少年地獄

登校中



 ―起―

 図書室の扉を開けると、古びた本の埃っぽい匂いが僕の肺へと侵入してきた。
「失礼します」
 今は休み時間であったが、そこに人気はなかった。大半の生徒はきっと、こんな校舎の隅にひっそりと位置する図書室よりも、教室で友人と喋る事によって退屈な授業の疲れを癒したり、眩しい太陽が照らす校庭で走り回ったりするのを好むのだろう。現に窓を閉め切っているここにまで、外から微かに男女の賑やかしい声が届いている。
 僕は入口から真っ直ぐ、図書の貸出・返却カウンターに近づく。そしてそのカウンターの上に、抱えていた生物図鑑を置いた。
「返却お願いします」
 ......。
 この静かな部屋は僕の声を一瞬で行き渡らせ、またすぐに無音へと戻った。
 あれと思い、僕はもう一度声を発した。今度はちゃんと相手に分かるよう、前のめりになってカウンターの内側を覗き込みながら。
「西谷くん、返却お願いできるかな」
 カウンターの真下、窪んでいる空間でガタガタと震えている西谷くんと目が合った。
「......見つかった」
 観念したように彼は呟いた。


「うん、できたよ」
 彼はカウンター内のパソコンを慣れた手つきで操作し、すぐに返却の手続きをしてくれた。
「ありがとう」
 僕はにこりとお礼を言い、踵を返してそのまま自分の教室へ戻ろうとした。
「......先生たちは、僕を探していたかい?」
 ぼそりとした彼の声に、足を止めて顔だけ振り向く。パソコンの前の椅子に座っている彼は、怯えた眼差しで僕を見つめていた。
 僕はさっきの、教室を出る前の皆の様子を思い出す。
「うん。先生たちだけじゃなくて、君のクラスメイトも、僕のクラスメイトも探していたよ」
「......だよね」
 やっぱり、という風に西谷くんは力無く笑った。何が可笑しいのか、僕にはさっぱり分からなかった。
「外が騒がしいね」
 彼が僕から目を逸らし、校庭の方角に位置する窓を見た。たしかに、いつもこの図書室に来るたび耳にする若い男女の歓声が、今日はやけにざわざわと雑音めいた響きをしている気がした。
 僕もそちらに目をやると、数人の生徒の姿が確認できた。皆、どこか校庭の一点に向かって走っているようだった。
 その窓と彼のいるカウンターは対角線上に存在するため、彼からは外の様子は見えなかった。だから僕は、窓から見た校庭の様子を彼に伝えた。
 彼はふっと、また力無く笑った。
「きっと皆、葉山の死体を見に行ったんだろうね」
「そうだね」
 僕も同意した。


 ―承―

 ついさっきの事だ。
 給食の時間が終わって数分後、早くも生徒は外へ行って遊ぶ組と校内でまったり過ごす組とに分かれていた。その時僕はというと、用事があって校舎の一階の廊下を歩いていた。するとちょうど校舎の側にある池の前に、葉山くんが一人立っているのを見つけた。
 葉山くんと僕は同じクラスになった事は無いし、たぶん向こうは僕の事を全く知らないだろうが、有名な彼の事を僕は知っていた。彼は、平凡な長さの黒髪に平均的な背格好で、まるでクラスの隅にひっそりと生存する僕のような、没個性的な容姿をしていた。しかし彼には良くない噂が幾つも存在し、いつも数人の同じタイプの男子を連れて、にたにたと弱い部類の人間に大きな態度を取っていた。
 そんな葉山くんが一人でいるのは珍しいと思い、なんとなく廊下から彼の様子をじっと見ていた。彼はポケットからごそごそと何かを取り出し、それをばっと目の前の池に撒いた。
 僕は、彼が捨て猫を段ボールごと蹴飛ばしたり、学校近くの飼い犬に石を投げたりしていたという話を聞いた事があった。もしや今度は、学校の池の鯉に害悪の与えるモノでも散らしたのかもしれない。そんな推測が頭に浮かんだ。
 生き物の好きな僕は居ても立ってもいられず、真相を確かめるため彼の喧嘩歴も忘れ、近づこうとした。
 その途端。

 ゴッ

 鈍い音と共に、葉山くんの後頭部に何かが落ちた。
「......っ」
 彼は目玉が飛び出そうなくらい目を大きく見開き、口をパクパクとさせた。何か言ったのかもしれないが、一番近い距離にいたであろう僕でも、彼が何と言ったのか聞き取れなかった。
 彼は後ろからの衝撃により、前にぐらりと体を傾けさせ、そのまま倒れた。首から上が池に突っ込み、じゃぼんと大きな水飛沫が上がった。
 目の前の急な展開に、自然と僕の足は止まっていた。水面から波紋が消えた頃、ふと我に返るともう一度足を進め、彼に近づいてみた。
 彼は動いていなかった。右足で彼の肩の辺りを数回蹴ってみたが、されるがままに体が揺れるだけであり、自発的な動きを一切見せなかった。
 水の中に沈んだ彼の頭からは、赤々とした色が煙のようにぶわっと噴き出しており、池の水をどんどん染めていった。このまま彼が汚し続ける事で、鯉たちが死んでしまう事を危惧し、葉山くんの両足首を掴んでずるりと池から引っこ抜いた。少々手荒にしたため、引き摺られた彼の顔面が池淵の岩でゴリゴリと削れる音がした。
 鯉たちに迫る危機を回避し、安堵の息をついた時、ジャリッと石ではない何かを踏んだ。見ると、それは茶色い陶器の破片だった。他にも葉山くんの体の近くには、養分の多く含んだ黒土や、人が手を加えて育てたと思われる植物の残骸が散らばっていた。
 周囲が嫌に騒がしくなる。ここから比較的近くにいた生徒たちが、この異変に気付き始めたらしい。見渡すと、何人かが僕の上空を見上げて指を差していた。僕はその指の先を辿った。
 僕の真上、校舎の三階から西谷くんがこちらを見下ろしていた。
 西谷くんと僕の視線が空中でぶつかる。距離があり、かつ彼は大きな黒縁眼鏡をかけているのだが、それでも彼の顔から血の気が引いたのがよく分かった。
 目が合ってすぐに、彼は校舎へと体を引っ込めたため、僕からは見えなくなった。校庭の女子生徒の誰かが「逃げた!」と大声で叫んだ。


「僕が逃げた後、どうなった?」
「皆が集まって来て、近くで見てたっていうので僕が先生に呼び出されて、見た事を説明して、それだけ」
「よく、僕がここに隠れてると分かったね」
「来たのは別に、ただ本を返したかったから。それと、君が図書委員の当番をサボる奴だとも思わないし」
「あはは、仕事を全うするつもりでここに来たわけじゃないんだけどな」
 相変わらず彼の笑う箇所はよく分からなかったが、カウンター下でうずくまっていた時よりは、若干回復したようだった。
「僕を、先生のところに連れて行かないのかい」
「今、僕が連れて行かなくても時機に見つかるだろう」
 事件の状況は、大人たちに大体教えてあげた。僕の協力はそれだけで十分だろう。
「葉山くんを殺したかもしれないのに?」
「誰もその瞬間は見てないそうだし、まだ分からないよ」
「ううん、僕が殺したよ」
 さらっと西谷くんが言う。
「......うん。まあそれでも、別にいいや」
 少し間を空けて答えた。ふーんと西谷くんは言った。


「僕が葉山くんたちにいじめられていたのは知っているだろう?」
「ああ」
 西谷くんと葉山くんは、同じクラスだった。時々彼らは集団で図書室にやって来ては、本棚の図書を荒らしたり、勝手にカウンター内に入って西谷くんを小突いたりしていた。また、僕が移動教室で西谷くんたちの教室の前を通る際、教室内で葉山くんらが彼を殴り蹴る光景を見た事もあった。
「彼は僕より明らかに強いし、それに仲間もいる。いじめられるのは嫌だったけど、我慢するしかなかったんだ」
 辛そうに自身の腹部に手を当てる。おそらくその両手の下には、痛々しい痣が残っているのだろう。
「あの時、君が見た通り僕は校舎の三階にいた。それでなんとなく、あそこに置いてあった花を見ていたんだ」
 うちの校舎の三階の廊下は、二階や一階のように室内ではなかった。屋根はあるが壁がなく、空と床との境目には手すりのみが立てられていて、所謂ベランダのような造りをしていた。生徒の胸くらいの高さの手すりは幅が二十センチ程で、その上には美化委員が管理する植物がプランターや植木鉢に入れられ飾られている。きっと、今後そこにそれらが置かれる事は、もう無いのだろうけど。
「そしたらちょうど真下、池の前で見慣れた姿が立っていた。僕の目の前には重そうな植木鉢。あ、これ落としたら死んじゃうんだろうな、て思った」
 何処か上の空の様子で話す西谷くん。彼の中では今、その状況がありありと再現されているのかもしれない。
「......それで殺したのか」
 彼が黙ってしまったため、僕は静かに訊く。彼は宙から僕の方へと目線を移すと、ゆっくりと首を横に振り、困ったような顔で告げた。
「それが僕は、葉山くんを殺そうと思ったことなんて一度もないんだ」


 ―転―

「確かに僕は彼が嫌いだ。蹴ってくるし、殴ってくるし。僕だけじゃなく本まで乱暴に扱うだなんて、本当にひどいと思うよ。
 でもね。だからってそんな簡単に殺したい、なんて想いに直結するもんじゃないんだ。
 暴力を振るわれた後は、痛いなあなんて彼を憎くは思うんだけど、本を読んでいたり君と話していたりすると、大抵いつの間にか彼への気持ちは冷めて何処かへ行ってしまっているんだ。ふふ、こういうところ、人間って本当に単純だよね。
 ところが今ある現実は、いじめっ子の葉山くんをいじめられっ子の僕が殺した、というもの。こんな状況、第三者から見れば僕に殺意があったと当然思うよね。なんなら当の被害者である葉山くんだって、そう思って死んでいったかもしれないくらい。
 だけど僕は、葉山くんに殺意を抱いていない。少なくとも、自分の心情を認識できる限りでは。
 今後のことを考えると頭が痛いよ。思ってもないことを咎められ、思ってもないことに同情され、そして本物とは全く違う僕の内面像ができあがる。実はそれが嫌で、ここに隠れていたっていうのもあるんだ。
 さて、それならば。
 なぜ、僕は彼を殺したんだろう?」


「......君は、どう思う?」
「え、何が」
 ずっと一人喋り続けていた西谷くんに急に振られたため、少し間の抜けた返答をしてしまった。
「僕がなんであんな事をしてしまったのか、君ならどう考えるのかなって」
 そう訊く彼の言葉にはある程度の強さが込められていて、返答をしない、という選択肢が僕にはないのを感じた。
「ん......そんなこと言われてもなあ。僕は葉山くんに植木鉢が激突したところしか見ていないし、第一僕は君ではないから」
 とりあえず自分の考えは置いておき、曖昧な返事をしてみる。すると彼は意外そうな顔をした。
「なんだか君らしくないな。僕が君でないのはもちろん分かっているよ。その上で、君の意見が知りたいんだ。他でもない君からの視点、で」
 どうもわざと答えを濁した事がバレていたようだ。彼の気付きの良さに感心し、なのに何故、彼は葉山くんたちからいじめを受けていたのだろうと心底不思議に思った。
「そうだなあ」
 僕は、椅子に座ったままの彼をカウンター越しに見据えた。彼との距離は、彼に声を掛けられ止まった位置から動いていない。
「先に言わせてもらうけど、これはあくまで僕の考えだし、推論や憶測ばかりだ。真実と全く異なることや傷つくことを言って、君を不快にさせてしまうかもしれない。その時は、遠慮無く話を遮って欲しい」
「分かってる」
 西谷くんも僕に正面を向けた。彼とも彼以外とでも、こうやって真剣に対峙した事は今までにあっただろうか。
 僕は口を開いた。
「西谷くんは、殺すつもりで植木鉢を落とした」
「......葉山くんのこと、無意識に殺したいと思ってたってこと?」
「違う」
 二人の間のしんとした空間を、埃と淀んだ空気が舞う。遠くからは、未だに生徒たちのざわめく音が聞こえてくる。
 僕は結論から述べたい性分だった。
「君は僕を殺すつもりで、誤って葉山くんを殺したんだ」


「話を進めるにあたって、西谷くんは本当に葉山くんのことを殺したいとまでは思っていなかった、というのを前提にしておくよ。
 僕が基本、休み時間に図書室へ来ていることは、図書委員の君はよく知っているよね。それと同時に、いつも休み時間になってすぐに来るわけではない、というのも知っているはずだ。
 そう。あの事件の時、僕には用事があった。今日だけじゃない、毎週決まった曜日に用事があった。それは、飼育委員として鯉に餌をやることだ。
 君には以前、何かの会話の流れで、僕が飼育委員であることを話した覚えがある。もしその会話を君が覚えていなかったとしても、僕が図鑑ばかり借りるような生き物好きである事から想像出来るかもしれないし、クラスメイトから聞いたり実際に餌をやっているのを見たりしたのかもしれない。
 とにかく、君は僕が昼休み始まってすぐに鯉の餌をやる事を知っていたんだ。だから、僕を殺す計画を思いついた。事故を装って、僕の頭をかち割る計画を。
 だけど計画実行の日に限って、誤算が生じた。偶然にも池には僕より先に、葉山くんという来客が訪れていた。
 葉山くんは素行は悪いけど髪を染めてはいないし、異様に背が高かったり筋肉が発達したりはしていない。学ランも、特に派手には気崩していない。ぱっと見、何てことない男子中学生だ  例えば僕のような、ね。
 あと、自分の方を向いていない人を、上から見下ろしているという状況。加えて、あの時何故か葉山くんはいつもつるんでいる人たちと一緒におらず、珍しく一人きりで行動していた。極め付けには何かを池に撒いていた。......結局それが何だったのかは分からないけど、もし有害なモノならざまあみろ、って感じだね。これは僕の感情。
 まあ、以上のことから、君の立場から見て彼は、僕が時間通り餌やりをしているように見えていたんだ。
 ......ああ、もちろん僕は彼のことを詳しくは知らないから、よく知っている人からしたら僕と葉山くんを見間違うなんてしないのかもしれないけど。自分をいじめる人間なんていうのは、危機察知能力から特に敏感になっているものかもしれないし。
 その後は......うん、そのままかな。葉山くんを僕だと勘違いした西谷くんは、目の前の植木鉢を葉山くん目掛けて故意に落とした。見事命中。しかし校舎の影からもう一人、似たような姿の生徒が現れる。その生徒が自分を見上げた時、君は悟ったんだ。間違えた、って」


 ―結―

「当たり」
 パチパチパチ。
 彼の乾いた拍手が、軽く空間にこだまする。
「まったくすごいなあ、君は。ちなみに決め手はなんだった?」
「西谷くんの、僕への憎悪かな」
 特に胸がつまる事もなく、さらりと言葉が出た。
 先程彼は、本を読んだり僕と話したりするうちに、葉山くんへの気持ちが収まると言っていた。好きなもので気を紛らわす。より憎いもので上書きをする。対処の仕方は複数あるものだ。
「気づいていたんだね」
「少なくとも好意的には思っていないな、と」
 僕に向けられる、色の無い瞳を見ながら答える。
「でも、君との楽しかったよ」
「はは、変わってる」
 西谷くんのその笑いは、よく見る力無き様子ではなく、吹っ切れた顔をしていた。もしかすると、僕の前ではずっと繕っていたのかもしれない。
「君なら当てられると思ったよ。もし見当違いなこと言ってたら、殺してたかも」
「じゃあ今は殺さないんだ?」
「え、殺してもいいの?」
「よくないよ」
「残念」
 僕の当たり前の返事に、彼はまた可笑しそうに笑った。今日は彼の笑顔をよく見ている気がする。
「僕に殺意を抱く理由は、何?」
 僕が彼に殺意を抱かせるような言動をしていたならば、謝りたいと思った。直せるようなものならば直したいとも思った。
「理由なんてないよ」
 彼の答えは、どちらもできないものだった。
「実は僕も、君と話すのは楽しいと思っているんだ。その上で君に殺意がある。不思議だね、葉山くんになくて君にあるなんて。殺意ってきっと、好き嫌いよりももっと奥が深い、簡単には説明できないものなんだよ」
 僕は今まで殺意を抱いた事がない。だから、本物の殺意を持つ人の心情は理解できなかった。いつか僕が殺意を抱く時、彼の言う事が理解できる日が来るのだろうか。
「僕は君を殺したい。それだけだ」
 僕の目を見て、そう宣言する彼。おそらく彼自身、自分の中に存在する様々な感情について、辻褄が合うように何度も何度も考えた上での、現時点での結論なのだろう。
「うん、分かった。殺されるのはごめんだけど、分かったよ」
 日差しにより暖められた埃っぽい空間の中で、僕ら以外には通じない会話をして、僕らだけ笑った。
「で、西谷くんはこれからどうするつもりなの」
 とっくに昼休みは終わっているというのに、学校中はいつまで経っても静まる様子はなかった。まだ緊急職員会議が続いているのか、誰も図書室に探しには来ないままだった。だが、それも時間の問題だろう。
「そうだなあ」
 西谷くんが上を向いてしばし思案する。それから決意したように、ずっと腰掛けていた椅子から立ち上がる。
「とりあえず、逃げようかな」
「そうか」
 たかが中学生が大人や世間の目を掻い潜り、容易く逃げ切れるなんてそんな甘い考えは、僕も彼も持っていない。それでも、それ以上深く追及する事はお互いしなかった。
 彼が入口に向かってゆっくり歩く。扉付近に立つ僕との距離が縮まっていく。
「またね」
「殺そうとしている相手にまた会ってくれるんだ」
「君と話すのは楽しいから」
 今度は僕が先に笑った。彼も笑顔で返してくれた。
「分かった。次も殺すのに失敗したら、その時は話そうか」
「約束だよ」
「約束だ」
 約束、と言葉を発した際、彼は最後に僕を見た。その瞳にはやはり色が無かった。
 一定の速度を保ったまま僕の脇を通り過ぎ、入口の扉を静かに開け、西谷くんは出ていった。遠ざかっていく彼の足音は、見つかる事に怯えるような弱々しいものではなく、ただいつもみたいに学校から帰るだけのような何の変哲もないものだった。
 彼が去ってしばらくしてから、僕も図書室を出た。来た時とは何も、変わらなかった。


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