤニヤしていて気持ち悪いと弟が言うが無視している。
 八月十八日の午後八時半。いよいよゴールの名古屋も目前だった。
 加久田くんは愛知県岡崎市のホテルに泊まり、節約するため食事はコンビニのお惣菜で済ませたらしい。
Souki『早く家に帰りてー。もう三食既製品は飽きた』
吉澤まゆか『そっか、もうすぐ終わるんだよね』
Souki『やっとこさな。もうここまで来るとワクワク感もなにもねーわ』
 画面をタップする手が止まった。
 あの終業式の日の彼の横顔を思い出す。遠くを見据えているような、滲み出る不安を隠そうとしているような表情。
 ワクワクと言うけれど、本当にそうだったのだろうか。
 この夏を通して加久田くんの人柄はわかったような気がする。自分をバカと言うし言葉もちょっと荒っぽいが、かなり思慮深い人だ。結構色んなことを考えている人だ。
 そんな彼が旅立ったのは、強くなるとかワクワク感だとか、そういうポジティブな理由だけだったのだろうか。
 通話ボタンを押す指は、以前ほどためらわなくなっていた。
『もしもし?』
「ごめんね。電話しても大丈夫かな」
『大丈夫だけど、どしたい』
「うーん、その、ちょっと大事な話と言うか、どうしても聞きたいことがあるから、声を聞きたいなって......」
『..................おう』
 少し加久田くんの反応が遅れている。電波が悪いのだろうか。それとも、やっぱり聞かれたくないことなのだろうか。
「あっ、迷惑だったら全然いいから! ほんと、あんまり聞かれたくないことかもしれないし!」
『えー? いやー? なにのことかわかんねーなー?』
 少し上ずった声だ。私をからかって遊んでいるのだろうか。機嫌は悪くなさそうだが。
「私ずっと気になってたんだけど、加久田くん、余りそういうのって人に話さなかったみたいだったから、聞けなくって」
「ふーん? ふーん?」
「でも、もうすぐ旅も終わりでしょ? この夏で、その、私の勘違いじゃなかったら、ちょっとは、な、仲良く、なれたかな、と思ってると言いますかなんというか......」
『いやー、勘違いじゃないけど? 全っ然間違ってないけど?』
「あ、ありがとう。それでその、ちょっと踏み込んだ話だし、本当に聞かれたくないことかもしれないけど、それでも、許してくれるんならどうしても聞きたいって言うか、それが知りたいからぬいぐるみを渡したみたいなところもあって......」
『へー? へーーー?』
 ドタンバタンと、なにか大きな生き物が暴れているような音がスピーカーから聞こえてきた。
「どうしたの? なにかあった?」
『えっ、いやー別にー? なーんもねーけどー? あーあれ、ムカデ! ムカデが出ただけだから!』
「ホテルって街中にあるんじゃなかったっけ?」
『都会派のムカデなんじゃね?』
「泊まってるの三階って言ってたよね?」
『いやー、最近のムカデって高いとこでも出るんだなー? ビックリだわマジでーー?』
 なにか引っかかるが、加久田くんがそう言うのならそうなのだろう。くだらない嘘を吐く人ではない。
『んっんー。まあ、その? 吉澤がなにを言いたいのかは全然まったくこれっぽっちもわかんねーけど?』
「うん」
『そのなに? 俺も吉澤がいい奴なのは知ってるし? 悪意ある言葉を投げかける奴じゃねーって信じてるし? 例えなにを言われても構わないっつーか受け入れ準備はばっちりっつーか?』
「加久田くん......!」
 今まで、そんな事を言われたことがあっただろうか。
 多少のリップサービスは含まれているだろうけど、本当に嬉しい。加久田くんはやっぱりいい人だ。
 だから、つい憎まれ口を叩きたくなった。
「本当にいいの? 私、猫被ってるだけで本当は性格悪いよ?」
『むっはっは任せんしゃいむっはっはっはっは』
「そっか。ありがとう」
『いやなにむっはっはっはっはっはっはっはっはっは』
 朗らかに笑う加久田くんは、やっぱり器の大きい人なんだろう。
 ここまでお膳立てされて逃げることはできない。私も、勇気を出そう。
「それじゃあ言うけど、もし本当にいやだったら言ってね? 私は加久田くんを傷つけたくないから」
『うんうんオッケー? 人が付き合ってく上で大事だよなーそういうコミュニケーション?』
 息を吸って一拍置き、私は聞いた。
「加久田くんは、どうして旅に出ようって思ったの?」
『...............................................................うん?』
 言葉が返って来なくなり、一気に血の気が引いた。
「ご、ごめん! やっぱり聞いちゃいけないことだった? 私、そんなに傷つけるとは思ってなくて......!」
『だいじょうぶだいじょうぶきずついてないきずついてない。きずついてないけど......』
「けど......?」
『ききたかったことって、それ......?』
「う、うん。だけど、空手部の友達にもあんまり話さなかったみたいだったから、聞かれたくないのかなって」
『......そうか..................そうか..............................』
 それきり加久田くんは黙ってしまい、気まずい沈黙に私はなにも言えなくなってしまった。
 どうしよう。やっぱり聞くべきじゃなかった。こんなに加久田くんを悲しませるとは想像もしてなかった。
 まずは謝ろうと口を開こうとしたその時、なにかを叩く音が聞こえた。
「どうしたの」
『あー、誰か来たみたいだ。ちょっと待っててくれ』
「うん、行ってらっしゃい」
 遠く加久田くんと誰かが話す声が聞こえ、一分もしないうちに帰って来た。
「誰だった?」
『......隣の部屋のおっさんだった......。俺の部屋がうるさいって言いに来てた......』
「ええっ。だ、大丈夫だったの?」
『うん......事情を話したらすぐに許してくれた......』
「そっか。優しい人だったんだね」
『うん......優しい目を向けられた......』
 大事にならなくてよかった。しかし、後悔は消えない。
 この旅は加久田くんにとって、私が想像していたよりもずっと特別な意味を持つのだろう。ちょっと仲良くなったぐらいで土足で踏み込むのは、やってはいけないことだった。
「その、ごめんね。もう聞かないから」
『......あー待て待て。マジで気にしてねえ』
 いつもの調子で加久田くんは言った。
「ほんと? 気を使ってない?」
『嫌なことは嫌だって言うぞ俺は。聞かれたことが予想外でビックリしただけだ』
「なにを想像してたの」
『さーーーーなんだろうなーーーーーー』
 投げやりな調子で答えるところを見ると、それこそ聞かれたくないかもしれない。怒ってはいないようだから、これ以上突くのはやめにした方がよさそうだ。
「よかった。ごめんね。嫌われたかと思って怖くなっちゃった」
『....................................』
「どうしたの?」
『いや、新たな一面見たりって感じだな』
「どういうこと?」
『なんでもねえ。それで、旅をした理由か』
 加久田声を潜め、その様子に私は自然と緊張した。
 あの日垣間見た、ゴツゴツとした根本的なものが、そこにあった。
『まあ、隠そうとしてたってのは間違いでもない。嘘をついてたわけじゃねえけど、本当に大事なことは親にしか言ってねえ』
「それは、どうして言わなかったの?」
『あんまり理解されねえと思ってたんだよ。自分でも変なことだと思うし。なにより、言ったら周りのやつらを傷つけるかもしれなかった』
 輝かしくて硬い殻がボロボロと剥がれ落ち、隠匿されていた真実が姿を曝そうとしている。
「それは、私に言ってもいいの」
『誰にも言わないって約束してくれるならな。言ったらさすがに傷ついて怒る』
 私は初めて加久田くんの言葉に圧力を感じた。これから離されること、そして約束の重さをしっかりと感じ、気合を入れて背負う。
「約束する。絶対に、なにがあっても誰にも言わない」
『............あの環境から飛び出したかったんだよ』
 環境、と発音する時、わずかに声が揺れた。
『自慢じゃないけど、俺は今まで周囲に恵まれてきた。親は俺を伸び伸びと育ててくれたし、空手はいい先生に教わった。気心の知れた友達も多い。貧乏もしてないし学ぶ機会はいくらでもある。俺は今幸せだけど、それはだいたい周りの人や環境のおかげだ』
「うん」
 それは、加久田くんと知り合う前から知っていたような気がする。
 彼は誰かと一緒にいる時はいつも笑っていた。目の前にいる人が大好きで、幸せなんだなということが一目でわかった。
 好きだからその人になにかをしてあげあいと思い、そしてその人も加久田くんのことが好きになり、彼になにかをしてあげたいと思うようになる。
 加久田くんの周りは、そういう単純で嘘みたいなシステムが本当に機能しているのだ。まあ、目立つ人だから、加久田くんが苦手な人はそもそも近づこうとしないというのもあるだろうが。
『俺は今間違いなく幸せだ。だけど、じゃあ、周りの環境が変わったら? 今まで頼って生きてきたものがひっくり返ったら、俺はどうなるんだ?』
「ひっくり、返る......」
『そうだ』
 硬質な声、有無を言わせない頑なさ。
 私は今、加久田くんの根源を耳にしていた。
『例えば、両親が交通事故で死んだら? 俺は一人じゃ飯を食ってけねえし。間違いなく高校はやめることになる。なにより、俺はわりと精神的に親に依存してるんだよ。正気を保てるかもわかんねえ』
「それは、みんなそうだよ」
『そうだな。誰だって親が死ねばショックだし困るな。他にも考えられるぞ。災害が起こって部の連中が死んだら? 俺が病気になって一生後遺症と戦っていかなくちゃなったら? 現状なんていくらでも変わるし、明日の無事なんて誰も保障してくれない』
「ネガティブだね」
『ビビりなんだよ』
 加久田くんの言ってることは、極端から極端に走ったような本当の極論だ。誰だってそんなことはわかってるけど、起きる可能性はほとんどゼロだし、そんなことを気にしていたら身動きが取れなくなる。
 だけど、加久田くんはそれが無視できないのだ。過剰な明日への警戒心と怯え。それが加久田くんの至上命題。
『昔さ、俺の父方の伯母さんが急死したことがあるんだよ。原因は不明。前日までピンピンしてたのにあっさりと死んだ。親父も悲しみより驚きの方が先に来てたよ』
「それは、ご愁傷様です。それが加久田くんの今の考えを作ったの?」
『それだけじゃないさ。一年もしないうちに、ばあちゃんも後を追うように死んだ。それが小三の頃』
 幼い頃に、立て続けに親族の死を体験したのか。
 それが幼い少年の心にどれほどの痛みを刻みつけたのだろう。
『伯母さん家族とばあちゃんは同居しててさ、本当に仲が良かったんだ。二人共美人で元気だったんだぜ? それが伯母さんが死んでからばあちゃんは嘆き暮らしてさ、葬式の時に顔を見たら、骨と皮みたいになってた』
「............」
『親父も滅茶苦茶落ち込んでてさ、伯母さん家族は悲しいことを思い出すからって家を売って引っ越した。伯母さんが一人死んで、なにもかもが変わっちまった』
「......辛かったね。話してて辛くない?」
『へへ。大丈夫だよ。なに年も前のことだし、気持ちの整理はついてる。俺も親父も伯母さん家族も元気にしてる』
「よかった。安心した」
 幼い頃の傷は、いつまで経っても痛みが残る。加久田くんのトラウマをほじくり返すくらいならと思ったが、心配はいらないらしい。
『でも、確かに当時はショックだったよ。ばあちゃんは俺を可愛がってくれたし、従兄弟とは仲よかったから引っ越して寂しかった。それで、こんなことを想像しちまった』
「なに?」
『明日親が死んだらどうなるだろう』
「────」
 言葉が出なかった。
 傷も塞がらないうちに、そんな事を考えるのがどれほど恐ろしいだろう。どれほど痛いだろう。
 そして、加久田くんはその苦しみを目の前で、親しい人に襲い掛かる形で見たのだ。
『怖かったよ。夜も眠れなかった。眠れないから余計なことを考えて、もっと悪い想像もした。否定してほしくって、新聞を読んだりもした。当時は新聞が俺の中で一番頭いいものだったからな』
「でも、新聞だったら」
『まあ、悲しいニュースとかあるよな。交通事故だの病気だの殺人事件だの。それ以外にも不景気、政治不信、文化の喪失、モラルハザード。全部が全部理解できたわけじゃないけど、マジで不吉なものに見えたよ』
 新聞とは、現状の問題を明るみに曝して、『じゃあどうするか』を大勢の人で考えるための、非常に重要なメディアだ。しかしそれを知らない子供からすれば、新聞とは世の中がとても暗いものであると教える不吉な読み物に見えるだろう。
 まして、心に傷を負った子供が読めば──
『人間っていうか、『今』って滅茶苦茶脆いもんだなーってのが染み付いちまった。そんな事はないとか、そうならないための対策はいくらでもできるってのは、頭ではわかるんだよ。でも』
「心が追いつかない」
『そういうこと』
 トラウマとは理屈で解決するような苦しみではないのだろう。専門のカウンセリングや親しい人達の愛情が長い時間をかけて癒していくべきものだ。加久田くんのそれはまだ治っている途中なのか、それとも表面化せずに放っておかれたのかもしれない。
 加久田くんを動かす思想はわかった。それでも、疑問は残る。
「それが旅にどう繋がるの? 空手の訓練となにか関係があるの?」
『まあ、な』
 空手が目的というか、空手が手段だな、と言う。
「空手がうまくなりたかったんじゃないの?」
『それもある。けど一番じゃねえ。俺がこの旅に、というか空手に期待してんのは、精神の修練だ』
「精神の、修練......」
 それは、武道と呼ばれるものに必ず付きまとう命題だ。
 体を鍛え、技を磨き、心を育てる。戦うためではなく、己を成長させるために武道をするのだ、と。
「『健全な精神は健全な肉体に宿る』だっけ」
『その言葉は知らんけど、まあそんなもんだ。俺が空手を始めたのはそれが理由だ』
 時刻が気にならなくなってどれほど経っただろう。
 私は今『加久田聡樹』という少年の人生を読んでいるのだ。明るく楽しく、それだけじゃない物語を。
 自分の深い部分を話すのは勇気がいることだ。それができる加久田くんを心から尊敬する。
 私に今できるのは、最後まで話を聞いて受け入れることだけだろう。必ずやり遂げると決意し、再び耳を傾けた。
『ばあちゃんが死んでからしばらく経った頃なんだけどな、親父が見てたNHKの番組をぼーっと眺めてた時、ある言葉が印象に残ったんだよ』
「どんな言葉?」
『『武道家とは、なに時如なになる時になにが起ころうと正しく対処出来る者、また対処する心構えが出来ている者のことを指す』って』
「心構え?」
『ああ。戦う技術とか勝つ手段は重要じゃない。それは銃とか武器とか、方法はいくらでもあって、本当に大事なのは折れず歪まず負けない、どんな理不尽とも戦える自由な心だって。なんか有名らしい武道家のおっさんが語ってたんだよ』
 繋がった、と思った。
『ガキだったから、いや今もだけど単純なもんで、武道が俺の探してた答えなんだって思った。親に頼み込んで近所の空手教室に通わせてもらったよ。ふさぎ込んでた息子が久しぶりにやる気を出したってのも大きいと思うけどよ』
「それで空手を始めたんだ」
『ラッキーなことに良い教室でさ、性にも合ってたからすぐにハマって今に至るって感じだな』
「......空手はどうだった? 目的は達成できたの?」
『途中って感じだな。まだまだ未熟だけど、確かに心は鍛えられたと思う。大抵のことにはビビらなくなったしな』
「空手部は? あそこじゃ加久田くんが望むような成長はできなかったの?」
『........................』
 口を噤み沈黙が返ってくる。追い立ててしまったのだろうか。
『......あそこはいい部だよ。本当に楽しい。あそこでの思い出は俺の一生の財産だ。だけど』
「だけど?」
『理不尽がないんだ。あそこには』
 罪を告解するような、それでいて逃げも隠れもしないような、堂々とした声だった。
『空手ってさ、怪我をさせないようにではあるけど人を殴ったり蹴ったりするよな。日常生活だったら絶対に許されないことが、空手の世界では当たり前にあるんだよ』
「それが加久田くんの言う理不尽?」
『ああ。それに、武道ってのは相手の不意を突くのがすげえ重要なんだ。攻撃を意識させず、油断して構えていない所に叩き込む。当然相手もそうしてくるから、攻撃をくらう時はいつだって予想外だ』
 意識の外から飛んでくる、暴力。
 受ける側からすればなんの脈絡もなく痛みを与えられるのだから、それはどれほど恐ろしいことだろう。
「じゃあ、試合の相手は理不尽の塊になるね」
『そうだ。俺はそういう理不尽に立ち向かうことを学びたいと思ってる』
 加久田くんが、どうして誰にも旅の本当の目的を話さなかったのか。それは──
「加久田くんは、部の人達が怖くないんだね」
『......言っとくけど、あいつらが弱いとか、俺が並外れて強いとか、そういう話じゃねーぞ。ただずっと一緒に練習してるから手の内はだいぶ知ってるし、なにより』
「わかってるよ。居心地がよくて、離れられなくなりそうなのが怖いんだよね」
『......他人の口から聞くと、つくづく病んだ考えかただよな』
「そんなことないよ、って言っても気休めにしかならないかな」
 空手部は、加久田くんにとって安息の地なのだ。
 大好きな仲間と分かり合い、高め合い、助け合う。どんな苦難も困難も、一緒にいるなら怖くない大切な居場所。
 でもそれは永遠に続くものじゃなかった。
『どんだけ居心地がよくても、高校の部活だ。いつかは出ていかなくちゃならない。そんで、たどり着いた場所は辛くきつい所かもしれない。その時に逃げるにしろ戦うにしろ、過ぎ去った思い出にすがりつくしかできない人間にはなりたくないんだよ』
 ジレンマだ。加久田くんは今いる場所が心地よければ心地いいほど、あるかどうかもわからない未来の理不尽が怖くなるのだ。そしてそのために逃げたくなってしまう。
 不毛で、どうやったら抜け出せるのかわからない負のサイクルだ。
「なんというか、正しく自縄自縛だね」
『難しい言葉を使うなよ』
 力なく笑う加久田くんは、今どんな表情をしているのだろう。目の前にいないことが、酷くもどかしく感じる。
「旅は、心地よくない環境を探すためだったんだね」
『ああ。俺のことが好きでも嫌いでもない、勝ち負けだけで評価される環境。誰も俺の努力を評価しない環境。そういうのに、一人で立ち向かえるようになりたかったんだ。......予想以上にきつかったけどな』
 あの夜のことを思い出す。初めて聞いた加久田くんの弱音。思い出せば、彼はすぐに話を切り上げようとしていた。
「......もしかして、邪魔、しちゃったかな」
 加久田くんの目的が一人で戦える強さを手に入れることなら、私がよかれと思って手伝ったことは全部修行の目的に対立している。
『いやいやいや、んなこたねえよ。予想よりずっときつくてマジで心折れかけてたんだって。あれがなきゃどっかで逃げ帰ってたかもしれねえ』
「それなら、まあ、いいんだけど......」
『おかげ様でいい経験になったよ』
 そう言った加久田くんの声は、少なくとも暗い感情があるようには聞こえない。
 三週間弱の旅で、加久田くんはなにを思って進んできたのだろう。スマホの画面からは見えないところで、なにを見、なにを聞き、なにを感じ取り、なにを学んだのだろう。
「......旅で、なにか得るものはあった?」
『そうだなー。思い出とかは置いとくにしても、空手の腕は上がった気がするな。やっぱり環境の違いはいい刺激になったわ。色んな人と戦えて、前より見えるようになった気がする』
「それはよかったけど、その、心の方は?」
 加久田くんの旅の結果を知りたかった。心の強さを求めた彼が、もし少しでもそのヒントを得ることができたなら、それがどんなものなのか。
 そこに、少しでも私の影響があればいいと思うのは、醜い傲慢だろう。
『......ああ、あったぜ。デカいのが一個』
 得意気な口調に、心臓が跳ね上がる。
「そ、それはどんな?」
『まあ待て。まだ旅は終わってない』
 わざとらしく厳かな様子で宣言すると、悪戯を企んでいるかのように笑った。
『全部終わったら教える。それまで楽しみにしといてくれよ』
「......わかった。絶対に教えてね?」
『もちろん』
 逸る心を鎮めるように深呼吸して、私はベッドに寝転ぶ。
 本を読んだ後、それにのめり込んだほど気が抜けるが、今聞いた話はこれまでに読んだどんな本よりも疲れた。
 生きた物語、現在進行形で綴られているお話。深く誰かと関わろうとしなかった私には、それがとても重たく感じられた。
『あー語った語った。初めて人に言ったわこんなの』
「聞いといてなんだけど、よく話したね」
『あ? まあ吉澤だしな』
 ドキリと心臓が高鳴った。
 それはいったいどういう意味なのだろう。私のいったいどこが、心の奥底を見せてもいいと思わせたのか。
 私には一つも心あたりがなかった。
「あの、それって」
『そういや聞きたかったんだけどさ、なんで吉澤は俺にコウキくんを渡したわけ?』
「へ?」
 予想外の質問に間抜けな声がでた。そういえば説明したことは一度もなかったと思い出す。
『俺も話したんだし、吉澤の話も聞きてえな』
「えーっとそれは......」
『話し辛いか?』
「いや、言える。言えるんだけど......」
 実の所、まだ私の中でも整理がついていなかった。
 簡単に言ってしまえば興味本位だが、それだけじゃないような気もしている。しかし細かに説明しようとすると、論がもつれて訳がわからなくなる。
 なんと言えばいいのだろう。どう言えば伝えられるだろう。悩んで沈黙する私に、加久田くんは呼びかけた。
『吉澤?』
「あ、ごめん。言葉を選んでた」
『んー、なんか事情ありげか?』
「いやその、なんて言ったらいいかわかんないけど」
 思い出す。あの夕焼けの、始まりの予感。噂の奥に潜む、噂からかけ離れた加久田くんの表情。
 そう、私はあの時にこう思ったのだ。
「......誰も知らない加久田くんのことが知りたかった、かな」
『......それどういういみ』
 呆然とした加久田くんの声に私は我に返り、急激に恥ずかしくなる。余りにも意味不明だ。
「あのっ、私のも全部終わったら話す。お互いに答え合わせしよう」
『いやちょっとまて』
「ごめん。お願い......」
 羞恥心で情けない声が出る。それが余計に恥ずかしくて声が小さくなる。
 少しの沈黙の後、通話口から溜息が聞こえてきた。
『帰ったら直接会おう。そん時には聞かせてもらうからな』
「う、うん」
『......明日は早いからもう寝るわ。聞いてくれてありがとうな』
「ううん。こっちこそ、話してくれてありがとう」
『おやすみ。また明日な』
 ぶつっと音がしたのを確認し、私はスマホを充電器にさした。
 胸に手を当て、心臓の鼓動を確認する。速く大きく動くそれは、今夜はよく眠れないことを示していた。


 八月十九日。目が覚めたのは午前十時頃だった。
 半分起きているような浅い眠りを繰り返し、完全に眠りに落ちたのはいつだったかわからない。
 エアコンの稼働音がやたらと耳についた。窓の外にはどんよりとした曇り空が広がっていて、爽やかな朝とは言い難い。
 早朝に出発すると言っていたから、加久田くんは今ごろ名古屋についている頃だろうか。
 寝ぼけまなこをこすってリビングに降りると、弟がソファーに座ってテレビを見ていた。
「おはよう。朝ごはんは食べた?」
「食べた。ご飯はもう冷めたからチンして」
「おっけ」
 お味噌汁をコンロにかけ、ご飯を電子レンジに入れて待っている間にメッセージを確認しようとスマホを開く。
「あれ?」
 見ると、クラスのグループが異様に活発だった。夏休みの間ずっと静まり返っていたのに、なにかあったのだろうか。
 気になり開くと、私は眉をしかめた。
島田大和『加久田ヤバくね』
まるい丸井『誰か連絡とれた?』
高橋『まだつながらん』
Kana☆Mizuta『混乱してるだろうし、今連絡するのは迷惑じゃない?』
 加久田の文字を見て、顔から血の気が引いた。
「幸喜! 今朝なにかあった?」
「え、どしたの姉ちゃん?」
「いいから!」
「なにかって。あー、愛知で地震が起きたらしいけど。ほら」
 弟がテレビを指さし、私は駆け寄った。
 画面にはヘリからの中継で立ち並ぶビルと立ち往生した電車が映っていた。
 ニュースキャスターの声が流れる。
『本日午前九時二十三分、愛知県北部でマグニチュード5.0の地震が発生しました。現在死傷者は報告されておらず、また今回の地震で津波の被害の心配はありません。住民の皆さんは余震に注意して、落ち着いて避難してください。繰り返します。本日......』
 脳が理解を拒み、声が耳から抜けていく。手足に力が入らずスマホを落としてしまう。
 内容を理解したのは画面が中継先からスタジオに切り替わった時だった。コメンテーターが真面目な顔でなにかを言っているのをきっかけに我に返り、私はスマホを拾って部屋に駆け上がった。
 弟が呼びかけてきたが、構ってはいられなかった。
 何度かそうしてきたように通話ボタンを押す。朝にしたことはないけど、今まで加久田くんはすぐに出てくれていた。
 電子音が鳴る。何度も何度も鳴り、そして切れた。
 画面には応答なしの文字。私はそれが悪い夢のように感じ、もう一度かけ直す。
 電子音。途絶。応答なし。電子音。途絶。応答なし。
 お願い、出て、出て、出て、出て、出て、出て──
「出てよ......!」
 繰り返す指が重たくなってきたころ、もう一度と通話ボタンを押そうとしたまさにその時、電話がかかってきた。
 私はそれが誰かも確認せずにとった。
「加久田くん?」
『......ごめん、水田』
「み、水田さん?」
 電話の相手は水田さんだった。以外な相手に私は動揺する。水田さんと私はそれほど話す仲でもなく、こうして電話するのは初めてだからだ。
「ど、どうしたの?」
『吉澤さん見た? 地震のニュース』
「う、うん」
 やっぱり、水田さんも加久田くんのことが心配なのだろうか。二人でよく喋っているところはよく見かけた。
 だけど、それでどうして私にかけるのだろう。
『実はさー、ごめんけど私見ちゃったんだよねー。吉澤さんが、加久田にぬいぐるみ渡してんの。終業式の日にさー』
「えっ......」
 あの事を、見てる人がいたのか。
『それでさー、なんか加久田がどうなってるとか、知らないかなーって』
「......ごめん。私さっき起きたばかりで」
『そっかー。ごめんねー』
 耳の早い水田さんにも情報が入ってないんなら、やっぱり誰も加久田くんと連絡が取れていないのだろう。
 昨日話した、加久田くんの思想を思い出す。
 理不尽に対する怯えが強まった出来事。今なら、その時の気持ちがわかるかもしれない。
 最悪の想像ばかりが脳裏を駆け巡り、叫びだしたくなる。なにもできないのに焦りばかりが募り、目の前がくらく──
『大丈夫―?』
「えっ......?」
 通話口から優しい声が聞こえ、まだ水田さんと通話中だったことを思い出す。
「だ、大丈夫って」
『なんかー、吉澤さんおちこんでるみたいだしー、もしかしたら加久田くんのこと心配してるのかなーって』
「あ......」
 気にして、くれているのだろうか。ただのクラスメイトでしかない私を。
『まあ私の勘違いならいいんだけどさー。もし辛かったら、お話しだけでもしよっかなーって』
「ひぐっ......うええっ......」
 心のたがが外れ、感情が嗚咽になって溢れ出て来る。
「ど、どうしよう、水田さん。加久田くんが、加久田くんが......!」
『......うんうん、心配だよね』
「も、もし、なにかあっ、たらと。ぐすっ。あったらって思ったら、怖くてっ」
『大丈夫だよ。加久田めっちゃビビりだもん。危険予知して、今ごろ安全なとこに逃げてるよ』
「そう、かな」
『うん、大丈夫大丈夫。加久田や吉澤さんを泣かすほど、世の中はイジワルじゃないよ』
「ふぐっ、うえぇぇぇぇぇん......」
『よしよし。大丈夫大丈夫......』
 水田さんの声が暖かすぎて、私は涙を止められなかった。


 私は部屋で寝転がっていた。
 あれから水田さん根気強く付き合ってくれた。
 グズグズ泣く私の支離滅裂な話を聞いて優しい言葉で励ましてくれたり、心が明るくなるような話を聞かせてくれた。
 そのおかげで私が落ち着きを取り戻し、お礼を言えたのは三十分後だった。お互いなにか情報が入ったら連絡することを約束し、通話を終えた。
 なぜ水田さんが人気者なのか、少しわかった気がした。
 電話を切った後弟が部屋に来て、今日の家事は全部代わりにすると宣言して出ていった。
 そうして中ぶらりんになった私は、こうして加久田くんの連絡を待っていた。
 それは、とても長い時間だった。
 お気に入りの本を読んでも集中できず、音楽を聞いても心が晴れない。いっそ寝てしまおうかともしたが、頭が冴えて眠れない。
 地震情報を眺めて被害状況を知った。まだ死者は出ていないらしいが、けが人はやはり何人かいるらしい。名古屋市は震源に近いためそれなりの被害が出ているとか。
 ずっと加久田くんのことを考えていた。
 まず浮かんだのは明るい声と楽しそうな笑顔だった。
 旅の間に何度も見せてくれた、明るい表情。目の前にあるものをなんでも楽しんでいた、瑞々しい心。
 次に浮かんだのは昨日の言葉。
 暗く、恐怖にとらわれた心。狂おしいほど彼を蝕んだ原始体験。
 今思えば、昨日だって私はなにもわかっていなかったのだ。彼がどれだけ気を付けて喋っていたことか。
 親しい人になにかがあったらと想像することが、こんなにも辛いとは知らなかった。
 今ならもっと理解できる。もっと寄り添える。
 だから、加久田くんに会いたかった。その声が聞きたかった。元気な笑顔を見せてほしかった。
 彼がいないことがこんなにも切ない。
 夏休み前に戻っただけなのに、それが耐え難い。
 私は泥のように無気力に寝転がり、時間が私と無関係に過ぎていくのを黙って見送った。
 気づけば時刻は午後二時。空腹を感じて昼食も取っていないことに気づく。
 あまり家族に心配をかけてもいけないし、降りて食べようとしたその時だった。
 スマホが鳴った。
 画面には、『Souki』の表示。
 震える右手でとり、右耳にあてる。
「──もしもし」
『吉澤? すまん、連絡遅れた!』
 加久田くんだ。
 何度も聞いた、今一番聞きたかった声だ。
「よかった。無事、だったんだ......」
『ああ、今昨日のホテルにいる。怪我もなにもしてんねえよ』
「よかった......よかった......!」
 堪えきれずにボロボロと涙が零れる。さっきの涙とは違う、温かい涙だ。
『避難したり親や学校に連絡してたら、こんなに遅くなっちまった。本当にすまん』
「ぐすっ、ううん仕方ないよ。それより無事でほんとうによかった。水田さんにも連絡してあげて、心配してたから」
『マジか。いろんな奴に心配かけたんだな俺』
「部の方は大丈夫なの?」
『ああ。さっきゴリ武に連絡したから、そっから話しが回ると思う』
「そっか......」
 安心したのか、私はその場にへたり込んだ。
『大丈夫か?』
「あ、大丈夫。力が抜けただけ」
『そうか』
「でも......」
『でも?』
「今回も、私役に立てなかったなあって」
『............』
 言ってからしまったと気づく。
 今疲れているのは加久田くんなのに、私が愚痴ってどうするというのだ。
「ううんごめん、なんでもない。それよりどうして大丈夫だったの? 名古屋はそれなりに被害が大きかったらしいのに」
『......いいこと、教えてやろうか』
 穏やかなで、慈しむような声だった。
 聞いたことのない声色に心臓が跳ねる。
「な、なに?」
『俺さ、今日名古屋行ってねえんだよ』
「へ?」
 間抜けな声が出て慌てて口を噤む。
 確か、予定では今日の早朝にホテルを出て、九時頃にはもう名古屋あたりについているという話だったが、行ってないとはどういうことだろう。
『まあ怒るかもしらんけど、実はコウキくんをホテルの部屋に忘れてたんだよ』
「コウキを?」
『おう。そんで急いでとんぼ返り。ホテルに着いた頃に地震が起きて、そっから待機させてもらってるところ』
「......わざわざ取りに帰ってくれたの?」
『ちゃんと名古屋まで連れてくって約束しただろ』
「そんな」
『吉澤はさ、わりと強引な癖に自己評価低いよな。押したいんだか引きたいんだかわかんねえとこがある』
「う......」
 そう言われると、心当たりは多かった。コウキを押し付けた時や『栄光キック』を紹介した時や、旅の動機を聞いた時もそうだ。
「その節は失礼を......」
『でもそのままでいいよ』
 強い断言が私の言葉を遮る。
『強引だけどさ、それでいいよ。そのままでいい。俺はそれに助けられてるよ。ボコられた夜も、本音を話した夜も、吉澤がいてくれて助かってるよ。ずっと、旅の間ずっとそうだったんだぜ。今日だって、吉澤がコウキくんを渡してくれたから、助かってるよ』
「あ──」
『ありがとうな。吉澤は役立たずなんかじゃねえ』
 まあ置き忘れたんだけどな、と照れ臭そう笑う加久田くんの声が、どこか遠く聞こえる。
 心臓の音がうるさい。胸が熱くて熱くて、どうにかなってしまいそうだ。
 この気持ちは、なんだろう。今すぐ言葉にしたいのに、どう言えばいいのかわからない。今まで読んだどの本にも、いや、きっと世界中のどの本にも書いてない。
『それでさ、さっきホテルの人が地震の恐れがなくなるまで泊めてくれるっていうんだよ。コウキも大事に取っておいてくれたし、マジで神対応だよ。お礼にクラスで宣伝しようかなって──』
「加久田くん」
『おん?』
「今日はもう疲れたろうし、ゆっくり休もう。私朝ごはんももお昼ご飯も食べてないんだ」
『なんだよ、そんなに俺が心配だった?』
「うん。ずっと加久田くんのことを考えてた」
『............はい』
「加久田くんと話したことを思い出してた。話したいことを考えてた。声が聞きたかった。だから、連絡してくれてすごく嬉しかった」
『........................あの、うん、そうか』
 借りて来た猫みたいに大人しくなった加久田くんの声に、思わず微笑みが零れる。
「帰ってきたら、会おう。答え合わせしよう。聞きたいことも話したいことも、いっぱいあるの」
『お、おう。待ってろ』
「楽しみにしてるね。それじゃあ、また......」
 想像してたよりずっと艶っぽい声が出て自分でも驚く。加久田くんにはどう聞こえただろうか。声の意味を考えてくれるだろうか。
 気合を入れて立ち上がる。まずはご飯を食べて、家族に心配をかけたことを謝ろう。
 ドアノブに手をかけた時、姿見に映る私の姿を見て驚いた。
 私は、こんな顔ができたのか。


 地震騒動が終わるまで延期はされたが、加久田くんの自転車旅は無事目的地の名古屋まで辿り着いた。
 中止して帰ってくるようにご両親に説得されたらしいが、なんとか押し切ったらしい。
 名古屋での滞在は半日で空手の稽古はあまりできなかったらしいが、加久田くん曰く今回の旅での成長を感じられたらしい。そう話す加久田くんはとても嬉しそうでこっちまで嬉しくなった。
 そして新幹線に乗って懐かしの我が家に帰宅。そして約束通りに会う。
 とできればよかったのだが、そうもいかなかった。スケジュールの大幅な遅れで、彼の予定が詰まっていたのだ。具体的に言うと、宿題だった。
 ヒーヒーと言いながらも、部活参加がかかっていため必死で進めたらしい。休憩時間に少しお話したが、挫折しかけた夜よりも消耗していた。
 そして、八月二十八日。
 私は卸したての洋服に袖を通し、姿見の前でもう一度確認する。
 この夏偶然再会した、オシャレな友達に見立ててもらったものだ。行きつけの美容院にも連れていってもらった。
 浮かれているのが一目でわかるが、実際そうなんだから仕方ない。
 今日は、待ちに待った約束の日だった。
 なにを話そう? なにを聞こう?
 考えはまとまらなかったが、それでいいような気がした。なんとなくだけど、加久田くんもそうだったらいいなと思う。
「ねーちゃん、漫画貸して」
「あ、幸喜。これどう?」
 部屋に入ってきた弟に聞いてみる。修学旅行のお土産Tシャツを普段着にしてるような奴のセンスには期待してないけど、まあ褒められればテンションくらいは上がるだろう。
「どうって......実姉の浮かれてる姿って胃にくるものがある」
「ふ・く!」
「姉ちゃんが選んだものではないとわかる程度にはイイ感じ」
「漫画持って出てけ」
「......まあ、楽しんでくれば?」
「ありがとう」
 可愛くない弟は素直じゃない評価とわかりにくいエールを残していった。
「さて......」
 約束まではまだまだ時間があるけど、居ても立っても居られないのでもう出かけてしまおう。
 待ち合わせはとあるカフェ。アイスクリームが美味しかったところだ。
 待ち合わせ場所を決める時に、私が主張したのだ。
 私がどんな夏を送ったか、少しでも知ってほしかったから。
 玄関を開けると、強い日差しが肌を刺した。このぶんだと残暑は長引きそうだ。
 彼は、こんな太陽の下で旅したのか。そう思うと少し気分がよくなる。
 軽い足取りで私は歩き出した。
 私と加久田くんの答えを話しに行く。
 きっと夏の香りのする彼に会いに行く。


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