神と人とは相容れぬ(1)

きなこもち


 
プロローグ
 学校の帰り道。いつものように神社の階段に腰を下ろした。結構大きくて有名な神社。人通りもある。そんな神社の階段に座っている私に、通る人は目もくれなかった。
 まるでここにいないみたいだなあ。
 なんて、馬鹿なことを考える。実際、少数ではあるがこちらを一瞥する人もいるので、私は確かにここにいるのに。
「帰りたくないなあ。だからと言って、学校に行きたくもないけれど」
 私にはどこにも居場所がない。
 学校では何故かクラスの皆、いや、教師までもが私のことを無視し始めた。私が話しかけても無視。人のいないところでそっと話しかけても、驚いたように飛び上がって逃げられてしまう。
 私は何をしてしまったんだろう。
 家は家で、急に雰囲気が暗くなった。今まで優しかったお母さんは私が話しかければ急に泣き喚くし、弟は困ったように私を見る。そんなストレスのせいか、ご飯も喉を通らなくて手が付けられなかった。
 まるで、世界の全てが敵に回ったかのようだった。
 私は何もしたつもりはなかったのに。
 ぼんやりと階段で参拝者を見つめる。色々な人が通る。嬉しそうな恋人。切羽詰まったような女の人。折り鶴をいくつか持った男の子。
 皆、それぞれ何かしらの願いがあってここに来ているのだろう。私はどうしてここに来たんだっけ。ああ、前までの生活を取り戻せますようにって少し前から毎日参拝しているんだ。
 一向にことは改善しそうにないけれど。今日に至っては、机に花飾られてたし。これ、完全にいじめだよなあ。
「あれ、君は......」
 ぼんやりと考えていた私に突然声が降ってきた。
 見れば、平安時代の人とか武士の人が着ていそうな和服というか着物を着た青年だった。おそらく、ここの宮司さんとかなのだろう。かなり若いけれど。
 夕日も沈みかけていて、辺りは薄暗くなっているのにこんなところに座り込んでいたら、確かに心配されるか、早く出ていってほしいだろう。
「ごめんなさい。そろそろ、出た方がいいですよね」
 謝って立ち上がり、帰ろうとしたら腕を掴まれた。彼の瞳を見れば、今にも泣き出しそうな顔をしていた。なんでこの人が泣きそうなのだろう。泣きたいのは私の方なのに。
「君が......」
 彼は一度口ごもったが、目元を袖で拭いてから私の目を真っすぐに見ながら言った。
「君が良ければ、うちに来ないかい。人手が足らないんだ。今よりもきっと、楽しいと思う」
 普通に考えて不審者だ。でも、私には色々と限界が来ていたらしい。私の存在を認めてくれることが、私を必要としてくれることが何よりも嬉しかった。
「貴方が良いと言うのなら」
 私の答えに、彼はほっとしたように微笑んでくれた。
「そっか。よかった。じゃあ、これからよろしくね。信じてもらえないかもしれないけれど、僕はここの神様です。だから、君は真名を名乗らないで欲しい。僕はアメ。君の好きなように呼んでくれればいいから」
 神様。そうか、この人は神様なのか。それが本当なのか、嘘なのか、私には分からないけれど、それでもいい。今は、彼が私に差し出してくれた手だけで充分。
「アメさん......。アメ様、の方がいいですかね。私はユキと呼ばれることが多いんですよ。お天気でお揃いですね。アメ様のお好きに呼んでください」
 彼は分かったと言って優しく手を取ってくれた。神様なのに彼の手は暖かくて、私は久しぶりの温もりに嗚咽をもらした。
 彼は何も言わないでくれた。




第一章
 彼の神社で生活するようになって早くも一か月が過ぎた。彼が私に言いつけたことはたった二つだけ。
 一、黄昏時を過ぎたら一人で境内を出ないこと
 二、お寺には絶対に行かないこと
 これだけは絶対に守って欲しいと言われた。なんでかよく分からないけれど、別にわざわざその約束を破る必要もなくて、私は彼の言いつけ通りに過ごしていた。
「ユキさん」
 神域のお社を掃除していた私に声がかかる。声の主はこの神社の本物の宮司さんだ。
「宮司さん、どうしました?」
 掃除の手を止めて彼の方を見やれば、彼は嬉しそうにお盆を持って私の方を見ていた。
「休憩しましょう。今日のおやつは、アメ様への供物とされている水羊羹ですよ」
 お盆の上に載った水羊羹はとても綺麗で、お菓子というよりは美術品のようだった。私は急いで手を洗って、宮司さんといつも休憩を取る部屋に入る。宮司さんはとっくにお茶を入れて私を待ってくれていた。
「すみません。お待たせしました」
 二人で手を合わせてから、水羊羹とお茶をいただく。さっぱりとした甘さが上品で、とても美味しかった。お茶もちょうどいい温度で口直しにはぴったりだ。
「いつも美味しいお菓子をいただいてしまってすみません」
 私の言葉に宮司さんは首を振る。
「いえいえ。休憩に付き合ってくれる方ができてとても嬉しいんですよ。ここは常に人手が足らなくて、休憩を一緒にとってくれる方もいないんです」
「ああ、そう言えば、アメ様も私のことを『物くらいは持てるらしい』とおっしゃっていましたし、猫の手も借りたいくらい忙しいんでしょうね。私にできるのは、供物の整理か、お社の掃除くらいですけれど」
 ここに来てから私は供物の整理か掃除しかしていない。衣食住を整えてもらっているというのに、全然恩を返すことができないままだ。
 私の心情を察してか、宮司さんが教えてくれた。
「あの方が私に紹介してくださったのは貴女が二人目です。なので、貴女はここにいてくれるだけでよいのですよ。アメ様にとって大事な方ということですから。むしろ、お手伝いをさせてしまってすみません」
 申し訳なさそうに目じりを下げる。本当に良い人だ。
「ここに宮司さんがいてくれて良かったです。貴方がいなかったら、ここにいていいんだってことを信じられなかっただろうから」
 宮司さんは私と同じで普通の人間だった。所謂、見える人、らしい。神様はもちろん、幽霊も、妖怪とかも見えると本人は言う。もっと言うと、彼は初代の宮司さんからの記憶を引き継いでいるとか。先代が亡くなると一族の誰かから記憶を持つ人が出てきて、その人が宮司を継ぐらしい。何とも信じられないような話だけれど、今の私が置かれている状況からも嘘だとは思えない。
 アメ様と出会った後、彼は私の手を引きながらお社の中に躊躇なく入って、最奥にあった剣に触れた。その途端、突然別の世界に入ったような感じがした。苦しくてどうしたらいいか分からなかった私に、そこが神域だと教えてくれたのも、その空間のものを口にしないと体が耐えられないことを教えてくれたのも、宮司さんだ。
「私、ここにいてもいいんですか」
「アメ様が連れてきたのでしょう。それに、私はこの空間でのお話相手がずっと欲しいと思っていたのですよ。私とも仲良くしてください。ここのことは、少しずつ教えていきますから。貴女が望むまでここにいてもよいのですよ」
 その言葉に、私はもう一度泣いた。何も言わずに泣かせてくれるアメ様も、泣いた時に背をさすってくれた宮司さんもどちらもとても優しい。
 出会った頃のことをぼんやりと思い出しながらお茶を飲む。
「私はずっとここにいたいです」
 私がそう言うと、宮司さんは困ったように笑いながら何も言わなかった。
 お茶も全部飲み終わり、宮司さんはお盆を持って部屋から出ようとし、私も掃除に戻ろうとした時だ。思い出したように宮司さんが振り返った。
「そういえば、アメ様がお呼びですよ。お八つの後で良いとおっしゃっていたのですっかり忘れていました。絵馬の前にいらっしゃると思いますので、急がなくてよいですが、行ってあげてくださいね」
 小さく頭を下げてから彼は部屋を出ていった。アメ様に呼ばれているのであれば、私も早く行かないといけない。身だしなみを確認して、お社の中心に行く。
 そこには、御神体とされている剣があって、神域と神社を繋ぐ役割をしている。神域ではお社の中心なのに、神社ではお社の最奥なのは一応意味があるとかアメ様が言っていた。ちなみに、人が参拝や祈祷するのは拝殿というところで、御神体が置かれているところが本殿だと宮司さんに教わった。本殿は普通の人の目に触れることはないらしい。
 御神体に触れて目を瞑れば、そこはもう本殿だ。
 神域ではなく本殿であることを確認し、急いで絵馬掛けに向かう。そこにはもうアメ様がいて、一つの絵馬をじっと見つめていた。
「お待たせしました」
 声をかけると彼は優しく微笑む。
「待ってないよ、大丈夫。来てくれてありがとう」
 手招きをしてくるアメ様のそばに寄って絵馬を覗き込む。
『大切な指輪が見つかりますように』
 と丁寧な文字で記してあった。彼はその絵馬を優しく手でなぞった。
 正直なところ、アメ様のことを出会ってすぐの頃は神様だと信じていなかった。助けてくれるだけで十分だったから。でも、アメ様は本当に神様だった。
 こういう風に絵馬を毎日確認して、できることから叶えてあげたり、祈祷を上げた人に加護を与えたり。お守りにも少ないけれど加護を付与させていた。
 ああ、神様ってこういうことをするんだなあって思った。でも、それ以上に彼が神様だと思えたのは、ほとんどの人が彼のことを見えていないからだ。
 今だってそうで、アメ様は確かに絵馬掛けの前に立っているのに、誰も彼を一瞥もしない。ぶつかりそうになると、人の方が躓いたり、急に体の向きを変えたりして何故かぶつからない。
 私がじっとアメ様と他の人たちを見比べていたら、アメ様が不思議そうに、どうしたの、と声をかけてきた。
「ええと、本当に誰もアメ様が見えていないんだなあって思いまして」
「ああ、そんなこと。僕は現世(うつしよ)の住人ではないからね。大人であればよほど僕を望む人か、あるいは、幽世(かくりよ)に近づいている人でないと認識できない。でも、君だって今は人の子からは見えにくくなっているのだから、僕と同じじゃないか」
「貴方とお揃いって考えたら、それもいいですね」
 周りから意識されないことは少しだけ寂しいけれど、誰にも認識してもらえなかったあの時より、アメ様が認めてくれる今の方がよほど幸せだ。
「あれ、幽世って何ですか。神域のこと?」
 現世は多分人間とかがいるところだと思うけれど。
「現世の対として存在するのが幽世だ。生を持つものたちは現世に、僕たち神や眷属、君のように神に許された存在は幽世に身を置いている。現世と幽世はほとんど入り混じっていると言える。最も入り混じっているのはどこだと思う?」
 現世と幽世が最も混ざっている場所......。神様と普通の人間が一緒にいる場所かな。
「神社......?」
「その通り。境内は現世において最も神聖かつ最も幽世に近い場所であり、幽世において最も現世に近い場所だ。まあ、境内にいるからと言って、僕たちのことが見えるわけではないけれどね。君の言う通り神域は幽世だ」
「では、幽世に近づいている人というのはどういった人のことを指すのですか?」
 生きている人は現世、神様たちが幽世。では、幽世に近づいている人って何者?
「死期が近い人の子だよ。生き物は転生する前に一度幽世に来るからね」
 ふーん、そういうものなのか。死ぬと幽世に行くのね。私は死んでないけれど、アメ様に許可をもらったから幽世に滞在できるのということか。
「ところで、私を呼んだのはどういった御用ですか?」
 私が聞けば、彼は静かに私に絵馬を握らせた。
「君も大分幽世での生活に慣れたようだし、手伝ってもらおうと思って」
「え......。でも、私には宮司さんと違って何の力もないですし、絵馬のお願いに神様以外が関与していいんですか?」
「ああ、それは大丈夫。正確には違うけれど、君は僕の眷属みたいな扱いになっているから。あとはまあ、為せば成る。習うより慣れろ。君ならできる。はい、よろしくね」
 ええ......。この神様と一緒に生活するようになって一か月。この神様は意外と適当だということは何度も思い知らされた。
 神域に人が入った時の対応を完全に忘れていたり、私に掃除を任せると言ったお社の中はまるで魔境だったり、一番偉い神様からのお手紙を無視して怒られていたり。唐突に犬を連れてきたかと思ったら、捨てられていて可哀想だったとか言ったり。
 たった一か月なのに、宮司さんと慌てふためいた回数は両手の指じゃ足らないだろう。それでも、慣れっこだと笑った宮司さんはなんだかんだアメ様のことを信用しているのだと思う。
「これは、君の方が適任だと思うんだ」
 それに適当なようで、実は彼は間違ったことや無責任なことは言わない。これだって、彼は本当に自分でやるよりも私がやった方がいいと思っているのだろう。
 そう考えられるくらいには私も彼のことを信用しているのだ。
 私は渡された絵馬をじっと見た。
 指輪。指輪ねえ。そもそも、何の指輪なのか全く分からない。ていうか、名前だけじゃ誰が書いたのか分からないよ。
 名前のところを指で撫でようとすると、アメ様に止められた。
「ちょっと待って、これを持って行って」
 そう言って渡された、といよりも首に掛けられたのは鉄細工に紐を通してある首飾り。
「これは?」
「君が僕と関わりのある者という証。それがあれば、ほとんどの神は無条件に君を受け入れてくれるから、行動しやすくなるよ。じゃあ、行ってらっしゃい」
 なんて言って手を振るアメ様。いや、行ってらっしゃいって言われても、この絵馬を書いた人がどこにいるのか分からないのだが。仕方ない、この名前に覚えがないか宮司さんに聞いてみよう。ひょっとしたら祈祷とかしているかもしれないし。
 なんとなく惹かれるままに名前の部分を指でなぞった。『神田勇』さん。名前なんて読むんだろう。いさむ、かな。それとも、ゆう、かな。最近、読めない名前も多いからなあ。全然違ったりして。
 いざ、宮司さんのところへ、と思って顔を上げたら、そこはアメ様の神社ではなかった。いたって普通の住宅街。下校時間だろうか、ランドセルを背負った小学生が歩いている。一年生だろうかって思うくらい小さい子はたまに私を見る。
 そういえば、小さい子どもの方がアメ様を認識しやすいって言ってたし、それと同じようなものかな。
 それにしても、ここはどこだろう。
「あの、お困りですか」
 声の方へと振り向けば、そこにはスーツを着た男の人がいた。大分若いから、いわゆる就活生だろうか。
「私が見えるんですか」
 思わず聞いてしまった私は悪くないだろう。彼は驚いたように目を丸くしてから少しだけ噴き出した。
「面白い冗談ですね。ちゃんと見えてるから声をかけたんですよ。それで、迷っているように見えたのですが、違っていたらすみません」
「えっと、迷っていたのではなくて、神田(かんだ)勇(ゆう)っていう人を探しているんです」
 名前を口にすると、彼が首をひねった。
「かんだゆうさん、ですか。うーん、神田いさむっていう奴なら俺の友達なんですが」
 おっと、名前の読み方を間違えたようだぞ。
「あ、読み方が違うのかもしれないです。山手線とかの駅名と同じ字の神田に、勇気の勇って書くのですが」
「じゃあ、それ俺の友達だよ。でも君、勇とどういう関係?」
 まあ、普通は疑問に思うよね。当然だよね。何の言い訳も考えていなかった。
 仕方ないので、半分くらい正直に答えた。もう半分は嘘だ。
「私、神社でお手伝いしてて、そこの宮司さんに、神田さんが落とし物をしたから届けて欲しいって頼まれて」
 嘘ってバレるかな。
 少しだけドキドキしながら彼をちらりと見ると、彼は何故か頷いている。
「へー、今の神社って親切なんだな。なるほどね、ちょっと待っててください。彼に今から連絡を取るので」
 彼はスマホを取り出して、どこかに掛け始めた。小さいながらに、もしもし、という声が聞こえる。彼は端的に用件だけを伝えると、電話を切った。
「今から俺の家に来てくれるそうです。三十分くらいだから、嫌じゃなかったら俺の家で待っててください。お茶くらい出しますよ」
 ありがたく、彼について行くことにする。彼の家と言っても下宿のようで、小さなキッチン付きの六畳間だ。あまり広くはないけれど、部屋はすっきりと整っている。
 アメ様も普段からこれくらいお片づけをしてくれたらいいのになあ。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。俺は幸助(こうすけ)って言います。就職の決まらない大学四年生です。君は?」
 湯気の立つ紅茶をテーブルに置きつつ思い出したように問う。
「私はユキって言います。えっと、高校生です。あの、私の方が下ですし、敬語じゃなくても大丈夫ですよ」
「分かった、ありがとう。ユキちゃん、神社のお手伝いをしているってことは、お家が神社なの?」
 まあ、普通はそう思うだろう。実の家は神社とは一切関係ないけれど。
「えっと、親戚が神主とかの家系で、私はその縁でお手伝いさせてもらっています」
「そうなんだあ。偉いねえ。俺なんて高校の時は遊んでばかりいたよ。大学でもそうだけど。そのせいで、今、死にそうなんだけどね」
 人懐っこいな、この人。聞いてもないことをぺらぺらと話してくれる。この人なら指輪のことを知っているのかな。
「あの、神田さんの指輪に関して何か知っていますか」
「指輪? そういえば、大事な指輪が見つからないって騒いでた時期があったな。あいつ、彼女とかいた訳じゃないはずなのに。それがどうかした?」
 彼女はいない。ということは、ペアリングとか、結婚指輪じゃないってことだ。
「いえ、ただ、指輪を見つけたいと言って祈祷まで上げた方らしく、宮司さんが印象に残っていると言っていたので」
「なるほどねえ。でも、結局見つからなかったらしいよ。諦めたように笑ってた」
「何の指輪かご存じないですか?」
「詳しいことは教えてもらってないからなあ。あ、でも、あいつがあそこまで取り乱すってことはあいつの姉さんと関係あるのかもな」
 お姉さんと指輪の交換をしていたとでもいうのだろうか。
 これ以上聞きすぎると疑われると思ったので、私は話題をそらした。とりあえず分かったのは、就活が大変っていうことだった。
 カップの中の紅茶がなくなりかけたころ、部屋のインターホンが鳴った。
 幸助さんが玄関まで出迎えて、部屋の中に連れてきたのは背の高い男の人だった。
「神田勇さん?」
「あ、はい。落とし物を届けてくださったと聞きました。お手数おかけしてすみません」
 頭を下げる男性。幸助さんと違って私服だ。高校の同級生とは違う、大人の男性とはこういう人のことを言うのだろうか。
「いきなり尋ねてしまって申し訳ありません。宮司さんに言伝を頼まれたので。でも、落し物は今持っていないのです。すみません。宮司さんが直接貴方にお渡ししたいとのことでして。なので、ご都合の良い日にまたいらしていただけませんか」
 今日帰ったら宮司さんに事情を説明して、いざ彼が来たら適当に誤魔化してもらおう。
「分かりました。今の実験が落ち着いたら、一度連絡させていただきますね。早くて今週末になると思うのですが大丈夫ですか?」
「大丈夫です。誰か一人は常に対応できるようになっているので」
 とりあえずの予定は決まったので、私と神田さんは幸助さんのお部屋からお暇した。どこに帰るのかと聞かれたので、神社に戻ると伝えたら、神田さんに駅まで送ると言われてしまった。慌てて首を横に振ると、彼は笑って歩き出した。
「暗くなったら女の子一人は危ないですし、俺も同じ方向なので」
 そう言われてしまっては断れまい。正直な話、ここがどこかいまいち分かっていなかったので、その申し出はありがたいほかなかった。駅に着いてから帰る方法を考えよう。
 と言っても初対面の人間と楽しく話ができる性格なわけでもなく、向こうもそうなのか世間話をぽつぽつとしながら歩いていた。ふと会話が途切れた時に、神田さんが急に言った。
「俺、姉が一人いるんですよ。我儘で、女王様みたいで、俺はいつも姉さんにこき使われてた。小さい頃は、姉さんのこと大嫌いだった」
 嫌い、という割には彼の顔はとても優しい。
「結婚するって言ったのも唐突で、父さんも母さんも、もちろん俺だって驚いたんです。でも、相手はとても良い人で、俺も祝福してたんですよ」
 急に顔が曇った。
「馬鹿ですよね。幸せの絶頂みたいな時期に、道路にいきなり飛び出したんですよ。目撃者曰く、猫をかばおうとしたって。人ならまだしも猫って。放っておけばよかったのに。結婚式、次の日の予定だったのに。本当に馬鹿ですよね、あの人」
 半年前のことだったなあ、なんてわざとらしく笑っている声が痛々しい。今にも泣きだしてしまいそうな声だ。
 ああ、この人。
「お姉さんのこと、大切だったのですね」
 きっと、忘れようとしても忘れられないのだろう。それほどまでに大切な人がいると言うのは、正直羨ましい。
 彼はそれに関しては何も言わなかった。
「俺、本当は神頼みとかしないタイプなんですよ。でも、姉さんの荷物の中にお守りがあったんです。だから、唯一見つからない指輪を神様に頼んでみました」
 指輪だけ見つからないなんてことがあるのだろうか。指にはめている物だろうし、指ごとなくなっているなら分からなくもないが、今の言い方的に、本当に指輪だけ無くなってしまっているのだろう。
 顔に出ていたのか、彼は肩をすくめて苦笑いをした。
「不思議ですよね。指輪だけないんですよ。お守りはあったくせに」
 お守りがあったっていうか、どうしてこの人はお守りのことばかり気にするのだろう。持ち物なら他にも、財布やスマホ、大人の女性なら化粧品とかもあったはず。
「あの、そのお守りには何か思い入れでもあったのですか?」
「え?」
 そんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろうか。彼は驚いたように私を見た。
「あ、いや、お守りって誰でも持っている物なのに、どうしてそんなに気にしているのかが気になってしまって。不躾ですよね、すみません」
 なんとなく悪いことを聞いてしまったような気がして、つい謝ってしまったら控えめな笑い声が響いた。
「はは。鋭いですね。うん、あなたの言う通りなんです。姉さんの持っていたお守り、俺が小学生の修学旅行で行った先のお土産なんですよ。交通安全だったのになあ」
 そのお守りには何かあるのではないだろうか。ここまで人の意識を引くのだ。自分が贈ったものだから、というだけではないはず。
 きっと、そのお守りは何かを主張していたのだ。
「そのお守りって今どこにある」
「ユキ!」
 名前を呼ばれたかと思ったら、誰かに抱きしめられた。
 このひんやりとした、でも、温かな雰囲気はアメ様だ。
「良かった。もうすぐ日が暮れるのに中々帰ってこないから心配していたんだ」
 声が震えている。よほど心配をかけたのだろう。確かに、夕暮れまで境内の外にいたのは初めてかもしれない。
「ごめんなさい、心配かけてしまって。送ってもらったので大丈夫ですよ」
「送ってもらったって誰に......」
 アメ様が私から離れて神田さんを見た。彼が一瞬息を飲んだ。
 私たちが見える大人というのは少ないので、気持ちは分かる。
「俺は神田って言います。忘れ物をしたって彼女から聞いたのですが、今受け取ることはできますか?」
 神田さんがアメ様に尋ねてしまった。彼はよく分からなそうな顔をしている。これはまずい。
「この人は宮司さんではなくて、私の従兄です。だから、お手数ですが、後日いらしていただけると嬉しいです。今日は送っていただきありがとうございました」
 彼に頭を下げて、アメ様を引っ張って駅の中に入ろうとした時だ。
「京都の八坂神社でもらったお守りなんです。同じ場所がいいと思って、一か月ほど前に納めてしまったけど」
 じゃあまたね、と彼は手を振って去っていった。
「何の話?」
 手を差しながらアメ様が尋ねてきた。
「アメ様に渡された絵馬の話ですよ。京都に行ったら、夕暮れまでに帰るのは難しいですよね......。どうしましょう......」
「ああ、神社であれば、首飾りを使えば行けるよ。八坂神社か。あそこにいらっしゃるのはスサノオ様だから、受け入れてもらえるはず。クシナダヒメ様もその首飾りを見れば悋気を起こすことはないと思う」
 でも明日ね、と付け加えて、彼はいつかと同じように私の手を引いた。どうやったのかは分からないが、私たちはいつの間にか境内の中で、お社の御神体から神域に入った。神域では宮司さんが夕食の準備をして待っていてくれて、私の姿を見た途端ほっとしたようだった。
「遅くなってすみません」
「きちんと帰ってきてくださったのだから大丈夫ですよ。さあ、手を洗ってきてください。一緒に食べましょう」
 急いでアメ様と手を洗ってから、三人でご飯をいただいた。ご飯を食べながら、宮司さんに今日のことを説明して、実際に連絡があったら適当にやり過ごしてもらうように頼むと、宮司さんは二つ返事で承諾してくれた。そのついでとでも言うように、アメ様が私と二人で京都に行くと宮司さんに告げたらさすがに一瞬固まっていたが、すぐに必要な物や出発や帰りの時間を尋ねていたので凄いなと思った。
「確かに、アメ様のお手伝いをなさるのであれば、移動方法は知っておいて損はないでしょう。大丈夫、意外と簡単です。すぐに慣れますよ」
「移動方法がよく分からないですが、京都に行けるのは少しだけ楽しみです。あまり行ったことがないので」
「これからたくさん行けますよ」
 ごちそうさまでした、と三人で手を合わせ、食器を片付ける。
 食事の後、宮司さんは現世に戻り、アメ様もいつも通り御神体のおそばに戻るのかと思ったら、何故か動かなかった。
「どうかされました?」
 普段の彼であれば、食事が終わったらすぐに御神体の所に戻るのにどうしたのだろう。
 彼はじっと私を見つめて、近くに寄ってきたかと思うと、不意に首元に手を伸ばしてきた。何をされるのかと思って身構えたら、首飾りを掬っていた。
「これは何だと思う?」
 急な質問。これをもらった時のアメ様の言葉を必死に思い出す。
「アメ様と関わりがある証拠だって、アメ様がおっしゃっていました」
 そうだね、と彼は首飾りから手を離す。
「これはね、僕の眷属の証なんだ。眷属にだけ、僕が渡す物だ。これが何を意味しているか分かる?」
 眷属の証。それを私が持つ意味。
「私が、アメ様の眷属であること、ですか」
 そういうこと、と頷いて彼は続けた。
「別に眷属に渡すことが普通というだけで、眷属じゃなくとも渡すことは可能だ。眷属だとしても、解放して転生の輪に戻してやることも可能だ」
 転生の輪って輪廻転生のようなものだろうか。
「ああ、転生の輪とは僕たち神が呼んでいる、魂の行き来のことだ。魂は現世で肉体を失うと僕たちのいる幽世にくる。そこで時を経て、また肉体を得て現世に行くことを転生と言う。正確には少しだけ違うけれど、仏たちの言う輪廻転生と似たようなものだよ。少し話がずれてしまったね。これを身につけて他の神々に会うということは、他の神に対して、僕の眷属であることを証明するようなものだ」
 アメ様が言うことは理解できる。でも、それがどんな意味を持つのかが分からない。
「他の神様に、アメ様の眷属であるって示してしまったら駄目なのですか?」
「駄目ではない。ただ、この先、転生の輪に戻った時に、他の神には僕の眷属であった魂だと認識されてしまうことがあるんだ。世話を焼いて、僕の所に誘導する神もいれば、僕を裏切ったとして怒る神もいるかもしれない。僕のことが好きではない神は、笑いながら己の物にするかもしれない。その魂には何の記憶がないとしても」
 よく分からないが、彼は私の来世について心配してくれているのだろう。
「大丈夫ですよ。私、ずっとここにいるので。帰りませんよ。家にも、転生の輪にも」
 私の言葉に、彼は悲しそうに笑った。瞳が出会った時のことを彷彿とさせる。
「そっか。じゃあ、明日は一緒に京都に行こう。使い方は明日教えるから。今日はお疲れ様。ゆっくり休んでね」
 彼はおやすみと声をかけて部屋から出ていった。
 どうして寂しそうな顔をするのだろう。彼にとって私がここにいることは不本意なのだろうか。そういえば、彼はいまだに私のことを眷属にしていない。
 私は中途半端なままだ。アメ様の神域で生活して、普通の人には見つけてもらえないのに、眷属ではない。
 アメ様も宮司さんも、好きなだけここにいていいと言う。なのに、私がここにいたいと言うと良い反応をしない。
 私はどうすればいいのだろう。
 考えても分からないものは分からない。
 私も自分の部屋に戻る。アメ様の神域は広いのにお社はそこまで大きくない。御神体がある中央のお部屋と、その周りにいくつかの部屋があって渡り廊下で炊事場といくつかの離れが繋がっている。その他にも、弓道場や剣道場みたいなものがある。皆でご飯を食べるときや宮司さんとお八つを食べる時のお部屋は御神体のおそばのお部屋を使っている。
 神域なのにお風呂場や炊事場が意外と現代的で驚いたのを覚えている。時代の変化には適応しないとね、と笑った彼は、神域の中でもお社に一番近い離れを私に貸してくれた。何かがあったらすぐにお社に行けるようにと。
 お風呂に入って身を清めて、部屋に戻り布団を引く。アメ様に貸してもらった歴史書を横になりながら読み進める。
 ここに来てからの娯楽は本だけだった。本が嫌いじゃなくて良かったと思う。神域では電波は通じないので、スマホは機能しない。でも、スマホが無くてもそんなに困らないのだと気が付いた。アメ様は読み切れないほどたくさんの本を持っているから飽きることもない。どこで手に入れたのか、現代的な恋愛小説があったことは少し意外だった。
 切りの良いところまで読んで、本を枕の脇に置いた。明日は色々と大変らしいから早く寝ようと思うのに、先ほど抱いた疑問のことばかり頭に浮かんでくる。
 アメ様にとっての私はどういう存在なのか。私はどうすればいいのか。でも、私にはもう帰る場所はない。家族の顔も名前も、記憶に靄がかかって思い出せない。
 私にはもうここしかないのだ。だから、失いたくない。ここにいたい。
 同じようなことばかり考えているうちに、外は明るくなっていた。
*
「顔色悪いけれど大丈夫?」
 いざ京都へ行こうという時に、アメ様が尋ねてくる。首を縦に振りつつも、本当はとても眠いし、頭痛すらする。でも、それを言ったら連れて行ってもらえないから、頑張らなければ。
 心配そうにしながらも、彼は行き方を教えてくれる。片手で首飾りを握りつつ鳥居の前に立つ。行きたい神社の名を告げ、向こうの神様が許可をしてくれたら鳥居と鳥居が繋がるという仕組みらしい。
「スサノオ様には許可を取ってあるから、すぐに繋がるはずだよ」
 二人で鳥居の前に立った時、アメ様がそう言った。私が左手で首飾りを握り、八坂神社と告げると、すぐに鳥居の向こう側の景色が変わった。これが繋がったということなのだろう。
 少しだけ不安だったから、右手でアメ様の着物の裾を掴んだ。彼はそれに対して微笑んでから、鳥居をくぐる。私も彼に続いて鳥居をくぐった。そこには、いつも鳥居をくぐった時に見る光景はなく、見慣れぬお社に、たくさんの人。そして、ニコニコとした人ならざる誰かがいた。
 金に近い薄い茶髪を地面につくくらいまで伸ばしている女の神様。足元には真っ白な狐さんと輝くような黄色の狐さんが一匹ずつ。
「タマ。久しぶり。元気そうでよかった」
「お久しぶりです、アメ様。お変わりなさそうでなによりです。父上がお待ちですよ」
 私たちは、スサノオ様がいらっしゃる八坂神社に、スサノオ様の許可を得て来ることができた。つまり、彼女の言う『父上』というのはスサノオ様のことだろうか。それに、狐を従えているということは、彼女はお稲荷様に祀られている神様なのだろうか。
 何も分かっていない私を見て、彼女はクスリと笑う。
「はじめまして。私はウカノミタマと申します。普段は伏見稲荷にいる、と言えば伝わるかしら」
 やっぱりお稲荷様だ。
「はじめまして。ユキと申します。今日は突然お邪魔してしまってすみません」
「ふふ。そのように硬くならなくとも大丈夫ですよ。今日は、私も母様も貴女に会うのを楽しみにしていたのですから。さ、行きましょう」
 ウカノミタマ様に腕を組まれ、引きずられるようにお社に入る。お社の中の御神体を通してスサノオ様の神域に入った。アメ様の神域とは違い、全体的に豪奢な建物が目立つ。
「父上、母様、お二人が参られましたわ」
 神域の中のお社のとある部屋に迷いなく入っていったウカノミタマ様が、障子を思い切り開けながら叫んだ。
 部屋の中には、どことなくアメ様と雰囲気が似ている青みがかった黒髪で瞳が金色の男の神様と、流れるような長い黒髪の女の神様。
「アメ、久しぶりだな。お前が眷属を連れてここに来るなんていつぶりだ」
 男の神様がよく響く声で言った。
「スサノオ様、お久しぶりです。クシナダヒメ様も息災そうでなによりです」
「俺の質問は無視か。まあいい。そこの人の子、名は何という」
 突然大きな声で質問されて、思わず固まった。すると、アメ様が私の前に立って苦笑した。
「スサノオ様、この子はまだ他の神の存在に慣れていませんので、もう少しお手柔らかに」
「相変わらずだな、お前は。それで、名は。別に呼び名で構わぬ」
 私が答えようとしたのを手で制して、アメ様が答えた。
「呼び名はユキと。それ以外を教えるつもりはありません」
 随分と冷たい対応だ。スサノオ様がそれに対して怒ったような素振りはない。むしろ、少しだけ口角をあげた。
「まあいい。此度は何用で俺のところまで参った?」
 単刀直入。単純明快。他の情報なんてどうでもいいと言わんばかりに、今回の来訪の理由を尋ねてきた。アメ様が振り向いて、私に事情を話すように促す。
「この度は、私の我儘をアメ様にきいてもらい、ここまで参りました。とあるお守りを探しているのです。一月ほど前に、背の高い男性が、交通安全のお守りを納めに来たと思うのですが、そのお守りがどこにあるかご存知でしょうか」
「俺たちのところには毎日嫌というほど人の子が来る。いちいち覚えてはいられんな」
 確かにそうかもしれない。ここは京都の割と中心だし、観光客も多い。
「その男性の特徴はないかしら」
 アメ様がクシナダヒメ様と呼んだ神様が口を開いた。
「私は彼と違って記憶力は良い方なの。だから、もう少し情報があれば何か手助けできるかもしれないわ」
 私は神田さんの特徴を必死に思い浮かべる。
「背が高くて、黒髪でした。えーっと、後は。あ、そうだ。その納めたお守りは、十数年程前にこちらでいただいたものだと言っていました」
 お守りの情報に、クシナダヒメ様は思い当たる節があるのか、部屋から出ていった。数分と経たないうちに戻ってきた彼女の手の中には、大分古くなっているお守りがあった。
「これじゃないかしら。大分古いものだった上に、どことなく主張が感じ取れるから焚き上げずに取っておいたの」
「そ、それ見せてもらっていいですか!」
 思わず大きな声を出してしまった私に、クシナダヒメ様がクスクスと笑う。
「どうしましょう。ねえ、スサノオ様」
 小さい子どもが悪戯を考えている時のような顔で、スサノオ様の方を向いて小首を傾げるクシナダヒメ様。
「これは、私たちの神社のお守りで、私たちの神社に返納された。つまり、これは私たちの物。それを貴女に貸し出したとき、貴女は私たちに対価を差し出さなければならない」
 だから、神に軽率に願い事をするのは控えた方がいいわよ。そう付け加えたクシナダヒメ様は、お守りを私に差し出した。
「脅しはこれくらいにしておきましょうか。ずっとアメ様の下にいたのであれば、知らないと思って。ユキさん、神は怖い面もあるの。これを忘れないようにね」
 はいと差し出されたお守り。
 いや、ここまで言われてこれを受け取れるほど私は胆が座っているわけではない。
 受け取るのを躊躇っていると、隣でアメ様がお守りを受け取った。
「本当だ。何か主張のようなものを感じるね。付喪が宿るほどではないけれど、強い念はあったのだろう。はい、大丈夫だよ。クシナダヒメ様は怖い神ではないから」
 差し出してきたお守りをおずおずと受けとる。私には特にこれといった念のようなものは感じられず、ただの古いお守りにしか見えない。お守りを手で確認するも目立った点はない。
 当てが外れたのか。でも、アメ様もクシナダヒメ様も主張を感じると言っていた。これがもし神田さんのお守りであれば、その主張というのは確実にお姉さんに関わるものだ。
「あの、このお守りが主張しているとおっしゃいましたが、どのようなことを訴えているのか分かりますか」
 私の質問に、大きなため息をついたのはスサノオ様だった。
「先ほど軽率に願うなと言ったばかりだろう。それを教える代わりに、お前は俺に何を差し出せる」
 質問も神によっては願いなのか。意外と厳しい。アメ様以外には、下手に質問や願い事を口にしないようにしよう。
 でも、それはそれだ。知りたいものは知りたい。でも、怖い。スサノオ様と言えば、アマテラス様の弟。そんな誰でも知るような有名な神様に差し出せるものなんて私にあるだろうか。
「何を差し出したら教えていただけるのですか」
 分からなければ聞くしかない。
「ふむ。まあ、その目は嫌いじゃない。アメに甘えているだけの使えない眷属かと思ったが、そうではないらしいな。気に入った。ヒメ、無条件で教えてやるといい」
「あらあら、お優しいこと。分かりました。では、そのついでに、ユキさんお借りしますね。女だけでお話したいので。タマ、あなたもいらっしゃいな」
「もちろん行かせていただきますわ」
 お茶菓子を持ってきますという声を残したウカノミタマ様は入ってきた時と同様に勢いよく扉を開いて出ていった。彼女につき従っていた黄色い狐さんは慌ててウカノミタマ様の後を追い、白い狐さんはゆっくりと立ち上がると、私の方へ近寄ってきて膝に飛び乗ってきた。
「うわっ」
 意外と重いぞ。ていうか、どうしたらいいのだろう。とてもモフモフしているので触りたい。触りたいが、触っていいのだろうか。怒られるかな。でも、触りたい。
「タマの白(しろ)狐(ぎつね)が懐くなんて珍しいこともあるものだ」
 スサノオ様が驚きを含んだ声で言った。
「アメ、お前の連れてくる人の子はいつも面白いな」
「いつもと言うほど連れてきた記憶はありませんが」
「前に連れてきた娘も中々に胆の据わった人の子だった。あれも中々に面白かった」
 そう口にした瞬間、アメ様の纏う空気が変わった。
「スサノオ」
 ずっと敬称で読んでいたアメ様が、スサノオ様を呼び捨てにした。名前を呼んだだけ。それだけなのに、場全体の空気が凍った。
 あ、怒ってる。
 アメ様の怒ったところは初めて見たはずなのに、すぐに分かった。怒っているのに、あまり怖いと思わない。別にアメ様のことを甘く見ているとかではなくて、何故か怖いと思わないのだ。
「あらあら、雷が落ちる前に私たちは逃げましょうか。アメ様、丁度いい機会ですわ。少し大人しくなるようにご指導お願いいたします」
 クシナダヒメ様が立ち上がると、私の膝の上にいた白い狐さんは私に頭を擦り付けてくる。可愛い。
「ユキさん、重いかもしれませんが、その子を連れて行ってあげてください」
「あ、はい」
 白い狐さんを抱きしめて立ち上がる。さっき思っていたよりも重い。確かに、中型犬くらいの大きさだから、妥当な重さと言ってしまえばそうなのだが、重い。
 白い狐さんを頑張って抱きしめながらクシナダヒメ様の後を追う。部屋を出た時はまだ空気は凍ったままだったが、大丈夫なのだろうか。
「大丈夫よ」
 まるで私の心を読んだかのようにクシナダヒメ様は言った。
「アメ様だって、本気で怒っているわけではないわ。スサノオ様もアメ様に構ってほしいだけなのよ。ああ見えて、子どものような方だから」
 神様が子どものようという言葉に想像が追い付かない。スサノオ様はとても位の高い神様のはずなのに、アメ様に構ってほしいってどういう関係なのだろう。
 そもそも、アメ様は何の神様なのだろう。あんなにアメ様の神社に通っていたのに、アメ様のこと何も知らない。
「さ、着いたわ。少し待っていてね。今、座布団を持ってくるから」
 クシナダヒメ様の言葉に我に返った。
「わ、私が出します。どこにありますか」
 神様に座布団を用意させるなんて、図々しいにも程がある。
 そう思うのに、今度は心を読んではくれず、一人で座布団を三枚出してきてしまった。
「いいのいいの。貴女はお客様なのだから。さ、お座りになって。すぐにタマも来るはずだから」
 クシナダヒメ様が腰を下ろすのを見て、私も座布団の上に座った。白い狐さんが乗れるようにと思って正座にしつつ白い狐さんを畳の上に下ろすと、やっぱり白い狐さんは私の膝の上に乗ってきた。しかも、膝の上で丸くなってしまった。
「ふふ、よほど貴女のことが気に入ったのね。私には全然近寄って来ないのよ」
 クシナダヒメ様が小さく笑ったところで、軽やかだが大分速い足音が聞こえてくる。
「母様、ユキさん、さあ、女子会なるものをいたしましょう!」
 部屋に入ってきたのは、急須と三つの湯飲みが載ったお盆を持ったウカノミタマ様と、お菓子がたくさん入った籠をくわえている黄色い狐さん。
 ウカノミタマ様はお盆を私とクシナダヒメ様の間くらいに置き、お茶を湯飲みに入れる。お盆の隣に黄色の狐さんがお菓子の籠を置いた。お利口な狐さんだ。
「ありがとう、黄金(こがね)」
 頭を撫でながらウカノミタマ様が黄色の狐さんにお礼を言っていた。
「お名前があるのですね」
 ウカノミタマ様は黄色の狐さんを黄金と呼んでいた。とすると、白い狐さんにも名前があるのだろうか。
「もちろんよ。ユキさんの膝に乗っている子は茜(あかね)と申します」
「茜......?」
「ふふ、その子が起きたら瞳の色を確認なさってください。瞳が綺麗な茜色なのよ」
 さあ、何から話しましょうか。湯飲みに口をつけてから、ウカノミタマ様が呟いた。
「まずは女子会? というものは置いておいて、お守りについてお話しますね。スサノオ様が無条件で教えていいとおっしゃったので、対価は求めませんよ」
 クシナダヒメ様は丁寧な口調で話し始めた。
「実はお守り自体が主張しているわけではないのですよ。ユキさん、お守りを貸していただけますか」
 私はお守りを彼女に手渡した。彼女は迷いなくお守りの紐を解いていく。
「お守りの中身を見るというのは、罰当たりな行為として古くから諌められているの。お守りの中には神の力が宿っているから。それを開けてしまうと、神の力が逃げてしまう、または、神の力を垣間見てしまう、ということでお守りは開けてはいけないものとされてきたのよ」
 紐を解き終わった彼女はお守りを丁寧に開けた。
「今の時代、理由まで知っている人の子は少なくなってはきたけれど、今でもお守りを開けてはいけないという戒めだけは語り継がれているの。貴女もそう思っていたでしょう。このお守りを納めた人の子も、その戒めがあった故に考えもしなかったのでしょうね」
 彼女がお守りを逆さにすると、何か光るものが彼女の掌に転がった。
「このようにして、お守りの中に大切なものを仕舞う人の子がいるなんてこと」
 彼女の掌に転がったもの。それは指輪だった。彼女は私に指輪を渡してくれた。
 まだまだ錆も汚れも知らない綺麗な指輪だ。
「主張をしていたのは、その指輪よ。お守りは、ただお守りとしての力しか持っていない。アメ様もスサノオ様も気づいていらっしゃったと思いますわ」
 クシナダヒメ様は、開いたお守りをまた元通りにしてからそれも私に手渡してきた。
「さあ、お二つとも、元の持ち主に戻してあげてください。お守りは本来一年経ったら焚き上げた方がいいのだけれど、そのお守りは、お守りとしてではなく他の価値があるのでしょう」
 私は受け取った二つを見つめた。
 もし神田さんのお姉さんの指輪がこれではなかったらどうしよう。知らない人の指輪を持つのは少し嫌だし、きちんと返してあげたい。
「大丈夫よ。それはおそらく、貴女の目的のお守りだから」
 一切の確証を持たない言葉なのに、神様が言うだけで酷く安心する。
「ありがとうございます、クシナダヒメ様」
 礼を言いつつ頭を下げれば、ウカノミタマ様が声を出す。
「これで必要なお話は終わりましたわね。では、女子会を始めますわ。まず、ユキさん。私のことはタマって呼んでくださいな」
 唐突に呼び方を強要してくるウカノミタマ様。
「えっと、でも......」
「でも、じゃないですわ。アメ様のことはアメ様って呼ぶのに、どうして私や母様のことは親しみを込めて呼んでくれないのですか」
 え、ちょっと待ってよ。
「アメ様って、ちゃんとしたお名前じゃないのですか?」
 やっぱり、私は彼のことを何も知らないらしい。
「あら、アメ様のお名前をご存じではないのですか?」
「私、彼のこと何も知らないのです。あれだけ神社に通っていたはずなのに、何故か何も彼のことが分からない。私は知りたいのに」
 どうしてだろう。どうして、私は彼のことを何も知らないのだろう。あれほどお世話になっているというのに。
「では、どうして知りたいと思うのかしら」
 クシナダヒメ様が問うてきた。
「いいじゃない。知らないなら知らないで。何も困ることはないわ。何も知らなくとも、貴女たちは共に時を過ごしてきたのでしょう?」
 確かに、知らなくても困らない。実際、彼のことを何も知らなくても、彼は私に優しくしてくれた。でも。
「知りたいと思うことは、いけないのでしょうか......。私は彼のことが少しでいいから知りたいのです......」
 ぎゅっと手を握りしめて絞り出した声は思っていたよりも小さかった。
「神様のことは分かりません。私は人で、人の考え方しかできない。だから、何も教えてもらえないというのは、信用されていないとか、必要とされていないとか、そういうことなのかなって考えてしまって......」
 寝不足の原因となった悩みを、ここでも考えることになるなんて。
 そんな私の気持ちは露知らず、クシナダヒメ様はクスクスと笑う。
「やはり私たち神と、人の子は相容れないのかもしれないわね。タマ、貴女もそう思わない?」
 ウカノミタマ様もクスクスと笑っている。こうして見ると、二人とも雰囲気が似ている。
「そうですわね、母様」
 ウカノミタマ様が私の方を向いて、指で己の首元を示した。
「その首飾り、アメ様からの物でしょう。それは、彼の御神体から作られていて、眷属の中でも、最も信のおける者にしか渡さないもの。アメ様がそれを渡しているのを見たのはユキさんで二人目ですわ」
 ウカノミタマ様の言葉に頷きながら、クシナダヒメ様も口を開く。
「それに、大事な人に己のことを何も話さないのはアメ様の癖なのよ。あまり急がないであげてくださいな。彼もそのうち、貴女に全て話すでしょうから」
 それにしても、人の子の信を得るのは難しいものね。クシナダヒメ様は静かにそう呟いた。
「話がずれてしまいましたわね。さあ、ユキさん、私のことを愛称でお呼びください。今の若い人の子らは、親しい友人の名前には『ちゃん』という敬称をつけるのでしょう。さあ、私のこともタマちゃんと!」
 いや、それは図々しすぎやしないだろうか。仮にも神様に対してちゃん付けなんて......。
「タマ様では駄目でしょうか」
「駄目です。さあ!」
 そんなことして、許されるのだろうか。
 クシナダヒメ様に助けを求めて視線を送れば、彼女はニコリと笑う。
「では、私のこともヒメとお呼びください」
 もういやだ、この母娘。
 結局、タマちゃん、ヒメ様と呼ぶまで許してもらえなかった。
 タマちゃんの神社での面白い話や、黄金さんと茜さんのお話を聞いているうちに、随分と時間が経っていった。
「そういえば、タマちゃんは、どうしてスサノオ様のことを父上、ヒメ様のことを母様とお呼びになるのですか?」
 タマちゃんに会ってから少しばかり気になっていた。呼び方って普通統一しそうなものだと思うのだが。
「ああ、それは、母様は私の母上ではないからですわ。私の母上はカムオオイチヒメと言って、母様とは別の神なのです。でも、母様も私にとっては己の母のような存在ですので、母様と呼ばせていただいているのです」
 そうだったのか。というか、私はアメ様だけでなく他の神様のことも全然知らないな。今度はアメ様に、古事記とか日本書紀を貸してもらおう。
「でも、書物によっては、私は突然生まれた神ということになっていたりもするのだから面白いでしょう。私にとって父上はスサノオ様ですし、父上も私のことを娘だと思ってくれているからいいのですけれどね」
「人の言い伝えは曖昧なところがあるわよね。それに影響される私たちも私たちだけれど」
 ということは、彼らの記憶も若干曖昧なのかな。
「さあ、そろそろ戻りましょうか。ユキさん。アメ様のことを一つだけ教えてあげるわ。ついてきて」
 ヒメ様に促されるままについていく。ちなみに、茜さんは起きなかったので私が抱えることになった。ヒメ様についてたどり着いた先では、心地の良い金属音が響いていた。
 剣で撃ち合いをしているアメ様とスサノオ様。
「アメ、お前本気ではないだろう」
「始めから本気ではありませんが、そろそろ帰らねばならぬ頃ですね」
 アメ様が一つ息を吸う。
「天羽々斬(あめのはばきり)」
 アメ様の声に呼応するかのように、スサノオ様の持っていた剣がアメ様の手の中に納まった。
「スサノオ様、僕が何の神か忘れたわけではないですよね」
「忘れるはずがないだろう。剣の神よ」
 アメ様はスサノオ様の剣を返しながら頷く。
「では、僕に剣で挑むのは得策ではないでしょう。全ての剣は、僕の命に背けないのですから」
「姉上の剣は別だろう」
 スサノオ様の言葉にアメ様はふっと口角をあげる。
「あれは服従できぬのではなく、させてはならぬ剣です。僕の宮様への忠誠を示すために」
 自分の剣を鞘に納めたアメ様は柏手を一つ打つ。すると、腰についていた剣が消えた。
 彼らの様子を見ていたヒメ様が小さな声で囁いた。
「他にもあるけれど、アメ様は剣の神でもあるのよ。例え誰かの神物(しんぶつ)であろうと、全ての剣は彼の命に従うわ」
「神物?」
「神の持ち物。人の子でいう私物かしら。だから例え自分の剣であろうと、アメ様に対して剣で挑むのは負け戦。分かっていてスサノオ様は剣で挑むのだから」
 そこまで言うと、ヒメ様はスサノオ様のそばに向かう。アメ様は私の方を振り向いて微笑んだ。
「ユキ、終わった?」
 ああ、いつもの彼だ。
「はい、ヒメ様が教えてくださいました。あとは、神田さんからの連絡を待つだけです」
「そうか。よかった。クシナダヒメ様とタマと仲良くなれた?」
「はい」
 それは良かった、と言って頭を撫でてくれる。それが何となくではあるが嬉しい。
「じゃあ、帰ろうか」
 私が頷くと、彼はスサノオ様たちがいる方へ体を向ける。茜さんはいつの間に起きたのかひらりと私の腕から飛び出してタマちゃんの足元に行った。
「それでは、今日はこれで失礼します。突然の訪問、失礼いたしました。クシナダヒメ様、タマ、これからもユキと仲良くしていただけたらと思います」
「今日はありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
 一礼してから頭を上げる。アメ様と二人で帰ろうとしたら、タマちゃんがお見送りを申し出てくれた。
「私がお二人を鳥居まで送りますわ」
 来た時と同じようにタマちゃんと歩く。来た時と違うのは、私とタマちゃんで会話をしているという点だろう。アメ様は少し後ろを歩いている。
 神域を出て、鳥居の前に立つ。
「お二人とも、お元気で。ユキさん、今度は私の神社にもいらしてくださいな。茜が喜びますから。アメ様もぜひ。それでは、また」
 手を振るタマちゃんに手を振り返して、アメ様に続いて鳥居をくぐった。そこには見慣れた光景が広がっていて、少しホッとする。宮司さんがお迎えに来てくれていて、神田さんから連絡があったと教えてくれた。今週末に来てくれるとのことだ。
 ヒメ様から受け取った指輪が彼のお姉さんの物であればいいのだけれど。
*
 神田さんは約束通り神社に来てくれた。忘れ物に関しては宮司さんと適当にでっち上げ、神田さんを絵馬掛けの所に連れて行った。前もって彼の絵馬は吊るしておいた。その前に立って、指輪を見せた。
「違っていたらすみません。八坂神社に連絡を取ってもらいました。運良くまだお焚き上げをしていなかったそうで、事情を話したら、快く渡していただけました。罰当たりであることは承知ですが、お守りの中を確認したところ、その指輪が入っていました」
 お姉さんのものですか、と確認する必要はなかった。神田さんは受け取った指輪をしっかりと握っていた。
「ありがとうございます。確かに姉の物です。姉の婚約者に渡そうと思います。ユキさん、今日はお時間大丈夫ですか? ついてきて欲しい場所があるんです」
 多分大丈夫だと思うけれど、一応、アメ様に確認したい。
「大丈夫だとは思いますが、一応確認をしてきてもよろしいですか?」
「大丈夫ですよ。ここで待っていますから」
 確か今日は祈祷の予定はなかったはず。絵馬掛けにもいなかったということは、おそらく神域にいるはずだ。
 予想は間違っていなかったらしく、彼は神域で本を読んでいた。
「アメ様。これから外に行ってきてもいいですか?」
「どうしたんだい。黄昏時までに帰ってくるなら大丈夫だよ」
「神田さんに指輪を返したら来て欲しい場所があるって言われたので。では、行ってきますね」
 簡単に事情を説明した。すると、アメ様も行くと言い出した。理由を尋ねても、彼は答えてはくれなかった。仕方がないので、アメ様と一緒に神田さんの所に戻ると、少しだけ驚いたような顔をしたが、何かを勝手に納得したように頷いた。
「確かに、女の子だけをついて行かせるのは不安ですよね。すみません、配慮が足りず」
 ああ、そっか。神田さんは私とアメ様が従兄妹だと言ったのを信じてくれているらしい。まあ、疑う必要もなかったのだろう。
 神田さんに連れられていったのは、大学病院だった。彼は迷いなく病院の中を進んでいき、一つの病室に入った。
「義兄さん」
 神田さんの呼びかけに、病室にいた男性が振り向いた。
「義兄さん、指輪見つかったよ。この人たちが見つけてくれたんだ」
 義兄さんと呼ぶ男性に指輪を渡しながら、私たちのことを説明した。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます。これでこいつも喜んでくれると思うんです」
 お姉さんの婚約者さんは何度も何度も私たちに頭を下げてきた。
「早く指輪を彼女に返してあげてください」
 アメ様が穏やかにそう言った。婚約者さんは頷いて、指輪を彼女にはめていた。何故かその時にアメ様が小さく、とても小さく柏手を打った。何をしているのだろうと思ってアメ様を見ていたら、部屋の外に出るよう指示されたので、そっと部屋を出た時だ。
「姉さん?」
 後ろから神田さんが呟いたのが聞こえた。その後、ナースコールが押されて、看護師さんが慌てて部屋に入っていった。目を覚まして良かった、と婚約者さんが泣く声が聞こえたので、まあ、そういうことなのだろう。
「何かしたのですか?」
「僕は何もしてないよ。さあ、帰ろうか」
 二人で病院を出て、まだまだ明るい空の下を歩く。
「そういえば、アメ様も私も、神田さんと大分関わってしまったけれど大丈夫なのですか?」
「何が?」
「彼が私たちの話をしたら、彼は見えない何かについて話すおかしな人になってしまいますよ」
 アメ様は少しだけ寂しそうに目を細めた。
「彼はきっと、僕たちのことをもう思い出せないと思うよ。ああでも、完全に忘れてしまうわけではないんだ。僕たちの名前や顔が思い出せないだけで、僕たちと出会ったことや、指輪が見つかった経緯は漠然とだけれど、覚えているはずだよ」
 何故、忘れられてしまうのだろう。私もいつか彼を忘れてしまうのだろうか。
 それを聞いたら、きっと彼は悲しむ。そう思うと私は何も聞けなかった。
 後日、車椅子に乗った女性と、その車椅子を押している神田さんが神社に来ていた。
「ここの女の子が指輪を見つけてくれて、そしたら姉さんの意識が戻ったんだ。彼女の顔も名前も忘れてしまったんだけどね」
「おかしな話ね。でも私もね、目が覚める前、誰かが手を叩く音を聞いたのよ。それがまるで、早く起きなさいって言われてるみたいだった」
 そんな会話をする二人を、アメ様と二人で見守っていた。





さわらび120へ戻る
さわらびへ戻る
戻る