コーヒーとコーラとどんぐりとバケツとチケット

中津島岬




 その日、私は自販機コーナーの隅で泣いていた。
 何故泣いていたかはよく覚えていない。色んなモヤモヤが積み重なって、たまたまその時に溢れ出た。
 零れそうな涙をこらえながら、速足で人気のない場所を探して、見つけたのが自販機コーナーだった。
 人がくるかもしれないと思ったけど、もう我慢ができなかった。
 私は昔から、泣くときは蹲って声を我慢するように泣いた。子供の頃はその姿に同情して慰めてもらえたけど、大学生になった今では誰も頭を撫でに来てくれない。
 成人しているのに、こうやってグスグス泣いているのが恥ずかしかった。
 私が泣いてるのに、頭上で鳥が?気に鳴いているのが悔しかった。
 泣いているのに、寒いとかこの後の講義はどうしようとか中途半端に冷静な意識があるのが嫌だった。
 しばらくすると、誰かが近くで立ち止まる音が聞こえた。
 人が飲み物を買いに来たと思い、迷惑だろうから立ち去ろうとした。顔を上げて驚いた。
 そこに立っていたのは、同じサークルの花田くんだった。
 花田くんはサークルの盛り上げ役というか、ふざけては笑われたり呆れられたりしている。
 サークルで話したことはあるけど、二人で遊んだりしたことはない、そんな関係だった。
 こちらを見て、花田くんはポカンと口を開けて固まっていた。
 私も、泣いている姿を見られた恥ずかしさや、どうしたらいいかわからなくて困惑する気持ちがごちゃ混ぜになって動けなかった。
 数十秒ほど見合った後、花田くんが口を開いた。
「川島は、コーヒー好きか?」
「え、うん。普通」
「そうか、普通か。コーヒーだもんな。コーラは?」
「普、通」
「そうか」
 そう言って花田くんは自販機にお金を入れてボタンを押した。ガタンという音が二回した。
 飲み物を取り出すと花田くんは私の方に近づいてきた。両手にはコーヒーとコーラの缶が握られていた。
 花田くんはちょっと迷ってから、コーヒーを渡してきた。それは温かいコーヒーだった。
「やる」
「あり、がとう」
「ここじゃ誰か来るかもしれねえから」
 そう言って、花田くんは空いた手を差し出してきた。
 私はちょっと驚いて、おずおずとその手を握った。
 花田くんは優しく握り返してきて、そのまま私を立たせて歩き出した。
 コーヒーを持っていたからか、その手は温かかった。
 花田くんが私を連れてきたのは、サークル棟の裏だった。たまにここで練習しているサークルもあるが、その時は誰もいなかった。
 ちょっと古いベンチがあり、花田くんは私をそこに座らせた。
 そして花田くんは私と反対の向きにベンチに座った。
 その時は花田くんがどうして私をここに連れてきたのかよく分かっていなかった。
 私の顔を見ずに、花田くんは言った。
「......うっとうしいならどっか行く。そうじゃなかったら、泣き止むまでここにいるから」
「......ひっく」
 その後、私は泣いた。
 涙が出なくなるまで泣いた。泣くこと以外何も考えずに泣いた。
 その間、花田くんは黙って私の隣にいてくれた。
 どれほどの時間泣いていたかは分からないけど、涙が止まった時には、コーヒーはすっかり冷めていた。
「......ありがとう」
 何に対しての感謝かは曖昧だったけど、その時は花田くんにそう言うのが、一番自然だったように思えた。
「俺さ、川島みたいに泣く奴どっかで見たことあるなあって思ってたんだけどさ。あれだわ、俺の姉ちゃんだわ」
 花田くんは、いつもよりちょっとおとなしい口調
でそう言った。
「お姉さん?」
「そう。俺がちゃらんぽらんだからか知らねえけど、まあしっかりしてんの。知ってる? 俺の姉ちゃん」
「ううん、知らない」
「だよなあ。話したことねえもん」
 花田くんはニコリともせず言った。
「なんかさ、泣く時声出すの我慢するんだよな。泣いてるのを知られたくねえっつうか、心配されたくねえっつうか。そんな感じ」
「......お姉さんの気持ち、分かるな」
 泣いてもどうにもならないと気付いたのは何歳だったか。それ以来私は泣くという行為が、人として恥ずかしいことだと思っていた。
 きっと、花田くんのお姉さんもそうなのだろう。
「あー、まあ。恥ずかしいってのはどうしよもねえけど、たまにはいいんじゃねえの? 川島が泣くってよっぽどの事があるんだろうしさ」
「別に、つまんない理由だよ」
 本当に、大それた事もよっぽどの事も無かった。私はただ当たり前の日常を当たり前に生きて、それでも限界を迎えてしまっただけだった。
「涙が出るならそれは『よっぽどの事』だろ。こういうのを世間と比べても仕方ねえよ」
 言葉は強かったが、花田くんの声音は優しかった。
 振り返って見ると、花田くんは手の平でコーラの缶を転がしていた。
「......なんでコーラとコーヒーの二本を買ったの?」
「あー......」
 花田くんはバツが悪そうに頭を掻いた。
「こないだドラマ見たんだよ。それで、好きな俳優が泣いてる女の目にコーラの缶当てて、『泣いたら美人が台無しだぜ』とか言ってて、かっけえなあって思ったんだよ」
「それをやろうと?」
「したんだけど、ほら今日さみーじゃん。こんなさみー日に、泣いてる奴に冷たいコーラ渡すって、トドメを刺してるみてえなもんだろ」
「だからコーヒーも買った......?」
「まあ、な」
 恥ずかしそうに言う花田くんが可愛く見えて、私はつい噴き出してしまった。
 手の中にあるコーヒーが、小さい子供に貰ったどんぐりのように微笑ましく見えた。
「おい笑うなよ」
「だって、ふふ。あははは」
「まあ泣いてるよりはいいけどよ......」
 そう言って花田くんは缶を開け、コーラを一息に飲んだ。
「さっき言ったけど、ありがとう。花田くん」
「どーいたしまして。まあ気にすんな」
「それにしても、ちょっと意外。花田くんこういうの慣れてないかと思った」
 花田くんは、私の知る限り女っ気がある人ではなかった。
 サークルではモテなさを自虐ネタにして笑いをとっていたし、男友達は多いけど、女友達は片手の指でも数えられるほどにしかいないとも聞いていた。
 そんな花田くんが、スマートかはともかく動揺もせず私を慰めたというのは、当時の花田くんの印象からは考えられなかった。
「いや、慣れてはねえよ。川島を見つけた時はめちゃくちゃビックリしたし、なんなら今も心臓バクバクいってるぜ」
「そうなの?」
「そうなんだよ。ただ、まあ......」
 花田くんは、そこで口をつぐんだ。
 何度か口をもごもごさせて、意を決したように口を開いた。
「その、見知らぬ女ならともかく、知ってる女子が泣いててそれを放置すんのは、ちょっとどうなんだって思って。失敗しても、まあ俺がウザがられてしまいだし、勇気出して声かけとこうかなー、と思った次第でありまして............」
 どんどん声が小さくなっていき、最後の方はもごもごとしか聞こえなかった。
 花田くんは、コーラの失敗を話している時よりも恥ずかしそうだった。
「そっか。うん、そっか......」
 数回頷き、私は花田くんに貰ったコーヒーを飲んだ。
 それはどこにでも売っているような大量生産品で、すっかり冷めていたけど、私はそれをよく味わって飲んだ。
 微糖だったけれど、やけに甘く感じた。
「ありがとう花田くん。もう大丈夫だよ」
 私はできる限りの笑顔を作って言う。きっと、笑顔で言うのが一番のお礼だと、そう思った。
「それならよかったよ」
 そう言って花田くんは立ち上がった。
 ズボンに付いた汚れを払っている猫背を見て、ついいたずら心が湧き出てきた。
「行っちゃうの?」
 私がそう言うと、花田くんは驚いたように振り返った。その顔には、死んだ家族に会ったかのような驚愕が張り付いていた。
「え、いや、いた方がいいなら、いるけど......」
 しどろもどろにそう言う花田くんを見て、私は笑いが零れそうになったが、必死に我慢した。
 きっと、吹き出してしまっていたら、花田くんのプライドを傷つけていただろう。
「ううん、ごめん。言っちゃっただけ。花田くんは次の授業があるんでしょ。私はもうちょっとここにいるから」
 花田くんはその曜日のその時間に授業が入っている。忘れていた情報が、その時はするりと思い出せて私自身も驚いた。
「お、おう。じゃあまたサークルで」
「うん。またね」
 そう言って花田くんは去っていった。途中で転がっていたバケツにつまずいていた。
 それがおかしくて、くすくすと笑ってしまった。
 そして、私は泣いていた理由が思い出せなくなっていた。
 それから数日後、サークルで花田くんと会った。
 正確には、私がサークルに行くと花田くんが友達と喋っていた。
 また男子と絡んで、バカ話に花を咲かせているらしかった。
 見ていると、ふと花田くんと目が合った。
 私は笑って、手を振った
 花田君は、子供みたいな笑顔を返してくれた。
 その時ポケットに入っていた、映画のペアチケットは、
 まだ、渡せていない。


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