特に意味のない世界の話

白内十色



 現在の私の世界観を紹介したいと思う。より、正確に言うならば、世界観の上位に存在すると私が思い込んでいる、メタ的な世界の話をしよう。私の目には世界は、こんな風に見えている。

 私の世界では、初めに虚無がある。すなわち何もない。愛も勇気も理性も夢も、一切合切が存在しない世界が、心の奥深くに根付いている。
 理由を話そう。私はどうして感情を信じないに至ったのか。その原点は、唯物論に近いものであったと思う。物質が精神の本質だとする考え方だ。ただし、単純な唯物論に帰着するものでもないため、安心していただきたい。
 物体は、物理学に従って運動する。正確には、物体の運動する法則を記述した学問が、物理学だ。ここで重要なのは、「物体の運動には法則がある」ということだ。まさか宇宙のどこかで神様がサイコロを振り続けているわけもあるまい。
 ランダムな事象は存在しない。
 私の思考はここから始まる。この宇宙を構成するありとあらゆる物体は何らかの物理法則に従って動いている。現代の物理学がそのすべてを解き明かしていようがいなかろうが関係ない。解き明かすことは永久に出来ないだろうが問題ない。前後の脈絡なしに物体が運動することはあり得ないと私は考える。ボールの転がり方が一見適当に見えるとしても、同じ配置と同じ力を加えてやれば、必ず同じ転がり方をする。これが、私の第一の仮定として、確信的に根付いている概念になる。
 つまり、物体を動かす唯一の方程式さえ入手できれば、あらゆる物体の今後の運動が、理論上計算可能となる、ということだ。
 この世界は、素粒子だのニュートリノだの微小な物質がぶつかり合ったり引っ付きあったりして構成されている。これは現代の物理学の見解で、もしかしたら間違っているかもしれないが、実際似たようなものであると考えられる。
 ここで、いささか唐突ではあるが、神を登場させよう。この神は、便宜上私が名付けたもので、宗教的な神とはいささか性質が異なる。
 神は、巨大な計算機として仮定される。宇宙すべての物質の運動を、前述の法則に従って計算することのできる架空の計算機だ。最大限に高性能な宇宙シミュレータ。そして、とある機能が追加されている。
 神の仕事は単純にして明快だ。宇宙すべての物質の運動を計算している。もちろん、実際には物質はコンピュータ内ではなく現実でぶつかり合っているわけであるから、神の定義は宇宙の物質の運動全体と言うこともできるだろう。とにかく、宇宙に起こるすべての出来事は、神の内部で発生している。
 神の誕生はビックバンだ。何らかの作用により物質がまき散らされ、神は計算を開始する。最初は水素原子同士の衝突を計算すればよかったが、だんだんと重い元素が出現し、星を構成し、やがて宇宙の片隅で人間が生まれるに至る。
 さて、ここでいう人間には意思があるだろうか? 答えは否だ。少なくとも、神が口をきいたならそう主張するだろう。この人間は私が計算しているのだ、自分の意思で動いたわけではない、と。
 ちょっと待ってくれそんな無味乾燥な話は聞きたくない、と思われる方もいるだろう。しかし、私はここで、自由意志の存在を否定しようとしているわけではない。そのことはまた後程述べるので、今は待ってほしい。この議論はそれを述べるまでの過程として、私にとって必要なのだ。
 神によって否定された意思の話に戻ろう。私たちに意思はあるだろうか?
 物理学的な見方をすれば、我々に意思は存在しない。物質の運動の集合体にすぎない。意思だと思い込んでいるものは、大脳が見せる幻想だ。神経細胞がひっきりなしに送りあう電気信号が、意思と思われるものの正体である。
 私たちが思考し、愛だの恋だのと一人前に生きているような顔をしているのは、すべてを計算する神から見たら道化の戯れ言にすぎないものだろう。もちろん、この文章さえも! すべては夢のようなもので、価値があると私たちが信じている物は、物質にすぎないという点で無に等しいだろう。YouTube を再生するときに出現するレバーが、神にも機能として付属している。レバーを右へ動かすと世界は未来へ進むだろう。世界を計算するとはそういうことだ。人一人の生き死になどゼロとイチの羅列のように瞬く間に消え去るだろう。

 さて、ここまで私は、理論的な観点から、世界の真実と思われるもののことを話してきた。世界は神の計算するままに時を進め、私もその計算通りにこうしてこの文章を書いている。だが、ここからは、私の個人的な話をしようと思う。そして、この話が、現在の私の思考を決定づける重要な要素となっている。

 ここから語られる話は、哀れな道化の物語だ。世界を信じない夢を見た道化の話をしよう。
 ある日、目を覚ました道化は、手足から天へと延びる糸を見る。上を見上げれば、無機質な神の姿。道化はすべてを悟る。窓から見下ろした街並みからは、おびただしい糸の群れ。道化は、静かに目を閉じる。そして、次に目を開けた時には、すべて忘れてしまった。道化は街に繰り出す。糸はもう目に映らない。仲間と笑いあって、道化は幸せであった。

 これまでの議論は、日常を生きる上において、どこまでが必要であろうか? 世界の真実は物質にすぎなくても、世界を楽しんではいけない理由がどこにあるだろうか?
 もちろん、先ほどの議論によると、「楽しみ」や「幸せ」の概念も、人間が進化するうえで獲得した幻想にすぎない。私の思考すべても、今この文章を書いていることも、宇宙の始原から定められた理に従っているにすぎない。未来を変えることはできない。
 私は、それを心のどこかで信じ込んだ上で、それを無視しながら生きているのである。私が信じていることは二つある。一つは、宇宙は物質的に計算可能であること、もう一つは、一つ目を無視しても構わない、ということだ。
 今、私たちは普通に思考し、生活していると思い込んでいる。いわば、人類全員で同じ夢を見ている状態と言える。自分が生きている、という幻想はどうしても私の頭を離れなかった。同様に、幸せの概念も。私は、幸せを求めている。そのためには、世界を信じなくてはならない。その思考も操られているだなんて、考えるだけ無駄ではないか?
 これは、一度は世界が物質にすぎないと信じ込んでしまった私が、生きるために生み出した、考え方だ。一度、考えたことを忘れてしまって、その後から、愛とか友情とか、他人と親密に関わるために必要なもののことを、信じてみることにしたのだ。

 ここで、虚無である世界に、嘘が一つ塗り重ねられた。私にとって、世界は少し色を増したように思われる。たとえその本質が物質の集合体にすぎないとしても、世界を楽しんではならない理由もあるまい。私は、世界を楽しむことにした。

 私は、すべての物がおしなべて無価値だと考えている。そして、同時に、価値があると嘘をつく。嘘を信じてはならない理由がどこにあるだろうか? 私の目には、世界は平たく広がった虚無に見える。あらゆる思想や常識は、世界の真実の前に消え去り、平坦にされた。そして、私はもう一度夢を見る。世界が人の思う通りに動いている夢だ。道化に許された行いは楽しむことだけだ。世界に操られるマリオネットである運命からは逃れられない。ならば、最も自分に都合のいい夢を見ることが、道化のするべき行動ではないか?
 私はもう一度世界を組み立て直すが、それは、現行の世界である必要はどこにもない。同じく道化の作り出した世界観に従う必要はない。
 真実は人によって異なっても構わない。君の掌の上にリンゴがあるとして、それをミカンであると言い張ったところで、世界の前には同じことだ。すべては夢の中の出来事だ。他人と意見が異なったとしても、世界に操られるもの同士、どちらが正しいかなどは問題ではない。
 私は、感情が物質にすぎないと思い込みながら、感情を肯定する。嘘のペンキで世界を覆い隠す。その方が美しいと私は考えた。

 私は世界を本当には信じていない。信じていないからこそ、好き勝手に生きることができる。信じるものを自分で作り上げてみることにした。私の体は、現実世界からわずかに一センチ、四次元方向にはみ出している。私は、自分だけの世界を手に入れた。

 どうか、この哀れな道化を見守ってほしい。しかし、忘れてはならない。君たちの腕からも、天までつながる糸が伸びている。そして、その糸は別に見なくても問題はない。



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