冒涜 葦夜るま 『へぇ、貴方、......っていうのね!』 そうだよ、そういう君は? 言えば、少女のようなそのひとは、くるりとその場で回って見せてから、私の顔を悪戯っぽく見上げる。 『私?私はね......』 噎せ返るような雛罌粟の香、季節は初夏。風に揺れる丈の長い草と、白いスカート。ひとを知りたい、と思わせたひとが、太陽に照らされて笑っている。 いつもはそこまで厳しくない筈の関門で止められる。何かあったのかと問えば、なるほど、ここらで女ばかりを狙う連続殺人が起こっているらしかった。 「念の為、顔を見せてもらえるか。犯人は目元に入れ墨を入れているという情報が入っていてな」 不審に思われるのも無理はない。男は全身を覆う黒いローブを纏い、革手袋をはめた上、顔は鼻から上を隠す仮面を付けている。人間としては相当に背の高いだろうその兵士を優に凌駕した体格の男は、それに少し躊躇したようだった。 「見せたいのは山々なのだが......」 呟いて、仮面に右手をやった男。そのまま少しだけ、それを横にずらせば、兵士から小さな呻き声が聞こえた。 「......こりゃ、ひでえ」 かすかに覗いたその肌は、火傷のような痣で覆われている。男は申し訳なさそうに謝罪した。 「すまないね、古傷なんだ。目も殆ど見えないし、とても目元に入れ墨なんて出来ない」 こいつがなければ、旅も出来ないんだよ。 そう言って、手にしていた少し曲がったステッキで地面を叩いてみせる。少し霧の立ち込めた関門で、石畳と杖の先がぶつかる音が不気味に響いた。 「そうみたいだな。ちなみに、ここには何をしに?」 「親戚が住んでいるんだ。年寄りには、血の絆だけが唯一の拠り所でね」 「そうか......悪かったな、通っていいぞ」 「有難い」 兵士にしてみても、こんな気味の悪い男をいつまでも留めておきたくなかったのだろう。街への扉がゆっくりと開かれていく。男はもう一度礼を言い、その扉を潜った。 ミストタウン。地形の関係からか文字通り、四六時中霧の絶えぬ街だ。かつてどこぞの戦争に敗れ逃げ延びた者たちが作ったと言われているが、定かではない。ひっそりと、歩く人々が息をするのもどこか怯えているような、そんな気配さえする街。 ここなら、殺人にはさぞかしお誂え向きだろう、そんなことを他人事のように考える。聞けば巷の殺人鬼は、殺した女の体の一部を食するそうだ。綺麗な薔薇色の頬の娘はそれを、乳房の豊かさを自慢としていた女はそれを。同じ人間の所業とは思えぬ、とひとは酷く恐ろしがっていた。異形の仕業なのではないか、とも。男にしてみれば、そんな無駄な真似をするのは人間だけであるが。異形なら、食らうなら骨まで食らってみせるだろう。 男は怪奇な現象を追うのが趣味だった。この度ミストタウンを訪れたのも、その連続殺人を追ってのことである。 だが、街に足を踏み入れた時には思いもよらなかったのだ。ここで、想定していたものとは全く異なる運命に出会うとは。 「こちらの路地は少し暗いな......」 ミストタウンは存外広い街だ。翌日、街を一通り歩いてみる頃には男の足でも夕闇があたりを覆っていた。そろそろ宿屋に戻った方がいいだろう。殺人犯のこれまでの動向からすれば、次の犯行はおそらく二日後。その日が来るまでは、男は殺人犯が出没しそうな地域を調べ歩くつもりで。その時、男は進行方向に力なく立つ影を認めた。 少女とも呼べる年齢のその娘はひとり、街頭に立ち竦んでいた。紫がかった桃の髪色は珍しく、それが深紅のリボンで団子を作るように、ふたつに結わえられている。くすんだ赤のプリーツスカートと、大きめの灰の上着はそこそこ仕立ての良いもののように見えた。 想い人に拒まれでもしたのだろうか、とそんなことをぼんやり考える。消沈したように下を向いている少女を横目に眺めながら、通り過ぎた時だった。 「ねぇ、おじさん」 耳障りの良い声が、斜め後ろから聞こえてくる。この路地には己と娘のふたりだけしかおらず、よって、おじさんとは男のことのようだった。 「私のことかな、お嬢さん?」 それでも一応確認すれば、うん、と子供のような返事がくる。振り返れば、娘はこちらを見上げていた。桃色の大きな瞳が、仮面を貫きそうなほど強い視線をこちらに向けている。 「おじさん、あのね」 「ああ」 あのね、とあどけない口調で娘は繰り返す。それに頷くと、娘は花がほころぶようにふわりと笑った。そして。 「わたしと、あそぼう?」 その瞳が蕩けるように煌めいた。 「、な......」 身体の力が抜け、びりびりと少し動かすだけで痛痒が走る。どろりと煌めく瞳から視線を外せなくなり、その娘のしっとりと滑らかそうな肌に触れたくて堪らなくなる。娘が唇を舐める、その舌先の毒々しさがやけに目に付いて。 「ほら、おいで」 白い白い両手が差し出されるのに、つられるように手を伸ばし。 「悪さはいけないよ、お嬢さん」 「え?」 男はその娘の顎を掴んだ。 「んっ!?」 革手袋の人差し指が、強引に小さな口に入り込む。喉の奥まで突き入れると、苦しそうに少女が呻いた。 「う、ぁ、や......」 滑らかな革が粘膜を傷つけない程度に擦る。はじめは抵抗する素振りを見せていた少女は、やがてどこか恍惚とした表情を浮かべ、とろりと頬を赤らませる。それに頓着する様子のない男は一通り咥内を弄った後漸く指を引き抜いた。 「は、え、なに......」 力が抜けてしまったらしい少女が、ぺたりと腰を地面につけて、赤い顔で男を見上げる。男は革手袋に伝う唾液を一瞥して、それをおもむろに舐めた。そして何か考え込んだ後呟く。 「ふむ......ケシと大麻......それから、いや......植物性神経毒をあるたけ混ぜているのか......?」 覚えのあるような、ないような味だ。 そんな男に、少女が驚いたように口を開いた。 「おじさん、わたしの毒が効かないの......?」 男は頷く。 「生憎と、毒には耐性のある身なんだ」 どうしてこんなことを? 問えば、少女は唇を尖らせた。誰が見ても、人ひとりを殺そうとした人間には思えないだろう。 「別に、ちょっと気持ちよくなろうと思っただけだもん」 「君の粘膜から出る毒は、普通の人間なら遅効性だが確実に死ぬぞ」 「うん、知ってる」 けど、死ぬまではセックス出来るでしょ。 その言葉に男は片眉を上げる。理解できなかった。 「......君の目的は、性行為をすることなのか?」 「?うん、そう」 「理解できないな......」 理解できない、けれども。 「けれど、君のことにはとても興味があるよ。良ければ、教えてくれないか」 男は自分の好奇心が人一倍強いという自覚があった。願いという形をとっておきながら、男の中で少女を連れていくことは決定していて。 少女はそれに、少し首を傾げて言う。 「それって、わたしと一緒にいてくれるってこと?」 ......なんだかずれている気もするが、話を聞くには一緒にいなければならないので、間違いではないだろう。 「......まあ、そうなるね」 「じゃあ、行くー」 少女は頷きにへ、と笑み崩れた。ひとを毒に侵そうとしたとは思えぬ、無邪気な表情で。 「もう暗くなるから宿屋でいいかい?」 「うん、いいよ」 そして、どこかがおかしいふたりは、連れ立って歩き始めたのだった。 所変わって一軒の宿屋。そこの一室で、少女と男は対峙していた。 フェリシエ=シェーンブルグ。それが少女の名だった。そもそも、この力を手に入れたのはどうしてかは彼女にも分からないという。 ただ、きっかけはあった。ある日を境に、彼女の住む街が病魔に侵されたのだ。それを鎮める為、両親に言われ、人柱としてフェリシエは土地神に捧げられたという。 「でもね、その時のこと、よく覚えてないんだ」 フェリシエはそう言って、うーんと首をひねる。 「ただ、熱くて、寒くて、何かがわたしのこと呼んだの。そうしたらね、埋められた筈なのに、わたし、生きてたんだよ」 街の住人は、生きたままフェリシエを冷たい土に埋めたのだという。四方から圧迫され、呼吸の出来なくなってゆく苦しさは並大抵ではなかったはずで。それなのに彼女の表情には悲愴のひとかけらでさえ見当たらない。 「変な声だった。なんて言ってるのかは分からなかったの。でも、わたしは何か聞かれて頷いて、それで......気が付いたらこの体になってた」 ぽつぽつと語るフェリシエは、どこか遠い目をしている。その顔に、どこか疲労のようなものを見て取った男は、少し考えてから彼女に言った。 「何か、疲れているようだけれど」 「え?んと......なんかね、気持ちいいことしないとね、上手に眠れないの。ご飯をおなか一杯食べた時とかも寝られたりするんだけどね」 なんでだろうね?と少女は首を傾げる。自分でも、自分の状態が理解できていないのだろう。 「なるほど、だから私を襲おうとしたわけか」 「うん、そういうこと。だから、しよ?」 「......悪いが、私は愛もなくそういった行為をする気はないよ」 む、とふくれるフェリシエに、その代わり、と男は声をあげた。 「君を寝かせることは出来るかもしれない」 おいで、と手招きをして、男はフェリシエを己の膝の上に乗せる。そして、その体を優しく包んだ。 「おじさん......?」 戸惑ったような声。それにうんと意味もなく頷いて、その細い体を壊さぬよう気をつけながら、より強く抱く。片手で背を撫でていると、されるがままになっていたフェリシエの体から、やがて力が抜けていった。 「ん、なんか、ねむい......」 くぐもった声で、フェリシエが呟くのに頭を撫でた。 「ああ、ゆっくり眠るといい」 ん、と子供のように言った彼女は、小さく寝息を立て始める。彼女が眠っていることを確認してから、そっと抱き上げてベッドに運んだ。仰向けに寝かせたフェリシエの、目の下の隈をなぞる。 彼女が夜眠れないのは、呪いの副作用による飢餓感だ。体中に回る毒のせいで感覚が麻痺しているのだろう、でなければとっくの昔に発狂していてもおかしくない。フェリシエに与えられた力は、人の身には重すぎる。彼女にとってそれを満たすのに手っ取り早かったのが性行為だったのだ。だが、男の推測が正しければ、彼女の中の何らかの欠落を一時的にでも満たせば、飢餓感を抑えることは出来るはずで。 結果は今の通りである。 「......君は、抱きしめられたこともないのか」 人は親から愛情を受けて育つと本で読んだ。男自身、父や母に抱かれる子の姿を幾度も目にしている。そうすることで、ひとは健全な精神をもつ新たな人間を育成するのだと。 「人とは、やはり分からないな」 呟いて明りを消す。幸いなことに夜目は効くから、彼女の眠りを優先した判断だった。 「......おやすみ、ひと時でも、良い夢を」 そう囁いて、まだやるべきことのある男は部屋を出た。 ぬくもりに囲われて眠る安心は滅多にないことで、けれどそれさえ燻ぶった熱がちりちりと焦がしてゆく。 『フェリはいい子だから、ひとりでも大丈夫よね』 繰り返すのはいつもの夢と、呪いみたいな言葉。 『おかあさんは?』 ぬいぐるみを抱えた小さな少女が、召使に尋ねる。召使は困ったように頬を掻いた。 『奥様は、お仕事でお出かけですよ』 『じゃあ、おとうさんは?』 重ねて尋ねると、召使はますます顔を顰める。 『お父様も、お仕事でいらっしゃいますよ』 少女は、首が痛くなるまで必死に見上げていた、その召使から目を離して、地面に視線を落とした。 『......そう』 じゃあ、いいわ。 そう言って、少女は召使に背を向ける。我儘なんて言えない。だってフェリシエはいい子で、ひとりでも大丈夫ないい子で、そうでなきゃおかあさんにもおとうさんにも嫌われてしまうかもしれないから。 ぬいぐるみをいっそう強く抱き締めた拍子に、首を絞めるような形になってしまう。肩の古いそのテディベアは、どこか泣いているように見えた。 おかあさんが泣いている。 『フェリ』 いつもはこちらを見てくれないおかあさんが、わたしを見てくれている。 『フェリはいい子だから、いいよね?』 それが何を指しているのかはよく分からなかった。けれど、きっとおかあさんの、おとうさんの役に立つことで。 『うん、いいよぉ』 だからわたしは笑って頷いた。 ありがとう、とおかあさんがわたしの頭を撫でて、そのあったかさに、何でもできると思ったのだ。 「ねー、おじさん。暇だよぉ。いいことしよ?」 「駄目だよ。退屈ならば、私の荷物の中に本があっただろう、読んでいなさい」 「えー、本なんて、もっと退屈だよ」 じたばたベッドの上で藻掻いてみるも、なにか書き物をしているらしいおじさんは見向きもしない。構って、とその背にしがみつくと、溜息ののち、ちょいと手招きをされた。膝をぽんと叩いたおじさんに、遠慮なくその上に乗る。 「私、子供じゃないんだけど」 「乗ってから言うのかい......。別に、子供扱いしているつもりはないのだけれど」 「うっそだぁ」 どうしてこんなことになっているのか、フェリシエにもよくわからない。分からないけれど、あの日以来、フェリシエはこの「おじさん」と一緒にいた。あまり冗談の通じない男をからかったり、疑問に思ったことを尋ねたり、行為をせがんだり(断られるけれど)、存外悪くない日々を過ごしている。彼に抱きしめられると不思議とよく眠れて、寝不足が解消したのも嬉しい。それに、単純にひとりのひとと長くいるということが珍しかった。 男はとても博識で、まるで歴史というものをそのまま見てきたような喋り方をする。フェリシエは勉強は好きではないけれど、ひとつ聞けば沢山のことが返ってくるのは結構楽しかった。男のローブを引っぺがそうとした時は本気で嫌がられたが、それ以外には男は相当寛容だった。 「ねー、髪の毛結んで」 「ええ......やったことがないよ」 「いいから!」 「はいはい......」 「甘いものが食べたい!食べにいこ?」 「そうだね、近くにお菓子屋さんがあったから行こうか」 「おじさん、髪が一筋だけ出てるね......三つ編みしたげる!」 「やめなさい......と言っても聞かないね、君は」 こんな風に、大抵の我儘は聞き入れられ。どこか、懐かしそうな目をフェリシエに向けているのが不思議だった。 「ねえ、今日も何か探しに行くの?」 「今日は霧が濃いからね」 男は何かを追っているのだと言っていた。それのことを喋るときだけ、早口になるのは相当興味を惹かれているのだろう。フェリシエを連れてきたことといい、好奇心が強いらしかった。 だが、その探し物に男はフェリシエを同行させようとはしなかった。 「そこまで楽しいものではないから」というのがその理由で。フェリシエとしては宿屋に閉じ込められている方が楽しくないのだが、男は「出てはいけないよ」と言い置いていつも出掛けてゆく。 「今日は、外へ出ない方がいい」 今日もそう言った男が出掛けて、優に数時間。フェリシエは暇を持て余していた。 「すぐ帰ってくるって言ったのに」 貸してもらった植物辞典なんてつまらないにもほどがあるものはベッドの上に投げ捨てられている。時刻は夕方で、そろそろあたりも暗くなってきており。今日は、ひときわ霧が濃い。 「もー、おじさんなんて知らないんだから」 むむ、とフェリシエは頬を膨らませて、窓枠に足をかける。部屋は二階だが、木を使えば降りることはそう難しくない。あっさりと地面に着いたフェリシエは、男が近くにいないことを確認し、霧の中へ足を向けた。 「だれもいないや」 てくてくと石畳を歩く。来た時から思っていたが、この街は死んでるみたいだ。居心地が良くて、少しだけ気持ち悪い、そんな感じ。 けれど、今日は本当に何か違和感があった。周りの霧も、いつもより重たいような......。 「ま、いっか」 適当に散歩したら、宿屋に帰ろう。ここ数日で、いつの間にか男の元へ帰ることが当たり前になっている。何となくひとらしくない彼の傍にいるのは気が楽だった。街を出てから、下心なしに己の体に触れたのは「おじさん」が初めてだったから、そのせいもあるのかもしれない。セックスはすきだけれどしたら相手は死んでしまうし、だから死なないおじさんは好きだなと思う。そんなことをぼんやり考えているうちに、霧がどんどん濃くなっていることに気が付いた。 「あれ......?」 霧の向こうから、誰かが歩いてくる。 「おじさん?」 声をかけるも、近づいてくるにつれ、それがきちんとズボンやシャツを纏った、ただの男だと気づいた。何故か、手には大きなナイフを手にした男に首を傾げる。 「ねえ、なんでそんなの持ってるの?」 指さして尋ねれば、男は笑った。 「人を切りやすいからだよ」 「へえ、そうなの」 特に感慨もなく頷いてから気が付く。そういえば、女ばかりを狙う連続殺人事件が起こっていた。ならば、この男は。 「っ、いた」 一歩下がろうとした時、男が一瞬で距離を詰めてきた。そのまま後ろに手を捻られ、首元にナイフを当てられる。 「なかなか可愛いな......お前はどこを切ろうかな、足かな、それとも綺麗な手?ああなんにせよ、きっと美味しいんだろうな」 「......っ、悪趣味」 なるほど、だから男はフェリシエに部屋を出ぬよう言っていたのか。確かにこんな気持ち悪い男に会いたくはなかった。流石に、こんな男に抱かれるのはごめんだ。 「はやく、わたしから離れた方がいいと思うけど」 冗談でなく、そう忠告する。だが、男は「はあ?」と唇を釣り上げただけだった。 「命乞いか?可愛いねえ」 「ぜんっぜん違う」 もういいかな、いいよね。脳内でそう自己完結して、彼に触れた部分から毒を出そうとした時だった。 こつ、こつとステッキが石畳を叩く音がする。聞き覚えのあるそれが、着実にこちらに近づいてきて。 「ああ、フェリ、ここにいたのかい」 「おじさん......」 霧の内から現れたのは、漆黒のローブを纏う、ここ数日で慣れ親しんだ姿だった。 「あ?誰だお前」 フェリシエを拘束したまま殺人犯は言う。 「すまない、そこの少女を迎えに来たのだが......フェリシエ、外に出てはいけないといっただろう」 「むぅ......だって......」 緊張感のない会話。男がどうかは知らないが、フェリシエは事実特に怯えてはいなかった。男が助けに来たからではない......こんな人間ひとり、その気になればいつでも殺せたから。それを分かっているのだろう、男も特に慌てた様子はない。むしろ呆れさえ混じる口調である。 「言うことを聞かないからこういう目に遭うんだ。全く、......だが、お手柄だ。私はそこの男に用があったのでね」 「ああ、この人なの?おじさんが探してたの」 「そうだよ。だけど困ったな......適当な女を殺させておけばいいと思ったんだが、フェリにはまだ聞きたいことがあるんだ」 というわけで、その少女をこちらに寄越してくれないか。 淡々と男は言う。 「はぁ、何言ってんだお前」 だが、殺人犯が受け入れる筈もなく。 「っきゃ」 左の結い目を引っ張られたかと思うと、ジョキ、と嫌な音が走る。その瞬間後ろに引かれる力がなくなり、フェリは地面に転がった。後頭部に手をやれば、不揃いな髪の感触。 切られた髪が石畳に放られる。 「あ、髪が......」 折角綺麗にしていたのに。大事にしていたものを壊されたのに、瞬間的に沸き上がる怒り。振り向いて、その体に触れようとしたその時。 「フェリ、目を瞑っていなさい」 男が言った。 「え......?」 うん、と咄嗟に頷いて、目を瞑った瞬間。 「あ」 殺人犯の呆気にとられたような声と共に、ぐちゃ、と何かが潰れる音がした。 ずるずると、地面を何かが這う音。それはフェリシエの後ろ......丁度あの殺人犯がいたところでしていた。微かに血の匂いがするけれど、それすらすぐに消え、またずるずると、何かが引きずられている。目を開いた瞬間、男のローブの裾に吸い込まれてゆく血塗れの触手のようなものが見えた。後ろを振り返れば、そこには大きな血だまりがひとつ、残っているだけで。 「おじさん......?」 「ああ、いけない。僕としたことが......貴重な研究材料だったのに」 男は、後悔している素振りでそう言った。研究材料。先ほどの触手めいたもの。全身を覆い隠す服。 「だが、女性の髪を切るなんて狼藉は、良くないね。うん、君が悪い」 血だまりまで歩いてゆき、そこにあたかも殺人犯が倒れているかのように話しかける男。男の歩いたあとに、血の筋が引かれている。まさか、ひとひとり、飲み込んだのか。 「やっぱり、おじさんって人間じゃないんだね......」 フェリシエは呟いた。その言葉に、男が彼女を振り返る。 「人間だとは、言った覚えがないね」 「うん、言ってない」 「......もっと取り乱されるかと思っていた」 その言葉に従って、彼のローブの裾が少しだけ捲れ上がる。フェリシエが怖がりでもすれば、殺す気だったのだろうか。 「なんで?」 けれど、フェリシエは本気で首を傾げた。 「おじさんって、人間よりよっぽど人間っぽいよ」 ね?だから、怯えなくていいよ、とそう言って笑うフェリシエ。 きっと、自分は人間らしくない人間だ。でも、ふたりとも異常なら、一周回って仲良くなれるだろう。 「とりあえず、この街は出よっか。わたしの故郷に案内したげるね」 わたしの呪い、知りたいんでしょ? そう言えば、男は逡巡した後頷いた。立ち上がったフェリシエは、ふと地面に落ちた自分の髪の束に目をやる。それについていたリボンだけを抜きとり、男の元へ駆け寄った。男のローブから出ている一房の黒の髪の毛に、それを結びつける。真紅のリボンのついた髪は、男の黒ずくめの格好と相まって酷く目立つ。 「おそろい!それ、わたしの髪が伸びるまでもっててね」 「ええ......」 「いいでしょ、似合ってるよ?」 仕方がないな、と男がここ数日で何度も言った言葉を繰り返すのに、フェリシエはにっこりと笑った。 その日、役目に当たっていた関所の兵士がひとり行方不明となった。残されていたのは大量の血痕だけ。他の兵士は、その兵士の断末魔さえ聞かなかったという。 「そういえば、おじさんの名前はなんていうの?」 街道を歩きながらフェリシエが、思い出したかのように言った。桃色の瞳が男を見上げる。 「ずっと聞いてなかったなって」 「ええ、今更かい」 「いーの!」 ぷく、と頬を膨らませて見せる少女に答えた。 「......アルブレヒトだ」 「なっがーい!やっぱり、おじさんでいいや」 「君なあ......」 まあ構わないけれど、といえば、やったと笑う少女。 「そういえばおじさんって、今までも仲いいひととかいたの?」 「いや、特には......ああでも一人だけ」 「へえ、どんな人?」 「隣町へ嫁ぎに行く途中の、女性だった。大人なのに、随分と子供っぽい......」 えー、何それ、と何故かむくれるフェリシエ。その表情が、在りし日の想い出と重なる。 「―――君のお母さんは、なんという名前なんだい?」 「え?んとね、キャロライン。キャロライン=シェーンベルグ」 何の因果だろうか。数十年前の出会いが巡り巡って戻ってきた気がした。 「......そうか」 「なんでそんなこと聞くの?」 「いや、私には母親がいないから、気になっただけだ......」 『ねえ、アルブレヒト。私ね、ぜーったい子供は女の子がいいの』 隣を歩く女性が笑う。もう二十歳は超えているだろうに、やけに幼く笑うひとだった。 『そうか。君の子なら、きっとかわいいだろうね』 『当り前じゃない!それでね、付ける名前ももう決めてあるのよ』 『へえ、なんという名だい』 ―――フェリシエ。 「なに?」 少女がこちらを見上げる、それに緩く微笑んだ。 「......いい名だなと思ってね」 「うん、わたしも気に入ってるんだ」 それは何よりだ、と返しながら考える。 やはりあのひとが子供を生贄に差し出すとは思えない。アルブレヒトでも理解できる、キャロライン......キャロルは、花一本手折れぬ優しいひとだった。 ここでひとつの仮説。ひょっとして、フェリシエの街を襲ったのは病魔などより余程恐ろしいものだったのではないだろうか。例えば、ひとの精神を侵食する何か。 そんな疑念と、好奇心が沸き上がる。 「フェリ、ここからはどちらへ行けば......」 分かれ道に来た。一度思考を中断し、隣を歩いていた筈のフェリシエに声をかけた時だ。 「ね、ね、おじさん」 「なんだ......」 見下ろせば、少し赤い顔をした少女がいた。飢餓感の波でもきたのか、と少し乱れた呼吸。 「おじさん、ちゅーしよ」 ローブをくいと引かれ、彼女は幼子のように乞う。アルブレヒトは溜息を吐き、しゃがみこんだ。 「いいかね、抱きしめるくらいは出来るが、そういうことは大切な人と......」 言葉は途中で止まった。やわらかなものが唇に触れたせいだ。目線を合わせようとしたのは失策だったかと頭の隅で思考するも、もう手遅れだった。 「ん、」 鼻にかかった声を出して、フェリシエが舌先を入れてくる。人間のものより尖った歯が彼女を傷つけぬよう口を開けば、侵入は更に大胆なものになった。彼女の舌の触れるところが、唾液の混ざるところから毒が回ってゆく。アルブレヒトに神経毒の類は効かぬものの、ぴりぴりと微かに痺れるような気がした。 「は、えへへ、おじさんの唇奪っちゃったー」 口を漸く離した彼女が、桃色の瞳と濡れた唇を三日月に歪ませる。そのまま背を向け、跳ねるように歩き始めるその小さな体を追いかけた。歩幅が違うせいですぐに追いついて、隣に並ぶことができる。 「全く......こんな化け物とキスしようとする物好きなんて、君くらいだよ」 「えー?ってことは、おじさん、ちゅーしたことなかったり?」 「............」 沈黙は金、という言葉はあるが、この状況に当てはまるものではなかったらしく。 「わ、ファーストキスだったんだ」 一層笑みを深くした彼女が桃色の瞳を蕩かせて、こちらを見上げる。それに眩暈がするような心地になって、アルブレヒトは額に手を当てた。 「よく分からない子だ」 「おじさんに言われたくないもん」 手、つなご。 差し出された白い手は、ひとにとっては猛毒になりえるそれだ。アルブレヒトのように革手袋をしていても、フェリシエの裁量ひとつで容易く神経を壊すだろう。 「仕方がない子だね」 その手に触れると、ぎゅうと握られる。手袋越しでも分かるほど、壊れやすそうで、やわらかいてのひらだった。
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