貯水池に枯れ木の生える

藩荷原課


 
 姉のピアノを捨てに行った。姉が幼い頃少しだけ習い、それ以降一度も音を奏でることのなかったピアノだ。
 ゴミ処理場に直接持って行くというので、僕が父の手伝いに同行することになった。
 そのゴミ処理場は、ゴミを焼却した熱で温水プールを運営していた。
 幼い頃、その温水プールによく通っていた思い出がある。
 焼却熱で温水プールを温めていると知った時は、とても感動したことを覚えている。
 なんて環境に優しい場所だろう、と。
 温水プールの近くには公園があった。
 確か、大きな遊具と、長い遊歩道があったはずだ。そのような記憶がある。
 子供の僕は、自分の何倍も大きい遊具で遊び、行っても行っても端の見えない遊歩道を駆けた。
 とても楽しかった。
 はずだ。
 
 
 ピアノの廃棄は、僕が想定していたよりもずっとスムーズに終わった。
 ピアノは百二十円で引き取られた。十数年の間埃を被っていたピアノの終わりは百二十円だった。
 僕は運転席に座っている父に言った。
「父さん、時間があるようなら、プールの近くの公園を見に行っていい?」
「いいよ」
「ありがとう」
 このゴミ処理場に行くと聞いた時から、僕は思い出の公園に行ってみたいと思っていた。
 僕は、子供の頃のワクワク感を思い出したかったのかもしれない。
 父はレンタルした軽トラックを操縦し、温水プールの駐車場に停めた。
 山の中だから、公園はプールのある丘から少し下った場所にある。僕と父は公園に通じる階段を下りる。
 階段の近くには貯水池があった。この辺りには貯水池が数個存在する。
 子供の頃、僕はこの貯水池が好きだった。
 伝説のドラゴンが眠る巨大な湖にでも見えていたのだろう。
 成長した今改めて見る。ただの貯水池だった。
「子供の時はこの貯水池の存在意義が分からなかったんだけど、これって防火のためにあるんだよね」
「それもあるけど、大雨の時に洪水せんように調整する役割もある」
「なるほど」
 伝説の貯水池の神秘はあっさりと消えた。


 公園に入ると、思い出の中のものと変わらない形の遊具があった。
「小さいね」
「うん」
 形は変わっていなかった。しかし、遊具は明らかに、確実に、記憶の中のそれよりもずっと小さくなっていた。
 聳(そび)え立っていたすべり台は、僕の胸辺りまでの高さしかない。
 座るだけでも親に手伝ってもらわねばならなかったブランコは、簡単に征服できるほどのスケールダウンしている。
 なんと呼べばいいか分からない、独特な形のジャングルジムらしき遊具は、子供の頃は大冒険の舞台だったのに、今の僕では中に入ることも大変なくらいに、小さい。
「昔は、こんなに寂しい場所じゃなかったのに」
「うん」
 父は、頷いたまま黙った。


 僕たちは、遊歩道に向かった。
 以前来た時は、長すぎて遊歩道を踏破することはできなかった。少なくとも端の光景は覚えていない。
 遊歩道は大きな湖に沿って伸びており、なみなみと満ちた湖面に陽光が反射して輝いていた。
 それが僕の遊歩道に抱いていたイメージ。
 遊歩道と公道の境目に立って、僕は来た道を振り返った。
 ものの数分歩いただけで終わってしまった道は、どこの公園にもありそうなものだった。
 湖はただの溜池で、干上がって底の泥を晒していた。
 汚らしかった。


 もうする事も見たい物もなかったので、僕たちは遊歩道を戻り始めた。
「どうだった」
「面白かったよ」
 父に聞かれ僕は答えた。
 面白いというのは厳密には嘘だ。昔と全く同じ形をしているはずのものが、時が移ろうことでこんなにも味気なくなるという事実が興味深かったのだが、説明するのは面倒だった。
 父は寡黙な人だから、いつもは一言二言の会話で口を閉じるのだが、その時は珍しく言葉が続いた。
「俺が働きだした一年目で、取り掛かったのがあのゴミ処理場とこの公園と上のプールなんだ」
「そうなの?」
 父は市役所に勤めてもう二十年になる。
「あのゴミ処理場を建てるとき、ここらの住民から文句が出たんだ。土が汚染されるとか、有害物質がでるとか。その緩衝地としてこの公園が建設されたんだ。あと、環境アセスメントとか、そんなのを調べた」
 僕は父の話す内容を咀嚼する。
 公園やプールを作っても、その住民が懸念していた問題は解決されないだろうけど、何もないよりはずっとマシなのだろう。
 この場所は父が初めて仕事をした場所であり、僕だけでなく父にとっても縁のある場所なのだ。
 その事を知るとこの退屈な公園が少し特別に見えてしまうのだから、僕も現金な人間だ。
 父の方を見たが、遠くを見ているような、考え事をしているような、感情の読めない表情をしていた。
 分からないのも当然だ。僕と父では積み重ねた時間に大きな差があるのだから。ましてやその上に積もった感情などは伺い知れるものではないだろう。
「まあ、子供の頃の話だけど、僕はこの公園が好きだったし、あって良かったよ。子供は喜んだんじゃない?」
 なんと言えばいいかわからず、適当に無難な言葉を吐いたあと後悔した。
 そんなことは父も十分理解しているのだ。僕の発言は何の意味も持っていない。
「うん」
 そう呟いたきり、父は黙った。


 ふと、水音がした。
 反射的に音がした方を振り向くと、貯水池があった。
 フェンスで囲まれたその中に、少し気になるものがあった。
 何やら木のような、木と言うには少し細いような、いずれにせよ植物のようなものの上部が覗いていたのだ。
 水中から生える種類の植物はあるだろうが、木に見えるほどに大きく育つ種類があるのだろうか。
 好奇心に誘われ、僕は遊歩道を外れてその貯水池に近づいた。
 そのとき、僕は、
 少しワクワクしていたのだと思う。
 近づいて見れば、確かにその木は貯水池に生えていた。
 ただし水中から生えていたのではなく、土が盛り上がって陸地となっている場所があり、そこに生えていた。
 その植物は、木になりそこなったような、まるで枯れ木が生えているようにみすぼらしい木だった。
 この貯水池に水と一緒に流れ込んだ土が堆積してできた足場なのだろうか。
 水音がしたというのだから、この中に何らかの生き物がいるのだろう。音の大きさからして、中型の動物か大型の魚だろうか。
 窮屈ではないのだろうか。
 この貯水池の中では生きていくのは。
 確かに、この貯水池ならある程度の生態系もできているだろう。水辺の植物が生い茂り、少し狭いが寝床には十分なほどの陸地もある。
 それでも、この閉鎖された空間は退屈ではないだろうか。
 成長するにつれ、体が大きくなるにつれ、行動範囲は広がり、やがてこの貯水池の全てが既知の場所になってしまうだろう。
 それでも別の場所には移れない。未知を探しに行くことはできない。
 そんなの、ちっともワクワクしないだろう。
 淵をじっと眺めていると、父が僕の隣にやってきた。
「さっきの水音はなんだったんだろう」
「あれはたぶんヌートリアだな」
「ヌートリアか」
 父が幼かったころはまだここら一帯はまだ自然が豊かだったらしく、ヌートリアはよくいたそうだ。
「こんな狭い中で生きていけるのかな? 餌とか足りる?」
「ネズミとかは垂直の壁でも登れるから」
「そうか、あれもげっ歯類か」
 どうやら。
 僕が思っている以上に彼らは自由らしい。


 それから僕と父は帰路についた。
 車の中で父と色々な話をした。
 子供の頃一緒にカブトエビを捕まえにいった話。生みたての卵を買いに行った時の話。新しく建てられる給食センターの話。欠食児童の話。
 なんとなく。まったく根拠はないけどなんとなく。
 今日のことは忘れないだろうと。
 そう思った。


さわらび119へ戻る
さわらびへ戻る
戻る