誰が追憶は誰がために(三)

きなこもち


 
 音葉の神域はそこまで穢れていなかった。
「まあ、想像の範囲内で済んでいるな」
「そうですね。僕的には思っていたよりも綺麗です。彼女のおかげでしょうか?」
「かもしれないな。あの娘はどこにいるだろうか」
「ご神体のおそばにいるかと」
 巳陽と鈴は冷静に辺りを確認して進んでいく。冷はその後をついて行くだけだった。そんな冷に、巳月は穏やかに声をかける。
「何が何だか分からない、という顔をしているなあ。まあ、分かるわけないよの。我らはお前に何も教えていないのだから。人のことは言えんが、お前のことを大事にしすぎよな。特に怜葉は」
 巳月が怜斗の名を呼んでから、少し困ったように冷は口を開いた。
「あの......。怜葉って怜斗の本当の名前ですか?」
「ああ。当時のあやつの本当の名だよ」
「じゃあ、その名前で呼ばないでください」
「そなたに強制される理由はないぞ。あやつの望みだしなあ。それとも、そう呼んでほしくない理由でもあるのか?」
 首を傾げ、袖で口を覆いながら質問をする巳月の姿はとても美しい。美しすぎて怖いなと思いつつ、冷はなおも困った顔をしたが何も言わず、答えを示さなかった。質問に下手に答えないのは賢い選択だ、と二人の会話に聞き耳を立てていた巳陽は安堵の息を漏らす。それに気が付いた鈴は二人には聞こえないくらいの小声で巳陽に話す。
「巳月様も相変わらずのようですね」
「ああ......。袖の下の口元は、きっとにんまりと笑ってるぜ......」
 二人そろって苦笑をする。そうこうしているうちにご神体の場所が近づいてくる。そして、ご神体のそばには音葉がいた。巳陽と鈴は一瞬警戒したが、音葉が正常時の温和な笑みを浮かべたので、警戒を解き音葉のそばに寄る。二人について巳月も冷も音葉のそばに行く。
「音葉様、ご無事で何よりです」
 真っ先に声を上げたのは鈴だ。瞳には涙が浮かんでいる。何も言わないが巳陽も同様だ。本当に何も分からない冷は困惑するばかりだった。それに気が付いていて助け船をださずに巳月は楽しんでいた。その状況を打破したのは、音葉だった。
「冷、久しぶりだね。ごめんね、巻き込んじゃって。大事な子の記憶まで奪ってしまって」
 冷は何も言わなかった。鈴はそんな二人を見て言った。
「音葉様は何も悪くありません。今から、音葉様を救います。準備は整いました。記憶を渡していただけますか?」
 音葉は鈴の言葉に頷くと、手に持っていた神楽鈴を一振りした。すると、どこからか現れた半透明の泡のような物が鈴の前に浮遊した。
「ありがとうございます。では、始めましょう」
「いい加減にしてくれ」
 冷の鋭い声に場は静まり返った。巳陽も音葉も鈴も驚いたように冷を見つめた。巳月だけは口元があがっている。
「一体、何をするんだ。何故ここに来た。鈴の記憶をどうするつもりだ」
「冷......。ひょっとして、何も説明を受けていないのかい? 巳陽、冷にきちんと説明したかい?」
 巳陽は首を横に振る。代わりに鈴が答える。
「説明をしていないのは、僕がそう言ったからです。巳陽様のせいではありません。それでも、説明しようとは思いません」
「それは、冷のためかい?」
「いいえ、自分のためです」
 そうはっきりと言い切ってから鈴は冷に向き直った。
「神様。何も伝えていなくてすみません。でも、何も聞かないでください。音葉様を救いたいんです。僕の言う通りにしていただけませんか?」
 冷を真っすぐに見据える瞳には、意志の強さが見て取れる。だが、ただ言いなりになるほど冷は優しくはなった。
「内容による」
 冷えた声色で端的に答える冷の姿はまさに神というに相応しい畏怖を纏っていた。この神様のことを神様と思い切れていなかったな、と鈴は少しだけ怖気づく。それでも引くわけにはいかなかった。
「この記憶を用いて、神様の力を引き上げます。おそらく、巳陽様に引けを取らないものになるかと。その上で、僕を神嫁にしてください。一時的でいいんです。神嫁を娶ることで神様の力は上がります。神嫁になることで僕は増強したあなたの力の一部を使えるようになる。そうすれば、完全に音葉様を浄化することができるんです。全てが終わったら、眷属を辞めさせて神域から追放してくださって構いません。他のもっと優れた者が神様の守護を務めるよう桜梅家にも頼みます。だから、お願いします。私の願いを叶えてください」
 ただの人間による、ただの懇願であった。
「冷、私からも頼む。音葉を救いたいんだ」
 巳陽も同様に頭を下げる。その様子を見て、これだから人の子は面白い、と巳月は思った。
「それであれば、どうして俺に頼むんだ。俺でなくとも、一神様や兄上に頼めばいいだろう。鈴が記憶を失う必要もなかった。そこまでして俺を使う理由は何なんだ」
 冷の声色はなおも冷たい。そこで、巳月がようやく口を開いた。
「どうせ全て分かっているのだろう? そなたは薄々気が付いておったのではないか? 我達がじきに高天原に行こうとしていることを。どうせ、音葉が口を滑らせておろう」
「すみません。確かに、巳陽が冷を一神にしたがっている、といった感じのことを言ったかもしれません」
「まったく。だから、我はお主も、お主の父も好きにはなれんのだ。嘘も隠し事もできぬ奴らには、嘘も隠し事も通用せんからな」
 ふん、と怒ったように鼻を鳴らす巳月が怒っていないのは誰でも分かる。それ以上に巳月の発言の方が巳陽も鈴も驚きだった。
「お主らはこやつを甘く見すぎておる。こやつは確かに元はただの人間。お主らと違って一切神の血など入っておらぬな。だが、ただの人間だからこそ、何の記憶もない状態で神になる。神としての意識も、矜持も、巳陽、お主よりもずっと高い」
「一神様......」
「兄上、もう取り繕う必要ないですよ。俺、結構色々知っているつもりなので。といっても、音葉様が堕ちていることも、鈴が音葉様に関係していることも知らなかったですから、ここに来てからは驚いてばかりですけどね。兄上と一神様の関係も、お二人が俺を一神になれる状況にした上で高天原に行こうとしていたことも知っていました。いや、高天原にいこうと考えていたのは一神様だけですかね。兄上は一神様の望みを叶えるために俺を一神にしようとしていただけですしね」
「ほう、随分色々と知っておったようだなあ」
 笑みを浮かべる巳月に対し、冷も綺麗に笑顔を返す。
「では、どうしてこやつらの頼みを断った?」
 巳月の顔から笑みが消えた。普通の者であれば、巳陽や鈴であってもその時点で頼みを受け入れるだろう。しかし、冷は違った。笑顔を崩さずに答えたのだ。
「確証がなかったので。それに、これで素直に従っていたら、ねえ? 兄上や鈴にとっては音葉様を救うための懇願であり、俺に黙っていたのは俺が普通の神よりも堕ちてしまいやすいから。だからこそ、ギリギリまで俺を音葉様から遠ざけておきたかったのでしょう。しかし、一神様には他の意図もありましたよね? 俺に一神として必要な力をつけさせるため、一神様や兄上でなく俺を使おうとしたのでしょう。それに加え、もう一つ目的もあった。俺は、合格できましたか?」
 まさに挑発であった。分かっているのにも関わらず巳月は小首をかしげながら言う。
「さて、目的とは何のことかわからんなあ。それで、やるのか、やらないのか?」
「鈴次第と言ったところですね」
 現一神と次期一神のやりとりを見ながら、神に対する畏怖を再確認していた鈴は急に話に挙げられて心底驚いた。
「僕次第とはどういうことでしょうか」
 震える声で鈴は言った。冷は先ほどとは打って変わって、とても優しい目をしていた。
「君は鈴だろう。怜斗じゃない。俺は怜斗ではなく鈴であれば眷属に迎え入れるし、神嫁として君を娶ろう。だから、鈴。怜斗の振りをやめてくれ。鈴として、俺の神嫁になることを望んではくれないだろうか」
 それは冷からの不器用な告白だった。
「僕は振りなんかではなく......」
「鈴。もういいから。君と怜斗は別の人間だ。それとも、鈴は他に誰か添い遂げたい相手がいるのかな? それならまあ、諦めて、一時的な神嫁にだけするが」
 本当に優しい瞳だった。ここで鈴が嘘をつけば、分かっていてもそれを真実としてくれるのだと鈴には分かった。だからこそ、ここで嘘をつき通し、自分から彼を解放するべきだとも思った。しかし、それはできなかった。
「一時的なものにだけしてほしいの。私はあなたが恋焦がれている怜斗じゃないもの。それに私が勝手に取り付けてしまった約束のせいであなたは神になってまでもなお縛られてしまった。私にはあなたの伴侶になる資格はないの」
 そう言って鈴は涙をこぼした。紛れもない鈴の本音の一つだった。冷は指で鈴の涙を救いながら視線を鈴に向け続ける。
「君が望んでも、俺は君を恨めないし、君がいいんだ。他の人間でもなく、怜斗でもなく、鈴がいいんだ。前世のことなんていいじゃないか。それを全て含めて鈴がいるんだから。それに、俺は覚えていないが、君が後悔している約束がなかったら俺は君に会えていなかったんだろう? そうしたら、俺はその約束に感謝しなければいけないな。俺は、鈴が好きなんだ。君がなってくれなかったら、君以外が俺の神嫁になるのは仕方のないことかもしれないが、嬉しくないな」
 それでも鈴は首を縦には振らなかった。冷は、少しだけ思うところもあったが仕方がないと思うことにした。
「分かった。鈴の願いを受け入れよう。君に俺の力を高めてもらって、その上で一時的にだが神嫁にする。これでいいかい?」
 鈴はその言葉に頷いた。口を出したのは巳月だ。
「その娘次第と言った割に、お前は何も得ないのではないか?」
「いや、鈴が怜斗の真似をしなくなっただけで十分ですよ。鈴がいるだけでいいんです」
「まこと、人の子は面白い。だからこそ愛おしいのだなあ。ほら、鈴。仕事だ。お主が決めたことであろう? 泣いてないで早くやるぞ」
 巳月の言葉に頷き、涙を袖で拭った鈴は真っすぐに冷を見る。
「それでは、桜梅家本家に伝わる秘術による儀式を行います。今回の代償は、私の、冷に関する記憶です。名前すらもここに入っているので、効果はかなり大きいと思われます」
 鈴は祝詞を唱え始める。鈴の記憶が光となって霧散していく。これで本当に鈴と思い出を共有することが不可能になってしまったのだと冷は感じた。それは冷にとって、とてもとても痛いことだった。
 しばらくすると、冷は己の中に温かな力が巡るような感覚を覚えた。これが、鈴の記憶による力の引き上げなのだろう。
「ああ、君の俺に関する記憶はこんなにも温かいものだったんだな。もう、戻ってこないのか。仕方のないことだが。さて、兄上。鈴の名前を教えてほしいんだ。これが終わったらきちんと鈴を解放すると約束する」
「冷、お前はそれでいいのか?」
 巳陽が心配そうに冷に問いかけた
「他ならぬ鈴の願いだ。これでいいんだ」
「鈴を神嫁にし、その後解放したら、その名で鈴を神嫁にすることは二度と叶わないぞ」
 冷はそれに対して何も言わなかった。ただ優しく頷くだけだった。
「鈴も、それでいいのかい?」
 鈴もまた頷くだけであった。
「分かった。冷、鈴の名前は、鈴菜(れいな)というんだ」
「鈴菜......。ああ、綺麗な名だな」
 冷は鈴の手を取った。そして、その手を握りしめながら、鈴の目を真っすぐに見据えた。
「鈴菜」
 冷に名前を呼ばれた瞬間、鈴は体を硬直させた。忘れてしまっていた名前であるが、確かに自分の名前であることを鈴は実感した。
「鈴菜。君を俺の神嫁に迎えよう」 
 冷がそう言った瞬間、確かに新たな縁が二人の間に結ばれたのが鈴には分かった。
「冷の力が私にも入ってくるみたい」
 鈴は少しだけ霊力を使って神楽鈴を鳴らした。すると、ただ鳴らしたときとは比べようもないほどの心地よい音が響き、空気が澄んだ。
「これなら......」
 鈴は神楽鈴を握りしめる。そして、音葉のご神体のそばに立ってから冷に振り返る。
「冷、あなたの力をお借りします。冷は少し力を奪われるような感覚に陥るかもしれません。ご了承ください」
 そして、神楽鈴を掲げ、ご神体に向き直った。
「これより浄化の儀式を始めます」
 その声と同時に鈴は神楽鈴を響かせる。霊力を込めながら神楽鈴を鳴らし、浄化の調を神楽鈴の音に乗せていく。いつの間に来ていたのか、唯一残っていた音葉の眷属の少女も、鈴の調に合わせて琴を奏でていた。
 聞く者の心を浄化し、逆に掴んで離さないような素晴らしい調だった。
 皆が皆、その美しい調に聞きほれている中、冷だけは異変に気が付いていた。明らかに霊力の減る速度が落ちていたのだ。神楽鈴が鳴らされる時に込められている霊力は減っていないのに、冷から鈴に流れていく霊力は減っている。そして、始まったときから何も変わらないように聞こえる調の最中に聞こえる鈴の息継ぎの回数は確かに増えていた。しかし、冷にはどうすることもできない。鈴に何かが起こる前に浄化が終わってくれと祈るばかりだった。

 鈴の調が終わり、神楽鈴と琴が同時に最後の音を響かせた時、鈴はその場に座り込んだ。慌てて冷が駆け寄る。
「鈴、大丈夫か?」
 鈴の呼吸は荒く、唇は震えている。
「まだ......、まだ終わっていない。はあ......。ここからが、本当の正念場なの......」
 鈴は大きく息を吸って、声をかける。
「音葉様、大分辛いかと思いますがもう少しの辛抱を。巳月様、万が一の場合、音葉様をお願いします」
「分かっておる。力づくでも押さえつけておこうぞ」
 音葉は大分息が上がっており、体が震えている。巳月は帯に挿していた扇を取り出し、巳陽は服の下に隠すようにして首に下げていた勾玉を服の外に出し、腰に帯びていた刀を鞘から抜いた。
「鈴、俺はどうしたらいい?」
 冷が鈴に聞くと、鈴は顔をふにゃりと緩めてから立ち上がる。そして、再び神楽鈴を高く掲げてから言った。
「冷は、私のことを見ていて」
 それだけ言うと、鈴は琴を弾く少女に目配せしてから、神楽鈴を響かせた。先ほどとは全く違った激しい調だった。神楽鈴も琴も激しくかき鳴らされ、鈴の声の張りも強かった。鈴が神楽鈴を鳴らす度に、音葉は体を大きく震わせた。その上、時折、うめき声のようなものを上げていた。
 調の中盤に差し掛かった時、音葉が叫んだ。
「やめろ! やめてくれ! ああ!」
 音葉の体はがくがくと震え、目は虚ろになっている。それでも、調は止まない。
「ああああああ。うるさい。やめろ。うるさい!」
 音葉が鈴に襲い掛かろうとした時、巳月が扇を振った。すると、音葉はその場に崩れ落ちた。動こうともがくも、何かに縛られて動けないかのようである。音葉を見ようと振り返ろうとした冷に巳月は音葉から目を離さずに怒鳴った。
「冷! 鈴から目を離すでないぞ!」
 そう言われた冷は音葉の様子を見たい衝動に駆られつつも、鈴だけを見ていた。鈴を見ている、ということがどういう風に役に立つのかが分からなかったが、何か異変があったらすぐに気づけるように冷は真剣に鈴を見ていた。
 その一方で、巳月と巳陽は音葉から目を離さなかった。音葉が動こうとする度に巳月が扇を振って押さえつける。しかし、調が進めば進むほど、音葉の抵抗は強くなっていく。
「うむ、仕方ないのお」
 巳月は扇を開く。そして、調に合わせて舞い始めた。
 舞とは本来、見る者を癒し、楽しませるはずのものであるが、巳月のこの舞は違う。扇を振るうことで他者を拘束し、扇を開き舞うことでその力を最大限に高めるのだ。普通の者であれば、巳月は舞うことなどしない。扇を振るうだけで問題ないからだ。
「全く、音葉も面倒なものに憑かれたものよ。よく自我を保っていられたものよなあ。さすが、巳陽の兄といったところか」
 地に縛り付けられた音葉は、叫び続ける。
「うるさいうるさいうるさい。そもそも、俺がこうなったのは全て巳陽のせいだ。あいつさえいなければ。俺は父様にも愛されて、もっと上の地位にも行けたのに。全て巳陽が悪い」
 じろりと巳陽を睨み上げ、口角を上げる。
「お前は、いつまでその場所にいられるんだろうな。俺をこうした原因はお前だというのにな。ああ、憎いなあ。さっさと俺のようになればいいのに。巳月様に捨てられ、冷に軽蔑の眼差しで見られればお前も堕ちるかな。ああ、楽しみだなあ」
 巳陽は刀の切っ先を音葉の首筋に当てる。
「黙れ、悪霊風情が。音葉の口で話すな」
「俺をこうしたのはお前だというのに、お前がそんなことを言うのかい?」
「音葉が堕ちたのは貴様のせいだろう。さっさと、音葉から離れろ」
 巳陽は刀を強く音葉に当てる。それに怯えるでもなく、音葉は笑みを深くする。
「お前のその自信はどこからくるんだい? 俺はずっとお前が嫌いだったんだ。他の皆もお前なんて嫌いさ。巳月様も冷も鈴も。お前を愛する人なんて誰もいないのさ!」
 声を大きくして音葉は言った。巳陽は音葉の言葉に動揺した。堕ちている者の狂言であることは分かり切っていても、友の口から拒絶の言葉を聞くのは巳陽の心を大きく揺さぶった。巳陽の刀を握る手に力が入ったのを見て音葉は口角をあげる。
「ほうら、お前はそうやって友に躊躇なく刀を向けられるような神なんだ。ニクイニクイ、オマエガニクイ。陽ヨ、オマエノタメニコイツヲオトシタノダ。トモガオチタノハオマエノセイダゾ」
「お、お前は......」
「ニクイニクイ。ミツキサマノチョウアイヲウケルオマエガニクイ。オマエナンテカミデハナイクセニ」
 巳陽が刀を握りしめた。このままではまずいと察した巳月はなお舞い続けながら口を開く。
「巳陽、こやつの言葉に今は耳を貸すな。鈴の声だけ聞いていろ。それでも不安なら思い出せ。誰がお主を神にしたのかをな」
 その言葉に巳陽ははっとして刀を音葉の首筋から離した。
「巳月、ありがとう」
 巳月の言葉がなかったら斬っていたかもしれない、と巳陽は思った。ご神体に傷をつけなければ音葉の命に問題はないが、きっと自分を許せなくなった挙句、音葉と縁を切る羽目になっていただろうと容易に想像ができ、苦笑を浮かべた。巳月は、巳陽の心も、巳陽と音葉の関わりも護ったのだ。
「そもそも、これは誰かを斬るための刀ではないのにな」
 巳陽は刀を見つめながら呟いた。
「音葉、お前の魂からこの悪霊がはがれたら、俺が責任もってそいつを斬ろう。この破魔の刀で」

 冷は真剣に鈴を見ていた。声を張り上げ、神楽鈴をかき鳴らす。先ほどよりも圧倒的に霊力の減りが早かった。巳月も鈴も、冷に対して鈴を見ていろと言った。冷はその意味をここにきてようやく分かってきていた。あれは鈴に送る霊力を調整しろ、という意味だったのだ。鈴は神楽鈴を鳴らす瞬間に霊力を神楽鈴の音に乗せる。その時に霊力を多めに取りすぎてしまうようだった。神の霊力を人間が多く受けると体が耐えきれなくなることがある。鈴はそれを見越して、先ほどの調では極力霊力をもらわず、自分の物だけでなんとかしていた。しかし、今は浄化の方に集中が向いており、霊力の調整がおざなりになっていた。だからこそ、霊力を送る側である冷が調整をする必要があったのだ。鈴が神楽鈴を鳴らす瞬間に霊力を少し多めに送る。それ以外の時はほとんどといっていいほど送らない。簡単のようで、その実、とても難しいことであると冷は痛感した。

 ああ、なんてやりやすいんだろう、と鈴は思っていた。欲しいと思ったタイミングで、欲しいと思った量の霊力が送られてくる。さすがとしか言いようがないな、と鈴は内心舌を巻く。調はもう終盤。これが終われば、音葉のご神体から完全に穢れは離れる。音葉のご神体から穢れを離してしまえば、あとは巳月と巳陽の仕事だ。そこまで確実に遂行しなければならない。そう思いながら、鈴はまた強く神楽鈴を響かせた。

「あああああああああ!」
 調が終わった直後、音葉が断末魔のような叫び声を上げて、完全に意識を飛ばした。
「巳月様! 巳陽様!」
 鈴の声を合図に、舞を止めた巳月は扇を閉じ、首元の鏡を手に取る。巳陽もまた、首に下がっていた勾玉に触れ、言霊を放つ。
「我が霊力をもって、他の空間とこの場を隔てたまえ」
 すると、ご神体を中心にその場にいた全員が一つの結界に閉じ込められる。巳陽はさらに続ける。
「かの者たちを護りたまえ」
 巳月と巳陽以外の者が個々に結界に覆われた。
「準備は整ったな。鈴、いいぞ」
 巳陽が結界を張り終えたのを見て、巳月が鈴に声をかける。鈴は頷いてから息を吸って叫んだ。
「穢れよ、ご神体から離れよ!」
 鈴は最大限の霊力を込めて、神楽鈴を一振りした。神楽鈴の音が響き渡り、辺りがシンとする。皆が皆、緊張した面持ちでご神体を見つめていると、ご神体から黒い靄が上がってくる。鈴は慌ててご神体から離れて冷のそばに行く。冷も固唾をのんでご神体を見守っていた。黒い靄はゆらゆらと漂い始める。靄が冷たちに近づくと、冷は鈴を庇う様に鈴の前に立つが、靄は二人の前をしばし漂ってから、離れていった。靄は結界の外に出ようと試みたが出られなかった。そして、ふわふわと揺らめきながら巳月と巳陽の前に出た。靄が巳陽の前に出たのを見て、巳陽は刀を構える。
「陽ヨ。ナゼオマエバカリガミツキサマニアイサレル。ニクイ。オマエガニクイ」
「お前は、巳月の何を知っている。巳月のことを心から欲したことがないくせに知った口を叩くな」
 そして、靄を二つに斬り伏せた。しかし、すぐに元に戻る。
「ヤハリオマエヲチョクセツオトスベキダッタ」
「やれるものならやってみろよ。その前に斬り伏せてくれる」
「ニクイ。ノロッテヤル。オトシテヤル」
 そう言うと、靄はものすごい速度で巳陽に向かう。巳陽はそれをひらりとかわした。巳陽は靄に対して刀を振るうとキインと金属音が響く。
「なっ」
「その刀が弾かれるか。やはり厄介よなあ」
 驚きを隠せない巳陽の後ろで巳月は冷静だ。巳陽は靄に刀を振りかざしても、靄はすぐに元に戻るか、金属音を響かせながら刀を弾くかで埒が明かない。
「私に何かできることはないの?」
 鈴は冷に問う。ご神体から穢れを祓うまでが鈴の仕事であり、それ以降は未知の領域だ。
「無理だ。俺たちがあれに触れられたらそこから瘴気が入る。一神様や兄上であれば魂に神の血があるから多少耐えられるだろうが、俺はおそらくすぐに堕ちるだろうな。神の血が入っているとはいえ、人間である鈴も、弱っている音葉様も堕ちるだろう。だからこそ、兄上は俺たちに結界を張ってくれたのだろう。俺たちは見ていることしかできない」
 鈴はそれを聞いて黙った。すると、靄が急に巳月の方へ向かった。
「ドウセカナワナイ。ソレナラ、ミツキサマヲオトセバイイ。ソウスレバ、コッチヲミテクレルハズダ」
「ほう、我を堕とすか。その心意気だけは認めてやるが、我に触れられるとは思わんほうがよいぞ」
 巳月に靄が振れる寸前、巳陽が刀でそれを止める。
「俺も堕とせないような悪霊が巳月を堕とせると思うなよ」
「チガウ。オレハ、ワタシハ」
「ふむ。一つかと思っていたが、色々と混ざってしまっていたのだな。巳陽、核を斬れ。お主なら、この怨念の核がどれか分かるであろう?」
 巳陽は巳月の言葉に目で返事をし、靄を真っすぐに見据えた。
「アアアアア。ナンデドウシテ。ドウシテ陽ナンダ。オレハナゼダメナンダ」
「お前は巳月を見ていない。お前が欲したのは巳月の力だろう」
「チガウ。オレダッテ、ズットミツキサマヲ。オマエガアラワレナケレバ」
「見えた」
 巳陽は小さく呟いて、荒れ狂う靄の一点を正確に突き刺した。その瞬間、靄がいくつかに分断された。
「巳月、これでいいか?」
「ああ。個々に分かれたのであれば十分だ」
 巳月は手に持っていた鏡を靄に向ける。
「ヤメテ。ヤダ。ミツキサマ」
「お主らをそのような姿にしてしまったのは我なのだな。我が責任をもってお主らを救ってやろう」
 巳月は小さく息を吸って、よく響く声で言った。
「滅されよ」
 鏡が光りを放つ。
「アア。これで、やっと」
「すまなかった。護ってやれなくて」
「巳月様は悪くない。これも俺が」
「よいよい。もう、眠るといい。きちんと送ってやろう」
「ありがとうございます」
 巳月が靄の中でも一番大きなものと会話している脇で、巳陽もまたそのうちの一つと話をしていた。
「君は、俺のせいかな」
「チガウ。ワタシハタダ、ウラヤマシカッタダケ」
「俺が?」
「信頼しあっている二人が羨ましくて、気づいたらこうなっていただけ」
「そうか。大丈夫、巳月がちゃんと救ってくれるから」
 巳陽のその言葉に靄が答えることはなかった。靄が消滅すると、鏡から放たれる光が消える。巳月は鏡を首に掛けなおし、巳陽は刀を鞘に納めた。
「「終わったな」」
 二人同時に息をつき、緊張を緩める。二人の顔には何とも言えない感情が現れていた。消滅した魂は二度と還ってこないと分かっていてもそうせざるを得なかったやるせなさだろうか、と冷は考えつつも自身の後ろにいた鈴に振り返る。
「終わった......。よか......た......」
 鈴は独り言のように呟いて倒れた。冷は慌てて鈴を抱え、顔色を見る。呼吸は安定しており、ただ意識を手放しただけであることが分かり、冷は安心した。静かに鈴を寝かせ、自身の膝の上に頭を乗せてやる。
「力を使いすぎたのだ。休ませてやるといい。もう一仕事残っておるからの。回復してもらわねば」
「鈴は人の子だ。あんまり酷使してやるな」
 笑顔でまだ鈴をこき使おうとする巳月を巳陽が諌める。不服そうにする巳月と、そんな巳月を愛おしそうに撫でる巳陽の姿に、二人は深く愛し合っているのだな、と冷は幸せそうに見つめた後、膝の上で眠る鈴に目を移す。頭を撫でながら少しだけ霊力を送り込んでやると、鈴は少しだけ表情を和らげた。
「お主のものにしてもよいのだぞ?」
 巳月の言葉に、冷は少し驚いたように巳月を振り返ったが、すぐに鈴に視線を戻し、答えた。
「俺は鈴が望むようにしてやりたいんです」
「でしたら、なおさら冷様のものにしてしまうべきでしょう」
 巳月の代わりに答えたのは、琴を弾いていた少女だった。意識のはっきりとしない音葉に自分の羽織をかけてから、冷の方に歩み寄ってくる。
「怜葉様はいつも冷様のことを考えていらっしゃいましたよ。あ、今は鈴様ですね。すみません、何百年も怜葉様と呼んでいたので......」
 申し訳なさそうに謝る少女に、冷は呼び名を変えなくても構わない意を伝える。
「ありがとうございます。申し遅れましたが、私は音葉の神嫁です。怜葉様とは長い間一緒に過ごさせていただきました。私と違って、望んで眷属になったわけではない彼は、何故かいつも一生懸命で。好きではないはずの相手のためにどうしてここまで一生懸命になれるのか聞いたんです。そしたら、『音葉様は僕の大切な人のお兄さんなんです。あ、兄と言っても、よく面倒をみてくれたってだけらしいんですけど。まあ、とにかく、僕にとっても音葉様は大切な人なんですよ。音葉様が堕ちたら、彼が悲しみますし』って。その時の、怜葉様の顔は忘れられないです。私が、よほど彼のことが好きなんですねって言ったら、『ええ。僕のことなんて忘れて幸せになってほしいと願うくらいには』と。お二人の間に何があったのかは分かりませんが、自分のことを忘れてでも幸せになってほしいだなんて、よほど相手のことを愛していないと言えないと思いますよ」
「だが、鈴は怜斗じゃない。魂が同じなだけで違う人間だ」
「では、怜葉様のことは大切ではなかったのですか?」
「そうではない。怜斗のことは大切だった。だが、俺が今、一番大切にしたいのは鈴なんだ。怜斗は眷属にしたいとは思っても神嫁にしたいと思ったことはなかったが、鈴は違う。欲しいんだ。神嫁にして、完全に囲ってしまいたい。でも、鈴はそれを望んでいないから。だから、ちゃんと彼女を解放するよ」
 少女は困ったように笑いながら、鈴の頭を撫でる。
「彼女が今、何を思い考えているのかは分かりません。しかし、これだけは言えます。彼女があなたを見る目は、怜葉様があなたのことを話すときと全く同じです」
 少女はそれ以上何も言わなかった。
「人は難儀よのお。して、娘よ。先ほどの琴、見事であったぞ」
 黙ってしまった冷と少女をよそに、思い出したように巳月は少女を褒めた。
「ありがとうございます。私には浄化の力なんて大層なものはありません。弦を弾くというのは、力を持たぬ私に唯一行える浄化です。お役に立てたようでなによりです」
 少女がお礼を言ったところで、鈴が身じろぎをした。眠たそうに瞼をこすってしばらくしてから意識がはっきりしたのか、伸びを一つして飛び起きた。
「あとは最後の仕上げですね。巳月様、よろしくお願いいたします」
「うぬ。さあ、やるか」
 巳月は扇を、鈴は神楽鈴を持って、ご神体の前に行く。不意に巳月が振り返る。
「巳陽、お主も来い」
「はあ、冗談だろう?」
「刀を持っているではないか。それに我がいるから大丈夫じゃ」
 巳陽はぶつぶつと文句を言ってはいるが、嬉しそうだ。刀を抜き、巳月の隣に立つ。隣で刀を構える巳陽を見て、巳月もまた嬉しそうに扇を開く。
「では、始めますね」
 鈴は二人に合図を送り、最初のものに近い静かな調を奏で始める。その調に合わせて、巳月と巳陽が舞う。二人の息はぴったりで、まるで練習でもしていたかのようだ。扇舞と剣舞。お互いがお互いを引き立て合い、片方だけでは表せない優雅さが出ていた。
 巳月が扇を閉じ、巳陽が刀を鞘に納める。扇を閉じる音と刀を鞘に納める音、神楽鈴の音が同時に響いた時、神域が完全に浄化された。
 二人の舞に見惚れていた冷の耳に唐突に声が飛び込んできた。
「ああ、巳陽は踊れるようになったんだね。美しいな」
 冷は声の方に思い切り振り向いた。そこには音葉と少女がいた。冷と目が合うと、音葉は嬉しそうにはにかむ。
「ごめんね、冷。迷惑かけちゃって。あの子の記憶も奪ってしまって。堕ちていることをずっと黙ってて」
 音葉は一呼吸置いた。そして、
「ただいま」
 その一言に冷の涙腺は崩壊した。
「鈴の記憶奪っておいて何なんですか。文句も恨み言もたくさんあると思っていたのに。本当はここに来てから、音葉様が助かるかどうか気が気でなくて。でも、俺には俺の役割もあって。ああ、でも本当によかった。おかえりなさい。おかえりなさい、音葉兄様」
 音葉は冷を強く抱きしめる。
「うん、うん。ごめんね。恨んでいいよ。文句を言ってもいいんだよ。それでも、君は僕にとって大切な弟なんだ。君のことを心から愛してるから」
「音葉兄様が帰ってきてくれただけでいいんだ。俺も音葉兄様が大好きだから」
 泣きながら音葉にすがりつく冷はまるで子供のようだった。そんな冷の涙をぬぐってやりながら音葉は笑みをこぼす。
「ほらほら、泣き止まないと。君は次の一神様、つまり、僕よりも偉くなるんだから。そんなに泣いていては恰好がつかないよ」
 それでもなお音葉に抱き着いたまま離れない冷の頭を撫でてやりながら、音葉は近づいてくる三人に礼を言った。
「此度は本当にありがとうございました。巳月様、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。巳陽、酷いこと言ってごめんね。怜葉、いや、鈴、今まで本当にありがとう。これからは、君の思う通りに生きてほしい。僕は君の幸せを願い、そして護るよ」
 三人は顔を見合わせて、そして三者三様に答える。
「本当に迷惑な奴だ。我の手を煩わせおって。だが、これは我のせいだ。すまなかった」
「音葉、無事でよかった。本当によかった」
「音葉様が浄化されたならいいんです。本当に良かった」
 そんな三人は、いまだ音葉から離れようとしない冷を見て、思わず笑いだす。一番笑っているのは巳月だった。
「冷、いつまでそうしておるつもりだ」
 言われて、ようやく冷は音葉から離れて、顔をあげる。真っ赤に腫れた目を隠すことなく巳月に対峙する。
「巳月様、俺は合格ですか?」
 巳月は、ほうと感嘆の声を漏らす。
「ああ、合格だとも。だから、これをお前にやろう」
 巳月は帯に挿していた扇を冷に手渡す。
「それはな、我が父神からもらったものだ。要するに、一神が受け継いでいく扇だな。使い方は分かるであろう?」
「はい、ありがとうございます」
 礼を言って、受け取った扇を握りしめる。そして、鈴を呼びその手を取った。鈴はそれに対して、幸せそうに口元を綻ばせた後、巳月の方を向いた。
「巳月様、私は合格ですか?」
「ああ、お主も合格じゃよ。それに、賭けもお主の勝ちだ。後は好きにするといい」
「「ありがとうございます」」
 二人そろって巳月に礼を言う。それに疑問を覚えるのは当然だが巳陽達だ。
「なあ、巳月、先ほども思ったが冷のことも、鈴のこともどういうことだ?」
「僕も聞きたいなあ」
 疑問を口にする巳陽と音葉に巳月が説明をする。
「冷は一神に相応しいかどうか、鈴は一神の神嫁に相応しいかどうか。これらは無事に合格。そして、賭けの内容というのは」
「冷が無理に私を眷属にするかどうかです」
 巳月の言葉を遮って鈴が言った。そこで巳月は黙り、冷と鈴に説明を任せた。
「巳陽様、音葉様、黙っていてすみません。巳月様は今回のことで冷が一神に相応しいかを判断していました。冷の試練に関しては詳しいことは分かりませんが、それと同時に私自身も試されていたのです。冷の、次の一神の神嫁に相応しいかどうかを。他の神であれば、巳月様が神嫁に干渉することはありませんが、冷は次の一神候補。当然、相応しくない者を神嫁にするわけにはいきません。しかし、冷は私の軽率な約束で他の者を神嫁にするとは思えない。だから、巳月様は私のことも試すことにしたんです」
 音葉は鈴の説明に納得を示したが、巳陽は違った。体は僅かに震えており、顔は真っ青だ。瞳は不安げに揺れている。ああ、こんな顔を見るのはあの時以来だな、と巳月は思った。冷は巳陽の変化にも、巳月の思慮にも気が付いていた。それでも、己の試練に関する説明をする。
「俺の課題は、情に流されず、きちんと状況判断をした上で行動ができるか。一神様が俺に何も教えていなかったのはこのためですよね? もし俺が何も考えずに鈴を神嫁に迎え入れ力を渡していたなら不合格だったはずです」
 それに鈴も続ける。
「私は神を浄化しきれるか。これが私への課題。普通の浄化では、ここまで堕ちてしまった神を完全に浄化することは不可能。神の力を正しく上手に使いつつ、自分の力を使えるか」
 鈴の説明に音葉が付け足しをする。
「たしかに、それさえできれば、神の力を借りれば神と同じ働きができるからね」
 それに鈴は頷いてから、賭けの説明を始めた。
「次に賭けについてですが、これは先ほど言ったとおりです。冷が私を無理矢理眷属にするかどうか。これで私たちの信頼関係を見ていたんです。勿論、冷はこの賭けの内容を知りません。知っていたのは、巳月様と私だけ。この賭けに私が勝ったら、この賭けの内容と私達への試練の内容を皆に話す。巳月様が勝ったら話さないと決めていました」
「どうしてそんな賭けをしたんだい? その内容を知っても、僕達は特に困らない。巳月様はどうして隠そうとしたんですか?」
 巳月は袖で口を隠したまま話そうとしない。その瞳には、いつものような笑みはなく、何か考え込んでいるような深い葛藤が見て取れた。
「俺が原因なんだろう?」
 巳陽の声は震えていた。それでも、真っすぐに巳月を見つめる。瞳には色濃く不安が表れている。
「もし、冷も鈴もその課題が達成できなかったら、一神候補はいなくなり、巳月は一神を続けなければならない。そして、俺の見立ては間違っていると示さざるをえない。冷も鈴も優秀で、こういう結果になったからよかったが、もし、二人が失敗していたら、俺は巳月に相応しくないことを皆の前で示すことになる......」
 巳月は小さくため息をついた。
「お主にそんな顔をさせたくなかったんだがな。巳陽、近う寄れ」
 言われた通りに巳陽が巳月のそばに行く。巳月は巳陽がそばにくるとそのまま抱きしめた。
「お主はずっとそばにいてくれたなあ」
 まったくと言っていいほど的外れな発言に巳陽は狼狽える。
「お主が原因ではない。我が原因なんだ」
 巳月は巳陽を抱きしめる腕を緩めて、未だ不安に揺れる瞳を見た。
「言い訳になるが、我は一神なんだ。一神として、次の一神候補は見極めなくてはならない。そして、その神嫁も。だが、お主が大事にしている者たちをあからさまに試すようなことをしたらお主が悲しむと思ってなあ。それに、お主は優しい。冷と鈴が失敗しても、お主は彼らを大事にし続ける。相応しくない者を一神の候補に選んでしまったと言って我との縁だけを切って。だから、隠そうと、隠したいと思ってしまった」
 巳月は手を巳陽の頬に添え、静かに唇を重ねた。
「我はお主が離れてしまうことが怖かった」
 そう言って静かに微笑んだ巳月は消えてしまいそうなほど儚かった。巳陽はとっさに巳月の手を掴んだ。
「俺が、そんなことで離れるわけがないだろう。俺は、巳月が俺を捨てるまで、巳月と共にあると決めているんだから」
 巳陽は思い切り巳月を抱きしめた。そんな光景に皆が皆、よかったねと言わんばかりに微笑んでいるが、冷だけは違った。冷だけは巳月の苦し気な表情に気が付いていた。しかし、この空気に水を差すほど野暮でもない。冷はただただ静かにそれらを眺めていた。


―長い長い年月をかけた音葉の浄化がようやく終わったのだった―


「お主、どこまで気が付いておったのだ?」
 巳月は呼び出した冷の姿を見て早々に質問をした。
「さあ、何のことでしょうか、一神様?」
 冷はいつかのお返しとばかりにすっとぼけた返事をする。
 音葉の浄化後、巳月は一神を辞め、巳陽と共に高天原に昇ることを各地の神や桜梅家、高天原の神々に報告し、今はその準備期間のようなものだった。
 冷は冷で、あの後、結局、鈴に眷属からの解放を要求されたので、望むようにしてやった。神嫁や眷属がいなくとも、今までの徳と信仰、それに加えて鈴のおかげで得た力や一神である巳月の推薦もあり、高天原から次の一神になることを認められたため、慌ただしい日々を送っていたのだ。
 そんな最中での呼び出しであった。
「お主、鈴の試験のことも、賭けのことも気が付いておったのではないか? 鈴が今、どこで何をしているかも知っておるのか?」
 冷はいたずらっ子がいたずらに成功した時のような顔をした。
「俺は、次の一神ですよ。当然じゃないですか、巳月様」
 巳月はその発言に、優し気に目を細めて頷いた。もう冷は、巳月のことを一神様とは呼べないのだ。
「それより巳月様。結局、兄上にあのことはお話にならないのですね。まあ、話さない方が兄上は幸せになれると思いますが」
「知らぬ方が幸せなこともあるだろう。黙っていてくれて感謝しているぞ」
「兄上のためですからね。兄上が幸せになるのであればどちらでもいいですよ。あの賭けは兄上のためだったのでしょう? どうせ、俺たちが試練に合格し、鈴が勝つと分かった上であの賭けをしたのですよね」
「賭けの内容まで分かった上で、鈴に加担したのか?」
「さすがに内容までは分かっていませんよ。ただ、頑なに拒否する鈴と、あえて煽ってくる巳月様に対して慎重になっただけです。巳月様の思い通りにするのは面白くないと思って、鈴に加担したのですが、まさかそれすらも巳月様の思い通りだとは思いませんでした。御見逸れいたしました。ですが、兄上があそこで自分のせいだと言い出すとは思っていなかったのでしょう? どうせ、兄上の見立ては正しかった、さすが一神様の伴侶って感じで自慢交じりに兄上に自信をつけさせるのが目的だったんでしょうけど......。いやでも、いいものを見せてもらいました。あれ全部巳月様の本音ですよね」
「ふん。うるさいぞ」
 冷はからかい混じりの口調を改めて、声のトーンを少し下げる。
「巳月様は俺が思っていたよりも兄上を大事に思っているみたいですね。だから、あんなに辛そうな顔をするのですか?」
「はは、見透かされておったか」
「まあ。俺しか気づいていないから大丈夫だと思いますが」
 巳月は俯く。
「......。巳陽はまだ、我が巳陽を捨てると思っているのだろうか」
 巳月の呟きを聞いた冷はとても寂しそうな顔をして聞いた。
「巳月様、兄上を神にしたのは何故ですか? ただ欲しいだけであれば、眷属でも神嫁でもいいじゃないですか。あなたが、兄上を神にするのにこだわった理由がいくら考えても分からないのです」
 巳月はそれを聞いて、少しだけ困ったように眉を下げた。
「我のわがままだな。我と対等になってほしかった。その上で我を欲してほしかったのだ」
 そう呟く巳月は寂しげに見えた。冷は、ああそうか、と思った。巳月は、神からも人からも崇拝の対象だった。それは、地上の神を統べる神として生まれてからずっと。巳月に望まれることは多くあっても、巳月自身を欲されることはなかったのだ。だからこそ、巳陽が巳月を真っすぐに欲した姿勢は、巳月に響いたのだろう。お互いにただ欲されることを望み、いつの間にか、お互いに欲されることが一番になってしまったということか。冷はそう結論付ける。
「まったく、難儀ですねえ」
「その通りよなあ」
「ですが、高天原で祝言をあげるのでしょう。多くの神々の前で互いの想いを誓うのですから、兄上も巳月様の想いを疑わなくなると思いますよ」
「そうだといいなあ」
 少し暗くなってしまった空気を払拭するように巳月が声を上げた。
「それにしても、賭けなんてなくても鈴はお主から離れたではないか」
 巳月も冷も態度を一変させいたずら好きの子供のような表情で話を続ける。
「それが鈴の意志ならいいんですよ。俺は、鈴が幸せならいいんです。他に眷属をとる気はないんですけどね」
「お主のその気持ち、今は分からんでもないぞ」
「それはそれは。分かっていただけて光栄です、母上」
 珍しい呼び方に巳月はげんなりと顔を歪める。
「そう呼ぶでない。そう呼ばれると、巳陽を愛している己が過ちを犯している気分になる。やめろ」
「おお、怖い怖い」
 冗談めかした言い方をした冷だが、再び少しだけ寂しそうな顔をして言った。
「本当に行ってしまわれるのですか?」 
「ああ。すまんなあ、巳陽まで連れていってしまって」
「それが兄上の幸せなら止めませんよ。ただ、やはり少し寂しいだけです」
「お主から、そんな言葉を聞けるとはな」
「兄上のこと、大切にしてくださいよ。兄上をいじめたら、俺、怒りますからね」
 そう言いつつも、冷は穏やかだ。巳月が巳陽を大切にすることなど分かりきっているからだ。
「二柱が高天原に行くわけですが、どうするのですか?」
 冷が巳月に問う。
「一柱はもう決めておってな。もう一柱は空けておこうと思っておるのじゃ」
「一柱はどなたに?」
「音葉とあの娘の間に生まれるじゃろう」
 それを聞いて、冷は頷いた。
「そうですね。音葉兄様もあの少女も幸せになってほしいですからね。では、もう一柱は決めないとはどういうことですか?」
 巳月は、ふふ、と怪しげに微笑んだ。
「まあ、そのうち我に感謝するさ」
 冷は苦笑する。巳月の言いたいことが分かってしまったのだ。
「そうなることを祈りたいものです」
「良いことを教えてやろう。我はな、お主の言う通り、お主らが試練に合格し、鈴が賭けに勝つと分かっていた。お主は我があの賭けを持ち出したと思っているようだが、それは違うぞ」
 冷は驚いたように巳月を見る。
「鈴が言い出したのですか?」
「ああ。『私は内容は知りませんが冷も試練に合格できると思っていますし、私も合格するつもりです。巳月様の試練に合格して、冷の神嫁になることを一神様に認めてもらえたのだと、巳陽様と音葉様に示したいのです』とか言っていたぞ」
「そうでしたか」
 それだけ言って冷は立ち上がる。
「そろそろ失礼します。高天原に行くときはちゃんと俺のところに寄ってくださいよ。勝手に行かないでくださいね」
「分かった分かった。では、また近々な」
 部屋を出ようとしたときに、冷は振り向いた。その顔は優しく微笑んでいた。
「巳月様、兄上と違って人間だったころの記憶のない俺にとって、あなたは本当に母上だったんですよ。兄上や、音葉兄様ほどの関わりはなくとも、あなたの愛はきちんと感じていました。あなたの加護にはずっと気づいていました。俺は巳月様のこともとても大切です。だから、幸せになってください、母上」
 それを聞いた巳月はとても嬉しそうに笑った。
「冷、お主も我にとっては大切な子だったよ。我を母と認めてくれて、ありがとう」
 冷はその言葉に、とても幸せそうに笑ったのだった。

 自分の神社に戻ると、巫女装束を来た女性がいた。新たな守護だろう。ただ、まっすぐに自分を見つめる姿に、冷は笑みをこぼす。
「お待ちしておりました、冷様。いえ、一神様」
「冷でいいさ。まだ一神になったわけではないしな。あと、敬語もなしだ」
 そう言って、冷は女性に手を伸ばす。女性もまたその手を取り、嬉しそうに微笑んだ。
「ただいま、冷」
「おかえり。ずっと待っていたよ、鈴」
 鈴は冷の手を自分の心臓部に当てて言った。
「私の名前は、令(れい)と言います。鈴とか冷たいの右側の字を書いて令。私をあなたの神嫁にしてくださいませんか?」
 それは鈴の最初の父親である、父神が与えた、魂の名だった。
「その名をもって眷属になることの意味を理解しているか?」
「ええ。私は、魂をあなたに捧げるわ。だから、魂ごと縛って眷属に、神嫁にしてほしいの」
 冷は掌に鈴の鼓動を感じていた。そして、とても嬉しそうに言った。
「鈴、いや、令。君を我が眷属、神嫁に迎えよう」
 その瞬間、二人の間には新たな強い縁が結ばれた。
「君と本当にずっと一緒にいられるのか」
 冷は鈴を抱きしめた。強く強く抱きしめる。鈴も静かに冷の背に手を回した。


 東にある、願いを叶えてくれると評判の神社。最近、そこには一つの噂ができた。
「ととさまー。かかさまー」
 今日もトタトタと小さな神様が境内を走り回っているそうだ。
 それを見ることができたら幸せになれるとか。


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