コーヒーブレイク

羽月








「不可解な事件?」

 彼はいつものように読んでいた新聞から少しだけ顔を覗かせた。安楽椅子に深々と座り、組んだ足はピクリとも動かなかったけれど、彼が興味を示したのはよく伝わった。普段の話なんてまともに目を見ても貰えないのでなんとなく得意な気分になる。私は近くのソファで飲んでいたコーヒーを置いて体の向きを変えた。こんな機会は滅多にない。

 私がここに来るようになって数年経つけれど、綾瀬さんが私を西村と呼んだのはもう数えるほどしかないし逆もまた然り。そんな距離感ではあるけども私は少しくらい彼の様子がどうなのかとかわかっているつもりである。

「そうです、まあ誰かが傷ついたなんて話じゃないんですけど...」

「はあ」

 ばさりと音がして、新聞が机に投げ捨てられる。そういえばその机探すの大変だったなあと思う一方で、本格的に興味を示し始めた態度に私は不安感を抱き始めていた。別段不可解といえば不可解で嘘なんてついていないし、うん、嘘なんてついてない。やましいこともない。うん。

「ええっと......その、そんな大した話じゃないですよ」

「わかっている」

 彼は片側の口角をにいとあげた。

「大事件なら、君はもう少し興奮してここに飛び込んでくるだろう。そんな今思い出した程度、期待なんかしちゃいない」

「...ごもっともです」

 なんか叱られている気分......。悪いことしてないのに。

 ああどうせろくな話じゃないですよう、勘弁してください...と、そこまで考えて気がついた。ちらりと彼の顔を伺うと、楽しそうにこちらを観察している。私の様子をである。

 もう、相変わらず趣味が悪いんだからなあ。勘弁、してください。

「............トマトです」

「トマト?」

 綺麗な顔が酷く歪められた。それはまさしく怪訝な顔で、もう帰りたいとしか考えられなくする呪いの表情だった。



 

 ここは彼の家の大部分を占める書斎。もはや彼の一日の大部分も、ここで過ぎる時間が占めると言っても過言ではない。位置的に完全に広いリビングや応接間のはずなのに、彼は社会生活において全く不向きなために誰かがここを訪問することはなく。そして趣味が集まり完全に書斎もしくは書庫になってしまったのだろう。私も最初来た時はずいぶん驚いたもので、何がというとあまりに生活感がないのだ。一応寝室だのキッチンだのあるのだがこの書斎とキッチン以外あまり動き回ったことがないので良いとして、この家は殺風景だった。最低限のものしかなかったここは、生きることに執着しない雰囲気だった。今現在ここがアンティーク調の雰囲気に溢れ、纏まりあるのは一重に私のお陰だ。ここは自信がある。壁のような本棚に囲まれ、少しクラシックに落ち着きある中でゆっくりできる...まあ、実際に資金を投入したのは彼ではある。とにかく私にとってここがお気に入りの場所であることは間違いない。

 今はとても帰りたいけれど!

「だからトマトなんです。今朝ここに来るまでの歩道に、何故かプチトマトが大量に転がっていたんです。まだ誰も踏んだり自転車で轢いたりしなかったのか、無傷で」

 どうしても俯きがちになっているのを自覚しながら、私は白状した。

「それで?」

「時間がなかったのでそのままだったんですけど、後から考えるとおかしいなあって。だって道端にプチトマト、ただのトラップじゃないですか」

 彼はじっとこちらを見ていた。何か考えているようなのか、笑ったりはしない。それだけが救いにしてもこんな小さな不思議じゃ申し訳なさすら感じるには変わらなかった。

「どうしてあんなものがと...思いまして。珍しくて」

「さあな」

 その一言で、先ほど放り捨てられた新聞が救われる。手元に戻るなりばさりと嬉しそうに音を立てる。ただ視線こそ新聞にあるものの彼は興味を失っていないようで、ふと考えている顔をしている。一見真剣に読んでいるようにも見えるけど...そこそこ長く私もここに通っているぶんそのくらいは判別できていると信じたい。......急に不安になってきた。

 しかしそれより私の頭の中はもっぱらプチトマトである。聡明なる彼がこのことの解明を口にするつもりがないのなら、自分で答えを出すしかない。できるできないのではない。やるのだ!

「プチトマト...大きな道路の側だったので頭上に歩道橋があったのですが、無傷だったのでそこから落とされたのではない。転がされたもの。また誰も潰していないから時間はそんないに経っていない。それから、動機は......なんで??」

「行き止まりが早いな」

「うう。仕方ないです、私にそんな頭ないんですから。もしかして検討ついてます?」

「さあな」

「もう!わかってるんでしょう!?」

「さあな」

 そればっかり!

「そういうの、ずるいと思います。どうせ私の反応見て楽しんでるんでしょう」

 ちょっと拗ねると彼は軽く笑った。

「ご明察。よくわかっているじゃないか。それが分かるのならこんなもの簡単だろう」

「適当なこと言わないでくださいよ。もう来ませんからね?」

「ほう?どうやって答え合わせをするつもりか知らないが、そういうのなら仕方がない。僕は止めるほどの強制力を持たないからな」

 少し残念そうな顔をしているが、片方の眉が上がっているのでこれは上辺だけである。こんなことはわかるんだけどなあ。癪なので無視しよう。

「プチトマトである意味といったらやっぱり赤色だとか。目を引きやすいですし。まあ私が大嫌いなので気になったのかもしれませんけど」

 誰でも気にするだろ、と聞こえた気がするがやっぱり無視しよう。

「美味しくないのにあんなもの......あの味が口で弾けると思うと今からでも気持ち悪くて食欲失せてきた。そんな魔物が道で潰されようと待ち構えていると思うといやだなあ」

「それは君の個人的な意見だろう」

「わかっています!さっきから厳しい。ああ最初の優しさは何処へやら......」

「ん?それは心外だな」

 まずい。彼が機嫌を損ねるとろくなことが起こらない。しかし既に新聞紙からこちらへと移された視線は鋭く、私はぎくりとした。

「僕がいつ君に優しくしたって?」

「だから嫌いなんです!」

 これだからこの人は!やってられない。

「ま、優しさなんて気にしても仕方がないさ」

 彼はつぶやいた。

 何となく、多分そう言うところが優しいのにと思う。思っただけ。おそらく彼は掘り返すつもりもなければ終わったこととして気負せたくないのだろう。気のせいかもしれない。私もそうやって流すべきだと流れる空気が囁いている。

「そうですね、ともかく今はこんな性悪で冷徹ですもんねー」

 が、この調子に乗ってしまった発言は流石に怒られた。

「......君は進んでトマト塗れになりたい性格か?」



 そこからかなり考えたものの私の頭がオーバーヒートし何の収穫もないまま彼に散々遊ばれてぐったりとしただけで、その日は帰ったのだった。やっぱり私のおつむでは限りがある。彼が何も忠告しないことから本当に大したものではないのだろうけど。気になるなあ。



 その晩の夢は酷いものだった。でも酷いだけ。何だったっけ......。



 本日素晴らしく快晴で、大学帰りの夕方といってもまだ陽は燦々としている。何となくあまり晴れると、真っ直ぐに突き刺す日差しが鬱陶しかったり曇りのなさすぎる空に鬱々としたりするので好きなわけではない。雨よりマシかな。そんな微妙な気持ちでまたここに来たのだけれど、今回は昨日より明白な意図があってのことだ。いつもは何となく暇だからとか適当な理由で訪ねていた。と言っても最近は忙しくて遠巻きになってはいたがまあ彼は全てわかっているし何も気にしないとは思う。自由だよなあ。でもそれくらいいつでもこの洋館は空いているのだ。彼が一体何をして生活しているのか聞いてみたこともあるけれど見事にはぐらかされた。だから知らない。たまに閉まっている時何をしていたのかも。

「どうもー、あの聞いてください!」

「急に来て騒がしい」

 嫌そうな顔だけどそんな場合ではない。何しろ大事件なのだから。ってすごい、今度はまた横文字の分厚い本を読んでいるのね。

「今度は牛乳なんですよ!!」

「......」

「今日大学でて直ぐのところの歩道でですね、小さい牛乳パックがあったんです。今度は自転車に轢かれたのか潰れてました。事件です!」

「......」

「撒き散らされてたんです、それみて私、トマトの潰された姿を想像しまして。あ、昨日のトマトは帰り道に潰された痕跡だけ見ました。あとは回収されたようです。パックの牛乳だなんて久々。ともかく牛乳も嫌いなんでもう嫌悪感。犯人は絶対に許しません!」

「犯人も私怨塗れの理由でかわいそうだな」

「何をいっているんですか!もし連続犯で、大きな事件が潜んでいたら大変です」

 彼は相変わらず一瞬だけ何かを考えるようにして、直ぐ興味を無くしたようだった。私の反応を伺っているのはわかるが今日もやる気がない。

「頑張ってみろ、探偵さん」

「言われなくても頑張ってます」

「それはいい。......痕跡に連続犯ねえ」

 そういったきり、分厚い得体の知れない洋書に取り憑かれてしまったようだ。痕跡かあ。力無いものだったがしかし、彼のつぶやきはいつでも私へのヒントであると思う。だって大学に入って初め頃にちょっとした事件に巻き込まれてから、彼は私が悩む度に"ヒント"を与えてくれた過去があるから。それにたまにわかりにくいやり方で慰めてくれるし、なんだかんだ優しい人というのはわかっている。でももうその時のことは思い出したくないものだったなあ。その思いとは裏腹に、ぼんやりと思うには刺激の強い記憶がじわじわと私の脳内を占領していって、私はどうしようもなかった。思い出すのは彼の優しさではなくその少し前の記憶でいつまでも鮮明な、優しさよりもはっきりと形を成した恐怖の記憶。

 紅、撒き散らされて。

 あれは血痕だった。血なまぐさい匂いがつんと鼻を刺す。薄暗い灯に滞った空気、水で洗い流してもなかなか取れず、ちょうどその場にあったあった赤いペンキをぶちまけた何とも言えない匂いが次いで────男は必死になっている。私は隠れて見ているだけだった。動いてはだめ、きっと、私も、殺される、から。じっとして、願うしかない。どうか、私に気付かないで。どうか、気付かないで。気付かないで気付かないで気付かないで気付かないで気付かないで気付かないで気付かないで気付かないで気付か───────



 ────......何をしている?



「おい」

 ハッとした。

「探偵はやめたのか」

「あ、いえ、あの、............何でもないです」

「......そうか」

 ため息をついていた。しかし彼の手元に何かある。

「何ですかそれ。あ、ケーキ!!」

「そういうところだけ鋭いのはなんとかならんか。死角に置いたはずだが」

「私のはないんですか?ありますよね?優しいひとですから!」

「巫山戯るな」

 捨てるようにいう。

「君は安いオレンジジュースか何かでいいだろう」

「ひどい......やっぱり冷徹な悪魔なんだわ」

 ケーキ食べたかったのに。この人には心というものがない。この状態で自分だけ食べるだなんて良心は痛まないのだろうか。

「しかしアイスコーヒーが欲しいな」

「注いでこいですか?人使い荒いですよ。報酬がケーキなら考えます」

「甘ったれるんじゃない」

 はいはい、とってくればいいんでしょう。渋々腰を上げたものの、冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出しながら、私は少し反省していた。昔のことを思い出すのは良くない。私はここで今健康にいるんだし、彼にも迷惑をかけてしまう。そういうのは良くない。ちゃんとしなければ。もう何回目かわからない決意だった。

「はい持ってきましたよ...え!」

「......うるさい」

 オレンジジュースとアイスコーヒーを持っていくと、私用と思われるケーキがソファの前の机に用意されていた。きちんとフォークも添えられている。

「ありがとうございます!!!!さすが!!!!」

「本当に、うるさい......」

「なんかごめんなさい」

 しゅんとした落ち込んだ姿が好きでないことくらいわかっている。

「何がだ」

「いや......」

「僕が目の前でケーキを持ち運びしていたことに気付かなかった癖に、後から散々悪口を言ったことか?それならトマトと牛乳を混ぜてかけるしかないな」

「あっそれは断固拒否です」

 ふふ、と自然に笑みがこぼれた。叶わないんだろうなあ、一生、この人には。



 しかし。ケーキによって忘れかけていたトマト牛乳事件だが、これで終わりではなかったのである。牛乳事件の翌日、この事件が起こるまで忙しくて足が遠のいていた洋館に通うのも連日となれば自然になっていて、しかしそういった理由である事件も探偵気分もすっかり忘れて歩いていた。それも後少しで着くというところのことである。

「ん?」

 何か白いものが見える......棒?思い当たらない。けれどそれは確実に洋館の敷地の入り口あたりから伸びていて。確実に落ちている。



 ──鳥肌が。



 あまりにも私の前に立ちはだかりすぎではないか。私は思わず立ち止まって考えた。何か確認できないほどの距離を保ったまま、じっと観察する。トマトといい牛乳といい、どうせロクでもないものなんだろうなあ。私の嫌いなものばかりじゃないか。嫌いなもの。

 嫌いなもの?

 私の嫌いなものが落ちている。

「そうか」

 思い当たり、すぐに駆け寄った。それは私の考えた通りで、寒気と呆れが同時にくる。白くて棒のような何か。敷地を区切る塀で死角になっていた場所から緑色の先端が見えて確信したものの何も嬉しくなかった。足元に転がっていても何も危害がない、私の嫌いなもの。

「今度はネギ、か......」

 どうしてこうも嫌いなものばかり?

 ふと洋館を見るがいつも通りだった。いつも通り静かで、そこに建っている。きっと中でいるであろう彼に聞けば流石に教えてくれるかもしれないと思い、私はネギを手に彼に推理してもらおうと思った。

 ふとその時、

「え?」

 あれは二階の廊下の窓だろう、人気のない暗さで相変わらず沈黙している。けれどしかし、確かに今さっき、



 ──誰?



 嫌な予感がする。嫌な予感嫌な予感、どうして?あの家には彼一人しか普段いないはずで彼は基本書斎で生活しているはずなのにどうして二階に人影なんかが。考えたくないけれど......私がこの事件を深く考えなかったから彼をもしかして巻き込んだのかもしれない。ああごめんなさい私のせいで、彼は大丈夫だろうか何か不吉な事件に巻き込まれていないか出来れば今日ちょうど滅多にない外出の日でいませんように......。

 いや。行かなきゃ。早く、無事を確かめなければ。

 普段何気なく歩いていた門から玄関までの距離がやけに長く感じる。もう犯人が中にいようとも彼の安否を確かたい気持ちが恐怖に勝る。はやく。はやく!

 鍵はいつも通り開いている。館内に荒らされた形跡はない。もう足音とか静かにとか何も考えられなかった。あと少し、この扉の先、お願いだから無事でいてください。アドレナリンが全身を駆け巡っているのがわかる。少し突っ返そうになっているのは体が無理に前へ前へ急いでいるからだっていうこともわかっている。......こんな短い距離でも、息、上がるんだなあ。

「はあっ......!」

 バンッ!と扉が叫ぶ。

 彼は?

 どこにいるの?

 どこに。

「どこにいます...!?」





「」



 もう、勘弁してくださいよ......

「何だその顔は、今年一番の気持ち悪さだな」

 だって不安だったんです、無事でいなかったら、私、

「まあ落ち着け、深呼吸。いや座り込むな」

 きいてくださいまた落ちてたんです、こんどはすぐそこでだったんです。

「分かった何が起こったか後で聞いてやる。ともかく落ち着け」

 でももしかしたら二階に、二階に、

「はあ......深呼吸でもしたら聞いてやろうか」

 でも、

「いいから」

 鋭い視線が射る。とにかく仮にでも深呼吸しなくては話を聞いてもらえないのだと気付き意識しながら、昔彼は吐く方が大事って言っていたことを思い出しながら......。

「よし、いい子だ」

「あ、あの......お怪我は」

「やっと声が出せたかと思うとそれか。かすり傷一つもないがな」

「よ、よかった」

 安堵と共にどっと疲れが襲ってきて、床に座り込んだままでも立てる気がしない。深呼吸と共にいろんな不安が吐き出されたものの何か忘れている気がする。

「で?何事だ」

「あ、あの落ちてたんです」

「はあ。その手に握りしめているものか」

 手に握りしめているもの?

 ......まずい、恥ずかしい。私こんなご立派な白ネギを握りしめてパニックになっていたってことか、その事実を聞くだけで恥ずかしいのに当事者になると史上最高のレベルで恥ずかしい。

「そ、そうですっ、でもこれすぐそこにありました。門のところです」

「また迷惑な話だな」

「でもありましたもん」

「はあ」

 何だそんなことかと言わんばかりの表情で、さらに顔が熱くなるのを感じた。だってネギが落ちてただけだよ、そんなもん。でもこも確率はさすがにありえないのだ。3日連続で私が嫌いな食べ物が落ちているだなんてどう考えても気持ち悪い。笑い話にも微妙にならない。それにさっきはネギだけじゃなくこの洋館の二階に............二階に...─────────

「あの!!」

「何だもう」

 冷や汗が出てくる。大事なことを忘れていた。

「今さっき二階に人影が、ありまして」

「暑い。顔が近くて暑い」

 あ、ごめんなさい、と離れる。でもそんな場合だろうか。

「人影、な。目敏いな、珍しく。君には何のメリットもない話だが」

「あれ?もしかして先程まで二階に?」

「いや?」

 私は首を傾げた。

「僕の客人だ」

 客、人。

「客人だなんて。社交できたんですね」

「ふう、白ネギのペーストを作らなきゃな」

「嘘です冗談ですやだなあもう」

 それにしても彼に客人だなんて相当珍しい。しかしその客人を自由に放っておいているだなんて大丈夫なんだろうか。貫く視線を刺しながらも彼は私の考えを汲み取ったかのようで、書斎の安楽椅子にいつも通り座りながら補足した。

「ああ彼は客人といっても僕の友人だからな、自由にこの館内を見て回ろうが僕はさして気に留めない。ちなみに今は二階の書庫を拝見したいんだと」

「へー友人なんていらっしゃったんですねはい何でもないです。というか書庫なんてあったんだ」

「まあな」

 この感じいつも通りだな。

 とにかくよかった私の早とちりで。何かあっては大変だから。

 彼はいつも通りコーヒーを要求し、私はいつも通りオレンジジュースを飲み、門でのパニックなんて無かったかのように過ごした。ついでに客人の存在も忘れていた。おそらく相当本を読み耽っていたのだろう、物音が立った記憶もない。私はソファでお昼寝しながら、キッチンのゴミ袋に投げた白ネギも忘れようと思った。綺麗に洗ったはずの手から、ずっとネギのいやに青臭い匂いを感じながら。





「とまあこういう話だ」

 トマトだの牛乳だの白ネギだの、愉快なものが転がっていた日のその次の週。平日の昼の書斎には二人の男が話していた。そのうち一人はここで珍しい、見るからに優しそうな好青年。白いズボンに水色のシャツが似合う、爽やかな雰囲気。

「僕先週ここになんて来てないのになあ。よくそんな嘘が通ったね、綾瀬」

「まああれは単純だからな。ただあの場面でさっきまで二階で様子を観察していたと言えば、パニックの分怒り出すのは目に見えている。櫻田の名前を言った訳でもないから少しくらいいいだろう」

 ふんと鼻を鳴らし、飲んでいたコーヒーを置く。それを見ながら櫻田は少し笑った。

「後悔しているね?」

「さあな」

 またふんと鼻を鳴らす。

「......まああそこまでとは思わなかったがな。少し興に乗りすぎたことは認める」

「だろうね。僕も怒りたい気分だけど、反省しているみたいだし」

「感謝するしかないな」

 綾瀬はふうっとため息をついた。

「さて、僕はそろそろ帰るとするかな!」

「今日は早いな」

「まあね、引きこもりの綾瀬とは訳が違うのだよ」

「最もだな」

 動く気のない綾瀬を置いて、櫻田はつかつかと出口に向かう。そして扉に手をかけたところで、振り返らないまま言った。

「最後に聞きたいんだけど」

「何だ」

「最初から君が、仕込んだ話かね?」

 ......一瞬の沈黙。

 すっと、綾瀬がコーヒーを一口飲んだ音だけが響く。

「まさか」

 その次にふっと和らぐ声。

「僕はそんなことしない。一つ目と二つ目、あれは完全なる偶然だ。西村は動機で悩んでいたがそれもそうで、なぜなら動機などおそらく存在しないから。血痕などの痕跡を消したかったのならトマトは犯人に轢かれているだろう。要するに"落としてしまった"、それが全てだ。そもそも公道だしな。最後は僕が反応をみて楽しみたかっただけだな」

「趣味が悪いなあ」

 思わず櫻田は呟いた。反省しているからこれ以上責めないと決めている以上、仕方ない言葉ではあった。

「救いといえば......多少は探偵気分でよかったんじゃないか」

 苦し紛れだろうと構わない。あの瞬間の楽しそうな表情が見たいと思った。今の自分なりの解答を、告げるつもりでもあった。そのチャンスはもう逃してしまったけれど。綾瀬はそんな思いはきっと誰も知ることはない、と思った。

「まったく、一度下の名前でも呼んでみたらどうだ」

 パタン、と扉が閉まる。

 綾瀬は誰もいない書斎でぼそりと呟いた。

「.........今更要らないだろう」

 もう一度コーヒーを淹れなおそうと、綾瀬は思った。



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