魔法少女学校の異端者(4)

水原ユキル




水原ユキル







 魔法少女は無敵だ。

 正義の心さえあれば、守りたいと思うものがあればどんな困難だって怖くない。

 一人では無理でも、仲間と共にいれば、何でもできる。

   そう、信じていた。

 戦える魔法少女  魔法戦士をある理由により引退した山県実歩は、魔法少女とは関係のない平穏な人生を歩もうとしていた。

 だが"元"最強の魔法戦士であった彼女は未熟な後輩の魔法少女の指導員として雇われてしまう。不本意ながらも魔法少女学校の職員に採用された実歩。しかし、そんな彼女の担当する少女たちはあまりにも魔法少女らしくない魔法少女たちで   ?









〇前回までのあらすじ

 実歩はかつて自分が助けた少女・励菜のギルド【スパシャン】の面々に対面する。明るいが実力の低い励菜。実力は高いが臆病な優。マイペースで珍しい能力を使うマリン。そして、実歩の同級生でありギルドのマネージャーである夢果。

 実力も個性もバラバラなギルドを担当することになり、戸惑いを隠せない実歩。しかし、想力以外では非常に高い身体能力を見せた励菜に実歩は驚かされる。

 大きな可能性を秘めているギルドだと思い、彼女たちの指導を受け持つことを楽しみに感じ始めた。

 だが、実歩はかつての過ちに苦しめられていた。



〇用語解説



想力(イマジン)      魔法少女のエネルギーであり、異能であるスキルを発動させるための源。これらに適性を示さない者は魔法少女になることは絶対に不可能である。



戦闘魔装(コスチュームデバイス)    対となるトランスフォンを起動させることにより、召喚できる衣装。魔法少女はこれを身に纏うことにより、変身前とは比較にならないほどの戦闘力を発揮できる。



トランスフォン 戦闘魔装を呼び出すために必要なスマートフォン型端末。魔法少女となる者はまず、これを使いこなせるようにならなければその資格を得ることはできない



魔法少女    想力に適性を持ち、戦闘魔装を身に纏いスキルを操る特異存在。上位クラスの者になると個人固有の武装である想力援(ブースタ)具(ー)を召喚し、より高度なスキルを発動できる。



魔法戦士    魔法少女の中でも特に強い戦闘力を発揮でき、魔法少女学校を卒業した者に与えられる資格。



ランク     魔法少女としての強さを表す指標。最高はS、最低はE。大半はDランクであり、全体の七割を占める。想力援具を呼び出すには最低でもCランク以上の力が必要とされる。攻撃力、防御力、想力量、魔法力、敏捷性などのステータスも参照し総合的に判断する。



GI     『ギルド』と呼ばれる魔法少女グループの指導員。ギルドインストラクターの略。



GM     ギルドマネージャーの通称。GIが元魔法少女の職員が受け持つことが多いのに対し、GMは一般人職員の担当が多い。主にギルドの補助的な役割を担う。



〇登場人物



山県(やまがた)実(み)歩(ほ)    二十歳。元最強魔法少女。今は引退。魔法少女に変身することを嫌がっている。童顔であるためスーツが似合わない。腰まで届くようなチェリーピンクの髪とスカイブルーの瞳が印象的。

童顔には似合わないクールな口調で 話す。国立大学に進学し、魔法少女に縁のない人生を送ろうとしたが、魔法少女としての適性の高さから魔法少女の指導者に抜擢され、魔法少女の指導を不本意ながら請け負う。



池内(いけうち)励(れい)菜(な)    十四歳。ランクはE。魔法少女らしく明るい性格をしているが、想力の適性があまりに低く周囲から「落ちこぼれ」と揶揄される。セミロングの薄い茶色の髪にくりくりとした瞳が特徴。



妹尾(せのお)優(ゆう)     長く、淡い青髪と自信なさげなたれ目をした女の子。十四歳。励菜と比べるとおどおどした性格が目立つが、数値上の実力はトップクラス。遠距離攻撃を得意としている。



月(やま)見里(なし)マリン  十四歳。パーマのかかったふわふわとした金髪を肩まで伸ばした少女。可愛らしい容姿に反し、表情に乏しく、何を考えているか読みづらい。毒を主体にした戦法が得意。



平松夢果(ひらまつゆめか)    ギルドのマネージャー。二十歳。ウェーブのかかった明るめの茶色の髪を後ろで束ねている。不真面目そうな外見だが、世話好きで人当たりの良い性格。楽しいことが好き。実歩とは高校からの同級生であり、良き理解者。

   

藤堂(とうどう)勇(ゆう)我(が)    励菜たちの通う飛翔学園の理事長。三十代程度の男性。強面だが不当な扱いを受ける低ランク魔法少女や闇の魔法少女へ理解を示している。



第三章 想いを力に



1



 山県実歩、白神(しらかみ)星(せい)羅(ら)、美作(みまさか)穂(ほ)菜(な)美(み)は小学校に入る前からの幼馴染みだった。三人とも魔法少女に憧れているという共通点があり、それは小学校、中学校と上がっていってからも変わらなかった。周りの者が「魔法少女なんてダサい」と切り捨てる中、三人は魔法少女を好きであり続けた。

 淑やかで成績優秀な星羅、優しくて気配りのできる穂菜美は実歩の良き理解者であった。三人の心を掴んで離さなかったのは魔法少女アニメ『スターライトガール』シリーズだった。悪と戦う少女たちの勇姿に、実歩たち三人  特に実歩は虜になっていた。

   わたしもいつか魔法少女になりたいな。

 小学校のいつからか実歩はそう思うようになった。他の同級生に話したら一笑に付されるだけだろうが、星羅と穂菜美は微笑みながら「なれるといいね」と言ってくれた。

 当時の彼女たちは知る由もなかったが、実は想力の研究は秘密裏で着々と行われていた。だが、魔法少女学校制度が定める前であったため、その研究が日の目を見ることはなかった。

 実歩、星羅、穂菜美という最高の適合者が現れるまでは。

 実歩たちが中学校に進学してからのある日。実歩が『スターライトガール』シリーズのハンカチを使っていると、クラスの男子にからかわれた。この男子は背が高く、先生に反抗的な態度を取る、実歩が苦手としていた人間だった。男子としてはほんの軽口のつもりだったのだろうが、実歩はかっとなった。憧れの魔法少女を馬鹿にされるのは、自分が馬鹿にされる以上に腹が立った。思わず実歩は男子の胸倉に掴みかかっていた。だが、平凡な女子生徒でしかなかった実歩が敵うわけがなく、雑にあしらわれただけで終わった。自分の無力を痛感した瞬間だった。

 その夜。帰宅した実歩は悔しさのあまり自室で泣いていた。八つ当たりだとわかっていながらも枕やベッドを殴るのを止められなかった。

 実歩は男子に負けた悔しさだけで泣いたわけではなかった。日頃の朧げな不満が爆発したのだ。頭脳明晰な星羅や、誰にでも友好的な穂菜美に比べると、実歩は明確な長所を見つけられないでいた。そのことにぼんやりとした苛立ちを彼女は抱えていたのだ。お前には人に誇れるような長所など何一つない  誰かにそう告げられているような気がした。

 力が欲しい。誰にも負けないような強みを持ちたい。切実にそう願った。

 いや、本音をいうならば  魔法少女になりたい。

 どんな困難にもくじけない、逃げない。そんな強さを持ち、戦える力のある魔法少女に。

   そう強く願った刹那。

 彼女の身体に異変が起きた。突然、全身が焼けるように熱くなったかと思うと、白い、鮮烈な光が溢れ出した。そしてほぼ同時に得体の知れない力が駆け巡った。

 その時の異変はそれだけで終わったが、実歩の日常は少しずつだが着実に変わっていった。

 まず感じたのが、身体面の変化だ。実歩は大して運動が得意な女子ではなかったが、その日を境に、彼女はあの謎の力を使うと身体に翼が生えたように自在に動くようになった。

 実歩が念じると、彼女が脳内で描いていた動きと完全に一致した動きができるようになり、身体能力が飛躍的に上がった。念が強すぎると、あの時に見たような白い光が身体から溢れてしまうので、念の調整には細心の注意を払った。

 驚いたことに似たような変化は実歩だけでなく星羅、穂菜美にも起こったのだ。二人とも強い光に包まれてからは、身体が異様に軽く感じるようになったようだ。

 別の日。実歩、星羅、穂菜美の三人はスーツ姿の見知らぬ男に呼び止められた。無視しようとしたが、家族にも連絡を取っていると言われたらそうはいかなかった。そして、その男が次に放った一言は実歩たちを完全に引き止めた。

   私たちはその力の正体を知っている。

 別の日に三人は山奥にある研究施設に案内されていた。そこで中学生の彼女たちには目的すら全く不明な検査を受けた後、ようやく説明が行われた。

 だが、中学一年生の少女たちに研究者の話が理解できるわけがなかった。研究者は極力中学生でも理解できるように言葉を選んでいることは伝わったが、それでも難しかった。聡明な星羅ですら激しく混乱していた。

 辛うじて当時の実歩が理解できた内容をまとめると次のようになる。

 自分たちに覚醒した力は"想力"と呼ばれる。

 想力は精神エネルギーの一種である。

 研究者たちの開発した装置"トランスフォン"を使うと変身でき、その力をさらに格段に伸ばせる。

 変身。

 その単語を聞いた途端、胸が大きく高鳴るのを感じた。実歩はその話に飛びつき、トランスフォンを起動した。警戒心が全くなかったわけではないが、憧れの魔法少女に変身できるかもしれないという期待の方が彼女の中では大きかった。

 そして、奇跡は起きた。

 実歩の全身に薄桃色の光が漲り  実歩は空想の世界で思い描いていたような魔法少女へと変身を遂げていた。彼女の纏ったピンクを基調にしたコスチュームは、まさに魔法少女というような正統派と呼べるデザインだ。

 その瞬間、実歩は嬉しさのあまり飛び跳ね、いくつものスキルを出たらめに発動させたのは、今となっては少し恥ずかしくなる思い出だ。

 トランスフォンは星羅と穂菜美にも渡された。初めは警戒の色を濃くしていた彼女たちもいざ変身を遂げると、やはり興奮を抑えられないようだった。

 だが当然、研究者たちはただで研究施設に呼び出したのではなかった。

 彼らの依頼は、想力の研究に協力することと、想力の悪用によって生み出された害獣  ヴァーミンの退治だった。

 三人は狐につままれているような気分になった。だが夢ではないことは本人たちが一番よくわかっていた。試しに頬をつねってみても痛いだけだった。

 結局、三人は依頼を受けることにした。想力に抵抗がないわけではなかったが、実歩としては「魔法少女へと変身し、悪と戦う」はまさに彼女が描いていた魔法少女の理想像にぴったりと一致した。何より想力への不信感よりも好奇心の方が圧倒的に勝っていた。そんな実歩の熱意に押されるようにして残りの二人も依頼を承諾したのだった。

 今思うとよくもまあこんな異常事態を平然と受け入れてしまったものだ、と呆れを通り越して感心してしまう。それだけ魔法少女への愛好が強かったのか、当時の実歩があまり物事を深く考えない性格だったのか。多分その両方だろう、と今の彼女は恥ずかしながら思う。

 そして、研究者はまだ戸惑いの残る彼女たちを諭すようにこう言った。

「間違いなくあなたたちには才能があります。今こうして変身できたということはあなたたちが選ばれたということです。どうかその力を信じて戦ってくれませんか」

 ここから実歩たちの魔法少女としての日々が始まった。同時に、「魔法少女」という噂が爆発的に広まったのもその日からだ。

彼女たちの住んでいた幸山(こうやま)市(し)を中心に魔法少女の目撃例が多数報告されるようになった。その報告のほとんどが「謎の黒い怪物に襲われていたところを、三人の魔法少女たちが助けてくれた」というものだった。

 当初はそのような報告はデマ、悪戯として相手にもされなかったが、報告例が増えるにつれて、魔法少女の存在は少しずつだが確実に、世間に浸透していった。

 想力の研究が注目されたのもこの時だ。謎でしかなかった魔法少女の力について一つの説を提唱した研究は画期的とされた。想力の存在をすぐに認められたわけではないが、それでも人々に与えた衝撃は大きかった。

 実歩たちを招いた某研究所は想力適合者を割り出し、魔法少女を各地に配置した。適合者は魔法少女になることに迷いこそするが、最終的に拒否する者はいなかった。適合者たちは誰もが魔法少女に憧れ、「自分も魔法少女になれるかもしれない」という期待を抱いていたのだから当然かもしれない。

 某研究所の目的は「怪物から人々を守るため」と表向きはなっていたが、実際は想力の研究を捗らせるためだった。  もっとも実歩がそのことに気づくのは随分後にはなるが。

 魔法少女になったばかりの頃の実歩は、毎日が喜びと興奮に溢れていた。

 普段は普通の女子中学生でしかない自分が、変身すれば正義のヒロインとなり、人々を守り、感謝される。

 そんな夢想でしかなかった話が今こうして現実になっている。そう自覚するだけで実歩の胸は大きく高鳴った。

 そしてそれは星羅と穂菜美も同じだったようだ。一緒に魔法少女になれたことにより、連帯意識は一層強まった。

 近距離攻撃が得意な実歩。

 遠距離攻撃が得な星羅。

 補助、回復が得意な穂菜美。

 それぞれピンク、青、黄の衣装に身を包み、役割を分担しながら戦う姿はまさに魔法少女そのものであり、最高のチームワークを発揮して戦う彼女たちに最早敵はいなかった。

 だから、実歩は思っていた。

 魔法少女は無敵だ。

 正義の心さえあれば、守りたいと思うものがあればどんな困難だって怖くない。

 一人では無理でも、仲間と共にいれば、何でもできる。

 自分たちは最高の仲間だ。つらい時だって笑い合える、と  。

 だが。



 実歩がそんな純粋とも呼べるような心を保てたのはそう長くはなかった。

 ある日の昼休み。中学三年生になった実歩たち三人は、席をくっつけ合って弁当を食べていた。穂菜美がスマートフォンの画面を指差しながら話していた。画面にはニュースサイトが表示されていた。

「ねえ、見て見て! 九州地方の魔法少女グループ、住民百人を救出、だって!」

 スマートフォンを見て、星羅は目を見張る。

「へえ、すごい。後輩の魔法少女たちもここまで活躍するようになったのね!」

「うんうん! この人たちとも会ってみたいな~」

「......」

 盛り上がる二人とは違い、実歩だけは複雑な顔をしていた。

「実歩ちゃんもそう思うよね! ......実歩ちゃん?」

「......あ、いや、ごめん! う、うん。わたしも会ってみたい」

 穂菜美に声をかけられ、実歩は無理に笑顔を作った。だが、この時確かに感じていた。魔法少女が次々と誕生することを不満に思っている自分に。

 なぜそう思うのか。実歩にもよくわからなかった。

 だが、他人の幸福を素直に祝えない人間はどこにだっている。実歩という少女はたまたまそういう人間だった。ただそれだけのことだったのだろう。

 だが実歩はそんな醜い自分に向き合うのが嫌だった。他人に嫉妬するなど魔法少女のすることではない、と思っていたからだ。  しかし実歩の醜い感情は、まるで黒いインクが白い布に染みるかのように彼女の心に広がっていった。

 不満の理由はもう一つあった。変身時以外は想力を使ってはならない、ということだった。当時はまだ想力の存在を認められていなかったからだ。迂闊に使えば周囲の混乱を招きかねない。それに「魔法少女は、変身時以外は普通の女の子として生活しなければならない」などと実歩が勝手に思いこんでいた、というのもあった。

 だが結果として実歩は魔法少女になった自分と、それ以外の自分のギャップに苦しむことになる。

 実歩は勉強も運動それなりといったところで、特別優れているわけではなかった。体育祭のリレーで抜かれた時や、頭が悪そうだと勝手に思いこんでいた同級生が自分よりも高い点数を取った時は妬みの炎が一気に燃え上がった。魔法少女らしくないと自覚しながらも「想力さえ使えればこんな奴なんかに!」と思わずにはいられなかった。

 一度だけ体育の授業で想力を使って、クラスメイトを圧倒したことがあった。だがその授業の後、星羅に咎められた。

「どうして想力を使ったの? 想力は色んな人を守るために使うんでしょ? 他の人を負かすために不思議な力を使うなんて魔法少女じゃないわよ」

 星羅の言い分は尤もだった。他人を負かしていい気になるなど正義のヒロインがすることではない。わかってはいた。だがわかっていたからこそ、苛立ちは一層増した。

 実歩とは対照的に星羅は容姿端麗かつ文武両道、圧倒的な人望により生徒会長にも選ばれた、絵に描いたような優等生だった。

 実歩の鬱憤は溜まる一方だった。魔法少女として人助けをすれば人々から感謝される。だがそれは"魔法少女"に対してだ。"山県実歩"には対しては何もない。星羅は運動も勉強もできる。実歩も努力はした。だがどうやっても星羅には追いつけない。注目の的になるのはいつも星羅だ。それが面白くなかった。

 そんなことを考えるべきではないと頭では理解していた。だがそんな汚い思いはどうしても消し去れなかった。星羅は悪くない。悪いのは自分。そんなことは考えるな、魔法少女らしくない、でも考えてしまう、誰が悪いんだ、自分に決まっている、と実歩の心はぐちゃぐちゃになっていった。自己嫌悪と嫉妬は黒い何かとなって実歩の心に纏わりついていった。

 そんな不安定な精神状態になっていった実歩に、当然のように仲間たちは気づいた。徐々に実歩が戦いで足を引っ張るようになり、チームワークに乱れが目立つようになった。

 二人は実歩を気遣ってくれた。だが星羅は勿論のこと穂菜美にも相談できなかった。

「実歩ちゃん、大丈夫? 最近調子が悪いみたいだけど......」

「実歩。最近どうしたの? 悩みがあるなら言って」

 星羅と穂菜美にそんな風に声をかけられても、実歩は何でもない風を装った。言えるわけがなかった。星羅がイライラの原因だ、なんて  。

 母子家庭であった実歩は親にも相談できなかった。仕事で忙しい母に余計な心配をかけさせたくなかったのだ。何より中途半端な自尊心が邪魔をした。友達に焼餅を焼いているなどという歪んだ自分を認めたくなかった。

   そして実歩の鬱積は最悪の結果を招くことになる。実歩の胸に永遠に癒えないであろう傷を残す、あの事件が。



 ある日。

 日ごとにぼんやりとしたストレスに苦しむようになった実歩は知らず、星羅や穂菜美から距離を取るようになった。表面上は行動を共にしている。だが、二人との間に隔たりを感じていた実歩は、目に見えて笑顔の数が減った。

 不満を抑えきれなくなった実歩は、あれだけ使用を禁じられていた想力を体育の授業で使ってしまった。

 当然、星羅と穂菜美は実歩を咎めた  というよりは心配に思ってくれた。放課後、実歩は逃げるように学校を後にしようとしたが、校門を出た直後で、星羅に腕を掴まれた。穂菜美も一緒だった。

「実歩。どうして逃げるの?」

 星羅の顔は不安そうだったが、少し実歩を非難するような目つきだった。想力を勝手に使ったことは感心できないが、それ以上に実歩が心配だ。そう言いたそうな表情だった。

「別に逃げてなんか......」

「最近の実歩ちゃん、変だよ? お願い、何かつらいことあるなら話してよ」

 そう言う穂菜美の目は本当に心から実歩を気遣っているようだ。

 実歩の精神はさらに圧迫された。ここまで友人に心配りができる星羅と穂菜美は本当に立派だと思った。だがその分醜い自分が浮き彫りになっているようで、たまらなく情けなくなった。一体、自分は何に怒っているのか。誰が悪いのか。誰に怒りをぶつければいいのか。  実歩の胸の中で怒りや嫉妬よりも醜悪で、どす黒い何かが暴れ始めた。

「実歩。誤魔化さずにちゃんと言って。何か悩んでるんでしょ?」

 この時、本音を言えればよかったのに。

 実歩はできなかった。

「......うるさい」

 自分でも驚くほど、どすの利いた暗い声だった。二人がぎょっとするのがわかった。

「そうやって親友面して訊いてくることがむかつくの!」

 星羅を突き飛ばしていた。実歩の中で何かが破裂した瞬間だった。

「星羅みたいに何でもできる優等生にはわかんないよね......! わたしには何にもない......! 一番を取るにはいっつもあんた! わたしがいくら頑張っても......星羅には勝てない!」

 血走った目で一方的にまくし立てる実歩。星羅は尻餅をついた状態で呆然となり、穂菜美も腰を抜かして怖いものを見るような目で見上げていた。

「こんなこと考えちゃいけないってわかってる! でも、でも......考えちゃうんだもん! わたしも......わたしも自分の気持ちがわかんないよ! でも、星羅と穂菜美を見るとイライラする?」

 二人は俯き、何も言葉を発しない。ようやくそこで実歩は我に返り、いたたまれなくなった。今すぐ謝るべきだ。理性は確かにそう発していた。だが、

「......もう、わたしに構わないで」

 くるりと背を向けると、髪を振り乱しながら走り去って行った。走りながら涙を流していた。



 家に帰ってから実歩は暗い部屋に閉じこもっていた。大変なことをしてしまったという自覚はあった。友達を一方的に言葉で殴りつけた後は、後悔と自責の念が振り子のように返ってきた。

 結局、あんなことをしても少しも気は晴れなかった。ぼんやりとした苛立ちが深い哀しみに変わっただけだった。

 これからどうすれば良いのか見当もつかなかった。今までと同じように二人に顔を合わせられる自信などまるでなかった。思わず頭を掻きむしった後に、トランスフォンが鳴った。ヴァーミンが出没した時や、三人で連絡を取りたい時に鳴るように設定されていたのだ。

 だが、実歩はトランスフォンを取る気にはなれなかった。どんな理由でかけてきたかは知らないが、今は一人でいたかった。もしかすると、戦闘が起きたのかもしれないが、こんな精神状態でまともに戦えるとは思えなかった。

 しかし、トランスフォンは一向に鳴り止む気配がない。実歩は舌打ちをすると、渋々トランスフォンを手に取り、少し緊張しながら耳に当てた。

「もしもし......」

「実歩ちゃん? どうしてすぐに出ないの?」

 飛び込んできたそんな声のあまりの大きさに、思わず実歩はトランスフォンを耳から遠ざけていた。再びトランスフォンを耳に当てると、穂菜美の切迫した、悲鳴にも似た声が聞こえてきた。

「ご、ごめん。穂菜美。でも、わたし......」

「そんなんじゃない!」

 穂菜美が叫び、実歩はまたトランスフォンを離しそうになった。

「ど、どうしたの?」

「せ、星羅ちゃんが、星羅ちゃんが......」

「えっ......?」

 続けて耳に飛び込んできた穂菜美の悲痛そうな声に、実歩は凍りついた。



 ようやく実歩が戦場に駆けつけた時、すでに星羅は血溜まりの中で倒れていた。穂菜美は必死に星羅を庇っていたが、それでも守り切れなかったようだ。

 そんな彼女たちを嘲笑うように、カマキリを巨大にしたような黒い怪物が、穂菜美と重傷を負った星羅を見下ろしていた。怪物の背後には、喜悦を凶相に滲ませた、軍服姿の男が浮遊していた。

 実歩の懸命の働きにより何とか敵を撃退できたものの、その頃には星羅の顔は灰色に近くなっていた。変身も解けていた。

 急いで穂菜美が回復を行ったが、もはや手遅れだった。傷があまりに深すぎて穂菜美でも対応できなかった。

 血相を変え、実歩は星羅を抱き起した。何度か必死に呼びかけた後、星羅の瞼がわずかに開かれた。唇が弱々しく動いていたので、実歩はそこに耳を近づけた。

「ごめんなさい、実歩............」

 実歩は耳を疑った。

 ごめんなさい?

 どうして、謝らないといけないのは自分の方なのに......。

「私......実歩のこと、全然わかってあげられなくて......知らないうちに、苦しめちゃって............だから、本当にごめ......」

 星羅の頬を宝石のような涙が伝った直後、彼女の全身から力が抜けていった。

「    ッ?」

 穂菜美の絶叫が耳朶を叩いた。同時に実歩の頭の中は真っ白になり、記憶はそこでぶつんと途切れる。



 そこから実歩の記憶ははっきりしなくなる。だが、気も狂わんばかりに泣き崩れる日々が続いたことだけは覚えていた。ほとんど何も食べず、学校にも行かず、ただ部屋に引きこもって泣いていた。

 気が付くと、実歩は星羅の告別式に出席していた。生徒会長を務め、同級生からも後輩からも慕われていた星羅の告別式には、たくさんの人が詰めかけていた。

 誰もが涙を流し、星羅との別れを惜しんでいた。号泣している者も少なくなかった。そんな中、実歩だけは能面のように無表情だった。精も根も尽き果てるほどに泣いた後は、感情を顔にこめることすら困難になっていた。魂が抜けたような顔になっていた実歩は、式の内容の半分も覚えていなかった。

 くすんだ雲が空を覆っていた帰り道。実歩は「待ってよ」と呼び止められた。振り返ると、そこには半病人のようにやつれていた穂菜美がいた。

「......何で実歩ちゃんがここにいるの?」

 掠れた声には、普段穏やかそうにしている穂菜美からは想像もできないほど憎しみが含まれていた。実歩が無言でいると、穂菜美は赤く充血した瞳でぎろりと睨んできた。

「よく来れたね......! 仲間を裏切っておきながら......!」

 穂菜美は大股で実歩に近づくと、襟元を掴んできた。強い力だった。

「星羅ちゃんは最後まで実歩ちゃんを信じてたんだよ......? 必ず来てくれるって......! なのに、なのに............実歩ちゃんは?」

 怒りと悲しみでくしゃくしゃになった顔を近づけてきた。愛嬌のあった穂菜美の顔の影はどこにもなかった。

 穂菜美とは反対に実歩の顔はまるで人形にでもなったかのように、微動だにしなかった。そのことが穂菜美の神経を逆撫でした。

「何か、何か言ってよ......!」

 この時、何を言えば良かったのだろう。実歩は今でも答えを見つけられない。

「あんたみたいな卑怯者......大っ嫌い?」

 頬に衝撃を受けた。殴られたのだ、と悟った。実歩は吹っ飛び、地面に叩きつけられた。

 直後、ぽつぽつ、と実歩の頬を水滴が濡らした。ひりひりと痛む頬に染みるが、あまり気にならなかった。  なのに、胸は張り裂けんばかりに痛んだ。

 雨が本降りになってからも、二人はしばらく動かなかった。穂菜美の憎悪に溢れた目が、実歩を釘付けにしていた。



 再び、実歩の記憶の映像は途切れる。

 悲しみに暮れる日々が過ぎた後に、実歩を襲ったのは大きな虚脱感だった。特に何もする気は起こらず、ただ部屋でぼうっとしているだけという無為な毎日が続いていた。生きていることさえ億劫に感じていた。

 そんな自分が、どうして社会に復帰できたのか。どうして高校を受験する気になったのか。実歩は今でも説明できない。強いて理由を挙げるならば、母親のため、だろうか。実歩は父親の顔を覚えていない。幼い頃からずっと女手一つで育ててくれた母に苦労をかけたくなかったのだ。

 告別式の日から、穂菜美とは一度も会っていない。後から聞いた話だが、告別式から数日後、遠くの学校に転校したという。魔法少女のグループ  当時はまだ"ギルド"という名称ではなかった  も解散を申し出たらしい。研究所の人間はあっさりと承諾し、後任の魔法少女を配置したそうだ。仲間を死なせるような魔法少女など何の価値もないと判断したのかもしれない。

 空虚な時期を経て、ようやく実歩はあの事件と向き合えるようになり、高校に入る頃には他人と最低限のコミュニケーションが取れるようにはなっていた。

 高校に入ってから実歩が望んだのは、魔法少女と無関係な平穏な日々  。

 なのに  まさか魔法少女を鍛える身になるなど誰が思っていただろう。

 星羅と穂菜美が夢に出てくることは月日が経つにつれ、減っていった。

 それでも時々悪夢として蘇る。過去の大罪を忘れるな、と神が戒めているかのように。

 実歩、星羅、穂菜美の三人が通学路を歩いていた。他愛のない雑談に花を咲かせながら、三人とも笑っていた。

 だが次の瞬間、実歩の周囲は黒い水の中にどぷんと飛び込んだかのように暗闇に包まれる。暗闇の中で一人の少女が血まみれで倒れている。星羅だった。

   お前のせいだ。お前は卑怯者だ。

 嘲笑の混じった声が、実歩の脳内をぐちゃぐちゃに掻き乱す。

「違う、わたしは......!」

   あんたみたいな卑怯者......大っ嫌い?

「違う違う違う」

 実歩は両手で身体を庇い、小刻みに震える。顔面は青白かった。

   裏切り者。仲間を死なせた卑怯者。

「お願い、もう止めて......! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

   どうしてあの時謝らなかったの? どうしてあなたみたいな人間のクズがあんな素晴らしい人たちと付き合っていたの?

 実歩は両手で耳を塞ぐ。だが嘲笑と罵声が止む気配はない。

   実歩、ごめんなさい......。

「謝らないでよ、星羅......!」

   裏切り者。

「嫌......嫌、嫌あああああああああああああ?」



「    ッ?」

 そこで、ようやく目が覚めた。

 がばっと上体を起こし、荒れた呼吸を繰り返していた。全身から嫌な汗が噴き出ていて、服がべっとりと密着していて気持ち悪い。頭痛がし始めたので、こめかみを押さえた。

 またあの悪夢だ。最近は見る回数は減ったと思っていたのに、また過去の夢を見るようになった。なぜだろう。励菜と再会したからか。

 事件から数年経ってようやく実歩は気づいていた。

 魔法少女だって人間なのだ、と。

 攻撃されれば傷つくし、血だって出るし、そして死ぬ。

 魔法少女は無敵などと誰が決めた。

 あの時、勝ち続けられたのは仲間と団結していたから。

 人間である以上、醜い感情だってある。

 どうして、そんな当たり前のことにも気づけなかったのだろう。とんでもない馬鹿だった。

 なのに......「自分は魔法少女だ」などというちっぽけな誇りのせいで、悪い"わたし"を抑えつけていた。怖かった。嫌な自分を認めることが。

 その結果はどうだ。仲間を失い、永遠に癒えることのない傷を自分でつけてしまった。

 心の奥底に秘めていたはずの古傷が大きく疼き始めた。

 再び横になると、痛みを堪えるかのように身体を丸め、歯軋りをした。心臓の動悸が激しくなっていた。

 想力は楽しかったはずなのに。

 魔法少女になれて嬉しかったはずなのに。

 一体、"わたし"はどこで間違えたのだろう......?

 考えても仕方のない問いが、脳の中で堂々巡りをしていた。



2



 職員室。

「実歩ー。次、指導でしょ? 準備しなくていいの?」

 ぼうっとしていたため反応が遅れた。声のした方を向くと、トレーニングウェア姿の夢果が見下ろしていた。

「ご、ごめんなさい。今すぐ行くわ」

 実歩はつい先ほどまで作業をしていた文書作成ソフトを一旦閉じると席を立つ。しかし、その背中に夢果は「ストップ」と声をかける。

 実歩が振り向くと、夢果がじっとこちらを見ていた。何かを探るような目つきだった。

「な、何?」

 一拍置いてから夢果は言った。

「今日の指導はあたしだけでやる」

「は?」

「今日の実歩、明らかに変」

 言われてみてはっとする。確かに学校に着いてからぼんやりとしていて、あまり仕事が手につかなかった。

「コーチがそんな腑抜けた状態じゃ、生徒も不安がるよ」

 厳しい口調だった。ぐうの音も出ず、実歩は俯く。はあ、と夢果が呆れの息をついた。

「心配しないで。練習のデータは予習して、頭に叩きこんであるから。......ま、後で話聞くから今は休んでて。言っとくけど、今の状態で来てもらっても迷惑なだけだからね。無理して来たら叩き出すから。......じゃ、そういうことで」

 早口で一方的にそう言うと、夢果は早歩きで職員室を出て行った。夢果の背中が消えてからも、実歩はただ立ち尽くすだけだった。



「はぁーあ......」

 屋上のフェンスに寄りかかりながら、実歩は深いため息を落とす。彼女は気に入らないことや、落ちこむようなことがあると、よく学校の屋上に来ていた。まさか大人になっても変わらないとは思っていなかったが。

 実歩はあの悪夢を見ると決まってその一日を無気力に過ごしてしまう。悪夢を見る回数は減っていたので忘れかけていたが、どうやら今も変わっていないようだ。そして、夢果もその辺の事情は把握している。高校時代、実歩は自分の過去を彼女に話していた。だから、実歩の無気力を一瞬で見抜いたのだ。

 情けない。実歩がまず思ったのがそれだ。苛立つことはなかったが、結局自分は変わっていないのだな、という虚しさにも似た思いが実歩の胸を支配していた。

 今でも色んな人に迷惑と心配をかけている。そう思うと、実歩は肩を落としてしまった。その時だった。

「よーっす。あ、やっぱりここに来てたんだ」

 いつも通りの明るい調子に戻った夢果の声が聞こえてきた。彼女はスーツ姿で、缶を二つ持っていた。その内の一つを実歩に向かって放る。受け取ると、ココアの缶だった。少々子供っぽいチョイスだが、実歩の好みだということを夢果は知っていた。

「実歩、大人になっても相変わらずだね。へこんだ時に屋上に行くって」

「そうね」

 短く返しながら缶の飲み口を開け、ココアを一口飲む。あまり味を感じられなかった。

「今日の練習バッチリだったよ。まあ、さすがにあたしは戦闘の相手にはなれないけど。それでさ......」

 夢果はそこで口を噤んだ。無言で実歩の顔を見据え、

「ていっ」

 ぽかっと実歩の頭を殴った。

「いたっ。何すんのよ」

「ちょっとむかついたから。どうせまた一人で悩んでたんじゃないの?」

 ずばりと言い当てられたので実歩は黙った。その直後、

「しっかりしなよ! 山県実歩!」

 突然声を張り上げたので実歩は怯む。力強い視線が実歩を射貫く。夢果が実歩の左肩を掴んできた。

「な、何よ......」

「何よ、じゃない! 実歩! 実歩が今やらないといけないことは何なの?」

 問い詰められた。答えはわかりきっているはずなのに、なぜか口はすぐに動かなかった。

「それとも全部責任丸投げして逃げちゃう? また魔法少女を鍛える資格はないとかどうとか言って誤魔化すの?」

 挑発するような口調だった。実歩の目つきが鋭くなる。

「うるさいわね! そんなことするわけないでしょ?」

「じゃあ、なんでぽけーっとしてたわけ? いつまでそうやって過去を引きずってるつもり? へたれ!」

 実歩の身体が震え始めた。鼻の上に寄った皺が内心の怒気を現す。

「~~~~っっ? ええそうよ! へたれよ! 私だって人間なんだからへこむ時くらいあるわよ! そんなこともわからないの? このバカ?」

 まるで子供みたいな逆ギレだった。激しい口調で実歩が言葉をぶつけると、二人は睨み合った。無言で視線を戦わせる。すると  

「......あははっ。よかった。言い返す気力はあるんだ」

「えっ......?」

 ふっと夢果が表情を和らげると、実歩は毒気を抜かれたように目を瞬かせた。

「私を試してたの......?」

「そ。そんな感じ」

 夢果はにこやかに言うと、実歩と同じようにフェンスに寄りかかった。実歩は脱力を感じ、その場にへたり込みそうになった。

「もう一回訊くよ。実歩が今やらないといけないことは何?」

「決まってるわ......魔法少女の指導よ」

「わかってるじゃん。何を悩む必要があるの?」

 夢果はやや呆れたように薄く笑った。彼女は缶コーヒーを一口飲むと、斜め上を見ながら小さく息をつく。

「あたしは、元魔法少女でもないし、当事者でもないからあの時どうすべきだったなんて言わないけどさ............やるべきことがはっきりしてるならそれを精一杯やればいいんじゃないの? 過去がどうとか関係ある?」

 実歩はこっくりと頷いた。その通りだった。自分の過去がどうであろうとスパシャンの三人には関係がない。自分はまた個人的な事情で他人を不幸にするところだった。

 夢果がまた実歩の顔を見つめてきた。薄く笑んでいたが、目は至って真面目だった。

「それに、今日指導してみて思ったんだ。スパシャンの子たちの指導には実歩が必要」

「私が......?」

 やや驚き気味に夢果を見た。夢果は大きく頷いた。

「そう。あの子たち特殊過ぎるもん。実歩が自分のことをどう思ってるのかは知らないけどさ、仮に『自分は魔法少女にふさわしくない』と思っていたとしても......いや、思っているからこそ、実歩にしかできないことってあるんじゃない?」

「あ  」

 実歩は何かが胸の中にすとんと落ちるような感覚を覚えた。

 もう、過去の失敗は二度と繰り返したくない。そして、誰かに自分と同じ後悔をしてほしくない。過去は変えられない。でも、過去と向き合って今に活かすことはできるはずだ。

 いや、そうではない。やらないといけないのだ。  教え子に、自分と同じ轍を踏ませないためにも。

「その通り、ね......。ありがとう、夢果」

「お礼を言われるようなことはしてないけどなー。でも、よかった」

 夢果はくすくすと笑いながら、美味しそうにコーヒーを口に含む。

「いやあ、実はちょっと緊張してたんだよね。実歩が成長して、あたしが強い口調で言って本気でしょげたらどうしようかなーって。でも、実歩はきつい口調で言われないと本音言わないもんね、ほんと手間のかかる子」

「はっきり言ってくれるわね」

「でも、それがありがたいんでしょ?」

 皮肉っぽく夢果が笑った。ありがたいのは事実だったが、素直に認めるのも癪だったので、横を向いて髪をかき上げた。それは肯定と同義だったが。また夢果に笑われた。

「ま、そんな所も含めて実歩が好きだけどね」

「何よそれ......」

「普段つんつんしてるけど、心の中では色々悩んでて、何ていうか、ほっとけないって所」

「意味わかんない。ていうか、恥ずかしくなるようなことを直球に言うのね、あなたは」

 大げさに肩をすくめる。顔が薄い赤を帯びていた。

「高校の時からそうだったでしょ?」

「ええ、単純な所も変わってないわ」

「ひど。面と向かって単純って言うんだ」

「さっきのお返しよ」

 実歩はくすりと笑った。ようやく笑顔になった。それを見て安堵したように夢果は微笑んだ。

「ま、実歩が元気になったようで安心した。じゃあ、あたしはそろそろ戻るから。実歩も休んだら早く来なよ」

 それだけ言い残し、夢果は軽やかな足取りで扉の向こうに消えた。

 再び一人になった実歩はココアを飲んだ。今度はちゃんと味を感じられた。優しい甘みが広がり、実歩の心をほぐしていく。

 空を見上げながら、実歩は思った。下らない口喧嘩だったけど、確かに実歩は夢果に救われていた。

   私は、私がやるべきことをこなすだけ。

そんな単純なことを見失いそうになっていた。夢果の言う通り、自分ははっきり言われないとわからない、面倒くさい人間なのかもしれない。だけど、それを否定したって良いことなんてない。自分と向き合わなければならないのだ。

 風によって靡く長い髪を押さえながら、実歩はそう思った。



3



 翌日。トレーニングルーム内にはスパシャンの三人と、彼女たちのGIとGMである実歩と夢果がいた。

「昨日は休んでごめんなさい。気を取り直して、今日も実戦訓練を始めるわ」

「はい! よろしくお願いします! 実歩ちゃんが元気になってくれてよかったです!」

「お、お願いします......!」

「よろしくー」

 三人の個性的な返事が返ってくる。特に励菜の声は一際元気なように聞こえた。一日休んだだけとはいえ、励菜は本当に心配そうな顔をしていた、という話を夢果から聞いていた。

「じゃあ、まずはウォーミングアップからね。ランニングと柔軟から始めて」

 実歩が指示を出し、三人はアップに取り掛かる。ルーム内を走る三人を見て、実歩は隣の夢果に訊いた。

「確か昨日は"ジョブ"ごとの練習をしたのよね?」

「うん。でも、実力確認くらいしかやってないよ。優とマリンは強いからちょっとした実戦形式でやってみた。さすがにあたしが戦闘の相手になることはできなかったけどね」

 ジョブとは魔法少女の戦闘スタイルを意味する。戦闘魔装ごとにジョブは決められており、魔法少女たちは途中からジョブを変えることは不可能だ。

「そう。じゃ、前半は私が励菜。夢果が優とマリン。後半からは交代してやりましょ」

「オッケー」

 アップが終わると、早速訓練は始まった。

「それじゃ、前半は私が担当するわ。まだそんなにきついトレーニングはしないけど、実戦のつもりだと思って気を引き締めてちょうだい」

「はい!」

 ジョブには四種類ある。

 ギルドの攻撃役を担い、最も人気の高い《ファイター》。

 守備役を担い、防御に長けたステータスとスキルを持つ《ナイト》。

 遠距離攻撃が得意な《シューター》。

 味方の補助、敵の妨害を担当し、ギルドの潤滑剤のような役割を持つ《マジシャン》。

 励菜はファイター、優はシューター、マリンはマジシャンだった。ギルドは最大四人編成であるため、もう一人増やせるが、バランスの良いチームだとは思う。

 問題は、励菜の実力だが。

「実力を見させてもらうわね」

 実歩はそう言って、持っていたタブレット端末を離れた位置に置いた。再び励菜に少し距離を空けて向き直る。すると、実歩の目つきが変わった。少し睨むような目つきになり、その顔に迫力が帯びる。真剣みを帯びた彼女の雰囲気に、励菜も何かを感じ取ったようだ。

「これから、何を始めるんですか?」

「肉弾戦の練習よ」

 当然だとばかりに実歩は唇の端を上げた。

「私をぶっ飛ばすくらいのつもりでやってみなさい。戦闘魔装を使っても構わないわ」

「えっ? いいんですか?」

「ええ。ちなみに、私はこのままでいくわ」

 余裕そうな態度に励菜は少しばかりむっとした。

「むぅ~。それは変身しなくてもわたしに勝てる、と言いたいんですか?」

「さぁ? どうかしらね」

 わざと実歩はおどけたように言った。普段の彼女は人を挑発するような態度は取らないが、励菜の闘争心を駆り立てたいと思った。案の定、励菜は簡単に挑発に乗った。

「さすがに実歩ちゃんでもかちんときちゃいました! コネクト・《コーラルハート》!」

 ピンクの魔法少女へと変身を遂げた励菜。やはりその衣装はお気に入りのようで、自分の身体を見ながら見惚れていた。誇るような笑みが浮かんでいた。

「かかってきなさい」

「っ......! いきますよ!」

 実歩が挑発するように手招きをすると、励菜は真正面から突っ込んできた。Eランクとはいえ、一般人からすれば励菜の動きはまさに俊足だ。一瞬で叩き伏せられるだろう。

 だが実歩は変身前でも想力の量は並外れている。咄嗟に想力を目に注ぎ、全神経を視覚に集中させる。

(右手に想力の気配......。予備動作からすると、最初に来るのは  )

余計な情報を遮断し、目の前に迫る相手を冷静に分析。当然そんなことを知る由もない励菜は実歩の胸元目掛けて右ストレートを繰り出す。が  

「?」

 バシィッ、という音がしたかと思うと信じられないことに励菜の身体はあらぬ方向にいなされていた。励菜は唖然とする。受け流された、と悟るのに数秒の間があった。

「どうしたの? もう終わり?」

「くぅ......!」

 再び励菜は距離を詰めると、腰を落としてハイキック。首の動きだけで交わされるが、すかさず足を踏みかえて回し蹴りを放つ。だが、これも身体を反らして回避される。躍起になって励菜は拳を縦横に振り、蹴りを幾度となく繰り出すが、どれもかすりもしない。まるで励菜の体術が実歩の身体をすり抜けていくかのような一方的な展開。

「はあっ......、はあっ......」

 焦りと疲れのせいか励菜の息が乱れ始めた。そこで一旦間を取り、体勢を立て直す。

「そんなものなの? せめて一発くらい当ててみなさい」

 安っぽい挑発だが励菜は簡単に乗ってしまった。励菜は呼吸も整わない内に、全身の想力を呼び起こし、身構える。

「やあぁああ?」

 叫びを上げ、実歩に突撃。至近距離から左右に拳を凄まじい速度で放つが  

「えっ?」

 突然実歩の姿がふっと消えたかと思うと、ぐるりと視界が回転した。次の瞬間、励菜は床に背中から激しく叩きつけられていた。

 腕を掴まれて投げられたのだ、とようやく理解した。だがそんな人間とは思えないような早業をどう彼女が仕掛けたか励菜には見当もつかなかった。実歩が手加減をしたから身体的ダメージは思ったほどない。だが、精神に受けたショックは大きすぎた。実歩の圧倒的過ぎる実力の前に励菜は動けなくなった。

「挑発に乗り過ぎよ。そんな興奮した頭じゃ勝てる相手にも勝てないわ」

「あぅ......」

 励菜は上体を起こしたが、すっかり意気消沈とした様子で項垂れる。

「戦いは一方的に攻撃するだけじゃ勝てないわ。時には引いて、様子を見ることも大事。今のあなたは体術の技術よりも心得から学ぶべきね」

 実歩が厳しく指摘するにつれて、励菜の肩は落ちていく。言い過ぎたか、と思った実歩はフォローを入れることにした。

「まず実力を見たかっただけだからそんなに落ち込まないで。この結果を踏まえてこれから練習していくから............って聞いてるの?」

 励菜は下を向いたままだ。さすがに心配になってきた。だがその直後、

「んあ~~~~っっ?」

「わっ」

 ルーム内に轟くほどの大声を上げ、拳を突き出した。これには実歩が驚かされる。

「ものすごく......悔しい、......ものすごく悔しいです? でも、でも、実歩ちゃんやっぱりすごく強いです? 悔しいけどとても勉強になりました!」

 実歩はしばらく呆気に取られていた。やがて、ふっと笑うと、

「励菜は強いのね......」

「えっ? どうしてですか?」

 私だったらそんな風にはできないから  という答えが出てきそうだったが、寸前で飲み込んだ。励菜の顔を見ると、心の底から実歩を尊敬していることがわかる。だから、その憧れを汚してはならない、と考えたからだ。

「ううん。何でもない」

「そうですか? じゃあ、実歩ちゃん! さっきのどうやってやったんですか? 教えてください!」

 ぐいぐいと詰め寄ってくる励菜。そんな彼女に苦笑しながら実歩は考えていた。

(この子は、きっと強くなる)

 圧倒的な実力を前にしても、挫けない気力。ゴールがどんなに先にあろうとも前進しようとする精神力。

 こんな強さのある女の子なら、どこまでも強くなる。実歩はそう直感していた。

 実歩が励菜の立場だったらどうなっただろう。とても平常心を保てるとは思えなかった。プライドはずたずたに引き裂かれ、再起不能になるに違いなかった。

 そんなちっぽけな自分に、励菜の指導が務まるのか。いや、違う。務めなければならないのだ。実歩は、そう誓った。

「励菜は......本当にすごいのね」

「あ、あの本当にどうしたんですか?」

 強くなろうとする女の子がとても健気で、思わず頭を撫でていた。

「励菜、強くなりたい?」

「勿論です!」

 迷いのない、気持ちのいい返事だった。

「そう......。わかったわ、これからがんばりましょう! 励菜!」

「はい! 実歩ちゃん!」

 二人は、手を固く握り合った。励菜の強く、真っすぐな眼光が実歩を貫いていた。



 それから連日のように修行が続いた。驚いたことに励菜は放課後の練習まで申し出たのだった。実歩も極力時間作り、なるべく修行に付き合った。辺りが暗くなるまで続いたこともあった。内容は肉弾戦を中心にした実戦的な修行だ。

 実歩の指示は極めて的確だった。励菜の修行相手になりつつ、「振りが甘いわ」「隙が大き過ぎよ」「一か所だけに力を入れ過ぎないようにしなさい」「さっきのはパンチよりもキックで攻撃すべきよ」「右手の力をもっと抜きなさい」などといった細かい指摘を、励菜が理解するまで、時には実演もしながら、わかりやすく伝えた。厳しい言い方になることもあったが、実歩は即座に励菜の欠点を見抜いていた。励菜は実歩の慧眼には驚かされるばかりだった。

 しかし、実歩もまた励菜には驚かされていた。それは彼女の精神力だ。修行は傍から見れば厳しいものだった。同じような失敗の連続で、べそをかくことも少なくなかった。実歩の指摘にしょげてしまうことも多かった。だが、それでも励菜は決して折れることなく、必ず立ち上がって修行を再開した。

 一体どれほどの決意があればここまで強靭な精神力が手に入るのか  実歩にはわからなかった。だが励菜が半端な覚悟で戦おうとしているのではない、ということは痛いほど伝わった。

 いつの間にか、実歩は彼女のそんな健気な姿に胸を打たれていた。

 そして励菜は少しずつだが、確実に技術を上達させていった。実歩が励菜を褒めると、励菜は飛び跳ねんばかりの勢いで、喜びを露にした。

 励菜と実歩の修行は二週間ほど続いた。このまま行けば励菜はもっともっと強くなる、と確信していた。



4



「昨日も放課後まで練習したんだっけ? 実歩、最近ほんと気合入ってるよね」

「必要だからやってるだけよ」

 昼休み。夢果が久しぶりに外で昼食にしようと提案していた。学校の中庭のベンチに横並びで弁当を食べる。二人ともサンドイッチを持参していた。

 ぽかぽかとした陽気の中、実歩はサンドイッチを齧りながら、少しなごんでいた。

「うーんっ、ほんといいお天気! なんかこうしてると高校の時を思い出すよね」

 隣で夢果が大きく背伸びをしながら言った。

「そういえば、そうね......」

 初めて夢果と出会った時を思い出していた。

 魔法少女とは縁のない生活を送ろうとしていた実歩だったが、クラスメイトとのコミュニケーションが苦手だった。自分と付き合っていたらまたその人を不幸にしてしまうかもしれない、などと根拠のない不安が足枷になっていた。

 クラスに溶け込めないまま月日が経ち、一人で行動することが多くなった実歩が中庭で昼食を取っていると、珍しい人物が声をかけてきたのだった。彼女の名前が平松夢果だと思い出すのに実歩はいくらかのタイムラグがあった。

 端麗な顔立ちをしていたが、制服を着崩しており、靴下も下にずらすようにして履いていた。不真面目そうな服装に、初対面での印象はあまり良くなかった。だが、実歩は次第に彼女と過ごす時間が多くなった。不真面目そうな外見とは裏腹に面倒見が良く、快活な人間性に助けられていったからだ。友達なんていなくても大丈夫だ、と実歩は決め込んでいたが、実際学校生活を送ろうとなると、一人では様々な場面で困った。そんな時、夢果は進んで声をかけてくれたのだ。

   気づいた頃には、自分の黒い過去を打ち明けるほどに、親友となっていた。

「初めて会った時......確か私が元魔法戦士って気づいてたのよね?」

 食べ物をごくん、と呑み込んだ後に、夢果は「んー」と首を少し捻った。

「気づいてたけど、あの時はまだちょっと疑ってたかなー。実歩、全然元気なかったし、何となくあたしが思ってたイメージと全然違ったんだよね。それでも、魔法少女と同じクラスになれてよかったけど」

「魔法少女のイメージ、壊しちゃった?」

「ううん。むしろ、色んな魔法少女がいるんだなーって思った。実歩、あの頃は人見知り過ぎたけど、何だかんだで一緒にいて楽しかったし」

 明るい物言いに、実歩は微苦笑して自分の頬をかく。

「でも、こうして同じ学校で働けるとは思ってなかったなー」

 水筒のコップに入れていた紅茶を美味しそうに夢果が飲み干した。

「紅茶、いる?」

「いただくわ」

 別のコップに紅茶を注いで実歩に渡した。一口飲んで、実歩は鼻腔をくすぐってきたその香りの芳醇さに思わず目を見張っていた。

「お、おいしい......!」

「そう? ま、ティーバックのじゃないからね」

 あっという間に空になったコップに夢果はまた紅茶を注いでくれる。紅茶を堪能しながら、実歩はすっかりピクニック気分になっていると、

「あれ? そこにいるのって実歩ちゃんと夢果さんですか?」

 声のした方を見ると、そこにはスパシャンのメンバー。励菜が軽く手を振りながらこちらに近づいてくる。片手にはなぜかレジャーシートがあった。

「おっ、スパシャンのみんなじゃん。お疲れー」

「こ、こんにちは......」

「やっほー。実歩姉、夢果姉」

「こんにちは。あなたたちも、外でお昼ご飯を食べにきたの?」

「はい! 今日は天気がいいのでみんなでお昼にしようって決めたんです! 優のお弁当もありますし!」

「ん? 優の......?」

「はぅ......」

 実歩が優を見ると、彼女は視線を左右に泳がせて顔を赤らめた。用途不明の大きなリュックサックを背負っていた。

「よかったら、実歩ちゃんと夢果さんもどうですか? お弁当、たくさんありますし!」

 そう言って、励菜はばっと勢いよくレジャーシートを広げた。

「お弁当、そんなにあるの?」

「はぅう......、びっくり、しないで、くださいね......」

 実歩が訊くと、優はおずおずとリュックサックの中から  花見や正月でしか見ないような巨大な重箱を取り出した。箱を開けると、色とりどりのおかずがぎっしりと詰めこまれていた。食べ物が一杯に詰められた段を優はシートの上に置いていく。中学生の女の子なら軽く十人分はありそうな量だ。

「すごいわ......」

「やばっ......」

 ほぼ同時に驚きの声を漏らす二人。励菜とマリンは何ともないようにプラスチック製の皿や箸を用意している。

「お二人とも、どーぞ!」

 二人分の皿と箸を励菜が差し出してくる。

「ね、ねえ。あなたたち、いつもこんなに食べてるの?」

「いっつもってわけじゃないんですけど、今日は励菜ちゃんとマリンちゃんも食べるって言うんで、いつもよりちょっと多めにしました......」

「これで『ちょっと多め』、くらいなのね......」

 優の底知れぬ食欲には驚かされるばかりだった。

「み、実歩。とりあえずあたしたちもご馳走になろ?」

「そ、そうね」

 靴を脱いで実歩と夢果もシートの上に腰を降ろした。さっきは量に圧倒されたが、よく見るとおかずはかなり美味しそうだった。

「な、何でも食べてください......。この間ご馳走してくれた、お礼です......」

 恥ずかしそうに微笑しながら優が弁当を示した。

「じゃあ、遠慮なくいただくね。............はむ。んーっ、美味しい! やばい、あたしも負けそうかも」

「本当......すっごく美味しいわ」

 見た目だけでなく味も絶品で、賞賛の声は自然と口から飛び出していた。

「よかったね! 実歩ちゃんと夢果さんも褒めてくれて!」

「優のご飯、いっつも美味しいからねー」

「はぅう......」

 一斉に褒め言葉を浴びせられ、縮こまりながらも照れたように優は微笑していた。

「あ、でもボクは実歩姉と夢果姉のお弁当も気になるな~。後、それも」

 そう言ってマリンが指差したのは夢果の水筒だった。

「ああ、これ? 紅茶だけど、飲む?」

「飲む飲むー」

「わ、私も飲んでみたいです......」

「わたしもわたしも!」

「オッケー。じゃ、三人ともコップ出して」

 手際よく三人分のコップに紅茶を注ぎ、夢果は実歩に声をかける。

「せっかくだからあたしたちが持ってきたサンドイッチも分けてあげたら?」

「それはまあ、いいけど」

 実歩と夢果は、それぞれ持って来ていたバスケットを励菜たちに渡した。

「わ~! すっごい美味しそうです!」

 バスケットの中のサンドイッチを見て、励菜はプレゼントをもらった幼子のように目をキラキラと輝かせていた。

「......た、食べていいですか?」

 大人しい優ですら興奮を隠し切れないようだ。本当に美味しい物が好きなようだ。「いいわよ」と声をかけた途端、二人は間髪置かずサンドイッチを口に押し込んだ。少し遅れてマリンもサンドイッチに手を伸ばす。

「あむっ、......ん~! 美味しー!」

「お、美味しいです!」

「んまい」

 親指を上向きに突き出してきたマリン。飛び切りの笑顔を見せてくれた励菜と優。実歩は頬がほんのりと熱を帯びるのを感じた。

「そ、そう......」

「実歩~。もしかして照れてる?」

「照れてない!」

「あむ。夢果姉のも美味しいよ?」

 小さく口を動かしてサンドイッチを咀嚼しながらマリンが言った。

「ありがと! でも、ほんと実歩も腕を上げたよね! いやあ、初めてあたしが料理教えた時に比べたらずっと成長したなー」

「ちょ、ちょっと、夢果! その話は!」

 悪戯っぽく笑った夢果がスパシャンの三人に向けて言う。

「信じられる? 実歩って最初はめっちゃ料理が下手で、初めて料理しようとした時には真っ黒い何かが  」

「そ、それ以上はダメー!」

 蒸気が噴き出してきそうなほどに顔を赤くした実歩が夢果の口を塞ごうとしたが、顔の動きで躱されてしまった。それを見て笑う励菜と優。表情に乏しいマリンも、楽しそうに微笑していた。

 穏やかに昼休みを過ごすはずだったのに、一気に騒がしくなってしまった。

 そうではあるが  友達と一緒に過ごす時間は本当に心が安らぐ  そんなことに実歩は深く気づかされていた。



 学校が始まってから三週間ほど経った頃。

 担当者との面談期間が始まっていた。この期間中は担当指導員、もしくはマネージャーとの面談があり、主に学生生活の不安を広く相談することが目的となっている。実歩は優とマリンを担当し、夢果は励菜の担当となった。

 場所は生徒指導室。相談すべき事項の記された紙を見ながら夢果は励菜を待っていた。

「失礼します」

 ノックの音がした後に、励菜が小さく頭を下げて入ってきた。面談という名目にはなっているが、あまり緊張しているようには見えなかった。

「よーっす。お疲れ、励菜。そこ座って」

 夢果が机の向かい側を手で示すと、励菜はパイプ椅子に腰を降ろした。

「学校も始まってそろそろ一か月くらいになるけど、どう? もう慣れた?」

 雑談をするように訊くと、励菜は普段よく見せる笑顔を浮かべて頷いた。

「はい。まだわからないことも多いですけど、優やマリンが助けてくれますから」

「あっはは。本当に仲いいんだね」

 手元にあるプリントにメモを取りながら面談を続けていった。学校は楽しいか、勉強は難しいか、悩みはないか、魔法少女向けの訓練は大変か。魔法少女学校を送る上でありがちな質問や悩みを夢果は訊いていき、励菜はそれらに歯切れ良く答えていった。励菜の話している時の表情や口振りから大きな悩みを抱えているようには感じなかったが、一つだけ気になることがあった。

「クラスメイトとはどう? 上手くやってるの?」

 その問いに、励菜の顔が僅かに強張った。笑顔を保とうとしているようだが、視線が少しの間宙に泳いだのは確かだった。

「優やマリン以外に友達はいるの?」

 念を押すように訊くと、励菜は静かに首を横に振った。その笑みは弱々しいものに変わっていた。

「やっぱり、わたしのことがちょっと怖いみたいで......」

「怖い?」

 メモを取るのに使っていたボールペンと紙を一旦机上に置くと、両手を組んでじっと励菜を見つめた。

「変な女子に絡まれたってのは実歩から聞いてたけど......また何か嫌がらせ受けたの?」

 励菜は即座に手を横に振った。

「いえいえ! クラスはみんないい人ばかりです! 優やマリンもいるし、心配しないでください!」

「それならいいけど」

「はい、でも......」

 俯き加減に励菜が言葉を重ねる。

「クラスのみんなとはちょっと距離みたいなものを感じます......。まあ、わたしが試験で目立っちゃったからかもしれないですけど......。話していても、何か壁を感じちゃうんです。......なんかわたしまだ認められてないのかなって思っちゃいました......」

 小さく開かれた唇から紡ぎ出されたのは、そんな弱音ともいえるような想い。

 少し考えるような間を取った後に、夢果は言った。

「励菜はさ、認められたいわけ?」

「認められたいっていうのもありますけど......、みんなともっと仲良くしたいです」

「そっか」

 組んだ手に一度視線を落とした後、再び励菜を見た。

「認められるのと、仲良くする、の両方をやるのは難しいかもよ」

「えっ......」

 励菜が視線を上げた。顔に薄く驚きが浮かんでいた。

「仲良くなるのは時間がもうちょっと経てばできると思うよ。まだぎくしゃくしてる部分があるのかもしれないけど、励菜は励菜なりに頑張れば少しずつ距離は縮まるはずだよ」

「はい......」

「勿論、あんたたちに嫌がらせをした奴らは許さないから。また嫌がらせとか受けたらあたしや実歩に言って。とっちめてやるから」

「それはないんで大丈夫です」

 きっぱりと言い放った夢果に、ばつが悪そうに苦笑した。

「......でも、認められるかどうかは難しい問題だと思う。それは他人の問題だからね。残念だけど、どんなに頑張っても認めてくれないような人はどこにだっているから」

「......そう、ですよね」

 かすかに頷いた励菜の瞳はどこか愁いのようなものを帯びていた。

「だからさ、他人が認めるかどうか、じゃなくて、自分が認めるかどうか、じゃない?」

 励菜がわずかに驚いたような顔をした。

「励菜はこの学校でどうなりたいの?」

「それは勿論実歩ちゃんみたいな魔法戦士になりたいからです」

 一切の迷いのない返答に満足そうに頷きながら、夢果は続ける。

「だったらその夢に向けて精一杯頑張ればいいと思うよ。さっきあたし、頑張っても認めてくれない奴がいるって言ったけど、逆に言えば、ひたすら頑張れば認めてくれる人もどこかにはいるよ。あたしだって、この仕事に就くのにめちゃくちゃ頑張って、色んな人に馬鹿にされた。でも、実歩は認めて応援してくれたから」

「馬鹿にされた......? 夢果さんいい人なのに......」

「励菜が思うほどあたしは立派でも何でもなんでもないよ。想力の適性なんて全然なかったし」

 頬杖をつき、夢果は視線をどこか遠くに逸らした。口元は薄い笑みが保たれていたが、目は寂しそうに細められていた。

「すっごい悔しかった。あたしも実は魔法戦士に憧れたんだけど、想力の検査はボロボロ。笑っちゃうくらい想力が使えなかったの。だからイライラして、周りに八つ当たりすることも結構あったよ。......どんなに努力してもどうしようもないことがあるってわかるのに随分と時間がかかったね」

 仄かな感傷の滲んだ声。いつも明るい夢果からはあまり考えられない声だった。 

 初めて聞く衝撃的な内容に、励菜は目を剥いていた。

 夢果が励菜に視線を戻した。表情は幾分か和らいでいた。

「でも、やっぱりあたしは魔法少女が好きだから。せめて魔法少女を助けられるような仕事に就けないかなーって思ってひたすら勉強して、魔法少女学校の職員にやっとなれたわけ。ひたすらに頑張ってれば他人がどう思うかなんてあまり気にならなかったね。......だから励菜、今頑張れることをとにかく頑張りなよ。そうしたら、たとえ最初思ってた夢とは違っても楽しいことが待ってるからさ。......実歩やあんたたちと頑張ったり、ご飯食べたり、時々馬鹿やったり、仕事はちょっとだるい時もあるけど、何だかんだであたし今、楽しいよ」

 にこっ、と夢果はひまわりのような笑顔を咲かせた。彼女の口から語られた話と、彼女の笑顔に励菜は胸の奥が暖まるような感覚に包まれていた。

「夢果さん......! 貴重なお話、ありがとうございます......!」

「大して役立つことは言ったつもりはないけどね。ま、困ったことがあったら何でもあたしや実歩に言って。実歩も素直じゃないだけで、いつも励菜たちのことを考えてるからさ」

 自分は、実歩のように技術的な面で力になることはできない。

 それでも、できることがあるなら。自分の経験が少しでも何かの力になれるなら。

 そう思って、夢果は自分の過去と想いを打ち明けたのだった。



5



励菜はきっと強くなる  そんな確信が馬鹿に思えるくらい、大きな課題が実歩に突きつけられていた。

 卓上カレンダーを睨みながら実歩は額を掻いた。

 校内練習試合まで残り一週間。この試合では魔法少女同士が一対一での決闘を行う。決闘とはいえ、新学年最初の練習試合だ。どちらかというと、他の魔法少女の戦闘を実際に体験して刺激をもらう、といった勉強的な意味合いが強い。勿論成績には加味されるが、よほどの惨敗でもない限り担当指導員やカリキュラムが変更される、といったことはない。だから、実歩もあまり緊張しないはずだった。  担当する生徒が励菜でなければ、の話だが。

 実歩は昨日理事長室で行われたやり取りを思い出していた。



「残念だが、次の練習試合で池内が負ければ、池内の指導を止めてもらう」

 

「    ッ?」

「勘違いするなよ。山県が悪いわけじゃない。池内はやはり実力不足だったということで、実戦訓練を受けられなくなるってことだ」

 それはつまりギルドからも外される、ということだ。苦い顔をした藤堂の口から告げられたそんな内容に、実歩は頭頂を拳で殴られたような衝撃を受けた。

「どうして......ですか? 練習試合で一回負けたくらいでは大きな影響はないって聞きましたけど」

 掠れた声が実歩の唇から漏れた。

「普通はな。だが、池内はEランクだ。試合に出ること自体がありえねえ、と主張する奴が出てもおかしくはないだろ」

 それは事実だった。試合への参加が許される魔法少女は全員がCランク以上だった。データ上はEランクの中でも最下位である励菜が試合に出るなど最早何かの間違いではないか、と疑われても無理はない。

「でも、だからって......励菜だけがこんな処遇を受けるなんて納得できません。実際、励菜は実力試験を突破したじゃないですかっ」

 藤堂が眉間に皺を寄せ、鼻の上を掻いた。

「それについても、噂が飛び交ってる。あれは八百長だとか、まぐれだとか......ってな。要するに、池内みたいな弱くて、闇の想力とかいう得体の知れない力を使う異端な奴に指導員をつけるほどじゃねえ、実戦訓練なんて必要ねえ  そんな不満が続出してる」

「そんな......っ、そんなの言いがかりよ......!」

 実歩は爪が手のひらに食い込むほどに、拳を強く握った。頭の中が熱くなるような憤りを覚えた。

「山県の言いたいことはわかる。だがな、考えてもみろ。学年最下位の生徒が、実はすげえ優秀で、特別扱いされる。......そんな時に素直に祝える奴ばっかりだと思うか? 単純な話だ。自分より弱いと思っていた奴が、活躍するのは気に食わねえ。そんな風に思う奴がうちの学校にはたまたま多かった。それだけのことだ」

「............」

 実歩は何も言葉を発せられなかった。実歩だって同じような負の感情を抱いていたのだ。そのことを思い出し、実歩は胸がずきりと痛んだ。

 藤堂が小さく息をついた。言いづらそうに顔をしかめていた。

「"Eランク"と"闇の魔法少女"への差別がひでえってのは聞いてたが、まさかここまでとはな......」

「だから、試合で結果を残せ、と......?」

「そういうことだ。不満を抱いている連中を納得させるような結果を残せなけりゃ、他のEランクの連中と同じように扱う。でないと、池内の立場は今よりもっと悪くなる」

 実歩は下を向いていた。励菜の苦しい状況に気づけなかった自分を恥じた。励菜に無根拠な噂を流している連中には猛烈に腹が立つが、それ以上に励菜が不憫で仕方がなかった。

「悪いが、もう一つ嫌な知らせがある」

 実歩は藤堂の顔を見た。彼は腕組をし、鋭い眼光を向けていた。

「これからの試合......池内は下手に戦えば......死ぬ」



 試合において命の危険がある、というのは知っている。実戦を想定した訓練なのだから決して遊びではないのだ。

 だが実際の死亡事故は極めて少ない。試合はランクの高い者しか参加できなかったことがほとんどであった。ランクが高ければ魔法少女の身体は障壁によって守られる。完璧に防ぐわけではないので、激しい戦闘になると負傷の危険はあったが、それでも死亡のリスクは大きく軽減される。

 ところが、下位ランクの魔法少女になると、この障壁の質が落ちる。すなわち負傷、場合によっては死亡のリスクが格段に高まるのだ。過去に一度だけだが、偶然一次実力試験を突破したEランク魔法少女が、試合中に死亡したという事故がある。

 例えるならば、Eランクの魔法少女を試合に出させるというのは、貧弱な装備で戦場に行かせるに等しい危険な行為だ。

 もし、励菜の身の安全だけを考えるなら、試合出場は即刻中止にすべきだ。担当指導員が出場を拒否すれば本人の意志とは関係なく試合を棄権させることができる。

 だが、それは励菜から魔法戦士になるという夢を奪うことになる  。

 励菜を戦わせるのか、戦わせないのか。

実歩は頭を抱えた。自分に与えられた難題に煩悶していた。

 今回の対戦相手はCランク魔法少女。ジョブはシューター。はっきりいってこの時点で分が悪すぎる。

 今回の相手は試合に参加する生徒の中では、特別に優れているわけではない。Cランクの中でもちょうど中間といったステータスで、優やマリンなら完封、とまではいかなくとも有利に戦えるはずだった。有り体にいえば、励菜が弱すぎるのだ。

 ただでさえファイターとシューターの戦いは、ファイターが不利とされる。あくまで一般論であり、固有スキルや戦法によってはファイターにも勝機はある。しかし、高ランクと低ランクの戦いになればその差が歴然とする。

 励菜が勝つには、倍以上の想力量を持ち、射撃を得意とする相手に、遠距離攻撃を避けた上で接近戦に持ち込んで戦いを制さなければならない。

 無謀にも程がある。獰猛なライオンに丸腰で突っ込むような愚行だ。なす術もなく射撃されて終わる  考えたくはないが、最もありえそうな結末だ。

 やはり、試合は棄権させるべきか。実歩の心の中で天秤が傾く。今は無理でもまた実力をつけ直して挑めば良いのではないか......。

 実歩は頭を横に振り、即座にその考えを否定した。そんな悠長なことは許されない。藤堂からも説明があったように、Eランクということで周囲から疑いの目で見られているのだ。そんな理不尽な疑念を払拭するには結果で示す以外ない。他の魔法少女とは違い、励菜には一試合における重みが違うのだ。

 それに  励菜は試合の棄権など望んでいるのだろうか?

 そんなことはない、と実歩は思う。試合が近づき、対戦相手も公開されたはずなのに、励菜がそれについて不安に思っているような素振りを見せたことは一度だってない。むしろ闘志は増しているようにすら見えた。

 努力の末にようやく手にしたチャンスを本人の意志とは関係なく潰されたら  彼女がどんなに失望するか想像もしたくない。

 では、戦わせるのか? 死ぬかもしれないのに? また誰かを死なせるのか?

 心の天秤が激しく左右に振れる。少しも水平になる様子がない。

 チャイムの音がして我に返った。次はスキルの実習訓練だ。その補助員を担当している実歩は、資料をまとめると席を立った。しかし、実歩の迷いは靄のように彼女の胸を覆っていた。



 放課後。

 実歩は励菜を職員室に呼び出していた。迷った末に出した結論がそれだ。本人の意志を尊重したい。だから励菜と面談した上で最終的に決定することにした。

「放課後に来てもらって悪いわね」

「いえいえ! それで、話って何ですか?」

 邪気のない瞳を見ていると、どうしても尻込みしてしまう。だが、命に関わることだ。言い難そうに実歩は切り出す。

「次の練習試合なんだけど......どうするつもりなの?」

「えっ? 出ますよ」

 当たり前じゃないですか、と励菜の目は語りかけてくる。迷っていた自分がおかしいのか、と思えるくらい潔い返事だった。だが、実歩はあえて厳しく問う。

「命の危険があるってことは......わかってるの?」

 その途端、励菜の頬がぴくっと震えた。伏し目がちになった瞳に宿っていた光が揺れ、つらさを堪えるように下唇を噛んだ。実歩に指摘されて改めて試合の危険性を思い出したのだろうか。実歩は何も言わず、ただ励菜の返事を待った。

 やがて。

「実歩ちゃんが......危険だって思うのなら中止、でも、いいです......」

「えっ......?」

 実歩は目を見開く。励菜がここまで消え入るような声を漏らしたのは初めてだったからだ。

「実歩ちゃん、わたしのこと......心配してくれてるんですよね、それは嬉しい......です」

 ちっとも嬉しそうには見えない。切なそうに細められた目がそれを示していた。

「ごめんなさい、わたし、わがまま言っちゃって......実歩ちゃんも困りますよね」

 まさか謝られるとは思わなかった。何と声をかけたら良いかわからず、実歩はただぽかんとするだけだ。

「お話は、以上ですか?」

「え、ええ......」

「わかりました。じゃあ、これで失礼します。......あ、実歩ちゃん、この後の練習はいつも通りお願いしますね」

 実歩が小さく頷くと、励菜はぺこりと頭を下げ、職員室を去って行った。彼女は最後に笑ってみせた。だが、その笑顔は無理矢理取り繕ったように見えて、ひどく痛々しいものだった。

 実歩はしばらくぼうっとしていた。何かとてつもなく、間違ったような気がする  そんな形容しがたい罪悪感のようなものが彼女の胸を支配していた。

「実歩ー、練習あるんでしょ? 行かなくていいの?」

 夢果の声で実歩ははっとする。夢果は実歩を見ていなかった。忙しそうに指をキーボードに走らせ、パソコンで何かの作業をしている。

「ん? 何?」

 実歩の視線に気づき、視線だけをこちらに向けてくる。

「いえ、何も......」

「そ」

 胸にもやもやとしたものを抱えながら実歩は立ち上がった。実歩と励菜の会話は聞こえていたはずなのに、夢果の口調は淡泊だった。



 放課後の練習は何となく励菜の体調が優れないという理由ですぐに解散となった。実歩としても練習にあまり気が乗らなかったので、妥当な判断だったとは思う。ただ、励菜が去り際に見せた哀愁の漂う後ろ姿を見て、ひどくやるせない気分になった。やはり試合に未練があるのだろうか、とは思ったが何も声はかけられなかった。

「ふうん。それで励菜を寮に帰らせた、か......」

 職員室に戻ると、夢果はまだ自分の席にいた。作業は終わったらしく、缶ジュースを飲みながら一息ついていた。

 励菜の試合は棄権することに決めた。心残りはあるのかもしれないが、励菜の同意が得られたのだから、問題はないはずだ。

 どう考えてもそれが賢明な判断だ。命の危険がある試合に出させるなど指導員としては絶対におかしい。

 試合を棄権することで励菜が実戦訓練を受けられなくなることはほぼ確実だろうが......仕方がない。生徒を死なせるなどということは絶対にあってはならないのだ。

 実歩は夢果にそのあたりの事情をすべて話していた。だが予想外なことに彼女の反応は小さかった。時々相槌を打つ以外は、ただ黙って実歩の話に耳を傾けていた。

「残念だけど、今回の試合は諦めるしかないわね......」

 苦しげに実歩が言うと、夢果はジュースの缶に口をつけた。ふと、夢果が実歩を見た。何も言葉を発さずにしげしげと実歩の顔を眺めている。その目はまるで実歩の心の奥底を見透かそうとしているように思えた。しばしの沈黙を置いた後、ゆっくりと口を開いた。

「実歩さ、励菜のことをどう思ってるの?」

「は? どうって......」

「深く考えずに答えて」

「......元気で明るくて、今はまだ能力が低いけど、きっと今後の努力次第ではもっともっと伸びると思うわ」

 やや口ごもりながら実歩は答えた。だが、励菜をどう思っているかと訊かれたら、彼女は困惑する。かつて自分が助けた相手、ということもあるが、まるで昔の自分を見ているかのようで、励菜に対して複雑な感情を抱いていたのだ。だから、さっきの返答もまるっきり的外れではなかったが、自分の考えを的確に表現できたとは言い難かった。

「元気で明るい、もっと伸びる、ね......」

 実歩の言葉を反復しながら、夢果は背もたれに体重をかけた。椅子のスプリングがぎい、と軋む。

「夢果はどう思ってるの?」

「あたしだって大体は同じだよ。でもさ、それっておかしくない?」

「おかしいって何が?」

「だって考えてみて。励菜はまだ中学生の女の子でしょ? 入学を拒否されて、周りから最下位だと馬鹿にされ続けて、それでも諦めなくて掴んだチャンスも一回こっきり。そんな状態でまともでいられると思う? あたしだったらプレッシャーでおかしくなっちゃいそう」

「っ  」

 その通りだ。励菜だって女の子で、人間だ。きっと精神にかかる重圧も尋常ではなかったはずだ。なのに彼女はそんな素振りを見せずに努力していた。それは  

「それでも倒れるくらい頑張ってたのってそれだけ励菜が試合に思いがあったから、だと思わない?」

「でも......」

「命の危険があるから? でも、そんなの試合に出る励菜が一番よくわかってるんじゃないの? 励菜はその覚悟を決めた上で練習してきたんじゃないの? それともそんな覚悟もないのに遊び気分で励菜は練習してたの?」

 実歩は激しく首を横に振った。そんなわけがない。

「何回かあたしも二人の練習は見せてもらったけど、あたしはそんな風にはとても見えなかったよ。......そんなに熱心に練習してきたのに、試合前に『死ぬかもしれないけど大丈夫?』なんて訊かれたかったと思うの? あたしは思わない。でなけりゃ、あんなしょげた顔はしないよ」

「あなた、見てたの......」

「見てた」

 作業に没頭していたのかと思ったが、夢果はちゃんと見ていたのだ。

「実歩は指導員(、、、)と(、)して(、、)は励菜のことをちゃんと見ていると思うよ」

 ここで初めて夢果が柔らかな表情を見せた。

「私は、指導員失格よ。だって、励菜のこと、何も知らないし......」

「いいや。指導員と生徒の関係なら、相手のことを深く知る必要はないと思うよ。毎日生徒のデータを確認して、練習メニューを組み立てて、細かく指示を出してる......正直、実歩ほど優秀な指導員は他にいないと思う。これ、お世辞じゃないからね」

 そこで一旦言葉を切り、再びジュースを飲んだ。

「......でも、本気で励菜の力になりたいならそれじゃ足りないと思う。あの子、特別過ぎるもん。能力が、じゃないよ。ほとんど救いがないのに、頑張り続ける姿勢があたしにはすごいなって思う。怖いくらいね。......あたしには励菜が頑張り続ける理由がまだよくわからない。実歩だってそうなんじゃないの? お互いのことがよくわかんないのにわかってる振りして大事なこと決めちゃうって、それってすごく危なくない? 後悔しない?」

 夢果の物言いは激情に駆られたものではなかった。ただ素朴な疑問を口にしているかのように、淡々としていた。

 だが、実歩には夢果の言葉一つ一つが響いて聞こえた。それは実歩の心を激しく揺さぶるからに違いなかった。

 いつの間にか、実歩は本当に血が出そうなくらい拳を強く握り、そのまま自分の頬を殴りつけたくなった。

 自分は、何も見てあげられなかった。

   実歩ちゃんが......危険だって思うのなら中止、でも、いいです......。

 あの時見せた励菜の......まるで親友に裏切られたような、失望と悲しみの混じった顔。実歩はようやくその意味を悟った。

 励菜は傷ついていたのだ。ただでさえ励菜には理解者が少ないのに、信頼していた指導員に信用されていなかったから。

 命の危険があるから? 励菜が心配だったから?

 違う。結局はただ自分が逃げたかっただけではないのか? 責任を取るのが怖かっただけではないのか?

 励菜は命の保証がないということを承知で修行に打ち込んできた。それは一番身近で見守っていた自分がわかっていたはずなのに......。

 自分は励菜について何も理解していなかった。いや、正確には女の子としての励菜は全然知らなかった。ランクだとかステータスだとか上面の情報だけで励菜を判断するな、と肝に銘じていたはずなのに、自分もまたそんな情報に左右されていたのだ。

「そんなつらそうな顔しないでよ、実歩」

 夢果がいつもの笑顔に戻っていた。

「前も言ったでしょ? 自分にできることをやればいいって。あたしはあたしの思ったことを言っただけだよ。だって、実歩と励菜が本音を言わないまま後悔するのを見るのは嫌だし。......だから、実歩も実歩の思うことをやればいいんじゃない? 実歩はどうしたいの?」

「私は  」

 やるべきこと。そんなことは決まっている。

「私、励菜にもう一度会ってみるわ」

「ん」

 夢果の反応は小さく頷いただけだった。そうすると思っていた、とでも言うように。

「ありがとね、夢果」

「あたしは言いたいことを言っただけだけどな~」

 夢果はとぼけたように笑った。実際、彼女の言う通りなのだろう。思ったことをそのまま口にしただけ。それでも実歩は夢果に感謝した。言いにくいことをずばりと言う悪友のありがたさが骨身に沁みた。

 今度こそ、自分は迷わない。実歩は職員室を飛び出して行った。

 その背中を見送りながら夢果はふう、と疲れように息を吐いた。

「ほんと手間のかかる子なんだから、あの子は......」

 そういう彼女の口元は薄く笑んでいた。





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