バターの塗り方

あわきしそら



 僕の母ちゃんは、パンにバターを塗る係だ。もう十年も前から、土曜日と日曜日以外は毎日朝早くにお城へ出かけてバターを塗っている。「なんで?」って質問したことがある。なんで王様のパンを母ちゃんが毎日塗らなくちゃいけないの?って。すると、母ちゃんは「見てくれる人がいるっていいことよ」と少し誇らしげに答えた。わかんないなあ。
 わかんないから、もうすぐ赤ちゃんを産む母ちゃんの代わりにお城へバターを塗りに行くのは、名誉でもなんでもなく気が重たかった。王様なんて見たこともないし、きっと緊張して失敗するにきまってる。
「おいおい、元気ないなあ。早く歩かないと、王様の朝ご飯に間に合わないぞ」
 隣からおっちゃんがのぞきこんできた。その目玉が朝日で光る。
「歩いてるよ。 今日は荷物があるから」
 なんとなく目をそらした。日の差さない森林の根っこあたりが目に留まる。
「たって、バターだろ。 俺が運んでる乳の方が重いよ」
 おっちゃんは、僕の家の近所で牧場を営んでいる。そして、そこでとれた乳を毎日王様に届けるのだ。
 僕は、おっちゃんがまだ薄暗いうちから乳をしぼる姿を想像して口を開いた。
「ねえ、いつもお城へ乳を持って行ってるの?」
「そうだよ」
「そいで、王様のコップについであげるの?」
「もちろん」
「面倒くさくない?」
 おっちゃんが、乳の瓶を入れたリュックのお尻をそっとなでた。リュックはおっちゃんの背中にぴったり合っている。
「そりゃ、雨の日とか風の日は外歩きたくないって思うけども」
「けども?」
 
 少し笑って、
「そのうち分かるさ」
 大人はそればっかりだ。
 僕は口の端を引く代わりに、唇の真ん中をとがらせた。
 わかんないから質問しているのに。僕は早く答えを知りたいのに。だって僕が選んだものが間違っていたらどうする。答えが分かっていたら、間違うこともないじゃないか。
 森の木々の隙間から、お城が見え隠れしている。
 毎日人にバターを塗らせ牛乳をつがせるなんて、王様はきっと砂糖壺の中の砂糖よりも甘ったれに違いない。
 森を抜けた先にある、ケーキみたいなお城がふてぶてしく見えた。

 
 森を抜け、小さな城下を進むと、お城はすぐそこだった。お城に着くと、メイドが「王様は裏庭のあずまやにいらっしゃいます」と言う。
 足をあんまり上げずに、お城の床の白い石をこするように歩いた。それが、やわらかな緑の草に変わる境目のところで足を止める。
「あれ、乳の係さん遅いじゃないか」
 女の人?
 声につられて上を見上げた。焦げ目の入ったエプロンを付けた女の人が近づいてくる。
「おはよう。 今日からバター係が新しくなったんだ」
とおっちゃん。
「そうか、シッカリはもうすぐ新しい赤ちゃんを産むんだったね」
「そう。 だから、しばらくの間は息子がその代役」
 王様は、女の人の後ろにあるあずまやで座っているみたいだ。でも、エプロンの面積が広くて、ちっとも顔が見えない。
「へえ、ほら。 よく顔を見せてごらん」
 だというのに、さらにエプロンが顔の近くに寄ってくる。その布からは、お日様で何かを焼いたみたいに良いにおいがした。
「母親に似て美人だねえ」
「おいおいその子は男の子だぞ」
「もう分かってるよ」
「まあシッカリがお前よりきれいなのは認めるが」
「あたしの、このパンの耳と同じくらい美しく焼けた肌の魅力が分からないなんて残念ねえ」
「そうか? 健康的だとは思うけど」
「馬鹿」
 何かを忘れたみたいに、会話がぽんぽんと続いていく。僕は、たまらず「王様、お腹空いてるんじゃない」と声を出した。
「ああ、そうだ」
 ああ、そうだ、じゃないよ。王様怒ってるんじゃないかしら、ほったらかしにされて。何しろ砂糖壺の砂糖より甘ったれだし。
 おっちゃんは、「申し訳ありません」と謝りながら王様のいるあずまやへ向かった。なのに、顔は笑っている。
 エプロンはまだ僕の前を動かない。何か言いたいことがあるようだ。
「おいしいパンには、おいしいバターがよく合う。あたしが作ったパンに、あんたの母親が作ったバター。 ここまで来るのは面倒かもしれないけど、これからよろしくね」
 風が、僕のすぐ足先にある草をちろちろ揺らした。
 僕が返事をする前に、女の人は
「また明日も来ますね、王様」
とエプロンをひるがえして去っていった。
 王様にはちゃんと丁寧な言葉使うんだなと、変な感想を持った。でも、なんだろうこの軽さは。王様はちやほやされて、王様以外の人はかしこまってるのが、普通なんじゃないの?
 わかんないなあ。
 それは、目の前からエプロンが取り除かれて王様の姿が見えるようになってもわかんなかった。だって、顔の半分が灰色のひげに覆われていて、眉毛も灰色に垂れ下がっているんだもの。怒っているのやら、喜んでいるのやら。
「バターを塗ってくれぬか?」
 重低音が僕を呼んだ。
「あ、はい、今」
 石の上から草の上へ足を踏み出して、王様の元へ近づく。表情がわかんないけど、存在感は王様らしかった。
「シッカリは、産み月なんです」
とおっちゃんが親しげに王様に説明する。
 王様のひげよりもさらに濃い灰色の石で、あずまやはできている。中に入ると、気温がいくらか下がった気がした。
「そういえば、お主はいつまで独り身でいるのだ?」
「俺ですか。 まあいい人がいたらいんですけどね」
「もういるのであらぬか」
「まさか」
 二人が会話している間に、肩掛けカバンにしまっていた包みとバターナイフを取り出す。お皿の上で、こんがり焼けた食パンが待っている。ゆっくり慎重に包み紙を開いて、黄色い四角形をバターナイフでけずる。
 あれ、思ったより硬い。
 一回だけでは、四角形の角ににほんの少し丸みがつく程度にしかけずれない。少しすくっては塗ってを繰り返す。
「はい、できました」
 作業を終えて、王様に告げる。
 王様は、
「うむ」
とやはり重低音で答えた。
 そのまま僕たちは帰るのだと思っていた。ところが、おっちゃんはちゃっかり王様の向かいの席に座って、僕にも席に着くよううながしてくる。
 なんで王様とテーブルを囲んでいるの?まるで家族みたいに。
 とりあえずおっちゃんの隣にある石の椅子に腰を下ろした。
「そんな緊張しなくていいって」
「逆になんでおっちゃんは緊張しないの」
「人生経験豊富だから?」
「結婚もまだなのに?」
「言うなー」
 王様は食前の祈りを終えると、おっちゃんの注いだ乳を一口飲んだ。
「うむ、うまい」
 灰色のカーテンが、口の動きに合わせて揺れた。
「ありがとうございます」
とおっちゃん。
 次に、僕がバターを塗ったパンを口にする。
 大丈夫。使っているバターはいつもと同じものだし、塗る際に特に大きな失敗もしなかった。そもそもバターの塗り方なんて誰がやってもたいてい変わらない。
 王様の重たそうなひげを見つめる。そこから言葉が発せられる。
「シッカリの息子はなんて名前なのだ?」
 風が通りすがりに鼻の下をくすぐる。
 え、僕の名前。
「チョッピリ......ですけど」
「チョッピリか、うむ」
 つぶやいて、もうひとかじり。そこからまた無言になる。おっちゃんが何か王様に向かって楽しげにしゃべっていた。
 食べ終えると、また僕に向かって話しかけた。
「うむ、チョッピリよ。うまかった、けど」
 王様の背後で、芝生の草があっちこっちになびく。風が強くなってきたかしら。
「けど、何か違うのお」
 違う何が?
 ずっと表情がわかんなかったけど、その言葉の残念そうな調子だけは気づいた。
 そんなこと言うなら、自分で塗ればいいのに。王様は何も教えてくれない。なんでバターを塗る係が必要なんだろう?


 その晩、僕は母ちゃんに尋ねた。
「僕の塗ったバターと母ちゃんの塗ったバター、何が違うの?」
 母ちゃんは、赤ちゃんのために小さな服を縫っていた。針と糸をストーブの火に照らし出す。
「そう言われたのかい?」
「うん」
「そうかあ」
 針の穴が、きらりと光った。
「バターを塗る時、何か考えていたかい?」
「いや、何も」
 母ちゃんは、針の先のきらめきにうまく糸を通す。
「じゃあ、次からは考えないとね」
「どういうこと?」
「それがチョッピリのやることだよ」


 バターを塗るといっても、毎日行かなきゃいけないわけではない。土曜日と日曜日は、王様はバターを塗らないパンを食べるそうだ。だから、それは、僕がバターを塗る係になって三日目の水曜日のことだった。
「チョッピリは、いつもどんなことをしておるのだ?」
とまた尋ねられた。
 今日は、用事があるからと言っておっちゃんもパン屋の女の人もいない。周りよりも気温の低いあのあずまやで、王様と二人きりだった。
「友達と遊んだりとか......です」
ととりあえず答える。
 昨日よりも空が曇っていて、王様のひげみたいな色をしている。
「かけっこか?」
「ううん、今はしてな......してません。 僕は足が短くて不利だからやめたんです」
「では、友と一緒に歌を歌うのか?」
「歌は、聞いてるだけです。 僕は下手だから、みんなの前でなんか歌えな......いです」
「では、木登りは?」
「そんなの落ちたら怖いじゃないですか」
「皆と登らぬのか?」
 ふるふると首を振る。
 恰好悪いかもしれないけど、間違ってることはしたくない。きっとかけっこを続けたって小麦畑の長男には勝てっこないし、きっと歌を練習したって先生の娘みたいにきれいな音色で歌えないだろうし、きっと木に登ったって落ちて笑われて嫌な思いをするだけだ。
「そうか」
 もう質問は終わったのか、王様はあいづちをして食べることに専念した。
 家に着くまでは雨が降らなければいいなと、あずまやの中から外を盗み見た。

 それから何度も何度もお城に足を運んで、王様のパンにバターを塗った。面倒だったけど森の中を歩いて、面倒だったけどどうすれば母ちゃんと同じ味になるのか考えて。
 そんなある日、王様が毎朝パンと乳のみを食べているわけじゃないと知った。
 その日は、乳のおっちゃんはお城に行かなくて、城下で別れた。どこへ向かったのかは知らない。なんかそわそわと髪の毛をいじっていたけど。
「おはよう、チョッピリ」
 いつもの場所で、パン屋の女の人が僕に笑いかける。そして、「じゃあね」とエプロンを揺らして帰っていった。パン屋の女の人は三回に一回くらいしか王様と一緒にテーブルを囲まない。今日もすぐに帰るみたい。なんかるんるんしてたけど。
 女の人が出て行った入り口から、別のお姉さんがこちらへやってきた。
「おはようございます、王様」
 お尻の大きなお姉さんだ。何かに似ているけど、思い出せない。
 お姉さんは、湯気の立つ鍋を両手でつかんでいた。
「うむ、久しぶりに食べたいと考えていたところだ」
と王様。
 僕の側を上品な甘い香りが通り過ぎる。お姉さんは、さっそくテーブルに鍋を置くと、お椀に中身を注いだ。
「でも、これで私が作るスープは最後になりますの」
「そうか、行くんだな」
「はい、王様」
 会話の内容は分からない。だから、僕もバターを塗ることに集中した。最近少し手際がよくなったと思う。
 王様が食前の祈りを行って、スープを二口ほど飲んだ際に、唐突にこの優しくて甘いにおいの正体に思い当たった。
 カボチャスープだ。
 きっとお姉さんはカボチャスープをお椀につぐ係なんだ。それで、お姉さんの大きなお尻は、何かに似ていると思ったら、よく育ったカボチャに似ているんだ。あれ、でも、最後ってどういうことだろう。
 王様が食べ終わって家へ戻ろうとした時、カボチャのお姉さんが僕に声をかけた。
「ねえ、バター屋の息子よね。 私の弟たちとよく遊んでいる」
 カボチャ畑の三人組が頭に浮かんだ。そうか、お姉さんの弟だったのか。弟たちは、お姉さんほど立派なお尻は持っていないけど。
「同じ方向なんだから、一緒に帰りましょう」
「いいよ」
 ちょうどいい、聞きたいことがあったのだ。
 城下の少し色鮮やかな家々の間を、お姉さんと二人で歩く。日差しが暖かった。
「王様のところへ朝ごはん持っていくの、やめるの?」
「ええ、そうね。 これからは他の兄弟がやってくれるわ」
「面倒くさくなったの?」
「いいえ」
「うそ」
 たまたま落ちてた小石がつま先に当たって転がる。その方向は、予想したよりも右にずれていた。
「うそじゃないわ。 私、この国を出ていくの。 もっとやりたいことが見つかったから」
「やっぱり王様にかぼちゃスープを届けるのは、やりたくないことなんだ」
 お姉さんは、ゆっくりと首を振った。森に住むと語られる精霊みたいに、おごそかに。
「やりたいことが見つかったからといって、今までが全部無駄なわけじゃないの。 だって何事もやってみて続けてみないと、本当に自分に合ったものか分からないもの」
「よくわかんないや」
「そうね。 一度では分からないものだから」
 淡い紫で塗られた屋根の家の角を曲がって、門を出た。
 そこからは、お姉さんとは関係のない話をした。この前やった遊びとか。
 僕は、家にたどり着くまで肩掛けカバンのひもをぎゅっと握っていた。家に入ってから、固く握っていたことを知った。
 
 
 お城に通いだして半月以上が過ぎると、僕はだんだんと慣れてきた。相変わらず王様の表情はわかりにくいけど、灰色のひげが真っ直ぐに整っている時は機嫌がいい日だと発見した。これに気づいてから、王様がそれほど怖くない。それに、甘ったれでもなかった。
 じゃあ、なんでわざわざバターを人に塗らせるんだろう?疑問は深まるばかりだ。
 僕が母ちゃんの代役を務め始めて三週目の金曜日、その日は特にひげの調子が良かった。
「お主、男ぶりが上がったのお」
「え? そうですか。 最近動物たちの乳の出がいいからですかね」
「どんな関係性だよ」
 パン屋の女の人が、おっちゃんに鋭くつっこみを入れる。今日は一緒に席につくようだ。
「冗談だよ」
「あれは、冗談じゃないよね?」
「もちろん」
「馬鹿」
 おっちゃんと女の人が小声で何かを確かめ合っている。楽しそうだ。
 僕も、なんだかうれしい気持ちになってパンを手に取る。表面が朝日と同じ黄金色に焼けている。その中央へバターをそっと置いた。バターナイフで、まんべんなく黄金色の大地にバターを塗り広げる。つややかなきらめきと濃厚な香りが生まれた。
「どうぞ召し上がってください」
 僕も椅子に腰かける。
 王様が、灰色のカーテンの向こうで僕がバターを塗ったパンを味わう。
 あずまやの外に目を向けると、芝生の中に小さな花が一つ。いつのまに咲いたんだろう。
 王様が、一口目を食べ終えると口を開いた。
「うまい。 ああ、この味だ」
 相変わらず表情はわかんないけど、声音で本当か嘘かはすぐに区別がついた。
 どきんと胸が跳ねる。
 焼き立てのパンに黄色いバターが染み込むように、何かが胸の中で広がった。あ、あ、これか。これのことだったんだ、母ちゃんが言っていたのは。
 昔なにげなく尋ねた時に誇らしげに答えてくれた、「見てくれる人がいるっていいことよ」という言葉が、耳元で思い返される。
 王様と目がかち合った。眉毛に隠れて分かりにくいけど、確かに僕の瞳をのぞいている。
「やめないでよかったな」
 ああ、確かに。そうだ。途中で投げ出してたら、こんな気持ちわからずにいた。やらないから、やったことないから、わかんないんじゃないんだ。わかんないから、やってやり続けてみるんだ。
 僕のほっぺたが盛り上がる。無性に感謝の言葉を伝えたくなった。食べてくれてありがとう。毎日食べてくれて。
 その時、騒がしい足音とともに驚くべき言葉が飛び込んできた。
「おい、チョッピリ。 お前のとこの赤ちゃん生まれたぞ!」
 見ると、入り口にかっけこが速い小麦畑の長男が立っている。急いで走ってきてくれたのか、息が荒い。
「本当?」
「ああ。お前が出発して一時間後くらいにつるっとな」
 あずまやを飛び出る。急に明るくなったもんだから、太陽の光が目に染みた。
「行く、早く会いたい」
 早口で返事してから、王様を振り返った。
 いつものひげを上下に揺らして
「行ってきなさい」
と力強く送り出してくれる。
 王様は、ちっとも甘ったれなんかじゃない。むしろ僕たちを見守ってくれる。些細な変化に気づいて質問を投げかけてくれる。きっと王様が、僕たちに朝ごはんを持ってきてほしいのはそんな理由からだ。


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