やさしさに沈む

沢井畔



 しゃらしゃらと、木の葉同士が擦れ合う音が、頭上から降ってくる。いつ聞いても、自分を落ち着かせてくれる素晴らしい音色だ。これは樹木以外には決して発せないものだと、何度も何度も、同じことを考える。
 午後の授業をサボタージュして本当に良かった。この頃、というより一年以上、睡眠不足は続いていて、上手く眠ることができていないけれど、今日こそは、という無駄な期待を持てるくらいには、程よく風の吹く素晴らしい昼下がりだった。
 そこに水を差すように、隣から刺々しい言葉が掛けられた。
「いい加減授業出ないの、期末テストまであと少しだよ」
 どの口が言うのか。教室に向かわずに、今まさに教師が取り扱っているだろう教科書の範囲を開いて自習をする、という愚行に及んでいる幼馴染は、こちらに一瞥もくれずに、説教じみたことを口にした。
「お前だってサボりだろ。というかここで勉強するくらいならさっさと教室戻れ、優等生サン」
 欠伸を一つしてみる。けれど、案の定眠気は訪れてくれない。
「しずかが行くなら、私も行く」
 ぺらり、と乾いた紙の捲れる音がした。寝そべっているこちらからはよく見えないけれど、きっと真剣な瞳が、活字の列を追っているのだろう。今は確か、古典の授業中だった筈だ。
「ほっとけ。俺はここで寝る」
 すると、俄かに彼女は俺の方に意識を向けた。
「眠れそうなの? 今日は」
 また随分と心配そうな顔をしてくれるものだ。笑えるくらいにこちらを真っ直ぐ見つめてくるものだから、対応に困る。
 昔から、本当にお人好しなのだ。困っている人間を放って置けないどころの話ではない。助けて、を言えない人間だろうと、隠すことに長けている奴だろうと、仕舞い込んだ苦しみさえ引っ張り出して、力になろうとする。
かといって、自分のことを疎かにもしない。やるべきことはやるし(高校での学業成績も優秀だ)、自分を大事にした上で他人に気を配る。大した体力の持ち主だ。
 だから、今も俺の傍にいるのだ。こいつが俺を大事に思っているとか、幼馴染だから、とかそんなのは理由じゃない。こいつが馬鹿みたいに優しい奴だからだ。
 俺が眠れなくなったのは、もう一年半ほど前からだ。ちょうど高校に入学してすぐのことだった。ある真夜中、寝苦しさを感じて目を覚ましたら、父親と再婚したばかりの継母が、俺の首を絞めていた。それだけ。
 目を瞑ったままでもがく振りだけに留めた甲斐あって、家の中は今も平和だ。俺が起きていたと知られてはいないのだろう。すぐに部屋を出ていかれたし、継母があんなことをしたのは、たった一回だけ。けれど、それが一等恐ろしかった。理由なんて知らないが、何を思って俺に危害を加えようとしたのか。何故、それをおくびにも出さずに、変わらず良い人を家庭内で演じられているのか。それとも演じているのではなく、俺の息の根を止めようとしたあの人と、後妻として、家族として普通に接してくるあの人は、同じ肉体の中で、ただ同居しているのだろうか。どちらかが偽りなのではなく、二面性、ということなのだろうか。寒々しい思考は、今でも不意に顔を出しては、止まってくれない。
 そして、そんな人を死んだ母の次に選んだ父親にすら恐怖してくるのだから、もうどうしようもない。きっと、父は何も知らないままだろうし、俺もあの日のことさえなければ、あの人を、一応家族になったのだと、受け入れて暮らしていたのに。
 そんなわけで、俺はあの家で、気付けば眠れなくなっていた。初めは友達の家に泊めて貰ったり、上手いこと誤魔化して公園で寝たりしていたものの、もちろん長くは続けられなかったし、いつしか場所を変えても眠れなくなってしまった。
 今では、自分から眠ろうとして眠ることは、ほぼ完全にできなくなっている。取れる睡眠は、どちらかと言えば気絶に近い。ふ、と意識を失い、目を覚ますと、何十分か、運が良ければ何時間か経っている、そんな浅く質の悪い休息で、俺は生きていた。いつも頭がぼうっとして、ちかちかとあらゆる光が目に痛くて、それでも確かに呼吸をしている。
 隣の幼馴染に詳しい話なんてしていない。この年になっても、お互いフリーダムというのか、思春期らしい子どもでないから、異性同士でも普通に口は利いていた。だから、ちょくちょく、最近眠そうだね、ちゃんと寝なくちゃだめだよ、とは言われていた。それに対して、ゲームのやりすぎで、だの、今日は寝る、だの散々嘘を吐いてきた、けれど騙されてくれなかった。流石、他人の悩みを引き摺り出して解決しようとする彼女らしく、こんな風に、授業をサボる俺の傍にいてくれるようになってしまった。ここまでしておいてどうして眠れないのかを尋ねられたことは一度もない。それがひどく助かる。同時に、申し訳なさが募っていく。
「多分無理だけど、その内寝てるだろ。いいから、明日香、授業行って来いって」
 木漏れ日の下、瞑目してみる。意識はなかなか沈んではくれない。それどころか、腕に直接触れる芝生の感覚が、一層確かに伝わってくる。こんなに寝たいのに、今日も叶いそうになかった。
 ふ、と目元に手がやられた。目を閉じていても、光の感じ具合でそのくらいは分かる。明日香の細い指先が、手のひらが、俺に触れていた。
「何が怖いの?」
 やわらかくて、そのまま縋ってしまいたくなる声音だった。心臓が一瞬、静止したような錯覚に陥る。
 でも言えなかった。言葉にすることで、更に明瞭に思い出すことも、こんな話を、大事な幼馴染にすることも、嫌だった。
「言いたくない」
 ちょっと悲しそうに、そう、と言われた。違う、お前が頼りないとか、そういうことじゃない。けれどそれも口にできない。
「でも、大丈夫だよ。怖いものがしずかに近付かないように、私が見張っててあげる」
 夢の中だとしても、なんて続いた言葉に、驚いて、明日香の手の下で目を見開いた。じわ、と温かいものが滲んできて、焦る。彼女の手が濡れたら、悟られてしまう。
 それなのに追い打ちをかけるのだから、こいつの優しさは行き過ぎて、どこか暴力的ですらある、なんて思った。
 歌っているのだ。二人の共通の思い出に残る、子守歌を、か細い声で。小さい頃、幾度とお互いの家を行き来して、泊まり合って、一緒に歌って、いつしか幸福に朝を迎えた。過ぎる時間に美化されるまでもなく、そのままで美しい記憶。
 あの頃に戻りたい、と思った。無邪気で、眠ることが怖いどころか、安らぎに満ちたものだったあの頃に。
 流れていく涙はとうに彼女にばれていただろう、なのに、手を外して覗き込まれるどころか、そのまま、反対の手で頭を撫でられただけだった。子ども扱いもいいところだ、あの頃に戻れるわけでもないのに。
 けれど、久し振りに眠気がやってくるのを、確かに自覚していた。あれだけ眠くても意識を自分から手放せなかったのに、今にも泥のように眠れそうだった。
 嘘だろ、と声を出してみると、涙も相まって予想以上にふにゃふにゃと情けないものになってしまった。きっとあと数分で、欲しくて堪らなかった、安らかな眠りの中へ潜れるだろう。
「明日香」
 艶やかな黒のショートカットが、近くなる気配がした。彼女がこちらに顔を近付けたらしい。
「おやすみ」
 穏やかな声で、おやすみなさい、と返事をされる。
 それを聞き届けて、俺は漸く眠りについた。


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