oath with cigarette

あみの酸



 夜空に紫煙が溶けるのを彼は見ていた。
 会社帰りに彼の自宅に飲みに来た友人が、ベランダで彼の健康サンダルを勝手に履いて煙草を吸っている。
「俺にも一本ちょうだい」
 彼は友人の左隣に並んで普段は吸わない煙草を強請った。裸足のままの足から床の冷たさが昇ってきて身震いをする。まだ夜は肌寒い。
「いいよ。いいけどどうしたの」
 友人は彼に煙草とライターを渡す。その左手の薬指ではプラチナリングが光っている。
「ありがと。何となく」
 彼は煙草に火を点け友人にライターを返す。友人はそのままベランダの手すりに置いた携帯灰皿に吸い殻を捨てて二本目に火を点けた。二つの煙草の灯りの先には無数の都会の明かりが見える。彼がそれをぼんやり眺めていると、友人が左を向いて緩く口角を上げた。
「今人気急上昇中のイケメン俳優が煙草なんか吸っていいんですか、清純派でしょ?」
「ふはは、何それ、いいじゃんか別に。てか清純派とかアイドルじゃねんだから」
 二人は煙草を片手に軽口を叩き合って笑った。アルコールが回って上手く回らない頭で、煙草の煙のようにふわふわと頼りない発音で、適当な会話を紡ぐ。二人が出会い演劇部で苦楽を共にした大学時代から十年近く経っても、二人の間に流れる空気は変わらない。
「だいたい、芸能人が外向きにベランダがついたマンションに住んでていいのかよ」
「別に撮られるような相手なんていないからいいんだよ。お前ぐらいしかしか来ないし」
「綺麗な人ならいくらでもいるんじゃないの?」
「そりゃみんな綺麗だけど綺麗なだけ」
「ええ、勿体ない」
 今彼が生きる芸能界には美しい人が多くいて、彼自身も楚々とした雰囲気を纏った美しい容姿をしていたが、彼は誰とも深い関係を築こうとはしなかった。美人に興味がない訳ではないが、下手に熱愛を噂されて「誰それの彼氏」なんて覚え方をされたくない。友人はその気持ちを理解してくれていると思い込んでいた彼は、自分勝手と自覚しながらも少し不満で、半ば強引に話題を変えた。
「お前は煙草止めないの? 小さい子がいるのに良くないだろ」
「うちでは吸わないからいいんだよ」
「でも吸う場所ないでしょ。会社も今度禁煙になるって言ってたじゃん」
「ああ、まあ、そしたらここに来るわ」
「はあ? 俺はいいけどさ、ちゃんと子どもの世話してん
のかよ。奥さんに嫌われるぞ?」
「家では家事も育児もするし、会社の飲みにも行ってないし。お前のとこに来るのだってせいぜい月一ぐらいだろ。奥さんとも息子とも仲いいので余計なお世話ですよ」
「はいはい、それは失礼しました」
 彼が友人の妻と初めて会ったのは結婚式の時だった。友人とは仕事関係で出会ったらしい妻は、清楚で物腰柔らかな女性で、いかにも友人が好みそうな人だという印象を彼は持っていた。二人の間に生まれた息子には会ったことがなかったが、友人がよく写真や動画を見せてきた。母親に似たハの字眉毛と父親に似たアーモンド型の目をしていた。
 絵に描いたような幸せな家庭。仕事も家事もできる優秀な父に忙しくても家庭を献身的に支える優しい母、すくすくと健やかに育つ一人息子。友人が父親の顔も会社員の顔も置いてこの家に来るのは休日前、金曜日の晩。一人暮らしで仕事も不定期な彼とは別世界の話。大学生の頃は同じ世界で生きていたのに随分離れた暮らしぶりだと彼は思った。離れていったのは彼の方だと友人は思っているかもしれないのだけれども。
   ずっとおんなじのつもりだったのにな。
 プラチナリングが煙草の灯りを反射してキラリと光る。
 彼は突然その輝きが気に入らなくなった。
「なあ、指輪ってずっとつけてるの?」
 彼は短くなってきた煙草の煙を吐きながら言った。
「そうだな、風呂と寝る時以外は」
「ずっと誓ってるんだ」
「はは、どういうこと? まあ、そうだな、誓ってる」
 すると彼は友人の方に向き直り、空いている左の手のひらを友人に出した。
「右手貸して」
「ん? はい」
 友人は突然の彼の行動に疑問符を浮かべながらも素直に右手を差し出した。彼はその手を掴んで手の甲を上に返す。
「左の薬指には他の薬指と永遠を誓われてさ、右の薬指はきっと寂しがって泣いてるよ」
 彼は友人の右手を慈しむように憐れむように見つめる。
「だからさ、右の薬指には俺が永遠を誓わせてやるよ。左は永遠の愛情だから、右は永遠の友情だな」
 そう言って彼は短い煙草を持った右手を友人の右手に近づける。
「えっ、お前まさか、止めろって!」
 彼の意図に漸く気づいた友人は慌てて右手を引こうとするが、その華奢な体のどこに力があるのか、彼は手を強く掴んで離さない。
 彼は憔悴する友人の顔を見て微笑んだ。その瞳には、煙草の灯りより熱くプラチナリングの輝きより鋭い煌めきが走る。
 その浮世離れした美しさに、友人は思わず動きを止めて固唾を飲んだ。
 彼がふいっと手元に視線を戻すと、魔法が解けたように友人は再び抵抗し出す。
「ちょ、待って」
 彼は自分に友人の左手が向かってきても気にしない。灰皿に届かない煙草を持ったままの左手で友人が自分を触ることなど有り得ないと知っている。舞台に立つ彼に傷を付けてはいけないと友人は信じている。
「まじで止めろってば」
 声には焦りが更に増す。
「なあ、おい!」
 このまま煙草の痕を付けてしまえば、友人はもうここに来ないかもしれない。それでもいい、と彼は思った。だってそこには永遠の誓いがある。
 彼は制止の声にも耳を貸さない。残り少しの煙草が骨張った右手に迫る。
 彼はゆっくりと、恭しく、友人の右の薬指に炎を付ける。
 まるで愛しい人に指輪を嵌めるように  。











じゅっ。













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