SoM

レーゴ




『僕』が目の前に立っている。『僕』の身体が目の前に立っている。ナイフを握った『僕』が目の前に立っている。鏡ではない。それなのに、僕は『僕』の全身をはっきりと眺めまわすことができる。
 かつて僕だったもの。
 今は違う。『君』が僕だ。


 あの頃の僕は夜の街を徘徊していた。自分の身体で自分の意思で歩き回っていた。肥大した好奇心と非日常への衝動。それが僕の行動の理由の大半を占めていた。あの夜もそうだし、今だってそうだ。
 あの夜、僕はとある店を見つけた。雑居ビルの中にひっそりと埋もれている店。バーのような店だということは何となくわかったが、それ以外のことはわからない。
 僕は好奇心に引っ張られて地下へ伸びる階段を下り、重々しいドアを押した。途端に景色が霞みだす。部屋中が煙で満たされていた。
 そこだけは時代に少し取り残されたみたいに、禁煙やら分煙やらの概念はなかった。人々の口元から煙が立ち上り、薄暗い照明を含んでゆらゆらと空間を歪めていた。
 こんなに煙草を吸われているのに、店の内装はきれいだった。木製のテーブルは照明を鈍く反射するほど磨かれ、精緻なダマスク柄の壁紙にヤニ汚れは見当たらない。客も中年かそれ以上の年代が中心で、高そうなジャケットを羽織った初老の男性や、高そうな指輪をはめた女性が多い。
 僕はカウンター席の端に腰かけた。カウンターの中では僕より少し年上かどうか、という年齢の店員が話しかけてきた客に微笑を返していた。明らかに作り物の笑みなのに、なぜか不快感はなかった。清々しいほどに偽物の笑顔。周りの客のぼそぼそした話し声も、たまに上がる嬌声も、気取った仕草も、全てがこの空間で演じられる劇のように作り物めいた偽物だった。
 ぼんやりと煙に映る客の姿を肩越しに眺めた。僕は煙草のにおいは嫌いではない。むしろ好きかもしれない。主流煙よりも副流煙のほうが毒性は強いと聞くけれど、僕は深々と鼻から他人の煙を吸い込む。もしこれを続けて僕の身体が不調を起こしたとしても、僕自身は煙草を吸っていないのだから医者や家族に責められることはない。むしろ同情してもらえるかもしれない。かわいそうに。君は悪くないのにね。喫煙者のせいだね。他人に罪を擦り付けた優雅な自傷。
 やあ。一人?
 僕は右肩ごしに周囲を伺っていたから、死角の左側に回り込んでいた君には気づいていなかった。突然自分にかけられた声に驚いた僕は、勢いよく君の方を振り向いた。間近に君の顔があった。
 僕は一目で君を気に入った。ショートカットの金色に近い茶色の髪。一体いくつ穴をあけたのか分からないほどピアスがついた耳。アーモンド型の目を縁どる赤いアイシャドウ。僕とは正反対のタイプの人間。普段なら絶対に関わりたくないタイプの人間。それでも何故か惹き付けられた。
 君は脚の長いスツールには座らず、カウンターに手をついて僕を見ていた。君みたいな若い人は珍しいからよく目立つよ。そう言った君も、僕と同じくらいかそれよりも年下に見えた。実際に君は僕の一歳下だった。
 僕は君に笑いかけた。君は嬉しそうに横に座った。そして、断りなく煙草を吸い始める。その無遠慮な態度も気に入った。君がこちらに何も気を遣わないなら、僕だって君に対して気を遣う義理はない。
 君の紅い唇に挟まれた煙草の先から細く揺らめく紫煙が立ち上る。照明が煙を染める。君にたなびくオレンジの雲。君と僕を隔てる薄い幕。君の輪郭が曖昧になる。
 君の吐き出した煙が僕の顔の左側を覆った。霞の向こうに、君の歪んだ唇がある。何か言っている。上手く聞き取れない。鼻から煙を吸い込んだ。雲が晴れる。
 じりじりと左目の奥が痛んだ。ぎゅっと瞼を閉じたはずなのに、一瞬君の顔が瞼の裏に鮮明に浮かぶ。目を開けた先には君の満足気な微笑がある。
 そのまま僕とはほとんど言葉を交わさないまま、煙草を一本吸い終わった君はさっさと席を離れた。僕は他の客の観察に戻り、しばらくして帰路についた。何か劇的なことが起こったわけではない。それでも何か、地に足がつかなくなったような、奇妙な浮遊感と多幸感に包まれた僕は鼻歌を歌いながら夜道を歩いた。
 あの頃僕は退屈していた。変化のない平坦な毎日に飽きていた。うんざりしていた。そこに君は現れた。僕の世界に射した一瞬の閃光。君なら僕の単色の日常を変えてくれるような予感がした。いつどこで再会できるか、そもそも、もう一度会えるかさえも分からないのに、僕は君に過剰に期待した。
 その時はもうすでに、左の鼻の穴から体内に入り込んだ君の煙が僕の身体を確かに毒していっていたとは知らずに。

 君と出会ってから、たしか二日後の昼間。僕は普段通りに大学でドイツ語の授業に出ていた。
 僕はいつも、とくに書くことはなくても授業中はシャーペンを握っている。だから眠りかけると指からシャーペンがすり抜けて机や床に落としてしまうことがたまにあった。そのドイツ語の授業の時もそうだった。いつものように先生の声をBGMにして半分意識を手放していた。次第に声は聞こえなくなり、意識は僕から離れていく。
 かしゃん。机にシャーペンが落ちた硬い音。僕は目覚めた。先生の声。隣の机の女の子が、僕をちらりと見てから、退屈そうに視線を逸らす。シャーペンを拾い上げた。違和感。ほぼ白紙のままだったはずのルーズリーフの真ん中に、文章が右肩上がりに書かれていた。
do you know crazy?
 寝ぼけて書いた?
 一瞬そう思ったが、明らかに僕の筆跡ではなかった。筆圧が低く薄い、どことなく角ばった印象の硬い文字を、僕は書かない。
 左側頭部がぴくぴく動いた。血管が脈打つのに似ているけど、もっと気持ち悪い感覚。もっと奥の方で、ぬるっとした何かが這いずり回っている。何かいる。僕の頭の中に、何かいる。
 スライムみたいな、液体なのか固体なのかよく分からないどろどろしたものが左側頭部を蠢いていた。そのスライムが一ヶ所を目指して移動していく。頭の中がぞわぞわする。
 やがて、頭の左側は動かなくなった。代わりに、無意識に頭が左に向かって垂れそうになる。重い。何かが僕の頭に居座っている。
 そうさ。君の頭の中に私はいる。ありがとう、私を受け入れてくれて。
 唐突に声が頭蓋に響いた。頭蓋で反射した声が眼球の裏にぶつかって君の姿の像を結ぶ。あの夜、僕の左側で煙草を吹かした君。
 君は、僕の中に侵入することに成功したのだ。


 君の体内を通った煙を吸い込んだ僕の身体を探し当てるのは、君には簡単なことだった。君は自分の身体から意識だけを抜き、マーキングした僕のもとに向かうだけ。君はそんなことをこれまで何回もやってきた。僕の開け放たれた無防備な身体に入り込むことなんて、造作もないことだった。
 それから君は、好き勝手に僕に入ってきて脳を掻き回していった。
 僕が起きている時は左側頭部を痙攣させながら騒ぐくらいのことしかできない。それだけでも鬱陶しいことこの上ないが、僕の心の平静が乱されるだけだ。しかし、僕が寝ている時、無意識の時は僕の身体を勝手に動かすことができた。ベッドから起き出し、パジャマを着替え、夜の街に彷徨いだす。見知らぬ誰かから煙草をくすね、僕の身体で煙草を吸う。僕の意識は非喫煙者でも、身体は喫煙者になってしまった。この場合、医者に責められるのは僕なのだろうか? 僕は吸っていません。僕の身体を乗っ取ったアイツが僕の身体で吸ったんです。僕は吸っていません。アイツが吸いました。誰も信じない。立派な自傷。
 君が僕の身体で強盗に入ったり、誰かを襲ったりしなかったことはまだマシだった。君は他人の頭に土足で踏み入って、他人の精神を破壊することに快感を覚えているような人間だった。誰かに危害を与えることで侵入された本人が壊れてしまうのなら、君はそうしたのかもしれないけど、僕はそういうタイプではなかった。
 君は服を替えるように他人の脳内を渡り歩いていた。僕以外にも、君の宿り木はあったようだ。あの夜出会った君が、本当に『君』の身体に入っていた君なのかさえ疑わしかった。それは後から、あの『君』は君だったことが判明するが。
 君は一度侵入に成功した人間には何度も自由に出入りができた。いつの間にかいなくなっていることもあったが、かなり頻繁に僕のもとにやってきた。君が言うには『僕』の中は他の誰よりも居心地が良いらしい。だからといって、ずっと入り浸られては困る。君がいると、頭の左側が重い。余分な意識を抱え込んでいるのだから当たり前なのだけど、やっぱり邪魔だった。
 どうして君は他人の身体を乗っ取ろうとするんだ?
 だんだん自分に飽きてきた。だって、もう二十年近く『自分』でいるんだもの。
 狂ってる。
 それはどうも。
 だが、しばらくすると僕は君といることに慣れてしまった。君が居心地が良いのと同じように、僕も君と脳を共有するのはそう悪くないことだった。僕の頭は好き勝手覗かれてしまうけど、逆に君の意識も好き勝手に見ることができる。他人の頭の中がはっきり分かるって、そんなこと滅多にない。
 君曰く、僕の頭の中は色彩に乏しいらしい。ほとんどモノクロ―ムの世界。黒も白も灰色も、互いに過ぎた干渉はしない代わりに、華やかさに欠けた単調な風景。華もなければこれといった汚点もない。平々凡々な生活から生まれた色。僕はそれなりに生きてきた。大した成功も大した苦労もないまま生きてきた。グレたこともないし大病に罹ったこともない。僕の今までの人生に悲劇も喜劇も存在しない。壮絶な過去などない。普通の家庭で普通に生きてきた。僕はそれでも満足していた。本当に? 心のどこかでは悲劇を願っていた。喜劇よりも悲劇を。僕の人生に一輪の悲劇の華を。
 君の意識は極彩色のネオンで煌めいていた。僕とは正反対。君は悲劇も喜劇も溢れるほど持っていた。君の抱えた過去は艶やかに鮮やかだった。だって君は、他人の身体に入り込んで、あらゆる他人の人生を齧っていたから。そして、僕は喜劇よりも悲劇の色に惹かれた。喜劇よりも悲劇の色の方が毒々しい鮮やかさだった。
 僕は君の意識を弄り回すようになっていった。君の濃色に触れていたら、僕にも色移りしてくれるかもしれないと期待を込めて。そして、僕自身の悲劇を僕に刻み込むために。
 君は左の鼻の穴から入ってきて、僕の左目と左耳で僕と感覚を共有していた。君は僕の左目に映ったものは君自身の感覚として『見る』ことができる。僕の左耳が聞いたものは君自身の感覚として『聞く』ことができる。それ以外の感覚は、僕の意識を一度通ったものが君の意識にも共有された。
 例えば、君はトマトが嫌いなようだったけど、僕はトマトが好きだ。僕はトマトを食べて「美味しい」と感じる。君は自分の身体で食べると「不味い」と感じるだろうが、僕に入っている君は目でトマトを食べていることを知っていても、君の意識は「美味しい」と感じる。僕が「美味しい」と感じているからだ。
 僕はそのズレを利用して、君が嫌がり混乱するようなことを片っ端からやっていった。味覚以外では触覚も利用した。君は虫とか爬虫類とか、そういうものは一切触れない人だった。見るだけでも嫌らしい。僕は平気で触れる。左目に映るのは蛙で、君の意識は嫌だと叫び、僕は何とも思わずに蛙をつまむ。
 一つ一つは本当に下らない。何て子どもじみた嫌がらせなんだろう、と馬鹿馬鹿しくなる。でもそれを毎日毎日、繰り返しやられたら? 君にとってはかなり苦痛だった。苦しむ君の意識を覗き込んでは、僕は喜んだ。君は不快に思っているのに僕が喜ぶから、君はさらに混乱した。
 そのうち君は僕のもとに来なくなった。『僕』は居心地の悪い場所になってしまったから。でもそれは君にとってのことだ。僕は君といることをすっかり気に入ってしまっていた。しかし僕から君を探す手段はない。君から現れてくれるまで、じっと待った。だから、久しぶりに僕の頭に侵入してきた君を僕は離さなかった。
 君を僕の左側頭部に縛り付けた。やり方は君が教えてくれた。君は僕の左の鼻の穴から入ってきていた。出入り口を塞いでしまえばいいのだ。左の鼻に細かく丸めたティッシュを詰めた。本当は鼻ごと潰してしまったほうが確実なのだろうけど、そんなことをする勇気はなかった。
 君は『僕』に閉じ込められた。自分の身体に帰ることができなくなった。
 僕は極力眠らないようにした。少なくとも、君が僕に抵抗できなくなるほどに弱るまでは。僕の身体が僕の意識を手放してしまったら、君は『僕』から出ていってしまう。僕の意識が統率していない身体なら、君にも操縦可能になってしまう。
 君は自分を捕らえた僕を、狂っている、と罵った。はじめに僕に入ってきたのは君じゃないか。狂っているとしたら、それは君のほうだ。
 自分の身体に戻れない、というのがどれほどの負担になるのか僕は知らない。ただ、君はいつも『僕』に留まるのは長くて半日だった。身体と意識を離れた場所におくのは相当疲れるに違いない。僕が睡眠欲に負けるのが先か、君が気力を失うのが先か。
 そして僕の狙い通り、三日も経つと君は大人しくなった。憔悴していった。君の意識は結束力が弱くなっていった。なんとか側頭部の一ヶ所で固めていたはずのものがでろでろに溶けはじめ、僕の意識と混ざるようになった。混ざる、と言っても僕と君の意識はあくまで別物だから、水と油のように分離しあった状態ではあるけれど、君は自我としての〈君〉を一か所に留めておくのが困難になった。
 君は、僕が久しぶりにベッドに横になった隙に必死になって自分の意識をかき集め、なんとか『僕』の身体を動かした。鼻栓を外して外に出たら君の脱出は成功だった。君はもちろんそうしようとした。だが、君はもはや出口が開いても抜け出すことはできなくなっていた。拡散しすぎた意識を全て自分のもとに集めることができなくなっていた。意識の一部を残して外に出ることはできない。外に出るなら意識全てで出ていかなければならない。君はどんなに絶望したことだろう。
 朝起きるとシーツは血まみれになっていて、枕元にはカッターナイフが転がっていた。
i not crazy am you are
 左腕にはそう刻まれていた。

 君は狂ってしまった。ほとんど君自身の意識は機能しなくなった。そこにあるだけの意識。僕の頭をふよふよ浮遊しているだけの他人の意識。君は廃人同然だ。狂ってしまったのは君だ。僕じゃない。僕は、こうして自分で考えて行動している。
 君はとうとう僕の左目と左耳からも情報を得ることができなくなっていった。僕の感覚を共有しすぎた君の意識は、ほとんど僕自身の意識に溶け出していた。これ以上僕のもとにいたら、君の意識は消滅してしまう。君は怖くなっただろう。
 君はなけなしの意識で僕の身体を制御しようとした。僕はわざと君の好きなようにさせた。君が僕の身体で向かう先は分かっていた。『君』のもとだ。
 僕は眠った。近頃、君を繋ぎとめておくために熟睡していなかったから、深く眠れた。僕は『僕』をしばし開放した。君は弱くなった意識でも僕を動かすことができた。どうして僕が今更君にチャンスを与えたのかを不審に思うほどの判断力を、君はもう持っていなかった。

 僕が目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。ベッドには『君』がいた。意識のない抜け殻の『君』が。
 仰向けの君は、あの夜に出会った時と違って化粧はしていなかったし、服もこの寒い季節に生地の薄そうな長袖Tシャツ一枚だった。こんなに長い間戻ってこられないとは思っていなかったのだろう。蒼白の肌と色が抜け落ちた唇が冷えびえとしていて、人形みたいだった。はじめて出会った時の鮮やかな『君』も人間臭くて好きだったけれど、脱色されて透明になってしまいそうな冷たい『君』はもっと好きだ。自我を放棄した身体。微かに『君』の胸が上下していた。意識が抜け出しても身体は生命維持を続けているらしい。
 君は『君』に戻ろうとしたのだろう。意識を『君』のもとに連れてくることで何とかなると思ったのだろうが、僕の左側に繋がれた君がどうやって抜け出すつもりだったのか、今となっては分からない。
 自分の身体を目前にして、君は『君』に戻ることができなかった。僕がもう少し目覚めるのが遅ければ間に合ったかもしれないのに。
 頭の中で喚く君を無視して、僕は君が部屋に置いていた煙草を吸った。眠っている『君』のすぐ横で。『君』に煙が流れる。微かにではあるけど、君の鼻が僕の煙を吸い込む。
 僕は再び眠った。『君』の横で眠った。眠ったはずなのに、なぜか僕は『君』がはっきりと見えた。君に近づいた。急激に景色が後方に流れた。君に吸い込まれる感覚。
 目が覚めると『僕』がいた。呆然とした『僕』が。君の意識だけが『僕』に残り、僕は『君』に入っていた。
 ベッドから起き上がる。いつもとものの見え方が違う。『君』のほうが視力は良いようだ。こんこんと眠り続けていた『君』の頭ではまだぼんやりしたけど、冷え切った身体が僕を覚醒させていく。
 『僕』はよろけ、力なく座り込んだ。君は目の前に立った『君』を見上げる。血の気が引いて真っ白な顔の君は、数回頭を振り口の中で何か呻いた後、弾かれたように立ち上がった。君はキッチンに駆け込み、手にナイフを持って戻ってきた。やけくそになった君は、『君』ごと僕を殺そうとした。
 しかし君は僕のいなくなった『僕』でさえ、上手く制御できない。動きは緩慢で、ナイフを握った手はぶるぶる震えている。ふらつきながら突進してきた君をかわす。もう一度こちらに向かってきたけど、僕に達する前に脚がもつれ、壁に寄りかかった。ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す。こちらを睨む眼光も酷く鈍い。黒目が上瞼に隠れた。君は膝を折り、顔面から床に倒れ込んだ。
 君の身体を仰向きにさせて、ナイフを取り上げた。『僕』の顔が恐怖で歪む。やめろ、と叫ぶ君。元自分の顔が怯え切った表情を見せているのが可笑しくて、唇が緩む。
『僕』に馬乗りになる。僕ははじめに鼻を破壊する。君がもう二度と『僕』から出てこられないように。僕の声で君の悲鳴。君は『僕』という肉の牢獄に閉じ込められる。
 やめて、殺さないで。君が泣く。かつての僕の身体でそんなみっともない姿を晒さないで欲しい。
 宿主の身体が死ぬと、意識はどうなるのだろうか。意識も消えるのだろうか。意識だけが漂い出して、幽霊みたいになるのだろうか。どちらにしても、君はもう『君』には戻れない。そして、逆に僕も『僕』には戻れない。
 君はすすり泣く。もうどうしようもないことは君が一番分かっている。
 狂ってる。狂ってる狂ってる狂ってる。お前はおかしい。
 君は呂律の回らない舌でそう吐き出す。私を追い出して閉じ込めて、どうする気だ。
 僕は『君』になる。もう『僕』でいることは飽きたんだ。だって、二十年間も『僕』として過ごしたんだもの。
 狂ってる。
 そうかもしれない。
 君の意識はだんだん薄らいでいった。僕の意識が抜けた『僕』の頭は空間が広すぎて、もともと弱まり薄まり拡散していた君の意識は急速に身体との接続を止めていく。せっかく僕がいなくなって自分の支配下に収まりそうだった五感全ても、君にはもう制御不能だ。
『僕』の眼球が焦点を結ばなくなる。僕の後方を斜めに見つめたまま、君の視線が崩壊する。僕が見えなくなっていく。
 僕は『君』の、自分の左腕にナイフの刃先を滑らせる。僕が『僕』を殺した悲劇を刻む。血が君の顔に垂れる。『僕』の壊れた鼻から流れる血と混ざりあう。僕は『君』で『僕』を殺す。君は『僕』で『君』に殺される。他殺の自殺。

 君は『僕』としてここで終わる。さようなら、今までの『僕』、今で終わる君。


 今日から、君が『僕』で僕が『君』だ。


i know crazy








この小説は、『I not crazy am you are』(凛として時雨)という楽曲を参考に執筆しました。


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