片道12分の恋 蒼空夕 午前7時23分。いつものバスが到着し、ドアが開く。スマホの画面からふっと目を離すと、俺の前にいる人たちがぞろぞろと乗り込み始めたところだった。 流れに大人しく従い、既にぎゅうぎゅうの車内に足を踏み入れる。まだ梅雨前だというのにかなり蒸し暑く、何もしていなくともじっとりと汗ばんでくる。くそ、半袖着てくれば良かった。 俺は素早くイヤホンを付け、不快感から逃れるように音量を上げた。 聞いているのは俺が今好きなバンドの新曲。先週リリースされたばかりだが、もう何回も繰り返し聞いているほどのお気に入りだ。 目的地に着くまでの16分間、この曲の世界に入り込もうと目を閉じた。 「まもなく、バス発車します。ご注意ください」 運転手の聞き飽きたアナウンスが、聞きなれたメロディーの後ろで小さく聞こえた。 「あの、すみません」 バスが発車して数分、誰かが俺の袖をくいと引っ張るのを感じた。渋々イヤホンを外しながら、目を開ける。 「...はい?」 そこにいたのは背の低い女の子。さらさらの黒髪をポニーテールにしている。少し上目遣い気味になっている彼女の視線に思わずドキッとする。 さっき一瞬でも不愉快な表情をしてしまったことに、マッハで後悔した。 「あ、すみません、集中してたのに...あの、イヤホン音漏れしてますよ」 「は、はい、音漏れ...えっ!?音漏れ!?」 慌てて周囲をぐるりと見渡すと、少し迷惑そうな視線を向けられていることに気付く。 「す、すみません!!」 俺は急いでスマホの再生画面を閉じ、イヤホンのコードをぐるぐる巻きにしたそれをポケットに突っ込んだ。 そんな慌てた俺の様子が滑稽だったのか、隣の彼女はクスクスと笑っている。 何だかものすごく恥ずかしくなり、思わず俯いてしまった。 「あ、ごめんなさい...!笑うつもりじゃ...」 彼女はそう言うが、明らかに笑いを耐えている顔をしている。やめてくれ、余計にダメージが来る。 「いや、いいよ...。あ、教えてくれてありがとね」 「いえいえ、どういたしまして。あと、あの...」 何かを言いたげな彼女。どうしたのか、と聞くと目を輝かせて彼女が答える。 「あの、実は...私も貴方が聴いてたバンドのファンなんです...!さっきの新曲ですよね!?私も聴きました!めっちゃ良いですよねー!」 「ま、マジ!?ホントそれ!サビが神だよね...!」 ―ゴホン、というサラリーマンの咳払い。思わず大きめの声になってしまった俺たちは、肩を竦めた。そして顔を見合わせて苦笑した。 小声を意識し、俺は話を続けた。 「それにしても吃驚した...あのバンドけっこうマイナーな方だから、語れる人が居なかったんだよね...すげぇ嬉しい」 「私もです!ホントに嬉しい...大好きなので...」 『大好き』という言葉に何故か、固まってしまった。いや違う、これは俺に向けられたのじゃなくて、あくまでバンドに...。自意識過剰かよ、何考えてんだ...。 俺が一人で悶々としている間に、バスは停車した。表示を見ると、この辺では有名な女子高の名前。 「あ!私ここなので失礼しますね!ちょっとでしたけど楽しかったです!」 またね!と笑顔で俺に手を振った彼女は、そのまま乗降口に行ってしまった。 『またね』...か。勝手にまた会えると思ってしまう自分の単純さには笑えてしまう。 僅か数分間の間、名前も知らない女の子に何回ドキドキしただろうか―。そんなことを考えながら、ポケットからずり落ちそうになっているスマホを再び手にする。 「ドア閉まります。ご注意ください、発車します」 運転手のアナウンスをバックにさっきの曲の画面を開く。見慣れたはずの曲のタイトルがどこかくすぐったかった。 ―俺の目的地に着くまであと4分。この曲の再生時間と同じ。 イヤホンを付け直した俺は、音量を小さめに設定した。そして少し汗ばんだ指で再生アイコンをタップする。 流れてくるサウンドはいつもと違う感じがする、なんてことを考えながら俺はバスに揺られた。
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