星の騎士と蒼天の巫女 第一話≪理不尽≫

藩荷原課


藩荷原課


 星のような眼差しだった。
 人間の持ちうる全ての善性が溶け込んだ、見惚れるほどに美しい瞳だった。
 限りない勇気を籠めた、真っ直ぐな視線だった。
 その瞳に、私は────




 夕方、という時間帯が、私、白峰(しろみね) 優(ゆ)雨(う)はとても好きだ。 
 一日が終わりゆくこの時間帯は、ほっと安堵するような緩やかな空気で満ちているからだ。
 町並みが茜色に染まり、色彩の起伏が少なくなり落ち着くからだろうか。それとも暖簾を上げ始めた飲食店から漂うおいしそうな匂いがそうさせるのか。はたまた、勤め先や学校から帰る途中であろう、リラックスした顔の人々とすれ違うことが増えるからかもしれない。
 生理的、精神的な要因が織物のように絡み合い、明確にこれが原因と指摘するのは難しいだろうけど、とにかく私は昔から夕方が好きだった。
 特に、今日のように友達と遊んだ帰りなどは最高だ。
 交わし合った会話や冗談を思い出して心が温かくなる。
 夜ベッドに寝転びながら、今日のことをもう一度お喋りすることを思い浮かべると、楽しみで頬が緩みそうになる。
 そう、夕方は心が安らぐ時間帯なのだ。いつもなら。
 本来の通りの帰路に就けていたなら。
「ねーねー、ちょっとくらいこっち見てくれてもいいじゃん。俺いいオミセ知ってるからさ、今から行こうよ」
 ────鬱陶しいこのナンパ男さえいなければ。
 このナンパ男が声をかけてきたのは十分前、友達と別れて駅に向かうバスを待っていた時のことだった。
 可愛いねちょっと一緒に遊びに行かないとか、ラインやってるとか、突然話してきたこいつに、私は、バス停に人が多かったこともあり、できる限り冷たい声で「結構です」と言い放って離れた。
 私にはナンパされて喜ぶ趣味は無いし、ナンパ男自体もまったく私の好みのタイプではなかった。むしろその逆を行っていた。
 よくそれを着て町を歩けるなと驚くほどこってこてのB系ファッション。臭いのキツイ香水。コーンロウはほどけかけで見苦しい。
 何より嫌なのが、その下卑た視線だ。
 私をどうこうしてやろうという欲望が丸出しの、体を舐め回すように這う視線が本当に気持ち悪い。
 ああ、本当に嫌だ。
 普段はそれほど悲観的な人間のつもりはないが、こういう理不尽と対面した時は神だか世だかを呪いたくもなる。
 私は明確な拒絶の意思を示して立ち去ったはずなのだが、理解できなかったのか、それともしつこさを美徳だとでも思っているのだろうか、男は私を追って来た。
 もう返事をするのも馬鹿らしいので、私は男を無視して、人通りの多い道を速足で進む。しかし歩幅と運動能力の差か、男を振り切ることができない。こういう時は自分の体力の無さが恨めしい。
 何人もの人とすれ違うが、ほとんどの人は目を逸らして通り過ぎるか、よくてもこっちを心配そうにみて通り過ぎる。声をかけてくれる人はいない。
 私は眼鏡に着崩していない制服、黒髪でピアスもアクセサリーも着けていないという、少なくともパッと見て遊び好きな学生とは思われないはずの格好をしているから、この状況は私にとって不本意だというのは周囲にも伝わっていると思う。
 きっとこのナンパ男と関わりたくないのだろう。私だって見ている立場だったら声をかけない。当然のことだ。
 しかし、それでも。
 誰からも手を差し伸べられないのは、少し寂しい。
 世界全体から見捨てられたような気持ちになる。
 実際に、私の存在なんてどうだっていいのだろう。周囲の人からすれば、不運に見舞われた私を気の毒に思い、自分の身に降りかからなくてよかったと安心して終わりだ。
 いや、これは拗ねた考えだ、と思い直す。
 私だったらそう思うということ、私自身の嫌いな所を他人に投影しているだけだ。心が弱っているから周りに八つ当たりしたいというだけの思考だ。
 もしかしたら義憤に駆られている人もいるかもしれない。しかしその思いが見えないから私はこんなに拗ねてしまうのだ。
 そう、心は見えない。
 義憤も正義も発露しなければ下卑た感情と等価値であり、無いも同然だ。いや、もしそれらがコミュニケーション上に表れたとしても、私の視点から見れば心からの感情と証明することはできない。人々にだってもしかしたら私が満更でもなく思っているように見えるのかもしれない。結局は感情を分かち合うことなんて不可能で、人間は絶対的に孤独な生き物だ。
 違う、違う、こんな考えは精神的な自傷行為だ。苦しいからそんな風に思うんだ、もう何も考えない方がいい。ああでも考えなかったらナンパ男の方に意識が向いてしまう。あの気色悪い視線を認識してしまう。それは嫌だ余計に落ち込むでも思考に逃げ込むこともできないああなんで私がこんな目にマジメに生きているのに最悪だ私じゃなくてもっと遊んでるのにいけよというか周りも助けろよってだめだめだめだめもう考えるな考えるな考えるな────
 ぐちゃぐちゃになった感情、が私を余計に速足にする。
 もうほとんど小走りになっている。
 それでもナンパ男はへらへらと付いてくる。いい加減諦めろよ気持ち悪い。
 くじけそうになる心を叱咤する。がんばれ私。駅はもうすぐそこだ。駅前には人も多いし交番もある。
 運動不足にも関わらず酷使をしたことで足が悲鳴を上げ始めているが、最後の力を振り絞って走ろうとする。
 しかしできなかった。
 男が私の左手首を掴んだからだ。
「だいじょーぶだって、俺シンシだから。何も変なことしないってマジで」
 男の手は冷たくザラザラしていた。
 だから、我慢ができなかった。
「触らないで!」
 反射的に手が出た。手の平が男の頬を打ち、バチンと音をたてた。
 同時に失敗を自覚する。
 私のビンタは、あっさりと男を激高させたらしい。男は手を掴む力を強め、怒りを込めた目で私を睨む。
「は? お前なに調子のってんの?」
 ふと、足が震えていることに気づいた。
 安っぽいセリフに安っぽい怒りだと軽蔑する私がいる一方で、男のその行動に怯えている私もいるようだった。
 男は痛いほど強い力で私を拘束していて、振りほどこうにも振りほどけない。
 逃げられない。
 そう気づいた瞬間、恐怖が急激に増大し、体が毒に侵されたかのように動かなくなる。
 心臓の鼓動に連動したように全身がぶるぶると震える。指一本すら思い通りに動かせない。
 悔しい、と感じた。こんな男に、こんなくだらない男に恐喝され、なす術もなく、好き勝手に蹂躙され怯えているだけの自分が惨めだった。
 悪い想像ばかりが脳裏を掠める。何をするか分からない恐怖がこの男にはあった。
 そして、残念なことにその予感は的中する。
 男は、見せつけるようにゆっくりと腕を振り上げた。手は握りしめられ拳になっている。
 男が何をするつもりなのか分かってしまう自分が恨めしい。
 私の表情を見て、男は優越感を滲ませた嫌らしい笑みを浮かべる。
「お前が悪いんだからなあ」
 視界の端に通報をしている人が見えたが、もう間に合いはしない。
 傷痕が残らなければいいなあ、と諦めて私は目を閉じ、直後に来るだろう暴力に備えて身を固くした。
 ああ、なんで私がこんな目に────
 ゴッ、と鈍い打撃音が。
 私の頭上の右側から聞こえた。
 あれ、と思った次の瞬間に男掴まれている左手が強い力で引かれた。驚き目を開けたのとほぼ同時に、誰かが前から私の肩に腕を回し、倒れそうになった体を支えてくれた。
 いったいなにが起きたのか、混乱して理解が追い付かない。
 見ると、男は背中から倒れ込みそうになっている所を、誰かに胸倉を掴まれて支えられていた。気を失っているらしく白目を向いてダランとしている。
 どうやら私を受け止めてくれた人は、気絶した男が頭を打つのを防いでいるらしい。
 ............どうして男が気絶しているのだろう?
「ケガはないかい?」
 『誰か』さんが私に話しかけてきた。若い男性の声だった。
 その人は左手で私を支え、右手にナンパ男を掴んでいる。目元が隠れるほど深くフードを被っていて顔がよく見えない。
「そこの彼がどうも君に乱暴をしようとしていたから、申し訳ないけど気絶してもらったんだ。今彼を下ろすから、左手を振りほどける?」
「え、ああ、はい」
 男は気絶してなお私を掴んで放していなかった。なんという執念だろうか。空いた右手で男の指を一本ずつ外す。うげ、跡が残ってる。
 フードの人はナンパ男をゆっくりと下ろし地面に横たえさせた。
「あの、ありがとうございます」
「どういたしまして。そろそろ近くの交番から警察官が来る頃だから。もう大丈夫だよ」
 彼は優し気ににっこりと笑った。
 とても背の高い人で、ちょっと見上げなければ顔が見えない。
 細身に見えるが、さっき力強く支えられた感触からすると、結構体を鍛えていそうだ。
 ちょっと──かっこいい。
「それじゃあ、後はよろしくね」
「えっ、ちょっと」
 それは困る。警察に事情を説明していってほしい。私一人じゃ無理だ。
「ごめんね。ちょっと警察に関わりたくない、というか悪目立ちしたくなくて」
 フードの人はそう言って辺りを見回した。危ないことに携わっている人なのだろうか。
 こっちです、という声が聞こえた。見ると警察官がこっちに向かって走って来ている。通行人の通報を受けたのだろう。
「まずい、じゃあ!」
 そう言うとフードの人は身を翻し、逃げるように走りだした。
 その時、少しフードが浮き上がった。

 水色の瞳だった。
 宝石のように透き通った、鮮やかな空色の瞳だった。
 一瞬見えたそれは、見惚れるほどに美しかった。

 彼は人込みの中を、誰にもぶつからずに飛ぶように走っていく。木立を抜ける風のようだ。
 なんだかよくわからないが、せめてお礼だけでも言っておきたい。
「あのー! ありがとうございましたー!」
 私の叫びに彼は振り返らず、ただ右手を挙げて答えた。


☆


「あー......。しまったなー......」
 狭い路地裏で薄汚れたコンクリートの壁にもたれながら、彼はバツが悪そうに流暢な英語で呟いた。
 パーカーのポケットからスマホを取り出し、どこかに電話をかける。コール音が三度もならないうちに回線が繋がった。
『いかがなさいましたか』
 怜悧な若い女の声が応答した。彼はくたびれたように言う。
「すまないが車を回してくれ。場所は駅前だ」
『かしこまりました。しかし何故』
「......白峰優雨と接触してしまった。その際少し、警察沙汰になってしまった」
『何をしているのですか!』
 厳しい叱責の声がスピーカーから響いた。彼は咄嗟に顔を傾けスマホから耳を離した。
『あれほど気をつけろと言ったのにあなたという人は!』
「奴が仕掛けてきたんだ」
『......何ですって?』
 彼は苦虫を?み潰したような表情で、吐き捨てるように言った。
「もう被害者が出た。なりふり構ってはいられない」
 あれはそういう災害だ。
 どれだけ備えていようが、人間の想定など軽々と超えて何もかもを蹂躙する理不尽だ。
 事態を理解したのか、電話口の女も神妙な様子で口を開く。
『防衛プランの進行を早めますか』
「そうだな。向野(むこうの)家とのコンタクトが最優先だ。今週末には会いたい。手筈を整えてくれ」
『かしこまりました。車はあと五分ほどで到着しますので』
「ありがとう。協会からの連絡はなかったか?」
 一瞬の沈黙の後、女は答えた。
『......協会としての通達ではなく私文でしたが、サン=マルティン様から一通』
「......あの魔人から?」
 彼の顔が緊張で引きつる。大きく深呼吸をし、心臓が落ち着いたのを確認すると彼は尋ねた。
「それで? 主席評議員閣下はなんておっしゃってるんだ?」
『速やかに事態を収拾しろ。できないなら手を引け。私が出る。とのことです』
「......ははは。おっかないなあ」
 思わず乾いた笑いが彼の口から零れた。
 自分の身が、吹けば飛ぶゴミのようなものになっているのを自嘲していた。
『笑いごとではありません。彼らの介入を許せばもはや戦争になります』
「戦争にはならないさ。僕が用済みになるだけだ」
「滅多なことを言わないでください」
 そう言った女の声には、初めて感情がにじみ出ていた。
 それは焦燥だった。
 彼はそれを聞いて苦笑いし、言葉を訂正した。
「そうだな。すまない、弱気になっていた。もう言わないよ」
「わかっていただけたなら」
「ただこれだけは言っておく。もし僕が何もかもに失敗しても、君たちのことだけは死んでも何とかする。その時には、エマ、君にもそう動いてほしい」
「............了解しました。そんな状況が訪れないように最善を尽くします」
「ああ。頼りにしている」
 通話が終わり、彼はスマホをポケットにしまうとそのままズルズルと座り込む。
 やるべきことの多さに辟易し、しかめっ面をして大きくため息を吐く。
 路地裏の入り口からは、電灯や車のライトといった人々の営みの光が差し込んでいた。
 彼はピシャリと頬を叩き、決意を込めて立ち上がる。
「見てろよ。これ以上奪われてたまるか」
 水色の瞳は決意に燃えていた。


☆


 寝起きは良い方だが、その日の朝は今までにないくらい目覚めが悪かった。昨日あんなことがあったからだ。
 あの後私は警察に保護され、男は暴行罪で現行犯逮捕された。その際男はなにやら錯乱した様子で騒いでいたが、警察署に連行された。
 私は私で事情聴取を受け、当時の状況を分かる限り説明した。あのフードの人のことを説明するのには苦労した。突然のことで、詳しい特徴をほとんど覚えていなかったからだ。
 背が高くて瞳が水色の男性だったと言ったが、背の高い人なんて県内にも相当数いるだろうし、目の色だってカラコンでどうにでもなる。
 説明に四苦八苦していた所に、連絡を受けたお父さんが迎えに来てくれた時は、安心して気が抜けたのか人目をはばからず泣いてしまった。
 帰宅したのは夜の九時頃で、その後どうしたかは記憶が曖昧だ。なんとなくお風呂に入ってご飯を食べたような気がする。ベッドに入って数分もしないうちに眠りに落ちた。
 寝惚け眼をこすって、ふらふらした足取りで階段を降りると、リビングからベーコンの焼けるいい匂いが漂ってきた。
 入ると、お父さんがキッチンに立っていた。お父さんは私に気づくと微笑んだ。
「おや、優雨さん。おはようございます。よく眠れましたか?」
「おはよう。ごめんね、本当なら私が当番だったのに」
 私が幼い頃にお母さんが亡くなって以来、我が家の家事はお父さんと私で交代制になっている。
 昔はお父さんと私の比率が9対1だったが、今では4対6くらいになっている。家にいる時間が長い分私の方がちょっと多い。
「昨日の今日ですから。優雨さんはゆっくりと休んでください」
「うん、ありがとう」
「いえ。もう焼きあがるのでお皿を取ってください」
 お父さんはそう言ってフライパンをコンロから上げた。中身はベーコンエッグだった。
 昔はよく、ちょっと焦げたベーコン入りスクランブルエッグになっていたのに、今ではレシピ集に掲載されてそうな出来栄えだ。
 その時のお父さんの申し訳なさそうな顔を思い出して、少し笑みがこぼれた。
「何をかけますか?」
「おしょうゆ。お父さんは?」
「今朝は山葵醤油の気分です」


 あんなことがあったばかりなので、しばらくはお父さんが車で送り迎えしてくれることになった。
 私は朝の満員電車に揺られずにすむのだから楽だが、お父さんの職場は、私が通う学校と家を挟んで真逆の方向だ。
「優雨さん、昨日はあんなことがあったんですから、今日は学校を休んでもいいと思いますよ」
「そういう訳にもいかないよ」
 一年間無遅刻無欠席だった生徒には学年末に皆勤賞が贈られ、私は今それにリーチがかかっている。
 別に積極的に狙ってたわけじゃないけれど、手に入ったはずの物を逃すのはなんとなく癪だし、ご褒美で貰える図書券千円分も惜しい。
 それに、あんなことがあったからこそだ。
 あれのせいで日常の営みを変更するというのは、私があんな男に傷つけられたということを認めるみたいで、悔しい。
 こんな考えはお父さんを心配させるだけだから言えないけれど。
「そうですか。下校する時は連絡してくださいね。一人で帰ってはいけませんよ」
「うん、そうするけど......。ごめんね、今プロデューサーのお仕事忙しいんでしょ」
 助手席からお父さんの顔を見る。
 お父さん、白峰善大(よしひろ)は、芸能プロダクションで音楽プロデューサーを勤めている。業界ではかなり有名らしく、音楽雑誌の取材が来たり、クラスで流行っているアーティストが我が家を尋ねてきたりということも何回かあった。
 当然楽な仕事ではないらしく、家でも仕事をしているお父さんの背中を、ずっと見て私は育ってきた。
 お父さんが仕事、音楽にどれだけ情熱を注いでいるかをよく知っているから、邪魔をするのはちょっと、いやかなり申し訳ない。
 しかし、お父さんは軽く笑って私の言葉を否定した。
「確かに忙しい時期ですが、正直に言ってしまえば私は仕事よりも優雨さんのことが大事です。音楽も大切ですが、優雨さんとは比べ物にはなりません。きっと美(み)晴(はる)さんも同じことを言うでしょう。『家族を見捨てたら、一番良い歌を聞き逃すぞ!』、と」
「あはは。お母さんなら言うよね」
 美晴、とは死んだお母さんの名前である。
 売れなかったけれど、元歌手らしい。一緒に童謡を歌ってくれたことを今でも覚えている。
 勝気で破天荒で、花火みたいな人だった。
「優雨さんが生まれた十六年前から、私は君の父親ですから」
 お父さんはそう言って、私の頭を撫でた。
「......片手運転はだめだよ」
「失礼しました」
 それが照れ臭くて、私はつい憎まれ口を叩いた。
 

 私が通う私立清(せい)苑(えん)高等学校は県内でもそこそこの進学校だ。
 偏差値は、公立私立含めて県内で上から4、5番目。中堅の国公立や私立への進学率は県内でもトップだが、難関大学へは年に特進クラスの十数人が入学するくらいの高校だ。
 しかし、文化系の活動は県内でも随一のものだ。
 吹奏楽部とダンス部は全国でもトップレベルの強豪らしいし、その他の部活も色々な賞を貰っている。式典の度にある部活動表彰式の長さは、友達の話を聞く限り県内でも清苑が一番らしい。確かに入学当初は、表彰式だけで一時間も時間を取ることに驚いていた。
 文武両道を謳っているが、明らかに文の字の方が大きい我が校は、最近流行の国際交流も積極的にしている。
 県内で初めて国際教育を取り入れたとかなんとか校長が自慢げに語っていた覚えがある。
 その一環として、今日イギリスからの留学生が来るらしい。
 年度末という微妙な時期に転校してくるのは、先方の都合だそうだ。
 私がなぜそんなことを知っているかというと、学校中がその噂で持ち切りになっていて、わざわざ調べなくても勝手に耳に入ってくるからだ。
 聞く所によると、その留学生──たいそうな美男子らしい。
 女子生徒の割合が若干多い清苑高校。その情報がリークされた瞬間、爆発的な速度で噂が広まった。
 曰く、映画俳優レベルのイケメンだとか、男爵の爵位が与えられた名家の末裔だとか、飛び級で大学を卒業した天才だとか。誰が信じるんだという風説が尾ひれを付けて学校を泳ぎ回った。
 ......こんなに設定と期待値を盛られた状況で登場しなければならない留学生には、さすがに心から同情する。
 まあ、大学飛び級はさすがにないとしても、優秀なのは間違いないらしい。
 この前先生がその留学生と電話しているところをたまたま見かけたが、先生は日本語を話していたのに会話がスムーズに進んでいた。
 噂の中で超人化された留学生がついにお目にかかれるということで、学校中が浮き足だっていた。
 そういう私も実は楽しみにしていたりする。
「まったく、みんな情けないわよね。『英国製イケメンおぼっちゃま~サーの称号を添えて~』が転校してくるからって浮き足立っちゃって。もっと泰然自若と構えられないのかしら。サッカーのゴールみたいに」
「夏南ちゃん、メイク濃いよ」
 ここまでテンションは高くないけど。
 一応フォローしておくと、夏南ちゃんだけが恥ずかしいくらい張り切っているわけじゃない。学校中の女子が全体的におしゃれしているのだ。
 もしかしたら、文化祭の日よりも盛り上がっているかもしれない。
「え、マジで? そんなに濃かった?」
「あ、ううん。そんなことないよ。夏南ちゃんがはしゃいでるからついイジワルしちゃっただけ。ごめんね」
「さすが優雨。私を気持ちよく調子に乗らせない女」
「自分のことながら最悪な奴だね。あと男爵位はサーじゃなくてロードだよ」
「調子に乗らせないなあ」
 化粧はむしろよく似合っていた。
 もともと夏南ちゃんはクールな印象を与える大人っぽい美人で、ほんのり塗ったチークが、場合によっては冷たい印象を与えるかもしれない肌の白さを絶妙なバランスで補っていた。
「夏南ちゃんも今日の留学生が楽しみなの?」
「んー。留学生というか、このお祭り騒ぎに乗らないのはもったいないような気がするの。もちろんそいつに惚れるようなことがあれば、全力で絞め落としに行くけど」
「せめて意識は残してあげて」
「優雨は......そんな気分でもないか」
「いやあ、しばらく男はいいかなって気分っすよ」
 別に彼氏がいたことは無いけど。
 夏南ちゃんはなんでもないような顔で、でもハッキリと断言した。
「今度そんなことがあったら、どこか安全な店にでも入って私を呼んで。すぐ駆けつけてその男の下半身を使い物にならないようにしてやるわ」
「......『能』だよね?」
「『随』にしてやりたい気分だけど、それはさすがにやり過ぎだからね」
「洒落にならない!」
 いや、『能』でもだいぶエグイだろう。空手三段の夏南ちゃんが言うともう犯行声明に近い。
「まあそれは冗談にしても。絶対に助けてって言ってよね。遠慮したら怒るから」
「夏南ちゃん......」
「実戦練習のチャンスは貴重だし」
「夏南ちゃん~」
 調子に乗らせない女は夏南ちゃんもだろう。私のときめきを返してほしい。
 しかし、軽口の中にも夏南ちゃんが私を案じてくれているのは伝わってきた。
 やっぱり学校に来てよかったと思う。
 こうして馬鹿な話をしていると、ちょっとずつ心が軽くなっていく。
 ちょっと照れ臭くなって、私は話を変えた。
「でもさ、やっぱりちょっと楽しみだよね。留学生」
「へえ、意外。優雨ってこういうの興味なさそうなのに」
「そうかな? まあ確かに普段ならふーんで済ませるし、昨日あんなことがあったばっかりだけどさ」
「そうよね」
「でもやっぱり。日常のちょっとしたスパイスっていうのはワクワクするよ」
「あら意外と純」
「純かなあ」
「こういうのって、大抵は自分と無関係に過ぎて行くものでしょ。遠くでやってるお祭り騒ぎを眺めてちょっと楽しい気分になるのが精々なのに、期待してるのは純な証拠」
「やー、目の前に思いっきり浮かれてる人がいるからなあ。つられてかなあ」
「幻覚よ」
「幻覚かー」
 まあ、浮き足立っているのが私たちだけじゃないから、というのもあるだろう。
 歓迎集会が開かれる体育館の中は、熱気でちょっと暑いくらいだった。
 女子生徒はみんなソワソワ浮かれてている。友達とお喋りをしたり、何度も鏡を見たりしている。
 対称的に、男子はテンションが低い。
 おもしろくなさそうにして、キャピキャピしている女子をちょっと軽蔑の目で見ている。あ、睨み返されて目を逸らした。
 好意的だったりそうでなかったり、反応は人それぞれで違うけど、誰もが留学生に多少の関心を持っている。
「ちょとおかしいくらい噂が広まってるよね」
「聞いた話によると、生徒会の子が発端らしいわ。歓迎集会の準備の時に写真を見て、興奮していろんな所で喋っちゃったそうよ」
 留学生が聞いたら怒りそうよね、と夏南ちゃんは呟いたところで、先生から静かにするように呼びかけがあった。
 歓迎集会が始まる。
 いつもなら一切私語がなくてシーンと静まっているはずだけれど、みんな興奮しているのか、ちょっとざわつきが残っている。
 記念すべき式典で怒鳴るのも良くないと判断したのか、校長先生はそのざわつきを無視して留学生の紹介を始めた。
「今回日本に来られたアレクサンダー・ヴァンストーム君は、イギリスのロックコート校から来てくれました。この学校はイギリスにおいて古い伝統を持つパブリックスクールの一つであり、イギリスを先導する紳士達を育成する教育機関です。私も今回の留学の関連でロックコート校を訪れましたが、緑豊かな丘陵地帯に歴史ある優雅な校舎が並び、学生達が互いに研鑽し合う素晴らしい学校でした」
 校長先生は自慢げに語った。そんな素晴らしい学校から留学生を迎えたことが誇らしいのだろう。実際、凄いことなのだと思う。
「アレクサンダー君は日本文化に興味を持っているということで、今回の留学を志望しました。イギリスの将来を背負うであろう彼との交流で皆さんが得られること、そして皆さんとの交流でアレクサンダー君が得られることは、どちらもお互いの人生で貴重なものとなるでしょう。彼は日本語に非常に堪能なので、言語や国の違いに捕らわれず、是非とも親交を交わしてください」
 では、アレクサンダー君に挨拶していただきましょう、と校長先生が話を区切った瞬間、体育館に緊張が走った。
 ほとんどの女子生徒がワクワクした目を壇上に向ける。一部はワクワクを通り越して、獲物を狙う猛禽類のようなギラギラした目をしている。男子生徒はそんな女子生徒を見てプルプル震えている。
 どんな人だろう。噂は本当なのかな。
 クリスマスプレゼントの包みを開けるような気持ちで、私は留学生、アレクサンダー君を待つ。
「では、どうぞ」
 校長先生が、ステージの裾に呼びかけた。
 彼が現れたその時、体育館内の時間が止まった。
 長身?躯、という言葉が似あうスラっとした、でも微塵も虚弱さを感じさせない、しなやかな力強さを秘めた体形。
 プラチナブロンドと言うのだろうか。白金色の髪は朝日のように艶やかで、こんなに美しい髪は見たことがない。
 アーモンド型の大きな目、筋の通った鼻、柔和な曲線を描いて微笑む口元。それらが小さな顔の上で、黄金比に近いバランスで配置されている。
 ロックコート校の制服だろうか。ブレザー制服のジャケットの左胸には、校章らしきエンブレムが金の糸で刺?されている。
 私を含め、生徒達は皆ポカンとしていた。
 理由はハッキリしている。証拠はないが確信はあった。
 誰も、おそらく写真を見て噂を広めた生徒でさえも。
 こんなにも、美しい人間が来るとは予想していなかったからだ。
 アレクサンダー君は噂通りに、いや、噂以上に優れた容姿をしていた。
 体育館中の視線を集めながら、彼はまったく気負った様子もなくステージを歩いている。
 背筋を伸ばして胸を張り、力み過ぎず砕け過ぎないその悠々とした足取りに、私は大きな鹿が歩く様を連想した。
 ステージ中央のスタンドマイクの前に立つと、アレクサンダー君は凛とした表情で私たちを見つめる。
 気がつくと手汗をかいていた。私個人が見られているわけではないと分かってはいても、彼の真っ直ぐな視線は自然と私を緊張させる。
 他の生徒もそうなのか、体育館の中が先ほど以上の静けさで満たされる。誰一人として口を開かず、身じろぎすらしない。
 それはおそらくほんの数秒のことだったが、やけに長く感じられた。
 長い数瞬の後、彼は突然ふっと柔らかい微笑みを浮かべた。
「すみません。こんなに大勢に人の前に出るのは慣れてなくて、緊張してしまいました」
 その声に、私はハッとした。
 彼が恥ずかしそうに、滑らかな日本語を発したことがきっかけに体育館内の空気が和らぐ。
 アレクサンダー君は、よく通る美声で言葉を続けた。
「清苑高校の皆さん、初めまして。僕の名前はアレクサンダー・ヴァンストームと言います。日本文化、特に日本の神道に興味があって留学してきました。日本でたくさんの思い出が作れたらいいと思っています。一年間、どうぞよろしくお願いします」
 朗々と流れる言葉は一種の歌のようにすら聞こえ、生徒たちは返事もできず惚けていた。
「では、インタビューに移ります。アレクサンダー君に質問がある人は挙手をしてください」
 司会のその発言を受け、多くの生徒が我に返ったように手を挙げた。
 誕生日、星座、血液型、好きな食べ物、趣味、休日の過ごし方、清苑高校でやりたいことなどなど。生徒たちは、よくも質問のタネが尽きないものだと感心するほど多くの質問をした。
 中には彼女の有無や好みのタイプを聞くとんでもない猛者もしくはバカもいた。
 自分のことを根掘り葉掘り聞かれれば大抵は不快に思うものだろうが、彼は涼し気な表情で丁寧に回答していった。
 答えられる質問にはハキハキと答え、答えたくない質問はやんわりと受け流す。その所作がとても洗練されていて、明らかに人前に立つことに慣れていることが察せられた。
 歓迎集会は大いに盛り上がり、アレクサンダー君は一瞬で清苑高校の生徒たちに受け入れられた。
 しかし、私は引っかかりを覚えていた。
 彼の声は──昨日聞いたフードの人の声とそっくりだった。


「絶対におかしい」
 歓迎集会の終了直後、夏南ちゃんはそう言った。
 生徒たちは解散してそれぞれのホームルームに戻っている最中であり、積極的な女の子たちは既にアレクサンダー君を囲んで話していた。
「おかしいって、何がおかしいの?」
「あんな優秀な男が清苑に来てることよ」
 おかしい、絶対おかしいわ、と興奮冷めやらぬ様子で夏南ちゃんは呟いた。
「確かに、あんな日本語がペラペラな人が清苑に来るのはちょっと変だよね。うちは別に外国語教育が進んでるわけでもないのに」
「ちょっとどころじゃないわよ。パブリックスクールに通うような超ド級のエリートが、こんな平凡な高校に留学する意味がないのよ」
 確かに、夏南ちゃんの言う通り清苑高校は特別優れた学校ではない。県内でこそ上位の進学校だが、そもそも県自体があまり教育が充実しているとは言えないので、全国的に見れば中の上、よく言って上の下くらいの高校だ。
「でも、パブリックスクールってそんなにすごい所なの?」
「そりゃもう。イギリスの学力上位10%だけが入学できる超エリート教育機関よ」
「そんなに?」
「卒業生は医者やら政治家やら芸術家やら、イギリスを先導するガチ支配階級になるような学校の生徒が、清苑で何を学ぶっていうのよ」
 チラッとアレクサンダー君の方を見る。
 多くの生徒に囲まれながらも、その表情は穏やかな余裕を保ったままだ。
「まあ、すごく頭が良いのは本当なんだろうけど、だからこそじゃない? 私たちが気づいてない清苑の良さに気づいて選んだとかそんな」
「まあ、そう言われれば確かにそうなんだろうけど」
 夏南ちゃんはいまいち納得していないようだったが、それ以上言及はしなかった。
 夏南ちゃんもおかしいとは思いつつ、アレクサンダー君に悪い感情を持っているという訳ではないのだろう。
 不自然さは私も感じるが、それ以上に気になっていることがあった。
「ねえ夏南ちゃん。それよりさ、私気になってることがあるの」
「何よ」
「あのね、昨日助けてくれた男の人、もしかしたらアレクサンダー君かもしれない」
「へ?」
 夏南ちゃんは私の発言に目を丸くした。
 事情を説明すると、夏南ちゃんは顎に手をあて考え込むように俯いた。
「......まあ、話しはわかった。それで、優雨はどうしたいの?」
「どうしたいって......。うーん」
 正直なところ、何も考えていない。
 ただ、もう縁は無いだろうと思っていた人と思いがけない場所で会ったことに驚いているだけだった。
「......お礼を言いたい、かなあ」
「お礼ね」
「うん。あの時、駆けつけてきてくれて本当に助かったし」
「オッケーじゃあ行きましょう」
「はあ? ちょ、ちょっと待って、引っ張らないで!」
 夏南ちゃんは私の手を取って、アレクサンダー君の所へ行こうとした。
「何よ、お礼を言いたいんでしょ?」
「いやまだ本人だって確証はないし!」
「間違っててもいいじゃない。あのイケメンに話しかけるきっかけになるなら」
「夏南ちゃん目が据わってるよ!」
「まあそれは冗談として」
 夏南ちゃんは立ち止まり、私の手を離した。
「こういうことって、時間が経つほど言いにくくなるもんでしょ。さっさと言った方が良いと思うけど」
「う。まあ、そうなんだけどさ。あの真ん中に突っ込んでいく勇気は私には無い!」
 今アレクサンダー君を囲んでいる生徒たちは、この言葉は嫌いだが、いわゆるスクールカースト上位陣の面々だ。
 ダンス部やバスケ部のおしゃれな面々が取り囲んでいる中に私のような地味なのが割り込めば、明日以降で中々痛いしっぺ返しを食らうだろう。
「無理! 無理! 絶対に無理!」
「今このタイミングを逃したらもっと言いづらくなると思うけどなー」
「だから人違いかもしれないじゃん!」
「いや、多分同一人物よ。歩き方を見ればわかる」
「へ?」
「例のフードの人は、ナンパ男を気絶させたのよね?」
「う、うん。ナンパ男の顎に右ストレートを決めたらしいけど」
 私は目を閉じていから目撃していないが、警察が周りの通行人に話を聞いたところそうだったらしい。
「私は空手を十年以上やってるんだけどさ、人ってそんな簡単に気絶しないのよ」
「そうなの?」
「少なくとも私は狙ってできないし、私の周りにもそんなことができる人あんまりいない。そのフードの人はかなりの手練れだと思う。片手で成人男性を支えることができるしね」
 そこまで言って夏南ちゃんはアレクサンダー君の方に振り返る。
「で、あのアレクサンダー君も見たところ相当できる人間っぽいのよ」
「そんなことがわかるの?」
「歩き方とかね、体の軸が全然ぶれないの。人間の体って内蔵の位置とかが左右非対称だから、そんなことできるのは武道とかスポーツとかの練習を積んだ人だけ。少なくとも天然でできることじゃないわ」
「なるほど......」
 確かに、彼がステージの上を歩くと姿はとても優美に見えたが、そういう要因もあったかもしれない。
「第一、あんな体格の人間、日本では少数派よ。だから、優雨を助けてくれたのは多分アレクサンダー君だと思う。それなら警察から逃げたことも説明がつくでしょ」
「そっか、留学生が問題を起こしたらまずいもんね」
 あの場合は、事情を説明すれば彼が罪に問われるようなことはないだろうけど、不安にはなるだろう。
 でも、アレクサンダー君が頭のいい人だったらそれくらいは思い至りそうなものだけど、どうしてだろう。
「でも、そうだとしたら、余計にお礼なんて言えないよ。あっちからしたら無かったことにしたいだろうし」
「もう、動かない理由を見つけるのがうまいんだから。私が強制することでもないし、別にいいんだけどさ」
 そう言うと夏南ちゃんはそれ以上追及してくることはなかった。
 おそらく私の本音を見抜いているのだろう。
 単純な話、私は、男子に話しかけるのが苦手なだけなのだ。


☆


 放課後、お父さんの迎えを待って教室にいた。
 私は正門の前で待つつもりだったが、まだ日が短く夕方は冷えるからと、お父さんに説得されたからだ。ちょっと過保護だと思う。
 時刻は五時二十一分。
 本来ならとっくに下校時間は過ぎているが、先生に事情を話すと特別に許可してもらえた。
 テスト勉強に一区切りがついたところで、私は教室の電気を消し、窓の外を眺めた。
 西の空を見れば、沈みかけの太陽が、赤から紺へと移り変わる色のグラデーションを作っている。
 街を見ると、建物や車の輪郭が少し夕闇に溶けておぼろげになり、ポツリポツリと灯る明かりだけが営みを示している。
 テスト期間だからか、部活動で学校に残っている生徒もおらず、昼間の騒ぎが遠い過去のことに思えるほど静かだ。
 ほう、と溜息を吐いた。
 やっぱり私は夕方が好きだと再確認する。
 昼ほど明確でなく、夜ほど曖昧でない、隙間の時間。
 こうして一人で夕方を眺めていると、誰にも見つからない世界の片隅にいるような気がしてくる。
 安全で穏やかな、世界の片隅だ。
 このまま窓の外を眺めていようと思った。お父さんが迎えに来たらすぐに気づけるから。
 学校の周囲を見ていると、正門の前に派手な色の物体があるのに気づいた。
 何だろうと思って注視し、
「ひっ......!」
 後悔した。
 そこにはナンパ男がいた。
 キョロキョロと辺りを見回している。
 手足の動きに違和感があるというか、ちぐはぐというか、明らかに様子がおかしかった。
 なんで、とか、どうして、とか、脳内に言葉が浮かんでは、何にも繋がらず消えていく。
 悍ましさに足が竦むが、まずは職員室に行って先生に助けを求めなくては。
 荷物も取らずに教室を飛び出す。
 階段を駆け下りようとして、気づいた。
 何かが、踊り場に立っている。
 ナンパ男だった。
 無表情でこちらを見ている。
 その視線には何の感情も含まれず、網膜に私が写り込んでいることに一切の感想を抱いていない。
 昨日のような下卑た嗜虐心すら無い、爬虫類のような眼差しだ。
 私は悲鳴も上げることができず、その場に座りこんだ。
 悪い夢を見ているようだ。
 今この状況はなんの道理にも沿っていない。常識も論理もへったくれもない、滅茶苦茶だ。
 男はゆっくりと階段を上って来る。
 私は足に力が入らず、立ち上がろうとしても上履きの裏は床を噛まずに上滑りするだけだった。。
 もう男は人間に見えなかった。人の形をした怪物だ。
 怪物は緩慢に手を伸ばし、私の肩を掴んだ。そして肩
を思い切り握る。
 昨日とは比べ物にならない、肩の骨が砕けそうなほど強い力だ。
痛みに口から言葉にならない声が漏れる。それにすら
男はなんの反応も示さない。
 男は、突然口を開けた。
 信じられないほど、大きく、大きく。
 ミチッ、と嫌な音がして口の端が裂けた。
 そして男の口の奥から、ズルズルという、何かが這いずるような音がした。
 喉がボコボコと波打っている。
 真っ暗なその穴から、蛇が這い出てきた。
 黒い鱗に覆われ、男の体液でてらてら厭らしく光っている。
 その目は、男と同じく何の感情も無い。
 蛇は私を見つめ、鎌首をもたげ、飛びかかってきた。
 あ、死んだ。
 驚くほどあっさりと、私は生存を諦めた。
 脳内でアドレナリンが出ているのか、視界がスローモーションになっている。
「──白峰さん!」
  そんな声が聞こえたかと思うと、私と蛇の間に銀色の板のようなものが現われた。
 電気が弾けるような音がして蛇はそれに弾き飛ばされ、男ごと階段を転げ落ちる。
 私はハッとして、声がした方を振り向いた。
 そこには、険しい表情をした人が────、
「あ、アレクサンダー、君?」
 アレクサンダー君が立っていた。
 混乱が一層深まる。
 アレクサンダー君がどうしてここにいるの? この状況と何か関係があるの? 
 そんなことを聞こうとしたが、口がうまく動かない。
「ごめん、説明は後で。立てる?」
 返事の代わりに私は首を横に振った。すると、
「失礼!」
「きゃあっ」
 アレクサンダー君は私を抱えて階段を駆け上りだした。人一人を抱えているとは思えない速さだ
「し、下、職員室、先生」
「駄目だ、巻き込んでしまう!」
 階段の先には屋上へ通じるドアがあった。普段は立ち入れないように鍵がかかっている。
 下を見ると、男がのっそりと立ち上がり階段を上り始めていた。
 口からは黒い蛇が出ている。
「四番(テタルトス)、鼠槍(ピスティ)」
 彼がそう唱えると、ブレザー制服の袖がほつれて一本の糸になり、意思を持っているような動きで鍵穴吸い込まれていった。
 その直後にガチャリと鍵の開く音がし、アレクサンダー君はドアを蹴破るように開けた。
 その勢いのまま、屋上中央まで進み、彼は私を床に下ろした。
「ね、ねえ、何が起こってるの?」
「──理不尽だよ」
 そう言い放つと彼はドアを睨んだ。
 ぐちっ、ぐちっ、と。
 足音のようなものが近づいてくる。
 やがて、それは現れた。
 それは人型をしていたが、全身が黒い鱗で覆われていた。
 男、ではない。先ほどとは姿がまるで違う。
 そして、私はそれを見てしまった。
 それは、黒い鱗で覆われているのではなく、黒い蛇で覆われていた。合間からナンパ男の着ていた服が見え隠れする。
 男の上を、夥しい数の蛇が這いずり回っているのだ。
 鼻を刺すような刺激臭が辺りに立ち込める。
「げ、が、ぐおええええええええ?」
 顔らしき場所の口らしき部分が開き、それは汚らしい雄叫びを上げた。
 足がガタガタと震える。
 全身が強張る。
 吐き気がする。
 動けない。
 怖い。
「そこまで......!」
 へたり込んでいると、頭上から怒気を孕んだ声が聞こえた。
 見上げると、アレクサンダー君の端正な顔が歪んでいた。これほど怒っている人は、人生でも見たことがない。
「そこまで、そこまで彼女が憎いか? お前は、どれだけの人を不幸にすれば気が済むんだ?」
 声を荒げ、彼は叫んだ。
 怪物はピタリと動きを止め、
「ははっ、はっはっはっはっはっはっは。ふはは」
 そう、侮蔑するような調子で笑った。
 へらへらと、私たちを嘲笑う。
「何がおかしい!」
 アレクサンダー君は怒鳴りつけるが、怪物はまったく意に介さず笑い続ける。
 怪物はまるで吠える子犬を見るような目で彼を見ていて、アレクサンダー君の姿が痛ましく映った。
「いや、いや、いや。これが笑わずにいられようか。忌々しい星の子倅よ。この私に対して、憎い? 何人を不幸にするかだと? そんなもの──」
 それは、ニヤリと笑って言った。
 厭らしい、心底見下すようなその表情は、心をささくれ立たせる。
「憎いに決まっているだろう。全てを不幸にするに決まっているだろう。汚らわしい人類、取るに足らない怨敵共よ。そうしてこそ、我が満願は成就するのだからな」
 貴様に言っているんだ、女。
 怪物は、突然私を見てそう言った。
 二人──一人と一匹のやり取りを眺めているだけだった私が突然会話の舞台に引っ張り上げられたことに、私は動揺する。
「わ、たし?」
「白峰さん、耳を貸すな」
 アレクサンダー君が制止するが、私は耳を背けることができなかった。
 怪物が恐ろしくて、意識を逸らした瞬間に殺されるのではないかと、想像してしまったからだ。
「そうだ。貴様だ。蒼天の巫女よ」
 爛々と光る眼で、怪物は私を睨みつけ、低く歯軋りするような声で告げた。
 その声に、アレクサンダー君に向けていたような侮りはない。
 ただただ、憎しみで満ちている。
「貴様を殺すこと、滅ぼすこと、絶望に陥れること。それが私の目的の一つだ。よく理解し、怯えて死ね......!」
 その射殺すような視線に串刺しにされ、私は動けなくなる。
 煮えたぎる敵意が、津波のように押し寄せてくるような、どうしようもない恐怖が身を包む。
 歯をガチガチと鳴らしながら、私は口を開く。
「なんで、なんで私が、こんな目に会わなきゃいけないの......?」
 何が起きているかなんて、微塵も理解していない。
 何故こうなっているかなんて、欠片も心当たりがない。
 それなのに、どうしてこんな悪意を向けられるんだろう。どうして死ぬかもしれないと怯えなきゃいけないんだろう。
 ああ、どうして、私がこんな目に────。
「今の貴様には預かり知らぬ因果だ、巫女よ。これに関して理解する必要はない。己が前身をただ呪え」
 もう話すことはないとばかりに、怪物は腕を振り上げた。腕の先に黒蛇が集まってゆき、悍ましく脈動する球体になる。
 大気が球体を中心に逆巻く。
 悪意が屋上に満ち、息がし辛い。
 濃密な死の気配が纏わり付き、身動きが取れない。
「ああ、あ。嫌、嫌、嫌」
 打開策など思いつくはずもない。
 行動など取れる訳もない。
 私はただ震えて、震えるしかできなかった。
 誰か。
 誰か、助けて──!
 
「大丈夫だよ。白峰さん」

 ふと。
 そんな、優しい声が聞こえた。
 ふと顔を上げると、アレクサンダー君が笑みを浮かべて立っていた。
 怪物に怯むことなく、死の気配を恐れることなく、背筋を伸ばして真っ直ぐと。
「大丈夫。君は死なないし、死なせない。だからパニックにならず、もうちょっと僕の方に寄ってくれるかい」
「アレクサンダー、君は」
「何度も言って申し訳ないけど、話しは後で。何も隠さず全てを話すと、約束するよ。だから今はここを切り抜けなくちゃ」
 そう言って、彼は怪物に正対した。
 脳が、彼の言葉を理解することを拒んでいた。あんなものの前に立って平静を保てている神経が信じられなかった。
 その笑みが余りにも無神経に見えて、八つ当たりのような苛立ちが胸に湧き上がる。
「あなた、こんな状況でなに言って──!」
「信じて」
 彼は振り返り、水色の瞳で私を見つめた。
 星のような眼差しだった。
 人間の持ちうる全ての善性が溶け込んだ、見惚れるほどに美しい瞳だった。
 限りない勇気を籠めた、真っ直ぐな視線だった。
 その瞳に、私は────
「......詳しく説明してもらうからね!」
 ────ほんの少し、勇気を貰った。
 震える足を使って必死で立ち上がり、彼の背中に隠れる。
 それを見届けて、彼は目を細めた。
「......茶番だな」
 退屈そうに怪物は肩を竦めた。
「興覚めだ、星の子倅。貴様は十年前から何も学ばなかったのか? 貴様の父がどうなったか、もう忘れたのか?
それとも、自分の身と引き換えにそれを守護するという自暴自棄なのか──?」
「僕の目的は、お前を打ち倒すことだ」
 怪物の言葉を断ち、彼は断言した。
 迷いのない、揺るぎない口調で。
「全ての人々を、お前という理不尽から守ることだ」
 怪物から目を逸らさず、
「そのための十年だった。そのための人生だった」
 目に勇気の炎を灯しながら、
「僕はこの日を、お前を倒す時を───ずっと待っていた!」
 宣戦を布告した。
「ああ、無為な生涯だったな。それも今日で終わりだ」
 怪物は腕を振り下ろした。球体が屋上の床に叩き付けられて爆ぜる。
 夥しい数の黒蛇たちが、全ての方向から私たちに向かって飛びかかってくる。
 私は彼の背中にしがみつき目を閉じた。

「一番(プロエレフス)、星の楔(アステリオン)、解放(リベレート)」

 彼がそう呟くと同時に、目蓋を貫くほどの光が空間に満ちた。
 驚き目を開けると、その光に照らされた黒蛇が、塵も残さず掻き消されていた。
 光は温かく、私は優しく抱きしめられているような安らぎを感じた。
 怪物は初めて呆気に取られている。
「小僧、貴様、何故それを──」
「言っただろう。この十年は、お前を打ち倒すための十年だったと!」
 アレクサンダー君の手には、一本の剣が握られていた。
 鏡のように磨かれた、両刃の刀身。
 鍔には蔦が巻き付いているような美しい細工が施されている。
 それは春の日の光のような、闇夜を照らす篝火のような輝きを発していた。
 暖かい、希望のような剣だった。
「貴様、忌々しい『聖剣使い』がぁああああああ?」
「失せろ! これ以上、お前に何も奪わせはしない?」
 アレクサンダー君は剣を構え、爆ぜるように突撃した。
 怪物の口から何匹もの黒蛇が這い出て来るが、それらは光を浴びた瞬間に消滅していく。
 絶望が駆逐されていく。
 一瞬で間合いを詰め、彼は剣を振り下ろした。
 それがとどめだった。
「──────────?─────?」
 怪物は耳を塞ぎたくなるような断末魔を上げ、膝をついた。
 口からボトボトと、黒い粘性の液体が垂れては蒸発していく。黒蛇たちは次々と男の体から離れて行った。
「や、やった? 倒した?」
「違う。これは」
 アレクサンダー君は怪物から距離を取り、剣を再び構える。
 蹲りながらも、怪物は未だに不気味な気配を保っていた。
 それはふらふらと立ち上がり、
「ひ、は、はは、ははは、ひははははは、ひゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは?」
 咆哮した。
 笑い声が響き、空気がビリビリと震える。
「驚いた! まさか、たった十年で聖剣を扱えるようになっているとは! 素晴らしいぞ星の子倅! 否、忌々しい我が天敵!《星の騎士》よ!」
 楽しそうに、愉しそうに。
 嗤う。
 死に体になりながら、それでも怪物には底知れない恐ろしさがあった。
 男の体が痙攣したように震えたかと思うと、口から、他の蛇より一際巨大な蛇が出てきた。人体に収まるとは思えないほど大きい。男は力尽きたように地面に伏した。
 蛇は男の体の上に乗り、私たちを睨む。
 怪物と同じ声で、蛇は言った。
「計画を修正せねばなるまい。ああ、認めよう。貴様は私を殺し得る者だ! しかし、なればこそ、私は全力を以て貴様と敵対しよう! 全霊を以て貴様らを殲滅しよう! 次に相見える時、それが貴様らの結末だ?」
「いや、終わるのはお前だ」
 そう言ったかと思えば、次の瞬間アレクサンダー君は蛇に切りかかっていた。
 しかし、蛇は剣先が触れる直前に姿を消した。
 背後から金網フェンスの鳴る音がし、振り返ると蛇がフェンスの上に巻き付いていた。
「その大口、いつか黙らせてやろう。ああそれと」
 蛇は私の方を向いた。
「巫女よ。これで終わりだと思うな。三百年前から運命は貴様を捕らえているぞ。逃げることなどできぬと思え。それでは」
 また会おう。星の騎士と蒼天の巫女よ────
 そう言い残し、蛇は闇夜に溶けていった。


☆


「......それはもう大丈夫なの?」
「うん。この人は操られていただけだよ。もう危険性は無い。それよりも早く治療をしなきゃ。白峰さんは大丈夫? どこか怪我をしていないかい?」
「だ、大丈夫。肩を掴まれたくらいで」
「ちょっと失礼」
 そう言ってアレクサンダー君は私の肩に優しく触れた。
 自然な動作で、私は抵抗しようとすら思えなかった。
「ふん......、骨折はしてないかな。痛む?」
「う、ううん。大丈夫」
「良かった。痣ができているかもしれないけど、冷やして湿布を貼ればすぐに消えるよ」
 アレクサンダー君は男を背負いながら言った。
 男は意識が無くぐったりとしている。口元が裂けていたが、アレクサンダー君のテキパキとした応急処置で今は出血が止まっている。私も少し手伝った。
 ......さっき剣で切りつけられていたのに、その傷は見当たらない。
 そもそもその剣が今は見当たらない。服に隠せるような長さじゃなかったのに。
「さて、この人のことを学校に説明しなきゃね。白峰さんは言い訳って得意?」
「苦手じゃないけど......。どうやって説明するの?」
「さっきのことは伏せるとして、本当のことを言えばいいんじゃないかな。校内でこの人に襲われた。偶々通りかかった僕が助けた。何が起きたのかよくわかっていない。こんな感じで」
「そっか。そうだね......」
 私は深く溜め息を突いた。取り敢えず危機が去ったことを、ようやく心が理解した。
 全身の強張りが解れ、頭が働くようになる。途端に疑問詞が溢れて私の口から飛び出た。
「その、さっきの怪物はいったい何だったの? 私が狙われるのはなんで? そもそも、アレクサンダー君はどうして私の名前を知っているの?」
「もちろん説明するよ。約束したからね。でも、今はこの人のことを優先させてくれないかな。応急処置はしたけど、多分内蔵も傷んでる。早くなんとかしなきゃいけない」
 申し訳なさそうしながらも、アレクサンダー君はきっぱりと言った。そこに誤魔化しや嘘は感じられない。
「......わかった。じゃあ明日、明日絶対に説明して」
「ありがとう。これ、僕の連絡先。何かあったらいつでも連絡して。すぐに駆け付けるから」
 そう言ってアレクサンダー君は名刺を渡してきた。
 筆記体の英語で書かれた名前の上に、肩書を表しているらしき漢字が並んでいた。
「今日はもうさっきみたいに襲われることはないよ。万一に備えて僕の仲間を自宅近くに配置しておくから」
「私の家の場所も知ってるんだ......」
 急速にアレクサンダー君に対する疑念が湧いてくる。助けてもらったことには感謝しているけど、それとこれは話が別だ。
「あー、うーん。言っておくと君に危害を加えるつもりは無いよ。信じられないかもしれないけど、これは絶対」
 アレクサンダー君は困ったように笑った。
 ......うん、信じよう。彼は悪人には見えない。その私の感覚を信じよう。
「わかった。信じる。......言うのが遅くなったけど、えっと、助けてくれてありがとう。心強かった」
「どういたしまして。こちらこそ、信じてくれてありがとう」
 アレクサンダー君は柔らかに微笑んだ。
 私は、その笑顔が自分に向けられているという事実が照れ臭くて、思わず目を逸らしてしまう。
「それじゃあ行こうか。立てる?」
 そう言って彼は、手を差し出してきた。器用に片手で男を支えている。
「う、うん」
 私はその手を握って立った。
 指が長くて節ばっている、男の人らしい手だった。
 夜空を見上げると、とっくに日は沈んで黒一色になっている。月はなく、星の明かりも街の照明に掻き消されて視認できない。
 アレクサンダー君は屋上のドアに向かって歩き出している。
 私は、一つだけ聞き忘れたことがあるのを思い出した。
「ねえ、最後に一つだけ教えてほしいんだけど」
「うん? 何だい?」
 彼は立ち止まって振り返った。
「アレクサンダー君。あなたは、何者なの?」
 私の問いに、彼は答えた。
「僕は、アレクサンダー・ヴァンストーム───」

「魔術師だよ」


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