鱗

藩荷原課




 昔の話しだ。

 とある村の外れの淵には、竜神が住むと言い伝えられていた。

 一度竜神の怒りに触れれば雷雨が降り注ぎ、濁流が田畑を満たし、その後に病が流行ると。

 幼いながらも、勘助はその言い伝えをこれっぽっちも信じていなかった。

 言い伝えの淵は小さく、竜神が住むなどという伝承は甚(はなは)だ不釣り合いであった。

 嵐になればあんな小さな淵が溢れるのは当然だし、洪水の後は湿気で病気に罹りやすいものだ。

 そもそも、人が月面を歩くこの時代に竜神伝説などちゃんちゃらおかしいのだ。

 勘助は理屈が通らないものを嫌悪し、見下す性格だった。

 少しでも納得のいかない事はしつこく尋ね、人が答えられなくなれば、「ふん」と鼻を鳴らして侮蔑の視線を向けるような嫌な子供だった。

 そのために大人からも子供からも嫌われていた。

 いつも独りでいたが、勘助は鬱陶しい阿呆共がいなくて清々すると思っていた。

 淵の伝承は馬鹿にしていたが、淵自体は好ましく思っていた。

 村人たちは普段から淵に近づかなかった、淵はいつも静かだった。勘助にとっては煩わしい人間関係から解放される唯一の場所だった。

 何より、その淵は勘助が知るものの中で最も美しかった。

 鬱蒼とした森の深緑色も、木々の隙間に射す木洩れ日の白さも、吸い込まれそうなほど深い水面の藍色も、そのすべてが勘助を、ここにいてもいいのだ、と許容しているように思えたのだ。

 勘助は祖父が遺(のこ)した書庫から本を引っ張り出し、わざわざ山道を登ってまで淵で読んだ。

 それは勘助にとって最も安らぐ時間であった。





 八歳の五月であった。

 勘助はいつもの通り淵で本を読んでいた。爬虫類の図巻だった。

 じっくりと読んでいたが、ふと気が付くと何か黒くて丸いものが顔のすぐ隣に有った。

 それは人の頭だった。

 見知らぬ少女が、隣に座って本を覗き込んでいたのだ。

 少女は、村では見たこともないような真白な洋服を着ていた。

 その長い黒髪を見て、勘助は鴉の濡れ羽色という言葉の意味を理解した。

 最初はその少女を無視していたが、次第に、本を読み進めるのが早い、この言葉はどういう意味だなどと話しかけてくるようになった。

 勘助は少女が鬱陶しくなり、立ち上がって淵の別の所に移動した。

 すると少女も立ち、勘助の後ろを付いてきた。

 苦々しい顔で少女を睨むと、少女は悪戯っぽい笑顔を返してきた。

「ねえ、本好きなの?」

「......君は誰だ」

 少女はマナコと名乗った。漢字も説明していたが、勘助は興味がなかったので覚えなかった。

「私はね、最近このお池の近くに引っ越してきたの。空気の綺麗なところで養生するためよ」

 引っ越し作業をしている間、退屈を紛らわせようと探険していたところ、この淵と勘助をみつけたらしい。

 マナコは聞きもしないことをベラベラと喋った。勘助は読書の邪魔をされてうんざりしていた。

 適当な生返事をしていたが、それでもマナコは嬉しそうに話した。

「私ばっかりおしゃべりして疲れちゃったわ。あなたも何か話してみてよ」

 勘助はマナコの図々しさに心底うんざりした。

 脅かせばもう来なくなるかと思い、この淵の竜神伝説をたっぷり誇張して話してやった。

 しかし、伝承を聞かせるとマナコは目を輝かせて歓声をあげた。

「すごい! お家の近くにそんな不思議な場所があるなんて、まるで物語みたいだわ!」

 勘助は自分の失敗を悟った。

 追い払いたければ適当に突っついてやればよかったものを、小賢しさが裏目に出てしまった。

 今からでも引っ叩こうか。勘助がそんなことを考えていると、大人がマナコの名を呼ぶ声がした。

「お父様が呼んでるから、私もう行くね」

「ああ、そう」

 勘助はすっかりくたびれていた。もう本を読む気にはなれなかった。

 のそのそと帰ろうとすると、後ろからマナコに呼び止められた。

「私あなたの名前を教えてもらってないわ。聞かせてくれない?」

 勘助は振り返り、渋々答えた。

「勘助。品川勘助」





 初めてマナコに会った日から数日後、勘助が淵に行くと、今までは無かった小屋がぽつんと建っていた。

 呆然として立ち尽くしていると、マナコが現われた。

 山中には似合わないような青いワンピースを着ていて、上等そうな鞄を提げていた。

 勘助が小屋のことを問い詰めると、マナコははにかみながら説明しはじめた。

 勘助と別れた後、マナコは父親に素敵な淵を見つけたこと、そこでマナコと同じ本好きの友達ができたことを話した。

 マナコの嬉しそうな様子を父親は大変喜び、淵でも過ごしやすいようにと、わざわざ大工を雇って簡単な小屋を建てさせたという。

「お父様はとっても優しいの。見て、私たちが本を持って来やすいように本棚まで作ってくれたのよ」

 小屋は板敷きで、小さな品の良い木机と二脚の椅子、そして壁際に横長で背の低い本棚が置いてあった。

 勘助は頭が痛くなった。こんな図々しい人間に会ったのは初めてだった。

 いったいいつ誰が誰の友達になったというのだろうか。マナコが来るまでは、淵は確かに勘助だけの小さな領地だったというのに。

 二の句が継げずにいると、マナコは鞄から本を取り出した。表紙に美しい絵が印刷されていて、緑豊かな森が描かれていた。

「私のお気に入りの本なの。一緒に読みましょう!」

 そう言うとマナコは床に――椅子があるにも関わらず――座り自分が尻を置いた場所の横をペチペチと叩いた。

 マナコのことは気に入らなかったが、その美しい本は読みたいと思い、勘助は黙ってマナコの横に座った。

 マナコはニッコリと笑うと本を開き、穏やかな声で、子供に読み聞かせる母親のように朗読し始めた。

 鳥のように綺麗な声だった。

 人嫌いの勘助にしては珍しく、マナコの声は聴いていて不快にならなかった。



 

 勘助にとってマナコは、可愛らしい侵略者だった。

 マナコと淵で遊ぶ事が勘助の日常になった。

 マナコの持ってくる本はおもしろく、勘助は夢中になって読み耽った。

 勘助にとってマナコの本は、これまでの人生で出会ったこともないような思想や、ちっぽけな常識を吹き飛ばす新しい知識をもたらしてくれる魔法の本だった。マナコもまた、勘助の本を面白そうに読んだ。

 本を読むだけではつまらない、とマナコが言うので、歌を歌ったりして遊ぶこともあった。

 勘助は本を読みたくて仕方がなかったのだが、マナコの遊びに付き合うのも本を読むために必要な対価だと割り切っていた。

 マナコは信心深い質らしく、淵に来ると水辺で跪(ひざまず)き、手を合わせて竜神に祈りを捧げた。

 勘助はその姿を見て阿呆だと思った。

 病気の療養のために越してきたという話しだったが、時が過ぎるに連れて、マナコはどんどん元気になっていった。

 来たばかりの頃は歌や折り紙など座ってできるような大人しい遊びばかりをしていたが、一年経つと小屋の外で遊ぶようになり、二年経つ頃には淵で泳ぐほどになった。勘助は泳がなかった。

 マナコは自分の回復を竜神のご利益だと信じていたが、勘助からすれば、しょっちゅう山を上り下りすれば体が強くなるのも当然のことだった。

 活動的になったマナコは、いつしか勘助の家にまで付いて来るようになった。

 勘助は当然渋ったが、本を読ませて貰っている手前、強く拒否することはできなかった。

 母親は勘助が初めて友達らしき者を連れて帰ったことに感動し、来客の時にも出さないような茶菓子をマナコに振る舞った。祖母は感動のあまり、仏壇に経文をあげて咽び泣いた。

 村では勘助に対し、「品川の息子はうまいこと議員の娘をたらしこんだ」と陰口が流れるようになったが、マナコの天真爛漫な姿に、村人たちも絆(ほだ)されてしまった。

 もはやマナコは無敵だった。勘助はすっかりマナコに勝てなくなってしまった。

 中学に入る頃には、マナコの強引さにもすっかり慣れ、大体のわがままは黙って受け入れられるようになった。

 

 

 十三歳の六月であった。

 中学生ともなると学校の活動で忙しくなり、淵に二人が揃うことも少なくなった。

 勘助としては静かに読書と思索ができるようになり、都合がよかった。

 独りで考え事をする時間が増えたことで、勘助は淵にある違和感を覚えるようになった。

 生き物の気配が異常に少ないのだ。

 淵を覗き込んでも魚は数える程しかいないし、鳥の鳴き声は遠くから聞こえて来るばかりだった。

 野生動物が水を飲みに来た痕跡もなく、虫すらも滅多に見かけない。

 淵の周囲は青々とした木々に囲まれているし、淵の水も生き物が住めない程の清水というわけでもない。

 なぜこんなにも無生物的な環境なのか、一度気になりだすともう止まらなかった。

 様々な文献を調べ、著名な学者や研究機関に質問の手紙を送りもしたが、それでも勘助を納得させるような明確な解答は得られなかった。

 それでも何とか解き明かしてやろうと、勘助は淵を睨みながら生物や環境に関する本を読み続けていた。

 そんな日々を送っていたある日のこと、勘助はいつものごとく、淵の小屋の外で本を読んでいた。

 傾き始めた太陽が、淵の周囲を柔らかく照らしていた。

 文章を目で追っていると、突然紙面を影がよぎった。なんだろうと思い上に顔を向けると、淵の上空をゆったりと鳶が旋回していた。

 淵に生き物が近づくのは珍しく、詳しく観察しようと勘助は小屋の中に入った。どうやら鳶は淵の魚を狙っているらしく、旋回の半径を少しずつ縮めていった。

 魚の影が水面で揺らいだその瞬間、鳶は両翼で空気を叩き猛然と急降下した。

 鉤爪が水面に刺さり、そしてその瞬間鳶は淵に沈んだ。

 再び舞い上がることはなく、音もたてずに。

「え......?」

 勘助は慌てて小屋の外に出て、淵を覗いた。

 濁った水底には何も見えず、水面は穏やかに淵の周りを映すだけだった。

 勘助は自分の呼吸が荒くなっていることに気がついた。興奮していたのだ。

 勘助はふらふらとした足取りで立ち上がり、小屋に立てかけてあった竹製の虫取り網を手に取った。

 柄を伸びるだけ伸ばし、網を静かにゆっくりと挿す。

 悠然と泳ぐ魚の前に網の口を置き、魚が網に入り──

 その瞬間とてつもない力で網が引っ張られた。

 このままでは引きずり込まれると思い、勘助はたまらず手を放したが、勢いに負けて体勢を崩して地面に倒れた。

 すぐに淵を見たが網はどこにもなく、水面は何事もなかったように凪いでいた。

 自分が震えていることに、勘助は気づかなかった。脳だけがこれまでにない早さで稼動していた。

 勘助は、真実の一端を垣間見た気がした。

 これだ。

 淵に生き物がいないのはこれのせいなのだ。

 淵には何かがいるのだ。正体が科学現象なのか、謎の生物なのかは分からないが、確実に何かがあった。

 今、勘助の目の前には、見たことも聞いたこともないような理解不能の謎があった。

 その事実に、勘助は喜びと興奮のあまり軽い酩酊を覚えていた。

「あれ、勘ちゃん何をしているの」

 小道の方から現れたマナコは、学校から帰ってきたばかりなのかセーラー服を着ていた。

 マナコは県の中でも有数の名門中学に通っていた。

 お転婆さも鳴りを潜め、学校では名士の娘らしい品行方正な少女を演じているらしい。

「地べたなんかに座って、勘ちゃんって偶に変なことするわよね」

「マナコ、今そこで......」

 勘助はたった今見たことを説明しようとして、やめた。

 もし、勘助と違いお喋り好きで顔の広いマナコに話しを漏らせば、どこまで広まってしまうか想像もできなかった。

 県会議員であるマナコの父にでも知られれば、学者や研究機関などの手で本格的な調査が始まるかもしれない。

 そうすれば、勘助の淵がどこの誰とも知らない連中に土足で踏み入られるのだろう。

 勘助にはそれが我慢できなかった。

 マナコのことはもう諦めているが、もうこれ以上淵を誰かに荒らされるのはごめんだった。

 何よりも、たった今見つけた、この前人未到の謎を誰かに触られるのが嫌だった。

 勘助は、淵の真実を、知識を、自分だけで解明し自分だけのものにしたかったのだ。

 なぜなら、淵は勘助のものだからだ。少なくとも勘助はそう思っていた。

「......いや、何でもない。何でもないよ」

「ふーん......」

 誤魔化す勘助の口は、喜びでひどく歪んでいた。

 マナコは──つまらなさそうな顔をしていた。





 翌日から勘助は淵の研究を開始した。

 まずは、淵に生き物を放り込んで、何が起きるのかを調べた。生き物が沈むだけなのか、それとも他にも何か起きるのかを見極めるためだった。

 蛙、虫、鳥、鼠、栗鼠、果てには猫や犬、生き物を捕まえては、体のどこかに紐を結び付けてから淵に放りこんだ。蛙などの泳げる生き物は泳げないように手足や鰭(ひれ)を?(も)いでから淵に投げ入れた。

 実験の結果、次のことが観察できた。

 生き物を淵まで連れて行く時に、淵に近づくのを異常に嫌がる個体と何の反応もしない個体がいて、何の反応も示さなかった個体は全て淵に沈んだ。

 例えば、野良黒猫の「うるし」──この名前はマナコがつけた──はまったく暴れなかった。

 うるしはマナコによく可愛がられているため、マナコと、よく一緒にいる勘助に懐いていたからだ。

 淵に連れて行った時もいつものようにおとなしく勘助に抱かれていて、投げこまれるその時でさえ暴れなかった。

うるしは着水した瞬間にとぷんと淵に飲みこまれた。

 足に結び付けた紐を手繰りよせると、紐は輪になった部分だけが残っていて、うるしは浮き上がってこなかった。

 反対に、狂ったように暴れた三毛猫の「くつした」は溺死するまで淵に浮かんだままだった。

 猫以外の種類の生き物でも同様だった。嫌がる個体は死ぬまで沈まず、無反応の個体は一匹として帰ってこなかった。

 勘助はこのことを、正規の大発見をしたかのようにノートに記録した。

 個体によって沈む沈まないに違いが出るなら、具体的には個体間でどのような違いがあるのか。勘助は次にそれを調べることにした。

 まず、身体的な特徴の違いがあるのではないかという仮説をたて、解剖して調べることにした。

 その頃には、勘助が動物を盗みすぎて、村の中に盗人がいるのではと噂になっていたので、森の動物を使うことにした。

 山で捕まえた生き物を淵に連れていって、行動を記録したあとに解剖するつもりだった。

 しかし、この計画は即座に頓挫した。野生動物を捕まえることができなくなったのだ。

 最初の実験では苦労しながらもなんとか捕獲できていたのだが、ぱったりと姿を見かけなくなった。

 原始的な罠を作ってなんとか生け捕りにしたとしても、動物がこちらを噛み殺さんばかりに暴れるので、生かしたまま淵に連れて行くのはとても困難だった。

 それでもなんとか淵に辿り着き、いざ解剖とした所でどうしようもない問題が起きた。

 解剖というのは、勘助が想像していたよりもずっと難しく、獣医学の本を片手にできるような実験ではないと判明したのだ。

 落ち着けばわかりそうなことだったが、実験を行う前の勘助は、まるで幼児のような全能感を持っていたために気がつかなかったのだ。

 がっくりときた勘助は、動物の死体を淵に捨てたあと、これからどうするかを考えた。

「やっぱり、もっと準備しなきゃ駄目だな」





 研究を行うのに必要なものは三つ、よく練られた研究計画、動物や器具などの研究資材、そしてなによりも深い専門知識が必要だと分析した。

 まず専門知識を身につけるために、これまで以上に本を読んで知識を蓄え、さらに学校で習うことをまじめに学び、知識の土台を固めた。

 必死になって机に向き合う勘助を見て、教師は「勘助が更生した」と喜び、同級生は「ガリ勉偏屈」と馬鹿にした。

 必要な本を買う金がなかったときは、家業の乾物屋を手伝って駄賃を稼いだ。盗人の噂が流れている以上、怪しい真似はできなかった。

 勘助が自分から進んで働くようになったからか、両親は上機嫌になり品川家には笑いが増えた。

 淵についてもっと知ろうとして、村の老人たちに淵に関わることを聞き廻ったりもした。

 老人たちは、「品川の坊主はやっと可愛げが出てきた」と口を揃えて言った。

 一年が経つ頃には、勘助は村が始まって以来の神童と呼ばれるようになった。

 もう勘助をガリ勉と馬鹿にする者はいなかった。親たちは皆自分の子供に、勘助を見習って勉強しろと言うようになった。

 夏の三者懇談の日、教師から名門高校を受験しないかという話しが出た。その高校はマナコの志望校と同じだった。

 県内最大の蔵書量を誇る図書館があると説明され、勘助は即座に受験する決意をした。

 勘助の進路は、狭い村だったこともあり、すぐさま村中に広まった。

 合格すれば村初の快挙ということもあり、多くの村人たちが応援した。挙句の果てには村長が直々に訪ねて来て勘助を激励した。

 マナコに進路のことを話すと、マナコは飛び上がるように喜んだ。

「合格したら一緒に通いましょう! うちの車に乗って行けば楽ちんよ!」

「いや、登下校中に本を読みたいからいい」

 本を読みたいというのは事実だったが、それ以上にマナコの父親に会いたくなかった。

 マナコの父親は、幼い頃は優しく接してくれたのだが、最近では紳士的な言動の中に何か棘のある視線が混じるようになっていた。

 その目は、勘助を仲間外れにしていた忌々しいガキ大将と似ていた。

 近頃は政治家として落ち目になっているというから、その苛立ちの表れかもしれない、と勘助は予測していた。

 勘助とマナコは淵の小屋で共に勉強し、互いに得意な科目を教え合った。

 勉強しながらも、合間合間に高校のことを話した。

「それでね、私は陸上競技部に入りたいんだけどね、お父様は茶道部とか書道部に入りなさいって言うの」

「無視すればいい。どうせ干渉なんかできないだろ」

「勘ちゃん知らないの? 陸上って結構お金かかるのよ。お父様がお金出してくれなきゃできないんだから」

「ふーん」

「もっと感心を持ってよー」

 そうして勉強した甲斐もあり、勘助とマナコは無事に合格した。

 特に勘助は成績優秀者として特待生になった。

 勘助の合格を祝って、村ではちょっとした宴会が開かれた。

 村の小さな公民館を借り切って開かれた宴会だったが、勘助はふと違和感を覚えた。

 こういう時に必ずいたマナコの姿がなかったのだ。

 父親にそれとなく聞くと、誘うには誘ったが家の用事とやらで来られないと言っていたらしい。

 そう説明した父親はまた宴会の輪の中に戻って行った。

 勘助は祝われながらも、冷めた目で宴会を眺めていた。





 宴会が終わったその夜、勘助はこっそりと村を抜け出して淵に来ていた。

 淵は凪いでおり、夜空の満月を映していた。

 勘助は左手で掴んでいた子猫を淵に放り投げた。

 とぷんと音がして、波紋が一つ生まれ、またすぐに凪いだ。

 高校入学を機に、研究を再開しようと勘助は決めていた。

 今夜は淵の性質が変化していないかを確かめるために来たのだ。

 勘助が実験の記録を取っていると、何かが小道を通って近づいて来るのが見えた。

 急いで小屋に身を隠し窓からそっと覗くと、淵のほとりにマナコが座っていた、

 足を淵に浸けて水面の月を眺めているようだった。

 見知らぬ誰かではないと安心した勘助は、小屋を出てマナコに話しかけた。

「こんな時間になにしてるんだ」

「あれ、勘ちゃんこそどうしているの」

「宴会で疲れたんだよ。一人になりたかったんだ」

「ふーん......」

「そっちも答えろよ。僕は答えたんだから」

「んー、私も同じ理由かなー......」

 そう言うとマナコは自分の右隣を手の平で叩いた。座れと言っているようだった。

 勘助は人一人分くらいの間隔に胡坐をかいて座った。しかしマナコは肩が触れるくらいに詰めてきた。

「おい」

「だって勘ちゃんぼそぼそ喋るから聞き取り辛いんだもの」

 勘助は尻をずらして距離を空けたが、マナコはまた詰めるように座り直した。

 勘助は心の中でため息をつきながら、初めてマナコと会った日を思い出していた。

 あの時もマナコは強引に距離を詰めてきた。こちらの顔色などまったく気にしていなかった。

 ただ一つ違うところがあった。

 出会った頃は、マナコは楽しそうに笑っていたが、今は感情の読めない無表情をしていた。

「......今日の宴会、なんで来なかった?」

「お父様に??られていたの」

 マナコは語りだした。

 マナコは父親に、必ず特待生の資格を取るように言われていたらしい。特待生の資格を取れば陸上をしてもいいと約束していた。

「だけど取れなくて、その上勘ちゃんが特待生に選ばれたからもうカンカン。乾物屋の息子に負けるとは何事かーって」

「......」

「茶道部に入ることになっちゃったわ。せっかく元気になったのにね」

「......無視すればいいじゃないか。面子が気になるんなら逆手に取ればいい」

「それって?」

「仮にも議員が、娘が部活動をするお金も出せませんなんて言えば面目丸潰れだ。部費を出さざるを得なくなるだろ」

「それじゃ、多分ダメ」

「なんでさ」

「お父様、学校に根回しをしているらしいの。私を茶道部に入れるように。電話しているのを聞いちゃった」

「......徹底してるな」

 勘助は言葉が見つからなかった。そこまで娘を追い詰める親が身近にいるとは思わなかった。

「あと一つ、悲しいニュースがあります」

「これ以上?」

「うん。私もう勘ちゃんと会えないの」

 森の奥からゴウと風が吹いて、水面の月がゆらゆらと歪んだ。

 夜空は月ばかりが輝いていて、星の光は掻き消されていた。

「なんで」

「お父様がね、いい年した男女が二人きりになるのはもう許さないって。ほら、私たちもう子供じゃないから」

「ああ、それも、そうか......」

 勘助は隣に座っているマナコを見た。

 背中まで伸ばした髪は、闇夜に溶け込まずに艶(つや)やかに輝いていた。

 大きな目と黒い瞳、小さくて形の良い鼻、潤っていて柔らかそうな唇、どれをとっても美術品のように美しかった。

 ほっそりとした長い脚がぱしゃぱしゃと水面を蹴るたび、その子供らしい行いとは裏腹に大人びた雰囲気を醸し出す。

 勘助は気づいてしまった。

 マナコが、誤魔化すことができないほどに美しい少女であることに。

 そして、『お父様』が勘助を警戒する理由を唐突に、しかし明確に理解してしまった。

「特待生になれていたらお父様ももうちょっと許してくれたかもしれないけど、言っても仕方ないわよね」

 いつの間にか月は雲に隠れていた。唯一の光が消え、辺りはのっぺりとした単一の闇に包まれる。

 だから、

「小屋にある本は全部勘ちゃんにあげる。私はもう読まないから。学校では私のことは無視してね、話しかけらたら泣いちゃうかも」

 震える声の主が、今どんな表情をしているか。

 勘助には想像することしか許されていなかった。

 何も言えず勘助は黙っていた。

 言うべき言葉を探すにも、言いたい感情を見つけるにも、勘助はどうしようもなく未熟だった。

 雲がたなびいて月が薄っすらと見え始めたとき、マナコは立ち上がった。そしてそのまま小道に向かって歩きだした。

「じゃあね、ばいばい、ありがとう」

 マナコは振り返らずに言った。

 勘助は咄嗟に口が動かず手を振った。

 マナコの後ろ姿は、やはり美しかった。

 振り返ってほしいと思うほどに。

 そして淵は静寂に包まれ、勘助は七年ぶりに勘助だけの淵を取り戻した。

 望みが叶ったはずなのに、ちっとも心は踊らなかった。





 勘助は何かに憑かれたように淵の研究にのめり込んだ。

 実験動物には、飼育も?殖も簡単なジュウシマツを使うことにした。

 飼育小屋などの初期投資は、高校入学祝いとして親に出してもらった。

 学術書や飼育の手引きを読み、ジュウシマツの知識を十分に得た後、淵に放り込む作業を行った。

 最初の実験と同様の現象が確認できたので、解剖も行うことにした。

 詳細な計測結果、スケッチ、疑問に思ったこと、思いついた仮説、その実証と反証、参考文献、その他様々なメモなどを記した実験ノートはすぐさま小屋の本棚を埋めるほどに増えた。

 幸いにも村にはジュウシマツの飼育経験がある人はいなかったので、勘助のジュウシマツの飼育が怪しまれることはなかった。

 もちろん独学では限界があったので、高校ではしっかりと授業を聞き学んだ。

 教員を追いかけまわしてまで質問する勘助の姿は、感心半分呆れ半分の視線で見守られた。

 あまりにも勘助が質問をするので、ある教員が、そんなに学びたいのなら、と退職した大学時代の恩師を紹介してくれることもあった。

 勘助は与えられた全てを駆使して貪欲に知識を積み上げていった。それ故に、周囲から良くも悪くも一目置かれるようになった。

 校内に『奇人・品川』の名を知らない生徒はほとんどいなくなるほどに。

 同様に、マナコもまた校内の有名人となっていた。

 議員の娘に相応しく、楚々として物静かな振る舞いに数多くの生徒が魅了されていた。

 文化祭では、茶道部の出し物の茶会に、マナコの点てた茶を目当てにして茶道の「さ」の字も知らない生徒たちが殺到することもあった。

 勘助はマナコの言葉に従い、マナコと一切の関わりを持たなかった。

 ときたま、遠目にマナコを見かけることがあった。しかしマナコが何を考え、どんな気持ちを抱いているのかは全く窺(うかが)い知ることはできなかった。

 なぜなら、見かけるマナコの表情は、勘助が知るお転婆で強引な過去のマナコと信じられないほどにかけ離れていたからだ。

 溌剌とした笑顔は消え、雲間から射す月の光のように、美しいが儚い微笑が張り付いていた。

 マナコを見かけた日には、ジュウシマツの翼を?ぎ損ねる、個体を識別せずに淵に沈める、解しっかり息の根を止めずに解剖して血を周囲にまき散らしてしまうなど、必ずと言っていいほど淵での実験に失敗した。

 その内、勘助は意図的にマナコを視界に入れないようになり、マナコとの繋がりはどんどん薄れていった。

 共に淵で遊んだ日々が、まるで夢幻のように遠くなっていった。

 そうして年月は過ぎ、マナコと勘助は受験生となっていた。

 その頃には、淵に沈んだジュウシマツの命も百を超えていた。





 ある日の昼休憩、勘助はあまり多くない友人たちと昼食を食べていた。

「そういえば知ってるか。マナコさん、婚約者がいるらしいぜ」

「は? 婚約者? 確かな情報なのか?」

「ああ、何せ本人が言ってたのを盗み聞きしたんだからな」

「うわっ、気持ち悪い奴だなあ」

「ほっとけ」

 思春期の生徒にとって有名人の色恋沙汰は興味深い話題だったらしく、別の生徒と食べていた勘助の友人の友人たちも集まってきた。

「なんでも、父親が目にかけてる若手議員らしいけど、若手と言っても三十歳らしい」

「......本人はどんな顔で話してたんだ」

「ん? こんな話題に食いつくなんて珍しいな勘助。まあ、いつもみたいにニコニコしてたぜ」

「うわー、あんな美人とお近づきどころか結婚できるなんて、特別な選ばれた人間だよなあ。羨ましい」

「どうやったらそうなれるんだろうな。やっぱり勉強か? 勉強なのか?」

「おいおい、もしそうだったら品川に彼女がいないのはおかしいだろ」

「ほっとけ」

 どっと笑いが起きたが、勘助はむっつりと黙っていた。

 選ばれた特別な人間という言葉が耳に張り付いていた。

 そして、いつのまにかその若手議員とやらと自分、『品川勘助』がどう違うのかを考えていた。





 その日の晩、勘助は気づくと淵の小屋にいた。

 小屋の中には岸が見えないほど大きな湖があり、嵐が渦巻いていた。

 ふと下を見ると、生き物の死骸が元気に泳いでいた。

 死骸たちは勘助を視界に捉えると、崖から落ちるような勢いで勘助に目がけて水中を飛んで来た。

 しかし、湖面はぶ厚い層になっていて、死骸たちは突撃しては跳ね返されていた。

 死骸をよく観察してみると、足の無い猫や翼の無いジュウシマツがいた。勘助は、この死骸が勘助の殺した動物だと気づいた。

 きっとこの湖と淵はそこで繋がっているのだと勘助は推理した。

 しばらく観察していると、突然水面下の色が濃くなり、同時に死骸たちも姿を消した。

 濃くなったと思ったのは、山よりも大きな蛇が水面下を通過しているからだった。

 どうやら高速で這っているらしく、踏切で見かける特急列車のように鱗が線になって流れる。

 大蛇の行く方向に顔を向けると、木々が湖に浮いていて、その傍らには見慣れた小屋があった。

 大蛇は木々の間から鎌首をもたげてこちらを睨んでいた。

 勘助は三歩で大蛇の下まで行き上を見上げると、大蛇の下顎と、大蛇の頭上にいるマナコが透けて見えた。

 マナコは泣いているらしく、その涙から嵐が生まれている。

 雨風が鬱陶しいので泣き止ませようと思い、勘助は大蛇の背中を登り始めた。

 大蛇は冷たくてつるつるとした手触りだった。これだけ雨で濡れているのになぜ手足が滑らないのか、それが気になった。

 上に行くほど雨の勢いは強くなった。

 なんとか頭に辿り着いたが、マナコはこちらを振り向きもせずに座り込んで泣いていた。

 その姿を見て勘助は思わず声をかけた。しかし、風の音に掻き消されて、自分でも何を言ったのか聞き取れなかった。

 それでもマナコには通じたらしく、マナコはゆっくりと振り返った。その瞬間勘助は声をかけたことを後悔した。

 マナコの顔には目も鼻も口も無く、蛇のような鱗がびっしりと生えていた。

 その悍ましさに怯え、勘助は一、二歩後ずさり、足を踏み外して大蛇の頭から落下した。

 みるみるうちに水面が迫り、着水した瞬間に勘助は目を覚ました。

 心臓が激しく拍動し、頭の中で脳みそが渦巻いているような感覚があった。しばらくは体を動かすこともでき

なかった。

 だんだん頭が冴えてくると、なんとなく窓の外が気になった。

 ふらつきながらも立ち上がると、雲一つない夜空に輝く満月と、淵のある鬱蒼とした森が見えた。どこからか少し早い虫の音も聞こえる。

 そういえば、この時間帯に淵に行ったことはなかった。勘助はそう思うと淵に行こうと思い立った。

 勘助自身にもわからないが、何故か淵に行きたくなったのだ。

 素早く学生服に着替え、勉強机の椅子に引っ掛けていたコートを掴んで外に出た。

 月明かりが辺りを青白く照らしていて、夜道を歩くのにも苦労はしない。

 不意に、勘助はずっとこの夜のままの世界でいて欲しいと思った。

 静かで美しいこの夜は、この世全ての平穏が集まってできた極楽浄土だ。勘助はなぜかそう確信した。

 森に入ると静けさはよりいっそう増し、いよいよ異界に迷い込んだような感覚だった。

 小道を抜けて淵に近づくと、ぱしゃりぱしゃりと水音が聞こえた。

 見ると、一人の女がゆったりと泳いでいた。

 あの女はマナコだ、と勘助には分かった。

 最後に会話をした日はずっと遠い思い出になっていたが、お互いにあの日から成長して見た目がぐっと大人に近づいていたが。

 それでも勘助にはマナコだと分かった。マナコのことを見間違えるわけがなかった。

 話しかけようとして、約束を思い出し一瞬躊躇いが生まれた。しかし、あの父親が娘に真夜中の外出を許すはずもない。

 つまり、今マナコには監視の目が及んでいない。ならばマナコに話しかけてもマナコの立場が悪くなることはなく、最悪の場合でも自分が嫌われるだけだ。

 勘助はそう結論づけると、声をかけるために前に踏み出した。心臓が早鐘のように打っていることにも気づかなかった。

「マ、マナコ」

「うえっ? か、勘ちゃん?」

「マナコ、その、なんでここにいるんだ。こんな時間に」

「ま、待って! 今、今近づかないで!」

「えっ......、ああその、ごめん」

 やはり、駄目なのか。もう話せないのか。

 マナコの拒絶に、勘助の心に重苦しい感情が溢れ始めた。下っ腹が急速に重たくなっていった。

 何を期待していたのか。マナコにとってあの日々はもう価値のない過去なのだ。

「ごめん。約束を破って。もう話しかけないよ」

「え、ちょ、ちが、違う、そうじゃないの。今近づかれたらまずいだけで......」

「え、どういうこと......」

 理由を聞きかけて勘助は硬直した。淵の岸に何やら折りたたまれた服のようなものを見つけたからだ。

 そういえば、子供の頃もマナコは泳いでいた。あの時はたしか水着に着替える間、勘助は小屋の外に追い払われていたが──。

「おい、君まさか」

「言わないで! だって誰か来るなんて思わなかったのよ!」

 マナコは水面から首より上だけをだして叫んだ。月光のせいで真っ赤になった顔がよく見えた。

 勘助は全身から力が抜け、二、三歩後ずさって尻もちをついた。

「とりあえず、向こうを向いているから......」

「......ぜったいに見ないでね」

 勘助が背を向けるや否や、背後で勢いよくバシャッと水音がし、すぐさま小屋の扉が閉められる音が続いた。

 勘助は淵に来たことを少し後悔していた。もう一度マナコに会えたのは嬉しいが、こんな疲れる再会は想定していなかった。

「......もういいわよ」

 後ろから許しを得て、勘助はおそるおそる小屋の方を向いた。

 マナコは制服を着ており、まだ湿った黒髪が夜闇から浮いて輝いていた。

 マナコは、あの時と変わらず、否、それ以上に美しかった。もはや美女と呼ぶべき程に。

「久しぶり、勘ちゃん」

 そう言うとマナコは淵を向いて座った。そして自分の隣を手の平で叩いて勘助を呼ぶ。

 呼ばれた勘助はいそいそと立ち、マナコに並ぶ。

 何かを言わねば。そうは思うのだが、会えない間に積もった言いたいことや聞きたいことが多すぎて、勘助の口はなかなか回らなかった。

 マナコの方も同様なのか、お互いなにも喋れず沈黙が淵を満たしてゆく。

 だが、勘助はなんとか勇気を出して静寂を破った。

「なんで、こんな時間に淵にいるんだ」

「勘ちゃんから話して」

「僕はただなんとなく。そっちは?」

「私も同じかな。でも......」

「でも?」

「ここで会うのに理由が必要になったのは、やっぱり寂しいわね」

 マナコは寂しげな微笑みを浮かべた。月光に照らされたそれは、何か大きな感情を取り繕っているように見えた。

「......こんな時間に来るのは年齢に関係なくおかしいだろう。子供の頃とは事情が違う」

「でもさ、子供の頃だったらこんな時間に二人でいても変な邪推をされるようなことはなかったと思うの。せいぜいやんちゃな子供扱いされるだけで、もう会うなとは言われない気がする」

「僕の方はともかく、そっちは言うだろ。だって」

「だって?」

「議員の愛娘と、乾物屋のボンクラ息子じゃ事情が違う」

「あはははは、ボンクラって。でもそうかもしれないわね」

 マナコは顔を上げて月を眺めた。勘助も釣られて空を見る。

「私、議員の娘、だものね。別になりたかった訳じゃないけど、そうだものね」

「............」

「ああ、お泊り会、やっておけば良かった」

「そうか?」

「うん、一晩中お喋りするの。トランプや花札でもして。ここからなら星も見れるわよね」

「徹夜で君に付き合うのはごめんだ。絶対に疲れる」

「あはは、いいじゃない。付き合ってよ。なんなら今からしましょうよ」

「......いいのか。そんなことして」

「......もしかして、聞いたの?」

「............婚約者がいることなら、噂で聞いた」

 勘助はマナコの顔も見ずに言った。どうしてもマナコの表情を見ることができなかった。

 もし、万が一にでも、マナコが照れや恥じらいといった満更でもない顔をしていたらと思うと──。

「そう......。噂になってるのね......」

 マナコの声は、無理に平坦な調子を作っているようで痛々しいものだった。

「この間ね、お父様が紹介してきたの。この青年ならお前を幸せにしてくれるって。その人も、すごく優しく接してくれたの。でも、でもね」

 そこでマナコは言葉を切り、大きく息を吸って、意を決したように言った。

「すごく、気持ちが悪かった」

 勘助はその忌々しそうな調子に、思わず振り向いてしまった。

 マナコの顔は今まで見たことがないほど、負の感情を露にしていた。端正な顔つきをしている分、いっそう恐ろしい表情だった。

「本の中ではさ、意に沿わない結婚ってよくある話だけど、自分の身になるとこんなに悔しいのね。私の理性も感情も無視されている感じがして。あんなに腹が立ったのは初めてだった。何もかもどうなっても良いから、ここから逃げたいって本気で思ったの」

 堰を切ったようにマナコは話し始めた。圧倒的な怒りの表れに、勘助は身動き一つできなくなる。

「ふざけるなって話しだよね。私が元気になったのは結婚のためじゃないのに。幸せを探すために元気になったのに、なんで私の幸せを他人に決めつけられなきゃいけないのかしら。昔はお父様のことも素直に尊敬できたのに、もうできない。今までお父様が優しくしてくれたのは、全部お父様のエゴだったんじゃないかって思えてきて。どんなに理屈で否定しても、ちっとも気持ちが晴れなくって、もう人生全部を汚されたような気分」

 膝に顔を埋めながら語るマナコは、まるで迷子になった子供のように哀れに見えた。

「勘ちゃん、私どうすれば良かったかな。どうすればこんなに辛い目に会わなかったかな」

 縋るように尋ねるマナコを見て、勘助の胸は蛇に締め付けられたように苦しくなった。

 こんなに弱々しいマナコを見るくらいなら、淵の底でもどこでもいいから逃げてしまいたかった。

 それでも、請われた回答をひねり出し突きつける。

「僕だってわからない。けど、友達でもいれば良かったんじゃないか。僕みたいなのじゃなくて、苦しみを分かち合える友達が」

「......そんなの無理よ」

「君ならできるだろ。村にもすぐ馴染んだし、僕と会った時の半分でも積極性があればすぐにでも」

「友達の作り方なんてもう忘れたの」

「え」

「あのね、私勘ちゃんに言ってないことがあるの」

 ポツリポツリと、マナコは秘めていた心を語りだした。

「私ね、病気の療養で越してきたって言ったじゃない。その前はね、私友達なんて一人もいなかったの」

「君が? 冗談だろ?」

 唐突な告白を、勘助は信じることができなかった。

 マナコは明るく積極的な女の子で、それはずっと昔からそうだった。勘助はマナコにそんなイメージを持っていた。

「ほんとよ。病気のせいで遊べなかったんだから。物語の登場人物と遊ぶ空想ばかりしている子供だったの」

 物心ついた頃には母も亡くなっていて、父親も仕事が忙しくてマナコと触れ合う時間は短かった。

 そのためマナコはいつも孤独を感じていた。

「越してきた日も、不安でいっぱいだったの。学校からは離れていたし、同年代の子と遊ぶ機会もなさそうだなって。また一人ぼっちだろうなって思って歩いていたら」

 マナコは森の小さな泉で、本を読んでいるしかめっ面の少年に出会った。

「勘ちゃんがいたの。あの時はびっくりしたけど嬉しかったな、とにかく友達が欲しかったから舞い上がっちゃって。その後は勘ちゃんも知ってるでしょう、今から思うと馴れ馴れしかったわよね」

 友達の作り方など知らなかったマナコにとって、勘助は人生で初めて成し遂げた成功体験だった。

「いつもムッツリしてたけど、私を拒絶しなかった勘ちゃんには感謝してるの。元気になってからは勘ちゃんの紹介で知り合いも増えたし、世界がどんどん広がっていってすごく嬉しかった。私は勘ちゃんと出会ってから、本当に大切なことをいっぱい知ったのよ」

 思い出の中のマナコの姿が、大きく変わっていくのを勘助は感じていた。

 天真爛漫な少女は、そうあろうと努める寂しがりの子供だったのだ。

「でもそれも忘れちゃった。お父様に邪魔されないように、お父様の機嫌を損ねないように。そんなことばかり考えて人間関係を調整してたら、外面を取り繕うのばかり上手くなって、本当に仲良くなりたい人には、どうやって話しかければいいのか思い出せなくなって──」

「マナコ、一緒に逃げよう」

 その言葉は脳髄を通らず、心から口へ最短距離を飛んで来た。

 マナコは驚いた顔で振り返る。

「マナコ、二人でここじゃないどこかに行こう。君が君らしくいられる場所を探そう」

 頭のどこかでは、戯言だと警告する理性もあった。しかし、それでも口から溢れる言葉を止めようとは微塵も思わなかった。

「君のそんな顔を見るくらいなら、僕は僕の人生が滅茶苦茶になっても構わないから、君をどこかへ連れ去ってしまいたい」

「......」

「言ってくれマナコ、『助けて』って。それがなによりも強い、僕の生きる理由になるから」

「..................」

 自分でも、なぜこんなことを言っているのかは分からない。

 ただ、今何も言えないようなら、人として生きるための何かを永遠に失ってしまう。そんな確信があった。

「..............................」

 どこからかやってきた雲が月にかかり、淵が闇に覆われる

 マナコは何も言わなかった。沈黙が次第に勘助を追い詰めていく。

 もしマナコが拒絶するなら、その時は素直にマナコの人生から消える。そう覚悟した。

「そ」

 やがて雲が流れて行き、薄明かりが取り戻されつつあった時、マナコは沈黙を破った。

「そういうことは、もっと早く言って欲しかったなあ......!」

 その顔は笑っていた。大粒の泪(なみだ)を流しながら。

 満月が二人を照らす。

 今この瞬間だけは、淵は完全な平和世界だった。

 全ての人々が分かり合い、慈しみ合う二人きりの世界。

 勘助は、泣き笑うマナコを美しいと思った。

 きっとこれ以上に美しいものは無い。

 その非論理的な気持ちが、心を焼き、一生消えないあざをつけた。

「ありがとう。勘ちゃんの覚悟はすごく嬉しい」

「だったら」

「でも駄目。逃げることはできない」

「────」

「だってそんなことしたら、勘ちゃんの人生が滅茶苦茶になっちゃう」

 その拒絶は、勘助が全く想定していない方角から飛んで来た。

 一瞬の平和は、霞のように掻き消されてしまった。

「それでも、それでも良いんだ。僕はどうなったって」

「私も同じ気持ちよ。私の人生はどうなっても良いから、勘ちゃんに幸せになって欲しい」

「!」

「勘ちゃんの噂は聞いてるわ。推薦の話もいっぱい来ているんでしょう。私のために棒にふっちゃ駄目よ」

「それじゃあ、君の人生は、君の幸せはどうなるんだ。僕の力が足りなくてもせめて君だけは──」

「あのね、勘ちゃん。私、今とっても幸せよ」

 マナコは月を見上げた。もう涙は止まっており、頬に流れの跡が残るのみだ。

「勘ちゃんの気持ちが分かって、すごく幸せ。幸せだから、今死にたいって思う。この幸福が失われるくらいなら、その前に人生を完結させたいって」

「なんだよそれ、僕はそんなこと望んでいない!」

 生まれて初めて感情に任せて叫ぶ。

 体験したこともないような理不尽に、勘助は身が裂けそうなほどの怒りを感じた。

「そうでしょうね。でも、勘ちゃんは知らないかもしれないけど、私とってもわがままなのよ。初対面の男の子にずけずけ話しかけるくらいに」

 マナコは立ち上がると、悪戯っぽいはにかみを投げかけてきた。それは、子供のような笑顔だった。

「そういえば、見たわよ。あの実験ノート」

「! み、見たのか」

 突然の宣言に驚きはしたが、冷静に考えると不思議なことではなかった。

 小屋には普段誰も近寄らないため、隠して保管する必要もなかったし、マナコは先に淵に来ていたのだから、見慣れない大量のノートがあれば調べるくらいするだろう。

「駄目じゃないあんな酷いことしちゃ。生き物が可哀想よ」

「今その話は関係ないだろ。話しを逸らすなよ」

「聞いて。まあ、今責めても仕方ないからもう言わないけど、あのノートを読んでて気づいたことがあったの」

「は? 気づいたこと?」

「沈む個体と沈まない個体の違い」

「なんだって?」

 沈む個体差の謎は、勘助がどれだけ実験と推察と検証を繰り返しても未だに解明できていないものだ。

 それをちょっと実験ノートを読んだだけのマナコが見破ったというのは、俄かには信じられないことだった。

「沈むか沈まないかの違いは『畏れ』。この淵を畏れているかどうか」

「畏れ?」

「沈む個体は淵に来るまで大人しくしている。それはこの淵が怖くないから。つまり、『畏れ』ていない」

 マナコは手ぶりを交えつつ、編み出した仮説を語る。

 しなやかな指先の動きとゆっくりとした語り口調が合わさり、勘助にはマナコがまるで伝承を伝える巫女のように見えた。

「反対に、この淵を畏れている個体は暴れる。そして沈まない。私も同じよ。この淵を畏れ奉っているから、淵に入ることを許されているの」

「あ......!」

 言われてみればその通りだった。

 畏れ云々はともかく、マナコはこの淵に浸かって生還した唯一の個体だったのだ。なぜ思い至らなかったのか、今では不思議なほどだった。

「いや、君の説が新しい切り口であることは認めるけど、今それが何か関係あるのか?」

「勘ちゃんは、沈んだ生き物たちはどこに行ったと思う?」

「それは......」

 考えたこともない話しだった。引きずりこまれる恐れがあったために淵の底を調査したことはなかった。

 いくら生き物を放り込んでも、腐敗臭どころか濁りすらしなかったところを考えると、ただ単純に沈んでいるわけではないと思うが。

「私はね、神の国に行ってると思うの。この淵の竜神様の支配領域に」

「何馬鹿なことを。神なんてこの世にいない」

 いたとしてもマナコを救わない神など信用できない。

「うん、神じゃないかもしれない。でもそうやって勘違いされるくらいに人知を超えた何かはいる。そうでしょ」

 そう言ってマナコはにっこりと笑った。

 その顔は、明るい少女のものでも、憂いを帯びた淑女のものでもなく────殉教を望む聖女のものだった。

「私、この淵で泳ぐ度に、水底に何かの存在を感じていたの。限りなく大きな存在が、それこそ神のような存在が私を見守っているのが分かっていたの」

「それは妄想だ! 結局君は何を──」

「神の国に行けば救われる。そうでしょ?」

「────」

「全てのしがらみから解放されれば、この幸せを抱いたままでいられる。きっとそうに違いないわ」

「だから沈むっていうのか。ふざけるなよマナコ! そんなの自殺と何も変わらないじゃないか!」

「でも、私が消えなきゃ勘ちゃんが不幸になるでしょ?」

「だからそれは良いって言ってるじゃないか!」

「私は嫌だって言っているでしょう? それに、もし勘ちゃんに縋っても、勘ちゃんは将来私のことを捨てるかもしれない。そうすればこの幸せも失われるわ」

「僕はそんなことしない! 信じてくれよ、頼むから」

「私も信じたいわ。でもね、私はお父様のことも信じていたのよ」

 重すぎる一言だった。

 マナコの顔には、少なくとも勘助では打ち払えないほどの憂いがかぶさっていた。

「............君は淵を畏れているんだろ。なら沈めないはずだ」

「さっきまではそううだったかもね。でも今は、勘ちゃんが告白してくれたから、私もう何も怖くないの」

 マナコは揺るがない覚悟を持って断言した。マナコと勘助はすぐ目の前で向き合っていても、その心は月と地球よりも遠ざかっていた。

 殴ってでも止める。勘助がそう決意したのと同時に、マナコは突然服を脱ぎ始めた。

 勘助がいるのも意に介さず堂々と脱いでいくので、勘助は驚きのあまりに腰が抜けてしまった。

「ば、ば、ば、マナコ、なにして」

「ちょっと恥ずかしいけど、見ていいよ。私の裸を見る男の子は、勘ちゃんが最初で最後になるから」

「──! 自殺なんてさせないぞ!」

 硬直していた体に気合を込めて立ち上がると、力尽くでも止めるためにマナコに飛びかかる。

 しかしマナコは軽やかに身を翻して勘助の後ろを取った。

 勘助は慌てて振り返るが、突然体の自由が奪われた。

 マナコが抱き着いてきたからだ。

 マナコは勘助の首に手を回し、力いっぱいに抱きしめた。

 ありったけの感情を込めて、強く、強く。

 勘助は一瞬呆けたが、すぐさま抱きしめ返してマナコを拘束するよう試みる。

 しかし勘助が背中に手を回す前に、またもやマナコは勘助の腕から逃れてしまった。

 そして言った。

「バイバイ! 大好きだよ!」

 言い切るなり、淵に向かって走り出す。

 勘助の横を通り抜け、大きく跳ねる。

 宙を飛ぶマナコの背中に、勘助は見た

 その背中には銀色の鱗が生え、月の光を浴びて輝いていた。

 着水した瞬間、とぷん、とマナコは淵に沈んでいった。

 後には、泡すら残らなかった。

 勘助はふらふらと淵に近寄り、岸に座り込んだ。

 静かな水面を呆然と眺めた。

 どれほどの時間そうしていたのか、勘助が気づく頃にはもう東の空が白み始めていた。

 勘助は立ち上がると、小屋の中の研究に関わるもの全てと、マナコの着ていた服を淵に沈めた。

 沈め終えて淵を立ち去るとき、勘助はマナコのために祈ろうとした。

 しかし、何に祈ればいいのか分からなかったので、やめた。





 翌日、マナコが行方不明になったというニュースが新聞に乗った。

 その記事を読んで、勘助は初めてマナコの名前の漢字を知った。

 マナコの父と、婚約者であった若手議員が血眼になって探しているらしかった。

 勘助も警察に話を聞かれたが、マナコの最後は信じてもらえるとも思えなかったので喋らなかった。

 警察の質問には、自分でも驚くほどに淀みなく答えられたので、勘助に猜疑の目が向けられることはなかった。

 マナコの行きそうなところとして淵が挙げられ、水を全て抜いての捜索が行われたらしいが、底からは生き物の骨一片すら見つからなかったという。





 月日が経ち、勘助は故郷を離れて東京の某国立大学に通っていた。

 相変わらず人付き合いもそこそこにして、学問に没頭していた。

 それなりに充実した生活ではあったが、たまにマナコのことを思い出すことがあった。

 そんなとき、勘助は決まって月を見ることにしていた。



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