本当に優しいのね

クロ太郎




 あなたは知っているだろうか。この世には幽霊というものがいることを。
 俺は知っている。彼女と会って、話して。実際に触れたことは一度もなかったけど、彼女の心の温かさなら知っている。
 幽霊だって、とても暖かいのだということを知っている。

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 春、小学生の通学路に植えられた桜並木の花がまだ散りきらないころの夕暮れ時。昼と夜が入れ替わるその時間帯に、一人の少年が荒れた山道を登っていた。
「早くしないと夜に山に行ったのバレるよなー」
 彼が背負っているのは黒色のランドセル。胸元では近くの小学校の名前が入った名札が、少年に合わせてぴょんぴょんと跳ねている。
 舗装されていない山道だが、少年は慣れているようでひょいひょいと軽快に登って行く。
「ついたー」
 それからしばらくたって、沈んでいく太陽が地面と溶け合う頃。少年は一本の大きな樹の下にたどり着いていた。
 大きな樹は山の中に生えた野桜のようで、いまも花をハラハラと散らしている。巨木から小さな花弁が風で舞い上がる風景はまるで一枚の風景画のようだ。
「よいしょ。ここなら見つからないよな」
 しかし、少年には関心の薄い事らしい。頭上の情景には目もくれず、桜の木の根元を拾った石で掘り起こし始めた。
 コケの生えた柔らかい根元が掘り起こされ、黒い土も随分と掻き出されたころ、少年は石を置いて、背中のランドセルから一枚の紙を取り出した。そして、その紙をさらにランドセルから取り出したビニール袋に包むと、先ほど堀った穴に放りこんだ。
「んしょ、よいしょ」
 そして、先ほど掘り出した土をかけ埋め直していく。
 しばらくすれば、そこはコケが剥げてしまい掘り起こしたというのがバレバレではあるが、もともとの高さまで土が入った。
「うん。これなら見つからない」
 よいしょ、と服についた土を払って立ち上がる少年は満足そうだ。
 何を隠そう。この少年、新学期早々行われたテストの点があまりにもよくなく、親に見つかれば怒られてしまうことが確定であるので、それを回避するために家の裏山の古桜の下にテストを埋めに来ていたのだ。
 一仕事終えた達成感からか、うーんとのけぞって伸びをした少年は、そこで初めて自分を真上から覗き込んでいた存在に気が付いた。
「――っ!?!?」
「あはっ、やっぱり見えてるんだ!」
 太陽がほとんど沈み切り、紺色になった空を背負って。自分の周りに舞い散る桜の花弁を侍らせて。
「私、ずっと待ってたの。見つけてもらうのを」
 空の色よりも深い黒色の長い髪を桜と共に風に舞わせている少女は、浮いたまま、少年の瞳をのぞき込んだ。
「だからきっと、君を待っていたんだわ」
 そのほほえみは慈悲をたたえた神様のようで。そして、ドッキリに成功したいたずらっ子のようでもあり。
「さ、さくらの神さま......?」
「ざーんねん。お姉さんは幽霊です」
「ゆっ、ゆーれいっ!?」
 これが、少年と少女の出会い。短い逢瀬の始まり。
 まだ、十歳にならない少年と、十六歳くらいに見える少女の、短い春の思い出。

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「へー。お姉さんはずっとここでまってたの」
「そうなの。ずっとここで一人、退屈だったのよ」
 桜の木の根元に並んで座った二人がこそこそと会話する。あたりに人の影はなく、盗み聞きする者はいないというのに。
 しかしこれは、先の二人の会話のためだ。

『やった! オレ、ほんもののゆーれいに会ったのはじめて!』
『そうなの。じゃあ、誰かに自慢するの?』
『うんするよ! まずはうちに帰って、お母さんとお父さん、それからクッキーに! それで、明日学校に行って、友達にもじまんする!』
『あらあら。でも、そうしてら他の人も私を見にこの山へやって来るわね』
『オレがつれてくるよ! みんなも会わせてあげるんだ!』
『あら~、それは困ったわね。私恥ずかしがり屋さんなの。沢山他の人が来るなら、隠れちゃおうかな』
『ええ~、みんなと会おうよ~』
『いやだよ~。私は君とだけ会えたらいいの』
『なんで? ほかにも友達がいっぱいいた方が楽しいよ?』
『私は君だけでいいんだよ。私は、君以外の人とは会わない。だから連れてきても意味ないね?』
『? なんで?』
『だって、連れてきても本物の幽霊に会えなかったら、他の人は君を嘘つきだって言うでしょう?』
『でもオレ会ったもん! 今おはなししてるし!』
『うんうん。でも会えなかったら他の人は信じてくれないね』
『......そうかも』
『だからね。ここで私が君と会ったのは、私と君だけの秘密。内緒なの。いい?』
『......わかった』

 こうして、少年と少女は秘密のお喋りをすることになったのだ。別段、この木の下でなら大きな声で喋ったって他の人に見つかりはしないのだが、秘密を共有するという特別感に浸るためだ。小声なのも仕方がない。
「そういえば、もう暗くなっちゃったけど、帰らなくて大丈夫なの?」
 すでに太陽は沈み切り、空には星が輝いている。夕方と呼ぶには遅すぎた。
「やばい! 帰らないとしかられる!」
「あらあら」
「夜はあぶないから山に入っちゃダメって言われてたんだ!」
「もう道が見えないくらい真っ暗ね。仕方がない。お姉さんが帰る手助けをしてあげる」
「え?」
 少女がふわりふわりと宙を舞う桜の花びらを捕まえ、ふぅ、と息を吹きかける。すると、花弁が淡く輝き、少年の周りをくるくると回った。
「なにこれ、すごーい!」
「でしょー。ここに住んでる神さまに少し力を貸してもらったの。この花びらが案内してくれるから着いて行ってね」
「お姉さんは?」
「私はここから離れられないから」
 ひらひらと手を振る少女に、少年は手を振り返す。
「またね。今度は明るいうちに来るから!」
 そして、足元に気を付けながら、花弁に導かれゆっくりと下山していった。

「おねーさーん!」
「あら、本当に来たの」
 桜の木の枝に腰かけていた少女がふわりと地面に降り立つ。降り立つと言っても、少女のつま先が地面に触れることはなく、数センチほど浮遊しているのだが。
「昨日は怒られなかった? 随分と遅くなっちゃったでしょう?」
 少女を見つけた少年は、嬉しそうに彼女の元へと駆け寄った。
「すごいおこられた。もんげんが早くなっちゃったよ」
「あらあらまぁまぁ、それは困ったわね」
 少ししょげてみせた少年は、しかし次の瞬間には得意げにふんぞり返る。
「でもね! 山に行ってたことはバレてないんだよ! 公園にいたってウソついちゃったから!」
「あら、悪い子ね?」
「お姉さんとの秘密だからね!」
少年はふかふかのコケの上をずんずんと進み、桜の木の根元にある石の上に腰かけた。少女もふわふわとついていき、近くの空中に腰かけた。
「約束を守れるなんて偉いのね」
「お父さんが言ってたもん。やくそくを守れるいい男になれって」
「そうなの。いい男になるの?」
「いい男になったら、モテモテなんだって!」
「あらあら。なら君には好きな女の子でもいるのかな?」
「いっ、いないよ! いないったら! あ、なんでクスクス笑うの!?」
「いいわねぇ、青春ねぇ」
「お姉さん! オレにはまだ好きな子いないから!」
「はいはい、そういうことにしておきましょうね~」
「も~~!」
「それより、君のこと聞かせてほしいな。お喋りしよう。暗くなっちゃう前に」
「お姉さんはぜったいにわかってない......けどいいよ!おはなししよう! お姉さんは何が聞きたい?」
「そーだねー。家族のこととか友達のこととか。君が話したいと思うものから話してくれたらうれしいな。お姉さん、ずっとここで人を待ってたから、沢山おしゃべりしたいの」
「まかせて!えぇっとね、じゃあお父さんのはなし!」

「ふんふん。君のお父さんは随分とおっちょこちょいなんだねぇ」
「そうなんだよ! 去年のクリスマスが一番おっちょこちょいだった! サンタさんとやくそくしてた時間に間に合わなかったから、オレのクリスマスプレゼントをもらってなかったんだよ! そのあとちゃんともらって来てくれたんだけど、お父さんはやくそく守れないからぜんぜんいい男じゃないんだ!」
「約束は守らないとだねぇ」
「だからオレはきちんとやくそくを守るんだよ!」
「なるほどなるほど。あ、だんだん空が夕焼けになってきたね」
「ほんとだ。もんげんを守らないとだから、今日は帰るね」
「うん。お喋りしてくれてありがとう」
「ううん! お姉さんとおはなしするの楽しいからいいよ! また来るね!」


 こうして少年と少女は


「お姉さん!」
「今日も来てくれたの?」
「うん! 今日はオレのお母さんのはなしをするね」
「うんうん、聞かせて?」

「お母さんもおっちょこちょいなんだね?」
「うん! あれ? お父さんとお母さんってにた者どうしだね? だからけっこんしたのかな」
「かもしれないねぇ」
「あ! もう夕方だ! 今日は帰るね。夜にお父さんにこっそりきいてみるよ。なんでお母さんとけっこんしたのか。お母さんははずかしがって答えてくれないだろうし」
「そうなの。教えてくれるといいねぇ」
「うん! バイバイ。また明日!」


 放課後、友達と遊んだ帰り道等で


「お姉さん! 今日はね、クッキーのはなしをするよ!」
「クッキー?」
「うん! オレの家族でね、犬のゴールデンレトリバーなんだ。もふもふだよ!」
「犬かぁ。いいわねぇ。私もポチっていう名前の犬を飼ってたんだ」
「お姉さんも犬かってるんだ!」

「お姉さんのとこのポチは賢いね」
「うん、とーっても賢い子だったよ。クッキーくんは元気なんだね」
「うん! あ、オレ、明日はクッキーのさんぽのついでにつれて来るよ! お姉さんはクッキーに会いたい?」
「うん会いたいなぁ。連れてきてくれるなら嬉しいわ」
「じゃあ明日つれて来るね! そろそろ帰らなくちゃ。また明日!」
「――ええ」


 短い時間の逢瀬を重ねていく。


「お姉さん! クッキー連れてきたよ!」
「ワンワンッ」
「あらあら。本当に元気な子だねぇ」
「元気すぎて、ときどきオレを引っぱって走るんだ。こまっちゃうよ」

「クッキーもポチみたいに芸をおぼえたらいいなぁ」
「犬は賢いからちゃんと教えてあげれば覚えてくれるよ。お座りとかお手とか、簡単なのから教えてみたら?」
「やってみる。じゃあ今日は帰るね。ほら、クッキーもお姉さんにバイバイして。......うーん、クッキーぜんぜんお姉さんの方を見ないや。ごめんね。また明日!」
「......うん」


 それは週を超え、月を超え。


「お姉さん!」
「あら今日も来てくれたの?」
「うん......きのうは来れなくてごめんね」
「いいのよ。雨が降った後で地面がぬかるんでて、山を登るのは危なかったからね」
「きのうはね、雨ふってたから友達のうちでゲームしたんだ!」

「へぇー最近のゲームってすごいのねぇ。私の時にもあったんだよ? テレビゲーム。掌くらいの大きさの四角いカセットで......」
「四角? えんばんじゃないの?」
「円盤じゃあなかったなぁ。あら、もう夕方だ」
「ほんとだ。じゃあね。また明日!」
「えぇ、また明日」


 気が付けば桜の花は全て葉に代わっていた。


 今日も少年は山を登る。桜の木の下で少女と話しをするために。

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「お姉さん! ......あれ?」
 少年は辺りを見渡す。けれど、いつもはこの木の傍にいる少女が今日はいなかった。
「お姉さん、どうしたんだろ」
 うーん、と唸りながら少年は首をひねるが、少女がいない理由がまったく思いつかないようで、
「まってたら来るかな」
 いつも座っている石の上に腰かけて、少女が来るのを待つことにしたのだった。
 すでに季節は過ごしやすい春を通り越して、初夏に差し掛かっていた。まだ夕暮れまでには時間が遠く、太陽は空で輝いている。枝に葉をつけた桜の木は心地よい木陰を作っていた。
「お姉さんおそいなー」
 遊びたい盛りの少年はもう待つのに飽きたらしく、気の周りをうろうろと回り始めた。枝の隙間から差し込む光の上をとびとびに進む遊びのようだ。
 しかし、あるところで少年が立ち止まる。そこは新たにうっすらと新たにコケが生え始めたところ。春に少年がテストを埋めた場所だった。
「ちゃんとうまってるか、かくにんしよっと」
 手ごろな石を見つけて来た少年は地面に座り込み、地面を掘り返す。多少大きく掘ったってかまわない。確認できればそれでいいし、掘りすぎたら埋めてしまえばよいのだから。
「あれ? なんだこれ」
 しかし、少年は掘り起こしたのは、少年が埋めたはずの半透明のビニール袋ではなく青色のものだ。
 ためしにぐいっと引っ張ってみるが、全く動かない。見えているのはほんの少しの部分だけで、もっと埋まっているようだ。
「んしょ、よいしょ」
 少年は周りの部分も掘っていく。ついでに自分のテストも見つけたが、既に少年の興味は隠したいテストではなく、地面に埋まっている青色の物体に移っていた。
 空の高いところにあった太陽が沈み、空がオレンジ色に染まるころ。少年はなんとか青色の物体の端っこにたどり着いていた。
「これぐらいで動くかな?」
 引っ張ってみるが、まだびくともしない。随分と大きいものが埋まっているようだ。しかし、青色のものが運動会などで使うブルーシートだということと、何か大きいものを包んでいるということは分かった。全部を掘り出せなかったことは不満だが、中身を見てみることにしたらしい。
 少年がシートの端を掴んでずらそうとしたとき、
「ダメッ!!」
「え?」
 切羽詰まった少女の声が聞こえたが、その声も間に合わず、ブルーシートはべらりとめくれ、中のものが見えた。
「......え?」
 そこには、多少形が崩れてしまっているが、人間が埋まっていた。

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 少年が悲鳴をあげながら山を下りてから数時間。桜の木の根元は様変わりしていた。
 いままで少年以外ほとんど誰も立ち入らなかったそこは、今やたくさんの人であふれていた。桜の木を取り囲むように立ち入り禁止の黄色いテープが張られ、その外側からテレビや雑誌の記者が人の隙間から中を覗こうと必死でカメラを向けている。
 立ち入り禁止のテープの中では、POLICEの腕章を付けた人たちがあわただしく、しかし丁寧にブルーシートに包まれた物体を掘り起こしていた。
 テレビの中継がされているのだろうか。リポーターが大きな声でマイクに向かって話している。
「私は今、死体が発見された大里町の発見現場に来ております。えー、現在発見された死体は警察により早急に掘り起こされています。この後、死体は警察が持ち帰り身元を確認するそうです。現場は規制が張られていて、これ以上近づくことは不可能で、どのような人が掘り起こされたのかも未だわからない状況です。現場からは以上です」

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「ゆっくりでいいよ。怖かっただろう? わかることだけ話してくれたらいいからね」
「......うん」
 少年は、自宅で両親に挟まれた状態で、警察の人と話をしていた。
 少年は死体の第一発見者となってしまったのだ。死体の腐敗の進行や、現場の状況から見て、少年が死体とは無関係なことは分かりきっていた。しかし第一発見者であるならば、話を聞かなければない。それがいまだ小学校も卒業していない幼い子供であっても。警察だってこの少年に見つけた時のことを思い出してほしくない。死体なんて非日常のものは、少年の柔い心に深い傷を残すことは間違いないからだ。それでも仕事なのだから、と心を鬼にして話を聞いているのを、両親だって知っている。だから、少年の手を握ってあげることしかできなかった。
「えっとね、」
 少年はぽつりぽつりと話し始めた。
 新学期初めに受けたテストの点が悪くて、親に叱られたくなくて裏山の桜の木の根元に埋めたこと。
 昨日、きちんとテストが埋まったままなのか心配になって掘り起こしに行ったこと。
 掘っている最中に青色のものを見つけて、それが何なのか気になって掘り起こそうとしたこと。
 大きすぎて全部は掘り起こせなかったが、シートはめくれそうだったからめくってみたこと。
 そして――。
 その先は言わなくても誰もがわかっていた。少年は死体を見つけてしまったのだということを。
「うんうん。怖かったね。怖かったのによく話してくれたね。偉いね、偉いね。ありがとう、おじさん助かったよ」
 少年の瞳からぽろぽろと流れる涙を父親は無言で拭ってあげていた。母親はしっかりと少年を胸に抱き止めていた。

            ?

「速報です。本日夕方に見つかった死体の身元が確認されました。
 発見されたのは二十九年前に死体の発見された大里町の隣町で行方不明となっていた櫻庭薫さん、十六歳です。犯行の証拠が発見できず、捜査が中断されていた誘拐事件でした。
 検死の結果、櫻庭さんは暴行を受けた後に殺され、山に遺棄されたものと判明しました。死体より新たな証拠が出たため、警察は犯人の捜索を再開。犯行グループのうち一人を逮捕。残りのメンバーを特定し、捜索しているそうです。
 死体は後日、遺族に引き渡されることになっています」

            ?

 生と死の間。現(うつつ)と幽(かすか)の狭間。本来なら何物も居ないはずのそこで、響く声があった。涙と後悔に濡れた声だった。
「私、ひどい人間なんです。あの子のことも、利用しようとしか考えてなくて」
「えぇ」
「幽霊と話すなんて体験、きっと誰かに話すだろうと思って。そしたら、それを聞いた大人が不審に思ってくれるかなって」
「えぇ」
「だから、私、あなたに見送ってもらう資格なんてなくって。自分が見つけてもらうことしか考えてなくって」
「だけれど、貴女の命日であるあの日。貴女の死をもう一度見直さなければならないあの日に、その苦しみの中からでも彼を助けようとしたでしょう。痛くて、辛くて、逃げ出したかったはずなのに、彼に声をかけた。貴女の身体を見せないために」
「でもっ、それも間に合わなくて......」
「大丈夫」
 うずくまり、泣く黒髪の少女の背中を、白い髪を持ち、紅い紅葉の踊る着物を着た少女がそっとなでる。
「そもそも、怨念に絡め捕られて悪霊になっていない時点で、貴女は頑張りすぎだったの。殺されたというだけで魂は穢され、怨念の強さには差はあれどほとんどが悪霊になる。そして、自分と縁のできた者、貴女の場合は貴女を最初に見つけたあの少年を呪うはずだった」
 白髪の少女は、真っ赤な瞳を細めて薄く微笑んだ。
「けれど、貴女は彼を呪わなかった。彼の視界に収まれど、呪うことはしなかった。悪霊にならなかった。そんな頑張り屋な貴女だから、私は貴女を見ていたのだし、貴女は胸を張ってあちら側へ行っていいの」
「そんな。私はただ、最後に私の身体を両親に見せたくて。きっと、ずっと心配するだろうから、もう死んじゃったよって。先に逝ってしまってごめんねって。それだけ伝えたくて」
「えぇ、えぇ。それで二十九年もあの桜の木の下で待っていたのだから、すごい事なの。誇っていいの。決して、悪霊になってしまった他の魂が劣っているということではなく、貴女がすごすぎた。頑張りすぎたの。さぁ、そろそろあちら側へ。ここに長くいては、魂の境界が溶けてどこへも行けなくなってしまうから。案内人は私が勤めましょう」
 白い手が少女を立たせる。そして、右も左も、前も後ろもよくわからないこの世界のある一点を指した。
 ゆっくりと、しかし自分の足でしっかりと立ちあがった少女は、ごしごしと涙をぬぐい白髪の少女と向き合う。その顔にはもう後悔は残っていなかった。ひとつの決心だけがあった。
「いいえ、ここからは自分で行けます。ポチが、迎えに来てくれましたから」
 白髪の少女の指さす先。そこに、いつの間にか一匹の犬がいた。しっぽがゆらゆらと左右に揺れている。
「こんなところまで飼い主を迎えに来るなんて、よく懐いていたのね」
「えぇ、自慢の家族でした」
 白髪の少女を一人そこへ残して、黒髪の少女が飼い犬の待つ方へと一歩を踏み出す。そしてもう一度振り返り、白髪の少女と向き合った。
「案内人は要らないです。代わりに一つ、お願いしてもいいですか?」

            ?

「お姉さん、また会えるかなぁ」
 少年はベッドの上で独り言を呟いていた。日付が変わるころ、いつもなら少年はすでに夢の中にいるはずの時間。けれど、少年はまだ眠れずにいた。
 今日見てしまったもののせいか、まだ妙に目が冴えているのだ。けれど、心配してたびたび少年の部屋を覗きに来る両親を心配させたくなくて、寝たふりをしているのだった。
「今日は会えなかったから、明日は会えたらいいな。あ、でも、山に行っちゃダメって言われちゃったから、行けないかな」
 桜の木の下で自分をいつも待ってくれているあの人を思い浮かべると、ちょっとだけ気分がよくなる。次会った時は何を話そうか。話したいことが次から次へと出てくる。聞きたいこともいっぱいある。まだまだ全然話し足りない。
 桜の木の下。長くて黒い髪の、きれいなお姉さん。いつも白いワンピースを着て、ふわふわ浮いているゆーれいのお姉さん。他の人には秘密で内緒のお姉さん。
「オレ、やくそく守れるいい男だから。今日もちゃんと秘密にしたもんね」
 次に会う時にはゲーム機を持って行って見せてあげようかな。よろこんでくれるといいな。お姉さんもうまってる人を見てびっくりしただろうし。
 そう考えるうちに、少年の意識は微睡んでいく。
 ようやく、少年の長い一日が終わろうとしていた。

 やっと眠りにつけた少年を、赤い月が見下ろしている。

 それはいつからそこにいたのか。もしくは、ずっとそこにいたのかもしれない。
 少年の眠るベッドのすぐ横。そこにそれ(・・)はいた。
 白く長い髪。真っ赤な瞳。真白い肌に、真っ黒な着物をまとった、少女の形をしたナニかが、身じろぎもせず、少年を見下ろしていた。
 不意にそれが動く。
 真白い手が、少年の額にかざされる。
「月は沈む。いずれ沈む。必ず沈む。沈まぬ月はなく、そしていつか、また昇る。今は沈め。深く深く、誰も知らぬ深淵へ。いつかその時が来るまで」
 言い終わると、それはかき消えた。まるで最初からいなかったかのように。もしくは、本当に最初からいなかったのかもしれない。

 白い月が沈み、夜が明けようとしていた。

            ?

「私に、お願い?」
「はい、お願いです。月の人。本当はあなたにお願いなんてできないって知ってるんです。だけど、どうか」
「......いいでしょう。私に叶えられる範囲のことなら請け負います」
「ありがとうございます。私のことを見つけてくれたあの子の記憶を、奪ってほしいんです。私と会った記憶も、話した記憶も、私の死体を見た記憶も。全部」
「それはどうして?」
「あの子は、まだまだこれから大きくなっていきます。成長するんです、もう死んでる私と違って。楽しい事、面白い事、いやな事、辛い事、いろんな体験をして。けれど、幽霊と話していたなんて、既に死んでいた人間と会ったなんて体験は要らないと思うんです。今は分からなくても、大きくなったら、自分が見つけた死体が私だって気づきます。そして、きっとショックを受けちゃうんです。あの子、いい子ですから。でも、もう死んでる人間のことでショックなんて受けないでほしいんです。あの子と関わるのは生きた人間で、生きた人間との体験を積み重ねて、そうやって生きてほしいんです。私から巻き込んでしまったのに、こんなこと言う資格は無いんですけど。だけど、どうかお願いします」
 少女が深々と頭を下げる。長い黒髪はすでに地面についていた。
 ゆっくりと瞬きをした白髪の少女は、一呼吸置いた後、口を開いた。
「ごめんなさい。私に人間の記憶を奪う力はないの。けれど、封印することならできる。それでもいいなら、請け負いましょう」
 ばっと顔をあげた少女の顔に喜色がにじむ。
「本当ですか! よかった......ありがとうございます」
「構いません。これは自分の生きた年月よりも永い時間一人で耐え抜いた貴女への、私からの些細なご褒美」
「......本当に、あなたに助けられてばかりですね。あの子と初めて会った時だって、助けてもらって」
「なんのことでしょう。道案内をしたのは、あの山に住んでいた神の何某。私ではないわ」
「ではそういうことにします。本当に、本当にありがとうございました」
 そう言って、少女は迎えに来た飼い犬と共に、今度こそ歩いて行った。この世ではない、あちら側へ。
 それを見送った白髪の少女は、ポツリと呟いた。
「優しい子ね」

            ?

 俺は今日、高校を卒業した。
 四月からは実家を離れて一人暮らしをする。大学に通うために下宿をするのだ。なんだか小学生のころ裏山でやばいものを見つけてしまって、その時からすごく過保護になった両親を説得するのは大変だったが、何とか成功し、晴れて大学生になれる。
 裏山で見つけたやばいもの。その記憶はもうない。見つけた時は確かに大きな衝撃だったが、今となってみれば、それほど気にしているものでもない。むしろ、テストを埋めて隠していたことの方がよっぽど黒歴史だ。
「よいしょっと。この桜も見納めか」
 見上げているのは、まだ蕾を付けたばかりの桜の木。家の裏山に生えてる古い木だ。
「いやまぁ、毎年帰ってくるつもりだし、見納めではないか」
 この桜は妙に俺の心に残っている。別段、この桜の下で何かがあったというわけではない。この桜の下で告白したら成功するとか、そんなロマンチックな伝説があるわけでもない。むしろ、俺の黒歴史の舞台だ。忘れたい部類の記憶、のはずなのに、この桜が咲くころには毎年見に来ないと、と思ってしまう。そして実際に見に来てしまう。
「なんだったんだろうなぁ」
 しかし考えたところで何もわからない。毎年考えているのに、今更になってわかるはずもない。
 大学入試のための勉強で机にかじりついていたせいで割と運動不足な体を、うーん、とのけぞって伸ばす。
 その時、確かにオレは見た。舞い散る桜の中、風と共に踊る黒髪を。ふわりと広がる白いスカートを。こっちを振り返る彼女を。
「なんだ。大事な思い出があるじゃん」
 目からボロボロと流れる涙の意味を、今の俺ははっきりと覚えていた。
「来年も、花が咲くころに絶対戻ってくるから。再来年も、その次も。いつか、新しい恋をして、彼女作って、つれて来るから。こどもも、見せに来るから。だから、安心してくれよ」

            ?

「どちらも、本当に優しいのね」

 収まるべき場所に戻った思い出に安堵の息を吐いた。
 もう少年の上に赤い月が輝く必要はない。
 なぜなら彼には彼の月がもうあるから。
 空へ昇った月は、煌々と輝く。いつまでも。暖かく。
					  【終わり】


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