二人を死が結ぶまで

秋野優



 その日を境に世界は変わった。
 そんなことは後世の研究者が判断するもので、当事者はそんなこと思ってもいないことが多々ある。しかし、この日、血染(シャルラ)平原にいたすべての人が確信していた。自分たちは神話の一ページを目にしているということを。

 ノルネイス王国の兵士であるヘラオス・グリードは自らの武器である、長槍を握りしめ目の前の光景をただ呆然と見つめていた。
 それは、ヘラオスの隣にいる上官も、先ほどまでヘラオスと切り結んでいたはずのベスティア皇国の剣士でさえも、そうだった。 
 平原のちょうど真ん中。そこでは二人の男女が向かい合っていた。
 片や白銀の鎧に身を包む女性。ノルネイス王国の第一王女であり、王国軍の総司令官である元帥を務めるユースティア・レィ・ノルネイス。片やボロボロの衣のみを身に纏う男性。ベスティア皇国の第二軍を任され、現皇帝であるケリュケオンの右腕とも言われるセト・ガーム。両者とも今この場にいるそれぞれの軍の最高権力者だった。
 ユースティアが振るう大剣が唸りをあげてセトに迫る。半端な盾や鎧ならば一刀の下に両断するであろうその斬撃。まして、戦場に相応しくないほど軽装なセトにとってはなおさらだ。
 しかし、セトは手に持つ棍で真正面からそれを受け止める。根を裂いていく刃。そのまま、セトにもその刃が届くかに思われた。
 しかしそうはならなかった。
 ユースティアの手から感じていたはずの手ごたえが消失する。何もない虚空を切り裂いていく。そのまま、大剣は大地をえぐり取る。平原が揺れ、地面が割れる。
 体勢を崩したユースティアにセトは短槍を突き出す。先ほどまでなかったはずのそれがどこから現れたのか、そんなことを考える暇ものなく穂先がユースティアに肉薄する。
 避けようのないタイミングで繰り出された一撃。だが、こちらも届かない。その穂先がユースティアの視界に写った瞬間。宙を泳ぐ水流に槍が絡めとられ、受け流された。
 大剣が閃光のように跳ねる。今度は確かにセトの腹部を捉えた一撃。ガキンと鈍い金属音が戦場に響く。宙を舞うセト。しかし、それでも彼は無傷だった。危なげなく着地すると同時にユースティアへとナイフが飛ぶ。
  互いに致死の攻防を何十、何百、何千と繰り返す。
「・・・・・・何だよ、これ」
 思わずヘラオスの口から言葉がこぼれる。
 何が起こっているのか理解ができない。俺たちは、戦争をしに来たんじゃなかったのか? なぜこの二人は一騎打ちなんかを始めているんだ?
 混乱と共にどうしようもなく分かってしまった。この戦いに手を出すことはできない。技とか力とかの問題じゃない。生き物としての階位が違う。紅石兎(カーバンクル)は金色獅子(マンティコア)には絶対に敵わない。これはそう言った話だ。
 紅石兎は金色獅子からは逃げるしかないし、金色獅子は紅石兎のことなんて餌としてすら見ていない。目の前にいるはずなので果てしなく遠い。そう感じた。
 そして、へラオスはその直感が間違っていなかったことを知る。
 ふと、視界の端に見覚えのある何かが映った。ストゥル・フォン・パッシオ。へラオスの直属の上官である男だ。
 その顔に悲壮とさえいえるような覚悟を滲ませながら未だ戦い続ける二人の元へと駆けていく。自身を奮い立てるため雄叫びを挙げる。
 そう言えば、彼はユースティア王女の熱狂的なファンだったか。その姿を眺めながら思う。
 あ、死んだな。平原にいる誰もが数秒後に広がるであろう惨状に目を背ける。それは、セトへ元へと走るストゥルでさえも同じだった。もはや目すら瞑って突き出した一撃。
 しかし、返ってきたのは命を消し飛ばすような痛みでも肉を裂き、骨を割る嫌な感触でもない。
 目を開けストゥルが見たのは、驚愕の表情でこちらを見つめるベスティア皇国軍の姿だった。ストゥルが事態を理解する前に、背後から轟音が響く。反射的に振り返ると、そこでは何事もなかったかのように戦い続ける二人の姿。その向こうには先ほどまで自分がいたはずの王国軍がいた。
 振り返り、恐る恐る手を伸ばす。差し出された指先に何かが触れた。それは、例えるならば粘性生物(スライム)の様だった。
 指先にわずかに抵抗を感じ、込めた力が一定値を超えるとプツンと突き抜ける。突き抜けた先は、戦場の反対側だ。
 両軍のトップ同士の戦い。それは、文字通り誰にも手を出せない領域で行われているのだった。
 両社の戦いは続く、誰の邪魔の入らないところで。


 嫌に晴れた日だった。メネス・ヴァン・リーガードは書類から目を離し、窓の外を見つめる。視線の先は遙か北の空。
「・・・・・・ふぅ」
 一つため息を付き、再び書類へと目を走らせる。しかし、文字の上を目が滑って行くばかり。内容が一つも頭に入らない。
 その時、メネスの執務室の扉がノックされる。
「入れ」
 その音に被せるように入室を許可する。入ってきたのは、メネスの営む商会の下働きの一人だった。
 彼の手には一枚の紙が握られている。くすんだ色をしたそれは街間の情報の伝達に使われるものと同じだった。
「会長、シャルラ平原に放った者からの連絡が届きました」
「分かっている。早く読み上げろ」
 メネスは男に目を向けることなく、先を促した。その言葉を受け、男が伝達を読み上げる。
「人獣戦争は皇国が勝利。しかし、灰狼将軍セト・ガームと戦姫ユースティア・レィ・ノルネイス様は一騎打ちにより、双方共に戦死。その際、上空にワルキューレが出現。姫様を神々の園へ迎え入れたものだと思われます」
 自身の出身国の姫の戦死を告げる時、彼の声に少し涙の色が混ざる。国を離れているとはいえ、それは仕事の上でのこと。心は未だ王国にあるということだろう。
「そうか、ご苦労だった。後は指示通りに頼む」
 彼と出身は同じのはずのメネスは、しかし、特にその声に感情を滲ませることなく、彼に目で退室を促す。男は少し不満げな顔をしながらも、小さく頭を下げ、部屋を出る。
 男の足音が聞こえなくなったことを確認し、メネスは懐から一つの鍵を取り出す。
 その鍵を作業机の鍵穴へと差し込む。かちゃりという軽い音が鳴り、鍵が解錠される。メネスが中から取り出したのは深緑の表紙を持つ一冊の本。
 ドラゴンの皮の表紙に金羊皮紙のページで出来たそれは、一冊でメネスのいる建物がまるまる一つ建つほどの高級品だ。
 表紙を軽く撫でる。そこで初めてメネスの顔に表情が灯った。暖かく慈愛に満ちたその表情は商会の部下には殆ど見せたことのない物だった。
 表紙を開くと、そこには一枚の絵が挟まれていた。これを先ほどの男がその絵を見たならば、酷く驚愕したことだろう。
「くくく、あいつら本当にやり遂げやがった」
 特殊な魔法を使って描かれるそれは術者が見た光景をそっくりそのまま写し取る。王国時代に修行中の術者に頼み込んで描いてもらったものだった。この世に三枚しかないメネスの宝物だ。
 そこに描かれていたのはメネス自身。そして、先の戦いで戦死したというセト・ガームとユースティア・レィ・ノルネシイスの三人だった。
 城壁に三人が並んでいるだけの何のことない光景だ。しかし、そこに写る彼らの表情は柔らかく、彼らが数年後には王国と皇国、そしてメネスが商会を構える共和国に分かれることになると聞いても、だれも信じないだろう。
 それほどまでに幸せそうな光景だった。
「あいつらが夢を叶えたのなら、今度は俺が自分の夢を叶える番だ」
 未だに何も書かれていない真っ白なページを開き、羽根ペンを構える。
「始めようか。『彼らのための物語』」
小さく呟いた魔法名に羽根ペンが仄かに煌めく。自らの頭の中にある光景をそのまま文章に起こせるそれはメネスが得た唯一の魔法だった。
 ペンが踊り、茜色に輝く文字が刻まれていく。

 これは、歴史の裏に隠れた話。決して表に出ることのない本当の話。この物語を読む君たちがその心の中に止め、しかして、この物語を覚えておいて欲しい。それが、私の唯一の願いだ。
 前置きはこのくらいにして本題に入ろう。
 これは、二人の大馬鹿者の世界を巻き込んだ大恋愛の話だ。


 セト・ガームは走っていた。雨の降りしきる路地をただひたすらに。
 無秩序な増築と改装を繰り返したここ,城塞都市ノリンの外周街は生き物のようにその形を変える。その複雑さはよほど住み慣れた者以外にとっては迷宮以外の何者でもなかった。
 しかし、それは大通りを外れて目的の場所を目指す場合の話であり、路地を抜けることだけならば非常に簡単だった。都市の中心にそびえる尖塔――通称『賢者の塔』を目指せばよいのだ。
 セトも例に外れず賢者の塔を正面に見据えて路地を駆けていた。
 もちろん、彼は習い事に遅刻しそうなわけでも、健康のために運動しているわけでもない。
 逃げているのだった。
 歯の根が合わないほどにがたがたと震え、顔を流した涙で濡らし、逃げるしかできなかった自分の弱さを呪いながら。それでも、走るのだ。
 それが今のセトに出来うる唯一のことなのだから。それが、彼の義兄のもしかしたら最期の願いかも知れないのだから。
 彼の身になにが起こったのか。それは少し前に遡る。

 セト・ガームは狼の獣人である。正確に言えば白金狼と言う狼の血が混じっていると言われている。
 一般に獣人は獣としての特徴が大きくでるほど血が濃いとされる。そんな中でセトが人間と特徴を異とする部分は頭頂部にある灰色の耳と同色の尻尾くらいのものであった。彼の義兄はほとんど二足歩行する獣にしか見えないのにも関わらずである。
 しかし、その義兄は血の繋がりのないセトのこと弟と言い、他の住人達もまるで家族のように接してくれる。いや、彼らはセトにとって紛れもなく家族だった。
 貧しいながらも幸せな暮らし。それで、セトは満足だったのだ。
 その幸せが崩れ去ったのが、今日だった。
 言霊。人間の精霊術師が使うというそれが本当にあるのならば、始まりは今朝の会話だった。

「獣人殺し?」
 セトはシオンの言葉に朝食のパンを口には運びながら、首を傾げる。
 全く聞いたことがないとでも言いたげな弟の姿に苦笑を浮かべる。
「少しは外のことも気にした方が良いぞ。そういう小さな情報収集の積み重ねがいつかお前の命を救うんだからな」
「はいはい。分かったから。続きは?」
 説教臭くなってきた兄の口調から逃げるように続きを促す。その態度にため息をつきながら、シオンは口を開いた。
「あくまで噂だけどな。何でもここ最近、国中の獣人集落が襲われてるらしいんだよ。襲われるのは獣人のみ。それ以外に被害は一切なし。だから『獣人殺し』らしい」
 シオンもパンを手にし、スープに浸し食べ始める。この日の朝食はファルと呼ばれる握り拳ほどの大きさの堅いパンにくず野菜のスープだ。成長真っ盛りであるセトとしては少々物足りないメニューだが、獣人の食事としては上等な部類であった。シオン、セト共に収入があるというだけで恵まれているのだ。
「へぇ、放っておいたって、人間どもにこき使われて死んじまう獣人をわざわざなんて,暇な奴もいるもんだ」
 セトが皮肉気に口を歪める。口元から覗くのは明らかに人のものではない鋭い牙。見た目はほとんど唯人と変わらないセトの数少ない獣人らしい形質だった。
「その放っておいたって死んじまう獣人を殺して回ってるから、異常なんだろうよ。大体の人間はわざわざ俺らに関わろうとなんてしねぇからな」
 それもそうか、とセトは納得したように頷くと、無駄に硬いパンを千切る作業に戻る。量がないのだ。せめて、少しずつ食べて食べた気分だけでも味合わなければ。
「伝え聞くところによると、ノリンの北にある街でも獣人殺しが表れて,獣人を殺しまわったらしい。何でも馬の獣人が含まれていたとか」
 馬の獣人、それは馬と言うだけあって脚力に特化した獣人である。逃げ足はもちろんのこと、その脚力から繰り出される蹴りは生き物に向けるには少々強すぎる。
 つまりは、そうそう殺されることはないということだ。にもかかわらず――
「その部落がほんの数人を残して全滅したとかなんとか。珍しく騎士様が入ってきたなんて話もある」
 『騎士様』そう口にした時にシオンの口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
 それは普段は出張ってこない癖にという皮肉で、見つかるはずが無いという嘲りだった。
「騎士の鼻を明かしてくれてるってんなら、もしかしたら『獣人殺し』って奴とは気が合うかもしれねぇな」
 兄の騎士嫌いも堂に入ったものである。セト自身も騎士という生き物は気に入らないが、それにしてもシオンのそれは常軌を逸しているような気がした。
「ふーん、物騒な話だ」
 不穏になってきたシオンの雰囲気を誤魔化すように、あえて軽く返す。
「おう、噂とはいえ気ぃ付けろよ」
 セトの気遣いを感じたのか、シオンの口調も軽くなった。
 そこで会話が途切れる。家に響くのは無機質な食事の音だけ。そんな中、ことりとシオンが食器を置く音が嫌に響いた。
「セト、今日の予定はどんな感じなんだ?」
「ん? いつもと変わらずだよ。仕事して、買い物して、帰ってくる。なんの変化もない」
 それを聞いたシオンは少し迷う様に目を泳がせると、やがてゆっくりと口を開いた。
「......仕事はどうだ?」
 仕事。それは,この都市の獣人のほとんどが従事している農作業の話ではあるまい.
 それこそ,いつもと変わず人間たちにこき使われるだけの日々なのだから.
 だから,セトはもう一つの仕事を頭に浮かべながら,答える.
「心配しなくても,相手は選んでる.下手は打たないさ」
 躊躇うように切り出したシオンに対して、セトはその配慮さえも切り捨てるように返す。
「俺はお前にはまっとうな――」
「ごちそうさま。俺はもう行くから」
 その言葉を遮り、手早く目の前の食事を片付けると早々に席を立つ。
 壁にかけていたフードを纏い、玄関へと向かう。背中にシオンの視線を感じながら、家を後にする。
 まずはシオンのいうまっとうな仕事をしなくてはならない.路地を抜け,城門を目指す.もちろん,表門なんかじゃない.裏門だ.
 城塞都市ノリン.北側に山,南側に海を望むこの都市からの景色の美しさは中心部に王族用の別荘が存在していることが証明している.しかし,この都市は観光地としてだけでなく紅茶の特産地としてもまた知られている.
 そして,その栽培を支えているのが獣人なのだ.
 事実,この都市に暮らす獣人のほとんどが紅茶農場で働いている.
 未だ太陽が昇りきらない早朝にも関わらず、裏門には数多の獣人が列をなしていた.その後ろに,セトも並ぶ.
「おう,セト.おはようさん」
 セトの前に並んでいた男が振り向き,声をかけてくる.燃えるような赤髪と人間にしては鋭すぎる犬歯.そして,毛皮に覆われるむき出しの腕.その瞳は瞳孔が縦長に切れたネコ科のものだった.
 セト達の家の近所に住む虎獣人の男だった.
「おはよう.今日は雑草の処理だったっけ?」
「おう.この人数だからな.すぐ終わりそうだ」
「それは嬉しいな」
「そういや聞いたか? 亀の爺さんとその孫居たろ?」
「あぁ,いたな.爺さんとガキだから仕事もできないって奴らな」
「そうそう,そいつら.逃げたぞ」
「はぁ!?」
 思わず声をあげてしまう.
「何でも,皇国は獣人を受け入れてくれるんだとさ.まぁ,俺らには関係ないけどな」
 そんなとりとめのない話をしながら,開門を待っていると,背後から鐘の音が響く.同時に獣人達が一斉に黙る.
 目の前の門が開く.ぞろぞろと黙って門の外に出ていく獣人達.それを睨むようにしながら,監視の人間たちがついてくる.
 その視線を背に受けながら,農地へと進んでいく.獣人達は誰に指示されることもなく,作業を始める.物心ついた時から続けている作業だ.もうはや,考えることなく体が動く.頭の中でもう一つの仕事について考えながら,たんたんと仕事をこなしていく.
 農園での作業は昼を待たずに終わった.監視の人間達に追い立てられるように,農園を後にし,都市内へと戻る.
 セトは裏門近くにある家に戻るのではなく,都市の中心部へと足を向ける.顔を隠すようにフードを目深にかぶった。
 体を丸め、視線を下に向け、ふらふらと足元が覚束ないとでも言うように歩く。薄汚れた服装も相まってそれはまるで浮浪者の様だった。
 そうしてたどり着いたのは、大通りではないものの年の入り口に近く,比較的、人通りの多い一帯だった。
徐々に増えてきた人通りに目を走らせ、獲物を見定める。狙うのは旅行者だ。特に憧れのノリンに目を輝かせ、周囲への注意が疎かになっている者なんかが良い。
 本当に馬鹿だとセトは思う。知らないはずがないのだ。この都市が無秩序な拡張を繰り返していることも、特産品である紅茶を栽培するために、多くの獣人が住んでいるということも。
 それにも拘らず、間の抜けた、まるで夢に満ち溢れているとでもいうような顔で街を歩く人々がセトは大嫌いだった。
 そうして見つけたのが、目の前を歩く一人の男性だった。仕立ての良い黒いマントを身に着け、周囲を興味深そうに見まわしている。この国――ノルネイス王国では珍しい金髪だから多分この国の人間ではないだろうこともその判断に拍車をかけた。
 獲物に近づき、横を抜き去る。完全に獲物の前に出た時にはセトの手には心地よい重みを伝える財布が握られていた。もちろん、先ほどの男性の物である。このまま横道に入り、気付かれることなくこの場を離れることが出来ればそれで今日の仕事は終わりだ。
 そうして、方向を変えようとした時、
「すいません。ちょっとよろしいでしょうか?」
 背後から声がかかった。
 セトの体に緊張が走る。逃げるべきか。それとも何事もなかったかのように対応すべきか。悩んだのは一瞬。軽くフードを引っ張り、ゆっくりと振り返った。
「何?」
 ぶっきらぼうに、呼び止められたことへの不快感がにじみ出るように言葉を発する。
「すいません。道をお尋ねしたいのです」
 改めて正面から見ると、男は本当にきれいな顔をしていた。輝くような金髪に細められた目から僅かにのぞく紅の瞳。そして、そこではじめて気付いたが、両の手に手袋をはめ、肌が日に当たらないようにしているようだった。たぶんどこかの裕福な家の跡取りとかそんなところだろうと当たりをつける。
 申し訳なさそうに笑うその表情は含むところは何もないように見えた。掏ったことがばれた訳ではないらしい。ほんの少し安心しながら、小さく頷く。
「ありがとうございます。こちらの店なのですが」
 男が懐から差し出した地図を覗き込み、指さすところを見る。そこはノリンの中でも特に大きな宿屋であり、セトの一か月の収入よりも一日の宿泊料が高い。
 やはり、金持ちか。的中したらしい自身の予想に懐の財布の中身にも期待が高まる。
「尖塔を目指してまっすぐ進む。そうしたら、この大きな道に出る。右にまっすぐ進めば着く」
 言葉少なに道を教え、地図から視線を放す。男は納得いったように何度も頷き、小さく笑った。
「なるほど、そんなに簡単にたどり着けたのですね。恥ずかしながら、出歩くことに慣れていないもので」
「そう。じゃあ、これで」
 話を打ち切り、踵を返す。早くこの場を立ち去りたい。そう思っての行動だったが、男には伝わらなかったらしい。セトの背中に再び声がかかる。
「あの、よろしければ、お礼をさせていただけませんか? それに、また迷ってしまうかもしれないので、案内して欲しいのです」
「急ぐから」
 振り返ることなく答え足を踏みだそうとした。
「では、財布。返していただけますか?」
 思考停止。気付いていないと断じていただけに、驚きも大きかった。しかし、復活も早い。すぐに我に返り、駆け出す。
 いくら血が薄いとはいえセトは獣人である。並の人間、ましてやろくに走ったこともないであろう金持ちのぼんぼんに追いつかれるほど足は遅くない。まして、横道に入ってしまえば複雑に入り組んだ道が追いかける足をより遅くしてくれる。そう考えての奔走であった。
 頭の中に路地の地図を必死に思い浮かべながら、右に左に曲がり、時に道なき道、というより屋根の上を駆ける。獣人の身体能力をもってして初めて行えることだった。
 そうして、走り続けセトが立ち止まったのは昼も回った頃だった。いつの間にか,自宅からひどく離れたところまで来てしまっていた.滴り落ちる汗をぬぐい、懐の財布を確かめる。相変わらずずしりと重いそれを開き、中を覗き込むとそこには十枚を超える金貨が入っていた。
「うっし」
 小さく歓声を上げる。思わず頬が緩んだ。実にシオンとセトが半年は暮らしていける額である。これでシオンにも褒めてもらえるかもしれない。そう思うと家にへ向かう足も速くなった。
 後から振り返れば、最悪の結末を回避するための分岐点はここだった。例えば、この時、男にターゲットを合わせなければ、最悪の事態は回避できたのかもしれない。
 しかし、その仮定はもはや詮無き事。セトは出遭ってしまったのだから。殺害人数百人以上。それまで獣人のことに対して無関心を貫いてきた騎士団が初めて捜査に乗り出した殺人鬼。通称『獣人殺し』に。

「ただいま」
 しばらく歩き,家へと帰ってきたセトは玄関をくぐりながら家の中へと声をかける。
 しかし、家の中から返事が返ってくることはなかった。
「シオン?」
 いつもならばこの時間帯はシオンも家に帰っているはずだった。
 しんと静まり返った家の中を見て周り、やはりシオンが家に居ないことを確かめる。
「仕事場かな?」
 午前中の仕事が長引いているのだろうか。そうか考えて、ちらりと仕事場の方を見る。
 建ち並ぶ建物の隙間から覗き見る空の向こうには黒々とした雲が迫ってきていた。一雨くるかも知れない。
「・・・・・・迎えに行ってあげるか」
 玄関を見るとそこに並ぶ二つの傘。片方はセトの物、そしてもう一方はシオンの物だ。家を出る時に傘を持って行かなかったらしい。どちらも、ゴミ捨て場で拾ったため、ボロも良いとこだが、無いよりはましというものだ。
 二本の傘を持ち、シオンの仕事場へと続く道を歩く。
 シオンは鍛冶師だ。と言っても、農具や刃物を一から鍛えるのではなく、捨てられていた物や、壊れた物を鍛え直すことが専門だが。
 その仕事場である鍛冶場は獣人街を少し外れた所にある。鍛冶場、とは言うが、その実、地べたに炉を作って、金床を置いただけだ。申し訳程度の囲いを付けてはいるが、屋根はない。雨など降ろうものならその日はもはや仕事にならなくなってしまう。
 仕事に集中している彼は空模様のことなど気にしてはいないだろう。
 セトたちの住む家と鍛冶場との距離はそう離れていない。立ち並ぶ小さな家ともいえないような建物の間を抜け、一路目的地を目指す。
 ちょうど真ん中あたりまで歩いた時、セトはふと違和感を覚えた。
 音が、しないのだ。獣人の住む地区はさほど広くない。そこに住む住民の数は五十を越えない。昼過ぎということもあり、昼食をとっている住民もいるのだろう。なのだが、あまりにも静かすぎる。
 あまりに薄い壁ではその音が漏れ出すのを防ぐことは出来ない。普段ならば、あちこちから会話や生活音が聞こえてくるはずだ。なのに、セトの足音を除き、なんの音も聞こえないのだ。
 どこかおかしな状況にセトの足が速くなる。その歩みはどんどん速くなり、最後には駆け足になっていた。
 街を駆け抜けていく。二つ先の十字路。そこを曲がった突き当りの広場がシオンがいるはずの鍛冶場だった。
 手前の十字路を通り過ぎ、勢いそのままに次の十字路を曲がる。 
 そうしてセトの視界に写ったのは、一心に炎を見つめる、シオンの姿だった。
 荒い息を吐き出し、セトは初めて自分が殆ど呼吸もせずに走っていたことに気がついた。
 足をゆるめ、シオンの元へと近づく。よほど集中しているらしく、セトの接近に気づく気配は全くなかった。
 鍛冶場の敷地に入った時、ようやくシオンは何者かが自分のテリトリーに入ったことに気付き、顔を上げた。
「っと、誰かと思ったら、セトか。危うく、炭投げつけるところだった」
 そう言って、炭挟みをその場に置いた。その先には赤々と光る木炭が挟まれていた。
「どうした、汗だくだぞ?」
「走ってきたから。それより、これ」
 持ってきた傘を差し出す。シオンはそれを受け取り、空を見上げる。その空に広がる黒い雲はセトが見上げたときよりも、その範囲を広げていた。
「おお、確かに降りそうだ。こりゃ、今日は仕事終わりだな」
「うん、早く帰ろう」
 シオンの姿を確認して、一度はその緊張を解いたセトだったが、彼は依然としてどこか嫌な空気を感じたままだった。いつもの様に憎まれ口をたたくこともなく、シオンの腕を引き、帰宅を促す。
 そんなセトの姿に少し面食らいながら引かれた腕に逆らわず歩き始める。
「お、おう。早くしないと、雨降り出しちまうもんな。ちょ、そんな引っ張んなって」
 セトが通ってきた道を逆に辿る。やはり、なんの音もしないその路地にシオンも次第に違和感を覚え始める。
「・・・・・・セト。もうちょっとこっち寄れ」
 未だに掴まれていた腕を引き、前を歩いていたセトを自身の隣を歩かせる。
「少し急ぐぞ」
 そう言って、駆け出す。背後から迫る黒雲に追い付かれまいとするように。
 しかし、その足は彼らの予想を超えて速かった。
「こんにちは」
 声。酷く耳障りの良い若い男の声だった。
 ――随分と場違いな男だ。
 振り返りその男を目にしたシオンの第一印象がそれだった。輝くような金髪に柔らかく細められた眼。その顔に浮かぶのはまるでお手本のような綺麗な笑みだった。
 硬化していた心を溶かすような暖かなそれ。しかして、シオンがその警戒を解くことはない。繋いだ左手が痛いほどに握り締められているのだから。
「こんにちは」
 シオン達の意識が自身へと向かったのを確認し、もう一度同じ言葉を繰り返す。その笑みにどこかうすら寒いもを感じ、セトの手を一度強く握り返しすと、優しくその手をほどいた。
 目の前の男が誰かは分からないが、義弟は知り合いらしい。友達というわけではないようだが。
「あぁ、そうしてくれ。それで、何で俺たちに話しかけたんだ? 特に用がないのなら、俺たちはもう帰るぜ? 一雨来そうだからな」
 空を指しながら、肩をすくめる。釣られて男も空を見上げる。視線が外れたその隙にセトを自らの背に隠す。
「本当ですね。これは急がなくては」
「そうそう。で、何の用なんだ?」
「えぇ、そうでした。私は貴方方に用があるのですよ」
 男が二人の方へと歩き始める。ゆっくり、ゆっくりと。
「なに、大した用ではないのです。一つ質問をしたいと思いましてね」
 シオンの目の前に立ち止まり、口を開く。
「貴方は、何のために生きているのですか?」
「はぁ? どういう意味だ?」
 あまりにも唐突なその問いに、シオンの思考から一瞬、男に対する警戒心や注意が抜け落ちる。それが合図だった。
「あぁ、あなたも答えられないのですね」
 シオンの瞳に写ったのは眼前を走る閃光と真っ赤な液体。それを最後に視界が暗転する。自分が上を向いているのか、下を向いているのか、それさえも分からなくなり、ブツンと切れた。

「おや、お兄さんは眠ってしまったようです。それでは、今度は貴方に尋ねましょうか?」
 男がは地に伏せるシオンを見下ろし、その後ろにしゃがみ込むようにして隠れていたセトへと視線を移す。
「どうしたんです? 顔色が悪いようですが、まるでとても怖いものを目にしたようではないですか?」
 顔を真っ青にし、ガタガタと震え、後退るセトを見て首をかしげる。その視線を辿るとそこにあるのは自らの腕。正確には彼の手に握られた真っ赤に濡れた刃だった。
「あぁ、これが原因ですか。では、これでどうでしょう?」
 そう言うと腕を軽く振る。すると、そこにあったはずの刃は跡形もなく消え去っていた。
「さぁ、これで怖くないですね。では、改めて――」
 一歩踏み出し、しゃがみ込んでセトと視線を合わせる。
 男の顔に浮かぶのは柔らかな笑み。なんて、そんなものではなかった。どうして気付かなかったのか、その歪さに、判を押したようにその表情が均一であるということに。
病的なまでに青白い顔。それに反して笑みの奥で輝く紅の瞳。その瞳に魅入られた途端、セトの体は石のように動かなくなる。
「貴方は、何のために生きているのですか?」
 先ほどと全く同じ言葉、同じ口調、同じ調子。まるで、シオンを切り捨てたことが幻であったかのように繰り返す。
「自分のため? 家族のため? お金のため? 夢のため? 快楽のため? 復讐のため? ――私はあなたの答えが知りたいのです」
 獣人殺し。今朝聞いた義兄の言葉が蘇る。何故か目の前の男がそれだと確信できた。尚も獣人殺しは続ける。
「私の財布を持って行ったということは、お金のためなのでしょうか? ですが、先ほどの様子からはお兄さん、と言っても、あなたは狼でお兄さんは熊ですから、義兄弟と言ったところでしょうか? とても仲がよろしいようですね。ならば、家族のために? あぁ、どうなのでしょうか? どうか、教えてください。さぁ、さぁ、さぁ!!」
 熱に浮かされたように繰り返す獣人殺しは真っすぐセトの方を見つめる。その熱に浮かされるようにセトはゆっくりと口を開いた。しかし、
「ひぅ」
 口から出たのは詰まったような呼吸音のみ。恐怖からか舌は痙攣し、漏れ出す空気は音を成さそうとしない。
「......お答えいただけないということは、あなたはその答えを持っていないということですね」
 そんなセトに獣人殺しは告げる。天を仰ぎ、芝居がかった動作で大きく手を広げる。ぽつぽつと雨が降り始めた。
「あぁ、なんということでしょう。それはとても悲しいことだ。貴方のような未来あふれる子供が生きる意志を持てない。あぁ、悲しい。本当には私は悲しいのです。やはり、救わなければなりません。この世界は間違っている。哀れな獣人たちを私が、救わなければいけない」
 ぐるりと獣人殺しの首が回る。再びセトに視線が戻った時、獣人殺しの手には先ほどの刃が鈍く光っていた。雨に触れ、赤い雫が滴り落ちる。
「怖いですか? それは、良いことですね。死を恐れるのは生を求めるということです。死が迫った時にこそ、生はより一層輝く。あなたは今、人生で最も素晴らしい時間の中にいるのですよ」
 いっそ優しげな、その声。おびえるセトを見下ろしながら刃が振り上げられる。恐怖からかセトの視界が歪み、暗くなっていく。そして、光が消える直前だった。
「うるせぇよ。この気違い」
 声と共に獣人殺しの体が宙を舞った。そこに立っていたのは、体を血で染めたシオンだった。ドクドクと流れる血は彼の体を伝い、地面に血だまりを作っている。素人であるセトが見ても致命傷にしか見えなかった。しかし、シオンはニカリと笑い、セトの頭を乱暴に撫でた。
「すまんな、ちょっと寝てた。最近寝不足でな」
 人の手足を持つセトと違い、手足も獣であるシオンの手は毛皮だからか、とても暖かい。もう何度か撫でると、セトの腕をつかみ引っ張り上げる。
「さて、セトに一つお遣いを頼もうと思う」
 立ち上がったセトの両肩に手をのせ、その瞳を覗き込む。その握る手の強さと、眼差しの真剣さに小さく頷く。
「よし、それじゃあ――」
「兄弟の微笑ましい会話の途中ですが、失礼しますよ」
 セトの体に再び緊張が走る。シオンはゆっくりと振り返り、そこに立つ獣人殺しを睨む。舌打ち一つ。
「殺すつもりで殴ったんだがな。妙に硬いと思ったよ」
 獣人殺しは小さく肩をすくめ、刃を構える。その顔にはもはや何の表情も浮かんでおらず、その動作は気持ち悪いほどの違和感を覚える。先ほどまでのように片方の手ではなく、両方の手にナイフを構えるその動作には、殴り飛ばされたダメージはまるで見受けられない。
「それは、こちらのセリフです。内臓までえぐったと思ったんですがね、やはり獣人は頑丈だ。知ってはいましたが!」
 言い終わらないうちに、獣人殺しは一足で距離を詰める。左右から同時に繰り出される斬撃。セトはシオンが切り裂かれる未来を幻視する。
しかし、そうはならなかった。シオンは一吠えすると、その両方を腕で受け止める。金属音が響き、刃が弾かれる。開けた獣人殺しの胴体へとシオンの前蹴りが叩き込まれる。
「やっぱり硬いな。なんか着込んでんのか?」
「硬いのは貴方も同じでしょうに、赤銅熊の獣人さん」
 シオンの蹴りは獣人殺しを最初の位置へと押し戻しただけだった。当然、すぐに斬りかかってくる。繰り出される斬撃を受け止めながら、視線は獣人殺しのほうへと向けたまま、セトへと話しかける。
「さて、お遣いの続きなんだがな、ちょっと王都まで出て騎士たちを呼んできて欲しいんだ。獣人殺しが出たと言えば、無視はしないだろう。頼るのは癪ではあるがな」
「ふふ、それは私に聞かせてもいいのですか?」
 獣人殺しが尋ねる。その間にも嵐のような斬撃は止まっていない。金属にも似た性質を持つ毛皮でそれを受け止め続けるシオンだったが、少しずつ、少しずつではあるがその毛皮から血が滴り落ちる。
「その間、お前を足止めし続ければいいんだろ? 余裕だよ」
 その言葉に獣人殺しはシオンの足元で広がり続ける血だまりを見て、薄く笑う。
「そうですか。じゃあ、私も頑張らなければいけませんね。もう少し速くしましょうか」
 言葉の通り斬撃がその勢いを増す。シオンもそれに両の腕を合わせていく。しかし、先ほどまでのようにすべてを防ぎきることはできず、シオンの体に傷が増えていく。
「セト、さっさと行け」
 背に庇うセトに向け、シオンが声をかける。しかし、セトは動かない。固まったままの背中の存在を感じ、シオンは小さく微笑む。そして――
「えっ?」
 蹴り飛ばした。体重をすべて乗せた回し蹴り。腹に衝撃を感じ、セトの体が宙を舞う。地面に落ち、転がる。
「いいから行けって言ってんだよ!! 今のお前が足手まといなことくらい分かれ!! とっとと走れ!! 前だけ見てろ!! 絶対に振り返るな!!」
 うずくまる背中に降ってくる怒鳴り声。今まで聞いたことないほどの迫力に押されるように、起き上がり走り出す。強くなった雨が走るセトの顔を叩く。
 複雑に入り組む路地を駆け抜け、王都がある王城を正面に見据えて走る。
 頭の中に思い浮かぶのは、もはや意味のないもしもの想像ばかり。獣人殺しに手を出さなければ、もっと早くシオンを迎えに行っていれば、そもそも、シオンの言う通りまっとうに働いていれば。後悔ばかりが、駆け巡る。
 顔を濡らすのは雨粒なのか、涙なのかそれすらも分からないような豪雨の中、数時間前に来たばかりの道へとたどり着いた。
 なおも、走りながら人を探すが、そこにあるのは何も言わぬ街並みだけ。一人として、通りを歩いている者はいなかった。
「誰か!! 誰かいないの!?」
 力いっぱい叫ぶ。しかし、返ってくるのは雨が地面を打つ音だけ。誰もいないはずがないのだ。セトの人より何倍も優れた感覚は周囲の家の中に何人もの人の気配を感じていた。でも、彼らが外に出てくることはない。雨だから?
 いや、セトが獣人だからだ。
 窓からこちらを覗き見ている女性を睨みつけ、再び尖塔を正面にとらえる。セトが今走っているのは、都市の中心部にほど近い区域だ.獣人への風当りは一層,厳しいことだろう.だが,そんなことはどうでもいい.
 ここで騎士を見つけ、すぐにでもシオンのもとに連れていく。それが、最善であることは確かだった。しかし、見つからない。ならば、確実に騎士がいるであろう中心街に行き、連れていくのが次善の策だ。そう考え、痛む肺と脚にむち打ち、速度を上げる。
 視界にうつる風景がごちゃごちゃとした無秩序なものから、徐々に規則正しく整理されたものへと移り変わっていく。中心街に入りつつあったのだった。
 果たして、セトの視界に数人の人影が映り始める。最初は、米粒ほどにしか見えなかったそれも、セトが近づくにつれ大きく、詳細になってくる。
 その身を包む白銀の鎧と腰に携えた王国の紋章の刻まれた長剣。それは、王国の騎士である印だった。雨宿りでもしていたのだろう、一軒の軒下で佇んでいる。
 やっと見つけた。セトの足がようやく動きを緩め、彼らの前で止まる。セトよりも身長の高い彼らを見上げ、叫ぶ。
「助けて。獣人殺しが、シオンがまだ戦ってて、このままだとシオンが死んじゃう。助けて!」
 いっそ縋り付くように彼らに迫り、必死に訴えかける。その言葉はもはや文章の体を成さず、しかし、重要なこと獣人殺しという名と、助けてという懇願を繰り返す。それだけでも、彼らは事情を察することが出来た。『獣人殺し』が王国内で指名手配されていること。その名が示す通り彼が狙うのが獣人であること。この王都に獣人が住むのは裏門近くの区域しかないこと。後、助けを求めているとなれば、おのずと分かるというものだった。
 騎士たちはセトを見下ろし、その身なりに目を走らせる。雨に濡れ、血に、泥に塗れ、ぐしゃぐしゃに顔をゆがめたセトの姿を認め、そして小さく笑った。
「――誰が獣人なんぞを助けるか。ばぁか」
 セトの顔に裏打ちが叩き込まれる。水平というより、むしろ振り下ろすように繰り出されたそれは、セトの体をいとも簡単に地面に叩きつけた。
 騎士を見つけ、安心しきっていたセトは呆然としながら地面に蹲る。遅れてきた痛みがジンジンとセトの頬を焼く。その彼に降ってきたのは嘲笑だった。
「獣人殺しが現れた? 結構なことじゃねぇか。ノリンに巣食う薄汚い獣人共を自主的に掃除してくれるってことなんだからよっ!」
 セトの腹を蹴り上げる。肺の中の空気がすべて押し出され、その後から喉を焼く何かがせり上がってくる。
「うげ、こいつ吐きやがった。汚ねぇ」
 先ほどとは違う声。聞こえる物音から数歩後ずさったらしいことが分かる。
 喉をふさぐものを吐き出そうと激しくせき込み、蹴られた腹を庇うように丸くなる。痛みに対する恐怖と獣人殺しへの恐怖が混ざり合い、くらくらと目が回る。
 なおも、断続的に体に加えられる衝撃。痛みすらも追いつく暇もないほどに、絶え間なく繰り返される。合間に挟まれる罵声は脳を通り過ぎ、その意味をセトが理解することはない。それを、行えないほどに意識が薄れつつあった。
 でも、そんな中でさえセトの口は微かに動き続ける。それはもう、セトの意識外での行為だった。
もし、未だにセトに暴行を加え続ける騎士たちが、そのことに気づき耳をセトの口元に寄せたのならば、それを聞き取ることが出来ただろう。喘ぐ様な呼吸に乗せて、繰り返される助力の懇願に。
しかして、騎士たちはそれに気づくことなどない。やがて、セトが動かなくなった頃。ようやく、彼の上から足をのけた。
「さぁて、そろそろ終いにするかな」
 暴行が止んだことで多少なりとも余裕が出来たセトはその言葉に安堵する。しかし、それはすぐに恐怖へと変わった。
 金属が、こすれる音がした。シオンの鍛冶場で何度も聞いた鞘走りの音が。光が見えた。霞む視界に雨の中でも光る怪しい光が。
「試し切りしときたかったんだよな」
 剣が空気を切り裂いていく音がする。セトの耳は騎士がゆっくりと剣を振り上げていくそのかすかな音でさえ、捉えていた。捉えてしまっていた。
 死ぬ。自身の未来がはっきりと見えてしまった。何とかその場から動こうとするが、動くのは指先だけ。しかも、それもほんの僅かだった。
 終わってしまう。義兄から託された願いさえ成し遂げることが出来ず。ただ、無為に終わってしまう。それは、あまりにも許しがたいことだった。
「さぁ、神にお祈りを捧げな。おっと、獣人に神はいないんだったな。じゃあ、仕方ねぇな――あばよ」
 刃が迫る。数瞬の内には、セトの命は切り裂かれるだろう。絶望がセトの心を染め上げていく。終わりだ。もはや、覆らない絶対的な終わり。それを、覆すのはもはや人の力では不可能だ。
 だから、それが覆ったならば、それは運命と呼ばれる。
「やめなさい。それは、正義にもとる」
 声だった。恐らくセトと同年代。決して大人とは言えないほど甘く、美しい。そして、凛とした声。
 セトの頭上で甲高い金属音が鳴った。騎士の振り下ろした剣は、横から差し出された別の剣に止められる。
「もう一度言います。貴方たちの行為は正義ではない。なので、私は許しません」
 近づいてくる。一歩、一歩、確かに踏みしめて。
そこにいるのは、一人の少女だった。雪のように真っ白な髪。騎士たちを見つめる焔色の瞳。その色合いはどこか幻想的な印象を抱かせる。その相貌を怒りに染め、それであっても、あまりに美しい少女だった。
 いつの間にか、雨がやんでいた。


 ユースティア・レィ・ノルネイスの朝は朝日と共に始まる。彼女の暮らす尖塔は、その高さゆえか何にも遮られることなく日の光が差し込むのだ。
「ん、朝ですか」
 今朝も彼女はそうやって目を覚ました。ゆっくりと目を開けるとそのまま体を起こす。目覚めはいい方なのだろう。その動作に先ほどまでの眠りの残滓はなかった。
 何もかもが抜け落ちたような儚げな白髪に、それに反する様な強い意志を滲ませる焔色の瞳。それは、実に幻想的な印象を思わせた。
 ベッドを降り、ユースティアは部屋を横切るように歩く。目指すのは壁際。ちょうど、日の光を背にする方向だった。
「おはようございます」
 流れるような動作で跪くと、首を垂れながらそうつぶやく。彼女が祈りを捧げるその先、そこには一つ祭壇があった。
 決して大きくも華美でもないが所々に施された飾りの細かさは作り手の生真面目さが現れているようだった。祭壇の中心には盾を模った意匠を施された宝石がおかれていた。
 そこに祭られているのは一柱の神。正義神ノルネイス。ノルネイス王国の主神であり、多くの国民が信仰している神でもある。
 数秒の祈りの後、ユースティアは立ち上がり、着替え始める。季節は春。薄手の服でも問題ないだろう。そう考えながらクローゼットから服を取り出す。
 そうして着替え終えた頃、ふっと動きを止める。
「グレン、おはようございます。入ってもいいですよ」
「......ノックする前に許可出すのやめてくれませんかね。どうも、心臓によろしくない」
 その声に応えるように,一人の男性が入ってくる。年の頃は壮年と中年の境。身体能力の頂点は過ぎただろう。その身に騎士隊の制服を纏い、左右の腰には一本ずつ剣を佩いていた。
「ノックをするのは、自身の存在を知らせて相手に準備をさせるため。外にいる人が誰か分かり、準備が出来ているのならノックを待つ必要はないでしょう?」
「そりゃそうですがね、様式美って奴もあると思いますよ、俺はね。まぁ、いいです。では、改めて、おはようございます。ユースティア様」
 言葉の端々にあきらめを滲ませながら、ユースティアへとあいさつする。それを聞き、ユースティアは今日初めてその顔に笑顔を滲ませた。
「はい。今日もいい朝ですね」
 窓の外の空を見る。少し雲はあるものの差し込む日差しは暖かく、綺麗な青空がのぞいていた。気持ちの良い朝だ。
「残念ながら、午後から雨が降るようですよ」
 そんな気持ちに水を差すようなグレンの言葉に、ユースティアは不機嫌そうな眼差しを彼へと向ける。
「......そんな目で見ないでくださいよ。俺は真実を言っただけなんですから」
「ふふ、冗談ですよ。さて、グレン。食事にしましょう。私、お腹が空いてしまいました」
 グレンの脇をすり抜け、下の階へと向かう。グレンはその後ろをついていく。
 この尖塔は4階建てであり、一階が玄関。二階が食堂、三階が書庫、そして四階が寝室となっている。つまり、彼らが階段を下りた先には書庫が広がっていた。そこには所狭しと本棚が並べられ,その中にもびっしりと本が詰まっている。
 そこには物語から学術書、詩集、劇の台本や果ては童話集までありとあらゆる本が収められていた。立ち並ぶ本棚の間をすり抜けるように階段へと向かう。彼女が階段へとたどり着いた時、その胸には一冊の本が抱えられていた。
 表紙は擦り切れ、題名すらもはや読むことが難しくなろうとしているそれ。しかし、所々に施された補修の跡はユースティアがその本のことを大切にしていることを伺わせた。
「姫さん、あんまりその本に気を取られてると転んじまいますよ」
 手に持つ本を愛おしげに撫でるユースティアにその背から声を掛ける。
「はい、気をつけます」
 本を抱えなおし、一段ずつ階段を下りていく。塔の内壁に沿うように作られた螺旋階段を降り終え、二階へと足を踏み入れる。
 フロアの中心には小さな机が置かれていた。備え付けられた椅子は一脚のみ。それもそのはず、ここで食事をとるのはユースティア一人だけなのだから。
「少し待っててくださいよ。朝飯持ってきますから」
 椅子を引き、ユースティアを座らせる。そして、彼女を残し一階へと降りていく。数十秒後、彼は食事をもって食堂へと帰ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。では、神に感謝を」
 机に並べられた食事を見て、手を合わせ祈りを捧げる。目を開けると黙々と食事を始めた。会話はない。食事中に会話するのははしたないことで、それはユースティアの望むことではない。それが分かっているからこそ、グレンは黙って背後に控えているのだ。
 十数分ほどの食事の後、食後の紅茶を飲み始めてようやくグレンが口を開く。
「この前注文されていた書籍が5冊ほど届いています。それから、コルムエル女史から課題が届いています。午後の授業までにやっておくこと、とのことです。――本日のご予定はどうしましょうか?」
「街に視察に行きます」
 即答であった。その答えにグレンは苦笑する。彼女の答えが予想通り過ぎたのだ。
「またですか。そんな毎日毎日視察に行ったってそんなに面白いことがあるわけではないですよ? 昨日と変わりゃしない」
「ふふふ、そんなことないですよ。グレンが気が付かないだけで、街は毎日変わっているものです」
「そういうもんですかね。分かりました。準備をしますので、姫様もご準備を」

「では、行きましょうか。グレン、供を頼みますよ」
 外出用の装いに着替えたユースティアは尖塔の玄関へと立っていた。彼女の言葉にグレンは胸に右腕を当てることで答える。それはノルネイス王国の騎士が行う肯定の動作の一つだった。その動作を見て、一つ頷くと尖塔から足を踏み出した。
 王都の中心に位置する屋敷の敷地は他の土地よりも少しだけ標高が高い。そのためここから都市を見るとその多くを視界に納めることが出来た。その光景に笑みを深める。何度見ても美しいと思う。これが自分の守るべきものだと実感できるのだ。
「さて、ユースティア様。どこから視察しますか?」
 塔の外に出たからか、口調を改めたグレンがユースティアへと問い掛ける。グレンも着替えたのか、先ほどの騎士隊服から簡素な服と変わっている。
「商人街からです。市場に行きましょう」
「了解いたしました。では、」
 グレンが手を差し出す。ユースティアは微笑みながらその手を取った。
「はい、今日もお願いします」
 そう言うと羽織っていたマントのフードを被った。
 これが、ノルネイス王国王位継承第23位ユースティア・レィ・ノルネイスの日常であった。

 中心街を抜け、たどり着いた外周街の市場は人々でごった返していた。様々な食べ物の匂いが入り混じり、先ほど朝食を取ったばかりにも関わらず少し空腹を覚える。そんなユースティアの様子に気づいたのか,グレンが周囲に立ち並ぶ屋台を指さす。
「ティア様。何か買ってきましょうか?」
 ユースティアの素性を隠すための偽名。王位継承争いにはほとんど関係しない継承権下位のユースティアとはいえ、王族には変わりない。素性がばれれば大騒ぎになってしまう。それを防ぐためのフードと偽名であった。
 彼女が被っているフードは王家に伝わる至宝の一つであり、それを被る人の印象を極限まで希薄なものにし、記憶に残りにくくする効果がある。とは言っても、おまじない程度のものであり、保険の意味が強い。歴代の王族たちがお忍びで使っていたものであり、そんなものが至宝として伝わっていること自体どうなんだと思わなくもないグレンであったが、便利なのには違いない。まして、ユースティアの髪と瞳は非常に目立つうえ、彼女は本来、極力目立たないことが求められているのだから。
「グレンに任せます。甘いものをお願いしますね」
 周囲を少し見渡し、ユースティアがそう答える。王族と言っても10代の少女。主食の半分が甘いもので構成されがちな生き物なのである。
「分かりました。では......クレープなんていかかです?」
 屋台の内の一つを指す。ユースティアが頷いたのを見ると、その屋台に近づき注文する。
「いらっしゃい。っと、あんたかい。また、貴族のお嬢さんと?」
「そういうこと。我儘なお嬢様で困っちまう。適当にクレープ作ってくれ」
 苦笑しながら店主に銅貨を数枚さしだす。その言葉が示す通り、このクレープ屋は彼らの行きつけと言ってもいいほどよく訪れる屋台であった。
「1、2、3、4、5と。はい確かに。ちょっと待っててくださいね、っと」
 言いながら鉄板へと生地を垂らす。わざわざ生地を焼いてくれるらしい。その手元をユースティアがのぞき込む。
「......ティア様。珍しいのは分かりますが、そんなに身を乗り出したら邪魔になっちまいますよ」
「あっ、すいません」
 慌ててユースティアがグレンの隣へと戻る。その様子に店主が小さく笑う。
「相変わらず好奇心旺盛なお嬢様のようで。やっぱり貴族の方々は料理を作るところも見たことないってことかね」
 そうこう言っている間に焼き上がった生地へとコンポートをのせ、折りたたむ。
「はい。お待たせしました。熱いので気を付けてくださいね」
「ありがとうございます」
 店主が差し出したそれをグレンが受け取り、ユースティアも軽く頭を下げる。
「グレン。早く食べさせてください」
「お嬢様。ちょっと不用心すぎやしませんかね。毒見してからですよ」
 言いながらクレープを少し千切り口に運ぶ。舌の上に乗せ、おかしな味がしないことを確かめてからユースティアへと渡す。
「え~と、あそこに座って食べましょう」
 視線の先には市場の端に置かれたベンチがあった。グレンは小さく頷くと、先にベンチに向かう。ベンチの上に懐から取り出したハンカチを敷く。
「どうぞ。お嬢様」
「ありがとうございます。失礼しますね」
 ベンチへと腰を下ろし、クレープに口をつける。ほんのり甘いクレープに舌鼓を打ちながら、市場の喧騒をぼんやりと眺める。外周街は決して静かな街ではないが、この騒がしさがユースティアは嫌いではなかった。
 時刻はちょうど朝と昼の真ん中。昼食を買いに来たのか、徐々に人の数が増えてきていた。そして、人が増えれば必然的に増えるものがあるわけで。
「おい! 誰かあいつ捕まえてくれ! うちの売りモン盗りやがった」
 これもまた下町の風物詩と言えるのかもしれない。グレンは思考の片隅でそう思った。

「おい! 誰かあいつ捕まえてくれ! うちの売りモン盗りやがった」
 がなるような大声。市場にいる人々がその声に足を止める。その間を駆け抜ける人混みがあった。
「グレン」
「......いいから座ってて下さい。俺が行きますから」
 ユースティアが言うことが分かっているのか、彼女がセリフを続ける前にグレンが人影に向かっていく。その姿を見て、ユースティアは浮かしかけていた腰を下ろした。
 改めて盗人の方へと視線を向ける。盗人も手慣れているようで、店主の声を受けて盗人を捕まえようとする人の手を次々とすり抜けている。店主もその背中を追いかけているが、こちらは通行人に遮られて思うように前に進めていない。このままでは、横道にでも駆けこまれ、見失ってしまうことになるだろう。
 もっとも、ユースティアは微塵も心配していなかったのだが。人混みを抜けた盗人の前にグレンが立つ。腰に剣を佩いているとはいえ、グレンの見た目は盛りを過ぎた男性である。騎士隊服を着ていなかったこともあり、自分の足にも自信があったのだろう。盗人は足を止めるどころか、一層その足を速め、突っ込んでくる。
 グレンの手前で急激に方向転換。それまでと同じようにグレンを抜き去ろうとする。
「おっと、随分すばしっこいな」
 しかし、グレンの隣に差し掛かった刹那、彼は盗人の手を掴んでいた。そのまま、流れるように盗人を引き倒し、地面に押さえつける。ついでに関節を極めておくことも忘れない。その一連の動作は嫌に堂に入ったものだった。
「おい。放せ!」
 それでもグレンから逃れようと盗人は押さえつけられながらも暴れる。
「ほら、あんまり暴れると筋痛めちまうぞ。大人しくしとけ」
 その言葉にようやくあきらめたのか盗人が大人しくなる。それを見て、グレンは盗人の手に持っていた袋を取り上げた。
「はぁ、はぁ。やっと追いついた」
 店主が人混みをすり抜けて、グレンたちの元へとやってくる。
「ほらよ。こいつで全部か?」
 その店主へとグレンが袋を渡す。それを受け取って店主は表情を緩める。
「おぉ、確かにうちの店から盗まれたもんだ。ありがとよ。助かったぜ」
「いいや。気にしないでくれ」
「さぁてと、それじゃあ、そこのクソガキを引き渡してくれるか? 世間の厳しさって奴を教えてやんねぇとな」
 一転、グレンが組み敷く盗人を睨む店主。その表情の険しさを見て、グレンは苦笑する。当の盗人は自身の下で震えている。捕まってしまったらどうなるのかぐらいは知っているらしい。
 少なくとも骨の一本や二本は覚悟しないといけないだろう。足元の彼に病院に行けるような余裕があるとは思えない。最悪、野垂れ死んでしまうかもしれない。
「いやぁ、悪いんだがそれは出来かねる」
「おいおい、どういうことだよ。そいつを庇うってのか?」
 店主が苛立たし気にグレンへと言葉を向ける。下手に答えようものならその怒りはグレンにも向くのだろう。それにまた苦笑が浮かぶ。いつものパターンだ。
「そういう事じゃなくて、こういう時は憲兵なり騎士様なりに突き出すもんだろ? さっさと連れて行かないとな」
「それはそうだが、このままじゃあ、俺としても腹の虫がおさまらない――」
「悪いな。あそこにいるうちのお嬢様がそのあたり五月蠅くてな。ほれ、今だってこっちをじっと見てる」
 店主の言葉を遮って、離れたところからこちらを伺っているユースティアを指さす。指さされたユースティアは小さく手を振る。
 明らかに仕立ての良い服を着たユースティアの姿に貴族か最悪でも良家の娘だと察したのか店主はそこで言葉を引っ込める。そういう輩と下手に関わると碌なことがない。そう思ったのか、店主はもう一度だけ足元の盗人を睨みつけ踵を返した。
「きつめに灸を据えてやるように言っておいてくれ」
「おうよ」
 店主が人混みに消えたのを確認してから、盗人の上から退く。
「ほら、立てるか?」
 手を掴み、引き上げる。盗人の少年は立ち上がると困惑したようにグレンを見つめる。
「お前の事情が察せない訳じゃないが、目の前の犯罪は立場上見逃せないんだ。観念して詰め所に来てもらおうかね」
 そう言うと少年に背を向けて歩き出した。盗人の少年ももう逃げる気はないのだろう。小さく頷き、大人しくグレンの背を付いてくる。
「グレン。お疲れ様でした」
 ユースティアの元へと戻ったグレンへと声を掛ける。グレンは小さく返事をすると、今度はその後ろにいる盗人の少年の方へと視線を向ける。
「そこのあなた」
「はいっ!」
 声を掛けられた少年は怯えたようにに返事をする。その様子に困ったように微笑むと、屈んで視線を合わせる。
「怯えないで。別に私はあなたを叱ろうという訳ではないのです。ただ、一言だけ貴方に送りたい言葉があるのです」
「何、ですか?」
「『君の後ろに広がるものがいかなるものであるか僕は知らない。君の前にあるものも僕は知ることはできない。だけど、これだけは知っている。君の前にあるものを見つけられるのは君自身しかいない。君が先を決めるんだ』私の愛読書の一節です。あなたの未来にどうか幸多からんことを」
 そういって少年に向けて微笑みかける。少年は何を言われているのか、分かっていないようだった。それでも小さく頷く。
「ええ、それでいいのですよ」
「お嬢様。よろしいですか?」
 話が終わったのを見計らってグレンが声を掛ける。その言葉にユースティアは満足げに微笑むと、一歩後ろに下がりグレンへと場所を譲った。
「少年。これを」
 グレンが少年に何かが書かれて用紙を手渡す。
「それを憲兵なり騎士なりに渡せば、悪いようにはならないはずだ。悪いんだが、俺はお嬢様から離れるわけにいかないからな。一人で、行けるよな?」
 その言葉に確かに頷く。それを見て満足げに少年の頭を撫でる。
「よし、ほら行ってこい。ついでに、紹介書いといたからその紙なくすなよ」
 街を進む少年の背を見送った後、グレンは小さくため息をついた。
「ティア様。これで15人目です。紹介状書きすぎてあの店に飲みに行くたびに小言言われてるんですがね」
「流石は私の護衛ですね。頼りにしています」
「お褒めに預かり光栄ですよ。まったく」

「さて、そろそろ市場の終わりに差し掛かりますが、次はどこをご覧になりますか?」
 そう言ってグレンが視線を前に向ける。その視線の先には市場の端があった。そこから先は,ここの住人達の住協が並び,そこを超えれば,裏門だ.
「そうですね。授業があるのでお昼には帰らないといけませんし、市場の端まで行ったら王城へと戻りましょうか」
 空を見上げると、太陽は真南へともうすぐ差し掛かろうとしていた。昼食は尖塔でとらなければならない。そろそろ戻らなければ昼食を食べ損ねてしまう。それに、西の空に黒々とした雲が浮かんでいた。このままいけば、ちょうど昼頃には雨になるだろう。今朝がたグレンが言っていたことが当たったことになる。
「では、少し急ぎましょうか。どうも時間はなさそうです」
 グレンも同じことを思ったのだろう。歩く足が速くなる。それについていきながら、ユースティアは市場の先へと思いをはせる。尖塔の外を出歩けるようになったのはほんの数ヵ月前のことだ。その間に2人は都市のほとんどを巡っていた。しかし、グレンが唯一訪れることを許さなかった区域。それがこの先の裏門周辺なのである。立ち入れるのは市場の端まで。その先に何があるのかさえ、グレンは教えてくれない。ユースティアは王族として,ここの特産品である紅茶の農場を視察すべきなのだ.そう主張したのだが,聞き入れてくれない.
 普段は残念に思うだけのそれが今日はやけに気になった。
 時間さえ許すのならば、グレンを振り切ってでも裏門へと向かうのに。そんな考えまで脳裏をよぎる。
「どうかしましたか?」
「――いえ、何でもないです。急ぎましょう。暗くなってきてしまいました」
 いつの間にか止まっていた足が止まっていたらしい。無意識ながらもしっかりと歩いていたらしく、2人は市場を折り返し先ほどクレープを買った屋台の近くまで戻って来ていた。暗雲はよりその範囲を広げ、空は薄暗く変わっていた。周囲の屋台も雨に降られては困ると昼前にも拘らず店じまいの準備をしている。
 雨に降られてはたまらないと、2人の歩みはもはや小走りへと変わっていた。中心街へはあともう少しだ.
「降ってきましたね」
 ぽつぽつと雫が顔に当たる。一層足を速め、帰路を急ぐ。走る間にどんどんと雨脚が強まる。
「ティア様。その辺りで宿りをしましょう。入り口の関所ならば雨が止むまでおいてくれるでしょう。タオルなんかも常備しているでしょうし」
 けぶる水しぶきの中、雨音に負けないように声を張り上げる。頷きながらユースティアもグレンの背中に追いすがる。
 そうして関所へと駆けこむと2人はようやく一息ついた。
「ふぅ、降られましたね」
 グレンが言いながら周囲を見渡す。そこに人影はない。
 ......守衛はどうしたんだ? 居るはずの人員がいないことに疑問を覚える。本来ならば少なくとも3人は守衛として関所に控えているはずなのだ。
「グレン? どうかしましたか?」
「いえ、少々騎士団の勤務態度について思いを馳せていただけですよ。どうぞ、風邪をひいてしまいますよ」
 ユースティアへと棚から取り出したタオルを渡す。守衛の怠慢について考えるのは後だ。自らもタオルで体をふきながら暖炉に火をくべる。季節は春先とはいえ、雨に濡れたままでは風邪をひいてしまいかねない。
「ティア様。火に当たっていてください。俺は周囲を見回ってきます」
 壁に立てかけてあった傘を手に取り、玄関へと向かう。
 と、その時だった。その音が聞こえたのは。それはとても幽かな音。何かを殴るような鈍い音と水しぶきの音だった。
「喧嘩か? こんな雨の中ご苦労なこ――」
 様子を見に行こうとしたグレンを追い越すように、ユースティアが駆けていく。
「ちょっと、姫様!?」
 驚くグレンをおいて関所を飛び出す。その背をグレンも追いかける。未だ降りしきる雨の中を駆け、聞こえ続ける鈍い音の元へと向かう。
 そうして、彼らの視界に入ったのは、地面に蹲る一人の少年とそれを取り囲む騎士たち。そして、振り上げられた長剣だった。
「グレン!」
 短く。しかして、強く背後のグレンの名を呼ぶ。その声が彼に届く前に、騎士は彼らの元へと踏み込んでいた。
 流れるように腰に佩いた剣を抜き、振り下ろされた長剣を止める。鳴り響く金属音。その大きさと裏腹に止められた剣はピクリとも動かない。
 周囲の騎士たちの驚愕の表情を見て、グレンは小さくため息をつく。恐らく守衛の当番だった騎士たちだろう。どうして持ち場を離れていたかは分からないが、どうせ碌な理由じゃないに違いない。幽かに香る酒の臭いに
顔をしかめる。
「やめなさい。それは、正義にもとる」
 背後からユースティアがゆっくりと歩いてくる。彼女が一歩足を踏み出すたびに雲が晴れ、日の光が差す。それは、まるで彼女を祝福しているかのようで。その光景の美しさにその場にいた誰もが彼女に目を奪われた。
「もう一度言います。貴方たちの行為は正義ではない。なので、私は許しません」
 その瞳に怒りを湛え、周囲の騎士たちを睨みつける彼女は紛れもなく英雄であった。


「......姫様。なんでこっちに来ちまうんですかね。自分としては少し離れたところで温かく見守っていて欲しかったんですがね」
 近寄ってくるユースティアを見て、グレンが苦笑する。軽く手首を返し、受け止めていた剣を押し戻す。それだけの動作で押し返された騎士はたたらを踏み、数歩後退る。それを一瞥して、グレンは剣を鞘へ戻す。
「グレンには申し訳ないですが、それは出来ない相談ですね。――貴方、大丈夫ですか?」
 未だ地面に倒れるセトに視線を合わせるように、しゃがみ込み声を掛ける。その焔の瞳をセトは真っすぐに見つめ、彼女の服を強くつかむ。降ってわいた希望を逃がさないように。
「――助けて。シオンが、お兄ちゃんが、獣人地区に」
 喉に血が絡み、酷く掠れたその声。しかし、眼前の彼女にその願いは確かに届いた。だから、
「分かりました。後は任せて」
 短くしかし強く言葉を紡ぎ、その手を握りしめた。その言葉を聞き、セトは安心したように瞼を閉じた。
「さて、そこの騎士たち」
 意識を失ったセトをグレンに任せ、ユースティアは未だ戸惑うようにこちらを見る騎士たちへと向き直る。
「本来ならば、持ち場を離れたことを含め沙汰を下すところですが、今はその時間が惜しい。このまま、持ち場に戻るのならば一先ず見逃しましょう」
 突然現れた自分たちよりも高位らしい少女の言葉に騎士たちは落ち着かない様子でお互いに視線を交し合う。その緩慢さを許せるほど、ユースティアは事態を軽く見ていなかった。
「退きなさいと言っている!!」
 彼らの戸惑いすら吹き飛ばすような一喝。その声に弾かれたように道を開ける。
 それを見て、ユースティアは走り出す。それをグレンが追いかける。その背には気を失ったセトが背負われていた。
「......っ、そいつは獣人だぞ!! それなのに、助けるのかよ!?」
 セトへと剣を振り下ろそうとしていた騎士がその背に向けて叫ぶ。恐らく、答えが返ってくることは期待していなかっただろう。王国の騎士であるというプライド。それを踏みにじられた気持ちを何かにぶつけたかっただけなのだ。しかし、ユースティアは足を止めないまま、一瞬だけ騎士たちの方へと振り返り告げる。
「それが正義なのなら」


「さて、姫様。獣人地区の場所分かってるんですかい? そもそも,姫様,獣人自体見るの初めてでしょう?」
 ユースティアに追いつき、並走するグレンが問い掛ける。ユースティアの足取りに迷いはなく、行き先が分かっているとしか思えなかった。
「裏門の近くなのでしょう? このノリンに獣人がいるなんて初めて知りましたが,獣人は農業に従事すると聞いています」
 こともなさげに告げる。今まで踏み入れたことのない唯一の区域。そこへ向かってひたすらに走る。
「あちゃあ、バレちゃってるよ。姫様、今からでも良いんで城に戻りませんか? 獣人がらみの事件と言えば、恐らく獣人殺しと呼ばれる殺人鬼です。姫様が関わるには少しばかり大物すぎると思うんで――」
「グレン。おしゃべりする余裕があるなら、速度を上げますよ。一刻を争います」
 グレンの言葉を遮り、自身の言葉の通り走る速度を上げる。その速さは未だ成長しきらない少女のものとは思えないほどだった。
 住宅地を駆け抜ける。そこから先の町並みは目に見えて無秩序であった。まるで、否。事実、獣人地区を隠すように立ち並んでいる建物の間を走り抜け、路地を抜ける。
 その瞬間、あまりに濃い血の匂いに足が止まった。雨によって湿度を上げた空気はその匂いをより鮮明にする。まして、建物によって周囲を囲まれたそこはその空気が循環することなくただ澱んでいくのだ。
 しかし、躊躇したのは一瞬。すぐに再び走り出した。道など分からなかった。しかし、その速度が衰えることはない。それは第六感とでもいうような感覚だった。ただ漠然と、ある方向に意識を向けると心がざわめく。その感覚を辿るように駆けていく。不思議とそれが正解という確信があった。そして、その感覚が途切れた時、それは件の現場へとたどり着いた時だった。
 足を止めた瞬間、耳の奥に拍動する心臓の音が聞こえる。その音でユースティアは先ほどまで周囲の音すら切り捨てて一心不乱に駆けていたことを自覚する。頭のどこか冷静な所が、何故これ程あの少年のために死力を尽くしているのかと囁くが、それの幻聴を振り切り、周囲を見渡す。そこは先ほどまで走っていた路地よりも開けており、小さな広場の様な場所だった。一瞥しただけでは何の異常も見られない。ただ一か所を除いては。
「姫様。そこと、それにあそこ、あっちのもですね。この雨で流れてしまったのでしょうけど、血の跡があります」
 追いついてきたグレンが広場の数ヵ所を指さす。そこに視線を向けると、確かに幽かにではあるが赤黒いしみが残されていた。よく観察してみると、そのしみは点々と広場の奥へと続いているようだった。
「進みます。グレン」
「仰せのままに」
 名を呼ばれたグレンは、背のセトを近くの建物にもたれかからせ、ユースティアを背に隠すようにしながら広場の奥へと進んでいく。その右手はすでに腰の剣を握っていた。僅かに残る血痕を辿り、何度か角を曲がったその先、朽ちかけた壁に『それ』はあった。
 ユースティアの理性は『それ』を物のように呼称すべきではないと憤った。ユースティアの本能は彼はもう人とは言えないと嘆いた。
 それほどまでに、目の前の惨状は酷いものであった。
 例えるならば、『それ』は街の軒先で干されていた魚に似ていた。剛毛に覆われた両の掌は武骨なナイフにより貫かれ、壁に貼り付けられた巨体を支えていた。指は何本か欠け、そこから流れる血が赤銅色の毛をより赤く染める。身に纏っていたであろう服は引き裂かれ、かろうじて体にまとわりついているという様相だった。そして、眼前の光景を惨憺たるものたらしめているのは、綺麗に捌かれた胴体であった。
 その行為に慣れている。正中線を寸分の違いなく裂き、胸も水平方向の傷を除き、内臓には傷一つつけていない。狂気じみたこだわりを感じる手口だった。
 赤銅色の熊獣人――シオンの死体がそこにはあった。
「これ、は」
 言葉が出ない。想定していなかったわけではなかった。縋り付いてきたセトの状況からも、『獣人殺し』という物騒な呼び名からも、シオンが生きている可能性は低いと思っていた。
 だが、こんな、死体を弄ぶような行為がこの世にあるとは知らなかった。知れるはずもなかった。
 代わりにこみあげてくるのは抗いがたい嘔吐感だった。熱感が喉を駆けあがり、そしてーー飲み込む。
 汚せない。汚せるわけがない。目の前の彼をこれ以上辱める訳にはいかない。何より、それは正義ではない。だから、吐かない。それは彼女にとって単純な論理だった。
「姫様。後のことは他の騎士たちに任せましょう。何より、あの獣人の坊主の介抱もしなきゃならない」
「私は大丈夫――いえ、分かりました」
 グレンの真剣な表情を見て、出かかった言葉を飲み込む。
 ここが限度だ。言葉にこそ出さなかったが、グレンの視線はそう語っていた。ユースティアがこれ以上関わることは許容できない。
「獣人殺しがまだそのあたりに居ないとも限りません。俺から離れないように」
 再びグレンが警戒しながら、先導する。それに付いていきながら、もう一度シオンの方を振り返る。死体を弄ぶというあまりに粘着質な憎悪。世間一般に流布している獣人へのそれとは比べ物にならないものを感じる。シオンのもとへと戻りながら,ユースティアは何が獣人殺しを駆り立てるのかへ思いをはせるのだった。


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