蒼海の貴女へ

葦夜るま




 この世界には英傑という存在がいる。世界のあちこちに魑魅魍魎が湧き出るようになったのはもうずっと前のこと。それらは人間を狩り、思うがままに貪った。だが、人間はやられてばかりでは終わらなかった。
魔物に相対出来るだけの身体能力を備えた人間がやがて生まれるようになった。その人間たちは英傑と呼ばれ、彼らが「そう」であると分かった瞬間から持て囃され、英傑として育てられる。
 ――なんてのがまあ、この舞台の前提。最も、今回のお話は、余りそれに関係はないが。光のある所に闇はある。「英傑」として生まれた人間がそれを良しとせず、その力を別のことに利用したらどうなってしまうのか、なんて。誰も知り得ないことだ。


 うっかりしていた、としか言いようがない。
 近頃、街に人に化けた魔物が入り込んで人を攫うのだという噂がまことしやかに囁かれていた。その魔物達は捕まえた人間を、より高位の魔物に売るのだとも。君は危なっかしいところがあるから気をつけろと言われたばかりだったというのに、気が付けば自分は魔物のひしめく廃墟で、牢に入れられていた。連日開催されるオークションでは幸いなことに買い手がつかなかったが、それも時間の問題だろう。それにあまり焦りを感じていないのは、必ず自分を捜し出してくれるだろうひとを知っているからだろうか。

 そんな時同じ独房に入ってきた彼女は、ここ数日己が見た女性たちとは異なっているように思えた。魔物にかどわかされたと分かれば、大抵の人間は暴れたり、泣き喚いたりする。
けれど彼女は凪いだ海のように静かだった。そんな彼女に、少しだけ興味が湧いた。
「ねえ」
「なに?」
 話しかければ、人形のような服を着ているのに躊躇いなく汚れた床に座った彼女がこちらに振り向いた。蒼の瞳は海の色、幼さの残る輪郭と薄紅の唇。綺麗な子だ、と見惚れる。
「魔物に捕まって、怖くないの?」
 それに、彼女は首を傾げた。
「怖くはないわ」
 そしてこちらを見詰め、「貴女は?」と問い返してくる。
「わたし?」
「ええ、ここに来るまで沢山の人が捕まっているのを見たけれど、貴女が一番平気そうに見えるから」
「私のこと、絶対見つけてくれる人がいるって知ってるからかな」
 そう答えれば、ぜったい、と少女は呟いた。
「うん、だから平気なのかもしれない」
 ふふ、と少し笑って、沈黙が落ちる。暗い牢獄は窓から射し込む月光だけが頼りで、それに照らされた少女の横顔が酷く美しい。ああ、今自由なら――
「アイネ」
 物思いに耽りかけた時、少女が口を開いた。
「......貴女の、名前?」
「うん」
「アイネ、貴女のことが知りたい......話してくれる?」
「何故?」
「少し寂しそうに見えるから」
 そうかしら、と呟いた彼女に頷く。基本的に人に興味のない自分にしては珍しく、この白皙の少女のことが知りたかった。少し考えた様子の彼女はやがて薄い唇を開く。
「いいよ」
 貴女は、誰にも言わなさそうだから。
 膝を抱え、頭をそこに乗せた少女が薄く笑う。蝶の飾りのついたヘッドドレスから垂れ下がる蒼のリボンが、彼女の輪郭を彩っていた。その年の少女が抱えるには重い哀愁が、やはり彼女からは漂っている。

「ありがとう、ああ、そうだ。私の名前はね――」
 名を告げる。遠く喚き声や啜り声の響く中、彼女とのひと時は始まった。

 小さな頃から世界は単純だった。何十桁の番号だろうと、新しく発見された理論だろうと、簡単に覚え、理解することが出来た。他の人間が何故分からないのかというのが不思議だった。
 アイネは裕福な貴族の家に生まれた。暮らし向きは豊かだったが、両親は、出来過ぎる娘を愛さなかった。使用人でさえ彼女の事を忌み嫌った。いつも、メイドが使う雑巾よりも汚い布を纏い、ただ両親の逆鱗に触れぬよう日々を過ごす。偶に呼び出され、何やら他の人間にとって複雑であるらしい計算をさせられる以外に、アイネが人と接することはなく。その計算で両親が私腹を肥やしているのは知っていたがどうでも良かった。自分は他人に都合良く使われる存在なのだと悟っていた。悲しくも辛くもなく、その感情の本当さえ知らぬ日々。
 アイネの知る全てが、ガラスが割れるように壊れたのは、アイネが恐らく十二の時だった。

『こ、殺さないでくれ!なんでもする!』
『そうよ、お金なら払うわ、だから』
 その時の、両親の顔は今でも記憶している。己に向ける嫌悪と蔑みの目など何処にもなく、自分より上の人間に向ける媚と恐怖の表情。突然家に入ってきて、使用人をすべて殺し、両親に銃を向けたその男は、アイネに向けて笑って見せた。きっちりと整えられた淡い色の髪、宝石のような翠の瞳。
『随分とみすぼらしいけれど、君が娘だね?』
『うん』
 そうかい、と言って、男は無造作に引き金を引いた。続けて二発、それだけで、聞くに堪えない声は永遠に沈黙する。
『怖い?』
 男は尋ねた。アイネがそれに、首を横に振ると面白そうな顔をする。
『なら、清々した?』
 アイネは再び首を横に振る。両親に対して恐怖だとか憎悪だとか、そう言った一定以上の感情は持ち合わせていなかったから。
そして言った。
『ねえ、私を連れて行って』
 アイネは誰かに利用される物だ。そう育てられてきた。所有主が死んで、誰にも使われることなく消えてゆくのが、少しだけ嫌だった。男はその言葉に、面白そうに口角を吊り上げた。
『私、貴方の役に立つから』
 その男が、己の街に近頃出没している強盗殺人犯だということくらいは知っていたが、そんなことはアイネには関係なかった。ただ、己をもっと使ってくれるかもしれないと、その時彼女は初めて、他人に対して期待めいたものを抱いたのだ。
 結局、邪魔になれば殺せばいいとでも思ったのか、渋っていた彼は頷いた。

『アイネというのか、君。僕はウォルター=アンブリッジ。君が僕を失望させるまで、宜しく』


 ウォルターはアイネに失望することはなかったようで、アイネは殺されることはなかった。少し共に過ごしている内に、ウォルター=アンブリッジという男のことを多少は理解した。といっても、彼はアイネにとって、今までになく難解だったが。彼は酷く頭の切れる男で、人の一番嫌がることをするのが生き甲斐だという。アイネに対しても何を嫌がるのか色々と試していた様で、アイネが素直に嫌ではない旨を返す度「面白くない」とぼやきながら口角を上げる、そんな男だった。
『髪を整えた方が良いな』
『ほら、ドレスだ。きっと君に似合う』
『頭飾りを買ってきたよ。君の瞳と同じ色の蝶だろう?』
 ウォルターは惜しげもなくアイネに金を使った。また、犯罪に加担させることはしても、アイネ自身に手を赤く染めさせることはなかった。最も善心など持たぬ彼にとって、それは気まぐれでしかないことは分かっていたが。そして彼は存分にアイネを使った。アイネが何を命じられても従う度、少しだけ嫌そうな顔をした。彼は人が嫌がることをするのが好きだから、きっとアイネは彼の好きな人間らしくはなくて、それなのにアイネを何年経っても捨てないのは、アイネがそれだけ便利だという証のように思えて、少しだけ嬉しかった。
「アイネ、君に似合うんじゃないか?」
ウォルターの声に、ピアノを撫でていたアイネは振り返る。彼が手にしているのは真っ赤なマフラーだった。こちらに放られたそれを咄嗟に受け止め、アイネは顔を顰める。
「汚れてるから、いらない」
 床に投げ捨てたものの、血の跡が残った。
「赤だから乾けば目立たないと思うんだけどなあ......」
 まあいいか、とすぐに興味をなくしたように目を逸らす男。その視線の先に、折り重なる死体がある。一番若く見える少女が、恐らくこのマフラーの持ち主だったのだろう。うつ伏せで顔は良く見えないが、きっと綺麗な子だ。三人分の死体の下には大きな血だまりがあった。この間食べた二層のパンケーキも、下にシロップが垂れ落ちていたなと思い出す。どうでもいいけれど。
「ねえ、ウォルターはピアノ、弾けるの?」
「ん?勿論、弾いて見せようか」
 きっと、ウォルターは何処かの貴族の出なのだろう。ひととおりでない教養を持つ彼が、「やったことがない」というものをアイネは見たことがなかった。ウォルターと一緒に長椅子に腰かけ、その指先が躍るのを眺める。血の滴る指先が真白な鍵盤をたたく度、赤い跡が残るのが綺麗だった。


「アイネ、金庫の暗号は」
「もう解けてる。一〇八七、そこで一度右上のハンドルを九〇度回して、それから三二七六」
「オーケー」
「それから、多分五分後には自警団が来るわ」
「用は済んだし退散しようか」
 トランクに手際よく金を入れたウォルターが手を差し出してくるのに、椅子から降りる。そのまま彼の腕に魔法みたいに抱え上げられ、窓からあっさりと飛び降りた。ここは三階で、アイネがもし落ちれば瞬く間に潰れて死ぬだろう。初めて会った時から思うが、ウォルターの身体能力は普通の人間とは思えない。まるで、一度だけ見たことのある英傑の様だ。そう言えば、英傑を何故か毛嫌いする彼が怒るのが分かっていたから言わないけれど。
「少し掴まっていなよ」
「ええ」
 彼の首に手を回して、何とはなしに月を見る。遠くで声が聞こえる。罵声や悲鳴、ウォルターと行動するようになってからはよく聞くようになったそれらに、子守唄でも聞くように耳を傾けた。
「おい、人が死んでいるぞ!」
「またあの殺人犯の仕業だ」
 月が大きくて、模様まで良く見える。銀色に光り輝くそれに飲み込まれてしまいそうな気がした。ウォルターに囁く。「ウォルター、今日は綺麗な満月だわ」
「ああ、本当だね」

 夜、悪戯に彼が手を伸ばしてくるのを拒んだことはない。一般的には、おかしい行為なのだと分かっているが、これも自分の利用方法のひとつなのだと思えば何でも良かった。
「僕はね、本当は君なんて大嫌いだよ」
「そう」
 睦言にしては棘ばかり。それだって、いつものこと。何でも出来て、はたから見ればれっきとした紳士でしかない彼が、本当は頑是ない子供のような人なのだと知っていた。彼の中では世界の全部が割り切れてないんだということも分かっているつもりだった。
 些細なことだったのだ。いつもと変わらず身体を重ねて、草臥れてしまってアイネは窓際に身を寄せた。銀色の光が眩いばかりで少し目を細めた。そんなアイネにウォルターが驚いたように瞬いた。
「ウォルター......?どうしたの」
 答えはなかった。こちらに手を伸ばしかけたウォルターは、それを引き、代わりに口を開いた。
「――くだらない」
「......え?」
「下らないといったんだ、ああ、吐き気がする」
 いつも感情の波の激しいウォルターだが、その時は本当にどこかおかしかったように思う。翠の瞳がアイネを心底憎らし気に見上げ、彼は言った。
「君なんて要らないよ」

 ――いらない。その言葉に、自分の根底が揺らいだ気がした。
「......そう」
 やっとのことでそう返す。何故だか息が苦しかった。散々毒を吐いて清々したのか彼はやがて目を閉じる。その顔を暫く眺め、アイネはゆっくりとベッドから降りた。
 彼に貰った服を身に着け、首輪をして、ヘッドドレスを顎の下で結ぶ。必要なものはそれだけだった。ただ、怖くて。アイネは扉を閉じて、あてもなく歩き出した。
 昼でも人気がないだろう裏路地に着いた時だった。少し疲れてしまって、息を切らせて俯くアイネの前に誰かが立ちはだかった。前を向いて、それがフードを被った誰かだと気が付く。さらにそのフードの奥に、人間では有り得ぬような濁った瞳を見た瞬間、酷い衝撃が走ってアイネは意識を失った。











「――それで、気がついたらここにいたの」
 眠れぬ夜の間、途切れ途切れに続けられた話は、そんな言葉で区切られた。
「その人、心配してるわね」
 長い回想を聞いて、自分はぽつり、呟く。アイネはそれにそうかしらと首を傾げた。そうよ、と答える。その首の黒い輪が、素直でないその人を表す何よりの証左だと思った。
「貴女のこと、きっと迎えにきてくれる」
 来ないわよ。感慨もなさげにそう呟く彼女は、やはり哀愁を纏っていた。自分のことを物だと言ったアイネも、人を傷つけることが喜びであるウォルターも、歪んでいる。けれど、そのいびつさに、酷く惹かれてやまなかった。この少女のうつくしさを留めておきたかった。
「おい、出ろ」
 ガン、と五月蠅く檻が叩かれる。それはアイネに向けられたもので、彼女とはもう会えないかもしれないと思うと寂しかった。
 言われた通りに外に出ようとする少女に声をかける。
「アイネ、お願いがあるの」
「え?」
 彼女は振り返った。早くしろ、と魔物が急かすのも聞かない素振りだった。
「あのね、ここから出たら貴女の絵を描いていいかな」
「絵を......?」
「ええ、駄目?」
アイネはふわりと唇を緩ませた。
「いいよ、私も見てみたかったなあ」
じゃあね――浅葱。貴女の大事な人が早く来ることを祈ってる。
 そう言って、今度こそ出てゆく少女の後姿を自分はただ見ていた。


 ガチャリと再び閉まった扉を見届け、浅葱は近くの壁に凭れかかった。恐らく浅葱が出されるのはもう少し後だ。オークションで人種によって順番がついていることはここ数日で何となく察している。
「あの、蝶に似ていたわ......」
 小さく呟いた。彼女のヘッドドレスに思い出すのは、かつて己が出会った青い蝶。そのせいか、会ったことのない、彼女の言う「彼」の夢を見た。
 夢の隅々が薄暗く、淀んでいた。投影機がスクリーンに映し出すのは、カーテンを閉め切った淑女の部屋。それと、そこに訪れる少年。


『母さん、誰より早く走ったよ』
『アンブリッジ家の子なら当り前じゃない』
『母様、学校で一番の成績だった』
『そう、良かったわね』
『......母様、僕には英傑の素質があるって......』
『今忙しいの、後にして頂戴』
 ――明るく自然な笑顔は、次第に失せていった。

 一番よく見たのは、鏡越しの母だった。彼女の顔に乗る白や茶の粉や紅は好きではなかった。鏡の中でさえ、彼女は自分を見なかった。好きでもない人助けをしても、勉強をしてもそれは変わらず。ただ、ある日彼女の部屋を訪れた時母が大切にしていた花瓶を割ってしまった。
 硝子の砕ける音は、母と自分の関係が壊れた音だったのかもしれない。
『何をしているの!!』
 スツールに座っていた母が立ち上がり、自分を睨みつけた。小気味よい破裂音と揺れる脳、直ぐに己が殴られたと気づいた。
『本当に、愚図ね!』
 彼女の翠の瞳には、確かに己が映っていた。母が、自分を見ていた。今まで何をしてもこちらを振り向かなかった母が、自分を見て、激情をこちらに向けている。
 そうか、初めからこうすればよかったんだ。その時不意に気が付いた。英傑の素質なんて糞食らえだ。そんなもの、この人は見向きもしないものなんて捨ててしまえ。
『何を笑ってるのよ!気味の悪い』
 母のこちらを詰る声さえ遠く聞こえるほど、その理解は鮮烈に、ウォルター=アンブリッジの心に刻みついた。
 普通なら、自警団かどこかに伝えるのが適切なのだと思う。けれど、浅葱にそれをする気は毛頭なかった。ただ、彼と彼女の関係性と、彼女の儚さに思いを馳せた。
 アイネがいなくなって暫くして、不意にあたりが騒がしくなった。壁に凭れていた浅葱は、独房の前に誰かが来たのに気づいて顔をあげる。そして、小さく笑った。
「浅葱、大丈夫か」
 ――そういえば、この人も青い目をしていたのだったか。彼女の瞳とはまた違い、男の瞳は陽の光を受けてこそ煌めき輝く。
「うん。ありがとう、ジャン」
 絶対来てくれると思ってた。そう言えば、当たり前だろうと怒った声。近頃心配性に輪をかけた彼のことだ、帰ったらまた口を酸っぱくして叱られるのだろう。
「帰ろう」
 檻を平然と壊して手を伸ばしてきた夫に、浅葱は頷いてその手を取る。
「まだ捕まってる人が......」
「問題ない。他の英傑も来ている」
 その言葉に安心した。それと同時に、彼の暗闇に光る瞳に、彼女の姿が重なった。
「――ねえ、ジャン。帰ったら、描きたい絵があるの」
「え?」
 あの光景が目に焼き付いている。
 暗闇の中、月光だけが彼女を照らしている。膝を抱え、リボンが頬に垂れかかるのも構わずこちらを見て少しだけ笑んだ少女。蝶と同じ色の瞳はまるで。
「――蒼の海のようだったの」



 それより少し前。
 牢を出てからつけられた手枷と足枷は、アイネの細い体には重い。それでも手足を引きずって、何とか歩き続けた。ウォルターに頼ってばかりだったから、少し足が弱っているのかもしれないなんて考えながら、次第に光の射す方へ。
「あそこへ行け」
 アイネを案内した男は、人の形こそ保っているもののどこかおぞましい腐臭がした。その長い長い指に従って進めば、小さな光がどんどん大きくなり、やがて目も眩むほどになった。
「......!」
 そこは、異様な空間だった。
「これは......美味そうな女だ」
「少し小さすぎないか......」
「いや、あれくらいの方が存外......」
 それは虫であり、獣であり、闇でもあった。大きさも形状も違う魔物たちが、壇の下にひしめき合い、さわさわと会話を交わしている。先程の案内手のようにフードを被った人間らしきものもいくらか見当たるが、恐らく人間はいないだろう。
「さてさて、お次は若い女です。柔らかそうな体は少し傷はありますが、食用にも実験用にも問題はありません!それでは三千イェルからどうぞ!」
 ああ、この中のどれかが己を買うのだろう。魔物に売られた人間の末路などたかが知れている。もう、彼に会うこともない。そう考えて目を伏せた。良く分からない心地だった。
「六千イェル」
「一万だ!」
 アイネの価値が決められていく。そのすべてがどうでもよく、目を伏せたその時だった。
「一千万」
 会場が一気にざわめいた。アイネも告げられた額の多さに目を見開く。それだけあれば、アイネのかつていた屋敷を五つは建てられる筈だ。初期値から考えても、この年頃の女の買値としては法外に違いなかった。
「聞いていなかったのか、一千万イェル出すと言っている」
 静まり返った場にものともせず、その男は繰り返した。アイネの横にいた魔物が慌てて「分かりました」と声を上げる。
「一千万、これ以上出す方はおられませんね!」
 どこからも反論は上がらない。少額ずつ吊り上がるのであればまだしも、いきなりその額を告げた男相手に戦う気のあるモノはいないらしく。
「落札です!次の商品が来るまで暫しお待ちください」
 かんかん、と錆びた鐘が耳障りな音で鳴らされた。
「この度はお買い上げありがとうございます」
 牢の近くを再び通ったアイネは、そのオークションの支配者らしき男と共に、アイネを買った男と相対していた。フードを被った相手の表情は読めないが、その手に握られたトランクの中には確かに男の告げただけの金が入っているようだった。
「......こういう催しには初めて参加するんだが、人間の言葉と、人間の金を使うんだね」
 男が言うのに支配人がはい、と笑う。
「私もですが、人の言葉を覚える知能のある魔物、そして実際に覚える魔物は総じて人間のように振舞いたがるモノでしてな。人間の通貨もどこから集めてくるのやら......おっと失礼でしたか」
「いや、その通りだから構わないよ。それにしてもそちらの人間の女、少し傷があると言っていたね」
あまり目立つものなのかい?と問う男に、支配人が慌てたように首を振る。首と言っても、人間のものとは違う爛れた頭部がそこにあるだけだが。
「古傷らしく、ほとんど消えていますよ。ああ......でも、処女ではなかったですね」
人間の女は良い。ほんの少し、検品しただけですが。そう言って、この世のものとも思えない音を出す魔物。これが笑い声なのだろうか。
 その言葉にここに捕まった初日、この支配人の魔物の元に連れてこられたことを思い出した。蒼い眼の女が好きだと、言っていたっけ。別にたいしたことをされたわけじゃない。服も破られないような、ぼんやりしていればすぐに終わるものだった。
「そうか。分かったよ、ありがとう」
 異様に明るい声音で男は言った。トランクを支配人に向かって放り投げると、魔物は嬉しそうにそれをしっかりと抱える。
「それでは確かにお受け取りいたしました......」
「うん、渡したね。じゃあ――死んでくれ」
「え?」
 ......一瞬だった。男の腕が音もなく一閃したかと思えば、支配人の首から上が地面に転がっていた。どす黒い血が彼の白い手袋を染め上げる。舌打ちした男は手袋を無造作に脱ぎ捨て――現れたのは、節くれだった白い手だった。
「その金は、手向けにくれてやるよ」
 ああ、自分は......この手を良く知っている。
「......ウォルター、あなた、銃以外も使えたのね」
 驚きのあまり今は関係ないことを呟けば、はあ?とフードの下の唇が歪む。
「魔物は組織を完全に切断しないと復活する奴が多いだろう」
「そうね」
 知識として知っていたが、そういうことを言いたかったわけではないのだが。ついでに言えば、油断していたとはいえ魔物を殺す力を持っているのは「英傑」だけの筈で。
 ああ、そんなことはどうでもいいか。アイネには関係のないこと。今はただ、早くと差し出された手をしっかり掴めばいい。


「ウォルター」
「......」
「ウォルター、痛い......」
 いたい、とこどものように繰り返すアイネに、ウォルターは漸く足を止め握っていた手首を離した。あまり加減しなかったから青痣が出来るかもしれない。
「何故逃げなかった?」
 受け取り場所まで行く際に見た牢は簡素なつくりだった。錠前も簡単な暗号式で、その後の警備を欺くのも含め、アイネならば容易いことだったろう。なのに、何故それをしなかったのか。
 無表情で手首を摩っていたアイネは、その言葉に首を傾げる。
「なんと、言っていいのか分からないのだけど」
 彼女にしては珍しく答えあぐねた風だった。
「貴方に捨てられたなら、誰のものになってもいいと思ったの」
 私は誰かの所有物で、それ以上でもそれ以下でもないって知っていた。けれど、自ら主を選んでいいなら、選ぶ権利が与えられたなら、
「貴方が良かった」


 深い蒼色に呑まれそうだと、いつかも思った気がする。
 一心にこちらを見上げる少女は、自分を人でないかのように言う。粗雑に扱われても文句も言わず、媚はしなくともこちらを裏切る真似はしない。一定して彼女は感情ない機械の様相を保っていて。
 けれど、今は、どこか違っていた。彼女自身にも分かっていないのだから、ウォルターに分かる筈もないけれど。その瞳の揺らめきは機械なんかではなかった。
「どうして、来たの?」
 それはこちらを責めている風でなく、ただ純粋な疑問であるようだった。
 ああそうさ、馬鹿は僕だって本当は分かってる。
 あの時、こちらを振り向いた少女の美しさに驚いた。すぐに殺すつもりだったのだ。使い勝手のいい少女はウォルターが何をしても嫌がらなかった。どうにかしてその顔を歪ませたいと躍起になっている内に自分が彼女に囚われていると気づいて腹が立った。まるで子供の様だ。
 要らないと突き放してこの少女の傷つく顔が見たかった。それなのに、本当にいなくなってウォルターがどれほど焦ったか。初めて会った時から浮世離れした風ではあったが、本当に消えてしまうと思わなかった。あちこちを探し回ってどうやら魔物共に連れ去られたらしいと知った時は心底肝が冷えた。どうして自分と言い、変なモノを引き寄せる体質なのか。オークションで売られてしまえばあとはどうなるか分からない。街付近に居てくれるならともかく森の深淵に連れ去られると、流石に手出しが出来なくなる可能性がある。二度とその顔を見ることも、無条件に触れる権利もないと思うと、はらわたが煮えくり返った。そんなことが許せるはずがなかった。


 大分歩いて、ふと後ろを振り返ったアイネに、ウォルターはつられてそちらを見る。そろそろ騒ぎになっている頃かと思ったが、煙や怒声はウォルターの予想を超えるもので。
「何か起きたのか」
 訝しげに言うウォルターに、アイネが呟く。
「――浅葱だわ」
「あさぎ......?」
 アイネは少し微笑んでいるように見えた。
「お友達が出来たのよ、わたし」
「へえ、そうか」
 その笑顔に適当な返事をした。何故か面白くなかった。それに、このままここに居れば厄介な英傑共と鉢合わせるかも知れない。ご丁寧な正義を翳した人間が嫌いだった。
 ......いや、好きな人間なんてそもそもいなかった。――そのはずなのに。
「アイネ」
「なに?」
 腕に抱える重さに慣れたのはいつからだろう。首に回る手も、感情の滲まない声も、無いと落ち着かなくなってしまっていた。
「......もう僕の前からいなくなるなよ」
 要らない、なんて嘘だ。
 命令のつもりで出した声は、しかし自分でも驚くほど頼りなさげだった。それにアイネが少し、息を呑む音がする。そりゃあそうだろう。ウォルターが今までこんな寄る辺のない音を聞かせたことはなかった。
「......うん、私、どこにも行かないわ」
 行けない、の間違いではないのか。と差し出した腕に迷いなく身体を預けた少女に思う。自我の薄い彼女に、己が主だと刷り込ませただけ。器量も申し分ないし、聡明すぎるほど聡明で、教養もあるアイネなら、どこへでも羽ばたいていける。それなのに少女は、虫篭の蓋が開けられても逃げようとしない蝶の様に、ウォルターの腕に留まっていた。何処にも行けないのは自分の方だ。けれど地獄までついてくると言いかねない少女が、もしずっと己から逃げないでいるのなら。
「ああ、反吐が出るな」
 最低の気分だ。どうしようもなく歪んでいる己を直す術を知らないし、直す気もない。それでも今だけは普通の人間らしく、愛している筈の少女を抱える手に力を込めていたかった。



さわらび120へ戻る
さわらびへ戻る
戻る