君を好きではないけれど

内藤紗彩



 人生などというものは想像以上につまらない。そう感じ始めたのはいつからだっただろうか。少なくとも小学生の頃はまだ何となく楽しかった。とは言っても、特筆すべきことは無い程度の、記憶の曖昧さが生み出した幻影のような気もする。
 将来の夢はパティシエ、結婚は二十五歳。そうプロフィール帳に書き込んだ過去の私がこの現状を見たら、一体どんな顔をするだろう。
 パソコンに並ぶ文字列を眺めふと、動物園にいるコツメカワウソの餌になるドジョウは、どの段階で死を覚悟するんだろう、と気になった。いけすの中ならまだ希望を抱いているかもしれない。あるいは小さな水槽の中なら、まだ。毛むくじゃらの手が突如空から伸びてきて間一髪それを躱した後で自分のいる世界がいかに小さいものかを知ってしまったら? 私ならそこで諦めてその爪と牙の餌食となろう。
 あぁ。飼育員の声がする。
「髙橋さん、ぼうっとするのがお好きなのはわかりますけど。終わったら次。何度も同じことは言いたくないので。ただでさえ遅いんですからせめて集中してやってくれませんか」
 部長の川上......さん、だった。年下の上司ほど呼び方に困るものも無いだろう。
「はい、すいません」
 もとより私に拒否権も言論の自由も与えられてはいないのだ。つまらぬプライドと一時の感情にかまけて時間をドブに捨てるほど馬鹿じゃない。
「返事だけは素直ですね」
 捨て台詞を残し川上、さんはさっと身を翻しせかせかと業務に戻る。
 私はあの人が苦手だ。というかあの人が得意な人なんてそうそういないだろう。
 少し情けなくなって小さなため息を吐いた。そういう人のちょっとした揺らぎを目敏く見つけることに長けたやつもいる。同僚の風華はその典型だ。
「結城ちゃん大丈夫? 川上さんって仕事はできるからってちょっと偉そうよね。ほんと嫌になっちゃう」
 まぁ私にとっては休み時間のたびにトイレで繰り返されるこの茶番の方が苦手なのであるが。
 そもそも会社とは仕事ができるやつが有用で偉いのが当然の摂理であろう。能率が悪い私の方に非があるのは明白である。それを「嫌」だなんてよっぽどお気楽に生きているのに違いない。強いて言うなら君の頭と私の性格が大丈夫じゃない。
「ううん。大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「そう? ならいいんだけど。あ、喋りながらリップしてたからはみ出ちゃった最悪」
 鏡とにらめっこしたまま彼女がぼやく。
 きっと悪気は無いのだろうがそういう言葉の端々に私はつい引っかかってしまう。
 何が最悪なのだろう。
 特に意味のない口癖だとはわかっていても気にしてしまう自分の心の狭さにがっかりする。
「風華はいつも楽しそうだね」
「そんなことないよ。この前も彼がさ......」
 つい口を突いて出た言葉が嫌味に取られやしないかと心配するより彼女の愚痴の方が圧倒的に早い。
 ほっとする一方で少し羨ましくも思う。
「でね、ちょっと何、ぼうっとして。聞いてる?」
「聞いてるってば。で、結婚はいつすんの」
「来年かな。『仕事が落ち着いたら俺から言う』って。これプロポーズだよね?」
「はいはい」
 まったく、住む世界が違うとはこういうことなのだろう。何一つ感情が追い付いてこない。これならまだマンボウでも見てた方が何かしら理解した気になる。
「あ、それ最近出たやつじゃないですか」
 そう言って現れたのは仕事のできる川上さんだった。それ、とはさっきの「最悪」なリップのことらしい。途端に風華の声と表情がいきいきとする。
「え、わかります? これ実はついこないだ買ったばっかで!」
「わかりますわかります! あそこのやつ色合いが凄く可愛いんですよね!」
「そー!」
 先ほどまでの態度が嘘のようにたちまちトイレの中で私だけが場違いだった。なんだか彼女を寝取られた気分だ。でもイヴ・サンローランだかロールス・ロイスだかの違いすら分からない私にそれを悔しがる権利なんて無かった。
「じゃ、またあとで」
 こんな時には身を引くのが一番だ。
「またね、結城ちゃん」
 ぺこりと川上さんに一瞥をくれてやり私はさっと身を翻し業務に戻る。
 今なら仕事が捗りそうだと思った。

 悪い癖というのは中々治らないもので、今日も今日とて私は会議中にペリカンの宅急便屋さんに思いを馳せていたせいで川上さんに散々注意を受けたし、風華はマニキュアがズレたとか何とかで最悪を量産していた。
 今更劇的なシンデレラストーリーを望んでみたって三十年近く続いた日常が変わるとは到底思えない。いや、別に望んでいるわけではないのだが。
 彼がやってきたのもそんな日常のワンシーン、のはずだった。
「本日からこの部署に配属になりました望月隼人です。よろしくお願いします」
 眉目秀麗、才色兼備。当然のように浮足立つ風華といつになく緊張した川上さんを横目に見ながら、流石の私も昔読んだ少女漫画でこんな展開あったな、くらいには思うところがあったものだ。
「ねぇ、望月くんかっこよくない?」
「わかりますわかります! でも風華ちゃんには彼氏さんがいるじゃないですかー」
「でもいくら好きとはいえ毎日中華料理だと飽きるんだよね」
 何かとんでもない比喩が持ち出されたような気がしたがそれはそれ。このトイレでの茶番に新たな役者が追加されてからもう随分経つ。これもまた日常ということなのだろうか。
「ねぇ、結城ちゃんは彼のことどう思う?」
「どうって......」
 あまりに台詞の少ない登場人物に喋る機会を与えようという監督の粋な計らいではあろうがこの手の話題は有難迷惑という他なかった。
 私にとって恋愛などという娯楽はとんと縁のないファンタジーであり、恋だの愛だのまことしやかに語られる定義なんて一般人にとってのアルビノと白変種の違いくらいどうでもいいことだったからだ。
 とは言え私も一端の大人の女性なのだ。こんな時のための模範解答など中学生の時から把握している。
「とても優しいし、いい人だと思うよ。でもタイプじゃないかも」
「だよねー。結城ちゃんにはもっと相応しい人がいると思うー」
 彼女もまた模範解答を知るものだったか、なんて考えて可笑しくなった。万が一そんな人がいるならもうとっくに出会っててもいいと思うのだが。出会ってないならそういうことなのだろう。
 こういうふとした瞬間に大人になったなぁと思う。もう何につけても自分を納得させることに関してはエキスパートになってしまった。別にいいとも悪いとも思わないし、これが私の今まで歩いてきた道の結果だとある意味誇りに思っていないこともない。ただ、彼女たちの感じる最悪やトキメキを共有できないのが少し、ほんの少しだけ寂しいと感じた。

 事実、望月という男はこんな私にも、というより誰にでも優しかった。きっと、困っている老人を見つけたら声を掛け、妊婦さんにはその席を譲り、雨に濡れた子猫に傘をさしてあげられる素晴らしい人なのだろう。
 たまにいるのだ、こういう人間。別にこれだから崇高だとも疎ましいとも思わないが、このように周りから思われることについては大変だろうなとは思う。
 それが優しさなのか好奇心なのか、私にはどうでもよかったが、私が休み時間のトイレ劇団に付き合いきれず早々に席に戻ると、何がそんなに面白いのか彼は笑顔でよく話しかけてきた。
「髙橋さんはいつも何かを考えていてあまり、こう、羽目を外しませんよね」
「ぼうっとしてるという意味なら......そうですね。特にそうする必要性も感じませんでしたし」
 私としては普通に会話の受け答えをしているつもりであるのだが、どうも言葉に棘があるように捉えられるのは、私の捻くれた性格ゆえか、はたまたこの男への警戒心ゆえか。いずれにせよ失礼な話だと今日は珍しく少し反省した。
 毎日毎日こんな不愛想な女との会話が、よくもまあ飽きずに続くもんだと感心し始めた頃。望月はまるでくらげが漂うかのようにふわりと言った。
「結城さんは好きな人とか、いるんですか」
 突如繰り出された小学校の修学旅行以来の質問に、驚くでも戸惑うでもなく、些かがっかりした自分がいた。
 君もそういうのに興味があるお年頃か。
「心当たりがありません」
 今回ばかりは自分でも嫌な言い方だと思う。
 でもなぜ? 理由はよく分からなかったが、しかし確実に私は望月に失望していた。
 あぁ君の優しさはどんな人間にも分け隔てなく与えられるものではなかったか。
 私に向けられた眼差しは同情や憐憫ですらなく好意などというつまらないものであったか。
 いけないな。やはりどうしても人間心の隅で期待などというものを抱いてしまう。勝手なエゴでしかないのに裏切られたと感じてしまう。
 ここまで一息に考えてようやく相手の言葉ひとつから被害妄想を膨らませていたことに気付く。
 悪い癖は本当に治らない。
「実は僕もそういうの疎くて。お酒は好きなんですが飲み会の度にそういう話になるの苦手なんですよね」
 ほら、きちんと話を最後まで聞かないからこんなことになるのだ。勝手に勘違いして失望するなんてお門違いもいいところではないか。
 疑ってしまった自分が恥ずかしくなる。こういうのを自意識過剰というのだ。
「わかります。お酒は、好きなんですけどね」
 慌てたからか声が上ずった。
 今思えばこれがいけなかった。
「やっぱり! 今度飲みにでも行きませんか? 行ってみたいお店があるんですよ」
 やっぱり、はこちらの台詞だ。
 まんまと乗せられてしまった。お酒は好きと言った手前断れない。
「そうね」
「じゃあまた」
 伊達に毎日話しかけてませんよ、とでもいうかのような無邪気な笑顔だった。
 私にはもうこの男が解らない。

 柄にもなく私はその日が来るのが気になって仕方がなかった。幸いにも普段の態度のおかげで川上さんに注意を受けてもいつものことで済んだし、寧ろそのことで頭がいっぱいだったせいでウミウシとアメフラシの違いを考える暇もなく仕事は捗った。
 しかしこれは断じて恋愛感情ではない。楽しみでなかったと言えば嘘になるがそれよりも漠然とした恐怖の方が大きかった。
 風華と川上さんの話題は尽きることなくころころと変わっていて、今は専らキャッサバから取り出したでんぷんを粒上に形成し加熱した後ミルクティーに入れた飲み物で持ちきりのようだ。美味しいのは認めるがそれなら壺漬けカルビがもっと流行ったっていいはずだ。
 そのあたりの美的感覚が著しく欠如している私は服を選ぶだけでも一苦労だった。
「お待たせしました」
「まだ集合時間まで十分以上ありますよ」
 彼はそう言って笑った。
 場所が会社ではないというだけで、あるいはいつもの駅に彼がいるというだけで、何もかもが新鮮に感じた。非日常なんてのは案外すぐに見つかるのかもしれないなんて考えてしまう自分が不思議だった。
「これ、美味しいですね」
「マタドールっていうらしいですよ。僕も今初めて知りました」
「望月君のそれは?」
「バラライカです。一口試してみます?」
「じゃあお言葉に甘えて一口だけ」
「どうぞ」
 こんなにも誰かと飲むお酒が美味しいと感じたのはいつぶりだろう。
 顔が火照っているのがお酒のせいなのは明白であったが何となく気恥ずかしくて店内の薄暗さに感謝した。
「結城さん」
「何でしょう」
「言いたいことがあるんです」
 あー、しまった今来るか。油断したな。
 彼の見せるそれはいつもの笑顔ではなかった。
「僕、川上さんのことが気になってて」
 ぱちくり。なんて可愛らしいものではなかったがその時の私はおそらくそんな顔をしていただろう。
「彼女、仕事がすごくできて責任感も強くて。それなのにどこか他人を寄せ付けない強さがあって。でも時々弱いんです。だから支えてあげたいって思って」
「でも......なぜ今それを?」
「なんででしょう。いけないな。あなたの前だと安心して素直になってしまう」
 聞きながらなんて勝手な思い込みなんだと思った。同時にお互い様だと納得した。
「好きなんですか?」
 私もつい、聞いてしまった。いつもなら絶対にしない苦手な質問。お酒と雰囲気のせいだ。
「......わかりません。けれどあの人がどんなことで笑うのか、どんなことで悲しむのか少しだけ知りたいです」
「そうですか」
 私には共感はできなかったが、ただ一つ自分が自覚しているより舞い上がっていたことだけはわかった。
 熱いものに触って初めて自分が冷たかったことを知るように、わからないものに出会えて初めてこの男を知れたような気がしたことがほんの少し嬉しかった。

 次の日何食わぬ顔で川上さんに会うのは変な心地がしていたがそんな違和感はすぐに吹き飛ばされた。
 風華の様子がいつもと違っていた。
 休み時間が来るのも待たず私は風華をトイレに連れ出した。川上さんは心配そうに付いてきた。
「別れたの。彼がね、『君はいい人だから俺なんかよりもっと相応しい人がいるよ』って」
 風華はへらっと笑いながら「あー超最悪」とぼやいていた。
「風華ちゃん、大丈夫?」
「うん、まぁショックだけど」
 川上さんのいつも通りの慰めに調子が狂う。
 風華は表にこそあまり出さないように振舞ってはいたが私には一目瞭然だった。私たちが何年一緒にいると思ってる。普段最悪としか言わない風華が超最悪と言ったのだ。これを一大事と言わずなんであろう。
「ごめん、川上さん。席を外してくれない?」
 本当に、この言い方はどうにかならないものか。
「え?」
「風華のことは任せて。私たちもすぐ仕事に戻るから」
 あぁこれでまた突き放しちゃったんだろうな。折角一生懸命話そうとしてくれてたのにな。
「......わかった」
 半ば諦めたような仕方ないとでもいうような顔で川上さんはくるりと踵を返した。
 風華の方に向き直る。
「大丈夫じゃないでしょ?」
「結城―――」
 堰を切ったように風華は話し始めた。
 私はただ頷いて、はらはらと涙を流しながら元彼の文句を言う彼女の頭を撫でていた。
 こんなに悲しい思いをするのになぜ人は人を好きになるのだろう。......きっとそこには恋をしている本人にしかわからない素敵な何かがあるに違いない。
 わからない。共感もできない。
 けれど。
 あぁ、本当に。私は君が羨ましい。
 もし、風華が恋愛に飽きて私で諦めてくれるなら、シェアハウスくらいはしてもいいな、なんてことをぼんやり考えていた。
 三十分経っても愚痴が収まりそうにない、いつも通りの風華を見て川上さんには後で怒られようと思った。

 その後特にこれといった劇的な変化もなく、私はまた普段の生活に戻った。相変わらず川上さんにはよく注意されるが前よりは少し仲良くなった。下の名前は紗代というらしい。下の名前で呼んでもらって構いませんとは言われたが何となく「ちよちゃん」と呼ぶのは気恥ずかしくて「川上ちゃん」と呼ぶことにした。
「呼び方急に変えるのって違和感あるよね」
 そう言って風華、いや坂倉風華はてへっと笑った。
 望月......改め坂倉になってしまった望月のことは私も仕方なく隼人くん、と呼んでいる。
 風華曰く「気になってる人がいたみたいだけど強引に結婚まで落とした」らしい。
 その人が川上ちゃんだったことと、今でも隼人くんとはたまに一緒に飲みに行っているのはもう少し秘密にしておこうと思った。


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