夜の花

内藤紗彩



 僕が初めて彼女を見たのは、高校二年の夏休み前だった。
「なんでこの歳になってまで読書感想文なんか」
「まぁそう言わずに。読んでみると案外面白いかもよ」
「でもなぁ」
「とりあえず。ね」
「はぁ。僕は優香みたいに本の虫じゃないんだ」
「なっ」
 予想外に大きい声を人差し指でそっと窘める。はたから見ればこんなのも仲がいいように見えるのだろうか。
 優香は不機嫌そうに声を潜める。
「つまり拓斗は折角の休日に私なんかと図書館には来たくなかったと」
「そこまでは言ってない」
「......只今特別期間中ですので返却期限は二週間後になります」
 もういいですか、とでも言うように本を押し返され、僕は慌ててそれを受け取る。
 本に添えられた手は白く華奢で、その指の長さに何故か心がざわついた。
「あ、すいません」
「......それと」
 目を奪われる、そんな声だった。
 黒い髪。黒い瞳。黒いブラウス。唯一、赤い口紅がよく映えていた。
 その時僕は初めて彼女を人だと知った。
「図書館ではお静かに。あまり熱いと花も枯れてしまいますので」
 微笑とも嘲笑ともつかない顔で嗤う彼女の隣には見たことのある花がいけてあった。
 淡々と並べる言葉とは裏腹に案外表情豊かな人だな、と思った。

 課題は思うように進まなかった。
 家じゃ集中できないからと何度か図書館に足を運んでいるが、今日も彼女には出会えなかった。
 本はまだ返していない。
「そろそろ私に会いたくなってきたでしょう?」
「別に君に会いたいわけじゃないけど」
「決まりね。じゃあ明日六時に集合で」
 優香は言いたいことだけ言って電話を切った。
 景色も人も、変わり映えしない祭りなのに、優香は毎年楽しそうだ。
 申し訳ないがこの雨では明日の祭りも中止だろう。
 寧ろそんなことよりも、今ここに傘を持ってきていないことの方が僕にとっては問題だった。
 暗くなった空をぼんやりと眺め、はぁ、とひとつため息をつく。
 当たり前のように文明の利器を頭の上に掲げ道を我が物顔で闊歩する人全てが恨めしかった。
 ただ一人。
 彼女を除いては。
 運命かと思った。
 同時に運命なら仕方ないと思った。
「貴方も傘、忘れたんですか」
「......えぇ」
 いつか見たあの怪訝そうな微笑みだった。
 彼女が戸惑うのも無理はない。僕も同じくらい動揺していた。
 何故なら僕は、僕が気付いた時にはもう彼女に話しかけていたのだから。
 この後どうするかなんて考えてもいなかった。
 一瞬歩みを止め、軽く首を傾げて再び歩き出す彼女の背中を僕はただ追いかけることしかできなかった。
 不思議なことに彼女は早く歩こうとはしなかった。
 そして静寂が訪れないのはせめてもの救いだった。
 理由などは無かったが、この二点において僕は彼女の隣を歩くことを許された。
 雨に濡れながら夜の街を歩く二人は周りの目にどう映るのだろう。
「あの、」
 絞るように一音一音声を出す。
 このまま帰すわけにはいかないと思った。
「あまやどり、しませんか」
 あの時、僕の選んだ言葉は正しかったのだろうか。
「......そうね」
 彼女の意外そうな、それでいて全てを見透かしているかのような眼差しを、僕は綺麗だとしか思えなかった。
 髪も瞳も唇も、あの日見たもの全てが濡れていて、色とりどりのネオンの中で、彼女だけが夜だった。
 そこが歓楽街だということに気付くのが遅すぎた。

 纏った布を脱ぎ捨てながら僕らは淡々と会話をした。
「司書さんは元気ですか」
「君、どこかで会った?」
「図書館で一度」
「そう。彼女さんは」
「彼女じゃないですけど元気です」
「なら、明日晴れるといいね」
「行くなんて言いましたっけ」
「顔に書いてあるよ」
 それから、そうするのがあたかも当然であるかのように僕らは唇を重ねた。
 凍えた身体が熱を帯びる。薄暗い部屋の中で彼女の肌は透き通って見えた。
 ある種の恐怖すら抱かせる美しい造形を前に、もう逃げられないな、と感じた。
「どうしたの」
「いや、あまり熱いと花を枯らす、と思って」
「そんなこと言った?」
「顔に書いて、ありました」
 僕は嘘を吐いた。
 彼女の浮かべる表情が恍惚か怠惰か、まして真意か演技かなんて花屋でもない僕に分かるはずもなかった。
 目を覚ますといつの間にか夜はいなくなっていた。
 ぼんやりとシャワーを浴びながら、これより昨日の雨の方が気持ちよかったなと思った。
 もう二度と会うことはない、そんな気がした。
 
「遅い」
「まだ五分前じゃないか」
「私はもっと前からいたぞ」
「......集合時間を守れ」
 このやりとりも今までに何度繰り返したことだろう。
 僕は不思議でならなかった。
「なぁ、毎年何の変哲もない祭りのどこがそんなに面白いんだ?」
「わかってないなぁ拓斗は」
 先を行く優香が振り返る。
「こういうのはこれでいいんだよ」
 間髪入れずに返された答えに些か拍子抜けした。
 うん、まったくわからない。
 投げかけられた笑顔に僕は笑顔で返した。
 もしかしたら僕は本当に何もわかっていなかったのかもしれない。
「ほら、はやく」
 優香は僕の手をぐいと引っ張る。
 たとえ歩幅や歩く速さが違っていても、僕が君の隣を歩けたのは君がこの手を離さないでいてくれたからだ。
 見慣れた髪は朝焼けのように明るいし、丸い瞳は口ほどにものを言う。
 そんな君の薄桃色の頬と唇は、齧りかけの真っ赤なりんご飴より遥かに色鮮やかに見えた。
「ありがとう」
「え?」
「僕を、ここに連れてきてくれて」
「なに、どうしたの急に」
 優香は可笑しくてたまらないといった様子でけたけたと笑う。
 よく笑う人だと、そう思った。
「ねぇ、拓斗」
 その先の言葉は静寂に掻き消される。
 一瞬。
 花が咲いた。
 夜に照らされたその花に僕が心奪われるのに、その一瞬は十分すぎるほど長かった。
「優香の隣にいたい」
 それが質問の答えになっていたかどうかなんてこの際どちらでもよかった。
 変わり映えしない祭りにまた来たいと思った。


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