月輝

高木くれは



 仕事を終えて横浜に行くと、駅周辺は大勢の人でごった返していた。焼け野原に立つ様々な屋台に群がる人々の間をすり抜け私は一人、市場の外れにポツンと立つ飲み屋の中に入る。
「らっしゃい」
 禿頭(とくとう)のオヤジがタバコをふかしながら、笑顔で言ってきた。二本の銀歯がまぶしく光る。よっぽど暇だったのだろう、他に客はいなかった。
「オヤジ、いつものね」
 そう言って、四つしかないカウンター席の一番左に腰掛ける。毎回ここに座っているからだろうか、座るたびに椅子がミシミシと大きな音をたてて鳴くのだ。オヤジは準備に取り掛かる。
 
 
 さて、かっこつけて「いつもの」と言ったが、この店にはその「いつもの」しかない。酒は一種類しか置いてないし、肴(さかな)の類は見たこともない。肴要らずと聞くと、さぞかしうまい酒なのだろうと思うだろうか。
 ......実際はただのカストリ酒、粗悪な密造酒の一つだ。ただ密造酒といえどもこのご時世、馬鹿にはできない。配給用の酒はなかなか出回らず、ぎりぎりまで水で薄めてかさ増ししてるから度数が低い。密造酒は正規の酒の何倍も値が張る、それでも皆、嬉しそうに飲んでいる。
 
 
 
 昭和二十一年、終戦から早一年がたつ。戦後も相変わらず食糧は不足していて、配給制度は完全に麻痺状態に陥っていた。人々は餓死しないために食料を求めてヤミ市に足を運ぶ。市の大半が食物屋で、うどんやおでんの屋台が目立つ。
 その日の食料を手に入れるので精一杯のはずだが酒を止めることはできない。今まで無敗だった我が国が初めて戦争で敗北を喫した。これからどうなってしまうのか、じっとしていると言いようもない不安に駆られてしまうので酒を飲んで少しでも陰鬱な気分を忘れていたい。そんな世間のニーズに答えて、ヤミ市では密造酒も売られている。
 
 例えばバクダンという酒。こいつは戦時中にガソリンの代用品として使われた燃料アルコールを水で割っただけという粗悪品。そのあまりの製造の手軽さで、終戦直後は大流行した。ただこんなものを飲んで平気なはずもなく、ハズレを引くとたちまちメチル中毒になり失明、ひどい時は死に至る。世の呑ん兵衛どもを恐怖のどん底にたたき落としてきた、その名に恥じない代物だ。
「片目が開かなくなるくらいが一番うまい」
 なんて冗談が流行るくらい、酒を飲むことすら命がけである。
 
 一方カストリ酒は、芋や麦などの糖質を発酵させて作られる焼酎の一種。鼻につく匂いはあるものの、メチル中毒の心配がないという点は立派で、今では多くの酒好きが愛飲している。  かくいう私も。
 私がこの店の常連なのは安く酒が飲めるからでも、薬中やタチの悪い酔っ払いがやって来ないからでもない。この店では注文を受けてからその場で酒を生成するという、世にも珍しいパフォーマンスをお目にかかれるのだ。
 
 
 
 そうこうしてるうちに、オヤジが鍋に酒粕を入れ、沸騰しないように加熱し始めた。沸騰させてはいけないのだ。沸騰するとせっかくのアルコールが逃げてしまう。そうなるともう、ただの甘酒だ。
 
 仕込みが終わると、いよいよ蒸留に入る。
 鍋に穴の開いたふたをし、穴にチューブを突きさして冷却器につなぐ。冷却器と言っても空き缶の中にアルミパイプを入れ、蛇口とつなげて水が流れるようにしただけだ。調理道具というよりは化学の実験器具に近い。沸騰しないよう弱火で火加減を調節し、......しばらくすると空き缶の底からポタポタと透明の液体が垂れてきた。

「へい、お待ち」
 十分ほど待ってカストリ酒が一合、出来上がった。早速頂く。

 ......ああ、うまい

 蒸留して始めの方に出てくるアルコールは度数が高い。多少の匂いは気になるもののスッと体に染み込んでくる。まだ一口しか飲んでないのに気のせいか、もう体が火照ってきた。

「......これ、食うか?」
 オヤジが突然、肴を出してきた。屋台にこっそり入ってきた野良猫を怒鳴って追い返すほどのドケチが、珍しいこともあるもんだ。
「なんだい、これ?」
「やきクジラとおから寿司だ。あまり物だけどよ。これが酒に合うんだ......」
「へぇ......。頂くよ」
 米や野菜は供給が少なくてなかなか手に入らないが、海産物には困らない。くじらは貴重なタンパク源だし、横浜の屋台じゃモツよりクジラ肉の方がメジャーだったりする。
 おから寿司は...... うーん......
 米の代わりにおからが海苔に巻かれている。まあ寿司だと思えば、そう見えなくもない。

 パクッ

 うん、やっぱりクジラはおいしい! 酒がどんどん進む。......おから寿司はお酢の効いたサラダみたいで、やっぱり米で作る寿司とは食感が違う。しかし、これはこれで悪くない。
 気が付くと酒がなくなっていたので、二杯目を頂く。一杯目より度数が下がっているので酔いはイマイチだが、蒸留を始めて中頃のアルコールは不純物が少なくて飲みやすい。


 ここにいるとついつい長居してしまう。なんせ酒が出来る工程を見ることができるのはここぐらいのものだから、楽しくて仕様がない。酒の密造なんて非合法な光景が見られるのも、戦後の混乱期こそだろう。国も治安の悪化や餓死者の増加を恐れて、今のところはヤミ市や密造酒の存在を黙認している。
 ......いずれ世の中が安定すれば、今よりもうんと上等な酒がいくらでも飲めるようになるのだろう。しかしそれは工場で大量生産された物に過ぎず、私はただその完成品を手にして蓋を開けるだけ。きっと今よりも純粋に、酒そのものを楽しむことは出来ないだろう。そしてその頃にはこの屋台も存在できなくなり......

「......なんだ、難しい顔して。一本吸うかい?」
「......ああ、ありがと」

 ふと腕時計を見るともう夜の十時を回っていた。
 また明日から仕事だ。そして明日もまたここに足を運んでしまうのだろうな、私は。

「ごちそうさん、うまかったよ。勘定頼む」
「まいどあり。ええと......酒が二杯で十四円、あと飯が全部で......合わせて二十五円だな」
「......え?」
「ん?」
「飯って......あれ、おごr」
「ああ、煙草忘れてた。三円追加だ」
「......」

 二度と来るか! こんな店


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