Hymn

上田椿


 
 ガラスの自動ドアが開くと同時に足を踏み出すと、湿った雑巾のような匂いが鼻腔を刺激した。正面には男子トイレの青いマークが見え、左手には「軽音ROCK」と書かれた重そうなドアがあり、エレキギターのくぐもった音色が聞こえてくる。初めて足を踏み入れる場所であるため、あちらこちらに視線が泳いだ。トイレの横に錆び付いた棚があり、そこには何冊かの冊子とチラシが無造作に置かれている。その内の一冊を手に取りパラパラと眺めてみたものの、特に目ぼしい情報は無い。
 少し乱雑に冊子を戻し、奥へ進むと右手に階段が見えた。春の雨から生まれた無数の靴跡がリノリウムの床に光っている。
 スニーカーできゅっきゅっと高い音を立てながら階段を昇ると、踊り場の掲示板にポスターが貼ってあるのが目に入った。『我が闘争』という題目で、ちょび髭の男が右手を高々と挙げているデザインのポスターだ。どういう内容かは皆目分からないが、右下の検閲済の印が僕の興味を剥ぎ取った。
 ここには文科系の多様な部活や研究会があるようだ。階段を昇るにつれて目に入る様々な掲示物でそれが分かる。演劇部、軽音部、漫画研究会にアイマス研究会などなど。
 これだけ色々な団体があるにも関わらず、僕はそのどれにも所属したいとは思わなかった。活動内容に興味を持てなかったし、組織内での人付き合いはひどく億劫だ。
 目的の部室がある三階まで上がると日頃の運動不足が祟って足腰が悲鳴を上げていた。祖父の話によると階段から廊下を右手に進んで突き当りの部屋が目的地らしい。廊下を進むと左手に並んでいるドアのひとつが半開きになっていて、将棋を指している学生の姿がちらりと見えた。落語研究会の扉を通り過ぎ、もうひとつ扉を過ぎると、目的の部屋に辿り着いた。中の様子が見えない程度に薄く開いたドアの上には『公文書研究会』と書かれた札が掛かっている。
 冷たい鉄の扉を手の甲でノックすると「どうぞ」というくぐもった女性の声が聞こえた。おそるおそるドア開けると、縦に長い畳張りの部屋が目の前に広がった。部屋の中央には木製のこたつ机が二台並んでいて、その奥にはテレビがある。僕から見て部屋の左側は背の高い本棚が隣の部屋との仕切り代わりに設置されている。棚にぎっしりと詰められた本はすべて背表紙が真っ白で、病院の壁のような印象を受けた。
 しばらく部屋の観察に心を奪われていると、「どうぞあがってください」と手前のこたつ机に正座している女性に促された。彼女は黒髪のショートボブで縁なしの眼鏡をかけており知的な雰囲気を醸し出している。僕はいそいそと靴を脱ぎ畳の上にあがった。イグサの柔らかい感触が靴下越しに足を包む。
「新入生の方ですか」
 女性は背筋をピンと張ったままで僕に尋ねた。僕は机を挟んだ彼女の正面に腰を下ろしつつ「一応、そうです」と言葉を濁した。
「一応」
 そう彼女が小首をかしげる。縁なしのレンズが光を反射した。
「実は祖父の忘れ物を取りに来たんです」
 入部希望者だと勘違いされるとお互いにとって面倒だと思ったので、僕は早々に用件を伝えた。
 僕の祖父は心筋梗塞で倒れ、現在寝たきりになっている。その祖父がうまく動かない舌で「大学の部室に忘れ物をしたから取りに行ってほしいという旨を、今年の春から祖父と同じ大学に通うことになった僕に伝えた。いつ息絶えるとも知れない祖父の頼みを断ることはできず、僕はその頼みを引き受けることにしたのだ。
 用件を伝えると彼女は表情を変えずに「忘れ物とはなんですか」という問いを口にした。
「さわらび、という部誌です」
 さわらび、と彼女はワインを舌で転がすように発音した。そして首を横に振る。
「聞いたこともありませんね」
 そうですか、僕の声は力なく途切れた。入口の『公文書研究会』という札を見たときから薄々勘付いてはいたが、ここにはもう文芸部時代の部誌は現存していないようだ。
「さわらびにはどんな情報が掲載されていたのですか」彼女が尋ねる。
「さわらびは公文書ではなく文芸誌なんです」
 まあ、という風に彼女が白い指を口元にあてた。「文芸って、あの」と周りを気にする素振りを見せながら息を漏らすようにして囁く。
 
 
 二十年前の『大検閲』を機に文芸活動は全面的に禁止された。出版の自由は国民から剥奪され、政府の発行する公文書だけが「本」として発行されるようになった。この部屋の本棚一面を占めている純白の背表紙はすべてその公文書だ。
 もちろん大学の文芸部なども廃止され、そこで発行された部誌は検閲の際に焼却されたことだろう。その当時、文芸に関わっていた人々の悲痛がどのようなものだったか、僕には知る由もない。というのは『大検閲』が僕の出生以前に起きた事だからではなく、生まれてこの方文芸というものに触れたことがないからだ。文芸を知らぬ者が文芸の消失を嘆くことはできない。


「私は本が好きでここに入ったんですが、元々は文芸部だったなんて。初めて知りました」
 彼女は文芸という言葉を聞いて俄然興味が湧いてきたようだった。僕も公文書というものを読んだことはあるが、政府の収支や施策の状況などがつらつらと書き連ねられているだけのつまらない文章に辟易した記憶しかない。あんなものを好き好んで読むのは相当な活字中毒者くらいだろう。
 彼女はおずおずといった感じで「さっきのことなんですけど」と切り出した。
「私もここに来てまだ一年で、部屋のどこになにがあるのかを正確に把握できてはいない状況です。なので探せば部屋のどこかに、そのさわらびという部誌があるかもしれません」
 彼女はデスクトップの横にあるごみごみした引き出しの群れや、玄関の横にある古びたロッカーに目をやる。「探してみましょう」そう言った彼女の眼鏡の奥に光が宿った気がした。


「ありませんね。どこにも」
 白い丸襟のブラウスについたホコリを手で払いながら彼女が溜息を吐いた。キャメルのフレアスカートの裾がゆらゆらと揺れる。部屋中をひっくり返してもさわらびのさの字も見つからず、出てくるのはインクの空箱や使用済みの乾電池などのガラクタばかりだった。
 失意の中で二人して座り込んでいると、しばらくして彼女が口を開いた。
「文芸部って、どんな部活だったんでしょうね」
 文芸活動をする部活でしょう、と今の僕にはそんな返答しかできない。祖父から部活の話など聞いたこともないし、文芸部に所属していたという事実もこの件で初めて知ったことだ。
「文芸活動とは基本的に一人でするものではないのでしょうか。部活として寄り集まって活動することに何か意味があるんでしょうか」
 おそらく彼女は答えが欲しくて僕に尋ねてるのではなく、自分の中で判然としないものを口に出すことで理解しようと努めているのだろう。
「多分、みんなで作品を読み合って意見を出し合うことでお互いを高めていたんでしょう」僕は当たり障りのない答えを言った。
 なるほど、と彼女は言ったもののどこか納得いかない様子で首をかしげていた。ついでに言うと僕も自分の言葉に納得などしていなかった。なぜなら僕は文芸活動をしたことがないからだ。さっき言ったようなことで作品の質が高められるかどうかなど分かるはずもない。創作のやり方など人それぞれなのだから集まったところで意味などない、そういう気持ちもあった。

 いつの間にか日が落ちてきて曇りガラスから見える外の景色がぼんやりと橙色に染まってきた。彼女は大きなあくびをして目に涙を浮かべている。
 さわらびが無いのなら仕方がない。そろそろお暇しようと立ち上がったとき、彼女が人差し指を立てて僕の動きを止めた。祖父がこっそり見せてくれたドラマに出てくる、「最後にひとつだけ」と人差し指を立てて振り向く刑事のような貫禄がある。
「あなたのおじい様は頼みごとをするとき他に何かおっしゃっていませんでしたか」
「別になにも。自分が最後に書いた作品が載っているさわらびを取ってきてくれとだけ。ああ、その後でなめこが食べたいなんて言い出しましたけどね」
「なめこですって」彼女が急に立ち上がった。縁なしの眼鏡が照明の光を反射する。
「ええ、それを聞いた母がなめこの味噌汁を持って行ったら食べようともしないのでカンカンでしたよ」
 彼女はさっき立ち上がったと思ったら今度は勢いよくしゃがみ込み、足元から白と茶色のクッションを取り出し、僕の鼻先に突き付けた。
「なめこ」
 たしかによく見るとそれはなめこを模したキャラクターのぬいぐるみだった。今まで彼女の下敷きになっていたせいか少しやつれて見える。「それがどうしたんですか」と僕は尋ねた。
「まだ分からないの。あなたのおじい様は『なめこが食べたい』じゃなくて『なめこが食べた』って言ったのよ」
「は?」思わず発した僕の侮蔑的な響きのこもった一音を気にも留めず、彼女はなめこをもにゅもにゅと揉みしだき始めた。
「中になにかある」
 言うが早いか彼女は機械の骸骨のような趣味の悪い小物入れからハサミを取り出し、なめこの頭部をざくざくと切り開いていく。僕はその異様な光景を茫然と見ているしかない。
「あったわ」
 外科医の摘出手術よろしく細心の注意を払って取り出されたそれは、上下巻の冊子だった。表紙には正月らしい可愛いイラストと『さわらび 巻の百十七』という文字がはっきりと印刷されている。
「きっとおじい様が後輩か誰かに隠してもらっていたのよ」
 彼女は目から涎が出ているんじゃないかと思うほど潤んだ瞳で、手にしたさわらびをうっとりと見つめている。僕らは何も言わず、座って冊子を開いた。

 さわらび、それは僕たちが初めて目にする文芸誌だった。僕たちは肩を寄せ合って貪るように読み、ページをめくった。純文学、詩、SF、ミステリー、ホラー、ハートフルなものからグロテスクなもの、道徳的な話から不道徳的な話まで、様々な物語がその小さな冊子に詰まっていた。ひとつとして同じもののない作品たちが僕たちを飽きることのない世界に連れて行ってくれた。僕たちにとってはそのどれもが新鮮で、ひとつひとつの物語が終わっていくのが寂しいような気さえもした。
 
 編集後記を読み終え、さわらびを閉じたとき、二人とも大きく息を吐き出した。文芸部が存在していた頃から今までの長い旅路を終えたかのような、そんな心地よい疲労感があった。

「なんで集まって文芸活動をしていたのか、分かった気がします」
 僕が靴を履いて帰ろうというときに、彼女がぽつりと言った。「なんでですか」と聞くと彼女はにこりと笑った。
「それは言いませんけど。でもあなたが言った理由よりもっと単純で、美しいものだと思います」
 彼女の言わんとしていることは分かったが、残念ながら僕にはそれを美しいと思える感受性が備わっていなかった。人間関係に美しさを見出すことなんて到底できない。
 それでも、僕はそれを美しいと思える彼女をとても綺麗だと思った。
 そういえば彼女の名前を聞いていない。ドアノブに手を掛けたままの姿勢で問うた。
「立花です。立花咲」
 僕はひとつ頷き、部室を後にした。文芸や「さわらび」がなければ彼女の名を知ることもなかったのだろうか。そんなことを思いながら見上げる夜空は、いつもより広大で、星に手を伸ばしたくなった。

※

 後輩から新しいさわらびが送られてきたので、祖父の仏壇にお供えすることにした。百十七巻の隣には僕と咲さんが初めて製作した薄っぺらいさわらびが並んでいる。巻を重ねるにつれて部員の数とともに作品の数も増えていき、今では百十七巻と比べても遜色のない分厚さだ。
 黄色やピンク、水色などのカラフルな表紙に彩られたさわらびの隣で、祖父は今日も静かに微笑んでいる。

                       了


 
 
 


さわらび117へ戻る
さわらびへ戻る
戻る