色にいでず

あわきしそら



 白河さんは、不思議でならなかった。
 なぜ皆、恋の話をするのだろうか。誰々君が好きだとか、誰々ちゃんが気になるだとか、どうして口に出来るのだろうか。
 白河さんは、解せなかった。
 怖くはないのだろうか。
 白河さんは頭が良い。数学でも国語でも何でも、満点を取る。百点ではなく、満点だ。高い鼻筋やぱっちりとした瞳同様、そのことに誇りを持っていた。
 しかし、そんな白河さんでも理解できない。なぜ己の恋心を人に話すのか。
 パチン
 とホッチキスを押す。
 小気味よい音がして、重なり合った紙が綴じられた。
 白河さんは、疑問が断ち切られたような気がして、ほっと息をつく。
「白河、あと何部?」
 隣の席から、平くんが尋ねる。
 白河さんは再び、ホッチキスを押した。
 パチン
「そうね......、あと十部くらいだと思う」
 白河さんと平くんは、学級委員である。だから、放課後二人で残って、修学旅行のしおりを作っていた。
 しかし、この状況、白河さんにとっては落ち着かないものであった。
 平くんが恐ろしいのだ。
 くったくなく笑う表情も、唇からこぼれる白い歯も、短く刈り込んだ髪も、茶色い肌も、真っ直ぐに人を見つめるその眼差しも。
 全てが怖かった。
 白河さんは、平くんが好きである。
 俗にいう「恋」だと知っていた。
 だが、その想いは、爆弾でも抱え込んでいるかのように重く、恐ろしい。
 なぜみんな、簡単にそれを口に出せるのだろうか。
 白河さんは考える。
 恋というものは、最大の弱点だ。恋の前では皆、志を失い、相手に付き従う。「好きだ、好きだ」と言って、相手にこび、愛されるように振る舞う。
 恐ろしい。
 白河さんは、そんな人間になりたくなかった。誇りを持って、生きていたかった。
 だから、想いを悟られてはいけないのである。
 なのに、
「なあ、あと十部なんだったら、サッカー部の練習、途中から参加できるかなあ」
と平くんが話しかけてくる。こちらを覗き込んでくる。
「さあ。それより、しおりの紙、渡して。ちゃんと端そろえてね」
 平くんを避けるように、窓の外を見た。
 もう夕暮れだ。
 西の空が、赤く染まっていた。
「前から思ってたんだけど。白河って、俺に冷たくないか?」
「何が?」
 短く、返す。
 跳ね上がった心臓を無理矢理に押さえ込む。
 白河さんは、色にいでず、なのだ。
 どんなに心が騒ぎ、叫んでも、決して顔には出さない。
 こんな時いつも思い出す和歌があった。

 昔、へまをした、ある男がいた。遠い世、平安の頃だ。

  忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は
     ものやと思うと 人の問うまで
  (あなたのことを想い、忍んできた恋だけれど、
  とうとう表情に出てしまった。どうしたのか、と
  人が尋ねるほどに)

 白河さんは、そんな失敗しない。
 色にいでず
 心にそっとつぶやく。
「俺、時々不安になるんだ。白河が俺のこと嫌っているんじゃないかって考えて」
 平くんは、真っ直ぐに白河さんを見つめる。
 底の知れない、黒い瞳だった。それなのに、表面はきらめいている。
「前に兄貴が言ってた。人に構うのは、気になってる証拠だって」
 白河さんは、知らず知らずのうちにホッチキスを握っていた。
 何を言い出す気だろうか。
 色にいでず、と白河さんは小さく繰り返す。
「俺、気づいたんだ」
 ホッチキスを押す。
 パチン
「白河が俺のこと嫌ってるんじゃないって」
 パチン
      パチン
    パチン
 綴じるもののないホッチキスの針が大量生産されていく。
「俺が、白河のことを余計に構っているんだって」
 針がなくなった。
 押したはずのホッチキスが、空を切る。
「俺、白河のこと好きなんだ」
 平くんの姿がぐにゃりと曲がった。少なくとも、白河さんにはそう見えた。
 平くんは誇りを失ってしまったのか。「好きだ」と言葉を発して、相手に弱みをさらけ出したのか。
 どういうことなのか。
 白河さんには解らなかった。
 ただ、針のないホッチキスを押す、ふわふわとした感触が残っていた。


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