年下の男

蒔原通流



 午前、六時十五分。アラームが鳴る前に目が覚めた。寝ている間に凝り固まった身体をゆっくりと起こす。腰にはまだじんわりとした気怠げな熱っぽさが残っていた。身体が乾いている。水分を欲していた。ベッドから起き上がり、昨日来ていたワイシャツを上に羽織る。ホテルの冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出してコップに注いだ。
 飲み干したつもりのコップに五ミリほどお茶が残っている。昔からの癖だ。わずかに残る琥珀色の液体を意味もなく眺める。ほかにやることがない。シャワーでも浴びればいいかもしれない。しかし、あんまり動き回るのも悪い気がした。
 わたしの隣で眠る男。年下の男。何も心配することがないような腑抜けた顔で眠っている。そのうちにジリジリとアラームが鳴る。飛び起きるだろう。
 年下の男とそういう関係になるのは初めてだった。わりに年上が好きなほうであるし、彼が特別大人びているというわけでもない。むしろ、子供っぽい行き当たりばったりな性格だ。大学を卒業してからは、アルバイトで一人暮らしを続けているらしい。何か夢があるのかと聞いたら、そういうわけでもなく、ただ成り行きでそうなったと言っていた。自分でもおせっかいなことを聞いたと思う。これでもそれなりに自制のきいた性格をしていると自負しているのに。彼に対しては不思議とそういうことを聞いてしまった。わたしが謝ると彼は気にしていないといった。なぜ謝られたかわからない、そういう顔をしていた。彼はそれ以来、会うたびに最近の進捗を話してくれるようになった。わたしがそういう世間話を好きだと思ったらしい。

 ジリジリジリ。
 
 彼の目の焦点がそろってきた。やっと眠りから覚めたらしい。わたしは薄く残っていたお茶の層を飲み干し、新しく注いで彼に差し出した。彼はありがとうと言って一息にそれを飲んだ。それからおはようといった。
 順繰りにシャワーに入る。ありがたいことに先に入らせてもらった。彼がシャワーに入っている間、服を着替え、ルームサービスでコーヒーを頼む。
 ちょうど彼が上がる直前にルームサービスが届く。お世辞にもいいコーヒーとは言えない。業務用の安いインスタントコーヒーだろう。わたしが一杯目を飲んでいる間に、彼はさっと着替えてしまった。珍しくコーヒーを飲みたいといってカップの半分ほどにコーヒーを入れた。それから常温のミネラルウォーターを同量、カップに注ぐ。初めて見たときはたいそう驚いたものだ。それでも猫舌で、苦いものは好きではないがコーヒーのそのままの味を楽しみたい、ついでにいうとアメリカーノだって似たようなものじゃないか、などと言われて納得してしまった。とはいえ、たいそう変な癖。
 彼はオリジナルの薄いコーヒーを、顔を顰めて啜っていた。そりゃそうだ。ただでさえうまくはないコーヒーなのだから。そう思ったが口には出さなかった。
 代わりについ、最近どう、などと聞いてしまった。彼といるうちにすっかり口下手になってしまったらしい。
 彼は少し考えて、やろうか悩んでいることがある、といった。それを言うべきか言うべきでないか、迷っている。彼は非常に顔に出やすいのだ。ふっと息を吸い込み、覚悟を決めたような真面目な顔をして、私にこう告げた。
 「宗教を作ろうと思っている。」
 
 わたしだって、就職するとかバンドを始めるとかそういうことを期待して、こんな何でもない話題を振ったのだ。それがまさか宗教を始めたいなど訳のわからない話につながるなんて思いもしない。隕石が降ってくるぐらいの衝撃が私を襲っていた。そして控えめに言って、わたしはひどくテンパった。年長者としてどのように諭すべきか、などの至極当然にすべきことなど何一つ浮かばなかった。
「それは詐欺まがいのことをするってわけじゃないのよね」
「そんなことはしないよ」
「いわゆる新興宗教っていうやつをつくるの?」
「そういうつもりはないよ。もしかしたら、形式上はそういう団体になるかもしれない。詳しく知らないから何とも言えないけどね。ただ、危険なことや怪しげなことはするつもりないよ」
「そう......、そうなの。それはよかったわ」
 それからしばらくわたしはまずいコーヒーを飲みながら黙りこくってしまった。ひとまず、聞かなければならないようなことは聞いたように思えたし、宗教を作るということがわたしによく馴染んでいなかったということもある。
 じっと、沈黙の時が流れる。掛け時計の針の音が嫌に大きく聞こえてくる。こういう変な緊張状態は好きじゃない。この空気をごまかすために変なことを口走りたくなって仕方なくなる。コチ、コチ、コチという秒針の音はさらに大きくなったように思えた。落ち着かない。
「ねえ......」
「うん......」
「聖書とか、そういうものは作るわけ?」
 彼はしばらく答えなかった。そういうものについて、今、初めて思い当たったようでうんうんうなりながら考えていた。わたしはその間、カップにうっすらと残ったまずいコーヒーをじっと眺めるほかなかった。
「......。いや、聖書は作らない。なぜって言われると困るけど、そういうものは作りたくないし、必要じゃない。そう思った」
「じゃあ、神様はいるの? あなたが神様というわけにもいかないでしょ。」
「もちろん、僕は神様にも教祖にもなるつもりはないよ。ただ神様がいるかといわれると困る。神様なんて壮大なことを考えているつもりはない。でも確かにそういう対象は必要だよね。僕にとっても、宗教にとっても......」
 彼はまた一人で深く潜るように考え込み始めた。わたしはその砂浜に一人取り残されたみたいに、なにもせずじっと待っていた。さざ波のように揺れる五ミリのコーヒー。彼のは注いだミネラルウォーターとコーヒーが分離して無色と琥珀の二層ができていた。控えめに言っても大層まずそうだった。からからに干乾びながら海から上がったとしても我慢してしまうくらいには。
「きまった」
 しかるのちに彼はそう言った。
「なにが?」
 わたしの中では前の話題などすでに波にさらわれて遠ざかってしまっていた。
「信仰するものだよ」
「なににしたの?」
「鹿目貝。」
 彼は躊躇いがちに、けれどそれしかないという風にそう言った。
 しかめがい? 聞いたことのないワードだ。生き物なのか、それとも「いじめがい」に類似した単語なのか、さっぱり見当がつかない。そう思っていると彼は続けた。
「貝。生き物だよ。鹿の目の貝と書いて鹿目貝だ。」
「どこに住んでる貝なの?」
 オーストラリアかどっかだろう、そう思った。
「そういうところまでは決めてない。今考えたんだ。決まっているのは名称ぐらいのもんだよ。」
 いよいよもってこの男が何を考えているかわからなくなり始めた。


 あの日、彼は鹿目貝についてそれ以上語らなかった。本人が言った通り、あの時点ではそれ以上決まっていなかったからだ。だが、わたしにとってはそういう訳にもいかない。あれ以来、鹿目貝という言葉は私の脳の中を駆けずりまわり、わたしが何をするにしても意味深なそぶりを見せながらひょこっと顔を出すのだ。たまったものではなかった。鹿目貝がどういう形をした生き物で、どういう風に生きているのか、なぜ鹿目貝という名前なのか、どういう貝であれ、なぜ宗教の役に立つのか。そういったことを考えるのにほとほと嫌気がさしていても考えざるをえないということが。
 彼とは明日、会う約束をしていた。すべて一通り、聞きだしてやろう、そういう腹積もりだった。だが、彼のことだ。言うだけ言って何も考えてもいないかもしれない。それならばそれで、いっその事、わたしが考えてしまおう、それぐらいの気持であった。
 布団にもぐり、部屋の電気を消す。カーテンのわずかな隙間から細い月明かりが差し込んでいた。
 
 鹿目貝というからには、やっぱり鹿の目みたいな姿をしているんだろう。それほど鹿をまじまじと見たことはないが白目ってものがそんなにない、もしかすると全くない、そういう目のつくりをしているはずだった。だとするとやっぱり真っ黒な貝だろう。それに目の形から考えて二枚貝のはずだ。わたしのなかに鹿目貝という真っ黒な二枚貝が出来上がった。わたしは何故かそれが間違っていないように思えた。
 真っ黒な鹿目貝は私の中にずんと居座っていた。結局のところ、わたしに想像できるのは姿かたち、それだけだった。ほかの部分については考えが一切及ばなかった。手掛かりになるようなことが一切ないこともあるだろう。真っ黒な二枚貝はわたしの中で重苦しい雰囲気を漂わせていた。わたしはその想像をじっと観察した。鹿目貝だって生きている。時折、貝殻同士の隙間を薄く広げ、「呼吸」をした。二本の管のようなものをにゅるっと出し、片方の管で吸い、もう片方の管で吐いていた。何かが吸われ、鹿目貝を通り、何かとして吐き出される。酸素だとか水だとか、そういったものを吸い込んでいるわけではない。寒気を感じた。何を吸い込んでる?
 鹿目貝はまだわたしのなかにいた。あれが「呼吸」をするたびに息苦しく、周囲の気温も下がっているように思えた。わたしの歯はガチガチと打ち鳴らされ始めた。これ自体も想像なのか。わたしには現実のように思える。
 もう、出て行って欲しかった。寒さが、体の震えが止まらない。こんなことをしようと思ったわけではないのに。鹿目貝は「呼吸」を続けている。わたしの中から生きるのに必要なものを搾り取ってしまおうとしているのではないか。恐ろしくてたまらなかった。
 わたしは彼に電話した。彼に電話するなど、普段はしないが、わたしはすでに正気ではなかったし、こんな時に一人でいることも正気に思えなかった。彼はわんこーるで電話に出てくれた。わたしは家の住所を伝え、すぐに来てほしいと伝えた。彼はわかったといい、電話を切った。なぜ、どうしたの、などということは聞かなかった。それでも、わたしには彼がわたしの状況を正しく理解しているような予感がした。
 彼はそれからものの十五分で来てくれた。鹿目貝はその間もずっと「呼吸」をしていた。手足などの末端は感覚のないほど冷え込んでいた。わたしは彼に自分の現状を伝えた。突拍子もない妄想そのもである。それでも彼はすっと納得してくれた。やはり、もともと知っていた。そう思うほかない対応だった。
「これはどうやったら終わるの?」
 わたしはガタガタに震えた声で尋ねた。彼はわたしの手を握って、深く息をするように言った。肺を冷え切った鋭い空気が満たしていく。痛い、と伝えると今だけ我慢して深呼吸してくれと言われた。繰り返すうちに少しだけ震えが収まってきた。
「イメージが邪魔しているんだ。正しく理解すれば、恐いことなんて何一つないよ」
 彼はゆっくりと言い聞かせるようにそう言った。
「正しく理解するんだ。鹿目貝は貝だ。鹿の目の貝と書いて鹿目貝。そうだったよね。」
 わたしに目を閉じるように言う。
「鹿目貝はその名の通り、鹿の目のような見た目をしている貝だ。真っ黒な見た目をイメージして」
「二枚貝なの?」
 声はいまだ震えていた。
「違うよ。二枚貝ではない。鹿の目をそのままくりぬいたような形。確かに二枚貝に近い形かもしれない。でも継ぎ目がないんだ。二枚の貝がぴっちりと口を閉じているとかそういうことではなく、もともと一つの石のようなものなんだ」
「継ぎ目がない......」
 あの真っ黒な二枚貝は姿を消し、「呼吸」も止まっていた。
「光沢のある艶やかな黒をした石をイメージして。でも石だと思っちゃいけない。鹿目貝は貝なんだ。あくまでそういう形に見える貝なんだ」
 真っ黒な鹿の目の形をした石。そしてその石のような貝。
「これで正しく理解できたはずだ。つぎは砂浜をイメージして。七月の午前中の砂浜。穏やかに日が差し、誰もいないビーチ。波の音が聞こえるのわかる?」
「わかる......」
「ぼくときみの二人しかいないビーチだ。波打ち際を見て。ちょうどぎりぎりの場所に鹿目貝がいるよ。わかるかい?」
 鹿目貝は夏というにはまだ穏やかな日差しを照り照りとはじいていた。
「ぎりぎりの場所だ。三回に一回の少し大きな波。それが来た時にだけ、水が被る場所に鹿目貝は生きている。近寄って手に取れるかい? それで僕が使用としてたことがわかるはずだよ」
 わたしは誘導灯に引き寄せられる蚊みたいにふらふらと近寄って行った。「鹿目貝」に対する恐怖はもうチリとなって消えていた。
 砂浜に半分ほど埋まった鹿目貝。濡れた表面と艶やかな黒が夏の日差しをキラキラと反射している。周囲の砂ごと鹿目貝を両手で掬い上げる。砂はさらさらと指の隙間から落ちていった。
 表面はすべすべとしていて、傷一つない。そして本当の石のように継ぎ目のようなものは一つとしてなかった。表面をなでる。冷たさはそこに感じられなかった。
 長い間そうしていた。わたしの心がだんだんとほどけていたのだろう。指先も暖かさを取り戻していた。彼はそれをみて、ほっとした様子を見せながら、感じられるかい、と言った。そして、もっと指先に集中してみて、君ならわかるはずだからと続けた。
 鹿目貝のぷっくりと膨らんだ頂点のような部分。それをゆっくりと撫ぜる。とくん、と小さな鼓動が伝わった。わたしは驚いて、パッと指を放してしまった。生きている。鹿目貝は生きている。心のどこかでまだただの石ではないか、そう思っていたのだろう。
 とくん、 とくん、 。弱いながらも鼓動は続く。触れている部分からじんわりと暖かさが広がっていく。美しかった。命の暖かさだ。生きているとはこういうことなのだ。そういう思いが胸の内にあふれていた。
 彼はわたしを見て、くすっと笑いながらわかったかいといった。わたしは無言で頷いた。泣きはらしてひどい顔をしていたし、声が出そうにもなかった。
 彼は穏やかな笑顔のまま続けた。
「だから、僕は宗教を作ろうと思う。」


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