祖父のこと

霧立昇


 私には祖父との思い出がない。私が物心つくころには、認知症が随分と進行していて、会話もおぼつかなくなっていたからだ。唯一、祖父にまつわる思い出と呼べるのは、小学校に上がったばかりの頃に祖母が私に語ってくれた話だ。
 私がまだ四歳のとき、この頃には祖父にもう認知症の初期症状が表れ始めていた。一体何がきっかけとなったのか、祖父は自分の財布がないと急に騒ぎ始めた。祖母はもう慣れていて動じなかったが、ちょうど遊びに来ていた幼い私は何が起こったのか分からず、祖父の剣幕に怯え泣き出した。興奮しきった祖父と泣きじゃくる私を持て余した祖母はとりあえず私を背負って家の外に出て、祖父が落ち着くのを待っていたのだという。あの時は大変だった、と祖母は苦笑しながら話した。しかし私はまったくその日のことを覚えておらず、まるで他人の話を聞くような思いで聞いていた。
「認知症にかかると人は怒りっぽくなるって言うけど、親父はずっとそんな人間だったよ」一緒に祖母の家に来ていた父が吐き捨てるように言った。父の口ぶりから、祖父とは仲のいい親子とは呼べない関係だったことはこの頃の私も薄々気づいていた。
「大げさに言いすぎ」
「本当の話だろう。俺が中学のときなんか...」
「もう分かったから」そう言って話を切り上げた祖母の顔は、心なしか寂しそうに見えた。
 この頃祖父は介護施設に入っていて、月に一度か二度は父と祖母と一緒に会いに行った。一応私も話しかけてはみるのだが、いつも反応はなかった。正直に言って私にとってこの時間は気詰まりだった。思い出のない、会話もできない祖父は私にとって他人よりも親しみのわかない存在だった。とうとう孫としての思い出を何一つ持たないまま、祖父は九十一回目の正月を迎えてすぐに亡くなった。施設から病院へ搬送されて間もなくの死だったため、看取ることもできなかった。病院からの電話を母から聞いて、私は黙ったまま、葬式の日になれば少しは悲しいと思えるだろうか、などと我ながらあまりにも薄情なことを考えて、勝手に自己嫌悪に陥っていた。頭では祖父の死を理解しているのだが、気持ちはまったく追いついてこなかった。
 通夜は家族だけで行い、葬儀は祖母と同じアパートに住んでいた人たちも参列した。通夜は滞りなく進み、感傷に浸る暇もなかったが、葬儀で喪主を任された父が涙で声を詰まらせたのを見たときに初めて、日頃の父の態度を知っている私はしんみりとした気持ちになった。最後に棺が開けられ、祖父の顔を見ることができたが、まるで蝋人形のようで、私の知っている祖父の顔とは似ても似つかなかった。棺を覗き込んだ全員が申し合わせたようにきれいな顔だと口々に言うのを白けた気持ちで聞いていた。とうとう骨上げの時になっても、涙は出なかった。祖父が死んだことよりも、そのことが余程悲しかった。
 法要や精進落としも済ませてようやく家が落ち着いた頃、父は私に祖母の家の鍵を貸してくれた。遺品の整理をするから、もしも捨てられたくないものがあったら今のうちに取りに行け、ということだった。私も素直に祖母の家に向かった。足腰の弱った祖母を一人にするのを心配した叔母が自分の家で祖母と同居することを提案し、祖母も同意したため祖母の家は無人になっていた。祖母の持ち物は叔母が何度か取りに来ていたので、随分と家ががらんとしてしまったように思った。しかし来たのはいいものの、特に思い入れのある品もないし、そもそも祖父の部屋のどこに何があるかもよく分からない。私は昔から本の虫だったので、祖父の本棚に何か面白そうな本があればそれを貰おうと思って本棚を探すことにした。祖父は歴史文学が好きだったとみえて、本棚の中身は大半が戦国時代や幕末を舞台にしたものばかりだった。それ以外は面白みのない実用書で、興味をひかれなかった。
 ふと、黒い表紙の小さな本が目に留まった。それは手帳だった。開けてみると、祖父の日記帳だった。一ページ目の日付は私が一歳の頃で、このときは祖父もまだしっかりしていて、筆跡も綺麗だった。祖父は几帳面な性質だったらしく、その日の天気、買ったものの値段まで事細かに書いてあったが、自分がどう思ったのかなどといったことは一切書かれていなかった。日記というよりは備忘録といったほうが近いかもしれない。祖父の人柄を知れるものは何かないかとしばらくページを手繰っていたが、私の手は六月三十日の日付のあるページで止まった。この日は私の誕生日だ。それまでただ出来事だけを淡々と記していた祖父の日記だが、そのページにはこう書かれてあった。『孫の一歳の誕生日 息子の赤ん坊の頃の面影がある』祖父の個人の思いが記されてあったのは結局このページだけだった。私はこの日記帳だけを手に持って、家を出た。
 
 私にとっての祖父の思い出は、祖母が語ってくれた話と、この日記帳のたった一行だけである。だから、今でもこの日記帳は私の本棚にある。
 
 
 
後書き                   霧立昇

 さわらびには初めての投稿となります。粗が目立つかもしれませんが、気に入っていただけたら幸いです。
        
 


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