あなたとの終わり方 加江理無 おめでとう。 後輩の大学合格に対しての言葉は、祝辞としては不釣り合いな、平坦な声音で述べられた。一瞬、それが誰の口から出た言葉なのか、気付けなかった。脳がそれを自分のものであると認識した途端に、腹の底が一気に凍える。 「今度は準備で忙しくなるな」 慌てて、付け加えるようにそう告げた。彼女は頬を薄っすら上気させて微笑んだ。先程の言葉を気にしていない様子だ。冷えた体温が僅かに戻ったのを感じながら、まるで畳みかけるかのように続けて言葉を投げかけた。 「受験後の休みなんて一番自由な時間なのに、勿体ないな」 「それも合格したからこその苦しみだと思って頑張ります」 返ってきた答えには自信とやる気が垣間見えた。受験期に入り、自らの決定に対して不安を吐露していた姿からは考えられない彼女。受験期以前よりも前向きになっているようにさえ感じられた。 想像していた以上の変化に、思わず彼女を凝視する。彼女はそんな俺に肩をすくめて、気恥ずかしさを隠すようにグラスを傾けた。安っぽい透明な容器から珈琲が流れ落ちていき、残った雫が彼女の薄っすら紅く染まった唇を更に輝かせる。さらりとした長い黒髪も、程よく焼けた肌も、体の部位すべてがこのファミレスから浮いていた。贔屓目なしにしても綺麗な彼女は、何の因果か、俺の『一番』の後輩として目の前に存在している。 「全部先輩のおかげです。詳しい情報を教えてもらったり。先輩が応援してくれなかったら、私、きっと途中で諦めてました。本当に、色々とお世話になりました」 律儀に頭を下げた彼女。サラリと流れた髪を耳にかける姿に、俺は思わず目を細める。 「どういたしまして。先輩としてのお仕事ができたようで何よりだ」 俺のおかげ、というのは随分盛った表現だな。彼女の言葉を受け入れながら、そう思った。確かに資料は集めた。が、それはネットで検索すればすぐに見つかるような簡単なものだったし、必要となる英語力に至ってはなんのアドバイスもしていない。彼女は彼女の能力でその壁を越えた。逆に言うと、俺にできたのは準備段階までだったということだ。彼女はホンモノの才能を持った女の子だった。 「でも、少し寂しいです。クラスメイトや......先輩とも、なかなか会えなくなっちゃいますし」 「......可愛いこというね」 いつでも会いに帰って来ると良い。そう言いそうになって、慌てて言葉を変えた。少しセクハラじみた発言になってしまったが、許してほしい。ちらりと彼女の表情を伺ったが、彼女は真剣な瞳でこちらを見つめるだけで、特に反応は見られなかった。そのことにホッとしながら、俺は余裕のある笑みを顔に貼り付けた。 「不安があるのは当たり前のことだよ」 あくまで余裕そうに、物知り顔で頷いた。彼女と付き合うときに現れる、少しだけ大人になった俺。尊敬される先輩としての俺だ。 「でも、そんなのは大学に馴染むまでの不安だ。しばらくはホームシックになることもあるかもな。けど、忙しさで逆に寂しさを感じないことだってあるんだ。特に、お前は一生懸命になったら周りなんて見えなくなるから、ネガティブな感情なんて直ぐに消えるさ」 「そんなこと、ないですよ」 彼女は俺の言葉に困ったように笑った。 「あっちの大学は課題も多くて、レポートの提出が大変らしいし。人間関係とか、色々嫌になって途中で帰って来るかもしれないですよ」 「課題が多いのは俺たちの母校でも同じだろ。そりゃあ、言葉とかは大変だろうけど、その為に苦手だった英語だって頑張って勉強してきたんだろ? 投げやりなアドバイスに聞こえるかもしれないけど、そういうのは時間さえ経てば案外何とかなるもんだよ」 でも......と、言いよどむ彼女になにを弱気になっているのかと笑い飛ばす。彼女は何かを新たに始めるとき、決まって尻込みするのだ。まあ、実際それを始めてしまうと最初の不安などすっかり忘れてしまうのだけど。どうせ今回もその類いだろう。向こうに行った途端、今まで積み上げてきた記憶とか、気持ちとか、すべてが過去のものになるのだ。そんなこともあったね、なんて懐かしさをまとった思い出になる。 「......先輩も、そうでしたか?」 「うん。そうだったよ」 問いには数秒と経たずに頷いた。高校時代、あれほど嫌だった授業を受けたくなったり、無性に制服が懐かしくなったりすることは確かにある。けれど、そこに、昔に帰りたいという思いはなく、ただただ懐古の念があるだけ。どれだけ懐かしがったって、俺は今の生活に満足しており、結局は過去のことを『思い出』として捉えているに過ぎないのだ。 「今できることのなかには今しかできないこともあるんだ。昔の昔、今は今の繋がりを大事にしないと」 「そう......ですか」 彼女は下手くそな笑みを浮かべて、視線を机に落とした。声のトーンも明らかに落ちている。全身で悲しみを表現する彼女を「若いなあ」と揶揄する。出来るだけ明るく、大した悩みではないと伝わるように。そして、何か言葉を返される前に手元のコーヒーカップで表情を隠し、彼女の生活について話を振った。 「嫌なことを想定するからネガティブになるんだ。もっと楽しいことを考えよう。そう、例えば、アメリカでの行事についてとか」 俺はカップを傾けながら、向こう側の彼女を覗き見た。最初と比べると元気をなくしているように見えたが、慰める必要がある程の深刻な雰囲気ではない。悲しみというよりかは、俺が話を変えたことに対して恨めしく思う気持ちの方が大きいように感じられた。彼女は不満そうにしながらも、俺の話にのって来た。 「大きな行事でいうと、夏にペイント祭りがありますね。Tシャツ一枚になって色んな色のペイントを掛け合うイベントらしいですよ」 「流石、アメリカ。想像通り、派手なことするな。ていうか、そのペイントの汚れはとれるのか?」 「いえ、それが、全く取れないらしいんですよ。服もその日限りの使い捨ての服を使うらしいです」 「髪についたりしたら大変そうだな」 「それも一つの醍醐味です!」 熱っぽく言い切った彼女の様子に、俺は胸をなでおろす。何かと不平を零しながらも、大学が楽しみでしかたないらしい。自分にも覚えがある感覚だが、彼女の場合は国を出るということもあり、興奮もひとしおなのだろう。 何という訳もなく彼女を眺めていると、ふと、異国風の校舎の前に立つ彼女の姿が脳裏に浮かんだ。隣には色とりどりの髪色をした美男美女と並んでいる。彼女はそのうちの一人の青年と目を合わせ、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうにはにかんでいる。 「いいな。楽しそう」 自然に漏れた言葉。彼女はそうでしょう、と目を輝かせた。祭りについての感想のつもりではなかったが、俺は何も言わなかった。彼女は物知り顔で言葉を続ける。 「先輩、そういうの好きですもんね。なんていうか、大勢で無茶苦茶に暴れる類のお祭り」 「よく知ってるね」 「よく見てますから」 情景からそのまま抜き出して来たような笑みを浮かべる彼女。幸せそうな彼女に少し意地悪な気持ちがわく。 「へえ、なら俺が今一番興味があるお祭りがトマティーナだってことも?」 思わぬ切り返しに体を硬直させる彼女。口が小さく、トマトと形作ったのが分かった。ぽかん、とあっけにとられた彼女は徐々に顔を歪めていく。俺は顔がにやけて、いやらしい表情になっているのを感じた。 「それは......」 知らなかったです、と悔しそうに零す彼女に溜飲が下がる。 特に思い入れなどない祭りだが、参加してみたいというのは本当だ。人が滅茶苦茶に混ざり合って、誰が誰だか分からなくなる感覚。人の輪郭が溶けていき、一つの群衆という集合体に吸収される。俺としての思考を止める、そんな瞬間を味合うことができるのではと期待している。まあ、実際は、時間や資金を言い訳にして参加したことなどないのだが。 「スペインのお祭りでしたっけ」 「そ、バレンシア州でやってる。毎年行われている収穫祭らしい」 「......ペイントの方が色鮮やかですよ」 再び不満げな顔に戻った彼女。そういえば、彼女は大のアメリカ好きだったかと思い出す。高校時代、事あるごとにアメリカがいかに素晴らしいかをプレゼンしていた彼女を思い出した。 「ペイントなら服を思い出としてとっておけますし。わざわざ洗う必要だってないですよ」 「いや、俺は別にトマトにこだわってる訳じゃないよ」 「ならアメリカでいいじゃないですか」 「正直、どっちでもいいかな」 僅かに頬を膨らませる彼女。久しぶりに会った彼女の、くるくると表情を変えていく様がまだ変わっていないことに少しだけ安堵する。 呪詛のように言葉を吐きだし続ける彼女を目に焼き付けるように見つめていたが、彼女は三分も経たないうちにピタリと静止した。そして顔を上げたかとおもうと、輝かしい瞳で俺を射貫いた。 「先輩も一緒に、ペイント祭りに参加しましょう」 俺が何か反応するよりも前に、彼女は名案だと言わんばかりに何度も頷いた。そうすれば、アメリカがいかに素晴らしいかわかるはずだ、と意気揚々と告げる彼女。俺は声を上げかけて、喉がヒュッと鳴らす。そこでようやく、無意識のうち息を留めていたことに気付いた。短く、息を吐きだす。 「いいよ」 俺は笑った。覚えてたらね、とは口に出さなかった。 「ていうか、そもそも部外者が参加できるものなのか?」 「それは......わかんないですけど。多分何とかなります! スペインには、行けないですけど、アメリカを案内できる程度にはなっときますので」 案内。その言葉に胸にチクチクと棘が刺さったような気分になる。そう言えば、県外の大学に行った友人もそんなことを言っていた。結局、そいつとは卒業以来会っていない。会いたい、と思わない訳ではない。けれど、俺は友人に対して便りを送ることはしなかった。偶に見るSNSの投稿ではそいつの充実した生活を垣間見る。そこで気付く以前との違いに、昔を懐かしく思うだけ。今ここにいる彼女とも、きっとそんな関係になるのだろう。 過剰な期待はしない。俺には彼女のために傷付いても良いと思えるほどの犠牲精神は持ち合わせていないのだ。不確かな未来のうえで、本気で関わることなんてできない。 「絶対ですよ」 それでも、彼女の、俺にとって『一番』の女性は澄みきった、真っ直ぐな瞳をしていた。見る人に全てが上手くいくのだと信じ込ませてしまうような、そんな力を持った瞳。 俺は、彼女を横目で観察して、また、小さく頷いた。 そのとき、なんとなく。 彼女の瞳だけはそのままでいて欲しいと願った。
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