愛しきわたしの堕天使(一)・(二)

竹原桜姫(石川舞華)






 昔々、神や天使が住む天界に美しいお姫様がいました。お姫様は心優しく、多くの人たちから好かれていました。そんなお姫様の隣には、いつも一人の青年がいました。白い翼をもったその青年は、お姫様のことを愛しておりました。お姫様も青年のことを愛し、結婚の約束を交わします。

 しかし、幸せは長く続きませんでした。結婚の約束からしばらくして、青年が突然闇の中に姿を消してしまったのです。お姫様は懸命に捜しましたが、見つけたのは一枚の白い羽のみ。彼女は嘆き悲しみました。今でも彼女は青年を捜し続けているそうです。胸に白い羽を付けたまま  。



 天界は楽園ではない、とあの人はよく言っていた。今の状況を見れば嫌でもわかるはず。目の前で呻いているはずの天使や神は全く見えない。目に映るのは黒い闇。ただそれだけ。早くしないと、大変なことになる。

「闇よ、静まりなさい」

 わたしは右手をかざし、力を集中させる。そこから出た光はゆっくりと闇を包み、そして消し去った。ばっと青い空が広がり、光が差し込んでくる。天使たちはぐったりとしているけれど、ひどいけがをしている者は一人もいなかった。

「ありがとうございます、キョウ様」

 皆がお礼をしている間にも、わたしはけがの手当てをする。やり方はさっきのと大体同じで呪文が違うだけ。時折目の前がくらむけれど、やめるわけにはいかない。

「わたしにできるのはこれぐらいしかないから」

 どこからかくすくすと笑う声が聞こえた。でも、もう

慣れっこだ。

 わたしは一応女神で、将来は天界を治める身ではあるけれど、それほど強い力を持っているわけではない。いや、何の力を持っているのかまだわかっていないといった方が正しい。戦えるわけでもないし、今使った力もお母様の方がずっと強い(母は呪術を司る女神だから当然といえば当然)。女王としての仕事が忙しいから、わたしが代わりを務めているだけに過ぎない。というわけで、何か起こったとしても、わたしはほとんど何もできない。今回の件を除けば。

「これで『闇」は五回目、だったはず、よね?」

「天界ではその通りです。魔界などではもう百回近く現れているとか」

「そう......」

 十年ほど前から、世界は「闇」に襲われていた。実体はない。意思のようなものも見られない。けれど、文字通りに全てを喰らうらしい。誰かがそう言っていた。天使や神でも小さくするのが限界なようで、消し去るためにはわたしかお母様の力が必要だった。

「魔界の方は大丈夫なの?」

「最近までは魔界の王たちが力ずくで消していたとお聞きしましたが......。最近王が亡くなったらしく、今混乱が起こっているらしいのです。最も、連絡がつかない状況なので本当かはわかりませんが」

 使者を遣わすにも危険すぎて、と天使が答える。確かにそうだ。闇にでも襲われたら死んでしまうかもしれないのに。だけど、確か  

「二日後に魔界と冥界との会談があるらしいの。知ったのは数日前だけど。そこで何かわかるかもしれないわ」



 辺り一面に咲いているのは白いバラ。その真ん中にいるのは、わたしと、最愛の天使。

「キョウ様」

「なあに?」

「その、こんなこと、言う立場にはないのですが......」

「?」

「ずっと、傍に、いたいのです」



「フェル!」

 そこでわたしの夢は途切れた。もう叶うことがない夢。わたしの隣にはフェルがいて、二人で笑いあったり支えあったりする。あの時は、それがずっと続くものだとばかり思っていた。

 窓の外を見ると、黒い空に星々が輝いていた。まだ夜なのか。こんな日に夢でうなされるなんてたまったものじゃない。明日は冥界に行って会談に参加する日なのに。わたしは傍に置いてあった白い羽に手を伸ばし、キスをした。

「私を守って、フェル」



 そして朝。少しぼんやりとはするものの、起きることはできた。悪い夢は見なかった。ちゃんとあの人はわたしを守ってくれたんだろう。目を覚ますために、パチンと頬を叩く。今日はのんびりする暇がない。どことなく重い体を引きずって、準備に取り掛かった。

 部屋の外に出ると爺やがいた。どこか心配そうな様子だ。

「おはようございます、キョウ様。本日は会談ですな」

「そうね」

「初めてで不安ではありませぬか? 心配ならば少しぐらい仰っていただいても構いませんよ。聴くだけならできますので」

 爺やはいつも以上に早口だった。そんなに心配しなくてもいいのに。何も怖くないから大丈夫、ありがとうと返した。本当は少し不安だけれど、周りの人にまで心配をかけるわけにはいかない。

「さすがキョウ様! 王国の跡取りとして着実に成長しておられますな。私も嬉しゅうございます」

 爺やの目がキラキラと輝く。あまりにも興奮したのか、白い壁にもたれかかりゴホゴホと咳込んだ。あまり興奮しすぎるのもよくないのに。わたしが背中をさすると、爺やはようやく落ち着いた。

「ああ、忘れるところでした。女王が部屋でお待ちです。早く行かれた方がよろしいかと」

 そうだった、遅れるわけにはいかない。私はお母様のところへ急いだ。



 お母様はどことなく緊張しているように見えた。いつもの笑顔はどこにもなく、沈んだ様子だった。わたしが部屋に入ってきたことに気が付くと、ようやく顔を上げた。

「キョウ。これが初めての会談ですね......。私がついているとはいえ、率直に言って、心配です」

 お母様は茶色の瞳を私の方に向けた。心配だなんて口に出して言うなんてことは今までになかった。

「大丈夫です。無事にやり遂げます。決して邪魔になるようなことは致しません」

 だから心配しないでください、と笑顔で答えた。お母様はニコリとも笑わない。それを見て少しだけ不安になった。

「そうですか。それなら、大丈夫そうですね。安心しました」

 そうこうしているうちに出発の時間が近づいてきた。部屋を出る直前、お母様はどこかぼんやりとしていた。何かをつぶやいているようにも見えたけれど、聞き取ることはできなかった。



 数か月前  。豪勢だがどこか薄暗い部屋に、美しい女王が座っていた。向かい側にも何者かが座っているが、闇に覆われて姿は見えない。

「お久しぶりですね」

「久しぶりだな、女王。何の用だ?」

 女王は一呼吸おいて切り出した。

「いつまで彼を封じているつもりでしょうか?」

「......何のことだ?」

「とぼけないで! あの人を幽閉していることは知っているの」

 相手の返答に腹が立ったのか、女王は語気を強める。それでも、「闇」は何も話そうとしなかった。

「警告しておくわ。もう時間がないの。今すぐにでも解放しなさい」

 「闇」はニヤリと笑った。まるで彼女を嘲るかのように。その時、地下深くから音が響いた。音は次第に大きくなっていく。耳を塞ぎ音に耐える二人の前に何かが現れた。その姿を見て、「闇」が絶句する。

「だから言ったのに......」

 声を震わせながら、女王は呟いた。



 会議の主催国である冥界へは、ペガサスの馬車でも数時間かかる。その間に、付き添いの家臣からいくつか報告を受けたり、確認をしたりした。

「冥界が今まで以上に暗くなっているの?」

「そのようです。幸い宮殿周辺には影響がないようですが」

 冥界には初めて行くからよくわからないけれど、外を見ると真夜中のように真っ暗だった。大きな大きな「闇」が冥界をまるごと食べようとしているような感覚がして、頭がくらっとする。少しでも気を紛らわせようとお母様に聞いてみると、数か月前からそうなのだという。

「キョウ、あなたは暗いのが苦手でしたよね。怖ければいつでも言いなさい」

 わたしははい、とだけ答えた。わたしは昔から暗いのが苦手だった。部屋は明るくないと眠れないし、真っ暗な道を歩くときはランプを両手で三個抱えないと歩けない。こんな時にフェルがいれば、きっと私にお任せください、といってランプを十個抱えてあたりを照らしてくれただろう。わたしはネックレスにつけた白い羽を触った。思い出にばかり浸るのもよくないとはわかっていても、怖いのはどうしようもない。

 お母様は背中をさすりながら、笑顔で尋ねる。

「ところで、会談は大丈夫そうですか?」

「大丈夫です、準備もしていますし」

 大丈夫とは言ったものの、不安点が全くないわけではなかった。

 まず一つ目。今回の会談の議題が全く分かっていないのだ。天界と、魔物が住む魔界、それから死者の国冥界の代表が集まり開かれる三界会談。そこでは様々なことが議論される。議題は三カ国間での貿易や人間界への関与の仕方などが多く、普段なら数週間前までには議題が書かれた書簡が送られてくる(ここまではフェルの受け売りだ)。けれども、今回はそうではなく一週間前に使者が来てお母様のみに議題を告げたのだ。これは何かありそうだ。......最も、本当に怪しいのならお母様がわたしを出席させないはずだけど。

「お母様、魔界の王がどのような方か、本当に分からないのですか?」

 お母様は頷く。これが二つ目の不安点だった。数か月前、魔界の王が亡くなってしまったというのは誰もが知っている。けれども、新しく即位した王がどのような人物なのか全くわからないのだ。いい人ならいいけれど、そもそも今日の会談に参加するかさえわからないのだ。

「前の王は豪快な悪魔だったわ。言葉遣いは乱暴だったけれど、本当にいい人だった。最近は病気で床に伏した状態だったらしいけれど、お見舞いになんかくるんじゃねえって、お見舞いも断られたの。一度ぐらいは挨拶出来たらよかったのでしょうけれど。」

 お母様の口調はどこか寂しそうだった。

 時間が経つにつれ空気が寒くなっていく。けれども闇は消えたらしく、景色ははっきりしてきた。周りには墓標のように何かが立っていて、地面には草一本生えていない。天国では見たこともない景色がどこか怖く思えた。

「そろそろ到着の時間よ、キョウ」

 お母様が言った。遠くに黒一色の宮殿が見えた。



「ようこそお越しくださいました。メイ女王、キョウ王女。私共が広間まで案内いたします。」

 城門にいた兵士が恭しく挨拶をする。わたしたちも会釈をした。ランプを持った兵士たちに案内され、城の中に入る。暗い中を歩かなくていいのはありがたい。

 冥界の宮殿は中も薄暗かった。灯りはなく、ランプの光だけが頼りだ。壁も床も黒一色で、絵画や彫刻は一つもない。まさに死の国の城にふさわしいものだった。城の兵士がじろじろとこちらを見る。目玉だけの怪物がこっちを覗いているようでガクガク震える。わたしはお母様のドレスの袖をつかんでいた。

 お母様は大丈夫、と慰めてくれたけれど、わたしは怖かった。あの日から、もっと闇を嫌いになった。闇はあの人をさらっていったから。早く明るいところへ行きたい。

「ここでお待ちください」

 案内された広間に入って、わたしは息を吐いた。ここも明るい、とは言い難いけれど、さっきまでよりはずっとましだった。広間にはすでに二人の人物がいた。奥の方に座っているのは冥界の王。図書館の本で見たことはあるが、実際に会うのは初めてだ。闇に覆われて姿をはっきりと見ることはできない。隣には副官と思わしき人物が立っている。ふと視線を感じると、すぐ近くに冥王が立っていた。顔はよく見えないが、どこか歪んでいるように感じた。

「数か月ぶりですね、王。こちらは娘のキョウです」

 お母様が前に出てきて挨拶をする。わたしも冥王にお辞儀をした。

「初めまして。キョウと申します。」

 声こそ出さなかったけれど、フン、と鼻で笑われた気がした。一瞬の後、気配が消えた。どこに行ったのか、冥王の姿を探した。王は何事もなかったかのように元の場所に座っている。

「大丈夫よ、キョウ」

 お母様が小声で言った。

 会談まではまだ一時間ほどある。その間に冥王と軽く会話をした。とは言っても、冥王は何も話さなかった。会話はすべて副官を通じてしていたからだ。それにしても、場の雰囲気がピリピリしている。特にわたしが何かをしたときは。何もした覚えがないのに冥王がピリピリしているから辛い。正直、会談まで耐えられそうになかった。と、その時。

「遅れて悪いな」

 近くにいた兵士が慌てて制止するのを無視し、一人の少年が入ってきた。わたしより少し年下に見える。ぼさぼさの銀髪に金色の瞳、顔の入れ墨が、とても印象的だった。

「お前が魔界の新たな王か?」

 副官が尋ねる。少年は首を縦に振った。

「ああ。名前はリベド。よろしくな!」

 場違いなまでに馴れ馴れしい彼の姿にわたしはきょとんとしてしまった。お母様はそれほどでもなかったみたいだけれど。そんな様子を見たのか魔界の王、リベドはこっちを向いた。その顔には笑みが浮かんでいた。

「よろしくな、姫様」

 わたしは何も言わずに、頭を下げた。どうも馴れ馴れしい人は苦手だ。わたしの周りにはそういう人がいなかったから、慣れてないだけかもしれないけれど。

 副官が、そろそろ時間だと言った。わたしは数回深呼吸をした。気持ちの切り替えは大事だ。一方のリベドは全く気にせずにほかの人たちに挨拶をしていた。

「あの子が王なのね......。血は争えないわ」

 お母様は呟いた。



「本日は緊急招集であったにも関わらず、お集まりいただき、誠にありがとうございます。冥王に代わり、厚くお礼申し上げます」

 副官が始まりの挨拶をする。やっぱり緊急の会談だったか、とわたしは思った。絶対に何かある。

「今回の議題は早急に解決しなければならぬ問題なのです。というのも......」

「本日の議題って何なの? 何にも聞いてねえんだけど」

 リベドが話の途中で割り込んだ。話を聞くこともできないのかと、少し苛立った。副官が何か言う前に、冥王が睨みつける。それをまるで気にせず話を続けようとする彼を何とか制止して、副官が続ける。

「今回の問題は世界を崩壊しかねないほどのものです。冥王も解決に尽力されてはいましたが、どうにもならずに皆様に協力を仰ぐことに決められました」

 副官がそこまで言ったところで、部屋に兵士が入ってきた。何か話をしている。場の空気がますます重苦しくなった。それと同時に、お母様の目つきが鋭くなる。もう既に何が起こっているか知っているのだろうか。その目線の先にいる冥王も、どこか落ち着かない様子だった。平気そうなのはリベドだけだった。先程までと何ら変わりない様子だ。わたしもできる限り平静でいようとした。しかし、その努力は無駄であったことを、わたしは後で知ることになる。

「まずは見ていただきたいものがございます。皆様、私に付いてきてください。」

 副官は席を立つように言った。またあの通路を歩くのか、とわたしは少し憂鬱になった。その様子を見たのか、リベドが言った。

「怖いのか? 大丈夫だって」

 わたしは余計なお世話だからからかわないで、と言い返してやった。リベドはまだ何か言っていたけれど、無視することにした。

 漆黒の通路を通ったかと思ったら、今度は地下に下りる。これ以上暗くならないと思っていたのに、もっと暗くなってしまった。よく見えないが、どうやら地下牢らしい。周りからは囚人らしき唸り声がひっきりなしに聞こえてくる。渡されたランプだけを頼りに、何とか進み続けた。何度も何度も白い羽を触りながら。

 地下牢からさらに階段を降りたところにある牢屋の前で、ようやく先頭を歩いていた副官が足を止めた。ゆっくりと振り返り、わたしたちに言った。

「こちらになります」

 ランプで照らされたのは誰か、一瞬で分かった。震えが止まらない。目の前の光景を信じたくなかった。

 全身を鎖で縛られ、うつろな表情をしている。重力に負けて垂れ下がった白い翼がなければとても天使だとは思えないだろう。わたしが知っている「彼」よりずっと身長が伸びていて、顔つきも険しくなっているように見える。かつて、一緒にいたころとは似ても似つかない姿になっていたけれど、紛れもなくあの人だった。

「フェル......?」

 隣にいたお母様は微動だにしない。冥王は私の言葉に反応して、首を縦に振った。

「こちらにいるのはルシファー。かつて天界の第一側近で、最強の天使として知られていました。ここにいる皆様なら、彼に関する一連の事件はご存知でしょう」

 一連の事件は、きっとフェルがいなくなったことだろう。お母様が話を続けるように促す。周りが冷静に見えた。なんでこんなに落ち着いていられるのかと聞きたかった。

「十年ほど前、色々と事情があって冥界が捕らえておりました。しかし、それから間もなく力が暴走し始めました。しばらくは冥王が抑えていたのですが、数か月前からはそれもできなくなり、そのせいで冥界に多大な被害が出ています。このままでは世界全体に影響が出てしまいます。どうか力を貸してほしいのです」

 そんなことになっていたなんて。わたしはその場にへたり込んだ。





   愛しきわたしの堕天使(二)



「キョウ様! 早くお逃げください!」

「フェル、でも......」

「いいから早く!」

 あぁ、貴女は無事でしょうか?



 彼女はとても美しく、恐ろしい人だった。すらりとした長身に、飾りこそついていないが品のある黒いドレス。綺麗に整えられた黒い髪は腰まで伸び、顔立ちも普通の人ならば見とれてしまうほどだ。だが、感情の読めない黒い目と、不自然なまでに白い肌がどこか不気味だった。

 俺は漆黒の鎖で全身を縛られていた。その彼女直々に、だ。闇  冥界に囚われるとは予想外だった。突如として現れた巨大な闇が、キョウ様を一飲みにしようと襲い掛かり、それをかばう形で俺は闇に飲まれた。今は冥界の地下牢にいるのだと、彼女は教えてくれた。キョウ様を逃がせたのは不幸中の幸いといったところか。そのまま逃げ切れていればいいが。

 鎖で縛られてから数日後。再び地下牢に現れた彼女は俺の目を見つめ、静かに問いかけた。

「ねえ、フェル。どうして貴方は私のものではないの?」

 血の気がない白い手が頬を撫でる。自分を見つめるその顔は親を見つめる子供のようでもあり、獲物を見つめる獣のようでもあった。恐れたら相手の思うつぼだ。そう悟った俺はできる限り冷静に、失礼の無いように答える。

「貴女とは数度しかお会いになったことはない。そもそも、私は天界の者だ。住む世界が違う」

「そう? そんなことはないと思うけれど......。私、貴方のことをずぅっと見ていたの。数回なんてことはないわ。千回は会っているはず」

 俺は耳を疑った。彼女の姿を見たのは使者として冥界に行った数回だけ。それは間違いない。彼女はずっとペラペラしゃべっているが、正直に言うとそれどころではなかった。恐らく彼女とは話が通じない。

 いきなり彼女が腰に抱きついてきた。ぞっとするものを感じ、必死に体を動かすが逃げられない。彼女は「話を聴いて」と何度も言った。体ががくがくと震えた。

「ねぇ、私のものにならない? 私は死の世界を司るの。死んでくれさえすれば種族なんて関係ないわ」

「我が主は天界そのものだ。貴女のものになる気はまったくない」

「それは嘘ね。貴方の主は大好きな大好きなキョウ様、でしょう? ......少なくとも今は、ね」

 色々な感情がぐるぐるとして、体中を巡る感覚がした。違う! 俺は、天界を守る天使だ。たった一人を守るなんてことは  。いや、本当は  。正反対の二つの言葉は、どこかにすっと消えた。

「ねぇ、私、いいことを思いついたの」

 彼女は懐から短剣を取り出した。刃先から禍々しい何かが感じられる。俺はとっさに鎖を引きちぎろうとした。逃げないとまずい。本能がそう叫んでいる。だが、いくら力をこめても腕一本動かせなかった。

「フェルなんて名前で呼ぶから天界のことを思い出すのよ。もう私だけのものなのだから新しい名前を付けてあげないと!」

 彼女はそんな様子を気にする素振りも見せず、短剣を胸にめがけて突き刺した。

「そうね。貴方の名前はシオン。それがいいわ」

 天界が、女王の姿が、すべてが闇の中に消えていく。そしてキョウ様の姿も。闇に沈んでいくその中で最後に聞こえたのは、彼女の無邪気な笑い声だった。

   ああ、キョウ様。ずっとそばに居ると約束したのに、もう、守れそうにありませんね......。



 こちらに気が付いたフェルが唸り声を上げる。そこから感じられるのは、いや、襲い掛かってくるのは「闇」そのものだった。

   なんでフェルが?

 フェルは光を操る天使だった。そんな彼が何故? そもそもどうして冥界が捕らえておく必要があったの? 頭の中が混乱して、体が動かなかった。このままだと喰われる。

「しっかりしなさい、キョウ」

 お母様が光を放ち、闇を消し去った。差し出された手に捕まって、何とか立ち上がる。先程までなんともなかったフェルの体は、冥界を覆っているよりも強い「闇」に覆われていた。

 わたしたちをかばうようにして臨戦態勢を取りながら、リベドが大声で尋ねる。

「ここ十年の間、世界を襲っていた闇はこいつから生み出されたんだな!」

 副官がその通りです、と答える。隣にいる冥王はぼんやりしている。何か考えているようだった。

「面倒なことしてくれやがって」

 リベドはチッと舌打ちをした。

「で、こいつどうすんの?」

 そ、それはと言葉に詰まる副官と相変わらず何も語らない冥王にリベドはいら立ちを隠せない様子だった。一歩間違えれば何か事件が起きてもおかしくない。

 どう反応していいかわからない状況を助けてくれたのはお母様だった。三人の様子を見ていたわたしの肩を軽くたたくと、小声で聞いた。

「フェルの力を鎮めるのはできそう?」

 そうだった。まずはフェルの力を抑えないと。けれど、わたしの力で大丈夫なのだろうか。今のフェルにはふれるどころか、近寄ることもできなさそうだ。

「わたしに、できるのでしょうか」

「私もできる限りの力は貸します。一人ではありません」

 だけど......。

「フェルを助けたいんでしょう」

 そうだった。フェルのためだ。何度か深く呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。お母様の力もあるから、うまくいくだろう。そうだ、そうに違いない。お母様は、つかつかと冥王たちのもとに歩いていく。わたしもその後を急ぐ。

「私たちで、力を一時的に封印することはできます。その後はどうなるか分かりませんが......。やれるだけのことはやりましょう」

 腕をぽきぽき鳴らして臨戦態勢に入っていたリベドを落ち着かせ、冥王に牢屋の封印をといてもらった。重そうな扉が少しずつ開いていく。

 フェルの元まで数メートルしかないのに、何十キロも歩いているように感じられる。お母様は「闇」に覆われた空間を光で打ち消しながら、わたしはお母様にしがみつきながら、一歩一歩ゆっくりと歩いていく。もしもフェルの力を封じられなかったらどうなるのだろう? 死んでしまうのだろうか?それとも  。

「迷わないで。二人とも死ぬわよ」

 今までにないほど冷たい声だった。顔からは滝のように汗が流れている。今は余計なことを考えないようにしよう。

 フェルのもとにたどり着いたときには、息をするのもやっとの状態だった。だけど、休んでいる暇はない。まずは母がフェルの体に右手を置き、呪文を唱える。これでフェルの動きと体中で暴れている「闇」の動きを一時的に止める。そして「闇」がひるんだ隙に呪術で消し去るのだ。お母様がフェルの胸に右手をかざす。わたしもフェルの体に触れ、力を送り込んだ。フェルの体は冷たかった。昔つないでいた手は暖かかったのに。

 もう、うまくいくかどうかは考えなかった。

「フェル。もとに戻って  」



「これから、彼は天界の方で監視します。もし再び暴走するようなことがあれば......」

 その言葉の続きは聞かなくてもわかった。なんとか術は成功したとはいえ、彼が今まで通りに過ごせる保証はどこにもない。心は晴れなかった。周りを見ても、誰も安心するどころかむしろ先程までより警戒しているようにすら見える。特に冥王は。

 お母様の提案に誰も反対せず、会談は終わりとなった。気が付くと冥王は姿を消し、リベドもふらふらしながら帰っていった。わたしとお母様、そしてフェルも、天界へ帰ることにした。フェルは眠っていたから静かに馬車に乗せて、できる限り静かに帰った。

 天界に帰った後、フェルは家臣たちによって運ばれていった。母とは、今後のことについて話した。監視と言っても、暴走しない限りは今まで通りに接しても構わないこと。天使としての仕事や生活は本人の希望を聞くこと。フェルが帰ってきたことはまだ大々的に言わないこと。決まったのはこの三つだった。

「ああ、それから」

 母が何か思い出したように言った。

「これからは何かと忙しくなりそうよ」



 フェルの目が覚めたのは、城に帰って数日後の事だった、らしい。というのも、その時わたしはその場にいなかったから。天界に帰った後、フェルは元々の家まで運ばれた。わたしはお母様と話が終わった後、職務もそこそこに彼のもとまで走って行った。

「ちょっとキョウ様! 自分がお世話をしているので心配しなくても......うわぁー!」

 世話をしていた家臣を追い出して隣を占領することにも成功。途中で何回かドアをノックする音は聞こえたけれど、すべて無視した。まだかな、まだかなと待っていたけれど、気が付いたら自分の部屋のベッドにいた。もちろんフェルの姿はない。その代わりにいたのはカンカンに怒っている爺やだった。

「キョウ様! 心配する気持ちは痛いほどわかります。わかりますが! せめてお仕事位はきちんとなさってください!」

 爺やはぐちぐちと文句を言い続ける。何を言っているのかはほとんどわからなかった。わたしは適当にはいはいと相槌を打つ。普段はほとんど使わない技だった。取りあえずフェルのところに行かせてほしい。

「あぁ、そうでした。ルシファー様が部屋で眠っていたところをわざわざここまで運んでくれたのですよ。後でお礼を言うことですな」

 フェルが、わたしを? わたしは耳を疑った。爺やを部屋の端っこに追い詰めて聞き返す。

「フェルが?」

「ええ。もう生活には支障がないらしいそうです。さすが最強とうたわれるだけ......」

「なんでそれを先に行ってくれなかったの!」

「貴女へのお叱りが先に決まっているでしょう!」

 わたしは爺やが止めるのも聞かないで、髪だけ整えて部屋を飛び出した。



 フェルが住んでいた屋敷はお城のすぐ隣だ。それなのに、なかなかたどり着けない感じがしてもどかしい。胸が苦しくなる。それでも、足を止めることはできなかった。早くフェルに会いたい。

 フェルの屋敷は真っ白な壁で覆われている。彼はずっとそこで暮らしていた。召使を何十人召し抱えても文句を言う人は誰もいないにも関わらず、彼は一人で暮らしていた(当然家事も庭仕事も一人でこなしていた)。一人で住むにはあまりにも大きすぎるその屋敷に、わたしはよく遊びに来ていた。いや、むしろフェルの方が招待してくれることの方が多かった。だから、どこにいるかは大体想像がつく。きっと、あそこだ。わたしは屋敷の裏に回った。

 フェルは裏庭を歩いていた。あの人が一番好きだと言っていた場所だ。白いバラで覆われた、世界で一番美しい場所だとよく自慢していたっけ。フェルは昔と同じように白い花びらを優しく撫でていた。

「フェ、ル......? フェルなの?」

 思ったように声が出ない。もっと近づかないと、こんな声じゃ聞こえない。乱れた息を整えながら、一歩一歩歩く。

 三メートルぐらいまで近づいたところで、ようやくフェルが振り返った。驚いたような表情を浮かべている。なんだ。昔より大人になっているけれど、全然変わっていないじゃない。何を言おうかしら。すぐには思い浮かびそうにない。あれだけ言いたいことがあったのに。けれど、フェルの姿を見た時、どこか不安だった。話しかけていいの? 本当に大丈夫?

 しばらくお互い何も話さなかった。きっとその方がよかったのかもしれない。わたしたちはお互いをじっと見つめていた。

「ずっと変わらないな、お前は」

 先に口を開いたのはフェルだった。その一言で、わたしはすべてわかった気がした。フェルはもう  。

「俺とは大違いだ」

 フェルがキッと睨みつける。視線の先は白い羽の首飾り。薄々感じていた不安は、見事に当たっていた。

「悪いが消えてくれないか? 俺は天から堕ちた。もうお前たちと何の関係もないはずだ」

「フェル!」

「黙れ」

 フェルはバラを触りブツブツと何かを唱える。すると、一瞬であたり一面が真っ暗になった。黒く染まったバラと屋敷全体を覆っている茨。その光景から何故か目を離すことができなかった。

 フェルはわたしをちらりとも見ないで、茨の中へ姿を消した。







さわらび116へ戻る
さわらびへ戻る
戻る