混合エゴイズム 鵜川玲吾 義(よし)美(み)を殺してしまった。しゃくりあげながら、陸也(りくや)は言った。電波越しのざらついた声は私の名前を叫び、どうしよう、という言葉は次第に啼泣に紛れて消えた。 私は冷静だった。電話を切ってすぐに電車に乗り、陸也の住むアパートの最寄り駅に向かった。どこかで、こうなることを予想していたのかもしれない 私も、義美を殺したことがあるから。 寝起きのように脳の車輪が空回りしている。混乱しているわけではない。何も思考が沸いてこないのだ。感情の波は岸部から遠ざかったまま、寄ってこない。殺人を犯したかもしれない男の部屋に一人で踏み込むことに何の躊躇もなかった。 玄関の鍵は開いていた。私は黙って部屋に入った。不快な湿気を含んだ空気が肌にまつわりつく。粘っこい膜が肌を覆っているような感覚。日当たりの悪い室内は薄暗い。隅に溜まった闇に同化するように、陸也は一人、ベッドの上で蹲っていた。 「陸也」 陸也は顔を埋めていた膝から目だけを出した。赤く腫れあがった瞼はまだ濡れている。久しぶりに見る弱々しい陸也に、甘い懐かしさを感じた。 ベッドの端に腰かけた。二人分の体重にベッドが軋む。シーツの上に点々と赤黒い染みがあるのを見つけた。一つ、染みが増える。血が陸也の左手から流れ出ていた。 「どうしたの」 小指の第二関節あたりから激しく出血していた。膝を両腕で抱えているせいで、よく見るとジーンズも一部が黒くなっている。みせて、と言うと素直に左手を差し出す。刃物で切られたような直線の傷がざっくりと口を開いていた。 「義美にやられたの?」 陸也は頷いた。部屋の中に義美の姿はない。 「義美はどこ?」 「いなくなった」 「殺した、ってあなた言ったじゃない。死体が動いたの」 陸也は頬を歪めた。「刺した。確かに刺したはずなんだ......」 どこにも陸也のもの以外の血痕は見当たらない。 ベッドから腰を上げ、部屋の中を見渡した。それほど広くない部屋に、人の隠れることができそうな、もしくは、隠すことができそうなスペースはない。一応クローゼットを開いたが、乱雑に物がしまわれているだけだ。風呂場やトイレにも、義美の姿も血も凶器になりそうな刃物もない。 「陸也、本当に刺したの? 殺したって、冗談? からかってるの」 私は陸也のもとへ戻ってそう言った。 陸也はどろんと濁った目で私を見、首を横に振る。 「どこにもいないわ」 「いなくなった、って言ったじゃないか」 駄々をこねる子どものように陸也は大きく頭を振り続け、近くに顔を寄せた私の肩を押す。陸也の血が私のシャツを染めた。 ハンカチで陸也の小指を包んだ。止血の仕方なんて知らないけれど、何もしないよりはマシだろう。 「確かに刺した、包丁を、義美の身体に刺さったはずなのに、でも......」 ブツブツと陸也は唇をほとんど動かさずに呟いている。昔からあまりはっきりしゃべらない人だったけれど、いつにも増して陰鬱で、薄気味悪い。目の前にいる私に話しているのではないようだ。私に達する前に、陸也の言葉は見えない壁に遮られて、彼自身に跳ね返って反響している。 「ゼリーを刺したみたいな......身体に......」 木霊する言葉の中で陸也の思考は同じ場所で停滞している。何度も何度も義美を刺した場面が繰り返されているのか、刺したはずなのに、そんな内容のことしか口にしない。でも、私はそれをもどかしく思ったり、いらついたりはしない。 他人からの攻撃を拒否しない身体。薬でも打たれたかのように弛緩した肉体。私もその感覚を知っている。よく分かる。私が義美を殺した時も、そうだった。 「義美といるとおれはおかしくなってしまう、おれは怖い、怖い!」 陸也は突然絶叫して身体を前に投げ出した。小指を押さえていた私は床に倒れ、したたかに腰を打った。 確かにおれは義美を刺した。握っていた包丁の刃は義美の身体に埋まって先端から徐々に見えなくなっていった。それなのに、義美の身体からの抵抗がなかった。侵入してきた異物を押し返そうとする力も、痛みに縛り付けられた硬直もなかった。ただただ無抵抗な、おれが刺す前からすでに死んでいたような、そんな感触だった。あの琥珀の眼が静かにおれを見上げるんだ。あの眼に溶かされてしまう、おれの何かが溶け出してしまう。もう自分の身体が自分のものに感じられない。もう痛みも感じない! 陸也はハンカチを振り払い、まだ血が滴っている左手を壁に叩きつけた。ぽかんと黒い洞のように開いた口から漏れた慟哭が狭い部屋を満たしていく。薄暗いせいで妙に陰影がはっきりとした陸也の顔は、見知らぬ男へと彼を変貌させていた。 私は陸也を部屋に置いて出てきてしまった。急に怖くなった。陸也は昔、よく泣く男の子だったけれど、激しく泣くことはなかった。しくしく、という形容がぴったりの、穏やかな泣き方だった。 自分の身体が自分のものに感じられない。義美は、時折感情が暴発したように泣いた。 私と陸也と義美、三人は山間の小さな集落で生まれ育った。同じ年ごろの子どもはほとんどおらず、私たちは必然的に三人でいつも一緒にいた。 陸也は弱虫で、私にきつくあたられると、ごめんね実(み)弥子(やこ)ちゃん、とすぐにべそをかいた。周りから見ると、私が陸也をいじめているように見えただろう。 義美も陽性の気質ではなかったにしろ、陸也ほど軟弱ではなかった。ただ、いつもぼうっとしていて、私と陸也が喧嘩(といっても、私が一方的に腹を立てていただけだが)をしていても、口出しをせず、隣で黙り込んでいることが多かった。 しかし一旦導火線に引火してしまうと、義美は手のつけようがないくらい荒れた。義美は不思議なほど力が強く、私は簡単に組み敷かれた。乳歯だから良かったものの前歯が欠けたこともあったし、石をぶつけられた傷跡は未だに薄くこめかみに残っている。 そんなことをされても私が義美から離れなかったのは、ひとえにその外見のせいだった。義美は綺麗な子どもだった。私と陸也といつも一緒に外で走り回っていたはずなのに、一人だけ肌が白いままだった。意図的に作り出されたような造形の顔だちで、私は特に、長い睫毛に縁どられた琥珀色の瞳が好きだった。 陸也は義美を神格化していたところがあった。いつも自分より強い私のさらに上にいる義美に尊敬にも似た思いを持っていたらしく、容姿も相まってまさに崇拝しているような態度だった。義美の言うことには絶対服従。義美の我儘は何でも受け入れた。 陸也くん、遊ぼう。 陸也くん、それ、ちょうだい。 陸也くん、ついてきて。 陸也くん、一緒に帰ろう。 陸也くん、同じ学校に行こうね。 うん、義美。おれはどこまでもお前について行くよ。 陸也には、私と義美以外に仲の良い友達はいなかった。小学校のある地区と私たちの住んでいた集落は山を一つ挟んでいた。クラスの中では何人か話す男子はいたようだけれど、わざわざ放課後に山を越えて遊ぶことはしなかったようだ。幼少期の陸也の友人関係は私と義美だけで完結してしまっていた。中学、高校と私たちは同じ学校に進学した。小学校時代よりはまともに同級生と付き合いを持っていたが、それでも陸也の世界は少しの私の領域と大半の義美で埋められていた。 陸也は極端に新しい環境を恐れ、私と義美との三人の世界に執着し続けた。幼い頃に自然と作られた環境に留まり続けた。与えられた場所から動こうとしなかった。自分から新しい世界を開拓しなかった。 陸也はきっと、誰よりも繊細だった。脆くて壊れやすい、脆弱な精神。私と義美が安定剤だったのだ。誰かにに寄りかかっていれば、その傘に自分も入れてもらえる。身を寄せていないとすぐにはじき出され、庇護は得られない。だから陸也はいつまでも私 いいえ、義美にしがみついていた。 今、私は陸也の世界にほとんど存在しない。本当に小さな頃、小学校入学前は、私たち三人の距離は均等で、綺麗な正三角形だったはずだ。それが崩れてしまった。 陸也のひ弱な気性に私はよく腹を立て、怒鳴った。陸也は私を《敵》だと認識し、傍観者の義美を《味方》だと思い込んだ。陸也の点は義美の点に近づき、私から離れていった。 表立って陸也が私を嫌ったり避けたりしたわけではなかった。でも、私がいない少しの間に二人は顔を寄せ合い、くすくすと秘密めいた笑い声をたてていたりした。何の話、と訊いても義美はヒミツ、と陸也を見、陸也も頷く。私は追及しなかった。声を荒らげたら、三角形が崩れる速度が加速してしまうだろうから。 私は徐々に外の世界に身を移した。陸也と義美との距離は伸びて伸びて、陸也と義美の点はほとんど重なった。 私はきっと、陸也のことが好きだった。だから陸也を蝕む義美のことが憎くてしょうがなかった。いつまでもいつまでも、陸也を己のもとに縛り付けている義美を許せなかった。 そして、義美を独占する陸也にも嫉妬した。義美のもとに縛り付けられた陸也は、他人に侵されないよう周りに強固な壁を築いた。綺麗な義美は陸也の所有物になった。私は義美を人形のように慈しむことができなくなった。 高校二年の時だった。私たちは小さな無人駅から電車で遠くの高校まで通っていた。駅からの帰り道、陸也が何かの用事で義美と一緒に下校しなかったタイミングを狙って、寄り道をしよう、と義美を誘った。義美は黙って従った。 よくここで遊んだよね、と私は山の中腹を流れる川のほとりで言った。そうだね、と義美は呟く。 陸也のこと、どう思ってるの? 私はそう訊いた。 どういうこと。 だって、いつも一緒にいるから。 義美は薄く唇を開き、くぐもった笑い声を漏らした。何を馬鹿なことを。義美の冷めた微笑はそう言っていた。 腹の底が熱くなった。私自身のことを嘲笑されたようにも、陸也の妄信ぶりを蔑んでいるようにも感じられた。 川を背にして立った義美は私の激情を誘惑するように首を傾げた。緩く弧を描いた唇が淫靡に紅い。 私は衝動的に義美を突き飛ばした。 悲鳴を上げたのは私だった。 私は何を押したのだろう。義美のはずだ。それなのに、掌から腕にかけての鈍い衝撃は、生きたものに触れた感覚ではなかった。無抵抗。軽いのに重い。硬いのに、ぐんにゃりと柔らかい。義美からの反発を予想して緊張していた身体が前のめりになる。不快感に耐えかねた指先が宙を彷徨った。 義美は瞼を薄く開けて仰向けに倒れていく。 どうしてこんなにはっきり覚えているのだろう 夕日で焼かれた水面は毒々しい緋色。居場所を奪われた水は怒り、飛沫となる。義美の身体を抱き込む。義美はやはり抵抗しない。荒れ狂う水は義美を隠してしまう。粘液のようにのたくる不鮮明な義美の陰。やがて静まった水面に、双眸が開かれる。琥珀の瞳。私はからめとられる。ひきずられる。冷たい川底。義美は沈む。私は義美の身体に腕を回す。驚くほど軽い。義美は薄く笑う。みやこちゃん、とくちびるが囁く。みやこちゃん、の言葉と共に吐き出された沫が私の視界を奪う。紅い水たちは私の耳を塞ぎ、鼻を塞ぎ、口を塞ぎ、喉を締めあげる。たすけて。苦しい。義美の手が私の首にかかっていた。 私は叫んだ。開いた口腔から水たちが侵入する。喉に絡まり、私は引き剥がそうともがく。 何を? 水? いいえ、違う、私の喉を締めあげているのは 義美の指が頬を撫でた。 義美が私の手を握って引きずる。川岸へ引き上げられた。陸に上がった私の体重に耐えられなくなったのか、義美は私を投げ出し、尻餅をついた。 私は身体を折って激しく咳き込んだ。涙の滲んだ視界に義美の裸足が見えた。顔を上げると、義美は苦しそうにしている様子は微塵もなく、ただぼうっと突っ立っていた。 私が勝手にひとりで足を滑らせて川に落ち、それを義美が助けてくれた。溺れかけて意識が朦朧とし、義美を川に落とした夢をみた。私はそう思ってしまった。私が義美を押したのは、夢。 頬に冷たいものが当たって我に返った。 脇にはフェンス越しに幾束もの線路が連なっている。いつの間にか駅を通り過ぎ、操車場の近くまで来てしまっていた。 空を見上げると、重く垂れこめた黒い雲が抱えきれなくなった水分をこぼし始めていた。夕日が雲を押しのけて辺りを毒々しい緋色に塗る。濡れたアスファルトのにおいが足元から立ち上った。 あっという間に雨は大降りになった。雨粒が私の身体にぶつかり、地面に叩きつけられ、跳ね返る。ノイズが耳の中を満たしていく。 不明瞭な視界の中で、ぼやけた輪郭の何かが先にいた。私と同様に傘もささず、全身はぐしょ濡れだ。一人、操車場のフェンスに額をつけて佇んでいる。金網に両手の指を絡ませ、じっとどこかに視点を固定している。視線の先には役目を終えて切り離された列車が停められているだけだ。 「義美......」 義美はゆっくり私の方を向いた。白い肌は太陽に染められ、返り血を浴びたようになっている。頬を伝う雫は本物の血液なのだろうか よく分からない。 「また、死ななかったのね」 私は乾いた笑い声を上げた。 義美は無言のまま、私の目の前にやってくる。 のぞき込むように下から見つめられ、ぐっと喉が鳴った。琥珀の眼球が私を拘束した。義美の眼球に満たされた液に少しずつ自分が溶け込んでいくような恍惚。自分の身体がどろどろに溶かされて義美の体内を巡る養液になるのを想像した。義美の心臓を叩き、肺を膨らませ、四肢を支え、最後に虹彩で凝固して琥珀になる。 「やめてよ!」 私は義美を突き放そうとしたけれど、逆に突進され、抱きすくめられた。 雨の散弾が私と義美の身体を貫いた。ぽっかりと空いた銃創から流れ出た体液が混ざりあう。私が義美に溶け込んでいく。 早く離して欲しい。それなのに、私は義美の背中に手を回した。 私は震えていた。得体の知れない恐怖が眼球を覆う。 「実弥子ちゃんと陸也くん、よく似てるよ」 雨音の中から義美の声だけが浮かび上がって、やけにクリアに耳に届く。中性的な音色の声は私の中に染み込んでいく。 「みんなで仲良くしたかっただけなのにね......どうしてそんなに震えてるの」 「義美、あなた本当に義美なの? 何だか......知らない人みたいよ」 吐息が私の耳孔をくすぐった。 「義美は陸也、陸也は実弥子、実弥子は義美。みんな、一緒だよ」 義美は身体を離した。その顔には晴れやかな笑みが広がっていた。さっきよりもずっとはっきりとしたその輪郭で、義美は背を向けた。 次第に色を失う雨だれの中、遠ざかる義美の姿だけは鮮やかに浮かび上がっていた。 私は地面に突っ伏して泣き叫んだ。小さな子どものように、呼吸を喉に詰まらせながら。何が悲しいのか分からない。自分の感情が自分のものに感じられない。アスファルトに拳を叩きつけた。痛みを感じない。また拳を振り上げた。義美が私に昔したように、何度も何度も叩きつける。 アスファルトを流れる水が夕日を反射した。地面すれすれに近づいた私の顔をも明瞭に映し出す。 誰だろう、これは。 水鏡から、見知らぬ女が私を見返していた。赤く膨らんだ瞼、蒼白の頬、紅をさしたような唇。涙だけをこぼして、目だけを腫らす陸也。そこだけが際立って目立つ鮮烈な唇の義美。ここに映っているのは義美、いいえ、陸也 そんなはずはない。これは私 だろうか。私と陸也と義美は溶け出し、溶け合い、混合してしまった。 義美は私から、陸也から、何を奪っていったのだろうか。命を奪おうとした身勝手な私たちから得た代償は何だったのだろうか。みんなで仲良くしたかっただけなのにね。あぁ、そうか、私は陸也にも義美にも、ずっと近くにいて欲しくて......。でも、三人でいることに執着していたのは陸也ではなかったか。私は、二人以外にも友達がたくさんいる。あの二人なんかいなくたって......。義美は? 義美は何を望んでいたのだろう。みんなで仲良くしたかっただけなのに。そうなの、義美。 誰が何を望んでいたのだろう。頭の芯が茫々として、コントロールできなくなる。 もう自分の身体が自分のものに感じられない。私は再び大きく腕を振り上げた。
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