思い出依存症

レーゴ




 低い声が聞こえてきた。薄い壁一枚を挟んだ向こう側から聞こえてくるこもった声。低く低く、ずるずると這い出るように口から漏れ出す祈りの声は、いつの間にか私の目覚まし時計になっていた。本当は、もう少しゆっくり寝ていたいけど。このボロ家では隣の音は筒抜けだ。
 まだ、狭いとはいえ一人部屋を与えられているだけありがたいのかもしれない。それでも、毎朝この陰気な祝詞を聞かされるのは勘弁してほしい。
 壁を隔ててすぐ横にいるはずの人物はいつものようにベッドにうずくまって神に祈りを捧げているのだろう。腹が立つほどの長身を小さな子どもみたいに丸めて手を組んでいるのだろう。毎日毎日、ご苦労なことだ。
 壁を破らない程度に蹴った。声が止む。抗議するように向こう側からも軽い衝撃が返ってきたが、すぐに声は再開した。
 毎朝のやり取りだった。彼は祈ることをやめない。どうしているかどうかも分からない、不確かな存在にそこまで熱心になれるのだろう。
 ベッドから起き上がり、陰気なモーニングコールから逃げるように共有スペースのリビングに出た。持て余した眠気に任せてソファでうとうと微睡んでいると、おはよ、と欠伸混じりの声が頭上から降ってきた。私は目を瞑っていたのをいいことに、無視した。
 毎朝ぶつぶつ言っている男も気味が悪いが、私はこっちの男の方が理解できない。こうやって私に向かって何でもないように挨拶できる神経を疑う。薄目を開けて様子を伺うと、濃い茶髪を寝癖でぼさぼさにした大柄な男は気にするふうも無く、キッチンでごそごそやっている。
「ねえ、ドールさんもコーヒー飲むでしょ?」
 私が寝たふりをしているに完全に気づいているのか、当たり前のように話しかけてくる。紅茶がいい、と返すと、俺たち紅茶は飲まないから置いてないんだよねぇ、コーヒーでいいよね、と果たしてわざわざ私に聞く意味があったのか疑問に思ってしまうようなことを言っている。が、これも毎日のやりとりだった。彼は嫌がらせのようにコーヒーでいいかと訊き、私は反抗して紅茶がいいと言う。本当は、紅茶だろうがコーヒーだろうが水だろうが、何でも良かった。
「あ、おはよう、兄貴」
 毎朝の祈りを終えたのか部屋から出てきた兄貴と呼ばれた男は、おう、と返して洗面所に消える。
 この兄弟はあまり似ていない。兄のノーマンは神経質で真面目そうな印象だが、弟のルディはよく言えば大らか、正直に言えば大雑把で無神経。髪の色も違えば顔だって似ていない。言われるまで兄弟だとは思わなかった。
 はいどうぞ、と机に置かれたカップには、名前の通りほぼ黒色の濃いブラックコーヒー。ルディのものはどう見てもミルクが入っている。私は前、ブラックは飲めないと言ったのに。これもルディの嫌がらせだ。
 洗面所から戻って来たノーマンが、馬鹿野郎、と弟の頭をはたく。しばらくしてキッチンから別のカップを持ってくる。ちゃんとミルクが入ったコーヒー。それを私の前に置き、代わりにブラックのカップを取る。
 いつものこと。いつもこうだ。ルディの嫌がらせは鬱陶しいことこの上ないが、ノーマンの気遣いも気に食わなかった。腫れもの扱いされてるみたいだ。いや、実際そうなのだろうけど。
 やっぱりこの兄弟は似ていない。各々コーヒーを啜る姿を見てそう思った。


 全開にした窓から吹き込む風が薄いレースのカーテンを巻き上げる。もう春につま先が入り込んでいる季節とはいえ、まだ風は少し冷たい。裸足の指先を、何回折ってもだぶつくズボンの裾に引っ込める。
 兄弟は買い物に出かけてしまった。私も久しぶりに外に出たかった。が、ノーマンがそれを許さない。ルディは、そろそろ良いんじゃないのぉ、と呑気に言っていたが、ノーマンは渋い顔をして首を横に振った。
 兄弟に拾われてから一ヶ月が経った。ほとぼりが冷めるまで、と私はこのボロ家に実質軟禁されている。
 一ヶ月。一ヶ月前まで、私はとある富豪の館に飼われていた。その富豪の館をルディとノーマンの兄弟を含めた部隊が襲った。
 ここは無法地帯だ。盗もうが犯そうが殺そうが、お上から罰が下ることはほぼないと言っていい。私もいつの間にかあの館にいた。きっと物心もついていないような赤子の頃に、買われたか誘拐されたか拾われたかしたのだろう。捜索願が出されたのかどうかも分からないし、そもそもそんなものを出したとしても、捜してもらえるはずがない。例え捜しても、見つかる確率はほぼゼロに近いだろう。そういう街なのだ。
 ただ、このクソみたいな地域でも、ある程度の厄介者、共通認識における排除すべき対象というものは存在する。そういう存在を殺し、またはどこかしらに受け渡し、治安なんてないにも等しいようなこの街の微々たる治安を維持するのに一役買っているのが、ルディ・ノーマン兄弟だった。
 彼らは常に中立だ。一応は存在する政府とその管轄下の警察の依頼を受けることもあれば、反社会勢力とされるアンダーグラウンドな組織と手を組むこともある。細かくいえば、それぞれの組織には派閥が存在するから政府対アングラ組織、という分かりやすい二項対立にはなっていないのだけれど。
 要するに、彼らはなるべく安全な中立の立ち位置で金を稼ぐことができればそれでいいのだ。賞金を払ってくれるのならば、どこの組織についても構わない。ただ完全に組織に属してしまえば、その組織が壊滅した時の被害が大きい。だからあっちにいったりそっちにいったり、「中立の立場」という都合の良い言葉を振りかざして金をむしり取っていくのだ。
 坂の上に建つボロ家からは、街がよく見渡せる。高くてもせいぜい四階建ての建物しかない街では、遮るものはほとんどない。クリーム色の外壁やレンガや石造りの建物が多い街だ。治安は最悪でも高みから眺める景色だけは穏やかだ。
 家から続く細い坂道を下った辺りに兄弟の背中が見えた。二人ともスーツを着ている。真っ黒な後ろ姿が路地の奥に消える。
 彼らは必ずスーツで仕事をする。あの世に旅立つ者へのせめてもの礼儀だと。殺される側としては服装なんてどうでもいいことなのだが。
 私がこの家に軟禁されてから度々二人は出かけていくが、必ずスーツを着ていた。仕事をしているのか、単に外用の服があれしかないのか。帰ってきても返り血で汚れていることはほとんどないし、手に持っているのは紙袋に入ったパンや野菜だ。
 玄関のチャイムが鳴った。腰かけていた出窓から降り、足音を立てないようにそっとドアに歩み寄る。のぞき穴から外の様子を伺うと、見知った顔がきょろきょろとせわしなく辺りを見回しながら立っていた。
 鍵を開け、ドアを開くと男はほっとしたように緩んだ表情を見せた。
「やあ、よかった、今日も上手くいったみたいで」
 拾われて一ヶ月の間、こうやって何人かの男が兄弟の留守を狙って私のもとにやってきていた。この男はそのうちの一人だ。最近姿をよく見る。
 ほら、と茶色の紙袋を渡される。それを受け取る代わりにポケットからしわくちゃになった紙幣を数枚渡す。
「へへ、毎度」
 いち、に、さん、し......と札を数え、私がしていたようにポケットに押し込む。
「俺とお前の仲だから、こんな値段で譲ってやってるんだぜ」
 なあ、ドールさん、と男は下卑た笑みを浮かべる。ああ、そうだね、と頬にキスしてやれば、さらに下品な顔になる。
「なあ、こんなとこじゃなくてさ、俺んとこにこいよ、そしたら薬だって、もっと......」
「もうすぐアイツら帰ってくるよ。早く行ったほうが良いんじゃないの」
 男はむっとして何か言いかけたが、鉢合わせはまずいと思ったのかそのまま背中を見せた。
 ......どうしてご主人殺った奴らと一緒に暮らせるんだか......。去り際に男はそう呟いた。
 あの男も、襲撃された時に館にいた人物だ。だから館の惨状を知っている。ああ(・・)はなりたくなかったら、兄弟には関わらないのが吉だ。どうせ、あの男は撃ち漏らしのリストに載って、襲撃部隊に加わった者全員に口封じのために狙われているはずだからもう長く生きられはしないのだけど。
 リストには私も載っている。顔写真つきで。ノーマンが見せてくれた。それでも彼は私を殺さない。
 どうして一緒に暮らせるのか。私が聞きたい。どうして一緒に住んでいるのだろう。軟禁されているから? 違う。こうやって、逃げだすチャンスはいくらでもある。それでも逃げないのは、私が主のあの館の外に自分で居場所を見つけられる気がしないから。
 しっかり施錠して、また窓辺に戻る。紙袋の中には、数本のペン型の注射器が入っていた。
 ルディから借りているズボンの裾を限界まで捲り上げる。サイズが大きすぎるから簡単に脚の付け根まで上がる。注射器を一本取り出した。
 太腿に注射器を押し付ける。一瞬、ピリっとした痛みを感じたが、すぐにそれもなくなる。
 眼下の景色がぼやけて歪みはじめた。座っていた出窓から床に転げ落ちる。
 これが何の薬なのか知らない。主から定期的に支給され、注射するように言われていた。たぶん、良くないモノだと思う。これを使うと嫌なことばかり思い出す。館にいたころは、これを使いたくなかった。嫌なことを思い出すから。でも、今は違う。嫌なことばかり思い出す。思い出すんだ。もう、主は私の記憶の中にしか存在しない。思い出せ。思い出すんだ  。

 あの日、悲鳴と怒号と銃声が館を渦巻いていた。ルディとノーマンを含む襲撃部隊はいつの間にか館を囲む壁の内側に入り込んでおり、一斉にドアや窓を破って突入してきた。
 一瞬で館内は阿鼻叫喚の地獄と化した。突入部隊は寄せ集めの兵で組まれたものだったから協力・統率というものを知らない。各自好き勝手に標的を追いかけ回す。彼らはただ、『館の人間は全て殺せ』という命令に忠実であれば、それで良かった。
 私は今でも、襲撃の理由を知らない。どこの誰によって仕組まれたものかも知らない。どこかの組織の反感を買ってしまった、ということだけしか分からない。ルディやノーマンに聞けば分かることなのだけれど、私はまだ、聞く気にはならない。
 老若男女関係なく奴らは殺していった。使用人から主の秘書まで、階級の差などなく殺されていく。部隊の人数と館の人間の数はそれほど変わらなかったらしいが、それでも武器を持ち日ごろから戦い慣れている者を多く含んだ部隊のほうが圧倒的に有利だった。
 私は護身用にと主に渡されていたハンドガンを持って館内を逃げ回っていた。主に訓練されていたことと運が味方してくれたおかげで対峙した隊員は一人ずつで、しかも賞金に目がくらんだとしか思えない、この場にはふさわしくない素人ばかりだった。
 廊下には見覚えのある者ない者両方が無秩序に転がっている。血と硝煙の臭いが混ざって吐き気がした。この街に住んでいるかぎり、銃も血も死体も日常の一部ではあるが、自分が死体になるかどうかの瀬戸際に立たされるとぞっとした。そして、この館を一斉に襲撃した以上は一番の狙いは主の首だろう。それはだめ。私は遭遇した敵を撃ちながら、主の姿を探した。
 物心ついてから住んでいる、どこに何があるかなんてほとんど把握していたはずの館はやけに広く、迷路のように感じた。あのドアは、何のドアだったっけ。手あたり次第にドアを開け、そこに主の姿がないことを確認していく。
 そうやっていくつめかのドアを開けると、そこは風呂場だった。館内にあるどの風呂よりも狭くて質素な風呂だった。何故か浴槽には水が溜まっていた。冷たい水なのか、湯なのかは分からなかった。どっちでもよかった。身体の末端が痺れるほど寒いような、頭の芯が溶けてしまいそうなほど暑いような、どっちつかずの奇妙な興奮に包まれていた私には、どっちでもよかった。
 指先を浴槽につける。ぬるい......のだろうか。それも分からなかった。
 背後で足音がした。消す気がないのか、やけに高く悠長に響く足音。風呂の前を横切る廊下をこちらに向かってやってくる。今廊下に飛び出しても絶対に見つかるし、かといってこの風呂場には窓がない。外に逃げることも不可能だ。ここにいることがばれたらどうしようもない。
 風呂場のすぐ前に足音は来ていた。見つかりませんように。そんな私の願いは挑発するようにゆっくり開かれたドアに押しのけられた。
 黒い無地のスーツに身を包んだ大柄な茶髪の男が立っていた。すでに何人も殺したのだろう。顔やスーツからのぞく白いシャツはまだら模様に赤く染まっていた。
 私は床に置いていたハンドガンを掴んだ。重くて冷たかった。腕が痺れるほど重く、指先の感覚が無くなるほど冷たい。眼球の奥がじんじんして、目の前の景色が霞む。震える腕を持ち上げ、なんとか照準を合わせようとする。
 ふ、と男が不意に唇を歪めた。私を馬鹿にしたように薄く笑う。
「それ」
 男が人差し指をピンと伸ばし、私が構えたハンドガンを指す。
「弾、切れてるよ」
 は、と喉から声が漏れた瞬間、男はもう私との距離をゼロにしていた。悪魔の微笑が見えたのを最後に、大きな掌が顔面を鷲掴みにして視界を奪う。もの凄い力で押され、背中を浴槽のへりに打ち付ける。必死にもがいたが、男は容赦することなく徐々に力を増していく。後頭部が水に浸かった。あ、と思った時には遅く、頭全体が浴槽に沈められていた。
 苦しい。男の手で鼻も口も塞がれているうえに、隙間から入り込むのは空気ではなく水だ。苦しい。痛い。指の隙間から見える影が二重になる。苦しい。
 主にも同じようなことをされたのを思い出す。機嫌を損ねてしまうと必ず暴力が返ってきた。それでも主の暴力に殺意はない。圧倒的な力を持つ者が弱者にじゃれついているだけ。力の差が大きすぎるせいで、弱者が過剰に傷を負うだけで、殺されはしない。そう、きっと、主は私を殺そうだなんて考えたことはなかったはずだ。きっと、そう。私はそう信じている。この無差別な殺意とは全く別の感情故の暴力だったと、私は信じている。
 主は生きているだろうか。もし死んでしまっていても、私も......。意識が朦朧とし始めた時、急に手が離れ、別の何かが水に入って来たかと思うと頭が浴槽から出されていた。
 タイルに這いつくばって咳き込んでいると、不服そうな男の声が降ってくる。
「兄貴、どうして......」
 タイルを踏む靴は二足ある。あの男とは別の人物がいる。
「どうして、この館の奴らは全員......」
 もう一人の人物は何も答えない。しばらく何も聞こえてこなかったが、分かったよ、という男の不機嫌な声だけがした。
 腕を掴まれて無理矢理立たされる。そこではじめて、もう一人の顔が見えた。黒髪で、茶髪の男よりもさらに長身の男だった。茶髪と同じようにきっちりスーツを着込んだ男。私の腕を掴んだまま歩き出す。風呂場を出て、廊下を歩き、私よりもはるかに館の地図を理解した様子で大股に進んでいく。
 静かだった。もう誰も、館の人間は残っていないかのように。時々すれ違うのは、返り血を浴びて銃を担いだ隊員ばかりだった。
 一つのドアの前で、私の足は自然に止まった。主の部屋。薄く開いたドアの向こう、いつも主がふんぞり返っていたデスク。いつものように、主はふんぞり返っている。床には幾人もの部下が折り重なって死体になっていた。血の海と化した主の部屋、真ん中で主はこちらを凝視していた。......いや、違う。額を撃ち抜かれていた。脱力しきった身体は大きくて高価そうな椅子に全体重を預けていた。大きく見開かれた瞼から血走った眼球が零れそうだ。違う。あの主は死んでいる。横暴な主ではない。違う。
   違う、違う、そうじゃない。思い出したいのはこんなことじゃない。主が生きていた頃、私が主に殴られていた頃、私が主に愛していると言われていた頃。もっと前、もっと前のこと。もっと昔の思い出。
 主の死体から場面が巻き戻っていく。しかしそのスピードは遅く、すぐに止まってしまう。
   頭が水に沈む。水面の向こうに誰かが居る。手が伸びてきて、私の頭を持ち上げる。
 やめて、近寄らないで、また、またアンタたちのこと思い出す。ルディが薄笑いで立っている。それ、弾、切れてるよ......。うるさい、うるさい、うるさい。
 腕を掴まれる。右手に握ったハンドガンを力任せに振った。鈍い衝撃が腕に反響する。ルディの顔。主の顔。輪郭が崩れて二つの顔に分裂する。
 肩を揺さぶられる。視界がぐるぐる回転して景色が混ざりあっていく。館の風呂場、ルディの笑み、主の眼球、ボロ家の風呂、血まみれのノーマンの顔。......ノーマン?

   ドロシー。

 ノーマンがいた。側頭部から流れ出す血液が頬と顎に伝って真っ赤になったノーマンがいた。顎からタイルにぽたぽた血が垂れていく。
 私は、何をしていたのだろう。ぐっしょり濡れた髪が頬に貼り付いて冷たい。薬が見せる幻覚と現実の境が分からなくなっていた。右手にハンドガンを握っていた。どこから持ち出したのだろう。スライドが後退して銃口が剥き出しになっている、一目で弾切れだと分かる状態。それ、弾、切れてるよ......。ルディの声が頭蓋で響いて痛い。
 ノーマンは側頭部から流れ出す血液を袖で拭い、指でつまんだ何かを目の前に突きつけてきた。注射器。
「これはもうやめろ、いいな」
 静かな声、しかし絶対に拒否できないような強い声。私が黙ったまま何も言わないでいると、ノーマンは私の硬直した指を解き、弾切れのハンドガンを取り上げた。
「もう必要ないんだ。もう終わった。もういいんだよ」
 もう、やめてくれ。ノーマンは私の手を両手で包んだ。祈るように、目を閉じて。  あなたは何を祈っているの。毎日毎日、何を。
 わかった、と掠れた声が出た。
 ......どうせ、嫌な思い出はアンタら兄弟に主を殺されたことが一番になってしまった。嫌なこと。主が死んだこと。あの薬を使っても、思い出すのはあの場面だけ。薬の幻想の中でも死体の主にしか出会えないのなら、もう、いらない。
「わかった、もうやめる」
 ノーマンは頷いた。手を離し、立ち上がり、風呂から出ていく。
 ご苦労様。ノーマンがそう、呟いたような気がした。何が、と問う前にノーマンの姿は私の視界から消えた。
 ふと顔を上げると、脱衣所の壁にもたれかかったルディがいた。頬を点々と赤く染めたルディは、ペンのキャップを口に銜えて手元の紙の束に何かを書いていた。私の視線に気付くと、ニヤリと笑って見せた。


 今日もノーマンの声で目が覚める。相変わらず内容は聞き取れない。毎日毎日、何を祈っているのだろう。
 ベッドから起き上がった。部屋からリビングに出る。机の上に、無造作に紙束が置かれていた。撃ち漏らしリスト。
 昨日私に薬を売った男の写真には、大きく赤ペンでバツがかかれていた。あぁ、ルディに殺られたんだ。あの後、家を出てすぐか、もしかしたら出ることもできずに、殺されたのだろう。昨日兄弟が私を残して出かけたのも、彼を釣るためだったのかもしれない。
 何枚か紙をめくると、私の写真が載っているページにいきつく......はずだった。しかし、いくら探しても私のページがない。前に戻っても後ろから探しても、私の写真は見当たらない。そして、全てのページに赤いバツがかいてあった。残党はいなくなった。あの襲撃は完結した。撃ち漏らしを探す必要はもうない。もう、終わった。
 ノーマンの部屋のドアを開けた。僅かにノーマンは身を起こし、毛布から視線だけをこちらに寄越す。驚いて丸くなった目。
 彼の横たわるベッドに近づく。言いたいことは沢山あった。私を餌にして残党を釣っていたのね。私を生かしたのはこのためだったのね。私が残党から薬を買っていたことはずっと知っていて、放置していたのね。私もアンタたちにとっては殺しの道具の一つに過ぎなかったってわけね。ぐるぐる渦巻く感情を押し殺して、ベッドに腰かける。
 包帯が巻かれた額を撫でた。髪に指を通す。存外柔らかくて細い髪だ。何をされるのかと硬くなったノーマンの身体がだんだん弛緩していく。
 どうして私を助けたの。どうしてあのまま主と一緒に殺してくれなかったの。どうしてそうやって毎日祈ってるの。訊きたいことも山ほどあった。
 それでも、真ん中から折られて中身が無くなった注射器と、ぐしゃぐしゃに丸まった誰かの写真が貼られた紙がゴミ箱に放り込んであることだけは。

 ありがとう。

 彼は目を細めて笑ったように見えた。


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