「十年家族旅行」

みのあおば








 僕が目覚めたのはいつもの寝室、いつものベッドの上だった。目覚まし時計の音で目を覚まし、リビングへと向かう。

「おはよう、裕也。ごはんできてるわよ」

 パジャマの上にエプロンを着た母さんは、僕に真顔でそう言った。

「母さん、おはよう」

 僕は席に着き、食卓に目を遣る。茶碗に盛られたお米がおいしそうだ。

 階段を降りてくる音がする。この軽快な足音から察するに、弟の雅人だろう。

「おはよう」

 パジャマ姿の雅人は、ぼんやりと目を擦りながら真顔でそう言った。

「おはよう、雅人。ごはんできてるわよ」

「ありがとう、お母さん」

 雅人はそう言って僕の正面の席に着いた。味噌汁のお椀から立ち上る湯気が、真顔でいるであろう雅人の顔を隠していた。

 お風呂場のドアが開く音がした。いつも通り、父さんが出勤前の朝風呂に入っていたのだろう。おそらく今は、真顔で身体を拭いているに違いない。

 雅人が豆腐を食べながら話しかけてくる。

「お兄ちゃん、今日も一緒に学校行く?」

 僕は真顔で米を噛む。米を飲み込んですぐ答える。

「うん、一緒に行こう」

「ありがとう」

 雅人は味噌汁を飲んだ。お椀を机に置いた。その眼鏡は、曇っていた。

 僕と雅人が家を出る頃、父さんはスーツを着て、黙々と卵焼きを食べていた。母さんも一緒に席に着き、ヨーグルトを口に運んでいる。

 僕と雅人は父さんと母さんに声をかけた。

「行ってきます」

「行ってきます」

 僕は真顔だ。

「行ってらっしゃい」

「行ってらっしゃい」

 母さんは真顔だろうし、父さんもおそらく真顔だろう。

 僕たち二人は両親の返事を聞き届けた後、玄関の扉を開き、火星の大地に踏み出した。





 火星の重力は地球のおよそ三分の一だが、月と比べるとおよそ二倍もある。だから、月ほどふわふわするわけではないけど、地球よりはよっぽど浮遊感がある。

 火星移住プロジェクト第三期生の「家族枠」に当せんしたと知ったときは、家族一同喜んだ。学校のみんなも、僕が選ばれたと知ってからは興奮しきりで、上の学年から下の学年までこぞって僕に会いに来た。あまりに騒ぎが大きくなって授業が成り立たなくなったため、僕は火星への出発日まで休学することとなった。

 でも、中学生に教育を与えるのは大人の義務だそうで、結局火星に来てからも勉強は続けることになった。火星での学校は小中一貫で、総生徒数は二人。僕と雅人の二人だけだ。先生もたったの一人で、アメリカからやって来たデイビスという男の人だ。デイビスは肌が黒いからたぶん黒人で、英語と数学だけを教えてくれる。国語と社会は自分たちで勉強して、デイビスはそれを見守ってくれる。彼の趣味は筋トレで、暇さえあれば腹筋やダンベル体操をしている。これには意味があって、火星など重力の弱い環境では筋力が衰えていく一方なので、地球に帰還してからもちゃんと活動できるように、体力と筋力を維持しておくことは重要なのだ。

 しかし筋トレについては、僕と雅人は端から諦めている。帰星したときに寝たきりになっちゃうって脅かされるけど、どうせ帰るのなんて十年も後のことだ。十年後のために今から辛い思いを重ねるなんて、僕たち兄弟にとって続けることはできなかった。

 そもそもこのプロジェクトに応募したのだって、父さんと母さんが勝手にやったようなものだ。そりゃあ最初は僕と雅人だって応募には賛成していたけど、実際に当せんが決まり、移住の一週間も前になると、クラスのみんなと会えなくなるのが寂しくて仕方がなかった。

 今頃、地球のみんなは何をしているだろう。中学校では、そろそろ合唱コンクールの時期じゃないかな。いいな、みんなで声を合わせて歌を歌えるんだ。ピアノと指揮に合わせて、お客さんの注目を浴びながら壇上で混声を奏でるんだろうな。

 僕は、帰星したとき歌を歌うことができるんだろうか。たしか喉も筋肉で動かしているんじゃなかったか。火星の重力に慣れたせいで、地球に帰ったときしゃべれなかったらどうしよう。口も聞けないし、歩くこともできないかもしれない。手も動かせなくなってて、なんなら目を動かすことさえもできなくなっているんじゃないかな。それって、生きていると言えるんだろうか。

 やっぱり、僕は火星に来たことで、死んでしまったんだろうか。......いいや、まだ死んではいない。火星にいる限りは大丈夫だ。地球に帰りさえしなければ、僕らは生きていられる。

 あと十年間、ずっとこの生活を続けるんだ。代り映えのしない毎日に、家族はみな表情を失いつつあるというのに。雅人は、希望を持てているのかな。

「雅人、地球に帰ったら何がしたい?」

 僕は真顔で訊ねた。

「地球に帰ったらって、十年後?」

「そう。地球に帰る頃、雅人は二十歳になるだろう。なにか、やりたいこととかあるのかなって」

 雅人はまだ五年生だ。大きくなったら、何をしたいんだろう。

 少し歩いてから、雅人は答えた。

「僕は、みんなとサッカーがしたいかな。あと、修学旅行に行ってみたい。海に泳ぎにも行ってみたい」

 僕は真顔で聞き届けた。そう言えば、雅人はサッカーが好きだったっけ。クラブに入っているとか、得意だとか言うわけではないけれど、地球にいる頃は公園とかでよくボールを蹴って遊んだなあ、と思い出す。

「サッカー、できるといいな」

「うん、お兄ちゃんも絶対やろう」

   もちろん、と言いたいところだけど、地球に帰ったときには筋力が激しく衰えているはずだ。サッカーはおろか、歩くことさえままならないかもしれない。それに、十年も先のことだ。今の学校の友だちが十年後も友だちでいてくれるとは限らないし、もし友だちが残っていたとしても、二十歳にもなって公園でサッカーに付き合ってくれたりするだろうか。

 雅人の願いを、今の内から叶えてあげられたらなと思う。でも、まずここにはサッカーボールがないし、あってもふわふわ飛んでやりづらいだろう。それはそれで楽しいかも知れないけれど、人数が全然いないから、きっと寂しくてつまらなくなるに違いないや。

「雅人。地球に帰ってからも、動けてるといいな。最初は駄目でも、何とか回復していったらいいけど......」

「え、なんて?」

 声が小さすぎて聞き取れなかったようだ。

「いや、なんでもない」

 歩いているうちに、僕らは学校へ着いた。家から少し離れたところに設置された学校施設。デイビスは今日も来ているんだろうか。僕たちに勉強を教えるためだけに。こんな単調な日々のために  。

 建物に入る直前、僕は空を見上げた。大気を閉じ込めるために建設された居住用火星ドーム。真っ白な天井がどこまでも続く中で、ときおり設置された天窓から外の景色が覗く。そこに広がるのは、雲を浮かべた青い空なんかじゃなくて、全てを飲み込んでしまいそうな真っ暗闇の宇宙だ。

 この巨大な部屋の中で、僕らはあと十年過ごすんだろうなあ。雅人とデイビスと、父さんと母さんとで。

「ねえ、お兄ちゃん。何見てるの」

 雅人が問いかけてくる。

「うん。天井見てた」

「ふうん。ねえ、お兄ちゃんは地球に帰ったら、何したいの?」

 僕のさっきした質問を、雅人が返して来てくれた。

「そうだね。僕は」

 僕は  。地球に帰ったせいなんかで、死ぬわけにはいかない。雅人と、家族たちと、ご飯を食べて、学校に通って、当たり前の生活を続けていたいんだ。

「僕は  地球には帰らないよ。ここに居れば、嫌なことなんて何もない。ずっと母さんたちと安心して暮らせる。これ以上望むことなんて何もないんだ」

「え、お兄ちゃん、地球帰らないの?」

 雅人は驚いた様子だ。でも、しょうがないだろう。宇宙空間にいる限り、筋力は衰えていくばかりだし、火星でやっていることと言えば、食事・睡眠といった人間としての基礎的な生活と、登校・勉強・帰宅という、中学生として必要最低限か、それ以下の学生生活のみだ。学校行事もなければ、部活も委員会活動もない。一緒に遊ぶ友だちもいないし、もちろん喧嘩する友だちだっていない。そんな環境で、同じような毎日を繰り返していて、僕らは本当に成長することができるんだろうか。僕たちは十年後帰星したとき、地球の子たちと比べて、人間として圧倒的な成長の差を突きつけられることになるんじゃないだろうか。不安だ。

「雅人は、毎日退屈じゃないのか?」

「退屈? 別に、退屈じゃないよ」

「そうなのか」

「だって、ここ火星だもん」

 そっか。雅人にとっては、火星に生きてること自体が、おもしろいってことかな。

「地球に帰ったら、火星の話をみんなに自慢したいんだ。逆に、地球で何があったのかみんなの話も聞きたいよ。だから、毎日ワクワクして過ごしてる」

 それは、すごいな。毎日ワクワクしているのか。

「雅人はいいな。兄ちゃんは、ずっと退屈だよ」

 僕と雅人はほぼ変わらないような毎日を送っていると思っていたのに。雅人だけワクワクしてるなんてなあ。

「お兄ちゃんだって、つまらないなら、もっとおもしろいことしたらいいじゃん」

「おもしろいこと、か」

 今までは、火星には友だちがいないだとか、娯楽がないだとか、ないものばかりを気にしていたけれど、そろそろ視点を切り替えた方がいいのかもしれない。

 雅人が問いかけてくる。

「それじゃあ何する? 鬼ごっこ? トランプ?」

「う~ん」

 鬼ごっこは、二人だと単なる追いかけっこになってしまうし......。デイビス入れたら三人だけど、身体能力に差がありすぎて遊びにならないだろう。

 トランプは、二人でもできる楽しいゲームってあるかな。また家に帰ったら探してみよう。もしなかったとしても、紙を切ったりして自分たちで作ればいいや。

「今日はひとまず、学校に行こう。帰り道で、またおもしろいことを考えようか」

「うん、そうだね。それに勉強もたまにおもしろいときある気がする」

 楽観的だなあ。何でも楽しく捉えられる雅人の世界観は、今後僕にとって希望そのものとなっていくんじゃないだろうか。そんな予感がしている  。



◇



〈  三年後  〉

 僕が高校二年生になり、雅人が中学二年生に上がった頃、雅人はグレ始めていた。

「おはよう、裕也。おはよう、雅人。ごはんできてるわよ」

「おはよう、母さん。それじゃあいただきます」

 僕は席について、食事を始める。向かいの席に座った雅人は、なぜか箸を手に取らない。

「おふくろぉ。毎日同じようなごはんばっか、食ってられるかよ。俺、ピザが食いたい。配達ピザが食いてえなあ」

「火星に配達ピザなんかあるわけないでしょ? ピザなら今晩作ってあげるから、文句言わないで朝ごはん食べなさい」

「はあ? 俺は朝食に配達ピザが食べたいんだよ。地球では、『モーニング・ピザ』っていうのが流行ってるんだぜ? 朝からごはんとみそ汁なんて、もう古いんだよ」

 雅人はSNSという地球との通信手段を手に入れてからというものの、すっかり地球の友だちに影響され始めてしまった。おそらく、地球の流行に乗り遅れるのが怖いのだろう。帰星したときに「お前、まだそんなことやってんの?」と言われることのないよう、ここの所もっぱら情報収集に熱を上げているようだ。

「雅人、それじゃあ兄ちゃんと一緒に配達ピザ始めるか? 材料を調達して、調理場も借りて、連絡が入ったら配達するんだ。きっと、デイビスも喜んでくれる」

「あぁ? なんでデイビスにピザ配達しないといけないんだよ。ピザは筋肉に悪いとか言って、どうせ食いやしねえよ」

 デイビスもそんなことは言わないだろうと思う。「チーズなんか食べてると筋肉が鈍る」という通説を今どき信じている人がいるだろうか。火星にずっといて、新しい情報から遮断されていればあるいは......? まさか。僕たちの唯一の教員であるデイビスがもし古い情報しか持っていなかったら、教育内容は恐ろしいほど偏ったものになってしまうだろう。そんなことはないはずだと信じている。しかし、少し不安なので本人に確かめてみようかな。

「今日は一緒に学校行くか?」

「行かねえよ。いつまでも兄弟一緒に仲良く登校とか、兄ちゃんは恥ずかしくねえの?」

 別に恥ずかしくはないかな......。誰も見てないし。デイビス以外には、誰も。

「それより今日こそ付いて来るんじゃねえぞ。いっつも同じ時間に出やがって......。そのせいで、まるで俺が兄ちゃんと一緒に登校してるみたいじゃねえか」

「うん、一緒に登校しているんだよ。何を、偶然同じ時間に登校しているだけかのように語っているんだ」

「......うっせえ」

 しかし、確かに言われてみればそうだ。ある二人の人間が同じ時間に登校しているからと言って、その二人が必ずしも「一緒に登校している」ことになるとは限らないだろう。まったくの他人が同じ時間に同じ通学路を歩いていたとしても、「一緒に登校している」とは言い難い。しかし、仲のいい二人が待ち合わせをした上で同じ時間に同じ通学路を登校していたとすれば、それがたとえ一度も会話をしないような時間だったとしても「一緒に登校していた」ということになるだろう。

 『同じ時間に同じ通学路を登校する』というのは、「一緒に登校する」ことの必要条件だとは思うが、十分条件とは言えなさそうだ。では、他にどのような条件を満たせば十分だろうか。やはり、『「一緒に登校している」と両者が合意している場合』だろうか? これはおそらく重要な観点だ。果たしてこの二つの条件のみで十分なのかはまだ分からないが、ひとまず『両者の合意』という条件は、あまり軽んじられない気がする。

「雅人、やっぱり雅人が『一緒に登校している』と認めない限り、僕たちは一緒に登校しているとは言えないかもしれない」

「おお? 急にどうしたんだよ。俺は認めちゃいねえが、同じ時間に家を出てるんだから、『一緒に登校してる』って言うことはできると思うが  」

 なんだよ、雅人にとってはその条件だけで十分なのかよ。

 グレてからの雅人はいつもこうだ。僕たちが言ったことを素直には受け取らず、期待したリアクションと必ず反対のことを言う。だから、雅人と話していると刺激が絶えない。

 「Aだよね?」と問えば「Aだ」と答え、「Bだよね?」と問えば「Bだ」と答えるような人は、円滑な会話が実現できるからとても素晴らしいと思うけれど、「驚き」を提供してくれることはあまりないと言える。

 一方で、雅人のような「あまのじゃく」は、「Aだよね?」と問えば「Aではない」、あるいは「Aではなく、Bだ」と返して来るため、質問を投げかけた側である僕たちは「Aじゃない可能性があったのか」、「では逆に、どうすればAでありうるのだろう」と考察を迫られることになる。

 代り映えなく単調に続くかに思われた、火星で過ごすこの十年という期間が、反抗期に突入した雅人という存在によって今や刺激の絶えない充実の日々となりつつある。

 何でもひねくれて捉えられる雅人の世界観は、今後僕にとって毎日の希望そのものとなっていくんじゃないだろうか。そんな予感がしている  。



◇



〈  四年後  〉

 雅人が急に真面目になった。地球のみんなが受験期に入り、彼も影響を受けたようだ。

 僕は大学三年生。今は火星の大学に通っており、デイビス教授のもとで物理学について研究している。

「裕也、雅人、ごはんよ~」

 気づけばもう、家族みんなが表情を取り戻していた。





   変わったようで変わらない、単調なようで刺激的、そんな僕たち家族の日常はたとえ住む星がどこであろうとも、ずっと変わらず続いていく  。





おわり



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