バルバーレイク

レーゴ








   日本のどこかに、不思議なお店があるそうです。

 店主は獣の眼をもった男です。輝く瞳の美しい店主は、黄昏時に突然目の前に現われます。「うちの店においでください」。店主に選ばれた者だけが、ドアを開くことを許されます。

 暗い店内は、十八、九世紀ヨーロッパにタイムスリップしたような気持にさせます。照明の下で鈍く光るカウンター、精緻なダマスク柄の壁紙、豪奢な装飾の椅子、重厚なグランドピアノ。そして、隅っこの闇に半身が浸かった人形。椅子に腰かけた人形は、男にも女にも、どちらでもないようにも見えます。白目は青く輝き、虹彩は黒く濡れています。自然に流れる鼻梁、紅く色付いた薄い唇。しなやかにのびる、病的とも言えるほど細い四肢。きっと、その人形を一目見れば誰もがこう思うでしょう。美しい、と。

 その人形は、店主の手で命を吹き込まれます。店主が手をあげろ、と命じると手をあげ、歩け、と命じると歩きます。人形は、本物の人間のようにふるまいます。

 そして店主は命じます。「あの客を殺してしまえ」。

 人形はすぐには殺しません。じわじわじわじわ、少しずつ客の生気を吸い取っていきます。客は、美しい人形を見たいばかりに、夜毎店に引き寄せられるのです。自らの命を完全に奪われつくされるまで、延々と。人形の瞳の中に、死神が隠れているとは知らず  。





「......っていうの、面白いと思わない?」

「はあ」

 楽しそうに語る鞍本に、尚希は曖昧な返事をする。鞍本の口は盛んに動いているが、手のほうも絶え間なく動き、鏡の前に座る麻崎の唇に色をつけていく。

「どこの都市伝説ですか」

「やだー、うちの店のことに決まってるじゃない」

 口紅を指揮棒のように振る。化粧をされている麻崎は顔をしかめた。

「なんか映画とか劇がひとつ、できそうでしょ」

「はあ」

 また生返事をしながら、尚希はネクタイをしめた。それでも鞍本は気にする様子はなく、鼻歌混じりに麻崎の身支度を整えていく。呑気な人だ。

 麻崎の準備を手伝い、店で少し働いたら帰ってしまうから鞍本はその後のことを何も知らない。だから、本来の店の雰囲気に似合わず明るくいられる。

 グランギニョル。それが店の名前だ。二十世紀半ばまでパリに実在したという劇場の名からきている。殺人や拷問の演劇ばかりやった劇場。グランギニョルは「大きな指人形」という意味なのに、演者は人間だった。その人間が血糊を大量に使い、客を何人失神させるかを評価の基準としていたというのだから、悪趣味なことこの上ない。

「ささ、できたわよー。今日もきれいねぇ」

 満足気に鞍本が麻崎の肩に手を置く。

 事務的に頭を下げ、立ち上がった麻崎の動きに合わせてワンピースの程よく膨らんだ裾が揺れた。全体的に黒い衣装に白い肌が鮮やかに映える。一体どこからこんな服を調達してくるのだろう......。

 麻崎が尚希の方を向く。さっきの鞍本の都市伝説の中に出てきた人形の描写そのままの人物がそこにいた。本当に人の手で作られた人形のように見える。あまりに完璧な造作ゆえに、普段は水のような、ぼんやりとつかみどころのない、記憶に残りそうで残らない、曖昧な空気を纏っている。しかし、こうやって人工的に容姿を固定すれば個性を持つ。今日はビスクドール。十九世紀のブルジョアの女性たちが愛好したという、アンティークの。ただ、あの人形のように麻崎はしもぶくれの顔ではないが。

 麻崎に与えられる役は人形のみ。人間ではない。あくまでも、他人の意志によって動く人形でなくてはならない。

「今日もお仕事がんばってね、マリオネットちゃん」

 屈託のない鞍本の言葉に、麻崎は無表情のまま頷いた。





「じゃあ、後はよろしくね」

 真っ赤な長い髪が視界の隅で翻った。

「お疲れ様です」

 鞍本はひらひらと手を振ってバックヤードに繋がるドアから出ていく。髪と同じく赤い爪が暫く視界の端でちらついた。

 鞍本はいつも髪色が派手で、しょっちゅう色が変わる。この前まで青だった。そんな奇抜な髪がわりと似合っているから不思議だ。年齢もよく分からない。少なくとも自分よりは上だと思うが、それほど上とは考えられない。

 店の端にある椅子に座る麻崎は、じっと眼を伏せたまま、動かない。カウンターにいる客も、いくつかあるテーブル席の客も、それぞれの会話の間を縫って麻崎に視線を投げかけている。しかしまだ夜は長い。こんなに早く声をかける者は、いない。

 この店のスタッフは尚希と鞍本、麻崎の三人だけだ。小さな店で客の数も限られているから何とかやっていけるが、鞍本はもともと衣装の調達やメイクを仕事として雇われているから、店に出るのはほとんど尚希と麻崎だけだ。

 ただ、仕事の内容は大きく異なっていた。尚希はカウンターの中で客の注文に応える。麻崎は、客から金を受け取る。しかしただのレジ係ではなかった。飲食代を受け取るのはもちろんだが、チップを受け取るのが麻崎の役目だ。それも、場合によっては飲食代の何倍、何十倍もの額を。現代日本でチップなんて誰も払わないだろう、と尚希ははじめ思っていたが、意外にもほとんどの客が払う。比較的裕福な客層のせいかもしれないが、おそらく普段しない行為の非日常感に客自身が酔っているのだろう。

 そしてチップは麻崎に対してのものだった。麻崎はいつも、店の隅の椅子に座っている。時には普段着で、時にはゴシック調の服で、時には和服で。男装も女装も。飾り物だった。人形だった。自分からは動かない。客への対応と、オーナーの高村が手を引くまでは、絶対に。

操り人形  客の間で麻崎はマリオネットと呼ばれている。アンティークドールのような恰好をしたり、市松人形のような恰好をしたりしても、渾名は変わらない。いつも、操られているから。操るのは客と高村。多額のチップを払えば払うだけ、麻崎は動く。微笑み、手を握らせ、ハグする。  チップというより、単にサービス料と言ってしまえばそれまでだが、あくまで雰囲気が大切なのだ。

 そう、雰囲気。地上とは別の世界。アンダーグラウンド。アブノーマル。酒に酔うのではなく、漂う空気に酩酊する。だから、グランギニョルでは酒で酔いつぶれる者が少ない。酒に酔って意識を手放してしまったら、空気に酔う暇がない。

 偶に何も知らない〝一般〟の客が入ってくることもあるが、すぐさま出ていくか、その(・・)気(・)があれば簡単に染まる。そうやって大して金持ちではない客が紛れ込むと、金を稼ぐために何をやっているのか、どんどんやつれた顔つきになり、いつの間にか姿を見せなくなる。これではほとんどキャバ嬢やホストに入れ込んで破産する者と変わらない。

 そこまでやらせるのが麻崎の恐ろしいところだった。椅子から滅多に立ち上がることなく、人を破滅に追い込むのだから。それも、男も女も、年齢も関係なく平等に。

 だから金持ちは長生きだ。常連になれる。現実世界で金に塗れてより世俗的であればあるほど非現実の世界で生きていけるなんて、なんだか皮肉だ。

 男が一人、麻崎の前に立った。常連の男だ。金を渡す。麻崎は淡く微笑み、差し出された男の手の甲に唇をつけた。血管の浮いたでこぼこした血色の悪い手には、薄っすら紅が色を差している......のだろうが、尚希のいるカウンターからは確認できない。

 男は大袈裟に、恭しくお辞儀をして見せる。もう一度、麻崎は鷹揚に微笑む。肩まで伸びた濡れ濡れとした黒髪が揺れ、その奥で、金色のピアスが光った。男は腰を低くしたまま、名残惜しそうに麻崎の前から離れた。姫に褒美を貰う騎士......であればこの光景は絵になるだろうが、麻崎は姫になれたとしても相手が額の後退した中年男だから、台無しである。



 最後の客を送り出し、午前二時に営業が終了する。普通はここで、無事に仕事を終えて安心するところだろうが、尚希にとってはむしろ今、緊張が頂点に達していた。客がいなくなったにも関わらず、椅子に座ったままの麻崎を見て、胃がきゅっと痛くなる。

 静まり返った外界に繋がる外階段から、高い靴音が迫ってきた。仰々しい木製の出入り口が開き、男が入ってくる。オーナーの高村だ。色素の薄い虹彩が、店の暗い照明の下でも鋭い光を帯びている。獣の眼。鞍本が言っていたことを思い出す。客のぼそぼそとした話し声が消えた店内に、自分の呼吸が響いているような気がした。もしかしたら、麻崎のものかもしれないし、獲物を目前にした獣の息遣いかもしれない。

 高村さん、と声を掛けた尚希を完全に無視し、大股で店の奥、麻崎のもとへ向かっていく。

 高村は麻崎の腕を掴み、無理に引っ張る。麻崎は黙ったまま立ち上がり、瞼の下から高村を睨んだ。

 高村は顎を上に逸らし、麻崎を睥睨する。それだけで、麻崎は顔を背け、拗ねたように俯く。

 半ば引きずられるようにして、麻崎はバックヤードに姿を消した。



 隣の部屋から押し殺そうとして失敗した、奇妙な悲鳴が聞こえてくる。それと重なる鈍い音に、尚希は思わず耳を塞ぐ。

 早く終われ。口の中で何度も繰り返す。終われ、終われ。動悸が頭の中で反響する。

 ドアが乱暴に閉められる音がした。独特の高い靴音が遠ざかる。耳を澄まし、もう何も音がしないことを確認する。

 そっと隣室に入る。物置として使われている雑然とした部屋の床に、麻崎が横たわっていた。

 いつものように、麻崎を背負ってさっき自分のいた部屋へ運ぶ。こちら側の部屋は事務室として使われており、必要最低限の家具は揃っている。ソファーに寝かせる。鼻血を拭き取り、傷口を消毒し、絆創膏を貼る。麻崎の意識が戻る。

 大丈夫か、とはもう訊かなくなっていた。いつものことだから。高村だって、殺そうとして殴っているわけではない。少なくとも、身体のほうは。

 定位置となっているソファーに身を沈めた麻崎は、虚ろな眼球で天井を見ている。人形の眼。透明度の高い湖を思わせる瞳。だが、その湖に底はない。奥を覗こうと身を乗り出せば湖底に引き込まれる。どこまでも、碧色の闇が続く。

 マリオネットを操っているのは高村だった。高村ただ一人。客は、間接的に操っているに過ぎない。  これだけの額を渡されたら、こう動け。裏で動作の指示は高村が事前に行っている。オーナー自身は滅多に店に出ない。当たり前だ。人形の背後の傀儡師は、舞台上に存在しないものと認識されるのだから。人形劇が想定外の事態になると、高村は店に出てくる。あまりに高額のチップ。度を超した要求。高村のルールを外れた客は、その後店で見ることはない。

 ルールを外れた者。客ばかりではない。麻崎も罰を受ける。少しでも客への対応を嫌がったら。指示から外れた動作をしたら。誰にも話しかけられていないのに、自ら動いてしまったら。理不尽すぎる口実。口実だ。高村はただ、罰したいだけ。ただ殴りたいだけ。獣の眼が、麻崎を虎視眈々と、執拗に、狙い続けている。

 いつの間にか、麻崎は眼を閉じていた。微かに寝息が聞こえる。拭き取れていなかった血で点々と彩られる鼻を、空気が抜ける音。

 きれいに着飾った麻崎よりも、普段着の麻崎のほうが良い。普段着の麻崎より、傷つき疲れ切って眠る麻崎のほうが良い。絆創膏の上から頬を撫でる。この時間だけは、麻崎の所有権が自分にあるような気分になれる。

 グランギニョルは麻崎と高村のための舞台だ。そこに尚希の介入する余地はない。自分はこの劇の裏方にすぎない。演者ではない。

 どんどん麻崎は人形になっていく。出会った時は、もう少し表情豊かで、口数も多かった。高村から伸びる糸でがんじがらめになっている麻崎。でもその糸を解いたら、麻崎の身体ごとばらばらになってしまいそうだ。

 何故、そんなに高村は麻崎に執着し、麻崎は高村から逃げないのだろう。こんなに酷い事をされてまで。

 ......もう午前三時が近い。帰らなくては。眠る麻崎の脇を一度は離れようとし、また絆創膏越しに頬に触れる。未練がましくそんなことをする自分と、さっきの騎士きどりの客が重なり、自嘲の笑みが浮かぶ。

 羨ましかった。どんなに屈折した感情からであっても、麻崎に必要とされている高村が。絶対に、あの二人の間には割り込めない。

 麻崎に毛布を掛け、自分の荷物を鞄に放り込む。おやすみ、と囁いてから、部屋の電気を切った。





 あぁ、またこの夢だ。

 黒い筋がいくつも這う汚い壁に挟まれた路地にいた。顔を上げる。ビルとビルの隙間、電線と電線の隙間から、星の見えない脂ぎった黒い夜空がのぞく。ぽつんと、真っ青な月だけが浮かんでいた。俯く。自分の影が濃くなったり薄くなったりしながら揺れていた。前を向く。所々にある街灯が点滅している。赤い光が視界を染め、瞬時に脱色する。赤は抜けても月のせいで景色は青い。そこに再び赤が射す。混ざって紫になる。いつもの夢。

 鼻腔に絡みつく汚穢の臭い、湿った空気に塞がれた毛穴から中途半端に滲む汗、肌に貼り付く衣服。何かの奇声は重い空気に阻まれて鈍く聞こえる。酸っぱい唾液を飲み下し、明滅する光で二重にも三重にもぶれる輪郭線を凝視した。五感がほどける。感覚から解き放たれた自分の意識の背中が見える。いや、見ているのは人っ子一人いない暗い路地。いや、見ているのは身体のほうだ。身軽な意志の紫の幻影が見える。脚が重い。頭が軽い。わけがわからない。前を行く紫が、身体を振り返って淫靡に唇を曲げる。

 背中が立ち止まり、身体に意識が戻ってくる。

   やあ、薪。

 ビルの壁に沿って取り付けられた、錆び付いた非常階段の下数段を占拠した麻崎がいた。白目が月光を吸収し、青く発光する。赤い電灯が、顔の痣を目立たなくさせる。

   人形になれたかな。

「いいや」

 麻崎は哀しそうに微笑する。

   それじゃあ、誰も必要としてくれないね。

「そんなことない」

 少なくとも、おれは......。

 言いかけた言葉は麻崎の泣き声に紛れて押しやられる。

   だってだって、みんな、私が人形じゃなきゃ興味ないもの。

 両手で顔を覆って麻崎はすすり泣く。......夢の中では麻崎は感情の起伏が激しい。たぶん、尚希の願望だ。

「おれは、お前が人形じゃなくたって」

   じゃあ、助けてよ。

 指の間から双眸が睨みつけてくる。どこに光源があるのか、深い湖の奥から水面へ、爛々と光が射してくる。

   ほんとは僕が殴られて怪我するの、嬉しいくせに。モノとして扱われてるのが、好きなくせに。

 だから、おれの夢の中ではいつも麻崎は怪我をしている! 知っている。そんなことは、とっくの昔に気づいている。自分の夢なのだから、自分の願望が反映される。

   リョウカ。

 路地の闇からぬるりと高村が現れる。

   踊ろうか。

 麻崎は嫌がる。優しく差し伸べられた手を払いのける。

 麻崎の頬を高村は平手で打った。壁に頭を叩きつけられ、ぐったりする麻崎の腕を無理矢理掴み、フロアの真ん中に連れだす。いつの間にか場面はグランギニョルへ。客の囁きの波の合間を流れるピアノの音。高村はゆったりとステップを踏む。手を取られた麻崎は操り人形のように、リードされるままに踊る。尚希は舞台の上には登れない。自分は裏方。高村の紡ぐ物語の登場人物ではない。

 不意に高村は麻崎を放り出す。床に投げ出された麻崎は、糸が切れたマリオネットのようにぴくりとも動かない。

   助けてよ助けてよ助けてよ。

 錆びた非常階段で泣く麻崎が繰り返す。助けてよ助けてよ。

 本当に? 本当に、お前はそう思っているのか? 助けて欲しいって、それはおれの勝手な妄想じゃないのか?

 階段から麻崎を引きずり下ろした高村は、また殴る、蹴る。

   人形になりたいなぁ。

 ほら、それが本当の願いだろう。

 非常階段の手摺に額を押し付けて麻崎は呟く。

   だって、寂しいんだもの。

 そうだ、人形ならみんな、お前を必要としてくれるもんな。グランギニョルの客も、高村さんも。

   尚希くんも、どうだい。

 フロアの中心で高村がこちらに手を差し出す。抱かれた麻崎は高村の胸に顔を埋めている。高村の服には赤黒い汚れが付着している。

「ええ、ぜひ」

   こちら側にきてはだめ。和彰さんに捕まらないで。

 高村の肩の向こうに、ぼろぼろになった麻崎ではなく、まっさらな姿の麻崎がいた。何か叫んでいる。

   舞台に上がってはいけない。

 何を言ってるんだ。おれは裏方。舞台に上がらせてもらえないじゃないか。上がりたくても、上がれない。

   人形になってはいけない。マリオネットになってはいけない。

 高村の指が誘惑する。尚希の目に緩やかに折れ曲がった関節が淫猥に映る。

   こちらにおいで、尚希くん。

 高村の手を握る。手首に膝に、身体中に無数の糸が絡みついた。





 あまりにも麻崎の傷や痣が目立つ日は、店は臨時休業になる。人形の容姿  衣装や化粧は変わっても、ベースの顔や肌が変わってはならない。

 予告もなく休業するのだから、客としてはいい迷惑のはずだが、いつ開店するか分からない故に特別感が増してそこもまた魅力......らしい。

 久しぶりの休日、尚希は街をぶらついていた。日曜日の街は、家族連れやカップルが楽しそうに闊歩している。

 三年ほど前から見続けている猥雑な夢は、はじめこそ尚希を疲労困憊させたが今では慣れ切ってしまった。むしろ、あの夢をみるのが楽しみにさえなっていた。

 今の麻崎はまともに話さない。夢の中では喋ってくれる。例え偽物でも、麻崎にはちゃんと人間らしくいて欲しい。  本当に? モノとして扱われてるのが、好きなくせに。夢の中で麻崎に言わせた台詞を思い出して、一人苦笑する。

 何もすることがない日は、あの路地を探す。夢で麻崎がいる路地。現実に存在する場所なのか定かではない。現実であそこに行ったことがあるとすれば、かなり酒に酔った状態で行ったはずだから記憶が曖昧なのだ。

 麻崎が一人階段に座ってすすり泣いていたのを初めて見たのがあの路地だった。鼻血を流し、咳き込みながら嘔吐していた。その光景が強烈に瞼に焼き付いた。

 あそこが現実の場所だと判明したら、何か分かる気がする。麻崎が助けて欲しいのかどうか。気がするだけだ。それでも、何かしらの決心がつくかもしれない。かもしれない......。

「あれ......薪」

 背後から、夢では何度も聞いた、しかし現実には久しく聞いていない声がした。

「そんなとこに何の用があるの」

 ふっと笑ったのは麻崎だった。

 尚希は無意識のうちに、薄暗い、ポイ捨てされたであろうゴミが散乱した建物と建物の隙間に足を踏み入れていた。

 いや、と笑ってごまかし、大通りに身体を戻す。

 太陽の光の下で見る麻崎は久しぶりだった。顔の痣を隠すためか、目深にキャップを被っている。頬には真新しい絆創膏が貼ってある。

「大丈夫か、それ」

 自然に「大丈夫か」が口から出た。夜に沈んだ麻崎は傷があろうがなかろうが、半分死んでいるような眼をしているから絆創膏くらいで大して印象は変わらない。しかし今は、普通の人間らしく、大袈裟に手当てされた頬が痛々しく思える。

「いつも通りだよ」

 そう微笑む麻崎が新鮮で、無性に恥ずかしくなる。当たり前のように笑顔を見せる麻崎が、夜の麻崎と全くの別人に思えた。

「何してんの、こんなところで」

 照れ隠しついでにそう訊く。

「別に。散歩だよ」

 薪は? と聞き返され、おれも散歩、と返す。嘘ではない。

 示し合わせたわけでもなく、一緒に歩き出す。途中の自動販売機で、それぞれ飲み物を買う。

 冷たいコーヒーの缶を掌で転がしながら、あてもなく歩く。明るい街の中、麻崎が隣に平然と存在している。嬉しい反面、胃がもやもやするような違和感を覚える。視界の隅にちらつく白い頬が、現実感を薄れさせる。街の風景と麻崎の不一致。グランギニョルの内装の中、無機質なバックヤード、夢の汚穢にまみれた路地にしか、尚希の中の麻崎は存在していなかった。

 カシュ、という間抜けな音がした。麻崎が炭酸飲料のプルタブを引いていた。紫色の液体が、麻崎の手元を溢れて地面に落ちる。

 はっとして辺りを見回すと、明るい街の中ではなかった。左右から迫る薄汚れた壁、異臭のするゴミ袋、錆び付いた非常階段。あの場所。

 まだ、夢の続きを見ているのだろうか。生々しい饐えた空気に気分が悪くなる。キャップをかぶった麻崎が、階段に立っている。現実か。あの気色悪い月も電灯もない。狭い空から降る光は、太陽の光だ。

「ここで、はじめて会ったよね」

 違うか、ほんとにはじめて会ったのはあのナイトクラブか。一人で麻崎が訂正する。三年前、尚希のバイト先だったナイトクラブで麻崎は高村を怒らせ、顔を踏まれかけた。初めて見た時から、麻崎はすでに高村に支配されていた。

 あの時、麻崎も尚希もまだ大学生だった。麻崎のほとんどが高村の手の中にあった。生活のための金さえ、高村から出ていたと後から知った。

 高村が尚希と麻崎を引き合わせたのが二年前。その時はまだ、グランギニョルはビルの地下を買っただけのがらんとした場所だった。そこから開店し、今に至るまで尚希は高村に手を貸した。

「どうして和彰さんの誘いにのったの」

 和彰。高村をその名で呼ぶのは麻崎だけだ。高村は偽名だ。和彰は本名だと麻崎は言った。そして、高村はその名で呼ぶことを麻崎にだけは許している。

「お前を近くで見るために」

 初対面から今日まで麻崎はずっと高村の圧政に押しつぶされている。助けてよ。あの夢で麻崎が繰り返した言葉は、自分が麻崎に頼られ、寄りかかってきてほしい、そういう欲望の表れだ。麻崎を守る、だなんて大層な信念は昔も今も持っていない。近くで麻崎を見ていたい。その一心だった。ただ、見たい。

 麻崎は返答に気を悪くした様子はない。むしろ、甘い笑みさえ浮かべる。

「高村さんは、どうしておれを選んだのかな」

 ずっと疑問だった。特別容姿が優れているわけでもなく、頭が切れるわけではないのに。なぜ、自分がグランギニョルの従業員として選ばれたのか。

「薪、お前が一番目の客だからだよ」

「......は」

   店主は獣の眼をもった男です。輝く瞳の美しい店主は、黄昏時に突然目の前に現われます。店主に選ばれた者だけが、ドアを開くことを許されます。

 どこかで聞いた文章を、麻崎は諳んじてみせる。

「獲物を狩るのは和彰さんだけど、獲物をおびき寄せるエサは私。それに引っかかった最初の獲物が、薪、お前だよ」

「意味が分からない。どうしてそんなこと」

「それは知らない。だって僕は、あの人のマリオネットだもの」

 でも、と麻崎は嗤う。夜の無表情でも、さっきまでの柔らかな表情とも違う、軽薄で冷酷で無慈悲な獣。高村の顔だった。

「何かが壊れるのって、綺麗だから」

 コツン、コツン。一段ずつ麻崎が階段を降りる。後ずさりした先のゴミ袋の山に足をとられ、背中から倒れる。

 あの眼球がすぐそばにあった。眼球の湖に吸い込まれる。だめだ、目を覚ませ。麻崎を突き飛ばす。麻崎の手から離れた缶が、中身をぶちまけながら尚希の鼻面に直撃する。

 どっと冷たい紫の液体が顔を覆った。微かにぱちぱちと炭酸のはじける音が耳元でする。人工的な甘い匂いが腐臭をかき混ぜる。

 こちらに来てはいけないと、夢の中で叫んだ麻崎は何者だったのか。おれの僅かな理性が作り出した最後の警告者だったのか。現実の麻崎は、完全に高村の支配下だ。もう自分の意志では行動しない。

 麻崎の指が尚希の喉に触れた。喉仏を指が這う。  怖い。はじめて麻崎に対してそう思った。人形として高村の意志を汲み取った麻崎は、模倣しすぎて獣と化していた。全身が、下腹の底からぞっと冷たくなった。

 右手に持ったままだった缶コーヒーを、思い切り麻崎の側頭部に叩きつけた。鈍い音とともに、麻崎はバランスを崩して尚希の腹の上にのしかかる。うっ、と尚希の呻きが漏れる。

 動かなくなった麻崎は重かった。人間の重さ。尚希の白いシャツに染みたジュースの紫の上を、赤黒い血液が侵食していく。

 まさか、と思い慌てて麻崎を抱き起す。息はしていた。気絶しただけだろう。

 何て脆い身体なんだ。太陽の光では、麻崎の顔色は一層悪く見えた。健康的な日光と、青白い麻崎ではあまりにミスマッチだ。違和感。やはり麻崎には夜が似合う。

 細い指に自分の指を絡ませた。ジュースでべとつく表皮がぴったりくっつく。手を揺すっても、麻崎は動かない。本当に人形になってしまったかのように、動かない。

 長い睫毛の向こうに微かにのぞく虹彩が、今は水面一帯を濁らせて澱み、奥まで視線が侵入することを拒んでいた。混濁した湖に潜る気にはなれない。あの、透明で底なしの湖になら、溺れてもいい。溺れたい。意識がありながら、人形になる麻崎。自我の向こうで服従する麻崎。あくまで、人間でなければならない。本物の人形ではだめだ。死んだ肉体ではだめだ。支配されきってオートマタになってもだめだ。ぎりぎりの瀬戸際を揺蕩う自我が、あの湖を作り出す。

 まだ昏倒している麻崎を背負う。ああ、やっぱりおれは、麻崎を助けたいなどとは思っていない。ぎりぎりで救い出し、自分にとって最善の状態に引き留めることが大事なんだ。麻崎は、ただの鑑賞対象。傷つき徐々に壊れる様を、見ていたい。それだけだ。

 そうだ、壊れる過程は綺麗だよ、麻崎。麻崎の頭から流れ出た細い血の糸が、尚希の首に絡みついた。



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