邪魔

あみの酸



 酷く惨めな気分だ。
 カレシにフラれたのが一昨日。夜中に突然ラインが来て、『あのさカレン、好きな人できたから別れよ』『ごめん』で終わり。たった二つの細い吹き出しだけで私はフラれた。付き合っていた頃はいつもすぐに返事をくれたクセに、私の『は?』という短い返信には既読すら付けず、放置。
 そしてカレシ  今は元カレだが  が同じクラスのHR委員の女子と付き合い始めたと分かったのが今日。
 酷く惨めな気分だ。


 カレシと付き合い出したのが十ヶ月前、高一の夏。
 幼い頃に両親が離婚してから荒れた家庭で育ち、勉強もせずフラフラしていた私は、過疎化による定員割れにあやかって自宅近くの高校に入学した。だけど入学する生徒を選べない割に真面目な人たちが多い教室では、私は明らかに浮いていた。私は髪を明るく染めてピアスを付け、メイクを施し、時々不良との喧嘩や母親の彼氏による暴力で体に傷を作っていたのだから当然のことなのだけど。友達もいなければ勉強もできず、毎日つまらなくて学校にもあまり行っていなかった。
 しかし同じクラスの小森巧斗と付き合うようになってから、私は学校へ通うようになり、少しは勉強もするようになった。タクトと一緒に進級するためだ。教室内でタクトと話したり友達ができたりはしなくても、学校が苦にならなかった。無事二年生になりタクトとまた同じクラスになれた時は凄く嬉しかった。私の世界はタクトと出会って変わったのだ。


 それなのに、全部壊れた。
 昼休みの教室、タクトの友達が大声で「巧斗、お前西崎さんと付き合ってんの!?」と言うと、クラス中がざわついた。フラれたショックで欠席したとタクトに思われたら悔しいからと、行きたくないのを我慢して学校へ行った私は、その意地のせいで知りたくもないことを知ってしまった。タクトには好きな人ができただけで新しい彼女ができたとは全く思っておらず動揺した私は、その後自分がどうやって昼休みと午後の授業を過ごしたかわからないまま、気がついたら放課後になっていた。
 同じクラスのHR委員、西崎穂乃花。タクトの新しい彼女。品行方正で成績優秀。正直顔は私の方が可愛いが、誰に対しても愛想よく振る舞うため、私よりもずっと可愛らしい印象だ。優しくて謙虚な態度が、男子からすれば守りたくなるような女の子なのだろう。目つきが悪く無愛想で、不良に売られた喧嘩を買ったことも少なくない私とは真逆のタイプだ。それがタクトの新しい彼女。


 次の日から数日、私は学校に行かなかった。
 どうしてもタクトや西崎の顔を見たくなくて家に引きこもった。常にイライラしている母親の彼氏が家に来て、私に当たり散らしてくることもあったが、いつものように学校に逃げることはできなかった。居場所のない家の中の、制服と教科書とコスメが散らばった部屋の中、一人になっても目をつむっても、頭に浮かぶのは専らタクトの顔だ。真面目で愛想のいい子が好きなら、どうして私なんかと付き合ったのだろう。いつから西崎と付き合っていたのだろう。色んな疑問が脳内を渦巻いてキリがなかった。
 だから、タクトに直接聞いてやろうと思った。大人しく黙っていられるほど私は聞き分けのいい人間じゃない。明日の放課後に教室で待っているとだけタクトに連絡した。数日ぶりの吹き出しの下に既読と表示されることはやっぱりなかったけど、それでも待ち伏せしてやろうと決めた。私だけがずっとモヤモヤしているのは癪だ。
 
 翌日の放課後、一人の教室。私は後ろの方にある自分の席に座り、頬杖をついて窓の外を眺める。タクトが教室に来るのを待ちながら、二人が出会った時のことを思い出していた。


 十ヶ月前、私は母親の彼氏に殴られて、逃げ込んだ先の学校の誰もいない保健室でケガの手当てをしていた。すると、体育の授業でケガをしたらしい男子が入って来て私に話しかけた。
「あれ、香取さんじゃん」
「何。誰」
「同じクラスの小森だよ。まあ香取さん、あんま来ないから覚えてないか」
 そう言って小森は満面の笑みを浮かべた。私は「ふーん」と可愛くない返事をして自分の手当てを続けていると、小森は保健室のソファの、テーブルを挟んだ斜向かいに座って擦り剥いた膝の手当てを始めた。不器用な手つきで傷口に消毒しながら、小森は再び私に話しかけた。
「そのケガどうしたの?」
「母さんの彼氏に殴られた」
 私が答えると、小森は手当てをする手を止め、驚いた様子でこちらを見た。
「え? 大丈夫なのそれ?」
「別に、珍しいことじゃないし。平気」
 すると小森は驚いた顔から怒った顔になる。
「でも、女の子殴るとかありえねーよ! サイテーじゃん」
「いや慣れてるし大丈夫だから」
「そんなことに慣れたら駄目だよ! 香取さんも女の子なんだからもっと大事にされるべきでしょ」
 私は正直に話しているだけなのに、小森は何故か今度は少し悲しげな表情をした。
 私は照れてしまって唇を噛んだ。母親は私に興味がないし、友達と言える人もいない私は、自分を大事にしてくれる人なんているはずないと思っていた。しかし、コロコロと表情を変えるこの男は、私も大事にされるべきだと言った。こんな言葉を初めて話す相手に堂々と言うなんて、聞いている方がくすぐったい気持ちになる。
「......ありがと」
「俺はフツーのこと言っただけだよ?」
 小森はこともなげに言うが、フツーを知らない私には、小森の言葉がキラキラと美しかった。
 そこから二人が恋人同士になるまで時間はそうかからなかった。


 私しかいない教室で窓越しに夕日を眺めて物思いにふけっていると、ガラリと教室の扉が開く音がした。
 タクトかもしれないと振り向くと、そこにいたのは西崎だった。
「香取さん?珍しいね」
「......」
 西崎が「2―2 HR委員」と書かれたファイルを抱えて、鈴の音のように高い声で私に声をかける。私に西崎と話すことなどはないので、何も答えず再び窓の方へ顔を向ける。それにもかかわらず、西崎は私に近づいてきて放っておいてくれない。早く帰ればいいのに。
 また西崎は口を開く。
「香取さんは巧斗くんを待ってるの? 二人って付き合ってたんだよね?」
「......だったら何なの」
 西崎はタクトが私と付き合っていたことどころか、私が今タクトを待っていることまで当ててきた。私は動揺して、無視をするつもりがつい振り返って西崎に返事をしてしまった。
「いや、巧斗くん今まで香取さんと付き合ってること誰にも言ってなかったみたいでどうしてかなって」
「だから?」
「でもそうだよね、巧斗くん明るくて友達多いのに香取さんみたいな一匹狼って感じの子と付き合うって変かも」
 どうやら西崎は自分の彼氏が不良と付き合っていたことが余程気に入らないらしい。ファイルを両腕で抱き締めるように持ち、小首をかしげて立っている西崎は、口元では笑顔の形を作っているが、目が全く笑っていない。何が謙虚で優しげで守りたくなるような女だ。一人でベラベラと五月蠅いこの女は強かで腹黒い。タクトはもうお前の彼氏なのだから、それで満足すればいいのにと、苛立ちが増す。

 しかし一方で、西崎の言うことは正しい、と直感する私がいた。

 今思えば、私たちが恋人同士だと気づいた人は不自然なほど全くいなかった。
 私はタクトのカノジョになって、ちゃんと学校へ行って授業を受けるようになった。今まで気まぐれでテストを受けても二桁取れるかどうかだった点数が、なんとか赤点ギリギリで勝負できるようになった。内申点が悪いと進級できない可能性があったから、髪を黒く染め直してピアスも外した。ただ、タクトに見られる私は可愛い私じゃなきゃ嫌だったから、メイクだけは止めなかったのだけど。
 こうして私は以前よりはるかに真面目になったが、それはこれまでの素行が悪過ぎただけの話で、態度の悪い私は依然として教室で浮いていた。事務連絡以外で私に話しかける人なんていなかったけれど、タクトがいるなら私は一人でも気にしなかった。
 一人が当たり前の私は、他に人がいる場所でタクトと話した記憶がほとんどないことに、西崎に言われて初めて疑念を覚えた。タクトと会話を交わした場所を思い出す。放課後の使われていない教室、ライン、デートした街中、私の部屋、保健室。私は隠そうとした覚えはないものの、誰かに会話を聞かれるようなことはなく、二人の関係に気づく人はいなかった。
 しかもタクトは誰にも私と付き合っているということを言わなかった。カレシのことを私が人に伝えなかったのは、単に報告しようという相手がいなかったからだ。しかしタクトはどうだろう。タクトには、クラスの中にも外にも友達が多くいる。人見知りせず誰にでも軽快な様子で表情豊かに話すタクトの周りには、いつも人がいたように思う。恋愛の話をする相手ぐらいいくらでもいるだろう。それなのに、タクトは私というカノジョの存在を友達に明かさなかった、というより隠していたのだろう。私が学校で浮いている不良だから。タクトが私との交際を隠したかったとすれば、人前で私と話さなかったことも私をカノジョとして紹介しなかったことも納得がいく。
 しかしそれなら、どうして私をカノジョにしたのだろう。
 見た目がタイプだったから? 不良の女は軽く付き合えそうに見えるの? 孤独な私を飽きて捨てても誰にもバレなさそうとか? 保健室で初めて話した時、優しくされてすぐに心を開いた私を見て、簡単に落とせそうだと思ったから  ?
 
 
 愛されていると、大事にされていると信じて止まなかった人が、本当は私のことが最初から好きじゃなかった可能性が、今になっていくらでも思い浮かぶ。
 怒りか悲しみかも分からない感情が渦巻いて、暫く考え黙りこくっていた私は、漸く西崎に視線を合わせた。
「どう? 香取さんもそう思わない?」
 私の動揺を察したらしく微笑む西崎はぬけぬけと私に同意を求めてくる。
「あんたには関係ないだろ。大体あいつとはもう別れたし」
 私は腹が立って仕方がなかったが、ここで感情的になってもこの女が喜ぶだけだろうから意地を張って冷静を装った。しかし、それも一瞬で崩れ去る。
「でも巧斗くんに何で別れたか聞きたくてここで待ってるんじゃないの? 巧斗くん言ってたよ? 『なんかカレンに呼び出されたんだけど。怖いから通知でしか見てないけど、あいつに見つかったら俺ボコボコにされるかも。あいつヤンキーだからさ』って」
「......」
「顔は結構可愛いけど愛想悪いしやっぱヤンキー怖いって」
「......」
「真面目で守ってあげたくなる子の方がいいんだって」
 西崎の言葉一つひとつが私を突き刺す。
 私を一人の女の子として接してくれた人は、本当は私をヤンキーだって馬鹿にしていた。見た目で選んで、見た目で見下して、私の中身なんて見ようともしていなかった。全然大事に思ってなんかいなかった  。
 私の頭を支配する沸騰した感情を、一人話し続ける西崎にぶちまけた。
「うるせー、どっか行けよ! 私とタクトの話なんだからお前関係ねんだよ!」
 私は椅子から立ち上がり、がなり声を上げながら西崎の傍にあった机を蹴った。ガタンと派手な音を立てて机や椅子が動く。
 私の突然の行動に西崎はビクリと体を震わせて、目の前に立つ私から目を逸らすように俯いた。
 目線の少し下で怯えている女をじっと睨みつける。黒々とした長髪の下に見えるのは背が低く華奢な体。細いものの長身で腕っ節が強い私は、一発殴っただけで死にそうだななどと考える。
「さっきまでベラベラ喋ってたのにどうしたの?」
 自分の方が優位になった気がして、私は西崎を嘲った。
 すると、先ほどまでの余裕そうな態度はどこへ行ったのか、西崎は肩を小刻みに震わせながらグスグスと泣き出した。真面目な優等生ちゃんはこんな状況に慣れていないらしい。熱く苦しい気持ちから逃れて西崎を傷つけてしまいたくて、私は更に畳み掛けた。
「何泣いてんの。どうした? 私が怖い? 彼氏がこんなのと付き合ったのが悲しいとか? なんて、可愛い自分がヤンキーに怒鳴られて泣いてるのが可哀想なだけなんだろ。
そんなに私が嫌いなのかよ! 好きな男と恋人になれましたでいいだろうが! どんだけ傷つければ気が済むわけ? 私の孤独も悲しみも全部お前にはわかんねーだろ! 全部私だけにしかわかんねーんだよ!」
 抑えきれない感情に声を荒げたその時、教室の扉がガラッと開いた。
「おい、お前穂乃花に何やってんだよ!」
 そこに表れたのは、タクトだった。

 敵意剥き出しの視線がこちらへ容赦なく向かってくる。付き合っていた頃のきらめいた眼差しは見る影もない。私はそれに睨み返しながら、やっぱりタクトも私を悪者扱いするのだと切なくなった。優等生が不良の前で泣いていたら、不良が悪者だと判断して当然だろう。その泣いている優等生が自分の彼女なら尚更だ。それなのに何故かいちいち傷ついてしまう。私に優しくなくなったタクトにも、それに傷つく私にも怒りが湧いてくる。
 タクトは見たことのないほど険しい表情でまた私に怒鳴りつける。
「殴るなら俺を殴れよ、穂乃花は関係ないだろ」
「別に殴ってねーし、こいつが口出ししてきたんだよ」
「嘘つけ、カレンが穂乃花に嫉妬してるんだろ」
「は? 自惚れんな。私はラインで一方的に別れるクズにケリ付けに来ただけなのに、こいつが勝手に突っかかってきてこいつが勝手に泣き出しただけだから」
 私はそう言って、目の前にある華奢な肩を軽く押した。西崎の「ひゃっ」という小さく高い悲鳴が聞こえた次の瞬間、私は机に背中を打ち付けて床に倒れていた。
 
 見上げた先はタクトの怒った顔。
 タクトに突き飛ばされた。
 背中に鈍い痛みが走る。
「穂乃花に触んな」
と言って倒れ込んだ私の腹にタクトは更に蹴りを入れた。
「っっ......!」
 蹴られた腹の痛みが私に追い打ちをかける。
 蹲って浅い呼吸を繰り返す私の顔をタクトは覗き込んで言い放った。
「お前殴られるの慣れてるんでしょ? 一生そうやってろよ」

 涙が抑えられなかった。
 母親の彼氏やそこら辺の不良より力は強くないのに、そいつらに殴られるよりずっとずっと重く響いて、体だけじゃなく心も痛くて、涙を拭うことさえもできなかった。
 タクトは覚えていた。二人が出会った時のことを、私が言ったことを、タクト自身が言ったことを。覚えていて踏みにじった。私の孤独を、恋を、自分の言葉もろともぐちゃぐちゃにしてしまった。

 タクトは何も言い返さない私を一瞥すると、「穂乃花、大丈夫? 帰ろ」と西崎を連れて教室の出口へ向かった。
 こちらに背を向けたタクトについて行く間際、西崎が私を見下ろした。彼女はもう泣いてなんかいなかった。その小さな口は、なんとも嬉しそうに弧を描いて、
『可哀想』
と、声を出さずに言葉を紡いだ。
 
 私もそう思うよ。わかっている。可哀想だって。
 元カレの彼女を泣かせて元カレに蹴られて泣いたなんて情けない。
 なんであんな奴のことを本気で好きになってしまったのだろう。今まで出会ってきたクズみたいな男たちと変わらないのに。今まで出会ってきた誰よりも特別だと信じ込んでいた。
 倒れた直後タクトに顔を覗き込まれた時、可愛くない顔なんて見せたくなくて恥ずかしくなった。そんな私は多分まだタクトを好きなんだと思う。そうじゃなきゃこんなに泣いたりしない。
 
   香取さんも女の子なんだからもっと大事にされるべきでしょ
 私を優しく包んでいた魔法の言葉は、私を覆う呪いの言葉になった。
 大事にしてくれる人はもういない。最初からないより失う方が苦しいと初めて知る。

 起き上がれないまま、涙だけが流れていく。
 酷く惨めな気分だ。


〈参考楽曲〉「邪魔」アカシック


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